旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処ーショート 雨に移ろう雑感 
               雨に移ろう雑感(8/30)
 今日も雨である。子供の頃は、天には雨袋があって、その袋の中身を使い切ってしまえば、雨が止むと考えていた。次の雨は、無くなってしまった袋の中に雨が貯まるまで、お天気が続くのだと単純無垢に思っていた。そんな思いと現実は、実生活の中で、大きく外れる事は無かった。思いと大きく外れてしまった時は、誰かが悪さをして、お天道様が怒って、天の底を抜いてしまったんだろうと考えたものである。照る照る坊主を軒下に吊るして、行いを正してお天道様に願いを伝えれば、お天道様が聞き届けてくれると訓えられていた。長じて学校で天気図の見方を教わり、気圧配置との関係で梅雨前線・秋雨前線なんて物を教わった。

   別段興味がある訳ではなかったが、小さい頃の想いを思い出して、

<そりゃ、そうだわ。住んでいるのは、盆地の中の閉ざされた地域だけど、広がる上空の空気は地球を一周しているのである。移動と云う運動が加われば、円=無限なのである。供給と消費のベルトコンベヤーを想像すれば、理に適っている。子供と言えども、想像が過ぎたものである。真面目に考えれば、無い筈の天の底が、抜ける訳が無かったのである。知らないと云う事は、赤恥の素である。ガリ勉は、男の風上にも置けない頭でっかちに為るが、最低限の仕組みの知識は、頭に入れて置かねばバカにされる。>

  ・・・ 勿論、その時にこんなマトモな文章が、書ける程のボキャブラリーを持っていた訳ではない。飽くまで、その時の感想を大人の文章で表現したまでの事である。

 そんな過去を、ふと思い出させる様な執拗に続く雨の状況である。あれから何十年が、経つのだろうか・・・ リアルタイムの気象映像には、生半可な想像すら割り込まさず、大陸・海洋からの大きな雲の筋が、小さな日本列島に流れ込んでいる。その様は、丸で衰えを知らぬベルト・コンベアの巨大な運行その物である。被災地の皆さんは、これでは堪った物ではない。地球温暖化で、気象ルートが、様変わりして行く昨今である。生きている人間には、漠然とした気象変化・四季の移ろい・四季の棲み分けすらも、遠い彼方に追い遣ってしまうほどの、地球環境の過渡期に差し掛かっている感に捉われてしまう。

 多少なりとも、教育と文明の利器に囲まれて育った先進国の人間達には、事象の原因と結果の仕組み・因果関係が頭で理解出来るから、覚めた目の<因果応報の諦め>も着くが、外部との接触を知らない人達は、この先、精霊・神に幾ら祈りを奉げても、元に戻らぬ地球環境の負への突入である。白戸三平の傑作・力作の<カムイ伝>のストーリーと幾つかのシーンを浮かばせる連日の雨と雨被害の報である。
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心何処ーショート  八月も早し、末なり
              8月も早し、末なり(8/29)
 雨音に何度か、目が覚める。寝返りを打ちながら、再び眠りに落ちる。闇の中で、雨脚が耳を起こす。降ったり止んだりの雨の強弱に、眠りが寸断されている。行きつ戻りつするまどろみを諦めて、起きる事にする。時計は4:30を指している。ラジオのボリュームを絞って聞いていると、日本各地で大雨被害に見舞われているとの事である。特徴は、熱帯地方のスコールの様な集中雨にして、『局所居座り型』の様であるらしい。現象原因・原因発生の仕組みの分析・解明及び警報は出来るが、原因を予防する事は出来ない地球大気の流れである。命からがらの悲惨状況を、報道で知るばかりである。

        明かりの付いた部屋に、住人達が動き始める。

 ラジオは途中から、各地の雨被害の情報に切り替わった。衛星と膨大な資料から割り出された気象解説に、大きく頷くばかりで、悲惨結果を始末するしかない現状の繰り返しには、相手が悪過ぎる人間の受身の辛さを、感じるしか無いのである。

 白みだした外気は、肌寒い。雨の収まった朝が、明けて行く。手元のテープレコーダーで、ブレンダ・リーを流す。玄関から、鳥篭を移す。ケースのキリギリスが鳴き、小鳥の囀りが始まる。中途半端な一日と成りそうな日が、明けた。上の蛍光灯を消す。今度は、手元のマリリン・モンローを掛ける。物憂げな歌声に、何本目かのタバコに、意味も無く火を付ける。時計は6:00を指す。静寂の中で、不足の眠りが、手招きをしている。暗い部屋に戻る前に、炊飯器をONにする必要がある。

 11時近くの起床である。朝昼兼用の食事を取る。青空の広がった空に、山上の積乱雲が勢力を伸ばしている。鳴りを潜めていたミンミンゼミ達が、渡る涼風に勢い好く鳴いている。

              顔を出した太陽に、昼の夏が戻る。

 さてさて、ぽっかり空いてしまった時間である。女房の差し入れてくれた米は、未だ底を付かないが、ご無沙汰続きのロートル寄り合い所である。そろそろ、顔を出さねば線香を手向けられてしまう。ご機嫌伺いに、重い腰を上げると致しまする。

 地物の桃と出来立ての瓜の粕漬けで、コーヒーを頂き、本日のお題は、港湾労働者の高級マンションでの51匹毒蛇飼育の『怪』に就いてである。彼の職業と収入の関係を勝手に類推決め付けて、生活費・購入費・飼育費の出所と毒蛇の効用方に関しての素人探偵のディスカッションであった。無責任極まりない呆け親父達の連想ごっこである。終いには下衆の勘繰りで、シャーロック・ホームズの<斑の紐>まで飛び出してしまった。いかんいかん、<下衆の口に、戸は立てられぬ>の喩えである。

 そうこうしている内に、大気の様態が変わって、ポツリポツリと雨が降って来た。自転車であるから、長居は無用である。米を自転車籠に入れて、早々のペダル漕ぎである。未だ大事に至らぬ雨に、帰りすがら、個人スーパーに寄って軽めの買い物をして帰る。信号待ちしていると、弟の車が通り掛る。声を掛けると、自宅に寄ったとの事である。

 余り濡れずに家に着く。買って来た桃とコーヒーを入れていると、土砂降り本格的な雨の再登場である。真に以って、運の好い運びであった。久し振りに、部屋で彼の近況と愚痴話のお相手をする。愚痴話と云っても、相手が私であるから、他人事の様なカラリとした笑い話に終始してしまう。お互い似たような気質であるから、<詮無き事は、詮無き事でしかない>の達観視が先行しているから、感情的思い入れの会話には為らないのである。あっさりした一般論で終わる。彼も、それで充分気が晴れるのであるから、それで好いのである。
人間娑婆は相変わらず、自分の姿は見えずして、他人の姿ばかりが目に付く身勝手・無責任の人間模様の様子らしい。困った御仁達とのお付き合いで、カリカリの連続らしい。穿った物見には、これも人間娑婆の必要経費の内であろう。ロートル・賄い夫としては、戻りたくは無い人間娑婆の営みである。

 お話ご尤もの段である。利害関係の無い兄弟であるから、合いの手の間に、ついつい、ニヤニヤ、馬鹿笑いなどもしてしまう。他人が、こんな事をしたら弟の気分次第では、私の敏感な禿頭を、サザエの様な拳骨でボカリと殴られてしまうのが落ちである。私も娑婆に居た頃は、瞬間湯沸かし器の性分であったから、<知らぬが半ベェ>で遣り過ごしていても、早々演技と云う物は長続きしないのである。内部に蓄積されたストレスは、ガス抜きの安全弁が無い限り、放って置けば、内部の圧力に堪り兼ねて爆発してしまうものである。地位が上だと些かの爆発は、下位の者にとっては<怒られるのも、給料の内>と諦観するより他が無くなってしまう。それであっては、従業員はとんだとばっちりで、面白くは無かろう。密室での愚痴話は、上に立つ者の心得の一つである。馬耳東風の世捨て人の耳には、感情の起伏すらも起こらない。従って、兄弟には程々のブレイク・タイムと云った処である。ボランティア料は貰えない物の、これは大きな目で見れば、私の様な世捨て人にも出来る社会貢献の一つなのである。

      真に以って、筋目・精神のタガが薄れ行くご時世・世相である。

心何処ーショート 晩夏一題
                晩夏一題

 気付けば 日照時間も 随分と短く成ってしまったものである。
 この頃の 朝夕の涼しさは 眠りを誘う。そんな内の 終日の雨である。
 早春の雨は 一雨毎に暖を運び    晩夏の雨は 一雨に秋を乗せる。

       背後にあるものは 太陽の成長と衰え。
             つまりは 日照時間の日毎向かう長短の運行にして 
          春の希望と        秋の侘しさ  である。
  春夏秋冬は 春の息吹に始まって秋の侘しさで 一年を感じ取るのである。

心何処ーショート 当意即妙
                  当意即妙(8/27)
 朝食後の<知るを楽しむ・水木しげる>を見ていると、雨が降って来た。私は不真面目な視聴者であるから、飄々とした画伯の表情・語りに、母を前に<何ょ、扱いて>とばかりに、『腕枕の抱腹絶笑』の態である。昔、<当意即妙>なんて言葉を覚えた記憶がある。言葉には当然、国語辞書的な言葉の客観的解釈が存在する。その言葉の範囲内で、言葉使用者は個々の経験の色付けをして使用しているのが、実態面での一般的言葉の使用法であろう。言葉の使用目的、使用意図に、対話者の人間味が滲み出る処が、面白いのである。当意即妙の問答(インタビュー)が、談論風発で揺らぐ空間を醸し出せるか、如何かが、『対話者の相性と力量』なのである。

 考えて見ると、言葉は表情と一体と為って、的確な意思の伝達道具に為ったり、はぐらかし・煙に巻く道具と為ったり、はにかみ照れ隠し道具に為ったりして、表現者の内なる代理効果を伝える物なのである。斯様に、言葉に自身の色合いを込める事によって、言葉の作用は面白いショート・ショットを映し出す物である。

 こんな表情と文脈の中にあってこその言の葉の数々であるが、表情・言の葉・文脈の三位一体の関係を分断されてしまうと、言の葉・文字ほど厄介な物は、無くなってしまう。言葉の受け止め方・反応の仕方は、言葉に多少ならずとも自分の色合いを付けている為に、人、其々の印象・反応が異なって来るのは、避けられない事実である。真意が伝わらなかったと、説明に追われるか、他人との距離を感じて、口をつぐむか、口は災いの元と諦めて、言語明快・意味不明の技を身に付けるか・・・どちらにしても、暫くは心静かに過せないのが、人の常であろう。

 若い頃は、如何しても細胞が敏感であるから、言葉が先行してしまう。皺の無い瑞々しい顔相は、表情を作るのには色合い不足である。如何しても<原色の素地>が瞬発的に、顔相を引っ張ってしまう。○と×だけでは、測り切れない人間世界。○と×を繋ぐ乃至は介在する雑多不明の抽象図形の連鎖・拡がりを前に、表現方法は余りに貧弱である。脳味噌と五感を併せ持つ人間であるからこそ、経験を刻んだ顔貌・風貌は、人間の意思伝達には、欠かせない装置である。

 何事も<過ぎたるは、及ばざるが如し、過ぎたるは、醜き事なり>なのであろう。
 いかんいかん、こんな論理展開をしていては、加齢は人間の化粧の顛末に為ってしまう。アンチ・エイジング産業から、刺客を放たれてしまい兼ねない。いかんいかん、私には、未だ賄い夫の努めも残っているのである。そして、精力と共に色気も残って居るのであった。つくづくと文字は、災いの元である。反省を込めて、遺憾の意を表して、思考停止と致しまする。

 如何やら、とんだ雨の吹き回しで、訳の判らない文章を打ち始めてしまったものである。タバコを咥えながら、こんな事を打っていると、幾つもの失敗談が頭に浮かんで来る物である。そんな事を一々苦にしていたら、現実の壁に押し潰されてしまうのである。努力して、画伯・警部の域に達しなければ、人を楽しく頂き(喰ってしまう)、且つ楽しませる<当意即妙>の味わいは、拡がり生まれて来ないのである。

    俗称としては、これを称して<視聴者の目利き>と云うらしい。

心何処ーショート 画伯と警部
                画伯と警部(8/27)
 久し振りの太陽のお出ましに、昼から、堪らず得意の海坊主スタイルである。キュウリに砂糖を塗したのが効を奏したのか? 風前の灯火キリギリスは、再び鳴き始めている。涼しくなった分、私の夜の散歩時刻も、大分早まり、就寝時刻も24時過ぎと為った。昨日の続きで、ピンク・パンサーを子守唄替わりに見ている。集中力の乏しい時は、ピーター・セラーズのクルーゾー警部にご厄介に為るのが、一番である。

 大リーグ中継で、水木しげる先生とのご対面はお預けとなってしまったので、浮いた時間を母と過す。見るべきテレビも無い事から、昨夜描いたグッピィの絵の収まったファイルを渡す。母も小学生の頃、何度か展覧会に絵が出たとい見るべきテレビも無い事から、昨夜描いたグッピィの絵の収まったファイルを渡す。母も小学生の頃、何度か展覧会に絵が出たと言う。

 一線を退いた者は、時間に不自由はしないのであるから、自分の小学生時代を振り返って、好きだった物を思い出して、社会・理科・体育・図画工作・音楽・家庭科料理などをして見るのも、眠れる自分を再発見する切っ掛けと為る物である。私は、バランスの取れた教育が確保されているのが、小学校教科だと思っている次第である。きっと、変わらぬ自分が息づいている筈である。 
そう為れば、逆立ちしても才能・技能では、水木画伯・クルーゾー警部には絶対に及ばないものの、画伯・警部の理解者には近付けると云うものである。美術史に名を残している芸術家達ばかりが、絵描きさん達でもあるまいし、名探偵のシャーロック・ホームズ、エルキュール・ポアロ、明智小五郎、金田一耕介、神津恭介達に混じって、迷探偵・クルーゾー警部の活躍も必要なのである。何しろ、画伯・警部の絶対的魅力は、その自然体にあるのである。自然体から発する人間の魅力に、優る魅力など無かろう。

 午後、薬を貰いに出掛ける。夏が戻って、外の照り返し熱が暑い限りである。細道に、雨で息を吹き返したハコベの緑が、こんもりとしている。小鳥達のお土産に、一掴みして帰る。小学生のランドセル姿が、帰って行く。一番好い時かも知れぬ。自分の波長に合った人生を、歩む事が出来る幸運と気力に恵まれる人間は、誰かな? ボクちゃんかな? お譲ちゃんかな?

 小さい頃は、自然体の色合いが強いのが、人間の側面である。然しながら、教育と言うものは、社会性と云う危うい鋳型に嵌め込む側面を持っている物である。成績と云う客観的な篩(ふるい)に、機械的に掛けられて居る内に、没個性の既製服を着せられてしまう。がんじがらめの管理網の中をひたすら行進して、圧倒的多数の人間が手にするのが、時と精神の緩みであろう。ドラマ、小説、評論の世界では、<趣味の無さに呆然とする>などの切り口が、耳障りの好い形容となっている。冗談、コイチャいけません。別称ヘンテリ連中の付和雷同の煽り口調を断ち切って、小学生低学年の頃に、原点回帰をすれば、好いのである。きっと、自分の波長に合ったジャンルが、自分を迎えてくれる。其処には、きっと手作りの充足感が、待っていてくれるだろうから。

心何処ーショート 蓋し、名曲
               蓋し、名曲(8/26)
 今週は、曇りマークの連続である。偶には手で文字を書かないと、文字を忘れてしまう。母方は、長寿が多いらしい。北海道勢に言わせると、私は間違い無く母方の血筋が濃いとの事である。そう為れば、80~90程の天寿を全うしそうである。計算すれば、後20~30年生かされてしまう。呆けてしまったら、一大事である。無防備に為ったら、女房・子供に苛められてしまうかも知れない。健康な内に、人間、最悪の事態に備えて、覚悟を決めて置いた方が、後悔は少なかろう。呆け防止の文作であっても、パソコンに何から何まで頼り切っていては、先が覚束ない。近未来を想定して見れば、文字を忘れ代筆にばかり頼っていてはバカにされる事、必定である。

 埃を被って、干乾びたカートリッジインクであっても、ペン先を水に潜らせれば、万年筆は蘇るのである。5本の万年筆と2本のカートリッジ・ボールペンを、交互に動かしてミミズの這いずった様な怪しげな文字を書き連ねる。清書係りの女房が居ないから、お説教を頂戴する事も無い。幸い、四畳半のお供は、人間語を話さない小動物達ばかりである。本日は、私が席を移動しているから、小動物に接するほどの近距離である。

 曇天の窓辺に置いたキリギリスのオスは、砂の上に力無く身を置いているだけである。彼の最大の跳躍道具・長い後脚の片方は、だらしなく地に付いている。そして、彼の体は、標本の様に動かないで居る。見るからに、<寿命のともり>を迎えている姿である。その傍らに、後から御用と為ったオスよりも一回り以上大きなメスが、オスの生死を窺うかの様に、短い前脚を掛けているのである。いざと為れば、共食いを常道とするキリギリス族である。曇天・逆光のシルエットであるから、些か男族として、忍びない光景でもある。

 只今、流れているCDには、<飛んでイスタンブール>の軽快なリズムがあるのだが、『恨まないのがルール』との事である。庄野真代の大ヒット曲には違いなかろうが、『飛んで』も無い。聞けば聞くほど、聞き捨て為らぬフレーズが踊っている。曰く、ひねり捨てるだけで・・ただのものめずらしさで・・夜だけのパラダイス・・人の気持はシュール・・蜃気楼・真昼の夢・・と来た物だ。
 
