旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

心何処ーショート クロネコ
                    クロネコ
 朽ちた物置きから、生き物の気配がしている。戸を開けると、漸く目が開いたばかりの小猫が、ミヤーミヤーと動いていた。困ったものである。出産場所に利用されてしまった様子である。親猫に小猫が何匹か? 係り合いになるのは御免であるから、慌てて戸を閉めた。

 何日か過ぎても、相変わらずミヤーミヤー泣いている。親猫の姿も兄弟姉妹の姿も、一向に見えないのである。我が家は昔ながらの家屋であるから、軒下、床下、天井は小動物にとっては、出入り自由の造りになっている。御年83歳になる母御は、猫は嫌いだから内には入れないと、仰りながら軒下に餌を置いている。全身真っ黒な小猫は、斯くして生活の場を獲得しつつありそうである。
 
 ペットの代表格と云えば、犬と猫である。オヤジの存命中には『エス』と云うシェパード風の日本犬がいた。私の記憶は不思議なことに、青函連絡船の夜空から始まる。5歳からである。必死に生まれ故郷の北海道時代の記憶を辿ろうとするが、何も無いのである。従って、私の記憶は疑問と共に始まり、絶えず心の央に消化不良のような『冷め』が付き纏っているのである。
 遅れて、『エス』が来るというので、家族全員で松本駅まで迎えに行った。貨物車の扉が開いて、檻に入った背中の黒い野性味溢れる大きな犬がいた。私の彼女に対する第一印象は『恐い』であった。訓練の行き届いた『立派』な犬であった。飼い主以外の与える物は一切、口にしなかったし、主人の与える餌も『よし』の合図が出るまで食べなかった。

 行儀の悪い私達は、折に振れ『エス』を引き合いに、躾をさせられたものであった。子供の遊び場としては、我が家の庭は十分なスペースがあった。未就学児童の私と弟の遊び場は、専ら我が家の庭であった。彼女は前足を行儀良く揃え、他愛の無い幼児の戯れ事を、『母親』の如き眼差しで見守っていた。3人の兄達が学校から帰って来ると、前の道路でのキャッチボールの仲間入りをするのであった。鎖を解かれた彼女は、『静』から『動』へと一気に変身を遂げるのである。後逸したボールの球拾いは元より、飛球をジャンプ一発口で補球し、首の返しで投げ返す。屋根のトヨに引っ掛かったボールには、梯子まで器用に昇る始末である。
 私は彼女のモーレツ振りに唯々圧倒されるばかりで、兄達が決める我が家の序列が私の上に『エス』が座っている事に何ら異存はなかった。と云うよりも、人間と動物の『敷居』の存在などを感じ、考える余白の挿入など無かったのである。それ程、私と彼女との間の『差』は歴然としていたのである。可笑しな話であるが、私は彼女に、一種の『保護者』の威厳を感じていたのである。後年、世帯を持ち子供達に『犬』をせがまれても、一向に私がその気に成らなかったのは、『エス』の存在が大であったからだと思う。
 
『生き物』好きの私が、犬・猫に興味を抱かず、自分達の味方に成ってくれなかった父親を、子供達は不思議に思っていた。二人の子供にしてみれば、母親に頼めば『ダメ』の一言で一蹴されるが、動物好きの父親に頼みさえすれば、すんなり『OK』が出る筈であるが、こと『犬・猫』に限っては『お母さんに頼め』としか答えないのであったから、大いに困惑したことであろう。私は『エス』と云う存在に於ける外観、気性の激しさ、忠実性、『静』に於ける凄味、頭の良さに、付いて行けぬと同時に、時折垣間見せる私を子ども扱いするエスへの苦手意識も働いていた。……。彼女は『素質』と『訓練』の産物であったのだろうが、子供の私には、立派な大人であったのである。

  兄弟の3人は、犬を飼っていた。どれもこれも、悲しいかな駄犬である。
 
 私は、犬は好きではあるが『自信』が無いから、『エス』に敬意を払って犬を飼わないのである。 今や、犬、猫は歴とした『愛玩動物』に成り下がっている風潮である。嘗ては、『犬猿の仲』に次ぐと比喩された程、犬と猫の間柄は敵対関係にあった。或る時、猫とエスの凄い睨み合いがあった。中学生の長兄の「遣れ!!」の命令で、エスは、解放された猛獣と化して突進するや、荒々しく猫を噛み殺してしまった。凄まじいシーンであったが、凶暴性の血の宿る私には、何故か血が躍った。そして、隠して置きたい自分の中にある『血』を感じていたものである。
 我が家に侵入した不審者も何人か、被害に遭っている。子供心にも、彼女は人間には御し難い独立権を持った誇り高い生き物であった。不思議な事に、噛み殺された猫には、同情心が一切起こらなかった事を覚えている。
 
 そんな事も意識下に働いて、当初から、私の意識には『猫』は埒外の動物であり続けていたのである。私の範囲の『小鳥、魚、リス、キジ』にとっては、『猫』は彼らペットに対する『殺傷者』でしか無かったのである。

『刷り込み』と云う概念がある。動物の目が開いて、真っ先に目視された存在を、自分の『親』と思い込んでしまうと云う生存反応である。差し詰め、犬猫に関する限り私は、『エス』に『刷り込み』を施されてしまっている様である。
 
 私の帰りは遅い。よちよち歩きの黒猫は、台所から続く物置きの本棚最上段の本と、本棚天板の隙間を、居所としている。そして、風呂釜のあった一段下がった場所が、母からの食事場にあてがわれていた。
 この場所は、嘗てエスの出産、子育ての場所でもあった。小猫は、床上の私の移動に合わせて、床下をミャーゴミャーゴと泣きながら付いて回るのである。私はレスラーの様な体格にして、厳つい顔をしているが、根は差別も怒る気も薄い男である。
 仕方がないから台所の戸を開けてやると、尾をピンと立て、私の足に体を纏わり付かせて、ゴロゴロまで行かぬブーブーに近い音を発するのである。首をひょいと摘んで私の目の高さまで引き上げると、チビ助は、実に他愛の無い『だらり』とした形で、目を細めている次第である。
 『家には入れるな。』と云う母御のお達しであるからして、小猫をそのまま掴み上げて、私の専用居住区となっている8畳と4畳半に、無造作に放して遣るのである。

 私は就寝前の1~2時間を、ウィスキーを口に含みながら、人差指でワープロを打つ。纏わり付いて、気が散る時は仕方がないから、4畳半のドアを開けて万年床の8畳を、小猫に開放して遣る。暫くの間は、明かりの点いた4畳半と、暗がりの8畳を行き来しているのであるが、その内に姿を見せなくなるのである。部屋の隅に冬用の厚い毛布が畳んで置いてあるのだが、その上で小猫は熟睡しているのである。一緒に寝る訳にも行かないので、再び掴み上げて物置きに放して、素早く戸を閉めるのである。

 朝は、出社する物音を聞きつけて、玄関に黒い小さな姿を見せるので、私は恐る恐る車を出す羽目になってしまうのである。

 3泊4日のサイパン旅行である。些か気にはなったが、私には、積極的義務は無いのであるからして、母には黒猫の事は、一切言付けずに早朝のハンドルを握ったのである。

 グアム経由のサイパン着である。空港には『黒尽く目』の洋々が出迎えに来ていた。彼女は中国風の占星術で、服の色を決めるそうである。緑、白となり、今年の彼女の色は黒なんだろうと、私なりに考えた。ケンカ別れをして、再び姿を現わした時も上は、やはり黒であった。クラブ・ロシアンルーレットに行くと、これ又『黒尽く目』のマイヤ嬢に心奪われた結果となってしまった。

 帰りの車の中で考えた。『黒』は、単なる今年の流行色か? ハタマタ、脂肪の付き始めた水商売の女性達が、『異口同音』ならず『異形同考』の結果のカモフラージュ衣装なのか? それとも、何かを感じ取れと云う『有り難い天の啓示』であろうか?

 私は家に帰ると、纏わり付いて来たクロネコの首を摘み上げて、『雌雄』の別を確かめて見た。紛れもなくクロネコは、『雌』であった。天の『御託宣』が出現した以上、凡人の輩が異議を唱えることは、とても畏れ多い事である。さりとて、これはノスタルダムスの大予言の四行詩より難解である。

       大連 洋々、サハリン マイヤ、松本 黒猫、キーワード=雌・北

 こじ付け様が無いから、未だに『御託宣』の謎解きは、進展を視ないでいる。クロネコは、日増しに大きくなっている。廊下で靴下を履いていると、柊の葉が動いている。何かと思えば、黒猫である。姿を見せないので心配になって、物置きの戸を開けても音沙汰無しである。本棚の最上段を覗いても不在である。ゴソリと音がした。その方を視ると、食器棚の上の箱の上で目をらんらんと輝かせている。成長に合わせて寝床を変えていたのである。
 
 日曜日、溜まりに溜まった洗濯物を、午後から洗うことになった。軒下の物干し竿に掛けていると、庭で黒猫が、昆虫を相手に『狩り』の練習をしている。立てた尾を、ゆっくり回しながら歩いている様は小さいながらも、中々のものである。廊下で、御母堂様の独言が聞こえる。椅子の膝の上で黒猫がバァさんに抱かれて、仰向け姿でゴロゴロと喉を鳴らせている。
 何の事は無い。『クロチャン』なる名前まで授かっている。老婆と黒猫の取り合わせは、夜の遅い会話の少ない母子二人暮らしの私には、持っての幸いであった。

 感謝の証に、首を摘んで一緒に風呂に入って、シャンプーで洗って遣った。黒猫の奴は、不服そうに歯を剥き出して、ニァーゴと鳴くので『刷り込み上の親』としての、教育上のゲンコツを頭蓋骨に一発お見舞いして遣る。コツンと乾いた音をさせて、顰め面をした。
<ザマ見ろ、人間様の方が偉いのである。>押え付けて、上から湯を掛けて遣ると、細い体毛が全身にへばり付いて、無惨な体でもがいている。大げさなゼスチャーでゲンコツを振り上げて遣ると、情けない顔をしてちょこんと洗面器の外に、顔を出して私の表情を伺っている。神妙さが殊勝なので、タオルで拭いて洗面所に出して遣ったら、廊下を一目散に逃げて行った。それからは、クロネコの奴は、洗面、風呂場にいる私には、一定の距離と緊張感を崩さないでいる様子である。

 7月に入って早々に、千葉で長兄の3回忌があった。今年の梅雨は、どうも空梅雨の兆しである。直射日光は容赦なく、私の頭蓋骨を炙(あぶ)ってくれる。炙りついでに、翌週の日曜日には弟の誘いに乗って新潟で一日ジェット・スキーに興じた。二度、携帯が鳴ったので、帰りに女房の処に寄ると、北海道で葬式だと云う。女房に、赤銅色の国籍不明の顔をジロジロ視られて、唯『はい、はい』を連発して早速家に帰って、御母堂の代行電話をした。

 87歳になる次姉が亡くなったので、是非とも葬儀に出たいと云うのである。下二人に連絡が取れなかったので、次兄に頼んだと云う。母の心情は、云われ無くとも痛いほど響いて来る。
然し、私はジェット・スキーをバンバン乗り回して、疲労困憊の態であった。翌朝早起きをするから勘弁してくれと言って、墜落睡眠をさせて貰った。

 翌朝、部屋に行くと、母は未だ床に付いていた。
「冷静に考えて観ると、無理だと思う。」と寂しく言う。
「俺が負んぶって遣る。お迎えが来たら、それがばぁさんの天命さ。しっかり生まれ故郷と兄弟姉妹に『お別れ』をして来るサ」 
「そうか、お前の言う通りだ。お願いします。」
 私は、黒猫の世話を娘に頼んで、女房の用意してくれた旅行鞄を車に、母を乗せて空港に走らせた。   

  親子兄弟の結束は、固かった。その日の12時30分、4人は機上の人となっていた。 

 天寿を全うした者の葬式は、実に良いものである。『弔問外交』なる言葉が示す如く、日頃疎遠であった親族が一堂に会すのは、『吉事』である。90歳になる長姉が、松本から妹が老体を押して参列する以上、出ない訳には行かないと階段を背負われて姿を現わした。十数年振りで対面する老姉妹に会場は、暫し親族の嗚咽が支配する。
 翌日、一夜を共にした老姉妹は、杖と手摺で姉を先頭に一段一段階段を上って来た。
     私は胸の熱くなるのを覚え、照れ隠しに拍手で二人を迎えた。
 そこには、『明治、大正の女の気骨と老いさらばえた互いの労り』が、凛として息づいていた。私と弟にとっては、殆どの親族が初対面である。然し『血は水より濃し』とは、良く云ったものである。違和感を感じさせる事の無かった3日間であった。長姉の長男のOさんは、私の長兄の1歳下であるが、目元が実に良く似ていた。Oさんと私は、頭髪の有無を覗けば、兄弟そのものだと言われる。為るほど、歳の離れた従姉弟達は、松本に遊びに来ても、私を平然と呼び捨てにしていた訳である。因に老姉妹は、実に良く似ているのである。蛇足ではあるが、0さんの家には黒猫が飼われていた。

 クロネコは、我が家の庭と物置きを占有する独立した黒猫であるからして、少々生意気で気位の高い『雌』である。炎天下、日々の労働はきつい。長期予報に依ると9月迄残暑に支配される様である。『黒猫』の天の思し召しを考える余裕は、当分先の事に成りそうである。

                                  クロネコ・・・・・・・完

★猫に、とんと興味の無い私が、クロネコについて一編を打ってしまったのである。エスに敬意を表して、オオカミと人間の物語を創作しようとしているのであるが、何分、時間が無い。『ギュンとクンの伝説』は、脳裏の片隅にはあるものの、数ページを打った儘、埃を被っている。


          これは、7~8年前の文作である。
スポンサーサイト

心何処ーショート T、TT
                  T、TT(1/31/09)
 冬の雨は、夜は有難いが、昼は嫌な雨である。こんな事を打ったら、きっと、お天道様に張っ倒されるだろう。本当に、自分の都合だけを優先するロートルである。

 Tは、来週手術をするとの事である。胃癌の手術であるから、王さんの様に可哀想な術後になるのであろう。胃が再生復元するまでは、収納庫が覚束無いから仕方の無い事である。手術をする前に、名残の昼飯を一緒に食べに行く約束をした次第である。友の顔が、王さんの様に為るかと思うと、流石に気が重い。小振りに為った雨であるが、何時に無く侘しさを運ぶ冬の雨である。

 雨が止んだら、無精髭を剃りに温泉銭湯にでも行って、Tとの傑作ポン友の足跡でも辿ろうと思う。私にとっては、ロートル人生の善きパートナーとして、最大の理解者として、末長く居て貰わなければ為らない好漢(おとこ)である。

遺憾いかん・・・メランコリーに為ってしまっては、番カラ交友録に陰りを誘ってしまう。
               
             ええい、面倒である。風呂に行くべしである。

心何処ーショート 力無き夜の日記
                 力無き夜の日記(1/30/09)
 風邪を移しては申訳が無いから、自室の布団の中でテレビを見ていると、カラオケ好きが高じて、小さな町から起こった地元カラオケ大会が、今や恒例の県規模名物大会として、根付いているとの事である。初めて、お目に掛った番組である。
 
 私は音楽1の勲章を授かっているから、カラオケは<鬼門中の鬼門>で、危うきに近寄らずの人生を過ごして来た次第である。然しながら、人生に歌は付き物である。声の筋は良いのだからと言って、新婚当時の女房は、私の音痴に痛く同情してくれたものである。音楽5の女房殿は、電子オルガンの伴奏並びに伴歌をしてまで、矯正・調教を試みてくれたのであるが、何時の間にか断念してしまった。クラスに、それぞれ3人しか存在しない1と5の乖離を、女房殿は身に沁みて感じ取ったのであろう。
 
   私だって歌さえ歌えれば、コソコソせずに美声を転がしたいのである。
 そうは言っても、努力の通じない分野もあるのである。それを知っただけでも、努力万能を教え込まれた女房は、大人に為ったのだと思われる。

 町のカラオケ名人たるや、脱帽の極みである。私には、皆、後光が射して居られる。中高年者と云うよりも、高年者が多い。皆カラオケ好きの人達である。カラオケ愛好会の様な溜まり場が、長野県の随所にあるそうである。好きな歌を愛唱したり、歌に憂さを晴らす・・・気分・心の解放の場であるから、出場者の紹介方々、何時ものカラオケ交流の場が紹介されている。地元テレビが、取材した年に一度の恒例2時間の大番組である。

 兎に角、その迫力に当てられ放しの2時間であった。喉に自慢のある高年者達の立ち振る舞いは、プロ顔負けの堂々たるものである。各地域を勝ち抜いて来た猛者達は、ステージ衣装すら、お持ちであった。NHKののど自慢会場と変わらないステージと聴衆の前で、日頃鍛えた喉をお披露目するのである。

 加齢を刻んだカラオケ大好き人間達のステージは、体型・顔の加齢さえ無ければ、完全なる有料の世界であろう。

    恐るべし、カラオケ人口。恐るべし、好きこそ物の上手なり。
    恐るべし、ステージ衣装の豪華さ。恐るべし、自己陶酔の境地。

 人間とは、何か生き甲斐・張合いを見付けると、元気溌剌の日々を送れるものだと、感心させられた。私もロートルに為って、多少なりとも心臓に、毛が生えて来た年齢である。60の手習いで、女房殿に月謝を払って、調教の門を潜ろうかと考えたが、生き恥を晒すのも些か癪の種である。
此処は、音階の無い自由創作・・・下手絵に逃げた方が、得策である。体調の芳しくない時は、ロシア・ネェちゃんを夢想して、繊細に描こうでは無いか。

 ウッシッシ、出ろよ出ろよ、我がイマジネーション。出ずば、ハサミでちょん切るぞよ。

心何処ーショート 大人しく観察
                大人しく観察(1/30/09)
 風邪の症状は、大人しくしているが、今日も、外気はパスである。朝の世話の折りに藁巣を覗くと、親番いの4卵は黒ずんで来た。殻の内部では活発な細胞分裂・進化が進んでいるのだろう。子番いの巣にも、白い卵が一つ産んであった。初産である。立派に産道が開いたのであるから、後、幾つか産んで抱卵が叶えば、目出度く孵化・育雛の運びと為るのであろう。
 小鳥達は、安定した飼われの身であるから、<性>殖・繁殖には自然界を離れての『人間並みの性生活』を送っているのであろう。カソリック教徒の様な避妊具の無い彼等の生活は、良いのか悪いのかは、私には一向に分からない処である。

 常夏のヒーター環境の中にあるグッピィ槽の世界は、或る総体の員数の中で生死を更新している。成魚のパクリ攻撃を脱出して来たものだけが、次世代の掛け渡しの栄華に浴するのである。人間の考えからすると、弱肉強食の生存競争に生き残る事は、途轍もなく優秀な生命力等と、必要以上に持ち上げられる感想であるが、彼等からすれば幸運の比率の方が、大半なのかも知れぬ。何しろ、音無しのパクリで一瞬消滅の世界である。成魚の餌の時代を脱してからが、彼等の生存・生活の知恵の見せ所なのだと思う。
 
