旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処‐ショート 乱調パソコン

 今年は、お目に掛かれずと思っていた、四十雀の巣立ち模様が見れた。例年より1ヵ月遅れである。鳴き交わすたどたどしいばかりの飛び方、枝渡りは、実に初々しい。午後からは、雨がポツリポツリで、その内、本降りと成ってしまった。初めての下界が雨宿りとは、些か酷ではあるが仕方あるまい。四十雀の巣立ちにあやかって、金華鳥の番にも、目出度く初産の朗報が叶って欲しいものである。

 本日はパソコンの調子が頗る悪い。打っていると、突然に消えてしまう。下書き無しの出た処勝負の文作である。本来は、とうに打ち終えている筈の日記が、一向に形を為さない。昨日報道の無国籍児童への日本国籍を与える判決について、打っていたのであるが・・・再三の消滅の事態に、集中力が切れてしまった。

  沈黙は金or銀とも言うらしい。私の本心・本態は、天の思し召す処では無いらしい。
                    そう考えて、本日の賄い夫日記を、終いと致しまする。
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心何処ーショート 深夜の一考 

 昨日は寒い事も手伝って、夕食後の老母とのお付き合いの歌番組を見る気も無く、蒲団の中に入ってしまった。当然の如く、2時間程を熟睡して起きてしまった。ピンチ・ヒッターと為った、眠っていた<風のよもやま話>を読み直して、訂正と補筆を加えた。ブログ訪問をしていると、赤スペさんの<経団連の発言力=献金力>を読んで、仰せ全くその通りと、憤慨心がムラムラと湧いて来た。拍手コメントをした後、暫し腕組みをしてヘビー・スモーカーの段であった。

 グローバリゼーションの精神的崩壊と云う物なのか・・・ 大企業の輸出産業のお偉いさん達の目は、否応も無く外向きに費やされる。外向きである以上、交流する人間達も世界の強者・お偉いさん・富豪なのであろう。指導者層と云うのは、比較に長けた階層である。その豪勢な私生活に、自分の立場・収入を比べると日本の経営者の成功報酬は、如何に低いものか等と向こうの基準で感じてしまうのだろう。権力を握る人間である以上、個人的比較評価を下せば、彼等とて人の子・・・ 然しながら、部下・従業員・下請け・下請け従業員の上に君臨する極上の玉座に、昇り詰め、何年か・何期かを勤めている内に、気分は生まれながらの雲上人、才能の専属玉座と化してしまうのだろう。有るを守り、拡大する。守り拡大する自己所得を、最上の物と位置付ける。最上の物と位置付けても、老躯には消費の拡大する術も限られて来ているのであるが・・・

 嗚呼、人間の精神の高みである処の、足るを知って、備わる気品も徳もあった物ではない。

 足らざる者への負担を、他社競争・国際競争力・平等・公平の美名の下で、管理の精度を高め強いて、集まった成果を小数で分配するグローバル企業。勝ち組・負け組の安易なふるい分けで、努力の多寡の結果論として、素人を煙に巻き、個人に競争の激化を煽る。これでは神も仏もあったものじゃない。『権力こそが、正義』と開き直るゴリ押しの所業ではありませんか。
旦那様・ご主人様・お奉行様・お殿様・公方様、それは、ご無体なお沙汰であります。下々は日々泣いて居ります。平にご勘弁の程を・・ そんな中世劇を見ている思いである。
 
 謹厳実直・節度を重んじる人間の気風を、構築・維持する社会の精神の根底には、垂範率先のリーダーとしての気風が、無ければ為らない。垂範率先を是とする社会観・人間観には、共同・協働・平等・質実・・・etcの集団観が根付いていなければ、回って行かない物の考え、行動理念・指針であろう。そこには、同根同一を善とする考え方が、柱としてなければ考えられない社会構造である筈である。少数だけが太る社会・国家は、如何考えても、歪な世界・目標でしかない。