 これでは丸きり、キリギリスのオスとメスの世界『交尾だけのパラダイス』では無いか!!
カマキリ夫人なんて、流行語もあった記憶があるが、昼夜を分かたず夏の声を奏で続けてくれた我が四畳半の友である。然しながら生物たる物、最低限の生存距離を保ち続けなければ、泣きを見るのは何時も、弱者である。普段は、そっぽを向き合っているキリギリスのオス・メスの関係であるが、本日は弱ったオスの近くから離れないメス・キリギリスである。オスの頭に前脚を乗せたメスの大きな腹部の呼吸は、如何なる前触れであろうか・・・
 自然の摂理と諦めても、目の前で同属のオスが喰われてしまっては、忍びない限りである。キュウリを切って来て、ケースの中に置いて遣る。

 自分の産んだ卵を食べてしまうメス金華鳥、稚魚・幼魚をパクリと一呑みしてしまうグッピィ。何事も不用心は、消滅の源。生物界は、人間以上の問答無用の世界であるらしい。勝手な擬人化は、絵空事の世界である。
     
      おいでイスタンブール うらまないのがルール 
             飛んでイスタンブール 光る砂漠でロール。
                   夜だけのパラダイス
                               蓋(けだ)し、名曲である。

心何処ーショート 下衆のライフ・ワーク
               下衆のライフ・ワーク(8/25)
 始めがあれば、終わりがある。北京オリンピックが終わった。ある意味では、長かった北京オリンピックであった。私の中では、本当の意味での北京オリンピックは、終わっては居ないのであるが、形としての限定的セレモニーは幕を閉じたのである。
振り返れば、幾つかのテロップが頭の中に流れる。オリンピック需要による工業物資の高騰に気付かされる。農薬入り餃子から引き付けられて、チベット騒動から聖火リレーに世界の注目を集め、四川大地震そしてオリンピック開幕。200国以上の参加を集め、連日の試合内容が各国に発信され続けた。中華人民共和国の国威過大演出は、閉会式にも駄目押しの形で配信され続けた。世界の選手達、競技関係者の紳士淑女の各位、お疲れ様でしたの感である。

 朝食時、母に閉会式の感想を聞くと、飽きて早々とチャンネルを変えてしまったとの事であった。お前は如何だと聞かれるから、帰国している筈の旗手・北島選手の存在に、下衆の勘繰りを働かせていたと応えた。選手団の一員としての行動は、組織優先の行動であると思われる。四年間の選手生活の全てを、オリンピックの試合に投じて来た暁に得た二連覇・金メダル2・リレーの銅メダルである。一般人の普通の感覚では、悲願達成の開放感にリラックス・物見遊山の心情・行動が伴って当然の話であろう。サミット絡みで来日した首脳が、その機会に、東京・京都をプライベートに訪れるなどと云った話は、良くある事である。一般人として見ても、序に足を伸ばして、何何すると云う発想・行動を取るものである。これを称して、<機会の有効利用>と云うのである。『悪乗りの便乗・機会の悪用』と為らない以上、問題視される筋合いでは無い。自然体の正常人なら、取る筈の行動が取れていない処に、違和感を感じた次第である。

 ご存知の様に、中国は大国にして4000年の歴史を、世界に誇る(吹聴する)国である。そして、日本の文化の教師役を歴史に記した国である。個人北島選手が興味を持てば、閉会式の旗手役がJOCから内示されていたのであろうから、競技後のリラックス・物見遊山的な中国滞在も申し出れば、一般的・身内意識からも『恩賞効果』として二つ返事で、許可が出ると思われる。その彼が、閉会式の旗手役の為に再入国したのである。興味を引く事実である。
 
      此処が、下衆の勘繰りとして、興味深い処なのである。
①彼は余程、中国に興味が無かった。②中国の環境が、我慢為らなかった。③中国での行動の規制の強さに、自由の利かない物見遊山を断念した。④一刻も早く日本で、リラックスして疲れを取り除きたかった。⑤選手団の一員として、組織優先の行動に従ったまでの事。以下、略。
以上の組み合わせは個々人自由であるが、私流に考えて見ると、中々に面白かった。

 開催中、環境が体調に及ぼす影響を観察するのも、素人ウォッチャーの大事な心得の一つである。NHKの北京オリンピック女性キャスターの顔付き・体付きの変化を、観察しているのが私のチェックポイントの一つでもあった。日本ではポッチャリ感のある、魅力的な女性キャスターであったが、大分ダイエットが加速している様に見えたのは、私の眼の錯覚だったのであろうか・・・
北京オリンピックの選手団・報道陣は、事大主義の大国中国であるから、当初から危惧されていた環境汚染・食の安全面からも、食・住共にVIP待遇であった事は、想像に難くない処である。オリンピック初日は、北京市街を延々と映し出す女子マラソンであった。そして最終日を飾ったのは、同様に男子マラソンであった。初日と最終日の間には、2週間の時間差が横たわっている。共に快晴の天候である。2週間を経て、<北京の靄>と称された大気の画面には、太陽の日差しと青空が見えた。そして、沿道には小旗を振って、応援する観客の人垣が有った。初日と最終日の、この見事なまでのコントラストは、一体何を象徴しているのか? である。

 企業の中国進出の華やかなりし頃、中国との合弁企業化を模索していた社長をしている先輩が居られた。中国に関しての雑感・私見を打った物が手元にあったから、それを持って伺った事があった。お返しに、色々レポートとアドバイスを頂いた事があった。先輩曰く、<似て非なる国を見て来い。> それから、青島・大連を3度訪れた事があった。以前から馴染めない<張子の大国>・中国は、私の中で益々大きくなって行った。北京オリンピックの開会式・閉会式の国家セレモニーは、素人ウォッチャーには、私見への大きな証左の一つと為った。
 
 さて、政治を左右する経済分野・オリンピック特需が完了したのである。どんな行く末が中国を覆い、どんな舵取りが切られて行くのか、興味の尽きない<張子の大国>の近未来である。心密かなる私見との現実差をトックリと、観察・思考して行きたい物と考えている次第である。

心何処ーショート エール・タイム
               エール・タイム(8/24)
 自転車で駅に行く。駅前周辺は、私には都会過ぎるから、余り足の向かない一角である。待ち合わせの7時には少々あるが、Tの事であるから居る可能性大である。居なければ、偶には駅周辺の雰囲気に身を置くのも、何かの足しに為ると云うものである。そんな事を思いながら、西側から自転車を乗り入れると、タクシー乗り場の石のベンチに案の定Tが座っている。後姿の雰囲気は、高校時代のTの感じが漂っている。彼とはサイパン、フィリピンと5~6回以上遊びに行っている。Tのリラックスした自然体のポーズは、何時に変わらない。

「おぅ、待ったか。」
「おや、まぁ、傘持参じゃないか。Rも、変わったもんだ。」
「賄い夫遣ってれば、主婦感覚だよ。Tも自転車で来なくちゃ。」
「帰りが坂だから、きついよ。高校時代は、毎日通った道だけどな。」
「もう直、退役だ。そう為れば、俺みたいに、自転車の愛好者に為るさ。自転車は、駐車場も渋滞も無いぞ。雨さえ降らなきゃ、人間様の最高の発明品だぜ。」

        そんな事を話しながら、駅前から繁華街に足を運ぶ。
「おやおや、韓国パブが替わってる。一時、韓国姐さんにぞっこんで、通った店なんだけどなあ。」
「こんな上等な店行ってたのか?」
「物の弾みだわな。何本釣りか知らねぇけど、大分授業料払わされたぞ。」
「ああ、あのオネェちゃんか、別嬪さんだったもんなぁ。如何してるかね?彼女。」
「ああ、お蔭さんで、音信不通だよ。あれだろう、そろそろ韓国のネェちゃん出稼ぎに来る頃だろ? モテル男は辛いだろう。ヘヘヘ。」
「ああ、9月に成ったら、来るみたいだよ。遊んでくれるオネェちゃんは、大事にしとかなくちゃ。色気を失ったら、男の墓場は直ぐそこだって話だろ。羨ましいだろ。オッホッホ。」
「馬鹿コイチャ、イケネェヤ。男は、我慢我慢だよ。我慢の果てに、楽しみ有りってヤツさ。」

 韓国料理の店に着いた。一度Tに呼び出されて、来た店である。彼の彼女とその友達の韓国オネェちゃんと飲んだ店である。Tは、韓国通である。韓国料理が口に合う様で、彼の作ってくれる料理のレパートリーの中にも、ちょくちょく韓国料理が食卓に上るのである。

     店にとってTは、馴染みの客であるから、何かと遣り取りが面白い。
「そんな食べれないよ。私の言う事、聞きなさいよ。」
「あら、そう。」
「味は、如何する? 辛くするか? 普通にするか?」
成る程、実に面倒見の好い店である。

        ビールで乾杯して、男の羽伸ばしタイムが始まる。
「この前さぁ、ジャネットから電話があって、日本で稼ぎたいってさ。今は、山に仕事行ってるって話だったぞ。」
「好きだね。行ってくれば好いじゃないか。フィリピン。親父さんは、未だピンピンしてるから、3年分の憂さ晴らして来いよ。Tとしたら、3年間品行方正の親孝行したんだもの。立派なものだわサ。俺はフィリピンには、興味無いからな。誘っても、行かねぇぞ。」
「そう云えば、そろそろだなサイパン。居るのかね? 彼女。」
「如何かね。居ると云えば居るし、居ないと云えば居ないだろうね。もう、すっかり様変わりしてるだろうからね。熱々の頃さ、面白い夢を見てさ。俺が1人でサイパンで彼女の消息聞いてる夢さ。ほら、Tが歳を取ったら、青春時代のアメリカ放浪の足跡を、辿りたいって言ってただろ。そんな感覚があるよ。」
「そうなんだよな。俺、大学卒業して片道切符でアメリカに渡って、10年暮らしてたからな。時間が出来たら、人間、自分の足跡を辿りたいって願望が、頭を擡げるものだよ。まぁ、旅の相棒がMさんだから、気分はリラックス・モードだろうしな。お前は1人だから、顔に見せないストレスもあらぁな。寛いで来いよ。」
「ああ、韓国人夫婦のレンタル・バイク借りて、適当に島を走って、夜はロシアン・ルーレットで、ロシアン・ウーマンとチークダンスでもして来るよ。海は歳だから、足の届く範囲で水遊び程度で済ますよ。何しろ、身近で水死事故があったと言うしな。」
「そうそう、あん時見たいに、胸の処まで浸かってビーチでビール飲んでりゃ、丁度頃合だよ。」
「何だ、何だ。」

     Tの背伸び視線の先を振り返ると、韓国美形の入店である。
 衝立が邪魔になるから、衝立の下の方から覗くと、彼女の若い大腿部が覗けた。

「これ、R、ハシタナイ。中、見えるか?」
「バカこけ。今日は寒いんだ。確り履いてるよ。」
「聞き捨てならネェ、見えるって事じゃねぇか。真面目な顔して、とんでもねぇ、野郎だ。」
「ちょっと、何してるの? 駄目でしょう。」

    衝立の上から、中年女性がニヤニヤして、こっちを見ている。
「おぅ、これから店に行くのか。」
「ああ、そうだよ。Tは相変わらず、女好きなぁ、こっちの人は、初めて見る人なぁ。」
「こんなものは、駄目だよ。話しちゃ駄目だぞ。壊されるぞ。」
「何て事言んだ。バカ野郎。ママさん、こいつとコレ、何回遣ったの?」
「3回したよ。後の2回は酔っ払ってて、役に立たなかったよ。アッハハハ。」
「ああ、そう。今度、そう云う時は、俺に電話してよ。ピンチ・ヒッターするから。」

 成る程、この女性が、Tの話の端々に登場する店のママさんらしい。財布の中空っぽでも、正々堂々と呑める店にして、羽目を外した時には、ビール瓶で頭をボカンと殴られる付き合いの長い・長い<公認の店>のママさんらしい。彼女は、笑顔を振り撒いて、夜の街にご出勤して行った。男女関係は、こう有りたい物である。流石に、お弟子さんを持つTのお師匠さん振りである。

「Tさん、如何する? 私の言った通り、食べれなかったでしょう。言う事、聞かないんだから。」
「やあやあ、美味かったけど、もう歳だ。食えなく為った。R、食えよ。」
「働いてないから、すっかり胃が小さく為ったんだろう。ちょっと休憩頂戴よ。如何、絵でも見るかい?」
「うん、これ、トノサマ・バッタ? イナゴ? 絵、上手じゃん。あなた描いたの?」
「そうだよ。でも、外れ。ギース・チョンだよ。」
「ああ、キリギリスね。知ってるよ、韓国にも居るよ。」

 味の好い気取らぬ店にして、場所が好いから、客の入りは好い。畳の予約席には、二組の宴会が弾んでいる。明日は北京オリンピック最終日である。伝わって来る内容は、柔道・水泳・女子ソフトボールに男子リレーである。最後の冷麺を見事に残してしまった。仕方の無い事であるから、店に敬意を払ってお持ち帰りとする。

     いかんいかん、二人とも満腹にして、足元が覚束ない。

心何処ーショート 曇天の長袖、静寂運ぶ
             曇天の長袖、静寂運ぶなり(8/23)
 涼しくなって、すっかり深寝をしてしまった。本日の降水確率は、30~50%の予報である。ぼーとする頭の目覚めにタバコを吸いながら、四畳半を見渡す。日差しの無い曇天に、風が少々肌寒い。澄んだ水槽の水に、グッピィ達が緩やかな行き来をしている。セミの声は遠くか細いが、ケースの中のキリギリス達は、相変わらずのギース・ギースの鳴きを奏でているものの、曇天の涼しさの中では、些か侘しく感じられる彼等である。

 遅い朝食後、母と一緒にテレビを見続ける。アメリカの絵本作家の話である。母と同じ生まれ年の様であった。新聞購読を止めてしまったから、番組をチョイスする事が無くなってしまった。テレビとの付き合いは、母の部屋にいる時だけの付き合いと成っている。良質の番組との出会いは、意思の働かない偶然かもしれない。

 アメリカの北端に位置するデンバーの老作家の自然庭園をバックにした、19C風の生活空間で暮らす母とそれを手助けする息子、孫達の『自然の中に、ゆったりと流れる時』の映像である。今年天寿を全うしたと云う老作家は、絵のDNAを母から受け継ぎ、そのDNAを子供達、孫に伝えている。その原風景を広大な庭園と云うバックボーンに塗り込めて・・・
こう云う番組は、会話の少ない母と倅には、好番組である。番組の雰囲気に触発されて、<大草原の小さな我が家>を引き合いに、私の口も滑らかに回り、母の自然に溢れた娘時代の記憶が蘇り、エピソードを語ってくれる。

 私の部屋のテレビは、その殆どが、ビデオ・テープ、DVDの映画を映し出すのが、役目に成っている。四畳半ではNHKのラジオと歌テープ、歌CDと、極々たまの浪曲CDである。私には、疲れない丁度好い装置である。

 <今年は、如何してマンジュシャゲが、姿を見せないのかね。>と、訝しげに思っていた母である。庭を見ると、そのマンジュシャゲが漸く姿を伸ばしていた。つい先日、顔を出さない彼等の原因に水分のカンフル効果を目論んで、散水を充分して置いたのであるが、それが効を奏したらしい。人間が気にする以上に、植物のセンサーは、気温・水分とデリケートに出来ているのであろう。地震予知の鯰同様に、地球環境の変化を、きっと敏感に映している筈であろう。本日は、Tとビア・ガーデンで飲む約束であるが、とんだ涼しさに見舞われてしまったものである。長袖を着る始末である。

 羽毛を纏った小鳥達には、長袖を着る気温が心地好いのであろう。藁巣を持たない若鳥は、リズムカルに止まり木を渡って、元気が好い。親鳥は、繁殖細胞を擽られているのだろうか、藁巣を出たり入ったりしている。オス親は時折、胸を張って背伸びをする格好で、オスの囀りを歌っているが、メス親は、餌入れの餌を啄ばんでいる。そのケージに純白成鳥と成ったメスが、身を寄せている。人間の目からは、親を慕う仕草に見えるのだが、それに引き換えオス二匹の態度は、覚めた素っ気の無さである。彼等に擬人化を試みて、あれこれと想像力を膨らませるには、私の男性ホルモンは強過ぎるのだろう。後が続かない、あるがままの観察感想である。

 ラジオのオリンピック野球の三位決定戦中継を聞くとも無く流しているのであるが、苦戦続きの星野ジャパンである。意気の挙がらぬ野球群団、女子ソフトボール・男子400m×4リレーの快挙の下、焦ればジリ貧に繋がる焦燥感だけが伝わって来てしまう。天に見放されてしまった感がある。現在六回終了8対4で、米リード中である。鳴りを潜めていたセミが、鳴き始めた。

     こんな事を思い付くまま打っていると、電話である。
「おぅ、この寒さじゃ、外でビアガーデンって訳にも行かんだろう。駅前で、韓国の鍋でも食おうぜ。」
「おぅ、そうだな。風邪引いちまうよ。」
「七時に駅前で如何だ?」
「おぅ、分かった。」

心何処ーショート はや金曜日
              はや金曜日(8/22)
 NHKの<知るを楽しむ>で、ゲゲゲの鬼太郎の作者・水木しげる氏を見る。画伯・岡本太郎氏を柔らかくした感じのお方であった。拝見しているだけで、堪能してしまう。本音か?はぐらかしか? 兎に角、話の間と用語が何とも言えず、ついついにやけてしまう。味わい深い御仁である。これで、何日か午前中のテレビが、楽しいと云うものである。すっかり母の部屋で長居をしてしまった。