 餌を素早く見付け、食らい付き、オスならば、黒ずんだメスの腹部目掛けて、如何に多くの精子を他のオスを御して放出するか・・・ メスならば、如何に食べてビッグ・ママの巨体に卵を一個でも多く内臓させ、追尾するオス達から、自分の気に入ったオスからの精子を獲得するかである。

 オスもメスも、成魚に為れば為ったで、これまた、ウカウカの毎日では済まされないのである。メスの尾ひれのスナップ次第で、受け入れ精子が決まって来るのである。オス共は、嘗て<黄金の左>と云われた横綱輪島宜しく、尾ひれのスナップに磨きを掛けているのであろうメスのスナップ技を研究して、メス本丸にオス達の特攻を敢行するのである。メスは、メスでスナップ技の訓練を怠れば、単なるオス達の共有物との汚名を甘受する結果と相成る。メス特有の気位を誇示したければ、エネルギーの消耗など気にせずに、日々尾ひれのスナップ技の研鑽に、これ努めなければ為らない。

 兎角、どんな世界・社会にあったとしても、競争のある所、自己存在・確立のトレーニングは、必要不可欠のものの様である。然しながら、物臭ロートル男には、アイデンティーは、不要となりつつある。

 金魚飼育に関しては、私は全くの新米である。金魚とて、年頃に為れば繁殖が始まるのであろう。さてさて、如何なる展開が、金魚槽に始まるのか・・・ 見ものである。

心何処ーショート 風邪薬
                  風邪薬(1/29/09)
 アジャ・・・ <民間伝承に偽りあり>である。馬鹿は風邪を引かないと云うのであるが、これは風の症状らしい。咳をすると喉が、少々痛い。昨夜は腹痛で、トイレの回数オーバーであった。大事に至らぬ内に、風邪薬を飲んで置いたから、症状はこれ以上進まないだろう。久し振りに、長兄・三兄の出て来る夢を見た。相変わらず、言葉の少ない男兄弟のシーンであったが、三兄の眼には優しさがあった。本日も、青空が広がっている。

 昨日の<赤金魚>でもあるし、快晴続きの冬季は乾燥が進んで、インフルエンザの行進も大きくなっている由。頼る相手のいない我が身は、我が身大切の振る舞いである。米を買って来るだけで、本日は物臭を決め込む事にしようと思っている。

 母の動きが始まった。朝日が、部屋に差し込んで来る。光の筋を魚鱗に反射させて、金魚達が、緩やかな泳ぎを見せている。彼等の腹は、膨れているから、グッピィにだけ餌を与えるとしよう。玄関の4個の卵を抱卵中の親番いは、交互に巣の中である。見張りをする優等生のオスは、巣の下のボレー粉入れの縁に留って健気である。

 先先日から、鳥籠の1cm幅のゲージを出入りする微ネズミ(多分、カヤネズミだろう。)が、ちゃっかり餌を食べに来るのである。小鳥達も、一向に騒ぐ訳でも無いし、捕え様も無いから、黙認している次第である。一度昼の賄い夫から部屋に戻る時に、小さな餌入れの中に、薄茶の親指程のボールが見えた。<何だ~>・・・不審に思って、覗き込むと小さなネズミである。遠い過去に、何度か見ているカヤネズミの類である。何やら、餌入れをベットに丸くなっている感じであった。
 部屋から、ワカサギ釣りのミニチュア竿を持って来て、背中を突いて遣ると、ネズ公のチビは、飛び上って素早くゲージの柵から遁走してしまった。きっと、懲りて昼間は出没しないのであろうが、夜は絶対に<食いっぱぐれの無い餌場>に有り付けて、ワンマンショーを繰り広げている筈である。まぁ、危害・悪ささえしなければ、目くじらを立てる程でもなかろう。『適所共存の理』も、有るには違いなかろう。

      さてさて、朝の賄い夫に移りましょうか・・・である。

 朝飯を終えて薬を飲み、車で米屋に行って来て、すぐさま布団の中に入る。目覚めて昼をして、夜の米研ぎをした後に、部屋の定位置に座り直しである。

 ラジオからは、国会中継であるが、質問者が悪い。女濁声(だみごえ)の主は、マスゴミ好みの田中真紀子センセイである。嗚呼、煩い女である。これでは、我が風邪も治らぬ。ラジオを切って、洋々顔の長山洋子様のカセット・テープを聴く。

  ハッ、   雪は下から~舞い上がり~、赤い裳擦りに纏い付く~

             俺あ、ヤッパ、オナゴがエエだ。

心何処ーショート 散歩にも、縮図あり
                散歩にも、縮図あり(1/28/09)
 本日も、春日である。早速、昼の散歩に行く。芝生の土は、霜柱が溶けてツルリと足が滑る。足を踏み入れないツツジ、サツキの根元の土は、この時期、自然の小さな鋤が入る。即ち、霜柱が土を持ち上げ、日中の太陽でそれが溶かされるのであるから、数㎝の鋤が入るのである。こんな小さな土の表面の鋤入れが、土中に酸素を鋤込んで春の草花を咲かせているのかも知れない。

  アルプスの連山の積雪は、まるで五月のGW時の様な少なさである。
 春日の陽気に誘われて、幼児を連れた婦人の姿が幾つか見える。美容健康のウォーキングをする派手目な夫人も歩いて居られるし、ジョギングをする本格派男達の姿も見える。

 流れの無い淀みには、薄い氷が張り詰めている。流れの緩い川の中には、この何日か続いている春日に誘われて、アブラハヤの小魚の群れが、流れの中を上に下に泳ぎ回っている。冬至を越して早や一月、暖冬の影響だろうが・・・光を受ける底石には、緑が色を滲ませている。この処、一対の大鯉とはご対面が叶わない。些か寂しい気にも為る。

 橋下を抜けて開けた淀みのプールに、何やら赤い物が見える。結構大きな金魚の様である。河川敷の散歩道から、内堤を降りて川を覗くと、赤が一際強い15~6cmの金魚であった。水面近くを、ゆっくり泳いでいる。皮膚病を患っている。大きな瘤が、頭部・背部・脇腹に付いている。人間で云うなら、末期癌の様な症状である。

 小首を捻る。此処は、毎日の散歩コースである。川の金魚は、上と下で数匹を目撃している。この金魚は、始めて見る。何よりも、赤の色合いが鮮やか過ぎる。明らかに飼われていた筈である。それも、色揚げ餌をふんだんに投餌されていた金魚であろう。治療の甲斐も無く、飼い主に放逐された金魚の一匹に相違あるまい。きっと、餌にとんでもない物が、混入していたのであろう。一夜にして、金魚槽の全部が死んでしまった経験が、私にはある。

 餃子問題、粉ミルク問題等々、人間様の口に入る食品にまで、農薬・毒物が平気で混入してしまうご時世である。国民性?から、推測してペット・フーズには、その数倍・数十倍の無関心さが、素通りしているのであろう。ブログで時々、環境汚染としての彼の国のおぞましい限りの奇形人間・奇形家畜・奇形魚の映像を見る事がある。
 欲深い人間が、欲望のパンドラの箱を強引にこじ開けてしまった現代・・・ 世紀の世界同時・大不況の大行進が始まっている。景気回復、回復の大合唱の陰に、決して埋没させては為らない環境・食の安全の山積課題もあるのである。

 こんな時にこそ、日本の底力である。『族議員様』、縦割り省庁の優秀この上ないと自負する『日本官僚殿』の腕の見せ所でありますぞえ。お励み下され。お願い申す。

 さてさて、放逐された赤金魚の行く末は、如何な事に相成るのであろうか・・・
母なる川に抱かれて、己が自然治癒の力が復活するのか、空中からの嘴・爪に掛るのか、癌細胞の浸食に人知れず腹を浮かせて流れに漂うのか・・・冷たき男は、現代に散歩の足を進めるばかりである。

心何処ーショート 春日
                   春日(1/28/09)
 本日は、気合いを入れて掃除・洗濯・入浴・買出しをこなす。ポカポカと春日の陽気である。気持が好いから、廊下の戸を何枚か開けて置く。漸く遣り終えて、遅い昼食後の再放送タイムは、座布団を枕に炬燵に足を伸ばして、テレビの音を子守唄代わりに、意識の遠ざかる境地に入っていると、縁側廊下の戸が開いて、倅の声がする。

「珍しいじゃん、親父が、バッチャマの部屋に居るなんて。」
「如何した、珍しいじゃないか。お前、さては、お菓子の臭い嗅ぎ付けて来たな。」
「ああ、この近くに仕事に来たから、寄って見た。」

 先日、女房からの質問事の回答を電話したのである。親子の会話の折りに、此方の話が出たのであろう。それで、倅も優しい男であるから、親父と祖母の顔を見に来たのであろう。
 倅と母は、赤ん坊の時から、頗る相性が良い。母は、恋人に会った様に、相層を崩して『元気溌剌』の表情・雰囲気である。女房・倅・娘は、母にとっては大事なお客さんらしい。私は、この家のご主人様の賄い夫であるから、お茶の用意などを仰せ付かるのである。<何しろ、言うは0.3秒、行うは分の世界>である。居間と台所を往復するメタボ親父の姿に、180cmを超す倅は、大人びたニヤニヤ顔である。茶うけは、会心作『沢庵漬け』の逸品である。

「如何、美味しいだろ。お父さん一人で、毎日、大根干しを続けて、上手でしょう。」
「うん、店の漬物よりも、色も味も美味いよ。親父も、良く遣るね。家じぁ、何もしなかった人だよ。」
「手伝いの嫌いなお父さんだったけど、何から何まで黙って遣ってくれる。バアチャンは、トイレに行くだけ。勿体無い、有難う、有難うって、手を合わせる事しか出来ないよ。」
「しょうが無いだろ、賄い夫が、俺の今の仕事だからな。お前達と違って、頭の出来が違うから、いざと為れば、何でもこなすんだよ。ハハハ、ザマ見ろだ。後で爪切って遣るから、土産に持ってけよ。」
「三人分、持って行くの? 煎じて飲むのかい?」
「当た棒よ。さっき風呂入ったから、ご利益が薄いけどもな。我慢して飲め。」
「バッチャマ、俺、エライ所に来ちゃた見たいだね。帰りに太田胃散買って行かなきゃ。」
「バァチャンの太田胃散あるから、あげるよ。持って行くかい?」
「親父に、請求書回すから、好いよ。バッチャマ。」
「バカヤロ、そんな余分な金は、無いぞ。」

あれあれ、こりゃ理想的な展開だわさ。如何やら、俺の教育方針も及第点の範囲らしい・・・

 倅の会社も、めっきり仕事が薄くなったと言う。何か月に、一度位しか電話をしない我が家族であるが、口を開けば、そんな事は一切気に為らない。何時も一緒に生活している様な感覚でしかない。子供が巣立ちをしてしまえば、これで良いのである。夫婦・親子の絆が、底に流れていさえすれば、それで良いのである。家に帰って食事の時に、倅の口から女房に<親父もバッチャマも、穏やかな雰囲気で元気だったよ。>と伝えてくれれば、女房から娘にも伝わるのである。

 巣立った子供達には、大人の距離があって良いのである。干渉は失礼に当たる。有難い事に、私も母から、そうして貰って来たのである。倅も、穏やかな雰囲気が、大きく為って来たものである。私の抜けた穴は、無い様である。我が女房殿も、マイペースで遣っているのであろう。

  安心安心。文句を言ったら、お天道様の罰が、当たると云うものである。

心何処ーショート 絵は、心を現す?
               絵は、心を現わす?(1/ 27/09)
 本日分を投稿して、今日は余裕の一日である。モーニング・コーヒーを飲みながら、朝のブログ散策などをしていると、誰か上がって来た様である。斜向かいさんである。畑で採れた白菜を持って、台所に居られる。部屋にお通しして、話を承る。

 ピーター・セラーズの当たり役『ピンク・パンサー』の2・3・4に、夜中ゲラゲラ、マリリン・モンローの傑作『バス・ストップ』に、ついホロリの日々であったと言う。
 ご主人は、週一度は図書館から本を借りて来ての愛読家であったのであるが・・・ 冬至カボチャの差し入れの際に、我がビデオ・コレクションにご対面して、クラクラ、ワクワク、ドキドキの毎日に陥ってしまったのである。週に二度、6~8本のハイペースで、映画三昧の日々であると言う。本日は、ジョン・ウェインの西部劇・戦争物を中心に、8本の貸し出しである。

 大衆娯楽・教養・文学でもあったクラシック・ムービーでもある。独断・選り好みで集めに集めたマイ・コレクションである。服・着物の陰干しでは無いが、ムービー・ビデオにも陰干しが必要なのである。貸し出される彼等にしても、喜んで観て貰えるのであるから、本望であろう。

 浮いた時間・・・偶には下手絵を描いて見ようと、机の上を片付けて12色の色鉛筆を取り出す。下手絵・お絵描きの時間も、遣り始めると楽しい時間である。仕上げて、温泉銭湯に行こうとしたが、おお寒いの段である。湯冷めをして風邪を引いても仕方が無いと諦める。何しろ、体力の無い母を抱える身である。明日、明るい内に、風呂を沸かせば良い。

 ファイル2冊に溜まった下手絵を持って、母の部屋に行く。私は不器用であるから、まともな写生が出来ない。下手絵の多くは、抽象画に近い安易な想像画である。それらの絵は、私の文字ばかりの文作の挿絵風に描いた物が多い。
 
 ターニャ・ストーリーに使った絵などを、これは、こう云うイメージで描いたとか、この絵の特徴は、色使いに工夫を凝らしたなどと解説をして遣ると、子供の様な笑顔で一つ一つ頷いて、ファイルを捲って行く母である。<絵に名前を付けて、発表しろ>などと言うのであるから、これ又、親バカの典型である。

 フィリピン旅行記の中で、小題『浜辺のオカマ・ショー』の表紙絵として、描いた悪戯絵には、コミカルなタッチで、塗り分けたカニの絵がある。カニの足は、云わずと知れた男を垂らし込む<艶めかしい女の脚の行列>である。そのカニの大きな紫色のハサミは、緑の海藻からグィと、突き出された男の象徴<雁首>を、確りと挟み込んで居るのである。

 私は四男坊である。ニヤニヤしながら、大正女様に、太い指でポンポンと下手絵を指す。
          「これ、何だか分かるかい?」
       「キノコかい、それとも、ソーセージかい?」
             「老眼鏡、貸そうか?」
 大正女は、真面目である。マジマジとその部分に、目を凝らせた母が、背筋を正して申された。
       「馬鹿もん、夜は遊びに行っといで。泊まっといで!!」

 目は衰えたりと云えども、野暮なプロレスラーの様な男を、5人育て上げただけの事はある。92歳と云えども、男の深層心理を見抜くとは、大したものである。

 アッチャー、トホホ、であるが、愛すべき母は、まだまだ健在の様である。ウッシッシ!!

心何処ーショート 妄想も、時には熱燗なり。
              妄想も、時には熱燗なり(1/26/09)
 最寄りのコンビニ店が閉店に為って、早や10か月が経つ。不便な物である。私は夜型人間であるから、不便と云うより寂しいの感じの方が強い。100Mにも満たない所にあったコンビニ店は、酒のツマミとか、時間潰しの為のマンガ本・手軽本を買いに行くのには、都合が好かった。買い物は昼間にすれば、生活に不自由を来す訳では無いが、一寸した気分転換が出来ないのが不便なのである。如何でも必要ならば、自転車・自動車で行けば、何の事は無いのだが、一々行くと云う事に為れば、それではコンビニに行く意味が無いのである。何年も前から、コンビニの店仕舞いが進んでいる。聞く処に依ると、内情は大変に苦しい限りとの事である。

 本日は寒い一日であったから、息切れがするほど歩いた。何時もの2倍ほどの距離を、ただただ歩いて見た。寒々した風景の中では、途中で止めるか、意地に為って歩くしか無い事もある。強いて三文の得を考えれば、幼児をハズバンドの自転車に乗せて、並んで走る白人夫婦とすれ違った事だけである。ハズバンド同行の自転車であるから、趣味の鼻深呼吸をする訳にも行かず、一家はどの辺りに住んで居るのだろうか位の感想しか浮かんで来なかった。

 こんな殺風景な散歩も、珍しい物である。目の保養と為る物が、目に留まらないのである。
 遺憾いかん・・・ こんな時は、何かを考えて、苦役に耐えなければ為らない。深刻な思考・思索は、ご法度である。何か無いかと、頭の中のガラガラ・ポンを遣って見る。

 昨夜の松本清張ドラマでの沢口靖子の顔が、浮かんで来た。『澪つくし』の清純派美少女のイメージが、脳裏から去らない女優さんである。彼女の様な清純過ぎる女性の顔と肉の付かないと云うよりも、削げ落ちるタイプの女性は、歳を経て来ると、その清純さの顔貌から強烈な悪女を演じ切る事で、演技派女優に移行しなければ為らない<きつさ>がある。女優と云う職業を続ける以上、避けては通れない試練だと思われる。
 然し、清純美少女の殻を断ち切ってしまえば、顔貌が整っている分、鬼女の形相に転嫁する事が出来る。180°の転嫁は、眼技のコツさえ掴めば、役者の幅と役者冥利に尽きる満足感だと思う。澪つくしは、欠かさずに見た私は、テレビでズーと拍手を送り続けている男の一人である。

 田村正和は、素晴らしいの一語に尽きる。ドラマの佳境に入って、畳み掛ける演技の冴えは、一級品の役者さんである。親父さんの阪妻の男臭さに匹敵する魅力を、持った役者さんである。

 小林稔侍のニタニタ顔と眼を据えた顔の落差が、彼の持ち味であるが・・・ドラマの最後の無理心中シーンの水中の演技で、その持ち味と演技の凄みをコンパクトに見せてくれた。下積みが長かった映画役者さんだけあって、ワンシーンに賭ける役者根性たるや、さすがであった。
 私の眼からは、彼は相当なスケベ男と見える。番カラ二刀流を、きっと素地でこなす<意馬心猿の性質・無類の女好き>と見ている。彼に関して言えば、当たり役の税務官・窓際シリーズが、実に面白い。実生活でも、あの形振り構わぬ幼児性とも受け取る事の出来るニヤニヤ顔で、無骨な手で女性の尻を撫で回しているのは、必定の事であろう。触られた方も、あの顔でニタニタされてしまっては、振り上げた女の拳にも、力は入らないと見た。天性の女好きに、手間暇掛けて習得した『遊び男の技』が、アリアリと感じられる。同類は、同類を見抜くの喩である。

