旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

心何処ーショート 久々のヒット

 昨夜は寒くて、途中で掛け布団の上に、毛布を掛ける始末であった。本日も引き続き雨日である。風邪を呼び込んでしまったのだろうか、多少、寒気がする。暗い室内であるから、この儘、起きずに居様かと、一部屋置いた老母の部屋の気配に、耳を立てる。如何やら、朝が始まるらしい。

     さてさて、此方も始動開始をしなければ為らない。

 朝食後、薬を貰いに行かなければ為らない。家で辛気臭い梅雨寒にボヤキを入れていても始まらぬ・・・ どうせ外に出るのなら、便乗して1日をゆっくり湯に浸かる方が、様に為る。1日を気兼ね無く、湯に浸かり、湯上り上気分でゴロリ、再び湯に浸かる、そんな事に費やすには、浅間のホット・プラザが格好の場所である。然し、この処、物の見事に空振りの連続である。さてさて、本日土曜日・昨日から降り続く雨である。運が悪いと云えども、早々は悪運も続かぬ筈である。行く事にする。カメラ・ラジオ・ウイスキー・切子グラス・老眼鏡・筆記用具と念の為の、マンガ本(西岸良平の鎌倉ものがたり二冊)を加えて、町医者経由の気分転換に出発である。

 駐車場には数台の車が、しのつく雨に打たれている。しめしめ、ひー、ふぅー、みぃー、よぅー、期待出来る台数である。料金を払い2階の大広間に上がる。三組の姿だけである。首尾は上々の兆しである。景色の良い場所を選んで、押入れから座布団を4枚持って来て並べる。給湯室から、ポット・急須・湯呑を持って来て並べる。お茶を入れて飲みながら、ラジオ・筆記用具を座卓に出す。この辺で一服タバコが吸えると、雰囲気が出るのであるが、喫煙ご法度の御時世である。喫煙場所は、玄関横の外の灰皿設置場所である。風呂道具を出して、階段を下りて奥の浴場に出張る。

 空き空きした浴内である。雨日に露天風呂の明るさが、目を惹き付ける。大岩を配して、楓・南天・五月・白樺・蔦の植栽のバランスが、垢抜けしている。大岩の裾を埋める五月は、濡れる緑の葉を従えるかの様に、温泉の熱で一足先に満開のピンク・薄紅色の華を見せている。首まで浸かって、仄かな立ち上る湯気を、暫し愛でる。サウナ風呂から出て来た、黒々とした体毛に覆われた30後半の男が、隣の水風呂に身を沈める。顔色一つ変えぬ剛毛男である。私には、中々出来ない芸当である。一通り湯船に浸かって、我慢のサウナで、大粒の汗を掻く。久し振りに、時間を掛けて風呂に浸かる。

 2階大広間の団体さんは、二組の夫婦と単身女性二人のロートル様ご一行である。お重に手料理をごっそり詰め込んで、座卓の上は、所狭しの盛況振りである。さぞかし仲の好い『お楽しみ会』なのであろう。のっけから、信州穂高名産ワサビの各家庭自慢の粕漬け談義に、花が咲いている。ワサビの粕漬けは、如何やら男の腕自慢らしい。男達の薀蓄は、酒粕・ワサビ芋の吟味から始まり、その良否で全てが決まるとの結論に達した模様である。夫自慢の逸品が、皆の口に入って賞賛の声である。先ずは、目出度し目出度しの具合である。

 お茶請けに出されるのが、家庭の漬物と云うのが信州の相場である。沢庵・ヤマゴボウ・キュウリ・ナス・セロリ・セリ・梅の甘漬けと、今度は女達の薀蓄と共に、賞味品評会・技の披露に、言葉・感想が入り乱れる。次いで、孫談義に移り、ワイドショーの注視事件バラバラ殺人事件と、発展して行く。
この頃に成ると、私のウイスキーもシコタマ回って来ていたし、腹の満ちた男組は、場所を変えて大鼾の大合唱である。女だけに成ったご一行様は、席を詰めての本調子である。瞬発力の男に対して、持久力の女とは、好く言い当てたものである。何時の間にか、お喋りは、分科会と為って小声で、快調そのものである。梅雨寒の1日、仲の良いグループのお喋り談義に、時は流れる。

 再び湯に浸かりに行く。何やら白人の若者が、先ほど私が露天風呂の佇まいを写真に納めたのと同様に、デジカメのシャッターを押している。デジカメを固定して何度も覗き込み、取って付けた様に真新しい白いタオルを、不恰好に頭の上に乗せて湯船に浸かり、神妙な面持ちでデジカメに対している。私は、こんな白人の姿が、微笑ましく好感度に見えるのである。彼等の行動は、1人の独立行動が多い様である。私も小さい時から、単独行動の方が、性に合うタイプである。

 撮影が終わった様であるから、露天風呂に入る。軽く会釈をして、英単語を向けると、カナダからの1人旅。大学生にして、日本語理解度ゼロとの事である。成るほど、異国を旅するなら、郷に入っては郷に従って、異体験を積み重ねる。異体験を自分の感性で反芻する。と云った処であろうか・・・ 私には、そんな彼等の積極性に、好感と拍手を送りたい心境である。

 世界の大勢に倣って、日本人の成人年齢を18歳に引き下げる方向にあるらしい。核家族化・少子化・過干渉化・過保護化が、浸透し切った日本の大学生達の容貌のひ弱さが、目の前のカナダ人大学生との比較で、何故か? 際立って見えてしまう。足も長くなって、西洋人とでも遜色の無い若者日本人の体格である。鼻筋も通り鼻の高さも、立派に成りつつある。外観の互角性を得た物の内面の芯の強さ・精神の強靭さ・知性が、伝わって来ないのは、民族のひ弱さの傾向を象徴しているのかも知れない。機能満載の携帯・パソコンばかりに感けていると、益々近視眼的傾向に拍車を駆けるばかりであろう。人間の外を見る視点の焦点が、ぼやけるばかりであろう。安全安心は、内なる備えである。やはり人間の目は、遠近両用で無ければ為らないだろう。挑戦に、危うさ・危険は付き物である。