 悠長なる波長を頂戴して、定位置に座ったものの・・・ 言の葉が一向に浮かんで来ない。弱ったものである。先日描いた粗末な用紙の余りがある。金華鳥を描いたから、描くとしたら、グッピィかキリギリスである。綴じ込んだファイルには、キリギリス関連の文作が幾つかある。キリギリスを描こうと、見易くする為に、ケースを水槽の上に載せて、スケッチと洒落て見たものの、私にはその技量が有る筈は無い。早々に自覚と反省・断念をして、<適当描き>に移行する。適当描きの方が、自分らしさが好く出て、面白い幼稚画が仕上がるのである。お遊び・お絵描きの一環でも真面目に遣れば、それなりの可笑しな絵が出来上がるのである。『帯びに短し、襷に長し』のキリギリスが、苦労の果てに三匹も出現してしまった。逆立ちしても、上手く描けないのであるから、如何仕様も無い結果である。奇妙奇天烈で可笑しな味が、私の持ち味なのである。オケラかキリギリスかは、見る人の自由であるが、地上に出して置けば、<常識の推理>が働こうと云うものである。色鉛筆で、慎重且つ大胆・大雑把に色を付けて行く。手先が不器用であるから、精魂を傾注するお時間である。適当・出任せ放題の文章打ちの数倍に匹敵するエネルギー消費である。完成すると、ほとほと疲れる。

 エコバックを持って、大手スパーに買い物に行く。籠には、肉類が多く入ってしまった。久し振りに、目先の変わった冷やし中華でも、作って見るとしようか。

心何処ーショート こだわり
                 こだわり(8/21)
 天候が崩れると云う事だった。降らぬ内に月に一度の、会社に顔出しに行く。丁度、昼時に掛かったので、話をして帰る。ライオン堂でDVDを三本買う。観たい物がある訳では無かったが、買って置けば何時でも見れる。日陰が、涼しくなったものである。自転車であるから、車では入れない道を通るのが、自転車の楽しみの一つでもある。

 つくづくと街は中心を替えて、大きくなるものだと感じてしまう。嘗ての中心街は、細々と商いを続けていると云う廃れ様である。人通りを失った昔の繁華街は、店の主人が通りで立ち話をしている。風景としては、古さが溶け込んだ、風の通る町角でと云った処である。ひっそりとした通りに、自転車を漕いでいると、懐かしい物を見た。クリーニング屋さんが、自転車の荷台に大きなリュクサックを被せた様な、あのクリーニング屋さんの自転車である。この処のガソリン急騰に依って復活したのか? 極近々のお得意さん商売の為の利便性故だろうか? いずれにしても、珍しい物を見掛けて得をした気分である。縄手通りをユラユラ流して、今度は裏通りに自転車を進める。驚いた事に、結構、蕎麦屋が目に付く。

 観光都市と云っても、こう蕎麦屋が多いと見た目の<こだわり>を、強調するしかあるまい。私も蕎麦は口に合うから、小学生からの蕎麦好きである。私が美味いと感じる蕎麦屋の一軒は、造りと来たら最低の店構えである。40年近く通っている。親父さんは、すっかりもうろくして、倅さんと言っても私より年長だろうが、蕎麦打ちは30年程まえから、倅さんに移っている。100%の手打ちであるから、売り切れた時点で、さっさと暖簾を下げてしまう。店内から調理場が丸見えであるから、体格の好い倅さんが、黙々と蕎麦捏ねに汗を掻いている姿は、正に力の入った肉体労働である。人間は、機械では無いのである。一生懸命の手打ちの数が、此処までと言われれば、客が文句を言う訳には行かないのである。山辺にある小さな蕎麦屋さんである。

 狭い店内は、行列が出来ている。客は席が空くと、片付けの終わらないテーブルに座って、注文を待つ。ひたすら啜って、蕎麦湯を呑んで後客に席を譲って、帰って来るのである。二人・三人で行けば、別々のテーブルで蕎麦を啜るのである。此処の店は、如何云う経緯か判らぬが、昔から蕎麦とラーメンがセットなのである。松本の西隅にある温泉街の中にある。蕎麦が美味いから、常連客が主流である。そして常連客の比率で多いのが、湯上りの夫婦客である。
 家族だけで切り盛りする、蕎麦屋一家である。悪い人達ではないが、物の見事に言葉による<味も素っ気も無い>黙々と其々の仕事をこなす一家なのであるが、不平を言う客は居ないのである。

 高校生の頃に、この店を知ってしまったから、私は<大変拙い刷り込み>を頂戴してしまったのである。形(なり)のしょっぱい店ほど、<親父の拘りの美味い味>が眠っている。そんな店の味を探すのが一番。そんな事を、『蕎麦の味』で教えてくれたのが、この蕎麦屋さんである。

「オヤっさん、何時食っても、美味いよ。大したもんだ。」そう言うと、
「そうずら。」と一言、ニタリとする親父である。
汁・薬味付きの生蕎麦も販売してくれる店で、女房が行くと、親父の野郎は愛想を崩して、懇切丁寧に蕎麦の茹で加減を教えるのである。そんな親父の姿を見て、男は皆鼻の下が長い物と、私はニヤニヤして黙って見ているのである。

心何処ーショート 親子漫才
                親子漫才(8/21)
 夜が涼しく、静かに成ったものである。テレビは疲れるから、ラジオでオリンピック放送を聞き流している。女子ソフトボールは、目出度く日本の決勝進出と為った。キリギリスは、吾関せずで、オス三匹が窓辺で鳴いている。窓からは、コウロギの声が届く。蛍光スタンドのスポット明かりの中で、グッピィが紅の尾びれ・背びれを震わせている。秋の夜長には、一足も二足も間があるが、気分的には、秋の夜長を感じてしまう。お向かいさんのキリギリスも健在の様子である。
昨日の深夜の散歩は、些か涼し過ぎて、早足の体温調整すらしてしまった。

 本日は、私も母も寝ていて虫に遣られたと言う。二人、ボリボリ掻きながら、虱・ノミ・ダニ話に花を咲かせてしまった。お互い痒いのは、困る虫害である。殺虫剤を買って来て、母の部屋・私の部屋に殺虫剤を注入した次第である。

 私は虱(しらみ)を知らない世代であるから、母の手振りと顰め面の虱体験談は、幼女が話している様で、実に面白かった。小さい頃のノミについては、記憶がある。同じ部屋で、兄弟は寝ていたから、消灯後暫くして、長兄の<それ!!>の号令一下、電気を付けて掛け布団を引っ繰り返して、憎きノミをひっ掴まえて、親指の爪に押し潰したものである。これには、ノミのジャンプを封じる<唾付けの裏技>もあった。ブチュッと潰れて、赤い血が飛ぶ様は、記憶にあった。冬の夜とも成れば、ネズ公様のお出ましである。兄弟で箒を構えて、台所に出没するネズミ退治も、興奮したものである。多勢に無勢のネズ公も、餓鬼共の凶暴さには歯が立たない有様で、一撃を喰らったが最後、白旗の絶対無いデス・マッチであった。
 臨床医学・薬の副作用について、研究が行き届かなかった時代である。<知らぬが幸い?馬鹿?無頓着?の時代>であったから、日本中バカの一つ覚えで、殺虫剤は白い特効薬・DDTのオンパレードであった。何処の家庭でも、春と秋は畳を干して、床・縁の下・トイレ周りをDDTの白い粉をタップリ振り撒いて回った物である。それも、素手で遣っていた。夏に成ると蝿活性期である。茶色のベタベタした蝿捕り紙が台所にぶら下がって、迂闊に動くと頬っぺたにベッチャリで、<ウァ、汚ぇ!!>なんて事が、日常茶飯事であった。

 砂糖は高級品、一般甘味料は後世、これまたドクロマークの烙印を押されたサッカリンの時代でもあった。そう云えば、食紅なんて物も大手を振って、赤飯は見事な色をしていたし、紅生姜・酢だこ・梅漬けなんかも、やけに赤かったのを覚えている。食紅も各家庭に、普通にあった。脚気(かっけ)予防とやらで、麦飯の流行った時期も有ったし、飯のおかずと云えば、味噌汁と漬物・佃煮・干物・塩物の魚のローテーション粗食にして、どんぶり飯の時代であった。その代わり、今では高嶺の花・貴重品・珍味の代表格の鯨肉だけは、嫌に為るほど食卓に載った物である。
それに丸刈り用のバリカンも家庭の必需品であった。情報源は、如何云う訳かどっしりしたラジオであった。そして新聞紙は、何役も兼ねていた。薪の火付け・包装紙・紙袋・・・etc

 物が無ければ、遊ぶしかあるまい。遊びに集中すれば、工夫が生まれる。団欒をおかずに、どんぶり飯をかっ込むしか無かったのである。皆がそうであったから、偶のご馳走が話題に成っただけである。物が無かったから、その分、皆で集まって一緒の時間を過さざるを得なかったのである。一緒の時間が長かった分、家族・家庭・社会の共通項が多かったのである。状況が、人を造るのである。そして、人が状況を造ってしまうのである。気付いた時に、人は状況に押し潰されてしまうのである。これを称して、大いなるタイム・ラグと言うらしい。
 話の落ちとしては、粗食時代を経験した世代が年金時代を迎えて、負担増の大きくなる支え世代が、早死にしてしまう。粗食時代を経験した世代は、中々にして、しぶとい筈である。如何考えても、帳尻は合いそうも無い。長生きは、禁物の近未来との事である。

 92ともう直ぐ還暦の母と子の昔話は、丸で漫才の世界である。こんな時、小さくなった母と言えども、昔を振り返るご講話には、年季の厚みと重みがある。倅としては、合いの手を打つしかあるまい。些か調子に乗せたら、ご母堂様は、何と懐かしき唱歌のお披露目である。普段は矍鑠(かくしゃく)とした態度を崩さない母であるが、歳を取ると子供に還る人の歩みである。倅ながらも、微笑ましい光景である。仏壇の上に飾ってある祖父・祖母・父・兄の遺影に見下ろされて、不肖の私は、苦笑いの頭を掻くしか無い一時であった。

心何処ーショート バート・ランカスター
                バート・ランカスター(8/20)
    本日の文作予定は、前に打ったバート・ランカスターに関する紹介であった。
 母は時代劇のファンである。10:30から始まる再放送の松方弘樹主演の<遠山の金さん>が始まる頃は、私は四畳半の定位置である。朝、コメントの返信を打っていて、朝食がずれ込んでしまった。食事を終え、母とお茶を飲んでいると、ケーシー高峰氏の登場である。鼻の下を伸ばしての下心親切さが、仇に為ったオープニングに、バカ笑いするのが男と言うものである。ついついニヤニヤして、腰を落ち着かせて見ていると、今度は金さんが急所蹴りを小娘に喰らって、ヒーコラヒーコラの態である。頭の半分に、ジャイアント馬場さんの憎めないキャラクターを映し出して、同類の痛さのお付き合いである。長屋娘の父親を演じる★★さんの名前が、如何しても思い出せない。

「婆さん、宿題にしよう。」玄関の掃除と、小動物の世話をしながら、必死で思い出そうとするが、『熊』の一文字とその前に付くカタカナ文字だけが、モワ~と頭を掠めるだけである。嗚呼、歳は取りたくない物である。

    諦めてタバコを吸いながら、遅いモーニング・コーヒーを飲んでいる時に
<レオナルド・熊>のテロップが、頭に動いた次第である。喜び勇んで、母に報告しに部屋に行くと、居ない。??? 脱衣所の洗濯機を回している母の姿があった。本日、体調が良さそうである。
「思い出したよ。レオナルド・熊さんだよ。」
「そうかい。そうだそうだ。レオナルド・熊さんだ。もう、私の頭は、駄目だ。顔はあるけど、名前が出て来ない。昔は、先回りが出来たのにね。全くだらしの無い、情けないの日々だよ。」
と、ニコニコしながら、何度も大きく頷く仕草をしている。


      タイトル:<あったあった!! 遂に見付けた。>2007/3/11
 前日は7:30から、翌朝の4時過ぎ迄の通し労働であった。夕食時の2時間弱の仮眠だけであったから、午後からの出社と雖も、時差ぼけの様な感じである。時間はあるが、気力の失せた帰りに、3月の掘り出し物は無いものかと、ライオン堂に寄り道して帰る。

 先ずは、500円DVDのコーナーに足を止める。グリア・ガーソンの<キューリー夫人>を見付け、思わずほくそえむ。続いてマーロン・ブランドの<片目のジャック>を買い、グレタ・ガルボの<クリスティーナ女王>を買った。片目のジャックは、ビデオ・テープ版を既に持っているのだが、500円DVDであるから、スペアとして持っていても損は無い処である。ガルボは、私の世代では馴染みの薄い「伝説の女優」の一人である。言うならば、話の種に一本位は、所持していないと様に為らないの感覚で買ったものである。子守唄代わりに、<宝島>を買う事にした。      
 500円コーナーを後にして、お目当ての20世紀フォックス社のクラシック・スタジオ・シリーズのコーナーに行く。このコーナーには、欲しい物が幾つかあるのだが・・・お値段の張るコーナーである。手に取って、吃驚(びっくり)通常価格5000円弱の物が、キャンペーン中に付き1980円とある。最上段の目玉DVDには、バート・ランカスターがアカデミー主演男優賞に輝いた<エルマー・ガントリー>が、鎮座おわしている。調子一本やりの山師の彼が歌う賛美歌のシーンと嘗て恋仲であった娼婦役のシャリー・ジョーンズ(彼女は、この作品で助演女優賞を受賞している。)が、印象的に残る映画であった。ダビング版を持っているのであるが、これはファンの心得として、買わずば為るまい。本日は、幸先が良さそうである。<追跡者>を探して、コーナーを丹念に追って行くと・・・

  あったあった!! 探し回って、何年越しのご対面であった事か・・・・
        探し物に出会えた喜びは、年齢に関係無く<心弾む一瞬>である。

 B・L物の仕上げとしては、<空中ブランコ><ニュールンベルク裁判><5月の7日間><プロフェショナル><家族の肖像>が、揃えば文句無しのマイ・コレクションなのであるが、時間が掛かりそうである。B・Lのファンとして、実に物足りない事は、好きな俳優の中に、彼を挙げる人が、意外と少ない事である。私としては、実に不思議な現象としか言い様の無い物足り無さなのである。他人は、クーパー、ウェイン、ゲーブル、フォンダ、ディーン、ヘストン、シナトラ、ブリナー、イーストウッド、などを口にするのに、肝心のバート・ランカスターが出て来ないのが、私には癪(しゃく)の種なのである。B・Lは、『ベン・ハー』の主役を、<私は、歴史物には興味も無ければ、イタリア人でもない。>と、素っ気無く断ってしまった、逸話を持つ大俳優である。その間の引き摺りは、製作者カルロ・ポンティの妻・ソフィア・ローレンとの競演作『カサンドラ・クロス』の大作があっても、二人の絡みのシーンが1コマも無い事でも、実に興味を引く映画の裏側である。

 今週の<波乱万丈>に高橋秀樹が登場した。彼の日活大型新人時代のプロモーション・フィルムの中で、彼が目指す俳優として、B・Lを上げていた。さすが<桃太郎侍>と声を掛けて、拍手を送った次第である。(蛇足ではあるが、私は日活陣の中では、赤城圭一郎・宍戸錠・高橋秀樹に拍手を送っていた。)また、クルード・ルルーシュ監督の仏映画<男と女Ⅱ>の中で、女の成人した娘の台詞の中で、「B・Lに誘われれば、直ぐ付いて行くわ。」の行があって、私は<ざまぁ見やがれ、映画通は、B・Lの凄さ・魅力を理解している。ジョン・ウェインの様なワンパターン役者なんか、まるっきり目じゃないね。>と大いに溜飲を下げたものである。

 芸術・文化の国・大の相撲ファンを任じるシラク大統領を擁(よう)する文化大国フランス。フランス映画界でも、彼はハリウッドを代表する大スターなのである。米仏合作の<大列車作戦>では、ジャンヌ・モローを、イタリアの巨匠ルキノ・ビスコンティの<山猫><家族の肖像>では、クラウディア・カルディナーレを、伊英合作<カサンドラ・クロス>では、ソフィア・ローレンを起用して、主演に迎えた彼は、ハリウッドを代表する国際スターなのである。                          

 彼の演ずる領域は、実に広範囲に及んでいる。海賊物から西部劇の娯楽アクション・文芸物・シリアスな社会派ドラマ・SF・戦争物・パニック物・コメディタッチ物まで
怪傑ダルト、真紅の盗賊、空中ブランコ、ベラクルス、OK牧場の決闘、許されざる者、アパッチ、ワイルド・アパッチ、追跡者、プロフェショナル、終身犯、愛しのシバよ帰れ、旅路、成功の甘き香り、ニュールンベルク裁判、泳ぐ人、ダラスの暑い日、エルマー・ガントリー、アトランテックシティ、ドクター・モローの島、地上より永遠に、深く静かに潜行せよ、大列車作戦、大反撃、大空港、カサンドラ・クロス、タフガイ、ローカル・ヒーロー、・・・etc 
 
 中学時代から、「これぞ男」と決めて、見続けたB・L映画の数々である。血気盛んな時期から、<男の生き様>のとして、彼演ずる「広範な男」をお手本として来た信者である。私にとって、バート・ランカスターは、役者以上に私の「人生の師」たる側面が多い。漸くにして巡り合えた一本であるからして、早々にして見たいのであるが・・・・体調万全で「師」を鑑賞させて頂かねば、非礼に当たる。逸(はや)る気持ちをグゥッと抑えて、寝不足の身体には子守唄代わりに少年向け<宝島>を付けて寝る事にする。