 当世、流行言葉のグローバリゼーションをイメージすると、先ず反対語として浮上して来るのが、鎖国である。鎖国のイメージは、この御時世マイナスのイメージが色濃い。鎖国・開国を日本の歴史から、素人の幼稚な頭で考えて見ても、幕末の開国騒ぎばかりが注視の的となっているが、開国・鎖国は、長い歴史の中にあって、何回も時代のうねりの中で、繰り返されている出来事である。今の御世だけの事では、あるまいに・・・ 平安時代には、漢字から平仮名が生まれ、カタカナが生まれた。貴族文化の下、和歌が隆盛を極めたと云う。鎌倉・北条時代は鎖国。明貿易で足利将軍家は、金閣・銀閣を造ったと云う。戦国混乱期武器の鉄砲全盛期には、織田信長が安地桃山時代と云う途方も無い絢爛豪華な強者の建造物・美術品を残したと云う。信玄・謙信の重石の取れた信長・秀吉の二大化け物の勝って放題は、家康の代に為って元に戻った日本は、鎖国時代。其処では、寺子屋教育・循環型社会・町民文化が隆盛を極めて、日本人の一番身近なイメージとしての、日本の原風景・日本人の原風景が醸成されているらしい。開国怒涛の勢いの明治期は開国の時代。実力を持ったと錯覚した大正・昭和前半は、精神的鎖国の時代。焼け野原復興期の昭和の時代は、物心両面の開国の時代。バブルの弾けた平成の時代は、ボーダレス閉塞感の時代。泡沫(うたかた)の移ろいに、翻弄されるのは、何時の世も、実も名も無い民原(たみばら)である。然し、民原の牽引車であった組合は、豊かさとリストラの中で、企業鎖国の海に沈んだ。求心力を失った民原が、選挙権を握っているのである。個人の危うさを自覚して、発言・行動する民原・労働者であって欲しいものである。

 以上は、その裏付けは!!と問われても、一言も答えられない私の駄々っ子の様な感想である。私の感想に照らし合わせれば、世相は勢いさえ無いが、二大化け物が、暗躍闊歩する時代に見える。現代町人文化は、マスメディアが呆け気分で、安易な芸NO人達のドンチャン騒ぎが電波を占拠して、セレブを吹聴して、街の瓦版屋が捩れ国会を面白おかしく、ヤンヤと騒ぎ立てる。挙句の果ては、金の掛かる選挙に、知名度を上げたいの政治家達がホイホイ挙って、テレビの政治寄せを賑わせている。この世は、人の心・考え・態度も、所属する社会・世界の中で、右に左に移るヤジロベーの泡沫の移ろいである。

 かと言って、心・考え・行動の芯が無ければ、安定の中央部には戻れない無いのである。ヤジロベーの均衡が、物質だけに偏ってしまうと、とんでもない事に為ってしまう。経済優先のボーダレスな現代世界であるが、所詮競争と云う論理の中には、いざと為れば組織防衛と言う名の鎖国政策が温存されているのである。個人にとっては、兎角難しい精神の芯の持ち様であるが、それを持ち続けて対処するしか方途は無かろう。『恥の文化』と驚異の目で描かれた日本文化も、すっかり廃れ果ててしまった。社会・世間から芯の存在が、脆弱に為ってしまったこの自由勝手な御時世・世相、個人の精神の芯が、試される恐い時代に為ってしまったものである。意志薄弱・浅学非才の物臭男には、益々肩身の狭い昨今である。

   闇の中での、浮かぶままの貧民のボヤキ節である。
         アリャリャ、馬鹿な想いに耽っていたら、時計は四時近い。
                寝るべし、寝るべしである。

 夢を見ていた様である。ぼやけた脳裏に、久し振りに登場為さった幼馴染のご婦人の顔があった。跳び箱を介した飛び込み前転の体育授業のシーンである。教師推奨の模範演技を遣らされた私に続いて、女子を代表して彼女が宙に身体を伸ばした。如何云う弾みか、彼女のトレーニング・パンツが一瞬の内に、掻き消えてしまった。水平姿勢のポッテリした白い臀部が、顕わに為って消えた。不思議な事に小学生である筈の彼女のポッテリした白い臀部は、豊満なる張りを兼ね備えていた。???? ビックリ仰天して、試技を終えて、帰って来る彼女の顔をマジマジ見ると、脂の乗り切った女盛りの顔である。<何とした事であるか!! フ~ン、堪らぬ色気である。>マタマタ、鈍く重い頭を振って見るが、目に見える物は、相も変らぬ万年床の朝の薄明かりであった。

 慣れぬ頭の錯乱で、よき夢を見たのか? ハタマタ、女体に泡沫『うたかた』の現『うつつ』を貪るのが、『私の現実』とのお天道様の思し召しなのであろうか・・・ さてさて、起きるべしである。

心何処ーショート 静かなり

 イヤハヤ、多くの人が、多かれ少なかれ通った道らしい。私流の健康的悪戯の数々、安心致しました。コメントを下さった方々の、その時・その様子を想像して見ると、何か初々しい様で思春期の匂いが、髣髴とされて来てしまいます。宜しくない事で、推奨は出来兼ねる行為でありますが、何故か? 心に尾を引いているホンワカとしたノスタルジックな光景であります。コメントに、紫煙を燻らせつつ、色々勝手な想像をさせて頂きました。ラジオからは、村上アナウンサーと神埼さんのラジオビタミンが聞こえています。真面目なNHKのお2人、リスナーの老若善人で構成されている番組でありますが、澄ました大人の現在であっても、一皮剥けば少年少女の成れの果て・・・ 「お天道様の賜物」の失敬行為も、大人の<思い出のビタミン>なのかも知れませんね。皆さん、有難う御座います。