 全く以って、ウッシッシの馬鹿笑いが、込み上げて来るのであるが、此処は名高いS大病院近辺である。病院に連行されては、家名に傷を付ける『軽挙妄動』である。口を結んで、通り過ぎるべしである。

 さて、次なるは、その中の、名前は存じ上げないが、眼鏡を掛けて登場する助手役の女性が御座る。私はその女優さんに、ご執心なのである。彼女の素顔は、中々に色っぽく好い女の顔をして御座るし、身体の線も柔らかくて隠し通せない色気を感じている次第なのである。時々、着物の姿で素顔のCMに出ているのであるが、好感度のある大和撫子の雰囲気である。沢口靖子よりも、色ぽいおネエさんである。オッホツホ。

 夢想・妄想を此処まで続けて来ると、身体も大分、温まって来た。毛糸の帽子から、耳を出し、手袋も不要と為った。ジャンパーを脱いで、後の均しの歩行速度に移行である。

心何処ーショート 或るドラマ考
                 或るドラマ考(1/25/09)
 母の部屋に行くと、ドラマを遣っていた。画面には、鈴木清順さんが居られる。相手役は、加藤治子さんである。これは、見なくては為らないドラマであろう。部屋から咥えタバコ用のタバコを1本持って来て、炬燵に当たる。車椅子の老妻を改造キャンピィングカーに乗せて、旅(流離う)するドラマである。

 思えば、こんな風な老境ドラマが、映画の主題と為っていた時期があった。81年・『黄昏』F・フォンダ、85年・『マカロニ』M・マストロヤンニ、J・レモン、89年・『晩秋』J・レモン・・・etc。 1980年代の往年の大スター達がしっとりと演じた人生の終局・終焉ドラマの幾つかが、頭に浮かんだ。日本ではNHKドラマで、笠智衆・杉浦直樹・杉村春子の『去年(こぞ)の秋』などと云う秀逸作があった。

 比較をして見たかった。私は下手の横好きで、比較人類学為らぬ比較映画考が好きなのである。米・伊・日の映画を見ると、其処には、風景・街角・家庭・台詞の随所に、国民性の色・臭い・人生観の味なる物が、何処と無く滲み出て居るものである。見て感じて、思いを巡らせるのは、私の愉しい個人の時間帯なのである。

 良く出来たドラマであった。時々、本音を癇癪と云う形で現わしてしまう夫の姿に、日本の伝統的な亭主関白を現わし、駄々っ子の様な夫に噛み付いたり、拗ねて見せる車椅子の妻。少々不格好に映し出される珍道中を続ける亭主と女房は、共に一身一体の関係にある姿を描いて、物語は展開して行くのである。そして、現代を象徴する風景として、母親の再婚の邪魔物扱いされる少年が絡む。

 途中の夫婦で露天風呂に入るシーンが、私には圧巻だった。眼鏡を外した清順さんが、真っ赤なタオルを頭に巻いて、目をギラギラさせて妻の背中を見詰める夫を演じている。その眼の儘、治子さんの背後から横に回り、其の儘、白濁した湯の中に潜るシーンが、このドラマの中心に有った様な感じを受けた。治子さんは、夫のギラギラした気配を全身で受けながら、表情には穏やかな微笑みを浮かべているだけである。
 夫と妻の好対照の表情を捉えて、私は動物としての『性』を直感した次第である。作品を文学的に考えれば、一瞬の夫の殺意と妻の殺生与奪を夫に委ねている妻の微笑と、無理やり頭を回した方が、様に為るのであるが・・・ 私は敢えて、夫の性への執着心と体では性に応えられない妻の気持が、そんな夫の『性の鼓動』を感じ取って、自分の下半身を夫に見せると云う男と女のシーンと理解した方が、作品に深みが増すと考えた。
 一対の男女間に在っては、その消す事の出来ない『性の証』と捉えたかった。男と女の性の交わりを、見事に現わして、在り来たりの老境を打破した象徴シーンであった。このシーンで、作品に綺麗事では無い一種のリアリティーを出していた様に感じた次第である。

 岸壁に釣りに出掛けた夫が釣り上げたのは、小さな鯛であった。照れながらも、妻を喜ばそうとした夫が見たものは、静かに息を引き取った妻の姿であった、『一声のみ』の奇声を発しただけで、妻を抱きしめる夫。

 このシーンにこそ、車椅子の妻と二人、老夫婦がお互いを頼りとして、粗末な改造キャンピングカーでの旅を選択した男と女の関係が、描かれているのであろう。この作品に描かれている老境とは、『確りした覚悟』を意味している・・・のである。

 妻に先立たれて夫が小さく歌うは、<済まぬ済まぬに、振り返りぁ・・・進む兵の頼もしさ・・・>の軍歌である。切れたハイライトを買おうとして、妻のバックの小銭を探せば、包装紙の裏に鉛筆で、<お父さん、私の方が先でしたね。ありがとう、ありがとう。お父さん>の妻の言葉が記されていた。

     火葬を終えた妻の遺骨を車に乗せて、独り夫は車を走らせる。
      <済まぬ済まぬに、振り返りゃ・・・進む兵の頼もしさ・・・>

 戦争を知らぬメタボ男の目にも、静かな涙・涙が頬を伝う。母は、ひと言、好い映画だったと涙を溢している。NHKアーカイブからの放映であった。好い日本ドラマを、見させて頂いたものである。私にとっては、NHK様々である。NHK受信料に一切文句の無い処であるが、後の感想モドキが、癪の種であった。

 NHK好みらしき林家某なる落語家が、大衆受けを狙っての『お父さん、私が先でしたね。ありがとう、ありがとう。』ばかりをどんぐり眼を潤る潤るさせて、コメントしやがった。

 冗談じゃないわさ。このドラマは、先に掲げた往年の名優大スター達が、演じたドラマ以上の秀逸さなんだわさ。軽薄・陳腐な感想コメントで口を拭いやがって、一丁前のコメンテーター面をするで無いわ。お前さん、殊勝な顔して、本当にこのドラマを、全編真剣に鑑賞したのか・・・甚だ疑問であった。
見ての上の事であったら、お前さんも噺家の端くれであろうが、少しは感性・読解力を磨けと言いたくなってしまう。用意された安易なコメント・メモを読んでの丸暗記じぁ、真面目さが足りんぞえ。甚だ、作品に失礼ですぞ。
 何処ぞの超大国の大統領様には、専属の複数<スピーチ・ライター>が付いて居られるとの事である。その報酬は、一件400万円との事である。

      <済まぬ済まぬに、振り返りゃ・・・進む兵の頼もしさ・・・>
 清順さん、治子さんに、何故涙が無かったかを、考えなされ。二人三脚の老境を、枯れの心情に謳い上げた秀作に対して、失礼でゴザンスよ。

心何処ーショート SOS
                   SOS(1/24/09)

                初めまして。
       勝手に<朝倉シリーズ>と名付けちゃいました。
古代史・民俗史を、偶に読む事が有ります。物部川ですか・・・ なるほど。 
土地には、人知れず歴史が流れている。住宅地に顔を出している古墳の写真。

    う~ん、好いですね。気付けば、それはタイム・カプセル。
       カプセル辿れば、其処彼処に歴史の息遣い。
          祀るは、遠い人間の記憶の証跡。
 
頑張っとくれぇ~、期待してるよぉ~。何分遠路。オンチャン、声が届きましたかな。

 これは、『南国土佐に来てみいや』のオンチャンさんに、送ろうとしたコメントである。<禁止ワード>が含まれているとの事で、送信が叶わなかった一文である。奥二重の目ん玉を、おっ拡げて、二度精読して見たが、???である。シャーロック・ホームズ、虫眼鏡老人の手助けを借りて見ても、一向に解せない。ギブアップで御座りまする。

★何方か、<禁止ワード>を指摘されて、お教え下され。お願い致しまする。

心何処ーショート ロートルの湯中り
                 ロートルの湯中り(1/23/09)
 遺憾いかん。貸切風呂で、のんびり湯浸かりをして来た帰りのスーパーで、恥ずかしながら、金不足と為ってしまった。『今度来た序で良いよ』と、先輩おばちゃんは言ってくれるのであるが、安易さに甘えてしまっては、物臭男は、癖に為ってしまう。空っぽに為った財布に金子を補充して、郵便局・医院と再出発である。用事は纏めて消化してしまった方が、後が楽である。

 紅顔の美男子が、厚顔のオッサンに為ってしまっては、身も蓋も無いと云う処である。俺様は、留守中に私の部屋から、勝手にビデオテープを持ち出して、返さない厚かましい次兄とは、人間の質も、出来も、生き方も、数段に違うのである。バカタレが。

 春を思わせる陽気にペダルを漕ぎに漕いで、支払・払込み・薬貰いと義務を果たして、昼の賄いの後で、如何にか戻ったマイペースである。

     ほぼ貸切状態の湯浸かりでは、好い物が浮かんでいたのである。
 垢擦りで、ゴシゴシと垢を落とし、髭を当たり、伸び伸びと、垂れ流しの湯船に足を伸ばして汗を掻く。火照ったメタボの身体をタイルの壁面に凭せ掛け、何思うも無く・・・湯の感覚を愉しむ。

 頭に浮かぶは、アガサ・クリスティーの『地中海殺人事件』などでお馴染みの海岸で優雅に日光浴を繰り広げるシーンである。つい最近までは、海とは泳ぐ対象であったから、泳がずに日光浴をする感覚が如何しても、理解出来なかったのである。漸く体力が落ちて、何もせずに海岸で寝そべり、雰囲気を愉しむ心境が理解出来る様に為って来たのである。

<心技体>とは、良く言ったものである。若い頃は、体動にばかり意識が行ってしまい、ジッとしている事が、苦痛でしか無かったものである。然しながら、歳をとって身体が運動を余り欲しなくなると、今度は余った血液が頭に注がれる様に為った。決して、思慮深い性質では無いが、幸い考える事は退屈では無かった。それが仕事と云う課業から解放されると、自分の好きな物にしか、関心が向かなくなってしまった。こんな加齢の心境の中で、独り湯浸かりをしていると、ビーチチェア・サンシートに長々と身体を伸ばして、静かに日光浴をしているシーンが、頭に浮かぶのであるから不思議な物である。

 日本の海水浴の風景は、のんびりと云う風景には程遠い混雑振りであるが、タイのプーケット、フィリピンのボラカイ島、ウラジオストクのルースキース島では、そんな白人達の風景に同行させて貰った。
 人との会話の中で、相手の言葉だけで、人は話の内容を理解出来るものなのか・・・そんな疑問が湧いて来る。他人との会話を理解する為には、自分の中に、それに類する体験・経験が無いと、他人の言葉の中に臨場感としての共通感情が湧いて来ないのだろう・・・

 臨場感・共通感情が気薄だと、言葉は耳に素通りしてしまう。頭・心・感情に留まらない言葉は、記憶に残らないものである。そんな気持ちが、ふと浮かんだ次第である。

 記憶・心に残る言葉と為ると、言葉に依る理解とは、極端な言い方をすると、自分に同化されていると云う面で、自分自身との会話に為るのでは無いかと云う気持ちに為って来るのである。自分に置き換えて理解する等と云う言い回しもある。土台、言葉だけで他人を理解出来るなどと云う誤解・錯覚・無関心・傲慢・高慢さから、人は脱する事が出来ないのでは無いか・・・ 言葉などと云う物とは、実に厄介な誤解・錯覚の種である。

 然りとて、言葉が無ければ、伝達も発展も無いのである。ブログを覗いて見ると、彼方此方で言葉バトルが見え隠れする。不完全な言葉を頼りに、己が成否を丁々発止とばかりに主張している風景も目の当たりにしてしまう事がある。これも、仕方の無い体動・脳動・感動(感情の動き)の為せる処であろうか・・・ 自分を振り返る時に、そんな気持ちが動くものである。同じ本でも歳を経て読むと、違って見えて来る物があると云う。相手が動かぬ文字であっても、それを解釈する本人が時の経過で変化を生じているのであるから、不変と可変との間には、変化が伴うのは当たり前の事である。理解・解釈とは、変化の為せる『過程』でしか無い。言葉は、知る事の道具。知る事の実態は、解釈の裾野を広げて、解釈の実力を自分の力で、広く深くする事しかあるまい。

 言葉とは、抽象語にして、その人の肉声語でもある。言葉に含まれる抽象語と肉体語の架け橋として、解釈するのは取りも直さず解釈人の技量なのかも知れぬ。所詮、不完全なる言葉に、全幅の信頼を置く方が、問題なのである。

 ★質問が難し過ぎました。貴方は、質問する相手を間違えて居りまする。以上、支離滅裂な私の意見です。疲労困憊でありまする。ご勘弁下さい・・・ とほほ。

心何処ーショート 一月、カミ雪の正体は??
              一月、雪の正体は???(1/22/09)
 10cm弱の夜の雪は、早や融けかかっている。水分の多い雪は、この地方ではカミ(上?)雪と呼ばれる三月の雪に似て、儚い降雪である。アスファルトの道は既に融け、雪の重みに垂れた下がった枝々からは、滴がポタポタ落ちている。屋根の重なる白灰色の境には、雪を被った山の樹木が見える。昔の感覚からすると、春を運ぶカミ雪である。従って、春遠からずの風情にして、希望の春を想像して良い趣きなのであるが、カレンダーでは、これからが、カチンカチン・ゴリゴリの続く、信州・冬本番の時季なのである。
 
 朝一番の地方ニュースでは、夫婦二人で暮らす両親のもとに、息子を名乗る男からの電話で、友人の連帯保証の件で至急600万円が必要。使いの弁護士助手と名乗る男に、手渡してしまったとの事であった。息子に電話をすると、マンマと騙し取られたとの事である。振り込め・手渡せ詐欺が、相も変わらず蔓延る『狂ったご時世』である。
 
 降雪して直ぐ融ける一事を以って、『カミ雪』と騙される訳には行かないのである。此処は、正常な猜疑心が肝要であろう。

  タバコを咥えた耳には、ラジオから<プリティ・ウーマン>が流れている。
 一世を風靡した名曲である。映画も良かった。久し振りにビデオを見るべしである。

 昨夜の『相棒』の鑑賞では、母から嬉しい質問があった。ドラマでの相棒・寺脇康文が卒業?してしまったのに、番組タイトルは相棒の儘である。『如何して?』と為るのは、当然である。昼の時間では、お馴染みの相棒の再放送が流れているのであるから、相棒の居ない『相棒』の<現タイトル>は、当然に大きな疑問と為って、頭を駆け巡るのであろう。

 母の血を引いている私には、母の心の内は少なからず分かる。思い付いた事を、その儘、口にする性格では無い。母なりに彼是、考えてから納得出来ない疑問を、投げ掛けて来るタイプなのである。私は、母の表情を観察しながら、ニヤニヤしてその謎解きに一役買うのである。口では、記憶力も考える力も衰えて、日々赤子に近づく我が身の不甲斐無さに、<恥ずかしい恥ずかしい、情け無い情けない。>を連発しているのであるが、脳軟化症には程遠い、好奇心の健在振りを見せてくれるのである。

 そんな母を目の当たりにすると、不肖の倅と云えども、無性に母が可愛く感じられてしまうものである。些か母に対して不遜ではあるが、これ又、ウッシッシの段である。

 動きの遅かった母と食事をしていると、斜向かいさんの声がする。野菜を携えてのビデオ交換である。映画談義をしていると、早や、黒塗りのフェンスの上の雪は、細って消えてしまった。

心何処ーショート 唯日々に、没するなり
                唯日々に、没すなり(1/21/09)
 グッピイ槽に新入りを入れてから、大分日数が経つ。この頃は、水槽全体を保温の為、シートですっぽりと覆っている。昼間は、四面の一面を半分ほど窓の様に、開けているだけである。従って、ある程度の大きさに成長したものだけが、姿を見せる。新集団との混血が、どんな誕生・成長を見せているかは、今の処、定かでは無い。色合い・雌雄の現れない小魚が、何匹か成長しているが、血の繋がりの新旧は目視には早い。

 早々に、姿を消してしまった太陽である。親番いの籠を、玄関に移す。その時に覗いた藁巣の中には、卵が3個あった。これから抱卵が始まるだろうから、定位置を続けるしかあるまい。

 若鳥の番いは、マダマダ成長し切れていないのであろう、疑似巣箱の出入り、交尾はあるものの・・・彼等の初産は、春を待ってからに成るのだろう。私としても、それの方が寂しくは無い。目の保養が少ないと、妄想に走る性向である。これ以上、品を欠くと訪れてくれるお人も、皆無と為ってしまう・・・遺憾いかん。

 タバコを吸いながら、そんな観察をしていると、眼前のフェンスにバルディナさんの姿見せである。国会中継が無いから、ラジオからは耳慣れた番組が流れている。ロートルの変化を欲しない時の流れには、恰好の色合いである。

 朝食後の母の部屋でのテレビのお付き合いをしていると、テレビでは挙って、米新大統領オバマ氏の演説をベタ(下手)褒めである。

 キリスト教の欧米国の演説のペースには、きっと日曜の教会ミサの伝統・風習が色濃く刷り込まれているのであろう。従って、聴衆を前に演説すると云う事は、それなりの伝統的トーンが存在するのだと思われる。
 バチカンのローマ法王が、キリスト教精神の象徴として世界各国を巡幸されるシーンを、テレビで拝見する事がある。日本の天皇陛下の新賀・行幸に際しても、同様の所作とトーンが存在しているのである。ヨーロッパの難を逃れて新大陸に渡り、ゼロから新世界を建設したアメリカ合衆国である。新しい国家が、精神的象徴をも果たさなければ為らなかった合衆国の象徴・大統領が、政治・経済一辺倒で国民の前に立つだけでは、大統領職を全う出来る筈が無かろう。

 国変われば、作法・演説も異なるのである。何でもかんでも、自国を卑下して変わった作法に両手で拍手をしてしまい勝ちの祖国の国民である。テスト点数の多寡を以って、やれ、学力低下だとか、やれ、ゆとりある学習だとか、やれ、諸悪の根源・日教組だとか、右翼に左翼、国粋に売国だとか、兎角、この世は、レッテル貼りに長けた国民風潮である。

 人間の遣る事には、そうそうは大差がある筈も無かろう。歓迎の拍手の裏にも、チェックの作法有りで御座る。収入以上の買い物をして、無責任消費大国を享受して来たのは、アメリカ国民でありますぞ。グローバル経済・金融帝国を構築して、信用金融経済を吹聴して『勝ち組』『負け組』の二極化路線を牽引し続けたお国でありますぞ。安易な迎合は、長続きは致しませぬ。腹六分・八分が、長いお付き合いのコツかも知れませぬ。

 相撲で云えば、朝青竜に拍手喝采をし続けるご時世でありまするぞ。学業の中の一部分、覚える為のテクニックばかりに血眼に為ったり、表示・計量化出来難い心の存在に、敢えて目を瞑って実績の数値に突き進んでしまったのが、科学・効率・実績の世界観・人生観であろう。