 殊勝な心掛けが天に通じたの? ウクライナのライオン娘ナターシャの夢で目覚めた。何故か彼女の黒髪の匂いが脳裏に残っていた。彼女の髪の匂いに、鼻の下を伸ばしながら、出勤前の一服を寝床で燻らせる。・・・・ これも師のご返礼の一つかも知れぬ・・・

 体調万全で、西部劇<追跡者>に対する。単純な筋では無い。凄い映画である。1970年製作であるから、彼、57歳の作品である。共演は、ロバート・ライアン、リー・J・コップ。クセ・アクの強さ・貫禄・個性の強さ・演技力は、三人とも一歩も退けを取らぬ役者揃いである。彼等は、映画全盛期を引き継いだ映画スター第二世代の代表者達である。スクリーンからブラウン管への移行を味わって来たスター達であり、ハリウッド的西部劇が廃れ、<マカロニ・ウエスタン、ワイルド・バンチ>の残虐・残酷性を後目に、正統派西部劇の復活を渇望していたスター達であったろう事は、想像に難く無い。

 三人のそんな男の意気込みが、全編プンプン横溢している。端的に言えば、<役者達が、がっぷり組んで作った映画>である。年輪を刻んだ男達の後姿は、奥深く、何れも悲哀を湛えている。心に、余韻を引き摺る西部劇である。そして、男達の挽歌・西部劇の挽歌でもある。
     

心何処ーショート 脳内公開
                  脳内公開(8/19)
 とあるブログで四年に一度のオリンピック年に集まる、同級会の記事を読んだ。子育て・子供の離れた年代の同級会・同窓会は、楽しいものである。少年少女の時代から、30年40年を経て、心に去来するあの当時、その当時の想い・思い出は、自分自身の<心の郷愁>の味と臭いがするものである。触発されて、本日分と致しまする。
 
   物は考え様、感じ様で、十人十色の違いがあるのは、当然の話であろう。

 或る男が居る。彼は餓鬼の頃より、未来志向一辺倒のデリカシィに欠ける男であり、私の苦手なタイプの一人であった。過去は過去であって、過去と決別する処に、未来が開けると云うのが、彼の持論であった。私から言わせると、感性ゼロの一見前向き思考にしか過ぎない小賢しい人生論と、聞き流していたものである。
 人間、実際に体感出来るのは現在だけである。時間軸を過去・現在・未来と秒針で辿れば、現在は一瞬にして過去の物となる。例え、その区分けを<出来事と云う一つの括り>を設けた処で、何時間・何週間・何ヶ月の現在or現在進行形でしか有るまい。自問自答タイプの私からすれば、多くの過去は現在進行形なのである。体感した過去の出来事は、脳裏の収納箱にストックさえして置けば、類似系・対極系のグループ別ケースに積み置かれるのである。何も殊更意識的に整理整頓などしなくても、人間の頭脳は無意識的に、それらを収納しているのである。俗に云う処の過去の出来事が、走馬灯の様に脳裏を巡ると云う体感は、正にそれらの脳構造を示している証左の一つであろう。

 こんな考えに基づいて、私は過去を現在進行中と捉えて、脳裏に遊んでいる男である。ウエートの置き方次第で、過去・現在・未来について、人は其々の<嗜好>で論を張っているだけであろう。私にした処で、そうである。

 或る時、その彼が、私の処に憔悴し切った風体で、苦しい恋心を相談に来た事があった。破局した恋心の再炎について、<過去を捨て、未来を待つか>の相談であった。お前の未来が、過去の評価を基とした進歩=未来とするならば、過去を捨てる<持論>を押し通せば好かろう。但し、評価の本態こそは、過去評価・総体評価にしか過ぎないのであるから、過去が積み重なれば、その時点でのマイナス100点は、総体評価の中で<敗者復活の再評価>を掴んで、その中で浮上して来るのは、これまた、必然の論理的帰結である。
 彼は中学・高校の同期生である。成績は良いのだが、感性に難点のある男であったから、この際、徹底的に論破した遣りたかったが、恋煩いの男に其処までの引導を渡すほど、私は冷血漢では無かった。彼は目出度く過去に戻って、結婚をした。

 少々古い文作で恐縮ではありますが、初恋の女性に因んだ夢心を一つご披露致しまする。
 ノーテンキ親父の脳内散歩でもして、お笑い下されば文作のカビも乾くと云う物です。

           タイトル:『ありがとう、心配には及びません。』

「こういう所の剃り残しって、自分では、中々気付かない物よ。」
私の頬を軽いタッチで撫でながら、指先の感触で髭の穂先を見付けると、その箇所の皮膚を引き伸ばしてジョリ・ジョリと剃刀を当てて行く。目を瞑っていると、皮膚感覚は目の代わりをして、敏感に為るものである。女の繊細な指先が、顔全体をチェックしながら、剃顔の最終仕上げをしている。
 胸に組んだ私の肘先からは、柔らかな女体の感触が伝わり、耳には小さく女の体内の音が聞こえている。ジョリ・ジョリと、遠く近く髭を削る様な音と皮膚が削られるヒリヒリする感覚が、局部を刺激している。薄目を開けて見ると、鏡に年の頃、30代後半の女性のキラキラ光る黒い瞳が映っている。好きなタイプの、感じの好い女性である。目元、口元が、誰かの面影を引いている様な感じである。
本(もと)より私は、現在、3年来の約束を果たし終えて、<充足と微睡(まどろみ)>の只中に身を置いているのであるから、鏡の中の面影の正体を確定しようとする気持ちは、更々生まれては来ないのであった。旅行から帰って20日余り、私生活では、旅行記の執筆などが重なって、テレビ・DVDすらも見る暇(いとま)も無いほどの日々を送っていたのである。帰宅して、胃に負担を掛けぬ程度の夕食を一気に掻き込んで、作業場の四畳半にどっかりと腰を据えて、パソコンと睨めっこをする『格闘の日々』が続いていたのであるから、余力が無かったと言った方が、より近い伏線だったのである。

 私の意識は、顔を撫でるスーとした彼女の指先の感触と、探し出した擦り残し部分を摘み上げて、鋭利な剃刀の刃先が、摘み上げられて皮膚から棘の様に浮き出た髭の穂先を、無理矢理、削ぎ落としている手荒さに依って、薄皮一枚の処で、辛うじて繋がっている・・・・私にあるのは、そんな危うい認識度である。理容師と客と云った職業的信頼感に依拠する者同士と言っても、鋭利な刃物を、見下ろされて他人に一方的に握られているのが、客の恐い処である。安閑として意識度0%で剃顔中に居眠りが出来る程、私は大物では無いのである。時々薄れ行く重い目蓋を、頭の片隅の、別意識の力を借りて、抉じ開けるのが精一杯の処なのである。

   鏡の中に映る彼女の表情は、穏やかにして優しい微笑みを浮かべている。
 その微笑に意識がひきづられる。鏡に映る彼女の表情の残影が、重みに垂れた目蓋の裏で微笑んでいる。<鏡の中の彼女の面影は、懐かしい女性(ひと)への確かな外観上の事実である。>誰であろうか? 脳裏に拡がるアルバム帳の頁を捲って行く・・・ 懐かしい、その女性の正体は、もう手の届く処まで、来ている。

 その一方で、私の中の充足感が、懐かしい女性への探索の邪魔をしている。盆休の全てを使ったシングル・ママへの充足感の余波は、私に様々な変化の兆しを運んでいた。例えば、車中から素通りする女性達の姿を見ても、また整った顔を見ても、好奇・連想・妄想の触手は、とんと湧いて来ないから不思議な物である。更に悪い事には、街で偶(たま)に見掛ける白人美形の<はちきれんばかり>の匂い立つ姿態に対しても、嘗ての様な特技を誇った『透視の技』も『妄想の鼻利きの技』も、すっかり形を潜めてしまった事である。その原因は、至極単純な事である。衣服を纏った彼女達から、遮蔽物(しゃへいぶつ・・・おおいさえぎるもの=衣服)を剥ぎ取り、彼女達本来の肢体・痴態と向き合った処で、4泊5日で味合ったボリューム感溢れるビーナスの肢体と痴態には、遠く及ばないだろうとの想いがあるからである。これが、事実の重みである。

                 「ほら、ここも、そうよ。」
     上唇を勢い良く引っ張られて、思わず目を見開くと、
                 鏡の中に我が愛(いと)しのK子が、笑っている。

           <嗚呼、ナンセンスなり!!> 
     完全に夢から覚めて、枕元の煙草に手を伸ばして、火を付ける。

 目覚まし前の一時である。例え夢であっても、彼女との再会は、何年振りであろうか・・・
夢と現実の世界は、私の中では、<潜在意識>と云う架け橋で繋がっているらしい。40数年来の初恋のK子、恋愛結婚の女房、サイパンの洋々達は、私の浮かれた心の中を、総べてお見通しの様に、節目毎に何度か夢の中に現われて、自分達の面影を確り残して行くのである。
夢の中であるから、勿論、彼女達は、明確な言葉を残してくれる訳では無い。彼女達は、言葉の代わりに仕種・表情を鮮明に残して、現実の私の心の中に、示唆・暗示を刻み込んで行くだけなのである。・・・・・
 テレパシィ・メッセージ・天の啓示・超常現象・ヒアリング、・・・etc タイミングを考えれば、不思議と云えば、不思議な関連である。その不思議さに神秘の匂いを嗅ぐ者は、壮大な超常現象の扉を叩いてしまうのだろうが、私の様な物臭者には荷が重過ぎるから、①現実的には現状に対して、独善的な浮かれ状態にブレーキを掛けようとしているもう一人の自分の存在から、発しられたメッセージ。②男と女のロマンチックな情念を夢想するならば、彼女達のテレパシィと受け止めた方が、心和む受け止め方となろうが・・・ 真偽の程は、門外漢には一切解らぬ。

『心配には及ばないよ、Kちゃん。分相応の範囲は、心得ている積もりだよ。俺はサ、心の通い合う美形達に憧れを持っているだけさ。精々、<俺も、捨てた物じゃない。以心伝心、男の人生、芳しき花あれば、道草も楽しき道行きサ。ウッシシ!!>と独り悦に入ってるだけだよ。お三方の中に、若しかしたら、1人西洋美形が加わる可能性が、出て来たまでの事。Kちゃんにした処でも、『心に棲み付いた男』の3人や4人、居るだろう。Kちゃんの内では、彼等は絶対に、喧嘩なんかしてないだろ。その時々で、その時に合った彼氏が登場して、何かとアドバイスをしてくれるんじゃないか? 『心の住人って者』は、そう云った類の者じぁないかな。機会があったら、引き合わせるよ。Kちゃんと女房が、現実の中で話をした仲に為ったじゃないか。俺と云う人間で繋がっているんだもの、皆、何らかの共通因子で繋がっているんだ。『諮問』も好いけど、増えた処で悪い関係には成らんだろう。有難うよ。心配には及ばんよ。』

心何処ーショート 優先事項
                 優先事項(8/18)
 水槽ジャングルの水草を、半分取り除く。明るくなると、次の粗が目に付く。ボケとしていても、過ごす時間は同じである。川の水を補給して、鳥篭を掃除。お次は、キリギリス・ケースの番である。次は、パソコンを拭く。
午後の時間を母と過ごしていると、電話が鳴っている。Tからである。お袋さんの新盆で、家長のTは結構疲れたらしい。土曜のビアガーデンを約束する。

 布団を干し、洗濯機を回していると、ご近所さんからのジャガイモとカボチャの差し入れである。老後の時間潰しに、畑を借りての家庭菜園との事である。昨夜は、海に行って来たと言うお向かいさんから、蟹を頂いてしまった。適当なお返しが無いから、自信作の熟梅の梅干を差し出す。これで、如何やら私も完全にロートルクラブの一員に為ってしまった様である。汗でベタ付いた身体は、水シャワーでシャキッとさせて、髭を剃る。

 当たり前の事であるが、透明な物は汚れを落とすと、素晴らしい透明感である。グッピィ達が見違えるほどの活き活き感である。窓辺には鳥篭を二つ並べ、その上にキリギリスのケースを重石代わりに載せてある。小鳥の動きにキリギリスの声、窓辺の雑木にはミンミンゼミの声である。通りの向かいには、鉢植え植物に手を入れる老夫婦の動きである。見上げる隣の屋根の上には、真っ青な夏空がある。興味の無いラジオを聞き流し、タバコを吹かす。こんな環境に文句を言ったら、罰が当たる。

 本日は硬い内容の物を打とうと考えていたのだが、こののっぺりと流れる時を前に、些か無粋である。頭の中に在る物は、何時かは頭を擡げる物である。放って置けば好い。グッピィ達は、泳ぎたい様に泳ぎ、小鳥達も好きにすれば好し。ギスも泣くも泣かぬも、これまた自由である。

 そろそろ庭木にも散水が必要である。日が落ちたら、お湿りをプレゼントせねば為らぬ。
さてさて、夕刻の賄い夫である。何を見繕って、オカズとすべきか・・・それが、優先事項である。

心何処ーショート 届け、言の葉
                  届け、言の葉(8/17)
 珍しく涼しい日である。オリンピック女子マラソンを観る。42.195kmは、見応えのあるドラマである。贔屓のし様の無い展開が返って、客観的レース放送に為って淡々とレース運びを観戦する事が出来た。何時も通り選手達の走り・表情、沿道の観客、景色、道路の様子等に目線が行き、色々な視点で中国ウォッチングの一助と為った。

 M氏から電話があった。9月半ばのサイパンバカンスの書類が届いたから、午後来てくれるとの事である。電話の中で、同僚の子息の水難事故死を聞かされた。葬式の後、此方に顔を出すとの事である。毎年、全国各地で夏休みの水難事故の報がもたらされる。不慮の死は、何時聞いても痛ましい限りである。部外者にとっては、一過性の水難事故死であるが、身内からすると不慮の死である以上、悔やんでも釈然としない思いが、尾を引き続ける事であろう。
 
 オリンピックのマラソンを観た後であるから、棄権した日本選手・世界最高タイムを持ちながら、無念のオリンピック2試合連続の不調さに泣いたアメリカ選手・本命視されながらも出場を断念した選手・・・etc 陰には様々なドラマが複層している。サングラスに隠された表情は読めないが、感情を揺すぶられる其々の思い・苦しさである。
 
 不慮の水難事故に命を落とした15歳の命に思いを馳せると、そのもがき苦しんだ様が想起されて来る。泳ぎの達者さには定評のあった私も、4回ほど溺れ掛かった事がある。泳ぎを覚えたての頃、プールで四つ違いの次兄に執拗にからかわれた事がある。息継ぎの儘為らぬ私は、水をしこたま飲み込んで、水中でもがきにもがいていた。死に物狂いでもがいて、やっとの思いで浮き上がると、そのまま水中に押し込まれる。足の着かないプールである。空気の代わりに水が、口鼻から浸入する。水中呼吸の出来ない人間の苦しさ程、恐怖に思う事は無い。

 体格が互角に為った中学の頃、私はその兄との兄弟喧嘩の時に、彼を半殺しの目に合わせた事がある。そして、勝ち誇る私は心の中で<此処は地上だ。呼吸が黙っていても出来る。あの時の水中でのもがきの恐怖と比べたら、月とスッポンだよ。喧嘩は強い奴が勝つんだよ。兄貴面すんじゃねぇよ。バカヤロウ!!> 
 そして、家庭を持った頃、帰省した兄達と兄弟全員でと北陸の海に行った事がある。海坊主と言われる私であるが、(その頃は未だ頭髪があった。)スイスイ、波に乗って泳いで行くと、遥か彼方に何と頭が見える。体力と泳ぎに自信があったから、負けられないと泳ぎ始めた。近付くと、それは魚網に付いたブイの様である。振り返って、浜を見る。見れば<遠くに来てしまったものだ。迂闊だった・・・>と、後悔の念頻りであった。早くも、小さな肝がすっかり萎んでしまった。泳げども泳げども、距離が縮まらない。『潮に流されている。』ぞぅとした。

<落ち着け、体力は残っている。遠泳と諦めよう。来たから帰るだけ。如何にか為るさ。> 
休憩に立ち泳ぎをしている時に、痙攣に見舞われた。恐怖に全身鳥肌が立った。絶体絶命のピンチに立たされると、普段何時死んでも大差無いと嘯いていても、気の弱い男である。
  <この位で、死んで堪るか>の根性が、沸々と湧き上がるものである。
 目を瞑っての持久泳ぎで息絶え絶えで、辿り着いた経験があった。何もしないでも呼吸が、出来る幸せは無かった。今でも比重の重い海水に救われたのだと思っている次第である。疲労困憊の足に再び痙攣が襲って来たが、どんなに痛かろうが呼吸の出来る有り難さに、安堵の涙が出たものである。

 これに加えて、二度の溺れぞこないを経験しているのであるが、大事に至らなかったのは、小さい頃に次兄から<もがきの苦しみ>を、嫌と言うほど味らわされたあの恐怖があったから、溺死の憂き目を回避する事が出来ているのである。

 水中で呼吸出来ない人間がパニックになったら、簡単に溺死の憂き目に遭遇してしまう。陸上動物にとって、水ほど怖い物は無いのである。そして、呼吸の遮断される恐怖ほど惨い事は無い。