 マタマタ雨マークの続く予報。昨日は雨に成らぬ内に、約束の弟分の<リクエスト>をコピーして届けて来る。ブログ紹介分とそれを小説風に引き伸ばした小編である。両方を読み終えた彼に、「お前さんの想いもあるだろうから、書いて置いてくれたら再アレンジするぞ。」と言うと、<ホントォ>と、途端に愛想を崩す男である。長い髪を短くした弟分は、落ち着いた感じのするハンサム振りである。私は、スッキリした髪型の方が、彼の内面とマッチして好く似合うと思うのであるが、時代の為せる処か・・・ 彼は、ヒッピー風を好む性質らしい。散歩に自転車扱ぎ、まぁまぁの運動量であった。

 曇天の空に、賄い夫始動である。朝の旅番組では、ガッツ・石松親子の安曇野の旅を放映していた。故郷の放映は、喜ばしい限りである。北海道勢を案内したスポットが幾つか登場した。老母には、先頃他界した姉一家との思い出が、脳裏に満開したのであろう。あの時に買った茶碗が何処かにある筈だと、探そうとしている。老母の部屋からは、木を思い切って縮めた柏の木から、青々した大振りの柏葉が、見事に見える。「元気な時は、あの葉で沢山柏餅を作った物なのに、この体では、もう何も出来ない・・・ 歳は取りたくないもの、情けない。」と寂しく笑っている。私は、その横でこの頃遣り始めた腹筋を、中心とした柔軟体操をしながら、テレビを見ている。
 
 我が定位置で一服である。窓辺の主役は、ムラサキツユクサの青みが勝った小花の紫である。動かない小花に、蜜蜂が飛んでいる。ろ過器のスポンジの汚れを揉み落とし、川の水を汲みに行く。そう云えば、弟分からの帰り道、聞いたのは、確かカジカ蛙の声であった。肩の辺り迄、伸びた葦群に、そろそろオオヨシキリも、巣を掛けているのかも知れない。今月の半ばの日曜日には、町民総出の河川敷の草刈がある。昔ながらの石積みの堤防は、盛りと為った黄花の群生に覆われている。この時期、緑の成長は厄介な物である。庭に出て草むしりを始めていると、老母が杖を突きながら老体を現して、緩い緩い仕種で草を抜いている。まだまだこの家の主の意気は、健在なのであろう。廊下にある固形肥料を、撒いてくれとのお達しである。何は無くとも、外の空気・植物の緑・土の感触は、人間にとっては無くては為らない<心の癒し>なのであろう。
 
 ロートル賄い夫の午後の散歩は、どの辺りを散策すべしとするか? 気分次第では自転車を扱いで、徘徊の範囲を拡げようかとも思う。その前に、面倒な昼の賄いが目前に迫っている。満腹に為ってしまったのでは、昼寝に逃げてしまうだけである。思い切って、即席ラーメーを啜って雨の降らぬ内に、サイクリングを展開する方が、合理的と云うものである。

 道の起伏に従って、のんびりサイクリングも好い物である。足を伸ばしたついでに、山辺(やまべ)の温泉の小店で饅頭・最中、ワサビの粕漬け・味噌漬けを買う。農業用水の溜池の取水口を覗くと、鯉が群れている。この池には、沼エビが居た筈である。<網を持って来れば良かった>などと、すぐさまタイム・トリップしてしまう。困ったノーテンキである。用水路の畦には、菖蒲の黄色い花が咲いている。水無月・6月は、衣替えの季節。勿論、陰暦であるが、温暖化の進む地球、1ヵ月半程の時差は、私の生きている内に埋まってしまうのだろう。道草の度に、タイム・トリップ為らぬスリップをしてしまう。

 帰って来ると、案の定、動き過ぎた老衰老母は、布団の中で臥せっている。日記を仕上げてから、和菓子のお茶タイムと致そうか・・・ 現在が、母子の一番良い時期なのかも知れぬ。馬鹿に徹して、得た静かな時の流れである。