 1人しか居ない脱衣所で、パンツ1枚の姿で、発汗する身体を扇風機に当てながら、そんな事を浮かぶままに感じていると、彼がギコチナイ会釈をして出て行った。羨ましい青年であった。
スポンサーサイト

心何処ーショート 懐かしき華やぎ
 ネオンテトラは、水槽の底部を固まって泳いでいる。水槽に、小さなアクセントが加わった。順調に育てば、少なくとも現在の三倍程の大きさに成るだろうから、塊がバラけて魚体自体が、ネオンの輝きを見せてくれる事であろう。楽しみである。朝の陽射しも、何時しか雲に、完全に覆われてしまった。

 庭は、小石と砂の痩せ地である。すっかり野生化してしまった苺が、木下で赤く成っている。10粒程摘んで、老母に渡す。雨で瑞々しく延びたハコベの先を、金華鳥に持って行く。オスが出ていたので、そっと藁巣の中を覗いて見る。メスが卵の横に蹲っている。
          <ふぅ~、こりぁ、駄目だ。期待は遠のいた。>
 メスを選ぶ時に、一番大柄のメスを選んだのであるが、メスから抱卵・育雛の誓約書乃至は念書を取らなかったのが拙かった。過去の成功例に感けて、詰めが甘かったらしい。結果論であるが、押し付け番にさせられたオスには、可愛そうな事をしてしまったらしい。生真面目なオスであるから、首尾好く何匹かが孵化したなら、オスには身の細る育雛が始まるのであろう。唯一の趣味、ブンチャカ・ブンチャカどころでは、あるまい。出来の悪いメスを押し付けられて、高い交尾代に付いたものと、反省しているのだろうか。気の所為か? オスがほっそりとして来た様に見えるのは、私の同情が働いて居る為だろうか? 

 リタイヤして、この頃はスッカリ疎遠と為った「フィリピィーナ愛好会」の諸氏連のボヤキ顔を、ついつい連想してしまう。貧民にして、彼女達から鼻も引っ掛けられない我が身の不甲斐無さを一顧だに省みず、他人様の不幸を笑い倒しているのである。真に以って、仲間意識の乏しき意地の悪い下衆である。
 考えて見れば、嘆かわしい世相の御時世、毎日、人騒がせな事件が頻発している。もう少し、私がまともな人間であったなら、声を大にして社会・世界浄化の先頭に立ちたい処であるが、仲間の不幸を<鼻下長の当然の自業自得>と、貧民下衆の妬みから、笑い飛ばしている始末である。如何考えても、賛同票など夢のまた夢の志でしかあるまい。

          以下は、先日の電話内容の抜粋である。
「もしもし、ニイサン、元気? フィリピン、米不足でえらい騒ぎでさ。女に泣き付かれて、米送ったんだよ。そしたら家族が多いから、食べちゃった。ビンボー、かわいそうでショ。また、直ぐ送ってくれってさ。俺の所だって専業農家じゃないだよ。全く堪らねぇよ。」
「へへへ、モテル男は、辛いね。仕方が無いじぁないの。それもモテル男の必要経費だろ。快感あれば、出費有りって訳だわさ。ザマァ見やがれ。偉い人種と情を交わしちゃったって訳だ。自業自得!! でもなぁ、日本の美味い米ばかり食ってると、舌が肥えるぞ。如何するんだい、夫婦2人の消費量の何倍にも為っちゃうぜ。米倉の米が無くなって、その内、夫婦喧嘩・離婚だぜ。イッヒヒ、面白いから、逐次報告してよ。何時か面白可笑しく脚色して、プレゼントするよ。」
「ニイサンに掛かっちゃ、俺の不幸を馬鹿にして、悦んでるじゃないか。それでも、仲間かい?人の世の人情も、廃れたってもんだ。アナタ、フィリピィン人、バカにしてるアルヨ。」
「オゥ、イエ~ス!!クレバー・ガール。 頭良いじゃん。ご明察。まぁ、ソコソコに、頑張りましょ。でも俺は、説得役は御免だよ。」
          平和国ニッポン、懲りない連中は、何処にも健在なのである。

 こんな事を打っていると、家の前に車が止まった。続いて、玄関に元気な声である。出ると物売りさんである。パスしようとすると、実に口達者なご老人である。玄関を大きく開けて、盛んに手招きをする。乗せ上手な物売りさんである。商売は、乾物・佃煮・蜂蜜・漬物類を積んだワンボックス・カーでの移動販売である。玄関前に店を広げている。美味そうなワカサギの佃煮・イナゴの佃煮が1300円との事である。見るからに、物が好い。二つを手に取って、少々からかって遣る。

「え~と、2300円かな? 」
「ダンナ、勘弁してよ。2600円でしょ。儲けてないんだから、お願いしますよ。」
と、ニコニコしている。私より上手である。相棒は、私と同年配の私同様な体躯である。この手の連中は、大好きである。彼是と、商品を出して、畳み掛けて来る口八丁の老人に、ニヤニヤして
「爺さん、口巧いね。刑務所で口上覚えたんじゃないの? 奥さん、駄目駄目、口の巧いのには、昔から碌な奴は居ないと云うじゃない。騙されちゃいけないよ。」
「何、言ってるだい。顔見知りじゃねいかい。皆、浅間の住人じゃないかい。」
「そうだった。俺達、岡田の刑務所の同級生だった。」
「やいやい、こりぁいけねぇや、ダンナに掛かっちゃ、皆、詐欺の前科者にされちゃう。」
「身元がばれて、退散する?」
「しがねぇ行商だよ。数売らなきゃ、お飯の食い上げだぁ~、そっちの奥さん、蜂蜜本物だよ。花も蜂もメイド・イン・ジャパンだよ。その証拠に、ヘヘッ、値は張るよ。」
「オジイちゃん、巧い。家、人数多いから二つ買って上げるわ。」
「奥さん、若い時からベッピンさんだよ。ハイ、100円のおまけ。」
「何だよ。俺には定価販売?」 
「ダンナ、水臭い。俺達、塀の中の同級生だろ。野暮はご法度!!」