 米新大統領のオバマ氏の演説に心が打たれるのなら、精神の元を個人で、少しばかり時間を掛けて、自分自身の言葉で、自分の心に問い掛けを試みられたら、如何であろうか。

 日の伸びを体感して、若番いは、繁殖の血の巡りが始動しているのであろうか・・・何時に無く、巣への出入りと身を低くして尾を左右に震わして、交尾を誘い合う番いである。コーヒーを飲む我が身は、安穏の日々に、ただ没するのみである。

心何処ーショート バルデイナのエール
               バルディナのエール(1/20/09)
 ああ言えば、こう言う。過去には、『ああ言えば、ジョウユー。』なんて云うマスコミの皮肉・飽きれ切った<突っ込み>もあった。先日の某テレビでのケイオーダイの教授対論で、ジョーユー並みのタケナカ先生を目の当たりにしてしまった。カネコ先生為らずとも、テレビカメラの前では、口をへの字に結んで、相手を睨み付ける事で、感情を抑制するしかあるまい。密室なら感情がぶつかり合って、大抵の場合なら取っ組み合いの乱闘に発展してしまうだろう。
               俺ァ、学者で無くて良かった。
 何年か前までは、我が県知事のヤスオチャンなどと云う〈ああ言えば、ヤスオチャン〉と云う御方が居られた。腕力は表現手段として、下の下と云われる時代である。その所為か、『言い手繰り』状態の言論自由?モドキが、幅を利かすご時世である。言って良い事、悪い事、其処まで言っちゃお終いの事など、少なからず感情に支配される動物の人間達が、繰り広げる言語の応酬である。相手の心・感情を推し量ると云うルールが無ければ、見ていて面白くも無い。増してや、勉強にも為らないのである。行司役のタハラの野郎が、タケナカに迎合して、何とするか・・・である。抑制の欠片も無い下衆老害野郎である。

 下衆の勘繰りからすれば、「俺ぁ、そんな相手の揚げ足取り、すり替え・目晦ましのテクニックが見たくて、テレビを見ている訳じゃ無い。何を猪口才な戯け!! 無礼打ちにしてくれるわ。」の感頻りであった。

 或る時、俺の報酬は、月に6000万円と聞いた事がある。こいつは、気違いか?と顔をつくづくと観察してしまった事がある。6000×12+ボーナス=9億を下らない額であろう。
  これでも、一部上場の社長様の自慢すべき心の内なのか・・・であった。
  これが、社員数何千・何万の頂点に立つ人間かいな? であった。
  これが、開いた口が塞がらないの人間見本であった。

     下衆の勘繰りから正直に言えば、搾取の権化の沙汰であろう。
 名も無き地位も無い絶対多数の人間の労働から、搾り取るだけ搾り取って、莫大な利益金・剰余金は、少数の秘密クラブの会員間で、大判振る舞い。自分達の豪遊は、会社の経費持ち。お前さん達、トップ・経営陣を含めた企業構成員の総人件費の枠内で、労働付加値を生活給を基本ベースに公平配分すれば、より多くの企業構成員に、笑顔が見られるではないか。

 下衆目線・下目線からすれば、盗人、猛々しいと言うのでありまするぞえ、少しは『名も無く地位も無かった童心』に還って、現在の王侯貴族振りを反省しなされ。

 エコノミスト・富裕層は、これを称して『才能の有無』『勝ち組』『負け組』の自己責任の結果と涼しい顔で、申されるのである。国際競争力・雇用の創造・規制緩和・小さな政府・新自由主義・金融立国・・・etc。然し、トドの詰まりは〈巧言令色、仁少なし哉〉の喩である。標準的感想を言えば、所詮、『勝ち組は、盗人(すっと)組』でしかあるまい。

 纏まった物を打つ為に、パソコンをONにしたのであるが、『盗人組』の面々の顔付が、画面に動き回って、我が繊細なる感性・感情を掻き乱す。
    俺ァ、カネコ先生と比べると、人間の質には雲泥の開きが御座る。
  大火傷をしない内に、自己抑制を働かして、ボンクラ・モードに帰りまする。

 『ロートルぼやき党』幹事長の力無いボヤキを綴っていると、窓辺のフェンスにジョービタキのバルディナさんが遣って来て、尾を振って下さる。有難いご訪問である。感謝の印に、彼女の写真に投げキスを送らせて頂いた次第である。

  さてさて、曇天の冬日であるが、散歩の日課をこなしに参りまする。

心何処ーショート 珍客
                  珍客(1/19/09)
 寒中の雨に、生温さを感じてしまった昨夜である。雨の上がった朝に、モーニング・コーヒーを飲む。煙草も午前中に切れる事であるし、銭湯経由で米・タバコ・買出しに行く事にする。鳥の世話をしていると、子離れした親番いの藁巣には、運び込んだ紙切れの上に、白い卵が一つ産んであった。未だ一つであるから、水槽の上に置いて、日光浴をさせて遣る。抱卵が始まれば、当分お預けである。温い気温と日差しの中で、親番いは、交尾の勢い余って、止まり木から重なり落下する始末である。
 こんな時のオスとメスの交わす言葉は、如何云った物なのだろうか・・・などと、下卑た冷やかしが、頭を擡げる。何時も寄り添うオスとメスの咄嗟の言葉であるから、人間に置き換えると・・・ 否々、下手な翻訳を試みて、私の頭の中を覗かれてしまうのも、些か癪であるから、我慢するとしよう。

 昨日のテレビからの仕入れでは、人間のオスは、秩序と云う夫婦の関係の中にあって、精子の数並びに運動量の衰退が、甚だしい限りであると云う。男を形成するY染色体は、ボロボロにして細る一方で、後500万年もすると、消滅の憂き目に達するとの事である。筋の良いチンパンジーの世界は、戸籍が無いから乱婚の盛りとの事である。ピストン運動の果てに放たれた精子の矢は、メスの一個の卵子目がけて、競泳状態との事である。他のオスとの精子間の激戦に次ぐ激戦である。日頃の鍛え方が違うから、その精子数と活発運動は、人間の比では無かった。
 詰まりは、競争関係を失ってしまうと、生物界に在っては、碌な事は無さそうである。人間の精子とチンパンジーの精子の様を見て、どこぞの国の平和憲法・平和呆けの警鐘を見る思いであった。

 それに引き替え、ブンチャカ、ブンチャカ、ピーピーと、我が部屋の番い鳥は、お盛んの一語に尽きる。開けた窓からは、温い空気に風、何やら本日の様は、早春の風情である。廊下から庭を眺めれば、困った事に、柊の下の山ツツジには、爪楊枝の先の様な幼葉の緑が顔を覗かせている。日捲りを持たされていない植物にとっては、コレマタ、実に有難くない気まぐれ季節である。一枚薄着で、自転車に乗る。

 銭湯の引き戸を開けると、おやおや、本日・客が多いらしい。衣服を脱ぎながら、中を見ると全身刺青を彫った男が二人居る。体付き・雰囲気からすると、刺青者が三人に年寄りが一人である。
アジャジャ、どえらい処に来てしまったものである。番台さんも、服を着ていては『刺青お兄さん』とは分からず、拒否する訳にも行くまい。私とて、裸に為ってしまった手前、入らぬ訳には行かない。お年寄りは、早々に洗い終えて出て行かれた。3:1では、借りて来た猫の様に畏まって同席するしかあるまい・・・とほほで御座る。

「立派だね。どの位、掛ったの? 」
「一年半。」
「銭は。」
「200~250。」
「痛かっただろ。」
「うん、痛かった。」
「しょうがないもんな。その世界じゃ、男の紋章だからね。処で、商売は儲かるの?」
「いや~、きついね。さっぱりだよ。」
「如何するの? 消えないよ。」

 彼等は、名古屋から来たとの事である。一人が松本の出身者であるから、時々遊びに来ると云う。この小さな温泉銭湯が気に入っているとの事である。そうだろうなと思った。平日の昼に近い時間帯なら、自由気儘に湯に浸かる事が出来る。高校の頃までは、この界隈にも刺青さんが居た。良く風呂で一緒に為ったものである。何十年振りかで、本格的な刺青さんと風呂に同席したものである。

「200円で、こんなに好い風呂に入れるのは、幸せだね。」
「ああ、そうだね。地元の強みだね。でも、穴場を見付けて、得でしょうに。」
「ええ、上の日帰り温泉は、人が多過ぎる。ここは、小さくて落ち着く。」

「おーい、そろそろ上がるぞ。」
「はぁーい。」
           女風呂から、返事が返って来る。
 
 お兄さん達が、次々に上がって行く。温泉街の端に位置する『浸かって、洗うだけ』の小さな温泉銭湯は、何時も通りの貸切風呂に戻った。湯をなみなみと掬って、タイルの壁に掛ける。メタボの背中を預けて、マイペースの湯浴みタイムである。

心何処ーショート 土曜午後の男話
                土曜午後の男話(1/18/09)
 昨日・午後からは、会社に顔を出しに行く。会社の近くには、Tの家がある。来た序に、顔を出そうと電話をする。孫の顔を見に、娘の所に居るとの事である。小一時間で戻ると言う。次いで、女房に電話をする。ホイホイ気分で、馬鹿話オンパレードと相成って、『バッテリー切れ』と為ってしまった。遺憾いかん・・・恋女房とは、ウマが合い過ぎる。久し振りの電話に、コントが炸裂して、腹から笑ってしまった。

 帰社した連中と談笑する。一つ仕事を終えた。自己表現の下手な、手の掛る連中である。

 Tの所に向かう。ヤツは、体調が悪かったと言う。胃潰瘍で穴が三つ孔いて、その一つの孔の上に、癌らしき物が見付かったとの事である。癌ならば、胃の2/3 程を摘出すれば、先ずは大丈夫との診立てとの事。私は、先日の病院帰りの喫茶店での昼を、思い出した。

「じぁ、早く遣ってくれ。」と、Tが医者に言うと、医者の方が、調子外れに為ってしまったとの事である。
「仕様が無いわな。悪い所が有れば、綺麗さっぱり切るしかあるまい。」私は、ニヤニヤして続ける。
 
  Tは、相変わらず、表に現さずサバサバした口調で、話す男である。

「T、そりぁ、お天道様の思召しだぞ。早い処、会社なんか辞めちゃえよ。顔で考えなくても、胃で考えてる様じゃ、タイテのコラさって物だ。」
「そうそう云う事だ。少ない退職金に、癌の餞別を付けられたんじゃ、洒落にも為らんわさ。人生80年、Rとの愉しい遊びをフイには、デ~キマセン。」
「当た棒よ。俺は未だ、ピンピンしてる。女道の指南役のTが、未練・見切りの旅立ちなんて事に為ったら、俺なんか、可哀想に手淫地獄に真っ逆さまじゃ無いか。人助けに、胃の2/3の寄付なんか安い物だぜ。」
「そりぁ、そうだ。早期発見、即摘除で解決だ。アナタは、大丈夫。<猛獣、世に憚るの口>だよ。まぁ、お前の場合は、付き合いの破天荒、芯は硬派の好漢だからな。Rを一人にするほど、俺ぁ冷たくないよ。手術の時は、連絡するよ。」
「おお、そうか。ありがとさんよ。」
「処で、カァちゃん達とは如何為ってるや?」

斯く斯く云々で、『波穏やかにして白雲高し。寄せる小波に、戯れを覚えゆ』と答える。
 
「へへ、そうか。アリガトザンシタ。」
「さてさて、予定事、全て完了。帰って、ロートル賄い夫は、マンマの支度をするわいな。」
「おうおう、俺もリクエストのカレーを作らなきゃ。お互い女手は、要らんな。困ったものだ。」

心何処ーショート 時に、感傷的
                  時に、感傷的(1/17/09)
 冬に成ると、水槽の蒸発が小さく成る。それは、頭で考える予想である。実際は、部屋に居る事が多いから、気が付くと結構な蒸発量なのである。気が付いたのであるから、忘れぬ内に、川の水を汲んで来て補充する。
 
 何やら今年は、好天が続き過ぎる。メジロ・ジョウビタキの姿も見えない。冬の降雪量が少ないと、水田への水不足・夏の給水制限などと云う事態が、危ぶまれる次第である。
職飢饉に、水飢饉と為っては、それこそ食飢饉のトリプル飢饉である。

 連日、経済・政治・犯罪ニュースに明け暮れするマスコミ情報であるが、聞き流すしかあるまい。日本社会は、バブル崩壊後の長い閉塞状態から脱せず、今度は100年に1度の世界不況の暴風雨に捕まってしまった。個人的に言えば、現役で無かった事に胸を撫で下ろすばかりである。
 グローバル・電子機器で繋がる巨大にして便利な世の中の様は、素人がパソコンの便利さを享受する様に似ている。キー操作だけに明け暮れる私の様なユーザーは、パソコンの乱調に際しては、手も足も出ない。仕組みを理解せずに、年甲斐も無く、ただ踊っているだけであるから、大海に翻弄される惨めな木の葉でしかないのである。便利さの奥を覗けば、複雑に重なり合う回路の集積であろう。一つが作動停止に成ると、将棋倒しの連鎖が始まる。便利な物ほど、脆弱なる物を内包しているとしか解釈の仕様が無いのである。
 
 視聴率を前に、マスコミも関心を引き付ける為に、インパクト・コンパクト・分り易くに偏重して、刻々変わる情報の簡便なる交通整理をするのみである。頭の悪い私は、整理出来ずに、お江戸の瓦版のお兄ちゃんの口上にまんまと乗せられて、野次馬放談に、現を抜かしてしまうのが、関の山と云った処であろうか・・・ 困ったものである。そして、弱ったいねぇの相槌を入れるのが、関の山である。

 或る時、混沌たる人の世であるから、変わらぬものが欲しいの想いから、入信したと云う話を聞いた事がある。無神論者である私にとっても、今でも耳に残る言葉である。

 なるほど、閉塞感が充満する重い世相である。混沌たる人の世に在って、変わらぬものが欲しいと願うのは、十分頷ける想いである。便利過ぎる、見た目のビジュアル物が、謳歌する今ご時世。知らず知らずに便利・豊かさの日常の中に、忘れてしまった活字と云う何百年と積み重ねて来た時代時代の人間の意志に、再会すべき時なのかも知れない。
 活字の中には、書き手の意志と色合いが、刻まれている事が多かろう。経済の細部までもが、巨大さの中に組み込まれてしまった現在であるが、辛うじて残されている個人の意志で、自分の色合いに合った物を見付け出すには、良い時なのかも知れない。

 古典にしろ、推理小説、歴史小説、随筆にしろ、絵画、映画にしろ、色合いを持った物は、何かを心に問い掛け、足跡を残すものであろう。気分だけは、悠長に行きましょうよ。

心何処ーショート 怠惰に没す為り・雀のお宿
                怠惰に没すなり(1/15/09)
 二日続きの-8℃を下回る最低気温、加えて、本日最高気温は、2℃との事である。昼過ぎ散歩に出る。『目に青葉為らぬ、目にアルプス、冷気に晒すこの身の痛さよ』が、頃合いの実感である。

 アルプスは、今シーズン一の雄姿を見せている。寒風に、ゾクゾクする身体を早足で歩く。下のコースを兵隊の様に、黙々と行進する。S大球場周辺の日蔭道は、雪解けのコチンコチン・ガリガリ道である。日向道を選んで歩く。中学の校庭では、サッカーをしている。会館・体育館を横切り、護国神社境内に踏み入れて、漸く身体が温まって来た。

 雪の陰影を刻んで、すっくと立つアルプスの山並みが、青空に清楚そのものである。広い境内の森を、野鳥の声の主を求めて、散策する。甲高いヒヨドリの声ばかりである。今年は、お馴染みの野鳥達の数が、めっきり少ない。可笑しな具合である。

 橋を渡ろうと車の切れを待っていると、会社の者と会う。立ち話も何であるから、話し相手に車に同乗する。小一時間のドライブをして来る。偶には話を聞いて、話を聞いて貰うのも、良い事である。色々と話を承る。何かと気忙しい娑婆の人間には、ロートル・スローライフのノンビリしたトーンも、一服の精神安定剤と為るものである。

 私の気分転換も図れて、遅い昼食は生ラーメンを茹でる事にした。市販の生ラーメンに、少々手を加えて、ラーメン屋並みのラーメンを母と啜る。これまた、<上手い>のお褒めのお言葉を頂戴する。うまいを勝手に、上手い・美味いに曲解して、若しかしたら、職業選択を誤ったかな?と思ったりもするのである。お伊達上手と乗せられ上手の限られた日々であろう。

 テレビを見ている内に、大欠伸が連発していまい、座布団を枕に炬燵とストーブのホンワカ気分に、抗する術も無く寝入ってしまった様である。テレビの相撲中継の後半を見て、部屋入りの体たらくであった。部屋の窓辺の鳥達は、巣の中に納まって、夜の中である。そーと、夜の定位置・玄関の下駄箱に置く。

 定位置に座り、コーヒーを飲んで振り返れば、賄いと玄関周りの掃除をしただけである。
 さて、今夜も深々と冷え込む長い夜の到来である。昼寝の付けは、きつそうで御座る。


                   雀のお宿(1/16/09)
 あれまぁ、予報以上の放射冷却だったらしく、台所の流しが凍っている。これは、マイナス10℃をクリアしてしまった様子である。真似事掃除の折りに、空を見上げると高い所に、幾筋も薄い雲が流れている。

 朝の賄い夫後は、日帰り温泉のホット・プラザに行く事にする。10:30~20:00の営業時間である。松本は浅間温泉の中浅間に位置する市の温泉施設である。垢抜けした造りの、私の好きなスポットの一つである。良く利用する温泉銭湯の仙気の湯・みなとの湯の中間に位置する。其々上から、250 円・800円・200円の並びである。家からは自転車で8~5分程度の距離である。
 
 平日は、近郊からのお年寄りのグループが、昼・茶菓子・漬物・果物を携えて、のんびり、お喋りに興じて帰られる。私もポットプラザに行く時は、ナップザックにウィスキー・ツマミ・ラジオ・テープレコーダー・デジカメ・雑記帳・シャープペン・老眼鏡を入れて、最寄りのコンビニでカップラーメンと何故か? ゆで卵を買って行くのである。
 行楽の友が、馬鹿の一つ覚え『ゆで卵』と為るのであるから、団塊世代の『刷り込み』たるや、大変なものなのである。本日の耳の友は、フランク・永井とナット・キング・コールである。

 入浴料800円を払い、2Fの大広間に上がると、大層な賑わいである。本日、高齢者優待無料日なのかも知れぬ。場所取りをして、階下の男湯の暖簾を潜ると、此処も多い。一つだけ残った洗い場を確保して、露天風呂に入る。