 水のシーズン、毎年繰り返される水難事故死である。傍観者の目からは、失礼な物言いではあるが、一定の確率で起こる不慮の死である。

 然しながら、私は言いたいのである。多少の痛さには、人間の身体は耐えられる。呼吸の確保だけを考えよう。呼吸が出来たら、呼吸のリズムを整えよう。こんな時、目は邪魔である。視覚が、恐怖とパニックを呼び込んでしまう。頼れるのは、自分1人である。パニ喰ったら、一気に恐怖に引きずり込まれる。目を瞑って、呼吸のリズムを整えよう。呼吸が整えば、目を開けて状況判断をしよう。焦ったらパニックになる。川なら、息継ぎだけをして流れに任せよう。呼吸さえ出来れば、時間が稼げる。時間が広がれば、それだけチャンスが拡がる。

 乱暴な言い方であるが、大事に至らない溺れの経験は、持つべきである。経験して知ってしか、調整する事が出来ないのが、人間の悲しさである。南洋性夏が定着する日本列島である。水難事故の報を聞いて、私の経験談を認めた次第である。ブログ樹海の覚束なさであるが、この拙い言の葉が、お役に立てば幸いである。
 

心何処ーショート 頭上の夏
                 頭上の夏に、(8/16)
 朝からキリギリスの大合唱である。昨日は苦しいと言う母の気配に、聞き耳を立てての三時過ぎの就寝であった。寝室を覗きホッとする。オスが三匹に、メスが二匹である。メスの一匹は、輸卵管を砂に刺して、産卵をしている。何時交尾をしているか分からぬが、キリギリスのオスとメスは、互いに離れての無視の日々である。人間流に考えれば、味も素っ気も無い関係である。

 トイレに来た母の姿を観察して、朝食の支度をする。一時間半ほど、テレビの魚料理を見ながら、母の北海道時代の思い出話に相槌を打つ。日々、老衰の進む母の体調は、仕方の無い事である。詮無き事は、考えずに居る事が肝要である。考えれば、感情が揺らぎ、心が寂しく為るばかりである。生身の人間が達観する事は、難しい境地である。難しい境地ならば、足を踏み入らないのが、生活の知恵である。

 ラジオを掛ければ、オリンピックである。CDを挿入して、洋々の面影濃い長山洋子を流し、次いで松尾和子を聴く。語り掛ける様な、物憂げな松尾和子の歌は、ロートル世代には和みの曲目である。付かず離れずの抑えた彼女の歌唱は、聴く心に負担を掛けない柔らかさと、曲の醸しだす空間に、聴き手の心の広がりをプレゼントしてくれるものである。聴かせる曲・聴く曲・流れる曲・参加する曲・魅せる曲・・・etc、曲は数あれど、選択するのは聴く者の心境・気分次第である。歌手が、自分に酔い痴れたら、幻滅である。
 
 人間は、多重なる心の綾をより多く持つべきである。原色の色ばかりでは、生きるのに息苦しい物である。原色の上に、原色と原色を繋ぐ幾多の色を重ねつつ、多重多彩な彩を醸し出したいと考えるのであるが、儘ならぬのが持って生まれた<有限性の限界>である。
 これまた詮無き領域にして、無い物を欲しがる駄々っ子の足掻きは、自分ながら見苦しい絵である。凡人・匹夫は、大人しく秀でた者を愛でる鑑賞をさせて頂くしか、方途は無い。

                    グッド・ナイト
   作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正/編曲・佐野雅美/歌・松尾和子・マヒナスターズ

     GOODNIGHT GOODNIGHT SWEETHEART GOODNIGHT

 なんでもないように 街角で 別れたけれど あの夜から 忘れられなく なっちゃった
      名残り惜しさに   ああ  星を見つめりゃ 泣けてくる
      Goodnight Goodnight Sweetheart Goodnight

 わたしがひとりで ただ熱く 燃えてることなど 知らないで 霧が降る降る
      夜が更ける 肩に散らした ああ 髪も吐息に ふるえてる
      Goodnight Goodnight Sweetheart Goodnight

心何処ーショート 日々雑感
                 日々雑感(8/15)
 それにしても、日本の夏は暑く成ってしまった物である。冷蔵庫が空になってしまったので、買出しに行く。如何な食い気だけの私でも、食欲が湧いて来ない。3食を2食にした方が、エネルギー消費との関係から、バランスが取れるのであるが、仕事が賄い夫である。薬の関係上、お付き合いをしているだけである。スーパーのコーナーを回った処で、籠に入る物は少ない。

 買い物に出掛ける時は、極力自転車の使用である。外に出れば、四方を山に囲まれた盆地であるから、入道雲の容量・姿形は、ウンザリするほどの勇壮さである。交通量の多い本通りは、何かと気忙しいから、信号の無い土手道の一方通行路を利用している。川には流れがあるから、雑草の繁茂たるや見事の一語に尽きる。人間様の居住区は、コンクリート・アスファルトで覆われているから、その反射熱はフィリピン、サイパンの夏並である。居た堪れない熱さに、オウ、マイガットの横文字さえ口に出る始末であるが・・・ オリンピックの野外競技の選手・関係者・観客も、大変な事であろう。<水中り>に用心為されよである。何しろシャワーの効果も、精々2~3時間の有効性しかないのである。

 来た来た、午後の熱風の到来である。映画では、ただひたすら動かず新陳代謝を、最低のレベルに合わせて耐えるのが、砂漠の民・ベドウィンの生きる知恵だと云う。

 横に転がって、私の好きな西洋アマゾネス群団の美形探しをする。女子ソフトボール・女子競泳を見る。ソフトのアメリカチームの身体つき・パワー・精悍さ・ファイティングスピリッツは、アマゾネス群団そのものである。哀しいかな・・戦う群団に対して、<我が下衆目線>は陰を潜めざるを得ない。それと比べると、競泳鑑賞は下衆目線には有り難い。彼女達の彫の深さ、薄い唇が端正と云うか、ツンと澄ました★生意気さが伝わって来る処が、私の好みなのである。競技を前に隙の無い緊張感の漲る彼女達が、選手紹介のアナウンスされると、パッと薄い唇が割れて白い歯並びの良い歯が零れる。両手を小さく振って愛嬌を振りまくのである。

★これは飽くまで、東洋男の目視印象から派生する大いなる誤解である。現実は人懐こく、気さくで親切・女らしい事が多い。男も女も、肌の色・顔相・骨格が違っても、全てDNAで繋がっているのであるから、人間としての喜怒哀楽には違いが無いのである。
 
 見た目では端正さが、口を真一文字に結べば、取り付くしまの無いクール・バリアである。然し、健康な白い歯並びにクリクリしたカラー・アイズが綻べば、彼女達が醸す雰囲気は、ビューティマイルド・ランドである。端正美形の真骨頂は、正にこの一点に対比される鑑賞の一瞬なのであろう。増してや、競技の終わった瞬間に訪れる勝者の満面の笑顔が、これまた最高の美形鑑賞の時である。魅せられて当然の美形達である。もっともっと見続けていたいのだが、競技は目白押しである。束の間の鑑賞に、ロートルは、瞬きを抑えるのがやっとである。


 美形のこの落差故に、男も女も、クール・バリアに踏み込んで、自分だけのビューティマイルド・ランドの住人と為る事に、努力を傾注するのだろう。一般的には、これを称して<恋・恋愛>と総称している現象である。そして、胸の高鳴る鼓動は、罷り間違えると、恋は盲目の道へと誘う。背伸びの傾注努力の対象が、八方美人の尻軽女(男)であると、喜悲劇が展開されてしまうのが、人間男女の人生劇場と成るのかも知れない。傍目には困った現象であるが、多かれ少なかれ誰しもが通る<王道>なのであろう。

 この頃、すっかりご縁が遠のいてしまったフィリピン通氏達の行状であるが、各氏達は如何お過ごしであろうか・・・ 私は、彼等の音信不通に、清々している賄い夫生活である。

 8/15終戦の日に因んで、相も変わらずノーテンキの駄文打ち日記である。終戦63年なり。

心何処ーショート モーニング・タイム
                モーニング・タイム(8/14)
 先週忘れてしまった資源物のゴミ出しをする。何しろ週一の早朝であるから、ツイツイ寝過ごしてしまうのである。宿題が不得手と同様に、これも言い訳である。本日は寝覚めた時に、宿題を思い出したから、起きたまでの事である。6:30からであるから、大分時間があるが、二度寝をしたらアウトである。仕方が無いから、小鳥の汚した玄関を掃除して、鳥の世話をする。頃合を見計らって行くと、公民館の広場では盆踊りの設定をしている。暑い太陽のお出ましである。ご苦労な事ではあるが、これも年中行事の一環、楽しみとしている人達もいるし、子供達の記憶に残す大事な意味もある。

 私も学生時代、帰省すると、母の縫ってくれた浴衣を着て、セックスアピールの胸毛をちらつかせて、盆踊りに託けて美形を求めて、松本城広場何かに繰り出していた物である。新婚時代は、女房と浴衣を着て、盆踊りに出掛けていた物である。少子化・老齢化で往時の賑わいは、遠く過去のものに成ってしまった。当時は、何処にもあった町会盆踊りの賑わいである。子供達には、きっと朧気なる記憶しか無いのであろう。時代は遠の昔に、<松本ぼんぼん>の定着である。

 昨日は、親父の墓参りに一人で行って来た。行けぬ様に成ってしまった母は、情け無しやの仏壇念仏である。そんな母の姿に、親父と母の男女の絆を見てしまうのは、私の加齢故の感想だろうか・・・ 
 霊園は、松本平を一望する中山霊園である。巨大化する一方で、霊園入り口の斜面にも、墓石が光り輝いている。ほぼ全山が墓石で埋められていた。市の管理する墓石公園は、緑の芝生の中に、広大な眺めを提供している。入り口で山を一周する道路は、左右に分かれる。花屋の出店があり、地元の人達が出す農産物の売り場がある。霊園の先には、眩しい限りの白雲と青空が、広がっている。駐車場を囲む山の緑は、夏に草臥れて、蝉時雨が暑気を掻き混ぜるばかりである。

 墓前には、花が手向けられていた。何時もながら、女房子供達が参って行ってくれたのであろう。有り難いと感じつつも、何も言わないのが、我が家流である。
 
 男であるから、親父の墓前で何を思う・語る程の事も浮かばず、墓石を洗い清め、花を加え・線香を手向け、お供えをして、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏を唱えるばかりであった。親父も助平な男であったらしいから、男の墓参りよりも女の念仏、語り掛けの方が、心地好いに違いなかろう。兎角、男同士の墓前での行いは、ぶっきら棒に終始してしまうのが落ちである。

 窓辺に鳥篭を二つ並べて、沸かした湯でモーニング・コーヒーを飲む。ラジオからは、『ビジネス展望>が流れている。勤めていた頃は、通勤途上のお気に入りの番組であった。すっかり生活習慣が変ってしまった物である。玄関とは打って変わって、陽射しと緑の空気が通う開放感に、小鳥達は弾んでいる様子である。太陽を吸った水草は、濃緑の葉に無数の気泡を溜めて、針の先にも満たない酸素の粒を立ち昇らせている。芥子粒の稚魚が迷路の水中を動き、薄い殻色を背負った中タニシ達が、壁面を宇宙遊泳の様に、重さを感じさせない動きで滑って行く。ズームアップで眺めていると、飽きない水槽世界である。本日は、風の揺れる日と成りそうである。

 さてさて、キリギリスの声を後押しとして、朝の賄い夫に立つと致しまするかな・・・

心何処ー虫眼鏡老人 その5
                虫眼鏡老人 その5

 四年に一度のオリンピックである。アジア圏で三回目の開催と成った北京オリンピックである。アジアに圧し掛かる大国中国でのオリンピック開催は、世界の耳目の注目・批判の中での中華思想の集大成を目論んでの開催であった。嘗て竹のカーテンと揶揄された共産党無謬主義・人海戦術の巨大人民国家が、外資・外貨を蓄えての世界国家へのステータスを、一挙に手中に収めんと欲した巨額にして、形振り構わずの一大政治ショーの位置付けである。オリンピックの軌跡は、明らかに商業オリンピックの道に突入している。

 金メダルこそが、唯一の価値を演出され、金メダルに全てが集中する。社運・コマーシャルに対価を払えとばかりに、有力選手達の一挙手一投足を、血眼で追い続けるマスコミ。
応援なのか? 単なる視聴率稼ぎ? スポンサー料稼ぎ? なのか? 素人にはウンザリする上っ面の突風の様な物である。試合が始まれば、競技によっては、ルールを逆手に取った様な、姑息なテクニックが目に余る、金メダル至上主義の駆け引きテクニックのオンパレードである。

 亜熱帯・南洋性気候が居座る日本列島である。世を拗ねて、後ろ向きで余生を生きる虫眼鏡老人とダケンのコンビと雖も、人の子である。直射日光から、ひたすら逃避している毎日である。テレビもラジオも、新聞も、オリンピックに盛り上がる。拗ねてばかり居ては、間が持たない。拗ねて無視すれば、毒舌の対象すら逃がしてしまう。夏篭りを強いられる昨今である。

       踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら、踊らにゃ損損である。

 中国嫌いの老人は、北京オリンピック開会式中継では、早々にテレビを切ってしまった。秦の始皇帝の兵馬俑・紙の発明・羅針盤・・・etc如何にも中華思想を具現化した<事大主義>の演出である。根底にあるものは、他民族・広大領土・膨大人口を束ねる中央集権国家の人民を道具の一つと見る国会意思の羅列であり、その命を受けた映画監督の映像羅列であり、その映像監修的采配の強さである。彼は、虫眼鏡をこよなく愛でる虫眼鏡老人である。

  ドドーンと夜空に噴出した巨大足跡を模した花火に、主会場鳥の巣の建造物が、浮かび立つ。
  カメラは、一斉に内部を映し出す。スケール抜群・鮮烈なる色彩のモニュモントが始まった。
上ずったリポーターの声に乗って、一大ライブが全世界に発信される。世紀の祭典北京オリンピックの開幕である。

 思えば、これらを見て、老人の毒舌が炸裂して、お付き合いのダケンは、寝不足に陥ってしまったのである。尤も廊下に上がらせられての梅酒とスルメ諸々のツマミ付きであったのだが・・・

「何だ、こりゃ、自意識過剰だね。そんな自慢したいのかね。古代・中世国家ほど、王様・皇帝将軍・お殿様の権力が絶大だったから、領民は家財の一部と云う<家産思想>だったんだよ。人民を道具の様に扱うマスゲームを贈られる絶対権力者の気分は、上々だろうけど、見せ付けられる異邦人の身にも成って見ろよ。演出のし過ぎだよ。過ぎたるは、及ばざるが如しじゃ。バカヤロウ、兵馬俑の演出なんか時代遅れのゾンビ狂騒曲じぁないか。中国の本態、見えたりだわサ。」

<しょうが無いじゃないの。世界に冠たる中華思想のお国柄でしょ。それに花火の火薬だって中国さんだろ。枝マメ剥いてくれるのは、有り難いけど、俺らには臼歯が無いんだよ。さや付きの方が、噛みでがあるんだよ。気付いてよ、相棒様。>

「アンタ方、異邦人の仲間入りが、したいんじゃなかったの??? だから非民主主義・共産主義は、眉唾物・前近代的自画自賛国なんて、異邦人達の腹の中で、舌を出されるんじゃよ。」

<まぁ、そうかも知れんね。チョッとチョッと、アンタ人間なんだから、フライド・チキンの骨まで、しゃぶる事ないじゃないの。骨の周りは、そのままにしときなよ。コレコレ、俺らの分に手を出すんじゃないのさ。分からない爺だね、全く!! ガブッ>
             「痛ぇ、何すんだよ。バカ犬!!」 

 指導のホイッスルの様な実害の無いダケンのゼスチャーに、老人は目を白黒させて、軽い拳骨のお返しを、彼の頭にコツンと落とす。ダケンも心得た物である。痛くも無いのに、痛そうに目を塞いで長い舌の呼吸で返している。開放された廊下の板の間に、蚊取り線香の煙が微かに揺らぎ、軒下に吊るした虫篭からは、キリギリスの鳴きが入る。

「何が紙の発明だよ。そんなものは、全世界、義務教育を受けた人間は、皆知っている事じゃないのかい? 羅針盤、然りでゴザンスよ。嗚呼、嫌だ嫌だ。事大主義・中華思想の権化じゃないか。アテツケガマシイ。」

<まあまぁ、ご主人様、世の中、世界、マダマダ教育の行き届かないのが、実情でありんすよ。まあ、その梅酒の梅の実は、俺の大好物でして、ハイ、頂戴いただければ、見事、噛み砕いて賞味致します。>
「何だ、汚ねぇな。分かってるよ。遣るから、そうせっつくな。丸で、阿片の切れた辮髪だわな。」

        老人は、空になった壜を持って、台所に姿を消した。

「大体ねぇ~、そこの愛嬌振りまいて、主席様に幼児の美声を転がしているお嬢ちゃんだって、真偽の程は、分かりゃしねえよ。ナァ、ダケン。口の動きと、妙に愛想を振り撒いている品が、気に食わない。吹き替えじゃ無いか。愛嬌の眼の中に、演技の臭い匂いがするぜ。ダケン、その鼻で嗅いで見ろよ。中国の偽ラベルの匂いがする筈だぜ。」

<親父、ピッチが早いよ。電波に匂いがする訳ないでしょうに、知ってて、俺らの自尊心を傷付けて、愉しんでやがる。悪い癖だ。フ~ム、しょうがないや。これも相棒の努めだ。どれどれ、こうかい? ご主人様、充分嗅ぎましてゴザンスよ。好い加減親父には違いないが、好い勘・観察をしている。俺様の聴覚は切り売りしても、人間以上だけど、口と音の誤差は猿芝居・ヘッポコ手品さ。人間と犬のハンディを差し引いても、流石に、ご主人様だよ。汗でしょっぱい体だけど、尊敬の証・正解の証だわ。ご褒美に舐めて進ぜよう。>