 ロートルで構成される静かな住宅街の昼下がりである。ご近所同士の掛け合い漫才に、ご近所さんが顔を覗かせる。日持ちする保存食である。買って置いても、損の無い珍味である。憎めないコンビの人柄の口上に乗せられて、コンビのお手伝いをしている感じである。フーテンの寅さんの見過ぎのなのだろうか・・・ いかんいかん、嘗ての行商さながらの大らかさに、パッと人の花が咲いた。


心何処ーショート 老舗吉兆

 細長い日本国、南から入梅が、始まったとの事である。昨夜から雨が降っている。そう云えば何年か前、田植え時期に成っての水不足が報じられていた。今年は、水に恵まれているのだろう。餃子・チベット・聖火リレー・四川大地震・バラバラ殺人事件と、事件・震災にばかり、気を取られていたものである。庭のハコベを摘んで、小鳥に与えようと思って玄関を開けると、結構な雨脚である。その上、ヒヨドリが無粋な悪声を張り上げている。傘を差すのも面倒であるから、其の儘、部屋に戻る。

 大分大きくなって来たグッピィの中に、青尾が見えて来た。気が付けば、何時の間にか青尾は、絶えてしまっていた。針の先程の稚魚が、体色・雌雄の別を見せ始めるまでには、結構長い時間が掛かる様である。如何しても、大きな物・目立つ物にばかり、目が行ってしまう。全く以って、無関心・ズボラな観察者である。太陽光線の無い水草は、気泡の粒さえ見当たらず、正直な光と植物の関係を見せている。水槽を眺めながらの、鬱陶しい1日に成りそうである。

 先ずは安ウィスキーを、トクトクと切子グラスに注いで、口に含み咽喉に落として、ファ~と息を吐く。辛味のアルコールが、胃に落ちる。その内に、アルコールの熱が、ポッポとして来る。一杯で止めて置こう。これ以上遣ると、全てが面倒臭くなる。気違い水は、百薬の長で留めて置くのが肝要である。何しろ午前の部である。ほんのり、クラクラ気分の内に、雨も小休止の模様である。

 庭に出て、雨に打たれたハコベを摘んで、籠に入れる。メスの悪口を打ったご利益か? 抱卵は、オスとバトンタッチをしているらしく、珍しくオスが止まり木に止まっている。ホホホ、苦言も呈して見る物である。

 再び庭に出る。サクランボの木を見上げると、未だ色も付いていないサクランボを、せっかちに突付いた跡がある。1年を通して居座るヒヨドリの狼藉振りは、困り物である。川原からはオオヨシキリの、これまた甲高い声が響いている。キセキレイの声も、鳴き交っている。雨が止めば、人間為らずとも、皆がホッとするのである。増水した川の水には、未だ濁りが無い。繁茂した植物が、濁りを抑えているのであろう。
 毎年、生らずのスモモの木がある。消毒をしないから、折角の実も末成り奇形の落果を曝すばかりである。そんな中にも、しぶとく結実する<剛の者>が現われる。消毒をしろと言われているのであるが、私も強情なへそ曲がりであるから、剛の者見たさで、馬耳東風を決め込んでいるのである。幾つも確りした青い実が、ブル下がっている。娘が小学生の頃に、母にプレゼントしたプルーンも実を付けている。さして、積極的に為れぬお天気具合である。消毒液でも買って来て、果樹の手入れでもしようか・・・

 昼飯前に買いに行く、もう1枚着てくれば良かったと後悔する。近年富に買い落としが、多々出て来る始末であるから、店に入る前に深呼吸をして、健忘症の脳細胞に酸素を送り込む。忘れぬ内に必要物を籠に入れて、観賞魚コーナーで目の保養をする。保養をしていると、中年婦人が水草とネオンテトラを買い求める。小10匹250円とある。違うタイプの小魚熱帯魚に興味が湧いたから、それを買おうとしたら、気性の激しい性質でグッピイとの混合飼育には不向きと言われてしまった。大きい目の水槽には余力があるから、ネオンテトラを20匹買う事にした。

 昼飯後のテレビでは、吉兆の廃業特集を放映していた。負債総額8億円との事である。経営者一族には、自業自得の様であるが、裸同然で放り出される従業員にして見たら、憤懣遣る方の無い怒りであろう。今週月曜日の水戸の黄門様にも、手厳しい揶揄をされてしまった吉兆であるが、意外と脆かった経営体力・体質の実態だったのだろうか・・・ 如何見ても、一筋縄では行かない跡取り娘社長の振る舞いである。何処ぞに別名義の隠し財産を、設けているのかも知れない。

 如何推測して見ても、同じ釜の飯を食う、共に働くと云った共働意識、従業員・管理職・経営者間にあるべき同心円の労働観・組織観が見られない。名高い高級料亭の雲上人の正体が、口煩いだけの単なる守銭奴でしか無かったのである。

 従業員の皆さんは、こんな時こそ一致団結して、然るべき代表を立てて、財産の保全・未払い賃金・退職金・解雇予告金以上の労働期待権を行使すべきである。世間を屁とも思わない暖簾に胡坐を掻き続けた二世・三世のA級戦犯一族である。一族の安易な経営責任に対しては、断固として権利を主張なされませ。これは経営責任などと言う洒落た類では無く、100%の個人責任であります。ユニホームを一方的に脱がされたのであるから、遠慮は無用であります。業務命令権を失った権力に、義務の冷徹さを教える絶好の好機であります。臆する事は有りません。ユニホームを脱いだ時に、真価が問われるのが、人間の価値・存在であります。一族の作戦は、腕利き弁護士を雇って、<廃業>の形で、企業の有限責任で逃げる魂胆でしょう。企業の名の下に、経営者個人としての個別経営管理責任を問うて、企業の損害賠償権を行使して、会社財産の保全をしましょうよ。