                好い湯加減である。

 植栽の木々の枝に、雀が数羽止まっている。吹き込む風は冬の風であるが、温泉の効用を覚えた野猿の湯も、あると云う。羽根・羽毛が濡れてしまえば、溺死の憂き目に遭う雀達であろうが・・・ スズメと人間の歴史は、太古の昔より『ご近所付き合い』であるらしい。激冬・酷寒に在っては、仕切りの高塀に囲まれ、絶えず湯気を湛える此の場所は、雀達にとって人間同様の身も暖まる憩いの場なのであろう。『人間の居る所、雀有り。雀居る所、人間有り』で、雀の分布は、人間に付いて回るのだそうな。これまた、生活の知恵である。
 
    泡風呂・打たせ湯・沈み風呂・蒸し風呂と一通り入って、大広間に上る。

 長湯が過ぎたのであろうか、汗が次から次と滴り落ちる。南向きの席から、廊下側の席に退散する。この何日か続いている冷え込みに、暖房温度が高く設定されている様子である。シャツを脱ぎTシャツ一枚で、柿ピーとゆで卵をツマミに、ウィスキーを飲む。テープを2本聴き終える頃には、すっかり好い気分に為ってしまった。カップラーメンを啜った後は、もう一杯ウィスキーを含んで、座布団を並べて、『極楽浄土』の目を閉じる。

         無粋なる意識の近付きを、寝帰りを打って追い払う。

   ボソボソ声に、片目を開ければ、
            大広間の掛け時計の針は、2時を3/4周回って御座る。

        さてさて、起きると致しまするかな・・・である。
 
 NHKスペシャル番組に依ると、男と女の頭脳中枢では、働き・作用に明かなる性別差があるとの事である。『男の興味事に、女の興味薄。女の興味事に、男の興味薄。』は、厳然たる事実の様である。婆桜に完全に包囲されては、多勢に無勢である。男の主張を試みた処で、無効果と云うものである。どっちつかずのロートル男は、ただ静かに退散するのが、肝要である。

            暖の館 後にすれば 
          外は 相変わらずの寒気なり

          湯の温もり背中に 背負って
       傾いた夕日 追い掛けて ペダル漕ぐなり

     毛糸の隙間抜けて 刺すは 真冬日の冷たさよ

                           アガタ・リヨウ純情詩集 1/16/09


心何処ーショート 罪滅ぼしの呆け二席
               罪滅ぼしの呆け二席(1/15/09)
 毎日、詰まらぬロートル日記に付き合って下さる皆様に、申し訳の無い気持ちに捕まる事が有ります。本日は、嘗ての成人の日でありました。机の中にある未公開ストックから、見繕って掲載致します。お互い姿形の見えぬ者同士・・・暫しのお付き合いの程を。
 大学休学中の貴方も、呆け話でお笑い下さい。イラスト修行中の貴方は、是非ともイメージを広げて、イラストの一助とされたし。紳士淑女の諸侯・ご家庭円満なるご家族様に於かれましては、記載内容は、世の末端の一風景とお蔑み下されば、本望で御座ります。 
 ゆめ夢、付き合いでネオンの巷で、お過ごしに為るご亭主殿の姿に投影為さらずに、お願い申し上げまする。尚、受験生の皆さんは、お控下さい。時間の無駄で有りまする。

         では、何方様も心構えも整ったご様子・・・ 開演致しまする。
      

                 一席・セイテンノ ヘキレキ
                            
 久し振りに現場に出た。大型の台風が時速16Kmで、日本を目指していると云う。猛暑から一転して涼しくなってしまった。昨夜から雨が降ったり止んだりしている。合羽を着たり脱いだりの作業は、面倒この上ない所作である。機械堀が困難である。大半を手掘りで行くより仕方が無い様である。手掘りは重労働である。5:30からの断水である。手足の自由を欠く合羽は昼に脱いだ儘である。肉体労働は発汗労働であるから、Tシャツ姿のずぶ濡れ泥だらけ作業である。携帯電話は車に置き離し状態である。応援が駆けつけ、一服つける。お盆が過ぎると日は短くなるものである。
 
 何時も思う事であるが、日の長さと気温の誤差の大きさに大気の断熱効果の偉大さを、思い知らされるのである。小学生の頃、Kという検事の息子がクラスに転校して来た。変わった奴であったが、私とはいやに気が合った。見るからに都会育ちのお坊ちゃん風の奴であった。日の長さと気温の誤差の原因が大気にある事を、教えてくれたのがKであった。都会の学校はマセているなと感じたものである。2年程で彼は再び転校して行ったが、記憶に残る奴であった。大気、空気の比熱が脳裏に浮かぶ時は、何時も奴のお坊ちゃん顔がセットで出て来るのである。父親の職業柄、エリートの渡りを強いられていたであろうKの寂しさが、私には十分過ぎる程解っていた。
 そうであるから、セットで出てくるKに向かって私は「おぅ、Kか、元気でやってるか? 生意気言って、嫌われるんじぁ無いぞ。天上天下唯我独尊はいかんぞ。挫折を味わったか? 」等と、彼に声を掛ける事にしている。
 
 9時に会社に戻った。携帯電話には『着信あり』の表示があったが、9時では仕事にならないから放って置いた。翌日は事務所に居たので、一件打ち合わせを済ませて『着信』相手を出すと、『 N 』の表示が出るでは無いか。嬉しい様な、狐に鼻を摘まれた様な感じである。

 着信時刻は19:48とある。彼女らしい時刻である。難関を突破して三度目の出稼ぎが叶ったのであろう。彼女の起きる時刻を見計らって、電話をする。「現在、使われておりません。」のボイスである。『????』再度コールして見るが、同じである。『 N 』と表示されている以上、N なのであろう。そうすると、前の番号なのであろうか? 
 二度目の時は違った携帯番号を使用していたので、私のプレゼントした番号は『削除』してしまっていたのである。機械いじりは大の苦手であるから、インプットも削除も会社の若い者任せである。私事に関しては、『整理整頓』が出来ない性質である。私は物臭な性質であるから、電話帳なるものは持った例が無いのである。必要な番号は、語呂合わせで記憶に頼っていたのである。無駄な足掻きと知りつつ、精神を統一してテレホンナンバーを呼び寄せようとしたが無駄骨であった。携帯電話の『誤作動』なのであろうか? 最後の足掻きで『着信 N 』に従ってコールすると、プレゼントした携帯番号らしきナンバーが液晶画面を走るのである。繋がっている。『只今、電話には出る事が出来ません。』のボイスである。何度か試すが、結果は同じであった。

 ・・・28816・・・とこじ付け易い数字の並びである。8が二つであるから16である。2(8+8=16)・・・28816 如何にも私が、記憶する手法である。
 
 203高地の Y からは、代書による日本語の返事と写真が一枚届いていた。女房から手紙が来ていると電話があった。会社の帰りに女房の処に寄る。渡された手紙を見ると、どうも開封された様子である。女房が何も言わない以上、私が何か言えば返って『薮蛇』と云うものであろう。そ知らぬ顔で手紙を受け取り、上がらずに帰る。車のルームライトで、文面を速読して胸を撫で下ろす。彼女は膝の怪我で、大分手術入院をしていたらしい。電話で二回目の手紙をその日のうちに書く約束をした。日本・ウラジオストック間の手紙の所要日数は10日を要す。写真が彼女からすると、彼女自身、余り納得の行かない写りであるから、もう一枚同封すると言う。私は飾らない、彼女らしい良い写真だと満足しているのだが・・・ 美形の写真は何枚あっても、困らないから有難く頂戴する事にする。
 
 Y の手紙の一文に、もっと英語を話せる様にとあった。二人の会話は少しの英語とジェスチャーだけで、不十分であった由である。金髪美形の女性にそう書かれたのでは、日本男児の一員として此処は一つ大いに奮起して、立派な便りを認めなければならない責任があろうと云うものである。私は普段の私の文章その儘の文体で一枚書き、今度は和英辞典を必死で捲って拙い英文で、それを二枚に亘って『英訳』したのである。休日の半日を注ぎ込んだ『労作』は、疲労困憊の作業の為せる業であった。自分の書いた文章を自分で『英訳』する試みは、意外と乙なものである。
 私は白人女性が好みである。長寿国日本の男子平均余命はさて置き、性(精)命、幾許も無い身であろう我がchinseiである。白人女性とお近づきになるには、先ずコミュニケーションである。それには、共通語は確率から云ってイングリッシュである。手始めに此処は、Y との文通で英語に慣れようと考えていたのである。

 そんな矢先の『嬉しい珍事』なのであった。『着信 N 』は、多分 N であろう。N であるから、液晶画面に浮かぶ私の携帯番号と名前を目にして、彼女は立派なライオンの鼻を、高々と持ち上げて得心しているのであろう。プライドの強い生意気女である。彼女としてみれば、私のプレゼントしたカード電話で『謎掛け』を仕組み相手が一日遅れて、電話を掛けて来たのである。自分に対する相手の気持ちが明確になった以上、少しばかり焦らせて、次を待てば良いのである。私と彼女の間には、『ウクライナ・トライアングル』で学習したお互いの手の内が読めるのである。電話に出ない処から察すると、彼女は松本には居ないのであろう。推理を働かして行くと、私は生意気なライオン娘の『立派な鼻を立てて、1日二回のコール』が必要なのであろう。

「もしもし」
「モシモシ 私分かりますか? 」
「うん、分るよ。N だろう。」
「おぅ、ありがとね。覚えていてくれて、元気? R さん。」
「 うん、元気だよ。今、何処で働いているよ? 」
「今、伊豆、鎌倉にいる。松本、遠いですネェー。」

 N も Y もそうであるが、白人女性の日本語はハスキーボイスである。電話の声だけで、彼女達の年齢を想像してしまうと、完全な中年女性のものである。しわがれた魔法使いの様な声色なのである。彼女達からすると、日本語の発音がそうならざるを得ないのか、彼女達の鼻と咽喉の造りから低音ハスキーボイスにならざるを得ないのか、門外漢の私には分からないが・・・・、

「そうだなぁ、ちょっと遠いかな。N は売れっ子だから、もう松本には来ないだろう。松本に来る時は電話くれよ。付き合うよ。」
「うん、松本に行く機会があったら、電話します。」
「うん、有難う。処で N は幾つになった? 」
「バッカねぇ―、私22でしょ。会った時はハタチだったでしょう! もう2年でしょう。J の店行ってる? 」
「去年の9月、N が来た時以来行ってないよ。好きな女が居ない処に行っても、しょうがないだろ? 今度もA と一緒? 」
「どうしてA よ。関係無いでしょ! A ロシアにいる。R さん元気そうね。変わらないですネェー。」
「N も相変わらずだなぁ。フフフ、余り日本の男を騙すなよ。」
「なぁーによ、それ! あなたパロパロでしょ。一番のスケベでしょ。ヘヘ 私みんーな知ってる。へへへ、」
「そうか、フン、でもしょうが無いもんな。本当だからな。処でN は、まだ『良い女』かい? 」
「モチロン、そうです。安心して下さい。また、会いたいですね。R さん。」
 
    声に慣れてくると、N の素顔が胸一杯に広がって来る。
           懐かしいライオン娘の陽気で、生意気な声が続く・・・

 J の店から後輩のK ・ママ・バーテンのY の面々が去り、残っているのはチィママだけである。N、A  の帰った店には興味が失せて、私の足は当然の如く遠のいて行った。去年迄はJ の店の近くに韓国のS がチィママをしていたN の店があった。S との関係は俗に云う腐れ縁の様な関係で、切れたりくっ付いたりしていた。お互い気に入って『逆上せ上がった』男と女である。思惑が違ったからと云って、キレイさっぱりと関係を無に帰する程ドライに徹し切れぬのが、男と女の感情の綾なのであろう。S とケンカした帰りに、J の店に顔を出した位のものであった。そのS も母親の病気で国に帰ってしまった以上、私の足は全く夜の街から遠のいてしまっている。習慣と云うものは面白いもので、飲みに行かない、彼女が居ないのが日常になってしまうのである。

 N からすれば、当時二十歳のウクライナ娘が家族のために意を決して、遥々日本に出稼ぎに来たのである。ホステスの道に足を踏み込んで、6ヶ月を暮らしたのが松本の地であったのである。日本語も分からず、夜の日本男の実態も分からずホステス業を稼ぎの対象として、無我夢中で日を送った筈である。そんな時期の彼女の客の一人に私がいたのである。私として観れば、生まれて初めて親しくなった西洋女性がN であった。私の中でN のライオン娘振りは、実に強烈な印象と輝き振りを残しているのである。それに加えてA の存在が、私とN の関係では切っても切り離せない『彩り』を加えてくれているのである。N はこれからも、何時でも引き出し可能な私の脳裏と云う小宇宙に在って、強い個性的な輝きを放ちながら流離い続ける事であろう。 
 
 彼女の微笑を湛えた澄まし顔は、気品に溢れ映画で観る西洋貴族の令嬢を、目の当たりに見る感動すら覚えるのである。微笑を持つ彼女は、実に侵し難い美貌を誇っていた。嘗て映画が美男美女の正義・忠誠・至上の愛の発信基地の役割を、演じていた時代のスターの美貌を持ち合わせている。
 勿論、『美』に対する人間の尺度は、『個人の好み』が幅を利かせる領域であるから、私の『主観』が多数の支持を得るとは思わないが、・・・・  然し天は大にして、人間に二物を与えないものの様である。短気・直感で物事を捉える彼女の性格・性向は、一度思い込んで感情に火が付くと、全く手に負えない『肉食動物ライオン娘』に変貌してしまうのである。肉食・ウォッカ・レディファーストの小娘に対して、草食・ノンアルコール・夫唱婦随の団塊の世代の私は、その落差につい『本気』を出してしまうのであった。Nは、喜怒哀楽をはっきりさせ過ぎる欠点はあるものの、順を追って話せば分かる頭の聡明さと感情の抑制の術を持っていた。頭の回転の速さは、私達の会話にテンポを作ってくれたものである。年が30も違うのに、生意気なN は、臆する事を知らず『我』を通すのである。

「あなた、それ違いますねぇー。ワタシ ロシア。あなたN 好きでしょう。N ロシアでしょ。これロシアンスタイルでしょう。どうして分からない! なぁーによ、それ。違うでしょ。どうして、あなた怒る、恐い顔する? 私たち 好みのタイプでしょ。ワタシ良い女でしょ。頭良い・話おもしろい、顔良い・一番キレイでしょう、心いい・素直・ウソ言わないでしょう。これ三拍子でしょう。あなた、ワタシに教えてくれたでしょ。どうして、ワタシをヒテイする。ゼェーンゼン、ワカリマセーン。日本語、日本人難しいですネェー。ワタシ、ここビンカン、日本人の考えること、大体すぐ分かる。でも、あなたの頭の中、クレイジィ・難しいですねぇ~。へへへ、そうワタシ、スゴーク、生意気。でもショーガナイですねぇ~。私たち好みのタイプ。あなたパロパロ、ワタシ真面目。火と油。水と油と違いますねぇ~。 」

 機関銃と日本刀の違いである。お互いケンカには成らず、笑ってお終いの爆笑談の山が積まれたものである。                                                                                    

 或る時、寝付かれずに見るとは無しに、テレビのチャンネルを押していると、ゲーリー・クーパーとオードリー・ヘップバーンの『昼下りの情事』が放映されていた。興業を当て込んだ、ハリウッド映画お得意の大物俳優が演ずるラブ・コメディ映画である。私はこの手の映画は好きでは無かったから、題名は知ってはいたが見る気が無かった。クーパーとオードリーの余りの年の違いに、最初はウンザリであった。寝る迄の時間潰しの積もりでお付き合いをしていた。ストーリー展開を見れば見る程に退屈で、年の違いを我が身に置き換えて、『穴があったら、隠れたい』心境を抑え乍ら、漠然と見ていたのである。

 その当時クーパーは頭髪が大分薄くなっていて、カメラアングルに依っては『老醜』を曝している様なものであった。一方売り出し中のオードリーは、存在そのものが瑞々しい無垢に輝く絶頂期にあった作品である。往年の大スターと世紀の妖精スターの夢の様なラブ・コメディとして話題をさらった映画であった。1時間見ても、私にはこの作品の良さが伝わって来なかったのである。画面に付き合えば付き合う程に、私には隠したくても頭部には髪が無いのである。不貞寝をするには、些か頭が冴えて来てしまっていた。『年甲斐も無く、バカな事をしている自分』を直視せよとのご先祖様の無碍に出来ないお達しと考えて、見続ける事にした。
 然し、さすがに NHKの教育テレビで放映するだけの事はあったのである。ドラマが佳境に入ると、人間 『年・姿・容』だけでは無いのである。『通い合う心・気持ち』が事を決めるのである。私は単細胞人間の典型である。ニヤニヤ頷き乍ら、クーパーとオードリーの『昼下りの情事』に最後迄付き合ってしまったのである。そして、何の事は無い。感動の涙さえ溜めて、画面に拍手まで送っているのであった。

 唐変木の私にとって、女は実に掴み処の無い存在である。漱石が何かの本でテーマとして書いていたが、『則天去私』なる言葉が、ふと頭に浮かんだ。男の私には女の『則天去私』は皆目見当が付かない。現在の心境に倣って『    』内の文字に振り仮名を付けよ。等と試験に出され様ものなら、『女の気紛れ』としか入れ様が無い処である。然し乍ら、手に負えないライオン娘ではあるが、美女が私を忘れずに嘗てのプレゼントした携帯電話でTELをしてくれたのである。実に、心ウキウキ 有難い事である。
         
             唯唯、天に厚く感謝するのみである。 

 お盆の休みが過ぎた、最初の日曜日である。名残の夏が、セミを鳴かせている。形の呆けた入道雲に吹き抜ける風は、目に秋を感じさせている。目覚めて習慣になっているテレビの政治番組を布団の中で聴いた後、寝直して起きた午後である。パソコンを開いて『宿題』を打ち始めるが、打ち直し作業は一向に気乗りせず、遅々として先に進まないのであった。『本日は日曜日、休息日である。明日が有るさ・・』意志薄弱者の常である『安易な理屈』に、私はすぐさま迎合して、パソコンの画面を切り替えた次第である。
 四畳半の机の上にウィスキーの水割りを作り、パンツ一つの身でトム・ジョーンズのCDを聴いている。水割りは二杯目に成りCDは、プレスリーに替わり灰皿のタバコの山からは、青い煙がユラユラと立ち昇っている。机上の水槽のグッピーが彩り鮮やかな尾を振るわせ乍ら、珊瑚に付いた藻を啄ばんでいる。昼酒の酔いに身を任せ、窓から見える入道雲の移ろいに、そして、楓のしなやかな枝先を時折揺るがせる風を目で追う。CDはスクリーン・ミュージックに替えている。物憂げなマリリン・モンローの『帰らざる河』が流れている。頭は何も働かないでいる。酩酊と弛緩した目の動きが、時をただ刻んで行く。
    