「これこれ、変な生温かい物で、舐めるでない。この暑さで、塩分不足か? 一寸待ってろ。」

 毒舌・好い加減親父を任じている老人ではあるが、根は観察眼の鋭い、気配りに秀でた男である。ダケンの能力に、一目以上の関心を持っている老人である。冷蔵庫から魚の切り身を出すと、その上にニヤリと味塩を振り掛けて持って来た。自分用には、老人の好きなピーナツにレーズンをブレンドして来た。

「毒入り餃子に、ウナギ、化け物クラゲに、聖火リレー騒動、チベット弾圧、コピー・偽物大国、犯罪輸出国のお国柄だぜ。猛々しく遣れば遣るほど、盛大(正大)に遣れば遣るほど、俺ぁ、白けちゃうよ。こりぁ、如何しようもない。行き着くところ迄、行って瓦解するしかあるまいよ。」

 そんな総評でテレビを切ってしまった老人であるが、老人と犬の酒盛りは、キリギリス鳴く廊下に、キンチョウ蚊取り線香のたなびきの内に、ボソボソと流れて行く。

 老人の好みの競技は、柔道と陸上競技である。陸上競技の始まらぬ間に、柔道競技をテレビ観戦する老人の嘆き節に、名犬ダケンのお相手が続いている。

 何だ、コラ、柔道だぞ。誰が、プロレス遣れと言っとるんじゃい。プロレス遣るんなら、柔道着を脱げ!!柔道着が穢れるぜ。プロレスとは別競技じぁろうが。オイ、コラ、何が畳際の業師じゃい。とんでも無ぇ連中だ。コンチクショーめ、リング・ロープ張るぞ。何がポイント制じぁい。オイオイ、好い加減に晒せ。人間、遣らなきゃ為らん努力は、立派だけど、努力には遣っちゃ為らない努力ってものも、あるんだぞ。姑息の技磨いて、如何するんじゃい。伊達に柔らの道と書いて、柔道を名乗っている訳じぁないぜ。こんな競技で負けたと云って、一々クヨクヨしなさんな。勝てば官軍の道には、多少為らずとも良心の負い目って物が、あらぁな。

 好いかい、ダケン。トックリとグローバル化って云う物の、胡散臭さを目に収めとけよ。

心何処ーショート これで、いいのだ~
              これで、いいのだ~(8/13)
 フランク・永井のムード歌謡、蝉の声、キリギリスの声、窓辺の金華鳥、眼前のグッピィ達の泳ぎ、それにアイス・コーヒーと、お膳立てはした物の、時折入る風に涼を感じるだけである。やはり、凡人には心頭滅却すればの名言と雖も、覚悟が足りぬ以上は、言葉の持ち腐れである。暑いものは暑い。辟易とするものは、辟易とするのである。然らば、凡人の特効薬・場所替えの術である。定位置を机一個分ずらせて、ノートパソコンに移す。
 俺らには、<これで、いいのだ~> いざと言う時の強い庶民の味方は、何と言っても天才バカボンのお父上である。覚悟未満の気休めに、紫煙を吹かす。微風に乗って、テープは日野美歌殿のソフトな歌声をチョイスする。彼女は、顔も体格もソフトにして、歌声がしっとり柔らかい。これまた、庶民の味方である。彼女の歌声に、庶民の風が吹き込み、金華鳥のハミングと止まり木のチョンチョン飛びも軽やかである。手前のキリギリスも、廊下のキリギリス達も、おやおや、お向かいさんのキリギリスも、何やら呼応している様子である。ヒメダカの子供の様なグッピィ達の尾ひれにも、あどけない朱が見え始めている。
   
  何もせずに、在るを只見ている時間は、物臭男にはぴったりの時の進み具合である。
 マンガ本では、世話に為った赤塚氏のテンサ~イ、ボ~カ、ボン・ボンであったが、それを大きく歌っては、世間体上、些か芳しくは無かろう。通報の憂き目は、未だ見たくは無い処である。

                   大阪恋めぐり
作詞・幸村リウ/作曲・小林正二/編曲・馬飼野俊一/唄・日野美歌・増位山太志郎

       (女)雨の大阪御堂筋 別れられない戒橋
       (男)ネオンも揺れてせつない 道頓堀よ
       (女)あなた次第よ 私のこころ
       (男)お前ひとりで 帰せない
      (2人)泣きたくなるほど 好きだから
       (女)酔わせてゆらゆら (男)愛してゆらゆら
      (2人)雨がうれしい 雨がうれしい 大阪恋めぐり

      想い出グラス 作詞・荒木とよひさ/作曲・浜圭介

   忘れられないの あなた淋しくて 今夜も別れの歌を 酒場でさがすわ
   憶えたお酒を あなた許してね 酔えば 逢いたくなって 泣いてしまうのに
           死ぬほど 好きでいても これが運命だと
       想い出グラス 飲み干せば あなた明日は いらないわたし 

心何処ーショート お裾分け
                  お裾分け(8/12)
 エンジン始動方々、キリギリスを捕りに行く。下のポイントで車を降りると、ギース、ギースと、其処彼処で鳴いている。ビーチサンダルから、靴に履き替える。鳴いている箇所を確認して、叢を足で無造作に薙ぎ倒して行く。茶の体に緑の羽を持ったキリギリスが、追い出されて姿を現す。それを一匹づつ慎重に両の手で覆い被ぶせる様に、捕らえて行く。草の上に押し付けられて、身動きの出来なくなった格好の彼等を、傷付けない様に親指と中指で摘んで、プラスチィック製の飼育籠に入れる。幸先が好い。本日は、何匹のゲットとしようか・・・ 捕り過ぎは、お天道様の恵みに背く行いである。二箇所の狩で、オス4匹・メス2匹のゲットである。先程、シャワーを浴びた身体は、夏に炙られて瞬く間に、全身衣服が纏わる汗まみれの態である。

 戻って来ると、お向かいさんが、鉢植え植物に散水している。先日、奥さんからナスを大量に頂いた。お裾分けに、キリギリスのオス2匹を進呈する。キリギリスの声は、昼夜を分かたず、好く響く夏の声である。我が四畳半窓辺のキリギリスの声は、ご近所さんにも夏の声を提供していたとの事である。ギース・チョンは、奥さん同士の立ち話の話題にも為っていた由である。これで、お向かいさんの虫篭からも、ギース・ギース・チョンの声が響けば、これまた夏の風情が、ご近所さんに広がると云うものである。これを称して<借景>為らぬ<借鳴>と云うべき庶民の生活の知恵である。何分、エコの時代と云う。打ち水・風鈴・金魚・簾に、キリギリスの声も加わるべきである。

 汗を拭き取り、加えた虫篭を横に置く。何かと自然音は、耳にシックリ来るものである。翳って来た夏に、窓辺に掛かる葉を揺らして、涼風が通い始める。通りでは、時間を持て余した子供達が、ドッヂ・ボールを遣り始める。勤めを終えた人の動きが、始まる路地に盛りのミンミンゼミが鳴り響いている。

 老体には、暑さが響く様子である。体調の好かった日の後には、戻りの体調不良の来る母である。こんな時は親子と雖も、倅はバカに徹して、呆け話をサービスしなければ為らない。
 それにしても、北京オリンピック主会場の遠景に写る空気と川の色の汚染には、重い溜息が出るばかりである。オリンピック関係者・選手団の食の安全は、国家の威信を賭けての厳重体制下にあるだろうが、世界から大挙押し寄せるオリンピック観光客の食の安全確保の綻びが、日が経つに連れ危惧される。日頃、私の毒舌に満ちた独断偏狭なる時事批評に付きあわされている母も、オリンピック・オリンピック後の中国情勢には、並々ならぬ関心を持っている様子である。

 夜中の散歩に出掛ける。体育館の外灯の下で、男女若者達のグループが、20人程で自作の歌と振り付けの練習を繰り返していた。見学をしたいのは山々であるが、我が身は短パンに上半身裸の首タオルである。警察官に職務質問をされたら、一溜りも無い。海坊主、危うきに近寄らずである。静かな夜、キリギリスが三方から、伝わって来る。

心何処ーショート フレーフレー、アマゾネス!!
              フレーフレー、アマゾネス!!(8/11)
 オリンピックが無い限り、女子ホッケーなどと云ったスポーツを見る機会は、早々訪れない。日本対ニュージーランドの試合であった。サッカーの<なでしこジャパン>に対して、<さくらジャパン>との事である。日本・ニュージーランド共に、彼女達の逞しい下半身、凄まじいばかりのシュート、ボールパスのスピードと的確な一直線の白球160kmの迫力たるや、脚力・腕力共に、ご立派の一言に尽きる。これぞ、動物学的男女同等同権のスポーツである。
 偶々、付けたテレビに映ったのは、スカートを履いた選手達である。見ている内に、スカートの下に、<目の保養を>などと云う、男の邪心は完膚無きまでに、粉砕されてしまった。女性達が見せる事を捨てて、戦い合う様は、男同様のファイテング・スピリットを発散させて、試合そのものに、目を集中させてくれるものである。

 平時の一般的世の風潮からすると、<男は度胸、女は愛嬌>と云われる。然し、それは女性達のカマトト振りの為せる処である。動物学的男女の肉体的・精神的差異などは、余り無いと言うのが、私の持論である。人間は他の動物に比べて、余りにも安定して豊かさを手に入れたが為に、本来の運動能力を隠す様に為ってしまったのだろう。男女の分業化が進んで、女は自己顕示と男の移り気防止の為に、『注視』の<衣と化粧>を、何時の時代からか?身に付けたのであろう。そして、その居心地の好さに安住して来たのかも知れない。
男にしろ女にしろ、自己顕示と注視が、一概に悪いとは言えないのである。この間の事情を種々提示しようものなら、世の常識として、私の身体に石礫が集中してしまうのは、避けがたい処である。これは男女の間に、不文律として横たわる<男の鬼門の一つ>である。従って、日和見主義者の物臭男の台詞としては、<飾る事と着る事>の程度問題の範疇として置きたい。

 若い頃スポーツをしていたので、男女の身体能力については、結構関心があった。我々の時代、スポーツの世界には、厳然とした万里の長城・ベルリンの壁が聳え立っていた。高校の時、母校には強歩大会と称される<60km>の全員参加の競技があった。全校生徒数1200名強中、女子数30名弱であった。格闘技を志向して、走る事を止めてしまった高校時代であった。40~50km時点で、私は彼女達にスイスイ抜かれてしまうのであった。情け無しの臍を噛むしか無い体たらく振りであった。大会の後は、殆どの生徒が、靴擦れと親指の下に出来たマメに依って、両の親指の爪を失くすのであった。

 斯様にして女族は、強かなる持久力の持ち主なのである。その女族が肉体を鍛えて、柔らかな脂肪分を筋肉に替えて、瞬発力を備えたら、如何なる事態に到達するか・・・ 

 そんな考えの下、伝説の女軍団<アマゾネス>なる洋画を、見に行った事がある。総天然色のスクリーンに映し出されたのは、ボン・ボン・ボンのセクシー軍団だけが、売りの映画であった。趣旨が違うのであったから、高校生の私は、すぐさま洗脳されて、鑑賞にスタンスを変えた次第であった。その次に、スタンス替えをした私が観戦したのが、草創期の女子プロであった。体重の軽い彼女達は、一撃の重量感には欠けたが、凄まじい運動量と奇声の雄叫び、悲鳴であった。恐るべし女族の底力の感想を持った次第である。

 その後、世は順調に進んで、女性の社会進出のうねりの中で、スポーツへの進出も激しかった。

 オリンピックには、コスチュームと筋力が加わって、伝説の女軍団アマゾネス群団が、席巻している。テレビの中に映るアマゾネス群団に、技の切れ味・迫力・美形を追うのは、見る男達の<内心の自由>である。
 これから暫くの間、皿の眼の日々が続くのである。女性美が花開くのは、何もフィギァ・スケートの世界だけでは無いのである。筋力・汗の中に開花するアマゾネス群団の躍動力・歪む表情にも、美は宿るものである。

心何処ーショート 朝の文作
                 朝の文作(8/10)
 久し振りに早く寝たら、5時前に目が覚めてしまった。当然、日の出前である。夜の雷雨の為、涼しいというより、些か肌寒い。玄関に置いた小鳥達も、薄明かりの中で静かに眠っている。
親鳥達は、仲良く藁巣の夜の中である。藁巣の無い若鳥は、身をピッタリくっ付けているが、起きている。<お前達、俺に付き合え>と、四畳半の窓辺に置く。水槽のグッピィ達も、未だ底の辺りでユルユルとしている。明かりは要らないが、ラジオを付けてズボンと長袖シャツを羽織る。

 早朝のラジオを聴きながら、熱いコーヒーを飲みたいと思うが、バタバタするのは申し訳ないから、ポットに残った白湯を飲む。オスの胸部にも、もぁ~とした灰色が浮き出て来た。和名の金華鳥は、オスの頬の金色に因んだ命名。英名のゼブラ・フインチは、オスの胸部の白と黒の横縞模様に因んだものである。子供から大人への衣装替えで、羽毛の抜けが激しい。オスメス共に、鳴く声は既に大人の声である。

 6時のニュースを聞き、6時半のラジオ体操を聞く。前方の屋根から、眩しい太陽が昇る。斜光を浴びて、若鳥が活発に止まり木を渡り、囀りを繰り返す。気温の上昇に鳴りを潜めていたキリギリスが、ギースと鳴き始めた。ラジオ体操は、第二へと移行している。差し込む太陽に、グッピィ達が舞い上がる。湧いたヤカンを取りに行く。サンリツのカンパンを摘みながらの、ホット・モーニングコーヒーを啜る。ロシア製腕時計のゼンマイを巻き、振り向けばロシア美形達の笑顔が、朝日を呼んで映えている。

 本日、日曜日。人の生活に、動きは未だ無い。中国美形も、ウクライナ、ロシア美形も、男心をそそるものである。時は、世界の祭典オリンピックである。テレビに映し出される世界の美形の一瞬に、目を集中しなければ為らない。余分なエネルギーは、割愛しなければ為るまい。
 
          7時を回って、一日が始まろうとしている。

心何処ーショート 逃したり、言の葉 
                逃したり、言の葉(8/9)
 母の薬を取りに行く。外は朝から、実に熱い。我が家の庭にも、夏空を割って白い百日紅の花が咲いている。サンロード横の隠れ道を行くと、★さんのお宅の、紫の百日紅が咲いている。再びアスファルト道である。歩いて3分前後の住宅街にある町医者である。

 今や確実に、地球温暖下にある南洋化定着の、日本列島の盛夏である。<冬篭り>などと云う響きの常用句があるが、これから先は、<夏篭り>などと云う常套句が、お目見えするかも知れない。『なつごもり』を、一発漢字転換出来ない処から察すると、私の造語かも知れぬ。無断盗用されぬ内に、(特許では些か気が退けるから、)実用新案でも申請しようかな・・・ と、こんな下卑た事を思いながら、冷房の効いた待合室で汗の退きを待つ。

 帰って、すぐさま開襟シャツを脱いで、上半身裸の首にタオル、海坊主スタイルに戻る。何事も動き序(ついで)である。梅干の成功に気を好くして、梅漬けの1/3程を軽く塩抜きして、土用干しにする事にする。ナス・ミニトマトを収穫して、石垣の西洋木苺の黒く熟した実を摘む。家庭菜園物も、飼育管理者が私である。例に拠って<親は居ても居なくても、子は育つ>の捨て子状態であるが、彼等は至って、健気にして強かである。一向に当てに為らぬ私を見限って、子孫を残そうと躍起の様相である。上がりを頂くのが、収奪行為である。きっと、罰が当たる。

 大笊二つを炎天下に晒して、ロートルは自室で、トム・ジョーンズを入れて、コーヒー・ブレイクである。彼の『ディライラ』が、私は殊の外、気に入っている。英語活字は辞書さえあれば、如何にか理解出来るが、ヒヤリングはチンプンカンプンである。ディライラには、何か物語性が感じられる。別な表現では、ストーリーを語っている・・・ そんな雰囲気が伝わって来るのである。先日の阿久悠の<懺悔の値打ちも無い>為る名曲の裏には、必ずこの曲の存在があると、私は睨んでいる次第である。それほどの名曲である。

 彼の遺した詩は、5000とも云われる。心に残る名曲は、作詞・作曲・歌手の三位一体のベストマッチに依って、誕生し定着して、歌い継がれる。掘り起こす、アレンジすると云う言葉がある。三位一体に恵まれなかった名曲予備軍が、きっと、眠りに眠り続けている事であろう。そんなミスマッチの詩・曲・歌手に、是非とも作業の手を入れて欲しい物である。言の葉の感性を一般的に翻訳するのは、曲に乗った歌手の声である。作詞・作曲・歌唱も、その根本は感性である。眠れる遺稿・遺作にしては為らない。

             母の部屋で、電話が鳴っている。
    この野郎、現在乗っている処なのに・・・嗚呼、言葉が逃げる。
 ハイハイ、行く、行くよ。婆さんは、不自由だから俺が出るから、好いよ。無理して動くな。

心何処ーショート 我が可愛いお師匠さん
              我が可愛いお師匠さん(8/8)
 この数日、母の調子が好い様子である。ベタ付き、纏わる汗に、辟易としていると、背後に杖の音である。振り返ると、ニコニコして風呂を沸かしたから、入れとのお達しである。私としては、日二回の水シャワーで済ませているのであるが・・・ 私が入らないと、先に入らない昔気質の母である。<ワシャ、夏の風呂は苦手である。>
 