「助さん、格さん、懲らしめて上げなさい。」「静まれ静まれ、この印籠が目に入らぬか、」
「悪事の数々、明白。追って藩侯より、厳しき達しがあろう。覚悟して、その沙汰を待て。」
「ははぁ~、ご老公様。恐れ入りまして、御座ります。」
 
 これは、勧善懲悪の理想であります。複雑怪奇な現代社会、特に民事・労働事件には、原告の挙証責任などと云う厄介な物が、横たわって居ります。泣き寝入りは御免、一矢を報いたいと思うなら、自ら行動して下さい。手を拱いていた結果が、A級戦犯一族のイッヒヒヒで幕が閉じてしまっては、日本の国民的時代劇<水戸黄門>シリーズも、打ち切りとなるやも知れません。
 
 そんな事態と為っては、数少ない楽しみとしている、老母の張り合いが失せてしまいまする。



心何処ーショート 筋肉痛に費やす

 痛い痛い、足を引き摺っての歩行である。湯に浸かって、脹脛マッサージを考えて来たのであるが、本日は殊に熱い。筋肉痛の塗り薬を入れて来たまでは、良かったのであるが・・・ 私以外の者は、誰も湯船に浸からない。我慢して2度入るが、順応出来ない。為らばサウナ感覚で、マッサージを施すが、溢れ出る湯に尻ぺたが熱くて堪らない。湯の流れを避けて、痛い痛いのマッサージである。湯から出て、丹念に薬を塗る。Tシャツ一枚の自転車の作る風が、心地良い。

 買い物を済ませて、老母が灰汁抜きをして置いてくれた、貰い物の蕗の煮付けを作る。男の賄い料理であるから、実にいい加減である。スーパーに店で茹でた筍があったから、それを入れて、乾燥身欠きニシン、竹輪・揚げを適当に切って煮付けるだけである。昼に出すと、結構行ける味であった。蕗も筍も、彼等独自の風味を残している。塗り薬を呉れた老母は、図体のデカイ身障者の様な倅を見て、山辺の湯に行けば良かったのにと、笑っている。不甲斐無い私に代わって、洗い物を済ませている。余り動くと、心臓に負担が掛かって、又寝込んでしまうのが目に見えているのに・・・ それが老母の性分である。武士の情けと、気付かない振りをしている私である。

 金華鳥の抱卵は、諦めていたのであるが、中々出来たオスでオスの方が、巣に入っている。水を替えて遣る時に、オスも巣から出て来てしまった。一応は飼育管理者であるから、巣の中を覗くと、何やら白い卵が4つ見えた。自分の生んだ卵を食べてしまうメスより、ズーと筋が良い。
普段は朝から晩まで、ブンチャカ・ブンチャカ胸羽を逆立てて、交尾行動ばかりを演じているオスであるが、メスの度重なる悪行に戒め・抗議の座り込みを、敢行しているのかも知れぬ。交尾一辺倒の飼育管理者とは、雲泥の質の高さである。期待せずに、成り行きを見守るしか無さそうである。

 アジャジャ、米が底を付いて来た。明日で良いのであるが、回復の為、少しは足を動かさねば為るまい。散歩は御免蒙りたい処であるから、自転車で行く。我が駄文に、短歌を添えて品を作らせて頂いたお礼を兼ねて、<パンドラの箱>をプレゼントする。愛想を崩して下さったから、「短歌の会」の話のついでに、私とご主人の共作として配布して見たら、話題の種に為るかも知れませんよと、軽口を叩いた次第である。何かと、話題を持つと言う事は、人と人との間の距離を縮めてくれる道具とも為る。

 昨日とは変わって、雨が降りそうな雲行きである。草刈が進んだゲートボール場に、ムクドリ達が、群れている。暮れなずむ夕刻と境の無い風景に、水田の早苗が、風に傾いている。何もしなくとも、日は暮れるものである。悩みは禁物。本日は、DVD映画のご厄介にでも成ろうか。痛いと言っても、無鉄砲遠足も、たまには必要な運動の一つである。好とすべきである。

心何処ーショート ある友への手紙
              ある友への手紙(5/28)

        難しい問題ですね。と他人は言うのでしょうね。
 きっと癌の事は、言っても言わなくても、満足も悔いも残るのでしょう。私は、2人の兄達を見送りました。最初の直ぐ上の兄の時は、余命半年を長兄に聞かされ、身体の震えが止まりませんでした。それから、ハンドルを握っている時でも、気付くと兄の事に頭が占領されている事に気付いて、頭を振って我に帰る。そんな事がしばしばありました。特に帰宅途中の夜がそうでした。つい、感傷的になって落涙なんて事もしょちゅうでした。元気な内に、「兄弟・親子会」を発案して二泊三日を白骨温泉で過ごしました。楽しかったです。兄もそれに応えて、「元気」を演技してくれました。其処には肉親の絆が、有りました。然し、親子・兄弟と云えども、性格・生活・考え・表現の仕方・行動も大きく変わります。

 受け止める側の感性が、繊細且つ優れていれば居るほど。葛藤に苛まれてしまいます。然し、葛藤の果てに提示される結論は、「仕方の無い現実」でしか有りません。感情にすぐさま左右されてしまう人間の心(私を含めて)は、居所定まらず、心何処の有態でしょう。

 極論から言えば、人間の行動は、取捨選択に為らざるを得ません。最後に残った決断にしても、二者択一と為ってしまいます。一つを取れば、一つを捨てるしか有りません。結論を出さなければ、優柔不断と別の自分が苛めます。世の中、○×で決しられる領域は、氷山の一角の様で有りましょう。?????の領域で占められているのですから、土台無理な選択です。その間の事情をどんなに説明しようと、人間の意思・行動は、理と感情から成る「合成物」でしかありません。そして、平面では有り得ません。立体である以上、見る角度からすれば、千差万別に映ります。他人に千差万別に映る以上は、対処し切れません。薄ペラなブリっ子には、心・感情・考えなど宿りません。これは、自己の内面を凝視しようとする人間には、耐えられない自己対峙の様でしょう。

