旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処ーショート 吾身は、覚えるより慣れろの実際知?
             我が身は、覚えるより慣れろの実際知?(5/5/14)
 五月五日は子供の日。朝は景気の好い花火の音が上がっていたが、生憎のお天気さんで沈下してしまった。いやはや、陽気の不意打ちで雨に風の騒ぎで在る。昨日は、バイク騒音に、コンニャローメであったのだが。

              まぁ、儘為らぬのが、世の中と云う物である。

 自転車で買い物に行こうと思っていたのだが、大分の雨に、毎日が日曜日のロートル生活であるから、早々に止めとした。お天気が悪いと、途端に寒くなるのが、五月初旬の気象と云う物である。とほほ、困った物である。

 本日は日課の外に出るのが、憚れる外気である。そんな次第で、二畳小部屋でポータブルヒーターを点けての読書タイムを余儀無くされて居る。

 漸く540頁まで進んで、後130頁にまで漕ぎ着けた次第である。『国民の道徳』と題名は打つ物の、滔々と云うか、延々と云うか・・・そこに書かれて居る事は、経済を縦糸or支柱に、人間の本源たる精神の拠り処なる物を解き明かし、言及する哲学史の解説本で在ろうかと思われる。

 私の様な体育会系のスカンポ脳味噌の持ち主では、完全な消化不良本なのを『百も承知のチョイス』だったのは、間違い無い次第でも在った。とほほ・・・。

 大先生が出来の悪い生徒に滔々と或いは延々と書き進められて下さった高邁にして雲を掴む様なインテリ領域に、辟易として、何度も断念の囁きが続いた。まぁ、それでも、この二日間の読書タイムは、浅学非才の脳細胞にも、<門前の小僧、習わぬ経を読む>の例え同様に、書かれて在るのは正真正銘の日本語で在るからして、<覚えるよりも、慣れろ>の『実際知』の門前を経て、大先生の熱弁が漸くにして聞こえ始めて来た次第でも在る。

 私は生まれ変わって努力をして見た処でも、絶対にインテリには為れないが、鋳型の中で<踊らされる大衆人>では無く、辛うじて『自己脳で行為する庶民』の末席に居るのだろうとの安堵感に、自画自賛を旨とする私はニヤニヤして居る次第なのでもある。

 まぁ、この本は平成12年の刊行であるから、TPP以前の時に書かれた物である。この本が、現在ならば先生のTPP批判は止まる処を知らず、現日本人に対する痛烈な罵声が炸裂して居る事だろう。

 断続する小雨に、軟肌の緑を風が吹き捲る。濡れた粗砂がひっそりとして、山ツツジの赤を浮き立たせて居る風情は、インテリ為らずとも庶民にも分かる日本的風情の一つでも在る。

 それは石を並べた島地に、半月状の広がりを浮かべた黄緑の若葉を帽子に、今を盛りのライトレッドの花を衣装に纏った『日の下の静かな佇まい』にも見える。雨に濡れた敷き砂は海でも在るし、縁側を仕切る石の並びと小砂利は一方の大陸にも思えるし、百日紅から続く野放しの濃い緑の群生は、別の大陸にも見える。

 山ツツジの横には歳老いた柊(ひいらぎ)が、枯れ枝に復活の小さな芽吹きを覗かせ、それに間隔を開けた楓は、目覚めた樹勢を密集の葉重ねのボリュームに表し、風に戦いで居る。赤いツツジ島の背後には消え入る様な古ブドウの皺枯れた細枝から、支柱を与えられた再生の芽が、幼葉を伸ばし始めている。

 先生が目指す敗戦後のアメリカニズムに<ええじゃないか踊り>に狂奔した日本人の衰退し切った道徳の萌芽が、復活の芽吹きをするのか、私が待ち焦がれていた日本の精神の揺り戻し期に突入するのか。

 これはインテリの慧眼には到底及び付かない精神の覚束無さでは在るが、小さいながらも庭と云う小スペースに、市井の庶民としての想念の一端を形にする事に依って、願わくば私、公を考え、国の国と国の国際、国内の治世、歴史、文明、文化との係り合いを、マスコミに毒されない程度で、自問自答して行きたいとの密やか為る空間と考えている次第である。

    国民の歴史、国民の道徳、国民の教育の長編は、三部作の構成を執っているとの由。

 歴史上、英国と日本は、面白い類似性を持つと云う。吾が町内の民宿旅館からの白人観光客がこの近辺を散策して居る姿を見る。民宿の半分の宿泊客が、英国からの旅行者であるとの由。
 紳士道の英国も武士道の日本も、伝統の国柄である。そんな彼らが、四畳半横の生活道に、極普通に入り込んで来る様は、私にとっては好い構図に見える。

 異国の日常に興味を持つ精神構造は、含蓄に富む次第でもある。伝統と云う自国の文化に、相対的な自信が無ければ、目立たぬ物への好奇心、親和感など生まれ様も無かろう。国民性、生活態度は、歴史と云う長い時間軸の中から、自然と醸成されて来る物なのだろうから、彼等の好奇心と、何故か分からぬ親和感の根源を探ろうとすれば、それは取りも直さず自国と他国の歴史との比較と自問自答の時間を持つと云う事なのだろう。力みの無い散策と云う物は、視覚と思考が相俟って歩を繰り出す散歩思考を云うのだろう。

 斯様に庶民は、歴史を刻んだ国柄を受け継ぐDNAの中で、それを五感として感じ取り、インテリ層はインテリとして、思想、思考、制度、哲学の歴史散策をして、学問的に深究して行く。
 こと左様に、庶民は庶民として感じ取り、インテリはインテリとして解説と真理を説き、庶民を導き照らす。従って、日本の庶民たる者としては、年に何度か、何年に一度かは、腑抜けた精神の禊として、高尚な活字世界の門を潜らなければ為らないのかも知れぬ。

   ソソ、サクラテスか、プラトンか、皆、悩んで大きくなった。で在りまする。へへへ。

 還暦半ばを通り越して、知恵熱で風邪でも引いたら、本業の賄い夫が出来なくなって終う。我が身は妖怪様を筆頭に、金華鳥9羽、金魚4匹、メダカ20匹、野菜はホウレンソウ、チンゲンサイ、シロカブ、シュンギク、ミツバ、ネギ、キュウリ、ナス、トマトと続き、野イチゴ、庭の花、木と、それなりの共同体を構築してる次第でも在る。

 遺憾いかん・・・道産子農耕馬の本分を確り保守すべく、スキンヘッドの消化不良熱を冷まして参りましょうかね。イッヒッヒ~!!


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