・・・何もしない・・・一人の私らしい時間が、黙って時計の針を進めて行く・・     

 パソコンを思案の末購入する事にした。買っては見たものの、完全なる消化不足・否、完全なる未消化状態である。ワープロとキー操作は大差ないと甘く考えていたのが、大きな間違いであった。目下、悪戦苦闘中である。
 息子・娘の世話になるが、当方訳が判らない故を以って、質問すら出来ないのである。質問が出来ない以上、教える方も答えようが無いのである。ガイドブックを購入して、眺めてみるが、未知の言葉の連続である。まるで霊峰富士の裾野に拡がる青木ケ原樹海である。押すキーの回数に2乗・3乗比例して魔界に嵌まり込んで、一条の明かりさえ見えて来ない状況である。
 業務なら、早々に若い者にバトンタッチをして、逃げ出す処であるが、ライフワークの一環として大枚を叩いて、購入した代物である。おいそれとギブアップする訳には行かない『重い個人的事情』があるのである。覚えるより慣れろが、この手の物の常道・王道らしい。か弱き匹夫の凡人には不得手を克服する手立ては、タダタダ忍耐の途しか無いらしい。私がもう20も若かったなら、とっくに得意の短腹を起こしていただろう。亀の甲より年の功である。諦めて眠い目を擦りながら、パソコンに内蔵されている「ぱそガイド」の練習マニュアルを実行している処である。目下、手探りのトンネル状態から,漸く脱出しつつある。何週間振りかで、文章を打ち始めている。

 9月も明日で終わりである。秋雨が秋の夜長を静かに運んでいる。二日続けて飲んでしまった。起きて洗濯を済ませ、久し振りに釣りでもしようかと思ったが・・・・・・・・パソコンに向かう。薄日が差したのも束の間、雨がぽつりぽつり落ちて来た。出掛けずに良かったのかも知れない・・・・・・・・・・・・。               

    操作ミスで消してしまった文章を、書き直すのが当面の宿題である。

調べ物があって、朝から図書館に行く。図書館は社会人になってからは、数度足を運んだだけであった。街の本屋で参考資料となる書物を漁っては見たものの、適当な本は見当たらなかった。ふと思い出したのが図書館であった。高校時代は進学校であったから、校風に倣って図書館を良く利用したものである。私が図書館を利用したのは、決して向学心に燃えてばかりいた訳では無かった。図書館には他校の女子高生が来ていたからである。その中の一人に仄かな恋心を抱きながら、勉強をする振りをしていたのである。図書館で勉強する美形には、侵し難い緊張感と云う一種のバリアが張り巡らされているものである。私の通っていた高校は校是に『質実・剛健・大道を闊歩せよ。』を黒々と墨書する伝統の男子校であった。

 人生で中学・高校時代ほど、多感な年代は無いであろう。誰が『最大の異性に対する興味』を捨てて迄、勉強するものかである。目前の異性に対する好奇心・恋心は、抑制される分、想像に拍車を駆けるものである。その当時流行った劇画の台詞の中に、『恋の本意は、偲ぶ恋と見立て候、・・・』と云う行を見つけ、独り大いに得心したものである。
 余談はさて置き、さすがに出版大国日本である。図書館は実に宝の山である。参考資料となりそうな書物を5、6冊抱え込んで机に重ね目次を漁る。万年筆で抜書きをして、長い所はコピーをする。暗くなる迄、図書館で過ごしてしまった。肉体労働の合間を縫って、集めた資料を『起承転結・メリハリ』を付けて、コンパクトに完成させねばならない。

        益々、夜の街からは、縁遠くなりにけりの様相大である。
 
 これも内向的、自問自答型の性向であろうか・・・・・・・・・、自分自身、意識する訳では無いが、自分が手を下したものに疑問詞・未整理部分があると、それらに対する落ち着かなさ・空白部分への苛立ちが生じてしまうのである。そして、その引っ掛かりが、頭の別系統の小部屋で『??』を探して、内職仕事をしているのだろう。疑問と疑問を繋ぐヒントの断片らしき物が、頭の中を勝手にチョロチョロ蠢(うごめ)いている。バラバラな蠕動の筋が、その内に未だ形を形成していないのだが、周辺の蠕動運動の蓄積に依って、モヤモヤした殻を打ち破ろうとして来るのである。モヤモヤした感覚が、頭の薄皮の一枚下で凝縮・離散を繰り返えし始める。タイミングが合えば、そのモヤモヤは、打ち上げ花火の如き『爽快感』を思案者に、もたらすのである。

 私は物臭な思案者であるから、余り深刻な捉え方・のめり込み方は出来ない性質である。脳細胞と云うものは基礎知識・周辺知識・情報を与えてやれば、それは頭の中の『自律神経ならぬ自律思考』が自然と働く仕組みになっている様なのである。人間、思考・思索に真面目に、且つ深刻に付き合ってばかり居たのでは、この世に精神病院は幾つ有っても足りないのである。どう考えても、そう云う計算になる。
 
 この様な自己観察理由から、天から才能を賦与されなかった凡人が、健康な精神で居られる仕組みが、人間には『自律思考機能』として備わっているのであろう。私はもうこれ以上、毛髪を失いたくは無いし、精神病院に拘束されたくは無いから、そう考えているのである。
そう考えると、不思議と『調べる・考える・形にすると云う苦役』は、閉塞感を伴った苦役には感じられないのである。普段、怠惰・物臭を決め込んでいる私に、考え・考えるべき時が巡って来たのであるから、事の流れに従順に応えるのが浮世の義理と云うものである。従って、文句の財布の紐を閉じて、考えなければならないのであろう。   

 考える以上は、単なる意見を発する類のものでは無い筈である。考えを纏め、一つの結論を導き出す為には、自分に知識が無ければ、その知識を補填する過程を要するまでの事である。必要な過程は努力とは表現せず、唯必然の過程である。それだけである。知識・情報は思考の方向性と階段の石積みの様な物である。人間、四六時中、思索・思考の囚われ人である訳では無いのである。人間生きている以上、それは年に何回かの必然的遭遇事であろう。幸か不幸かは別にして遭遇してしまった以上、素直に、真面目に『宿題』を解く作業をこなすのも、人生の一ページであろう。

 Nから写真が届いた。透けるように美しかったが、どれも疲れた・寂しい顔をしていた。サンキュウの電話をした後、平仮名・カタカナなら大丈夫と言う彼女に、カナを振った手紙を送った。


                  二席・バカヤロ

     風呂も入ったし、洗濯も脱水が終わるのを待つばかりである。
 食事は如何しようか? 途中で食べて行こうか、それとも、家で食べようか、・・・・・・・

 タバコの煙を肺にスゥーと一息入れ、事務所の掛け時計を見る。今日は水曜日、テレビを観る日である。NHK総合『その時、歴史は動いた。』の放送は、9:15からである。確か「項羽と劉邦」の筈である。未だ、1時間強の時間がある。例年より5日早い初冠雪を受けて、外気はすっかり寒くなった。一人身の寒さは、身に堪える。蒲団の中で観ることにしよう。終われば10時である。今夜は、四畳半に入らずに置こう。55歳の身体は、休日返上の肉体労働で、相当に参っている。何もせずに、睡眠を取る必要がある。・・・・・・・・・さてさて・・、家に帰るとするか。

    机の上の携帯電話が、鳴った。誰だろう? チョン切電話だろう・・・
               電話は、尚も鳴っている

「もしもし」
「バカヤロウ、」
「何、??? 」 <間違え電話かな? それにしても、開口一番、バカヤロウは、大した物である。>
「オボエテル? ゲンキ?」
「うん~?? おぅ?おぅ!」       

            <ロシア人だな、Nの声だが、Mかなぁ?> 

 先ず脳裏に浮かんだのは、Nの生意気顔であった。然し、私に発しられた『バカヤロウ』の言葉には、大変な親しみが込められて、使われている様である。耳に達する声は、紛れも無くNの声音である。Nと私の間には、『バカヤロウ』が挨拶代わりとなる言葉の遣り取りは、無かった筈である。
 『バカヤロウ』は、「チクショウ、チクショウ、バカヤロウ」に登場する言葉であり、私とMとの間の親しい投げ言葉であった。私とMとの間にだけ通じる「アイ・ラブ・ユー」「可愛いヤツ」に相当する言葉であった。論理的に推察すれば、声の主はMに違いない。声音だけでは、判定は着かなかった。

             早とちりは、私の悪い癖の一つである。
 急いては、事を仕損じるの譬(たと)えもある。Nにしろ、Mにしろ美形のロシア女性からの電話である。後の後悔、先に立たずである。All or Nothing は、『愚の骨頂』 避けねばならない。此処は一息入れて、名前抜きで行くべきである。

「おぅ、久し振り元気か? 今、何処よ。日本か?」
「イマ、ロシア、ニホンニユク。マタスグ、ロシア、カエル。」
「そうかチクショウ、電話したのに居なかったじぁないか!嘘つきめ。バカヤロウ、どうする結婚は?」
「バカヤロ、オボエテル。」
「今、フィリピンで仕事が動き始めている。俺と一緒にフィリピンに行くか?」
「モチロン、ソレモ、オボエテイル。フィリピンデ、ワタシ、ナニシマスカ?」
「勿論、結婚して、SEX・sexだろ。」
「アイカワラズ、アナタ、イチバン、スケベ!コンド <プツン>・・・・・・・・・・・・・」

 短い電話ではあったが、5ヶ月振りに聞くMの嬉しい声の便りであった。白人美形の記憶に、私の断片が漂っていると考えると、年甲斐も無く、心が弾むものである。

 家に帰って本棚のMの写真を、机の上に置く。エンジのセーターの首から吊り下げた携帯電話を臍の位置にして、にこやかに笑う金髪・エメラルドグリーンの瞳・紅の無い薄い上品な唇・こぼれる白い歯並び・・・。赤地に白抜きの観音菩薩の幟をバックに、お寺の参道の手摺にポーズを構え顎を引き、笑窪で悪戯ぽい瞳を輝かせているM・・・・・。洗い髪の細い髪の頭部に、サングラスをちょこんと乗せて、黒いTシャツのふくよかな乳房を、アイボリーのジャンパーに包み、木製の肘掛け椅子に腕を置き、斜に構えて形の良い鼻筋と青い瞳で微笑むM・・・・。

 私はクリスタルの錐子硝子のウイスキーグラスに、ウィスキーを並々と注ぎ、彼女にグラスを捧げた。
     『アイ・ウォンチュー。アイ、ニィージュー。ハッチュウ、チュビァ。』


心何処ーショート ナンマイダブツ、ナンマイダブツ。
             ナンマイダブツ、ナンマイダブツ(1/14)
 久し振りに、深々と冷え込む夜である。ファンヒーターを入れたり切ったりで、ラジオ深夜便を流している。昨夜の熟睡が利いている様で、眠くは為らない。ポットの白湯を飲みながら、スタンドに照らされたグッピィの緩やかな泳ぎを見ている。眠くなるまでの時間を、煙草を吸いながら、トーンの低いラジオの声を聞く。

 一生で、こんなに母と過ごす時間は無かったであろう。母と毎日、一日を過ごし始めて、二年目である。可哀想に、好色馬鹿息子とのお付き合いで、品の良かった母も、私の下ネタ・ズケズケ話に、すっかり洗脳されてしまった様である。

 この頃では、全く以って、失礼の段で、テレビに女性が登場すると、やれ、<お前の好みの女性だ>とか、ほら、<白人の綺麗な人>だとか、即座に見繕って下さる。加えて、<この女性(ひと)は、如何思うか?> のニコニコ顔である。実に、92歳の母の存在は、可愛いの一語に尽きる。
 年期浅く、真摯なる親孝行の修行中の私は、ついつい、本音を曝け出して、『透視』の眼力を駆使して、母子漫才を拡げてしまう。

CM美形女性が、美容体操の後座位の片足を、大きく上げたポーズを見れば、
 『美人お姉さん、その儘フリーズ!! ヒップに鼻翳して、深呼吸したいヨォ~』
                 「馬鹿モノ!!」

 母の中では、手塩に掛けて育てた筈の倅が、社会から解放されて手許に帰って来たのは有難いが、蓋を開けて中身を吟味すれば、何の事は無い。
 発見したのは、ロートル倅の頭の中は、茫洋と広がる好色一辺倒の<のったり、ひねもす>大海原である。身を以って教えた筈の、凛たる大正女の気概の一欠片すら、見出せないのである。
 落胆の眼を閉じれば、昨夜は、NHK歌謡ホールでの森進一氏の国民的名曲『おふくろさん』が、切々と熱唱されていたのである。馬鹿倅も、氏とは然程歳の違わぬ男である。母の内心や、鬱々たる想いが去来している筈である。教育のし甲斐の無い倅として、ノーテンキ・好色・欠品倅を、この世にポイとばかりに放逐して、老いさばらえた我が身一人が、オヤジの許へ旅立つ訳には行かぬとばかりに、大いなる溜息を疲(付か)れているのであろう。〈嗚呼、お父さん、申し訳有りません。私は、如何やら、四男坊の教育に失敗してしまいました。許して下さいね。ナンマイダブツ、ナンマイダブツ。〉

  ・・・・嘆かわしさや、親の心、子知らずの典型である・・・遺憾いかん。


心何処ーショート ロートル、纏めのひと時
              ロートル、纏めのひと時(1/13/09)
 ああ、久し振りに疲れて、良く眠れた。冷え込みのキツイ寝床で、二服煙草の御厄介になる。大分寒いが、太陽に勝るもの無しであるから、鳥籠の移動をして遣る。一日のご無沙汰であった。
水温と水中のバクテリアの関係が、上手く行っているのであろう。グッピィ水槽の透明感は、金魚槽の数倍の透明度がある。陽射しを浴びて、親鳥のオスはブンチャカ・ピーピーと囀り回り、メスの呼応して低くした背中に、ヒョイと飛び乗り、チィーチィーと交尾を繰り返す。子供の番いも、オスは囀り、メスは巣箱を忙しげに行き来している。
 
 ラジオからは、冬を忘れた温暖化の作用で、九州では日本の春の象徴・桜花爛漫の風情に赤信号が点っているとの事である。『らしく』が発現されるには、避けて通れない要素が必要らしい。当たり前の事は、普段は頭・感覚の底の底、隅の隅に、投げ捨てられているものである。異変に気付いた時は、症状が進行してしまっているのが、無為ペンペン、今日を生きる暗愚の常なのであろう。お天道様、日頃の無関心・無頓着をお許し下され・・・

 以下は、昨日のドーム船での女性観察からのレポート、並びに私の日頃の女性臀部考と日曜日夜・NHKスペシャルのウエスト:ヒップ比・70:100の他愛無い感想である。仕入れたばかりの雑学の先入観の一つである。
 
             好グループ・仲を取り持つ紅一点
静岡G(グループ)の紅一点の女性は、大柄にしてふくよかなる臀部の持ち主であった。年齢から言って、Gのアイドルの様では無いが、男性陣に対する気配りが行き届いて、感心するばかりの30代女性であった。話題の提供振りも、回転の速さとユーモアに富んでいた。何しろ、顔付きと身体付きに現れた<なだらか柔らかな曲線>が、宜しい限りなのであった。孤独・女日照りの続くロートルにも、お気遣いのお言葉を振って頂き、最敬礼の段で有った。
何しろ、自然体、段取りの良い女性である。ストーブに鍋を乗せ、缶コーヒー・ワンカップ酒を熱燗。ツマミ、カップラーメンをメンバーに配り、ゴミの収集への目配りも、アハハハの内に難無くこなしてしまう。スペシャルの米国の研究説に依ると、外向き・狩りを受け持つ男の遺伝子には、立派な子孫を残す為に、外界に忙しい男の眼は、瞬間の目視を鍛えて来たとの事である。女体の一点に注がれ70:100を選び出し、本懐を遂げると云う事らしい。さながらに、このGは、男4に対して、女1の狭き門?乃至共通の御本尊様なのかも知れぬ。一観客と云えども、心温まる男女の集いであった。

           もう一方のストーブの、横の若い熱々カップル。
 これ又、背の高い脚の長い女性である。太腿からヒップに至る一帯は、硬さが残る物の、肉感に満ちた立派な下半身である。上体は残念ながら、フワフワのジャンパーに隠れている。驚くほどの長い睫毛が、近めの素顔を隠している。彼女は、携帯電話の画面にご執心の様である。釣れぬ亭主?恋人?に、不満顔をしない処を以って、その仲を佳しとすべき処であった。米学者の脳の仕組みからの『確言』に依ると、恋愛ホルモンの活性期は18ヵ月~3年との事であった。

                    熟年ご夫婦
 酸いも辛いも、積み重ねた熟年男女は、雰囲気も共通である。物静かな亭主殿は、ボヤキも単発にして、カップ酒を飲んで竿先のピクリの魚信を待っておられる。女房殿は、嫌な顔もせずに亭主の横で、目の散策を為されている。寒くなれば、立ち上がって足踏みをして体を動かして御座る。冬の信州を焼き付けると、降り頻る雪のデッキを楽しんで居られる模様。

 さてさて、風呂も沸いた様である。入浴に洗濯でも、致しまする。」

心何処ーショート 嗚呼、落第の巻
                 嗚呼、落第の巻(1/12)
 いやはや、タイテノコラサのトンデモナイ一日と為ってしまった。只今、満を持しての諏訪湖ドーム船・ワカサギ釣りから帰って来た処である。睡眠時間は、夢うつつの小タイムで起床。満月に近いお月さんは、雪を予測させる朧月夜である。高速道で山越えをすると、雪が舞って来た。山を越した諏訪は、雪が散散(サンザン)と降っている。雪凪の諏訪湖を渡り船で向かう。釣舟屋の主人は、『釣り日和』と抜かしたモンだわさ。馴染みのオヤジであるから、信じ込んでしまう性質の私は、T・M氏に内緒で来た事を、些か後ろめたく思ったモンだわさ。取らぬ狸の皮算用を胸に、背を丸くして、ドーム船を目指した第一陣である。

 老眼鏡を忘れて、コンビニに数件寄ったのであるが、空振りに終わった。大量ポイントは、座られてしまったが、私の場所も好い場所である。結構な人数である。餌附けに手間取っている内にも、『釣れた釣れた』の声が起こっている。焦る気持ちを、「俺の腕前は一流、そこんじょそこらの観光釣り客とは、年季が違う。急がば回れの喩もあらぁな。」と、儘為らぬ老眼の目を細めて、<紅サシ>をもどかしげに5本の針に掛けて、暗い穴に落とし込む。何時もと様子が違って、当たりが来ない。小さな当たりに合わせると、グッピィの親戚の様な頼りの無い奴が上がって来た。1匹・2匹と釣れた後が、続かない。

          おいおい、そうじゃあるまい。冗談だろ。
 それから、見事なまでの無視の時間が、延々と続くのであった。辛うじて釣れるのは静岡から遣って来た男4女1の陣取るスポットだけである。釣果ポイントの私の横は、甲府からの男3女1の常連中年グループであるが、音無しの構えである。そして、私の前は、名古屋からの若者男3のグループである。後は若い男女の二人組が散らばり、熟年夫婦・親子連れなどが、ドームを八割がた埋めているのである。商売繁盛と云った処である。痺れを切らして、ドームのデッキで長竿をする猛者まで現れてしまった。トイレの折りに彼等を見ると、灰色の雪の降り頻る湖上のデッキ釣りは、まるで南極の越冬隊員の様である。