 心の安定が、自己満足にあるのなら、その時々の自己満足にスタンスを置くより他無いでしょう。自己満足の結論が、例え小我であっても、大我であっても、それが自己の選択であるならば、従うしか有りません。人間とは、本質に於いて、哀しい生き物なのでしょう。経験・体験こそが、人間行動の糧です。好いんじゃ無いですか、良いじゃ無いですか、眠れぬ夜の葛藤は、人間に付き物です。但し、押し潰されては行けませんよ。心情を吐露出来る理解者が居れば、救われますよ。私はズルイですから、如何にかこうにか、それぞれの時点で小分けして、愚痴を溢せる相手とテクニックを覚えました。

   ハハハ、全く要領を得て無いですね。気休めにも為って居ませんね。申し訳無いです。

心何処ーショート 無鉄砲遠足の巻
 冷蔵庫内食材の有効利用である。朝からチキン・カレーを作る。香典を送った従兄から電話がある。老母に渡す。朝から少々、食べ過ぎた。腹ごなしに散歩に出掛ける。靴を履いたから、何時もとは異なるコースを取る。橋を渡らず直進すると、前方を年配女性グループが、お喋りウォークをしている。進路を右手に採り山際の道を行くと、浅間温泉の北の裾に着く。お寺と並んで松明祭りの松明を奉納する神社がある。その道を登って行くと、美鈴湖に行き着き、その先は美ヶ原である。散歩を日課とするように為って、何時かは徒歩で長丁場の美鈴湖に迄、足を伸ばそうと考えていた。本日は気分次第で足が向けば、挑戦して見ようかなどと、デジカメをポケットに入れて来た。少々咽喉が渇いたから、神社で水を飲む事にする。

 神社までは、急勾配の1本道である。中学から高校まで松明を十数人で、ヘトヘトに為って引き摺り上げたものである。手ぶらでもキツイ。赤い鳥居を越すと、上から老人にガイドされた若い白人の男女が、石段の上の社殿から降りて来た。興味があるから、ついつい白人女性に目が行ってしまう。<白い肌・知的な黒い瞳・無造作に束めたこげ茶のストレートな長い髪・・・ホォ~ベッピンさんである。落ち着いた感じの20代前半の大柄美形である。>お礼の見料に、「こんにちは」と頭を下げる。行儀の好い一行であるから、皆さんから「こんにちは」の言葉とお辞儀を貰ってしまった。涼しい風が上がって来る石段に、腰を下ろす。雰囲気からして、彼等はヨーロッパ人であろう。タンクトップに短パン、リュックと、極々自然の格好で、日本人さえ殆ど足を踏み入れない山の神社に足を運ぶ。そんな旅の姿に出会うと、妙な感心をしてしまう。近年、ヨーロッパからの日本観光も、うなぎ上りとの事である。空青く、青葉茂れる鄙びた山郭である。チャラチャラしない雰囲気が、嬉しい。

 好物の白人美形を見た後であるから、思い切って美鈴湖に上ろうと考えた次第である。平日であるから、車は殆ど通らない。独り歩きの風情である。山の松林からは、セミの声がしている。松の梢を鳴き渡る野鳥の声が、気持ち好い。時計を見る。家を出た時は、十時半であった。真面目に歩けば、昼過ぎには行けるだろうか・・・ 嫌に為れば、アマヅツミの先からゴルフ場ルートの道を下れば好い。

 2人の男性と合う。浅間の住人なのであろう。一人は、下駄履きの散歩行動なのであろう。彼は、中肉中背の少々年長者である。檻で餌飼いされているヒグマの様な体躯の私からすると、羨ましい限りのスタスタ歩きである。彼等とは、年季が違う・・・マイペース・マイペースと、自分に言い聞かせて歩く。この道を歩くのは、40年振りなのかも知れぬ。山の緑の日陰を選びながら、山の気配を愉しみながら行く。思い出すと、神経が過敏過ぎた思春期は、人付き合いにストレスが溜まる性質であったから、月に一・二度は、近くの山に登って、下の盆地を眺めていた物である。高度が上がるに従って、アルプスの山並が高くなって行く。山中のアスファルト道を、独り歩いていると、見覚えのある風景・風景に、知らず知らずの内に、過去の自分が甦る。

 そんな悠長な気分は、疲労が無い内だけである。もうそろそろなのだと思ったが、車と徒歩とでは、こんなにも違う物なのか・・・ 休憩方々、展望の利く場所に辿り着くと、写真に納める。湧き水に口を付けて、咽喉を潤す。

 ふぅ~、思い付き山行は、考え物である。歳を考えれば、それなりの用意をして来るのが、常識と云うものである。ウオーキング・シューズを履いて来れば良かった。全く進歩の無いオヤジである。予定を半分に削って、頑張ってアマヅツミまで行くしかあるまい。肉体派の俺が、此処でギブ・アップしては、お天等さんに申し開きが出来まい。歩けば、歩いた分だけ、苦役から開放されると言うものである。

 痩せ我慢の末に、辿り着いた。前方には、平坦な道が伸びている。歩き始めると、楽である。歩くと歩いた分、美鈴湖が近付く。苦笑いを浮かべながら歩く。勿論、山道であるから、平坦な道の後には、上り坂が延々と続くのである。そんな道理は承知の上なのであるが、知っている道である。疲れると日陰で一休みを繰り返す。ガサリと音がするから、覗き込むと大きなアオダイショウである。嫌な物を見てしまった。再び平坦な道である。この先に、番場の池がある筈である。あったあった。休憩!! タバコを吸いながら、池を見る。おやまぁ、ありぁ、亀ではないか? クサガメかイシガメ? 大きさから言うと、大きいからクサガメなのだろうか、小学生の頃、現在の県営体育館の一帯には、ボートの浮かぶ池があった。池に浮かんだ桜の大枝に、イシガメが乗っかっていた。何時間か粘って、亀がすぐさま水に潜れない様に、枝の上に草をぶち込んで、亀の浮上を待ち構えた。タイミングを捉えて、一気に池に飛び込んで捉まえた事を思い出した。あの時は、作戦成功で「やっぱり俺は天才にして、度胸満天、抜群の運動神経。」と有頂天に為っていたものである。今では足腰の覚束ない肥満体の我が身である。つくづくと月日の経つ速さを、目の当りに見る思いである。