 テレビで刑事ドラマを見ていると、1/4が過ぎると、早くも<犯人は、誰だ>とのご質問である。女優・キャスター・気象予報士・・・etcが登場すると、<ほら、お前の好みの顔だ。>と、私に知らせて、ニコニコしている。彼女の居る倅に、私が思い直して、ロシア美形にしたらと要請すると、倅に向かって<お父さんは、ロシア女が好きなだけだからねぇ~>などと、小娘・幼児が、親に告げ口をして、愉しんでいる風なのである。<婆ちゃん、大丈夫。俺は、日本人が好きだから。>と、私は倅と母親から、些か為る『蔑みの笑い』を頂戴している次第である。

 熱い日本茶を飲み終えて、後は自室の四畳半である。グラスに冷凍庫の氷を大盛りに入れて、梅酒をトクトクと注ぎ込んで、チビリチビリと、タバコの煙に浮かぶ言の葉を打ちいれていると、夜の廊下に杖の音である。振り返れば、日本茶の差し入れである。無碍に出来ぬサービスに、私の舌は、『ホット&クール』である。これまた、トホホの段である。

 在るのは親不孝・凶暴男の、こんな<母と倅>の時間の止まった様な生活である。こんな現実を、想像した事は一度も無かった我が身である。<親子水入らずの生活>には違い無かろうが、親父の残してくれた我が家は、お互いの専住区を持ち、その間に二部屋のクッションに置いた不干渉生活である。母は、仏間と廊下を居所とする一方、私は四畳半からの眺めと寝床の八畳を占有している。交わす会話は、三度の食事時である。母の部屋からはテレビの音、私の部屋からはラジオ・CDミュージック・キリギリス。クッション空間の玄関からは、囀りを物にした金華鳥の親子の声が、聞こえて来る。

 四畳半から通り抜ける風は、私の専用区を通って廊下から庭に抜ける。台所から入った風は、母の部屋を通って庭に抜ける。そして、廊下に身を置く母には、洗面・脱衣所の出窓から入る午前の風が、涼しい。

 母の1人暮らしの友は、庭に徘徊する猫と庭木に訪れる野鳥の声・動き、花を渡る蝶々と葉陰に止まる黒い糸トンボ達であった。

          如何にか間に合った、倅の同居暮らしである。
   さてさて、昼の賄い夫をした後は、風の通り道が交代する時間帯である。
 夜に備えて、私も移動である。92歳、母は、すっかり可愛く為ってしまったものである。

心何処ーショート 夏の中折れ
                夏の中折(8/7)
 いやはや、何日振りかのカンカン照りである。朝の賄い夫を終えて、部屋に入りパソコンをONにすると、開けたサッシ戸の縁に、焦げ茶のアブラゼミが止まって、ジージー遣り始めた。<お願い、勘弁してくれよ>の感じなのだが、追い払うのも可愛そうである。郵便受けに、販促用の読売新聞の朝刊が入っている。新聞を取らなくなって何ヶ月か経過する。久し振りの新聞に目を通す。ラジオ・テレビがあるから、大まかな世情は分かる。活字読みも、ブログで補っているから、活字への触手は覚えない。今の一日の時間配分からすれば、新聞に費やす時間は無さそうである。仕込む時間よりも、蹴り出す時間にペースを合わせた方が、良さそうである。社説諸々を読み、新聞を閉じる。

 ページを開くと、旧友ミズからのコメント一つである。コメントを眺め、ディスプレーに浮かぶ彼の高校時代の顔と先日の顔を見て、いや~ 我々二本線は、死ぬまで番カラ男子高体質は抜けないと、込み上げて来る笑いに、暫し紫煙を燻らせた次第である。調子付いて、本日分を打とうとするが、今度はミンミンゼミの一斉攻撃である。儘為らぬのが、我が人生である。カテゴリーを設けた事であるし、ストック分は、鼻をかむ程ある。時々は、それらも風に当てる必要もあろう。いざと為れば、適当な長さの読み物として、CDからピック・アップすれば、帳尻が合う。

 実の処、昨日打った原爆絡みの文章では、気が済まなくてオブラート無しの長文・本音文章を、とあるブログに拍手コメントとして送信したのである。云わば秘匿コメントであるから、キーを打っている間に、何オクターブか上に為ってしまった。ストーレートに言の葉が、舞い上がって自分らしさが十分に出ているなどと、自画自賛している程である。久し振りに試験の一発勝負の万年筆筆記を終了した思いがあった。

 人間、吐き出してしまえば、後は大人しく為るものである。従って、本日は流す気で居たのである。そんな処に、旧友の番カラエールがあった。エールを貰った以上、頑張るのがエール返答者の務めである。<車椅子の帰還>を投稿して、旧友にその旨、電話をする。自分の声は分からぬが、彼の声は、高校時代の声と少しも変わらない。<モンスター歌手>の山本リンダの如きであった。
               有り難きは、校風なりである。

心何処ーショート 車椅子の帰還
                車椅子の帰還
 世の中、不思議なものである。好い事・悪い事は、続いて起こる物の様である。普段の生活では、何も起こらない事が正常なのである。好事悪事を対極の物と捉えて、深刻に考えぬ方が良さそうである。好い事・悪い事を、常ならざる事で一つの括りとすれば、常ならざる括りの中の好・悪の違いだけとの観方も出来る。そんな観方からすると、愛想を崩したり、顰め面をしても、始まらぬ運勢なのであろう。括りの仕方は大きくした方が、ずーと、気が楽になるものである。

 ウラジオストークのMissヤナに電話をすると、30分後に掛け直してくれとのリクエストである。素直に35分後に電話をすると、手紙が届いて嬉しい嬉しいを連発している。彼女は入浴中であると言う。受話器を持って電話を待つヤナの入浴姿に、私は、彼女のアパートでの我々の入浴シーンを思い出していた。バスルームは、3畳程のスペースに2人用のバスタブがデンと置かれ、その横に便座の無いトイレがちょこんと座り、小さな洗面台と洗濯機が置いてある。凡そ体格の良いロシア人の生活する居住空間の釣り合いから考えると、首を傾げざるを得ない小スペース振りであった。彼女達のリラックス、プライベートタイムは、シャボンを浮かべた湯船に浸かっての一時らしい。受話器から彼女の裸身が見えると言うと、オーケー、全部見えますか等と屈託の無いコロコロした笑い声を立てている。私の振り仮名を付けた日本文は、彼女によると全て読めたそうである。私のブロークン・イングリッシュの方も、我が大意は、凡そ掴めた模様である。苦労の甲斐が、あったと云うものである。

 私の経験ではあるが、外国人によるたどたどしい手紙を判読するには、散らばった土器の破片を繋ぎ合わせて、修正、不足の部分を前後の脈歴・想像で埋めて行く作業を伴う。書き手への此方の熱が高い分、この作業は、心弾む楽しい時間と余韻を心に刻むものである。Missヤナも、手元の日本文とブロークン・イングリッシュの両方を睨めっこしながら、彼女独自のロシア文に翻訳したのであろう。

 彼女の応対振りにすっかり気を良くして、私もシャワーを浴びていると携帯が鳴っている。

 電話に出ると、Bのホステスからである。彼女はIの不在の時には、ママ代理をこなすNo,2である。店では、オジサンキラーの異名を誇っている由である。電話の要旨は、約束の我が文作への感想コメントである。2ヶ月半を要して、M嬢からの文作が回って来たと云う事であろう。彼女達の自称読書好きの次元は、物臭太郎を自負する私とは大分異なる次元の様である。
 自信家の彼女のサイドからすると、『単なるエロ爺の延長線上を住処としている男』と見なしていた男の文章にしては、奥が深く面白いから続編を持ってくるべしとの催促である。彼女は、ショート集の『陽炎の如く』が、お気に召した様子である。彼女の感想の多くは、その文章からの引用である。少々出来の良い女子学生が、良く使う粗筋・大意をそつ無く披瀝する手法である。私は彼女達の読解力を試した訳ではないから、採点をする訳にも行かず・・・得意になって話す彼女の好意に水を差す勇気も無く・・・人の好意は、有り難く頂戴するのが、私の作法である。

 日曜の午後からは、体外衝撃波結石破砕療法に依る尿管結石施術の為の、1週間の入院が控えている。一つの区切りに娑婆の女性達の顔見を予定していたのだが、リリィの店の帰りに寄ったはしご横丁の韓国ママの店は、生憎の休みであった。土曜の本日寄ろうと考えていたのであるが、1週間のご無沙汰に会社で、ついつい話が弾んでしまい、行きそびれてしまった。潔く断念して寝床で、昼に買ったクラシック名作シリーズ1959年作『地底探検』なるDVDムービーを観る。私は、この手の映画が好きである。金髪大柄ブルーアイの肉感的美人女優、アーリーン・ダールが素晴らしかった。(彼女は雰囲気的にロシアン・ウーマン、オルガに似ている。従って、私の映画鑑賞の中にあっては、彼女は決して他人では無かったのである。)今時の鳥ガラ・鳩が豆鉄砲を喰らった見たいなバカマツゲ、だらしないルックの女集団とは、彼女達は対極に位置する豊満・豊穣のビーナス達なのである。美のバリエーションに対する眼力の涵養は、本物に接する事で育まれて行くものである。女性観賞眼は、やはり美人のお手本に目を馴らす事にある。韓国ママさんには悪いが、2時間の美人鑑賞は、中々にして堪能した。
オゥ、ウクライナ・ウーマン、ナターシャ、アリーサ。ロシアン・ウーマン、ヤナ、イリーナ、オルガ、皆々、キレイナ。ビューティフル、ナマイキナ、彼女達は以外と真面目、ドライにしてウェットで、私には少なからずの異国ショックが新鮮且つ、魅力的なのであった。

 翌日曜日、目覚めと共に、何かと気が重い。バッグに入院仕度を詰め込むだけの事なのであるが、時計に目を遣り、未だ好い、慌てる事は無い等と意味無くタバコに火を付け続ける。こんな時の頼みの綱の報道番組も、興味をそそられず、卓上の置時計は、時を空回りさせているばかりである。さてさて、重い腰を上げるとしようか・・・動かずば、何事も始まらないのである。
 
 薄い曇天に夏の太陽である。タクシィを呼ぶのも面倒であるから、バスで行く事にする。1週間の入院予定である。退屈凌ぎにバッグに、本とノートパソコンを入れたから、大分重くなった。家から通りに出ると、前の停留所にバスが見えるではないか。大慌てで、次のバス停に走る。バスに乗る機会は、年に1度あるかないかである。然し、ある時期バスは、庶民の交通の主要手段であったのであるから、乗って見ると、一種の郷愁すら覚える乗り物である。何処で降りるのが良いのか思案するが、マイカー歴40数年、全くのバス音痴である。都電の様に車内に、案内図が貼ってある訳ではないから、判断が付かない。さて困った事である。

  暫しの思案の後、先ずはS高校前をパスして、次の停留所のブザーを押す。
    降りて、<うむ、失敗かな? まぁ、良いわさ。後は歩けば良いさ。>
 
 路地裏の道を縫って歩く。昼の太陽は、天中から射て、影を最小限に留めている。無防備の我が禿頭はジリジリ焼かれ、忽ちにして全身汗だくの態である。日陰らしきものは、皆無に等しい。右に左に持ち替えるバッグの重みに、業を煮やし肩に担ぐ。夏は、暑いから夏なのである。荷物が重ければ、担ぐ。前に進めば進んだ分、ゴールは近くなり、苦役の解放が近付くのである。こんな単純な論理は無いのである。男は、顔・体力・忍耐・寡黙に尽きるのである。路地裏は、人も風も、動きの無い倦怠の昼下がりである。こんな時の男の主題歌は、ゲーリー・クーパー、真昼の決闘のハイヌーンか、はたまたサンプラザ中野の走る走る俺達、なのか・・・・いずれにしても、バスに乗った事で、賽(さい)は投げられたのであるから、対処法は迎合するか迎え撃つかの選択肢・はたまた、その併せ技しか無いである。

 何しろ暑い。体内に居座った外気温を、冷やすのが先決問題である。病院のレストランで昼食を取りながら、冷房に一息付くべしである。日曜の病院は、閑散としている。病室は3階の4人部屋で、私が入って3人である。先輩患者に挨拶を済ませて、バッグを開ける。同病を患う秘尿科病室には、トイレと洗面室が備えられている。去年ご厄介になった皮膚科には無かったものである。トイレには、名札も目新しい私専用の尿採取容器がある。その容器の上面には目の細かいステンレスの網張があって、患者は大型のカップに放尿した尿を、その容器に流し込む仕組みである。従って異物は網に取り残され、一目瞭然のチェックが可能となる運びなのであろう。知恵と工夫の利いた、実に人間らしい道具に、感心させられる。

 本を読むのも気が進まず、持ち込んだノートパソコンをベッドの台の上に載せる。肥満体の身には、窮屈この上ない。飛行機と同じで、これが庶民のエコノミーサイズなのである。ぼやいても始まらぬ時の、習慣上の仕草から言えば、此処で儚き紫煙の燻らせと成る次第であるが・・・・全く地に落ちた喫煙者の悪行の烙印である。全館禁煙とある。・・・・発作痛が出ぬ限り、私は到って肉体的には健康体であるから、大の大人が、ボケーとしているばかりでは、一向に様には成らないのである。携帯ラジオを付けて見るが、電波の入りが頗(すこぶ)る悪い。諦めてパソコンの電源を入れて、思い付く侭を打ち始める事に決める。昨年は、この隣の病棟で、旅行記の1篇を打ち上げたのである。

 其処に若い看護婦が入って来て、入院手続きが始まった。内容は、総合受付で提出した書類の確認からである。同意書の本人住所欄と続柄妻との異住所を、怪訝に思うのが常識と云うものである。私は、彼女の疑問に率直に応えて、
「そうです。別居夫婦です。」
「そうですか、同意者がもう1人必要なんですが、・・・・」
そうですかと、私は娘の名前を書き、その住所を女房の住所と同上と続け、職業欄も必要との事であるから、当病院名を書く。
「あのぅ、もしかしたら、R先輩のお父さんですか?」と、訊ねられたから、
「うん、そう云う事に成っている。」
「道理で最初お見掛けした印象が、誰かに似ていると感じたんです。先輩は、年は私の方が一上なんですが、看護学校の時も一緒で、ルーム長やってましたよ。しっかりした人ですよ。」
「あぁそう。親が有っても無くても、子は育つからね。」 
「何言ってるんですか、良く似てらしゃいますよ。お父さんもしっかりしてます。」
「血は水より濃しの喩えかも知れないけど、お世辞でも有り難いよ。ただ、娘は小さい時は、俺にそっくりで<坊や>何て言われて、良く切ながって泣いて、女房に<お母さん、どうしてお母さんにそっくりに生んでくれなかったの。>何て抗議してたもんだよ。娘にとって、俺は『鬼門』だから<似てる>何て事は、黙っていた方が良いよ。」
「そんな事無いですよ。今でもステキですよ。モテルでしょ。」
「へへ、若い時は、これでも頭髪があったから、少しは好い思いが出来たけど、今は女房子供に愛想尽かしをされて、落ち目の三度笠、不遇を囲うってヤツだよ。」 
「先輩に連絡しますか?」
「いや、良いよ。最初の発作痛の時は、娘に乗せてきてもらったし、私服で痛み止めの注射・点滴を打ってくれた。あいつなりの俺に対するメッセージなのだろう。それで充分だよ。」
「奥さんは来ますか?」
「さぁ、別居中だから、どう成りますかね。礼儀として、電話はして置きましたけど。」
 彼女と娘は、結構親しいらしい。娘の取り持つ縁の力だろうか、彼女は何かと親切に接してくれる。有り難い事である。

 大いに気を好くして、再びパソコンを打ち始める。私のベッドは出入り口に面して、向かいは空きベッドである。1床当りのスペースは、1坪強であろうか。カーテンを引いてしまうと、如何にも閉塞感が増してしまう。ベッドにどっかと胡座を掻いて、老眼鏡で太い指で何やらパソコンを打っている姿は、病棟に在って些か奇異に映るのであろう。病室に現れる看護婦達は、一様に若い。好奇心の強い彼女達は、「Rさんカッコウ好いですね。何打っているんですか?」等と気軽に声を掛けて、画面を覗き込んで来る。「他愛の無いエロイロ日記だよ。」「他に何か、入ってますか?」「どれどれ。」マイドキュメントを開くと、ショート集が8編程入っている。人懐こい娘さんである。一緒に画面を覗き込んで、「フロッピイ、今度持ってきますから、コピーさせて下さい。入院予定は?」「明日オペで、運良く砕ければ、2、3日。駄目なら再挑戦で1週間の予定だって話だよ。」

 若い看護婦達の持ち上げ上手に乗せられて、私の文作は快調に進み2頁を超えた。入院患者は、検温・血圧・投薬等と、結構世話を焼かれるものであるから、全くのマイペースと云う訳には行かないものである。そんな諸々で個人的な乗りの中断を余儀なくされてしまう。然し、内職を勝手に持ち込んでいるのは、如何考えても私には分が悪い行為である。医療行為が全てに優先するのであるから、私はその都度、学生が授業中の内職行為を、教師に窘められるが如くそそくさと片付け成れば為らない羽目に陥ってしまうのである。機械物は便利な反面、咄嗟の反応にはそぐわない物である。つい手元が狂って、3/4頁分を無に帰してしまったのである。私の文作は例によって、その場の雰囲気に任せての<のらくら文章>である。消えた文章を復元させる程の脳味噌の緻密さは、持ち合わせては居ないのである。復元意欲・継続意欲の糸が、物の見事にぷっつりと切れてしまった。物臭男の私には、良くある出来事である。仕方が無いから、消灯に倣って淡いピンクのカーテンを引いて、目を瞑る。