       おお、寒い。嫌じゃありませんか、釣り好きの根性たるや。

 嗚呼、釣れぬ釣りほど、退屈な物は無い。ドーム釣り客は、周遊魚ワカサギの習性を信じて、待つしか無い穴釣りなのである。加えて、雪に包まれたドームは、不貞寝も叶わぬ寒さである。両端のストーブには、女性群が陣取って居られる。鬼門である。

           嗚呼、今畜生め、4000円返せ。高速代返せ。
のボヤキ、溜息に、同類の苦笑いが伝染するドーム内である。昼に為って、太陽が出た。本来なら当たりの出る時間帯であるが・・・サッパリである。ドーム温度の上昇に、何時しか意識が遠のいた。目を開ければ、同類の姿が彼方此方に散在している始末である。再び日が陰って、寒さに目覚める釣り客である。何時の間にか、諦めの良い客は帰った様で、ドーム内は空き空きしている。様子を見に来た釣り船のオヤジもバツの悪い顔をしている。

      隣の甲府のオヤジと顔を見合せて、打つ手無しの諦めである。

「これ、ボク、それは小父ちゃんが釣った奴だから、持って行っちゃダメだぞ。」
「油断も隙も有りゃしねぇ、釣れねぇモンだから、子供の奴、『川鵜』見てぇな事をしやがる。」
デッキ釣りをしている甲府グループの声に、ドームの一同、大爆笑である。咄嗟の例えであろうが、甲府人とは、洒落た事を言うものである。

 寒気がして来たから、未だタイムリミットまでは40~50分あるが、釣りを止める事にした。釣果3匹では、釣りの大先輩『御三方』に破門されてしまうのは、必至の結末であろう。そっと安芸・紀伊に近い名古屋組の笊に入れて来る。ドームのストーブに当たっていると、当たりが始まった。
仕方が無いから、名古屋組に実地指導を買って出る。せめて信州のワカサギの天ぷらの味を、若い彼等に知って貰う為である。

「引いてる、引いてる。上げろ。リールなんか巻くな。手でグイグイ手繰れ。」
「ハリを外すんじゃなくて、毟り取れ。取ったら、直ぐ仕掛けを下ろす。竿を置いて、竿先のピクピクの動きを見るんだ。合わせの時に、グイと一合わせ。後は、仕掛けが絡まない様に糸を重ねない様に、手繰って床に置く様に、もっと大きく、そうそう・・・お兄さん、引いてるぞ、合わせろ。そっちのお兄さんも、来てるぞ。ヨシ、グイと合わせて、グイグイ手繰れ。釣れてなかったら、直ぐ沈める。そうそう、その調子。ワカサギが集まっている内に、短時間で引き上げて、落とすかで、数が決まって来る。大胆に素早く。リール操作よりも、手繰りの方が早いだろ。当たりが微妙だから、竿先を固定した方が、目視出来る。竿先の糸の一点に、目を集中させりゃ好いんだよ。コツは、その一点だけ。三人で競争しろ。まだまだ、行け。好いぞ好いぞ。筋が好いぞ。ドンドン遣れ。ほら、見ろ。倍以上に釣れてるだろう。馬鹿ワカサギの野郎め、俺が竿を納めた後に回って来やがって、俺はワースト記録作っちゃったよ。今日の俺を称して、松本方言では、『タイテノコラサ』って言うんだぜ。骨折り損の草臥れ儲けって言うのが、標準語らしいけどな。渡し船は、俺達が乗って降ろして、Uターンだから、しぶとく天ぷらの数を稼ぐ事だね。良かったら、又来ましょ。バイバイ。」

 親友のT・M氏を誘わずに、胸を撫で下ろした諏訪湖である。嗚呼、今畜生め、自己責任は、節約有るのみ。恒例のラーメン屋をパスして、帰りは高速代もパスして、東の山麓線で帰るしかあるまい。

心何処ーショート 何か好い事、無いかいなトラ猫殿。
             何か好い事、無いかいなトラ猫殿(1/11)
 予報に違わず、大分冷え込んだ。寝る時は、一枚重ねて着る始末であった。冷気の中に太陽が顔を出す。青味の薄い空に、アルプスは、半分ほどが雲に掛っている。日曜日であるが、高校生が自転車で通る。受験授業があるのだろう。煙草を吸いながら、その頃を振り返ると、とにかく一日が長かった。『四当五落』等と教師に発破を掛けられて、突き進んでいたものである。睡眠時間四時間なら合格、五時間なら落ちるの意味である。睡眠時間の唯一の補給日が、日曜日であった。普段、遊び呆けていたから、追っ付け刃、ラストスパートだけの体力勝負であった。

 その時は、一日が長かった。否、解放されて、眠れる時間が欲しかったのである。現在は、時間に縛られないロートル・物臭日々に、現を抜かしているのであるから、睡眠は何時でも門戸開放の善き友なのである。従って、日は瞬く間に暮れ行くのが、実感なのである。最も、この生き方が性に合っているから、文句もで無い処である。

 日曜日の朝食は、遅い時間にして貰っている。テレビを見ながらの食事である。派遣労働、ワーキング・プア、セーフティーネットの言葉に隠れて、労働分配率、労働再生産、労働対価説、生活給、同一労働同一賃金、運命共同体、企業の社会的意義などと云う言葉が、すっかり廃れてしまっている。政治・経済・社会を語る男達は、時代の最先端を行く政治家・ジャーナリスト達である。世代としては、同世代以上の論客達であるが、労働問題を論じるには、避けて通れない概念の断片である。古い人間としては、寒々とした怖さを感じてしまう。遺憾いかん・・・

 ストーブの上の鉄鍋には、細い小振りのサツマイモが入っている。母ご自慢の焼き芋装置である。鉄鍋で焼かれた芋は、軽トラで売りに来る石焼き芋以上の出来具合に仕上がる。蒸かし芋は、男の口には・・・であるが、焼き芋は女為らずとも美味いものである。食後のデザートに熱々を口に入れていると、玄関で声がする。

   斜向かいさんである。8本の交換である。四畳半で、暫し映画談義を交換する。
『心の旅路』米・1942・監督マービン・ルロイ・主演ロナルド・コールマン、グリア・ガースンが出色であったそうである。私のビデオ・コレクションの中でも、最高級の作品の一つである。
★拙ブログ、カテゴリー欄の映画・ドラマ考の中に、〈あぁ! 美女中の美女 良き時代は遠く為りにけり〉で投稿されているので、興味のあるお方は、お目をお通し下さい。

 子別れした金華鳥の夫婦は、落ち着いた雰囲気で窓辺の定位置にいる。常温水槽の金魚達には、食事制限をしている。定温水槽の水草は、再び小水槽を占拠しようとしている。グッピィ達は、繁殖・成長・死を一定リズムで繰り返している。

 日差しを浴びて、斜向かいさんの洗濯物が、白く輝いて風に揺れている。何の変哲も無い日々が続く。のったりしたトラ猫が、垣根の扉を潜って徘徊している。

 さてさて、散歩のお時間である。斯く云うロートルも、徘徊の足を踏み出すと致しまする。

心何処ーショート ロートルぼやき党
       人徳党改め、<ロートルぼやき党>幹事長の日記(1/10/9)
    
     雪の中、昨日買って来た手軽な本は、その日の内に読んでしまった。

 多種多様なブログ世界には、多士済々の記事が掲載されている。読み終えて、『吾は職業人』と安閑としていられる世の中で無い事が、良く分かる。小説離れ・新聞離れ・テレビ離れが、一段と進行する昨今、<インターネット・ブログの低劣さ>などと業界が、殊更批判して見ても始まらぬと云うのが、率直な感想である。

 カラオケの無かった時代には、歌手は素人を蚊帳の外に、押しも押されぬ立派な職業人であった。その才能豊かな歌手達の御威光は、カラオケが、日常の生活の一断面と化した現時世だと、霞み始めてしまった。巷間、夜とも成れば、歌手並みの歌唱力を持った一般人が、五万と排出されるのである。歌も絵画も文筆も、映像・編集も、国民の共有スキルと為りつつある。すべからず文化・スキルの行き届いた現代社会は、ある意味では、怖い世の中である。

 米の買い出しに自転車に乗る。雪の外は、まるで冷凍庫の様な寒さである。雪に覆われた河川敷には、小さな三九郎が立っている。雪の河川敷に、小学生達が雪だるまを転がし、雪合戦に戯れている。男子も女子も、すっかり垢抜けして、都会っ子の遊び風景である。

 米屋さん夫婦と、コーヒー2杯、お茶2杯を頂いて、ロートル談義に花を咲かせる。話題の中心は、派遣切り・定額交付金の是非・効果である。長幼の序であるから、ご主人の<世相を切る>のご意見を、しかと承って来る。

『確りせいや!!ビックカンパニー・プレジデント、宗教界、政党、政治家諸侯様である。』

 情報が行き届いた便利なご時世である。重箱の隅を突つく言の葉の糊塗は、見苦しき様である。『矜持』と云う重い大好きな言葉を聞いたのは、つい先頃の事であった。重い筈の言葉が、何やら<朝令暮改>の言の葉樹海に、敢え無く没してしまった様である。

 日本の代表的経営者・土光俊夫さんの面影を偲びつつ、寂しくペダルを漕いでいると、M氏から電話である。

 これから、顔を出してくれるとの事である。年末年始は、孫の子守に忙殺されて、肩がコリコリとの事である。仕事を口実に、逃げ出して来たと言う。のんびり骨休みをして行くべしである。帳迫る夕刻、M氏は帰られた。友と過ごす四畳半は、男談義が静かに広がった次第である。

心何処ーショート 呆け一つ刻んで、日は暮れる。 
              呆け一つ刻んで、日は暮れる(1/8)
 買出しついでに、銭湯に行く。後期老齢者が一人、熱い湯船に浸かって<寒い寒い>を呟いて居られる。私は洗い終えて、身も心もリラックスムードで、例によってタイルの壁に背を預けて、洗面器で掬った湯を体に掛けての瞑想お時間である。

  <寒い寒い>の呟き主の顔を見遣れば、些かの『暗い自閉の趣』ありである。
   温泉銭湯は、裸の付き合いである。声掛けぬは、優(勇)無き事であろう。

「爺さん、如何した? 風邪でも引いてるかい? 何時もと変わんないよ。」
「うん、寒いんだよ。電気敷き毛布を上も下も入れて、温度も強にしてるんだけど、ちっとも温まらない。寒くてしょうがないんだよ。」
「そんな事してたら、低温火傷しちゃうよ。気を付けなきぁ。危ないよ。」
「だって、寒くてしょうがねぇ~。昼だって、炬燵強にして、ストーブ、ガンガン焚いてるんだけど、体が温まらねぇ・・・ 困ってる。」

 ご老人、私の風体の悪さに、足踏みをしていらしゃる風である。此処は逆転の発想・演技が必要らしい。乗り掛かった船である。孤独老人には、万国共通の下ネタからの地均し・道作りが肝要である。

「そりゃ、困ったね。そうなりゃ、身体の中なら、温めるしかないね。」
「如何するや? 何か好い方法あるかい? 教えとくれや。」
「自家発電しか、あるめいよ。」
「電気のコードは、入れてるぞよ。」

 ご老人、キョトンとした顔付でいらっしゃる。如何やら私より数段上の常識人と見える。

「そうじゃなくて、男の自家発電は、これに決まってるずら。俺の手付きを見てみな。」
「おぅ、そりぁ千擦りか。ご用済みで、もう何十年も放ったらかしだ。」
「そうずら、だからいけないんだよ。血の巡りが悪くなると、体温の巡りだって悪くなるんだぜ。悪循環って言うずら。血の巡りが悪くなりゃ、そいつは低温停滞って状況ずらい。頭を使いましょ。頭は何も頭部だけじゃあるまい。此処だって、亀頭って書くんだから頭の亜種には違いあるめぃ。下の頭は、心臓に遠いから、血圧にぁ悪影響は遠いずらい。扱けば、血流は全身に巡るってもんずらい?」 

 此処は、二人きり、破廉恥漢の特権である。私は先ず、両手を心臓の位置に置いて示し、次いで左手を上の頭に右手を下の頭に置いて、ご老人の表情を確認する。ご老人の表情に、少年の様な好奇心が満ちている。

「分かった? 見ての通り、心臓から遠い所が震源地だから、血流の回路が広範囲に及ぶでしょうが、血流回路が、そう遣って全身を巡れば、脳の働きも良くなるって寸法だよ。そうすりぁ、暖房費だって削減出来る。削減出来りゃポチポチ貯めて、夜の街を徘徊すりぁ実弾だって打てるわさ。実行あるのみだよ。」

 あれまぁ、ご老人、『夜の街』に大きく反応してしまったらしい。前歯を欠いた口が、俄かにパックリと開いて、身を乗り出して来る。作戦成功の兆しである。

「この前、行ったらネェちゃん達に一杯取り囲まれて、後でおっかねぇ(怖い)兄ちゃんが出て来て、銭えれぇふんだくられた。俺ぁ、懲りた。ケケケ。」
「爺さん、動機は優等生だけど、方法が、そりぁ、駄目だ。今日は、これしか金が無い。終わったら、声掛けてくれ。俺ぁ帰るって言っとけば好いんだよ。」
「おぅ、そうか・・・ その手が有ったか。う~ん、好い手だ。金が無けりゃ、こっちが強ぇや。小分けにすりぁ、回数行けるしな。好い事、聞いた。」
「納得したかい・・・下心ムンムンで、財布にピン札入れて行くから、追剥(おいはぎ)に会うんだ。それも元を辿れば、日頃の下頭に血液送って無いから、上の頭にも血が巡らないんだぜ。自業自得って奴だわさ。頭の働きの為には、血液をガンガン送って、ヘモグロビンの働きで、末端細胞に酸素を送り込まなくちゃ、上にしたって下にしたって、その先の頭は、活性化しないんだよ。爺さん、目が少年の様に輝いて来たじぁねぇか、一発、テストして見っか。行くぞ、上の頭は?」
「頭脳。下は扱きの亀頭ずらい。完全に覚えちまったい。物は言い様だいな。ケケケ。」
「やいやい、大したもんだわ。爺ちゃん。頭脳明晰だよ。」
「やいやい、ダンナ、大したもんだ。相当頭好いね。やぁ、俺ぁ勉強に為った。ついで聞きてぇんだけど、日本経済・世界経済は如何なるいねぇ、教えとくれや。」
「そいつぁ、亀頭だけじぁ分からねぇょ。如何するい? 専門用語が、ボンボン出るぞ。止めときましょ。お互い、今じゃ稼げないロートルだわさ。徒労は疲労の権化様だじ。」
「じぁ、止めとくいんね。先生の顔見りゃ、こんな事分らんか!!なんて、その相撲取り見てぇな体で怒られたら、逃げたくても俺ぁ歳で、もう走れねぇもの。今日は、楽しくう~んと勉強に為った。ダンナは、タダ者じゃねぇ。面白いお人だ。優しいお人だわ。感心したわ。」
「付き合ってくれて、アリガトね。お土産付きだから、寝る時には、知恵熱が出て、汗かくから、温度は<中>しときましょ。又、会えると好いね。バイバイ。」

 人の世は、捨てる神あれば、拾う神あり。お役に立てば、これ又、楽しからずやである。
 男も女も、潜った祠は、皆同じ。生まれ故郷に、何の衒(てら)いなどあろうか。


            降り止まぬ雪に、授戒の呟き(1/9)
 初恋物語効果が、私にも及んだ様である。K子と一緒にいる夢を見ていた様である。明かり取りの障子ガラス越しに、庭を見ると雪が降っている。布団の中で、夢の反芻を試みる。私も彼女も、等身大の加齢を加えている。夢の中でも、それなりの加工が入っている様である。夢回路に於ける脳の作用とは、中々にして面白い物である。
             
              夢の幾コマが、浮かび上がる。
 
 落ち着いた感じの中に、共通の思い出を持つ者の面影・雰囲気が漂っている。夢の像の出典を、彼是と詮索するのは、夢に対して無粋の作法である。夢鑑賞の要諦は、見るを愉しむだけの『謙虚さ』にある。

 起きる事にする。定位置の窓からは、薄い灰色の空から細雪が降り注いでいる。降雪は、5cm程に達している。国会中継のラジオを流しながら、母の動きを待つ。
 
 煙草の燻りに、昨日の老人の顔を思い浮かべている。自閉の籠りに囚われたら、人間の表情は、頑なに為る。頑なな表情は、心情まで覆い隠してしまう。自分の顔は、自分では気付か無いものである。打ち融ければ、人の瞳には少年の輝きが発散されるものである。瞳に輝きが宿ってこその、人間の表情であろう。


  つくづくと、他人の振りを見て、我が身を振り返れ(正せ)の『理』である。

 凡そ、人品の高みに到達するには、時間と素質に大いなる難点を持つ身である。此処は、無い無い物強請りよりも、持ち合わせた下ネタ談義に磨きを掛けて、仏頂面の頬の筋肉を撫でるしかあるまい。我が『加齢期』に達して、諦観を強くした次第である。

 さてさて、母上の動きがしている。賄い夫の後は、外の雰囲気に抗して、明るい歌謡曲を流して、夢想の世界に臨もうぞ。

心何処ーショート 風のよもやま話・その10
風のよもやま話・その10
 主風の棲む森には、風の音が聞こえている。漸く小さな上昇気流の風が昇って来た。12月に入っても、寒かったり、温かかったりの日々が繰り返されている。展望の開けた森の正面には、盆地の南北に伸びる西の連山・連峰が、冬の凛とした空気の中で、超越した如く空に向かって高々と聳え立つ。その正面の中腹から上は、雪の衣装を重ね始めている。連峰の後方に一際大きく位置する大山は、その全てを硬い白亜の冬衣に整えていた。北への連山の続きは、既に白一色に覆われている。盆地の南端は、次の盆地に繋がる、なだらかな山々を冬霞みの中に亡羊と見せている。
主風の森の背後に連なるなだらかな稜線が重なり合う山々には、東と南の主峰のニ山の頂にだけ、薄い白の輝きを載せている。例年に無く冬衣は、足止めをされている。

メリハリの有った日本の四季は、この時季シベリアからの寒気団が、主体となる冬一色の風景に沈むのであるが、大陸からの寒気と海からの暖気が4~5日の周期で、交替するのが近年の特徴である。寒気に吹き込まれると、そこには昔ながらの冬が。そして、暖気が吹き込めば、小春日和の光と輝きが満ちる。今年は、そんな12月の日々が進んで行くのであった。広葉樹と針葉樹の松が混在する山々には、松の緑が静かに沈んでいる。