 さて、もう一息、最後の踏ん張りである。カーブを曲がって上り坂を越えれば、後は長い平坦道が美鈴湖に案内してくれる。江戸時代に松本藩主の命に依って、十余年を要して造られた山上湖である。雨で水位の上がった湖面で、釣り人の姿が散見される。ヘラブナが、水面に群れを為してノンビリと回遊している。青葉茂る小山をバックに、赤い鳥居が湖水に立っている。小山には山ツツジの橙色が、日に映えている。サイクリングのロードレースの様な出で立ちの自転車乗りが、数人颯爽と行き交っている。時計は、正午五分前である。湖畔の東屋風の休憩所で、靴を脱ぎ、木のベンチに肥満体を長々と伸ばし切る。1時間半の遠足である。余りの清々しさを、独り占めしては気が退ける。Tに電話して、気分のお裾分けをする。

 帰りはユッタリ浅間への道を下る事にする。売店で缶ビールを買って、飲みながらのお帰りである。このルートは昔ながらの道である。昔は、この道しか無かった。急勾配の車泣かせの悪道の典型である。従って現在では他の2ルートから美鈴湖・美ヶ原へとドライブをするのが、一般的である。暫く下っている内に、ルート選考の失敗を思い知らされる。足腰の鈍い肥満体のブレーキに、足腰の踏ん張りが大きな負担なのである。馬鹿な粋がりをしたものであるから、脹脛の筋肉の疲労が激しい。堪らず休憩休憩の連続である。最大の一直線急勾配に差し掛かる。小中学校時代での遠足・全校スケートへのコースでもあったのだが、あの当時でもきつかった難所である。堪らず一息付いていると、下から車が上って来た。窓を開けて、盛んに私に手を振っている。誰だろうと見ると、運転している白人中年男性である。帽子を被ってサングラスをしているから、如何やら彼等は、私を同類と勘違いして、エールの愛嬌を振り撒いていったのであろう。

 急勾配の直進道の脇には、川が流れている。階段状のコンクリート側溝であるから、津波の様な断続した流れが、水飛沫と音を出して、一気に流れ下って来るのである。側溝の規模は小さいのであるが、僅かばかりの想像力を加えると迫力満点の光景と為る。如何にか足裏の痛みに、音を挙げながら下りの終えと、湯の香りである。ホッとする。途中、市営野球スタジアム・テニス場の東屋で、靴を脱ぎ捨てての最後の大休止である。帰宅時刻3:30に為ろうとしていた。昼食後、疲労困憊の態で足を引き摺って、部屋でバタン、キュウの墜落睡眠であった。快眠に起き上がると、Tから電話である。

 心臓麻痺で死んでたら、厄介だから確認電話との事である。無事、無鉄砲遠足から帰還した旨、報告申し上げた処である。先ずは、成功の段であろうか。然し、ワシァ、精根尽きた。人間、日頃の鍛錬が必要と頭を垂れた次第である。 

              本日、日課の賄い夫日記、脱稿11:25なり。

心何処ーショート 欲望の果てのパンドラ 
 小生ロートル故に、生来の粗雑脳味噌にして、変化の乏しい生活をノンベンダラリと送っているからして、脳細胞構造は、中国四川大地震での小学校校舎の建設構造並のオカラ状態であります。従って、以下の学習成果には、錯誤・理解不十分な箇所・私見が錯綜している筈であります。ロートル賄い夫の呟きとして、ご了承下さいませ。頭を使う苦情・質問の類は、平にご容赦下さいませ。昨日のNHK地球スペシャルから、感想文を一つ認めて置こうと持った次第であります。以上、冒頭よりお知らせ申し上げます。

 大変な時代に突入してしまったものである。地球温暖化に依って、不変と思われていた地球の固定軸が、とうとう動き始めてしまっているらしい。

 地表に密着していた氷河の最深部に、溶解した水が浸食して氷河と地表との間に潤滑水として流れ込み、固定されていた筈の大氷河を海へと流し・没し続けているとの事である。解氷された液体の海からは、水蒸気が上がる。解氷海は、最早、結氷海としての一体化した気圧配置では無くなる。解氷海に依って気圧の凸凹が生じる。気圧の高低差が生じれば、気圧の平均化を求めて、高きから低きに空気は流れる。地表から浮き上がった氷河は、風を孕んで低き海に針路を採る。氷河消失のメカニズムだと言う。海水温の上昇は、七つの海で繋がる海の「横」の表層海流のみならず、温度の侵入によって深層海流にも巨大な「縦」の海流変化を加速しているとの事である。温度の上昇は、諸々の変化を促進させる。温暖化主要要素の二酸化炭素を、今まで閉じ込めていた氷中・凍土・深海から、大気に放出させ続ける。運動連鎖の挙証例が、次々に明かされ始めている。つまり巨大なエネルギーを手にした海流・大気のうねりが、眠りから覚めて活動し始めているらしい。