心何処ーショート 無責任回顧

 昨日は湯疲れ効果で、好く眠れた。月が改まって、清々しいお天気である。

 洗濯機を回しながら、剪定鋏を持って、庭の小枝・花の終わった茎などを、ポツン・ポツンと切って回る。次いで、玄関周りの真似事掃除をする。下駄箱の上に置いた安静籠を、掃除の為に、そぉーと廊下に下ろす。すかさず巣からメスが、飛び出て来た。オスは健気にも、抱卵の姿勢を崩さず、じっとしている。暑くなる摸様であるから、風が通る様に玄関土間に打ち水をして、引き戸の左右を少し開けて置いて遣る。オスの好物のハコベの先葉を入れて遣る。長い物を入れると、馬鹿の一つ覚えで巣に運んでしまう。それでは、心臓の動き始めているかも知れない卵に、悪影響を与えてしまう。

 感情よりも客観性を選択してしまうから、大概の些事については、女よりも男の方を持ってしまう私の性分は、小さい頃より変わらないらしい。増してや、伴侶に恵まれない不運にもめげず、巣作り・抱卵をし続けるオスには、ほとほと感心している次第である。小鳥と言えども、立派な理知的にして責任感旺盛な男である。同族の男として、この位のエールを送らなければ、外道の道と云う処であろうか。水槽を見ながら、ラジオに耳を傾けていると、オスの囀りが聞こえる。彼の短い囀りは、束の間の食事と水飲みの合間に、遺伝子に組み込まれているオスの顕示行動なのであろう。本能と理性を調和させているオス金華鳥は、私の励みとする処である。

 タバコを吸っていると、ブ~ンと雀蜂が飛んで来た。玄関から入ったのか、廊下から入って来たのか分からないが、物騒な訪問者である。先日も入られて、雑誌で叩き落そうとしたのであるが、空振り、ファール・チップで向って来られてしまった。一度刺されているので、恐怖感で腰が引けてしまうのであろう。反射神経も年々衰えて行くばかりである。<さわらぬ神に、祟りなし。>であるから、窓を全開にして部屋からスタコラ退散である。

 斜向かいさんの娘さんが、休日には子供を連れて遊びに来る。子供達は、通りで好く遊んでいるから、ボール蹴りのボールを取りに四畳半の回りに好く顔を出している。<イチゴさんは、まだ赤くならないかな?>などと言って、雑草と化したイチゴを探している。

 今は無くなってしまったブドウ棚があった。我が家は、近くの私立高校の悪餓鬼達の通学路に位置していた。私も自転車通学であったから、帰って来ると、ブドウ棚の下でブドウを捥ぎ取って食べている連中と好く顔を合わせたものである。母は大分、立腹の様子であったが、私は変な仲間意識があって、<東のブドウの方が美味いから、それを食べろ。>と唆す始末であった。人の物を断わり無しで食するのは、非常識・泥棒の行いなのであるが、それを失敬して見たいのが「男の狩人のDNA」である。

 小学生の頃には、クラスに「豪の者」が居た。「苺を腹一杯食べさせて遣る。」と言うから台所から砂糖を持ち出して、ノコノコ付いて行った。案内されたのは、奴の家とは正反対の農家の苺畑であった。最初は悪いとオドオドしていたが、高価な苺の喰い放題である。何時しか夢中に成っていると、見付かってしまった。昔の大人は、野蛮で恐かったから、捉まったら何をされるか分からない。死に物狂いで反吐が出る程、走ったものである。優等生から劣等生まで、苺・杏・桃・ブドウ・リンゴ・梨・柿と、生っている物は、無断失敬ばかりしていたものである。そんな前歴を持つ者が、同類の行為を嗜める事など、<悪餓鬼の良心>として出来る筈が無かろう。

 ある時、子供達が小学生の頃、2人を連れて川に釣りに行った。息子は、私の癖を知っているから、咽喉が渇くと畑からトマトを失敬して来たものである。息子は優しい性格であるから、私の分も、妹の分も捥ぎ取って来てくれた。炎天下の咽喉の渇きに、トマトの捥ぎ立ての飛び散る果汁は格別の味であった。父親としては、息子を褒めるしかあるまい。好く遣ったとスイカ頭を撫でて遣った。好い気分で帰って来た家で、年端の行かない娘に、一部始終を女房に報告されてしまった。報告を受けた以上、女房の役割は、勧善懲悪の親の躾である。
 家庭のお白州での女奉行様から、どえらいお説教を頂いてしまった。お奉行様のお叱り、一々ご尤も、申し開きの出来ない<正論>であった。告げ口にウキウキする小娘を排除して、男同士別室で、息子に男と女の違いを説明して、<女には、気を付けよう。男とは、別の生き物だ。><お父さん、本当だね。分かった。失敗しちゃったね。>と確認した次第であった。

 団塊世代のジュニア達にも、そろそろ子育て珍道中が始まる頃である。十人十色の其々の子育て・・・ どんな顛末が、繰り広げられて行くのだろうか。興味深い遺伝子の継承や、如何に?で多少なりとも、観察をして見たいものである。
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