山容に溶け込んだ、主風の小森は、光の届きが遅い。南に大きく傾いた軌道を運行する冬の太陽は、大分高い位置に為らないと、主風を起こさない。堆積した木の葉の白い霜が、朝日に溶かされて行く。濡れた木の葉が、幾筋かの幽かな湯気を立ち昇らせている。光のしじまと静寂の中を、小鳥達が渡っている。

             〈クゥア~~、よっこらしょと。〉
主風がねぐらの洞窟から顔を覗かせ、大欠伸をする。掠れた身体をゆっくり蠕動(ぜんどう)させながら、穏やかな陽だまりに身を伸ばして行く。陽だまりの中にとぐろを巻く様な形で、太陽熱を吸入している。暫くすると、主風は、大きく吸い込んで、金剛の形に変身して、

〈オイッチ、ニー、オイッチ、ニー、ボキボキ、グギグギ、ついでに、此処も、オイッチ、ニー、オィッチニーと、ソウリャ、ボキボキ。今度は、こっちから、グルグル、ブラブラとぉ~〉

などと、軽いウォーミングアップをしている。ウォーミングアップが終ると、フゥー、フゥーと大きな深呼吸を繰り返して、乾いた落ち葉のシートに胡座を掻いた。この場所は、日向ぼっこをしながらの友待ちの場としては、打って付けであった。

今朝の冷え込みの余波は、日陰の霜柱をそのままにしているが、時間と共に青味を増して行く空には、太陽の光が満ちている。主風は、今年の山ぶどう酒を持った手を、南北に細長く続く盆地と、屏風の様に聳え立つ冬の連山・連峰とに、差し出す様にして、乾杯の会釈をすると、口に運んだ。
 
〈2008年、今年も後僅かじゃて、振り返れば、近年に無く慌しい一年じゃたわい。オイル・資料・資源急騰でワイワイガヤガヤ、夏頃まではエコエコで騒いでおった人間共であったが、北京オリンピックの空騒ぎが終ったと思ったら、9月から先は、信用不安と連動して経済失速で、人間界は一気に奈落の底じゃわい。少しは、思い知った事じゃろうて、ウヒャヒャ。〉

胡座を掻いた主風の眺望の下には、人間の大動脈・高速道が、盆地を走り抜けている。夜中の物流のライトは、めっきり少なくなり、昼の高速道は、車両が一段と少なく成っている。主風のグラスには、赤黒いぶどう酒が注ぎ足されている。松の枝々を群れて渡る四十雀・ヤマガラ・エナガの様子を見ながら、主風は眺望を大きく捉えて行く。

〈時のスパンの捉え方が、まるで違うワシ等と人間共じゃが、ワシの目からは、この一年が数時間の様に見える。たった数時間の間で、最高から最低へと転落の慌しさは、まるで玩具の箱をひっくり返した程の底の浅さにしか映らんわな。〉

多少酔いの感じられる主風の両の眼には、頭の中に何百年と溜めた出来事の風景のページを捲っているかの様な、内に向かう眼と共に、現在への不満に対しての『否』の距離を置いた据わりの眼の感じが漂っていた。

〈ワシ等は人間から見れば、行き来の無い<物の怪・魔物の領域>で不変の定員を守って存在しておる。ワシ等は、変わらぬ地球全体の自然を最大の恵みとして、存在しておる身じゃて、ワシらの眼からは、日々進歩・発展・変化を盲進するだけの軍団が人間界じゃ。
価値観が全く違う地球上生き物が、競立しているんじゃから、心を失った科学・効率一辺倒の網羅で、すっかりサバイバル地球と為ってしまったもんじゃわ。資源を巡って、動物と人間が争い、動物・植物が駆逐され、今度は人間同士の駆逐合戦が続いた果てに、国家を離れた巨大産業・企業が、世界に散らばって最後の凌ぎを削り合う。勝ち残るか、共倒れが、うぬらの結果じゃろうて。
強者は、敗者を呑み込んで圧倒的多数の弱者を産業奴隷として、日々増殖の一途を辿って来た。決済手段の紙幣が、何時の間にか信用と結び付き、発展したまでは許せるが、紙幣そのものが、金儲けの独立手段と化けてしまった。経済実態の数倍に膨れ上がった紙幣の数は、転がし転がしの博打経済に奔走してしまった。銭転がしのゲームが終って、換金し様とした時、胴元の一人がパンクした。それから後は、電子網が張り巡らされた不夜城の地球は、一転ドミノ倒しの瓦解の世界であった。〉

何時もは飄々として、達観視然とした聞き役の多い主風であるが、ぶどう酒の吸収が早い様子である。無風に近い大気に在っては、訪れる他風も無さそうである。小さな空気の流れに、森の小鳥達の羽ばたきが、小さな音を作るだけの静寂振りである。

〈ワシ等にとっては、人間界の劇的な経済陥落は、大いに結構な風向きじゃ。傍若無人の突出は、決して長く続く繁栄では無い。金儲け金儲け、増産増産で有頂天に為っていた人間共が、汚し切ったこの地球に漸く気付き始めたエコの兆しじゃが、本音と建前の二枚舌が、こうもアッサリ、轟音を立てて瓦解して行く。ワシ等には、まるで、自分達が作り上げた、人間共のゲーム装置のドミノ倒しを演じている様に見えるわい。〉

主風の火照った眼に、切り立った峰々の大屏風が映っている。

〈こう為れば、本音も建前も無かろう。在るのは、現実だけじゃわい。CO2半減と踊らぬ太鼓を打ち鳴らさずとも、買い手の無い売れぬ物作りからは、即撤退のいい加減さが、人間界の不変の特徴じゃ。これで暫くは、奴らの撒き散らす塵芥の不快感も、小休止の沙汰じゃろうて・・・欲望剥き出しの人間界じゃから、現在のどよめき振りが、何処でどんな落ち着きを見せて、如何進むかはトンと分からんが・・・〉

〈無責任・勝手放題の人間界が、種を撒き散らした付けは、人間界が責任を取るのが、当然の報いじゃろう。因果応報は、自然界の不変の真理じゃ・・・ 人間といえども、逃れられん真理じゃて、産業が勝つか?政治が勝つか? この森の居候の若者も、悪の根源が大き過ぎて、暫し休養の様じゃて・・・ 親類の大陸風の喘息も、これで少しは養生出来るものじゃて・・・
さてさて、空気も暖まって来た様じゃ、人間界の娑婆でも覗きに行こうかいな。〉

主風は、椎の大木にスーと移動すると、ヒョイと風に乗って舞い上がった。青い空には、数羽の鳶が大きく円を描いて飛翔している。安定した上昇気流に乗って、主風は、螺旋状に大きく大きく、ゆっくりゆっくりと、空に舞い上がって行く。
既に、鳶の遥か上空を主風は、滑空している。主風の円を描く端には、小さな照り返しを持った川が、冬枯れの河原に見え隠れしている。見覚えのある犬と老人の姿が見える。

<う~ん、今日・明日は、大気も安定している事じゃから、場合によっては、下界に泊って行こうかいな・・・ この塩梅だと、ワシの所に寄って行く風も無かろうて・・・>

    主風は、体の表面積を縮込めて、ゆっくりと下降態勢を取る。

   毛糸の帽子に、マスクをした冬装備の老人が息を切らして、犬を追っている。

「こりぁ、ダケン~ そんなに走るな。息が切れる。」
<爺さん、モウロクして、そりぁ何でも、厚着のし過ぎだよ。冬でも暖かい日は、幾らでもあるんだぜ。人生、未だ長いんだ。モウロク爺さんに為るのは、早いぜ。ご主人様。ワン!!>

 ダケンと呼ばれる犬は、冬枯れの河川敷の芝生を蹴って、走り回っている。サツキの赤茶の植え込みが続く芝生の散歩道の彼方此方に、モグラの顔を出した跡がある。犬は、其処に黒い湿った鼻を近付けて、クンクンと臭いを嗅ぎ、前足でガリガリと穴を掘る。漸く追い付いた老人が、大振りの黒い縁取りの虫眼鏡を手に、穴を覗く。そして、ダケンを手招きして、得意の蘊蓄(うんちく)を垂れるのである。

「うん、この穴は、乾燥の具合からして、三日前の穴じゃ。この辺りの土は、この堰堤工事の時に、川底を浚い過ぎて、不足したのじゃろう。不足分の穴埋めに、近くの山土を入れたのじゃろうて・・・この辺りは、土目が多いから、モグラの居住区に為った様じゃ。分厚いコンクリートで仕切られた場所であるから、云う為らば、モグラの飛び地囲いじゃ。穴の数、盛り土の跡から察するに、モグラの大小・個体差が確認出来る。総じて、密度が濃い様じゃ。」
<ワンワン!! 爺さん、そんな事は、何も虫眼鏡を取り出して、言う程の事じゃあるまいに、見りゃ、犬の俺にだって分かるわいな。俺なんか、その上を行って匂いの違いから、モグラ集団を6~ 7匹と嗅いでるんだぜ。全く、手に負えない変人爺さんだぜ。フン。>
「ウ~ン、この辺りは、明らかに土質が異なる。土の様子から鑑みると、中々にして栄養分に富んだ土目じゃ。さてさて、この人為的土入れは、成程なるほど・・・ ダケン、ご主人様は、土壌成分とモグラ数、モグラの種類の相関関係について、暫し高尚なる観察・推論をば、試みる。雑音があっては、緻密な考証が利かん。お前、一人で遊んで居れ。邪魔立てするで無いぞ。」
〈ああ、爺さん、胡坐を掻いちゃったよ。全く・・・ 昨日のバート・ランカスターの『ワイルド・アパッチ』の映画から覚め切っちゃいねぇや。確りしてくれよ、こんなボケ老人と一緒じゃ、出自の正しい俺様の御威光が、廃れるってものだぜ。恥ずかしいから、余は、この辺を一周して来らぁ。独り言は、なるべく小声で遣るべしだぜ。本性がバレたら、病院送りだぜ。そう為ったら、被害は俺にも回る。年の瀬を迎えて、食に有り付けない。派遣切りの非道は、人間界だけに止めてくれよ、ご主人様。ああ、情け無い。とんだ爺さんに、拾われ育てられたものである。ワォ~。〉

 主風は、河原に自生した水柳の木に体を巻き付けて、ニヤニヤしながら、老人と犬の遣り取りを眺めている。この老人と犬のコンビは、主風の上空散歩の時に、しばしば目に入る。

 穏やかな日は、上昇気流も活発であるが、冬の日の陰りは早い。上昇気流の衰えに、主風は風に乗り損ねた様である。明日の昼を待って、山の森に帰る事にして、今宵はこのコンビの家庭訪問でもするか・・・主風は、モアモアした顎鬚を軽く扱きながら、コンビの後を付いて行く。

2009/1/5

心何処ーショート 冬は、何処の空へ
                 冬は、何処の空へ(1/7)
 打ち掛けの「風のよもやま話・その10」を打ち上げねば、尻切れトンボである。計画性の無い男であるから、気が向かなければ、言の葉が中断した儘に為っている。置いておけば、中断した『庶子』であっても、催促のお声が掛る。
 庶子と云えども、私の実子には違いない。駄々を捏ねられては仕方が無いから、眠れぬ夜は、お付き合い申し上げるのである。因って昨夜は、真面目にお付き合いさせて頂いたのである。

 漸く嫁入り衣装を調えて、午前中は校正の運びに漕ぎ着けた。午後には、金華鳥の里親さんが見えられるそうである。週に一度、顔を見せてくれる若いヤクルト・ママさんである。小鳥が好きとの事であり、子供連れて、お迎えに来るそうである。これで親鳥も、夫婦水入らずの生活空間を回復出来るだろう。三方に亘って、佳き事である。

 何時もとは、ちと時間が早いが、散歩に出掛ける。日の柔らかさに惹かれて、本日はコースを逆にする。S大への歩道橋に差し掛かると、金髪白人学生が、渡って来るでは無いか・・・ 今年最初の白人女性である。お天道様も、日頃の信心を可としてのお導きであろうか? 
 天の思召しは、有難く拝領するのが、世の常道である。すれ違い時に、鼻の穴を膨らませて、深呼吸をさせて頂いた次第である。

 好天続きの冬は有難いには違いないが、些か季節の変調振りが、気に掛る処である。昨年は、無台風であった。地球全体からすると、芳しくは無い歩みとしか云い様が無い。
 朝のブログ散策に依れば、砂漠の仇花・ドバイの建設ラッシュは、敢え無くとん挫の憂き目を、熱砂に曝しているとの事である。これまた、致し方の無い砂漠の蜃気楼なのであろう。
 
 体育館・文化会館一帯の林の中を行く。陽気に誘われて、ご老人衆がマレット・ゴルフをされている。柔らかな日差しに、カキーン、カキーンと乾いた響きが伝わり、のんびりした会話の語気が聞こえる。
 余りの長閑さに釣られて、小休止とする。久しぶりにTに電話をする。陽射しを浴びて、和やかな会話が出来た。ヤツは、穏やかさをくれる善き友である。

 さてさて、床に伏せった母上も起きられた事であろう。朝・昼兼用の賄い夫にシフトするとしよう。

  ★明日は、風のよもやま話・その10を掲載します。

心何処ーショート 嘆き節
                  嘆き節
       如何すりゃ好いのよ、コンピューター・ウィルス。
         犯され、侵されて、日々、症状重くなる。

       苛付くばかりの文明の利器。嫌だ、嫌に為ります。
          オッカさん、オイラは武闘派の機械音痴。

            オイラの頭は、ウンザリ、ゲッソリ。
          ウィルス創造野郎に、ウィルス防御対策は、
                 ホンニ、イタチゴッコ。
 
          銭に為らぬウィルス下衆野郎は、愉快犯?か
            ハタマタ産業界のマッチポンプ野郎?か
              出て来い、姿現わせ、下衆野郎。


         昔取った杵柄、正義の鉄拳、喰らわして遣ろう程に

                               2008/12/25 アガタ・リョウ

心何処ーショート アリャリャにして、ありゃりゃ。
               アリャリャにして、ありゃりゃ(1/6)
 ありゃりぁ、打ち掛けの文章が雲隠れしてしまった。保存キーをクリツクし忘れてしまった様である。これまた、トホホの極みである。元来が、駄目男である。昨日は、諦めてSOSを発信しようとして、ダメ押しを試みた処、難無く成功を収めて気を良くしていたのであるが・・・ 生まれ付き、運から見放された日々を送っている。早々は、胸を撫で下ろす事が続く訳が無い。

 朝一番で、ビデオの交換である。斜向かいさんは、如何やらクラシック・ムービーに『熱々の日々』らしい。生活に張りが出て来たとの事である。<然もありなむ>であろう。
 何しろ、コレクターの私は、病的な面食い男であるからして、貸出ビデオは、美形のオンパレードである。加えて、字幕スーパー物であるから、往年の洋画名作は、二回見なければ映画鑑賞出来ないと云う寸法である。
 先ずは、ストーリー展開を頭に収納する為に、目と脳細胞は、字幕追いに費やされる。大雑把なストーリー・台詞収納の次は、映画を観賞する為に、映像に目が釘付けと為る。名画は、原作・脚本・カメラ・音楽・監督らから為る総合芸術である。映像に展開されるのは、一世を風靡した世界の美形達の艶やかさ・一途さ・愛らしさ・人の生き方が、情感・詩情・旅情豊かに繰り広げられるのである。
それも、深夜・早朝の個人シアターで開演されるのであるから、錆び付いたとは云えロートル男の憧憬は、静寂の中に、一気に花開くと云った塩梅なのであろう。
「やぁ、お兄ちゃん、キム・ノバック、クリスチーヌ・カウフマン、好かったよぉ~。」

      冷蔵庫も空き空きして来た。大手スーパーに買い出しに行く。
 同じ町内の幼馴染のご婦人に会う。「あら~、困る~。」と私の顔を見て、逃げて行く。
「これ、如何した?」と言うと、是非とも読ませろと云うものであるから、大分前に手元にあった分厚い文作のコピーを貸したのであった。それをガサツにしてソソッカシイ彼女は、古新聞と一緒にゴミに出してしまったのだと言う。

    とんでもない馬鹿女であるから、意識度120%で得意の強面で脅して遣る。
      (原本・コピーは保存してあるから、私には実害は無いのである。)

「そうか、罪滅ぼしに読書感想を此処で言って見ろ。」
「本当、許してくれる? 御免ね。あれだね。人は分からないものね。意外と文才あるじゃん。つくづく思ったよ。人は、外観で判断しちゃいけないって事が。アハハハ。」
「かぁ~、俺は、つくづくと人を見る目が欠落しているわ。これじぁ、コピーも成仏出来わな。オンナも唯のカンナに為ったら、お終いだぞ。これ以上、害を世の中に撒き散らしちゃ、お天道様の罰が下るぞよ。悪い事は言わ無ぇ、早いとこ、成仏しろ。」
「何言ってるだ。あんなに厚い物、只で読んで遣ったんだよ。こっちの方が、労わりの言葉が欲しいわよ。アハハ、又、読んで遣るから、精進しなさいよ。Rチャ。」
「コリァ、駄目だ。<豚>の耳に念仏だぁ。じぁな。元気で暮らせ。」
「お母さん孝行しなさいよ。私は死じゃったから、後悔してるよ。親不孝したら、その禿頭、引っ叩いてヤッからね。」
「おぅ、有難うよ。」
お互い、ニヤニヤして、後ろ手を振って別れる。

 彼女は、同じ町内の小中学校時の同窓生である。年に何回か、散歩の途中で顔を合わせる。お互い還暦をパスして、彼女は、手八丁口八丁だった小母さんにそっくりになって来たものである。一つ下の弟は、私を兄と慕って来た野球の上手な、可愛い男であったが、姉の方は、昔から男を屁とも思わない面白い女であった。
 不幸中の幸いで、あんな者と同級生に為らずに好かった。机を並べ様ものなら、『大助・花子の夫婦漫才』を演じ切ってしまう。挙句の果ては、二人でバケツを持たされ、廊下で立たされてしまうのが落ちである。彼女は辛抱が足りんから、廊下で又、漫才で今度は、グランドを何周か走らされてしまう事だろう。
 彼女の乱暴な話術には、味がある。彼女は、飲み屋の女将をしている。彼女の小中高の溜まり場であるらしい。懐かしい面々に会えるから、顔を出せと言われているのであるが、その暖簾は、私にとっては『鬼門中の鬼門』である。
 従って、暖簾を潜った事は一度も無い。酒が廻って口が滑らかに為ろうものなら、あのダボハゼの様な分厚い唇とでかい口で、頭からバリバリと骨ごと胃袋に捕えられる事、必至の状況であろう。素面に於いても、私には荷の重い女傑なのである。
 
  私は、シャイにして奥深い男である。『君子危うきに、近寄らず』である。
Copyright © 心何処(こころいずこ). all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。