 『不変』と長く信じられて来た地球環境軸が、固定の鎖を解かれて、大行進のベクトルを握ってしまったのである。解明科学の進歩・情報開示映像を見せ付けられても、日々を送るだけの私の様な人間には、どうしようもない感想でしかない。地球環境メカニズムを科学的に解明して見せて頂いても、その危機的現象を打開する方策が無いのが、現実の姿である。進歩を止める方策などあろう筈も、無かろう。歯痒いばかりであるが、「ノアの箱舟」を待つしか無いのが、地球の姿なのであろう。大局的に見れば、手塚治虫の「火の鳥」を甘受するしか方途は無いのだろう。現実世界は、完全にその方向に向って動き始めてしまったのである。大作「火の鳥」は、全巻を読破するのに、大した時間を要せずに地球・人類の営みを知る事が出来よう。然し、日々を歯車の一部分として無味乾燥に働き、私的空間を漫然と送る現代人にとって、地球環境破壊の共謀実行者の自覚が発生するのは、まるで異次元の感覚でしかあるまい。

 身近の生活感覚に浮上するのは、燃料価格・食料価格の高騰・暴騰、振り返れば異常気象の災難の頻発、当然と思えていた老後設計の破綻・・・etc 自分の周辺にだけ苦心していれば好かった生活が、規模の拡大によって、競争を余儀無くされ、競争に勝つことで生活が拡大する事を知り、走り続ける事が生きる事の善・術と奔走する。活動の場を地域から国へ、国から国同士へと、商売相手・競争相手は、今や地球規模が日常の様である。効率主義・競争主義の当然の帰結が、世界分業化・世界消費市場化となって、グローバリズムが経済を跋扈してしまった。供給過多は、輸出で帳尻があっていたものが、供給次第で売り手市場にも為れば、買い手市場とも為る。ビジネス・チャンスなるマネー・ゲームが大手を振って、地球を突風・竜巻の様に駆け巡る。競争に勝つ為に、次々と開けられてしまったパンドラの箱の世紀を経て、人類がとうとう開けてしまったのが、地球環境の固定軸の鎖の鍵であった。世界の穀倉地帯は、一変しつつある。個人の、一企業・一国の大鉈(なた)では、どうしようもない激動が始まっているのである。

アナタなら如何する!! 貴方なら如何する?
泣くの? 喚くの? 罵るの? 嘆くの? 笑うの? 諦めるの? 頑張るの? 待つの? 忘れるの? 知らない振りをするの? 楽しむの?
あなたなら如何するの? 如何するの・・・ 
                         <私には、分からない。>


 午後の息抜きに、ロートル寄り合い所のコピーを持って、米屋さんまで足を伸ばしました。
30℃に達する程の気温に、外は真夏の陽射しである。風通しの好い作業場は、静かで涼しい。こんな真夏日は、家で時間を弄ばせて居ても、無駄な時間の過ごし方である。男のよもやま話が、丁度好い。コピーのお返しに、蕗と大福餅を頂いた。帰り際、達筆で短歌をスラスラと書いて渡された。

      以下の短歌は、お世話に成っている米屋の主人の作であります。

     <身にせまる恐怖に おののく白熊の すがれる氷も 溶け行く生命>

     <またひとつ原風景が 消えて行く 巨大マンション 田畑を奪う>

     <変えられぬ 己が心のもどかしさ 書架のバイブル 物憂く見ゆる>

心何処ーショート ラジオ体操一つ

 当分、1日の大半を家で、過ごさなければ為らない日々である。そんな日々にあっても、人間としては、精神の安定を求める為にも、何らかのコア・タイムを持つ必要がある。そんな訳で、出任せ放題・出た処勝負の駄文を、賄い夫の日課としている次第である。顔の見えぬ事を好しとして、『マンネリこそが、日常』と達観乃至は開き直って、ブログの末席を穢している処である。そんな中で、心温かい人達が、私の字数ばかりが多い字面を、時間を割いて覗いて下さる。

 恐縮であります。そして、コメントを下さる方々の言葉に、何れも感謝であります。
<F・Fさん、ゆいかさん、有難うございます。・・・・面白いですか? 退屈では無いですか? これも、人助けと諦めて下さい。>

 昨日は好く降ったものである。仕方が無いから、部屋で朝の運動を試みる。物音のしない老母を気にしながらも、カンパンとホット・コーヒーで、朝の雨を眺めている。窓辺に枝を広げる雑木の幅広の葉には、何の幼虫か知らぬが・・ 去年は知らぬ間に、無残にも食べ尽くされ、丸々と太った斑の芋虫軍団に、思わずゾッとしたものである。去年の惨状に懲りて今年は、喰害の葉を早い内に幼虫もろ共、除去している。消毒薬散布が手っ取り早いのであるが、果たしてどんな蝶か蛾に為るのか、些かの好奇心が手伝って、<見逃し駆除>を励行している次第である。

 雨の日曜日、静かであるから、増水した川の音が聞こえている。濁流前に水槽の補充水を汲んで置いて、何だか得をした思いである。昨日から回して置いたろ過装置を、隣の槽に移す。昨夜、変な泳ぎをしていた背骨の湾曲したビック・ママを探す。底に沈んでいた。ご苦労様でした。

 台所で洗い物をして、素麺の出汁を作る。のんびり遣りながら、部屋を覗くと老母は起きている。アリャリャ、油断大敵である。これは又、悪い事をしてしまった。慌てて、朝の用意をする。

 変わり映えのしないテレビを諦めて、部屋でラジオを聴く。トム・ジョーンズの<思い出のグリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム>が、流れて来た。味のある歌声の好きな曲の一つである。本日、昼前にして、漸く雨が上がった。日曜の楽しみの一つ、<たかじんアワー>を見た後、散歩に出掛ける心算である。毎日の事は、何かと面倒・億劫さが頭を擡げて来るものであるが、閉じ篭りには、身体が動きを急かすものである。エネルギーの摂取と消費は、物臭男にも儘為らぬ心身のバランス要求の様である。少々時間があるから、外の空気を吸うべしである。

 何やら覚束ない灰色雲に覆われた空である。土色の流れが急である。雨を吸った草木の緑が柔らかく見える。河川敷の五月の植え込みにも、ちらほらとピンクの蕾が大きく成っている。散歩道も石垣も、雑草の緑一色である。来月には恒例の町会挙げての草刈が、あるのだろう。不図、体操が出来るだろうかと考えて、遣って見ると、以外や以外。身体は覚えているものであった。