 翌施術当日は、術前の一切の経口行為は厳禁である。前夜に飲んだ通じ薬が効かない場合は、浣腸と言われていた。痛みに我慢出来ずに再度病院に駆け込んだ時に、体格の良い中年看護婦にベットでパンツを下ろされ、肛門に座薬を入れられた経緯があった。あの敗北感が、私の中で尾を引いている。勿論、浣腸は自分の手で行うのであるが・・・連鎖連想であの時の敗北感が、湧いて来てしまうのである。朝の通じが有って、大いなる安堵感を覚えた次第である。朝の回診に医師達が遣って来た。
「Rさん、石割は9:30からです。頑張って行きましょう。」
「はい、宜しくお願いします。」
医師は、頗る元気にして意気軒昂である。朝食は抜きであるから、洗面方々シャワーを浴びに行く。高校同期のKの体験談を身体を洗いながら、反芻する。1秒間に2発の衝撃波を結石に当て、途中2回の5分休憩があって、通算60分が『体外衝撃波結石治療法』との事であった。彼は6回目にして漸く破壊に成功したとの事である。

「R、痛いなんてもんじぁないぜ。ドンドコドンドコと打たれるから、始めは、未だ気力も体力もあるから、何とか我慢出来るんだけど、その内パワーアップされてドンドコドンドコ攻められて見ろや。5分の休憩なんてあって間だよ。パワー全開でドンドコドンドコがまた始まる。今度は、攻められるじぁ無くて、責められるんだぜ。最後の20分は、現代の拷問だぜ。毎回、土下座して勘弁して貰おうと本気で考えてたぜ。『もう少し』なんて、医者の野郎は、手前が痛く無いから、調子の好い事言うんだよ。別室で操縦桿握って、毎秒2発の規則正しいリズムだろ。ありゃ自動操縦じぁねえか。こっちゃ生身の人間だぜ、機械と人間じぁ、逆立ち・土下座したって勝負にぁならねえのに・・・医者の野郎は、爆撃機のパイロットみてぇに、画面の照準に合わせてドンドコドンドコ攻めまくるんだよ。尿管の結石部は、科学の進歩で、画面に十字マークの照準が付いてる寸法さ。何て言ったって、医療機械は正確無比だよ。アメ公のイラクバクダットのサダム・フセインじゃ無いんだよ。最後なんかは、完全にノック・アウトされて、全身、脂汗ギドギドで歩けやしねぇ。笑い事じぁねぇぞ、R。なぁ、考えても見ろよ。ボクシングの試合だって、ピンホール・ボデイ・ブローなんて正確さは無いじゃないか。それをピンホールのしつこさで、ドンドコドンドコ遣られた日にぁ、人間の気力・体力なんて物は、実に頼りない物さ。内臓にピンホールの照準を合わせられて、ドンドコドン打ち込まれたんじぁ、どんな奴でも、倒れちまうぜ。ボクシングは1ラウンド3分、こっちゃあ1ラウンド20分だぜ、拷問部屋から解放されて小便すりぁ、血尿なんて生易しいものじぁ無い。赤玉ポートワインだぜ。石が出てくれりぁ、慰め物だけど出ないとなりゃ、全くの無実の拷問部屋だぜ。八つ当たりのしようも元気も出て来ないってもんよ。それが週2回だよ。ドンドコドンドコ、祭りの太鼓じぁあるまいし、一時は、いい年こいて、太鼓に魘(うな)されちまった。R、覚悟しとけよ。俺は仲間が出来て、本当に嬉しいよ。痛いぞ。痛え、痛えって大騒ぎするのも、一つの手だぞ。俺なんかは、何しろ6度目の正直だろ。見栄も外聞もありゃしねえ、あぁ~、痛てて、もう駄目だ!!  止めてくれって、まな板の上で、のた打ち回って遣ったさ。その位、やらなきぁ、高い銭払って、拷問受けるんだぜ。ざまぁ見ろってもんさ。Rは、迫力があるから、様に成るぞ。遣って見ろよ。」

            シャワー室で、Kの体験談を噛み締める。
<そうだろうな・・・だてに術前の浣腸なんて事は、言わんだろう。臨床結果の積み重ねが、言わしめる事前の予防策なんだろうなぁ・・・信玄と家康が戦った三日ケ原では、九死に一生を得た家康が馬上で脱糞した等と云うエピソードが伝わっているもんなぁ、何時も忙しい忙しいと言ってるのに、あの野郎、俺が尿管結石に成ったって言ったら、珍しくすっ飛んで来ゃがった。それにしてもKの野郎、涎を垂らさんばかりに名調子で、痛てぇ、痛てぇを連発しやがって、10年前の40代で6回だったから、50後半の俺は直りが遅いと来たもんだ。友達甲斐の無い馬鹿野郎だ。

・・・あぁ、忌々しい限りである。とんでもない野郎と同じ病気を患ったものである。・・・

 あの野郎、普段でも苦虫を噛み潰した様な面構えの上、顔を顰めて、痛てぇなんてものじぁない。と再演技なんかしやがって、あぁ、嫌だ嫌だ、あいつの面を思い出しただけで、痛くも無いのに、痛くなっちまう。こんな事をしていたら、割れる物も割れやしねぇ、止めた止めた。>  

 全く気の重い心境で、浮き出た白鬚の目立つ鬚面に剃刀を当てる。身を整えて戦場に向かうのは、男子の身だしなみの一つである。

        部屋に戻ると、女房が椅子に座って本を読んでいる。
「9時半からでしょう。何か食べる? 買って来ようか。」
「終わってからじぁないと、駄目だとさ。如何した病人の俺より、具合の悪い顔じゃないか。」
「歳だから、疲れが如何しても抜けないのよ。相当痛いらしいわよ。大丈夫?」
「らしいな。しょうがないさ。薬飲んで4週間経つけど、結石は定位置のままだとさ。言う事聞かない奴は、俺の流儀からすれば、張り倒すより仕方無いだろう。投薬だと早くて3~4ヶ月、普通1年掛かると言われてしまえば、早い方を取った方が良いってもんだよ。」
「作り主、飼い主が問題なのよ。天罰が当ったと思って、我慢するより他ないわね。」
女房は、私が悶絶している処を2度目撃している。施術室からヘルパーさんが遣って来た。点滴をされてレントゲン室で写真を撮った後、迎えに来るとの事である。点滴スタンドを押して帰って来ると、部屋に車椅子が用意されている。実に照れ臭い限りである。
「いや、結構です。歩いて行けますから。」
「この方が楽ですよ。皆さん、そうしてますよ。」
「良いんですよ。主人は強情ですから、放って置いた方が、良いんですよ。」
彼女に案内されて、2階の施術室に向かう。
「Rさん、私達は仕事ですから、患者さんは、甘えて良いんですよ。」
「有難う。これも男の見栄の一つですよ。痛い時は、意気地・堪え性が無い性質ですから、その時はご厄介に成ります。」

 施術室は、二つに仕切られていた。中央にでんと置かれたベッドの腹部から胸部に掛かる個所が、楕円形に抉られた形で空間と成っている。ベッドと一体形の大きな蛍光スタンドの様な物が、上部から迫り出している。ベッド横のスタンドには、液晶画面がセッティングされている。隣の仕切られた小部屋には、装置を操縦する医師が座り、ヘルパーが待機する。愈々である。

 最初の出力は25%から始め、順次出力を上げつつ衝撃波を結石に照準を合わせて、結石破壊に繋げるとの事である。破壊出力は85%以上を要すると言う。
「Rさん、尿管結石の位置が脊椎に接近しています。可哀想ですが、相当痛い打撃波と成ります。覚悟して下さい。でも石は小さいですから、1回で割れると思います。我慢して下さい。1回の成功を信じて、頑張りましょう。さぁ、行きますよ。」
   
         <覚悟して下さいか。恐い事を平気で言う医者である。>
   レントゲン照射機に合わせて、背部の当て物が、背中を圧迫して来る。緊張の瞬間である。
 
<ドンドン、ほう、これがそうか。毎秒2発、2×60×60=7200発である。えらい物が始まってしまった。25%か、ドンドンドンドン、50%に上げます。ドンドンドンドン、75%、ドンドコドンドコ、85%行きます。ドンドコドンドコ、・・・・・・・・・・
                    おぅ、おぅ~、あ~、下腹がしくしくして来た。>
ドンドコドンドコ、ドンドコドンドコ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
<おぉ~、痛てて、うぅ、、、、畜生、未だやる気か、、、、休憩は未だか>・・・・・ドンドコドンドコ・・・・ドンドコドンドコ・・・・

「痛いですね。休憩しましょうね。」「はい、有難う。」

「Rさん、我慢出来ますか、我慢しましょう。きっと割れますよ。さぁ、呼吸を整えて、頑張りましょう。私も頑張りますから。行きますよ。」
ドンドコドンドコドンドコ・・・・
<くぅ~、痛てて、あぁ~、駄目だ。うぅ~、担ぎ込まれた時の再来だ。うぅ、うぅ~>
             ドンドコドンドコ、ドンドコドンドコ、
 「Rさん、大丈夫ですか、声が出なかったら、手で合図して下さい。余り我慢しないで、痛み止めしますから、我慢しなくて良いんですよ。」
<あぁ、駄目だ。拷問だ。止めてくれ、喋る。何でも喋るから勘弁してくれ。う~、う~、>
 
「先生、休憩です。」有り難い事に、ヘルパーさんから、リングにタオルが投げ込まれたのである。朦朧とする意識に、
「Rさん、見て下さい。ほら、石が割れ始めました。尿が降りる黒い線が見えているでしょう。きっと割れます。もう一息です。痛いでしょうが、一気に行っちゃいましょう。」

 ドンドコドンドコ、ドンドコドンドコ、ドンドコドンドコ、ドンドコドンドコ、・・・・・
<うぅ、喋る。オサマ・ビンラビンの事も、フセインの隠し金塊の隠し場所も、金将軍様のご落胤の事も、徳川家の埋蔵金の事も、全て喋るから、頼む、ドンドコは止めてくれ。死ぬ、気が狂いそうだ。ヘルプ・ミー、ヘルプ・ミー>

「Rさん、尿管が通じましたよ。成功です。やりました。止めましょう。」
オペレーション・ドクターが、汗びっしょりの顔で駆け付け、耳元で
「良く我慢しましたね。声、出さなかったのは、Rさんだけですよ。感服しました。多分ですが、これで大丈夫だと思います。明日、レントゲン写真で検討しましょう。お疲れ様でした。」

<ふぅ~、間一髪、セーフと云う処であった。男の見栄は、これ1回で、もう懲り々である。>

 病室には、車椅子での帰還であった。私は、タイトル奪取までに6回の挑戦を強いられたKに、大いなる脱帽の感を覚えた。トイレで放尿する。大カップで受けるのであるが、どす黒い血反吐の様な爪楊枝程の太さの異物が2個と、血糊の塊が勢い良く放出されるや、深紅の液体がカップから溢れんばかりに迸(ほとばし)り出たのである。正に仰天物である。空きベッドが埋まっていた。常連さんらしい。女房の買って来た食料を、ガツガツ食べる。
「相変わらずね。憎らしいほどの食欲ね。心配は、しないわよ。何か有ったら、電話ちょうだい。」
「うん、これで大丈夫だろう。サンキュウ。」

 翌日、無事退院の運びと成った。外は台風下の土砂降りの雨である。施術は通常1日2人、多くて3人であると言う。私の様に爆弾を抱えて順番を待つ患者には、平等の機会を回すのが、社会のルールと云うものであろう。7200発のボデイブローを喰らった腹部は、鈍痛を呈している。同室の患者達は、皆60代だろう。彼らにとっては、体力消耗の辛い施術入院であろう。結果からすれば、あっ気無い入院に終わったが、この幸いを土砂降りの天に感謝すべきである。

                              2005年7月26日
 

心何処ーショート ただ・・・ただ合掌
              ただ・・・ただ合掌(8/6)
 昨日は、ゆとりがあったから、2時間ほど早く、寝床の8畳に移った。あるブログの<武蔵考>に触発されて、<私の武蔵>のバート・ランカスターの『追跡者』に会いたく為ったのである。秘密の扉(埃防止の為のキャビネット・お気に入り中のお気に入りDVDが収まっている。)を開けると、ランカスター物を中心に、カーク・ダグラス、ロバート・ミッチャム、ショーン・コネリー物が、待ちかねている。タイトルを見るだけで、ストーリーと彼等の象徴シーンが、動き出してしまう。鮮明さがある内は見ない方が、お師匠様への恩返しである。

 蚊取り線香を焚いて、四畳半、廊下から吹き抜ける夜風に、紫煙を燻らせていると、庭に青く光る目である。部屋の明かりを付けると、庭木を見上げる猫が居る。多分、庭木に止まるセミを狙っているのだろう。何処ぞのご近所さんの飼い猫には、違いなかろうが、我が家の縁の下を涼み場所として、時間を送り、私の飼い鳥を狙う不逞の輩である。
 但し、呼ぶと直ぐ近付いて来るので、コヤツには人間社会の仕来りが、分かっていないのであるから、始末に終えない猫である。
 然りとて、我が褥に招じ入れて、夜伽を申し渡す訳にも行かぬ。何しろ猫の夜伽には、苦くヒリヒリの経験があった。咽喉が渇いたから、冷蔵庫からスイカを取り出して、食する。

 どれ位、寝入ってしまったのだろうか。枕元のラジオからは、広島の原爆の日に因んでの、被爆者達の手紙の朗読が流れていた。淡々とした女性アナウンサーの朗読であった。淡々とした朗読に、経験した者にしか書けない<切々とした心情>が伝わって来る。並みの人間が読めば、感極まって読み進めない文章を、彼女は平常心を装って、一定のリズムとテンポ、抑揚で読み続ける。職業意識を鼓舞しようとも、隠し切れない感情の音感が生じる。

<貴方の現在の仕事は、被爆者の皆さんの文面を、正確・明瞭に朗読する事ですよ。>

  私は、そんな彼女に、頑張れ・頑張れを呟く。それしか、私には出来ない。

 私は小さい時から、カレンダーには全く疎い性格だった。去年の今日も、こんな風だった。如何云う風の吹き回しか、ふと目覚めた耳に流れていたのが、被爆者の皆さんの手紙の朗読であった。感涙に奥歯を噛んだ。寝床で拝聴する事は、礼を欠くと思った。正座して拝聴した。嗚咽と体の震えが、全身を掴んでいた。

    そして、再び目覚めた耳に、朗読が流れていた。

 去年の様な嗚咽は、起こらなかった。被爆から63年が、流れて行く。山に大地に降った雨は、見えぬ地中に沁み込んで、何十年を経て地下水脈に誘われて、湧水として地表に現れると云う。
強固な岩盤・砂礫・粘土の層を人知れず潜って来た水の滴達が、地下深く幾重にも交差し合って・・・きっと、人体の神経・血液の網の様であろう。被爆の日、黒い雨が降ったと云う。
 勿論、私は原爆を知らない。知っているのは、言葉だけである。社会人に為って私は、それを恥じて井伏鱒二の<黒い雨>を買って読んだ。その後、映画化されて話題を呼んだ映画であったが、私は見なかった。

 昨夜の私には、感涙も嗚咽も無かった。静かな涙が、頬を伝わっていた。大学時代に読んだ<学徒出陣・特攻隊員達の遺書>同様の気持ちが流れていた。

  滾々(こんこん)と湧き出る清水は、清楚にして美味である。
 そして、沸々(ふつふつ)として湧き出る心情は、切々と心に沁み込む。


心何処ーショート 白昼夢
                  白昼夢
 怖くは無いが、凄まじいばかりの雷鳴のお時間である。雷鳴の合間に、二度雨が落ちたものの、重力が働かなかった様である。仕切り直しとばかりに、大閃光と雷鳴の轟きが、繰り返されている。黒雲の侵攻に、遠い場所の窓を閉めて来る。

 バシャバジャとばかりに、集中豪雨の様相である。堪らじの大粒の雨の飛沫が、裸の皮膚を撫でる。水を吸わぬアスファルトの雨脚が、川となって駐車スペースから、低き庭を覆い尽くす。その様は、凄まじくもあり、躍動感の洗礼・発露・エネルギーでもある。池と化した庭の踏み石通路は、沈む雑草に打たれている。夏の雨は、馬の背を分ける、バケツを引っ繰り返した様な、とも称される。温暖化進む地球の日本スポットには、大気の不安定さから、この様な雷鳴・集中豪雨現象が、頻繁に続くと云う。丸で、南洋性気候の襲来である。

 CDをアン・ルイスの甘さのある喉とテンポのある曲に替えて、ボリュームを挙げる。

 水槽の蒸発量に補充する川の水が必要である。これ幸いに、雨水を利用する事にした。バケツ一杯を補充して、予備の水も瞬く間にゲットしてしまった。暗い玄関の安置場所では、小鳥も辛気臭い事であろう。若鳥の籠を窓辺に置いて、水飛沫を当てて遣る。茹だる暑さと成長に無関心の今日この頃であった。白一色のメスの目の下には、黒い一本線が入っている。薄茶のオスの体色には濃さが現れ、頬の金の刺繍は態を為しつつある。

 束の間の薄日は、現在は無く・・・ 雨に冷やされた空気が、風を呼んで呼吸の様な涼を、小さく通わせている。アン・ルイスのリズムに乗って、単発の声を発して、若鳥が止まり木を往復している。私は、彼女の若かりし姿態のイメージに、ウクライナのライオン娘をオーバー・ラップさせて、紫煙を燻らせる。日々マンネリの賄い夫生活・・・ 私に許されている数少ない内心の自由の一時である。

     暇とは云え、私の夢想癖は、墓場まで健在の様である。
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