心何処ーショート リクエスト

 先日Tとの話の合間に、フィリピン通のF氏が一度、私とロシアに行きたいとの意向であった。彼は、私が嫌っているのを承知しているのであるが、彼の方は私が好きだと言っているらしい。目立ちたがり屋のチャラチャラした同年の男である。金回りの好い男であるが、話の合わぬ、不躾な性格だから、個人的なお付き合いは、御免蒙りたい輩の一人である。人間世界、完全な人間も居ないのと同様に、100%許せないと云う人間も居ない。彼にも、そこそこの憎めないサービス精神旺盛な面もある。せがまれTの顔を立てて、彼とは3回程フィリピンに行った事がある。

 Tは、その間の状況を観察の結果弁えているから、馬耳東風のあしらいで、「野郎は、今、婆さん抱えているから、無理だろう。」と応えているとの事である。Tは女道の手解きを彼に教えているとの事で、チャッカリ彼を財布替りにしている由である。Tに言わせると、人間懐柔の範囲内と云い、当然の女道コンサルティング報酬とも言う。これも、持ちつ持たれつの相性形態の一つなのであろうし、人間付き合いの面白さの一つでもある。私の駄文集も、Tを経由して彼の処にも回っているのであるから、私としても本来無碍には出来ない稀少なるファンの一人なのである。

 もう一つ、Tも土曜の午前中はNHKラジオの土曜楽市楽座に、耳を傾けているとの事である。女性二人の番組進行である。民放のアナウンサー経験のある同年と思しき女性を、どんな人かと想像してニヤニヤしているとの事である。
「男女同権・高学歴時代の先駆け女性の体臭が、プンプン臭う女だろう」と、かまって遣るとTの奴は目を細めて、涎を垂らさんばかりに
「そうそう、男を屁とも思わない色気の無さが、堪えられんのだよ。どんな女か、一回見てみたいもんだ。」と言うから、
「ムラムラと来たら、得意の寝技で、羽交い絞めか?」
「馬鹿こくな、仕掛け技は、相手をとっくり見てからだ。あの手に猪突猛進は、通じないだろ。柔道の道じぁ、俺は指導者だぜ。」
「そうだな、間違っても女生徒を教えるなよ。留置場に差し入れなんて破目に陥ったら、世間様に同類だと思われちまうからな。」
「そういう時は、Rにも柔道着着させるさ。ポリ公にお前を指さして、<ワタシ、シラナイ。犯人コノヒト。オウ、ノー!! コノ人、歩ク性器。凶暴犯。ワタシ、ジェントルマン。顔ミレバ、分カル。ワタシ、無関係アルヨ。>って、逃げるに決まってるだろ。」
「T、古い事言うじぁ無いか。今時は、微量体液でも、DNA鑑定だぜ。大人しく手錠されるんだな。エロ本くらい差し入れして遣るからさ。」

 話は変わって、弟分から小さな声でリクエストである。

「○トシさんの事、何かの折に書いてくれない? 」
「おぅ、彼女か。好い女だったね。三拍子揃っていたね。如何してるかね。」
「もう、20年位に為るんじゃないの、中学の野球部の先輩の奥さんだった。失敗したなぁ・・・本当に、奮い付きたくなる程の人だったもの。」
「俺は、仕事上だけだったから、お前はテニスもどきの合コンで、余暇でも楽しんでいたから、グ~だったろう。俺なんか寂しいもんだった。」
「またまた、◇さんと年の功で、隙があると、好く抱き付いていたじゃん。ありゃ、完全にセクハラ罪物だったよ。この助平野郎と思っていたが、羨ましかった。独身男には、既婚者の破廉恥演技が出来なかったもの。」 
「そうだったなぁ、スキンシップだったんだろうね。黙っていると、育ちの好い溌剌としたお嬢さんタイプだったからね。でもスポーツ万能の何処と無く男ぽい茶目っ気のある女性だったから、俺達と波長が好く合ったんだろうな。おお、思い出したわ。家庭教師との一件。」
「そうそう、お嬢さんには、ありがちな思春期の男恐怖症。俺なんか、酷く同情して、腰が引けちゃうのに、<心傷症は、男の罪だから男を代表して、カウンセリングして馴らし行為をしよう>なんて、訳の分からない理屈付けて、タッチばっかりしてたもの。とんでも無いったら、ありゃしない。覚えてる?? 反省してるかい。今じぁ、立派な犯罪だよ。」
「馬鹿こいちゃいけねぇや、下衆の勘繰りだよ。カウンセラーと患者には、信頼関係が無きゃ障害は、乗り越えられない。その後、彼女、立派に子供授かったじゃないか。俺なんか、天才的カウンセラーの走りだぜ。素直な気持ちが、素直さを引き出して、大人のまま事を実現させるものだぜ。ある意味じぁ、彼女は天使の様な人だったぜ。う~ん、会いたい女性の一人だね。」
「巧い事言っちゃって、天使を悪用して、平気でほっぺにチュウしてたからね。秘書遣ってたから、英語がペラペラで向学心旺盛で、スタイル・顔良しで、性格がさっぱりで申し分なかった。真面目でノリが好くて、女にして置くのが勿体無い人だった。毎日が楽しかった。」
「そうだな。四人グループの紅一点、皆のマスコット・ガールだった。結構、コンビで会社訪問していたから、本当に楽しかったよ。ドライブ中は、色んな話をしたなぁ。それが、面白いほどに、話が次々出てサ。品を作らない女性だったから、彼女には、何処となく中性の趣が有ったんだろうね。それが紅一点でも、巧く作用していて、共通の好ましい存在として、行儀好く引き出しに収納されているんだろうね。」
「やっぱり、此処でも引き出しの登場かね。巧い事を言うもんだね。」
「考えて見れば、○トシさんの残していてくれた異性のイメージは、俺の中でベタベタしない関係のロシアンウーマンの雰囲気に、繋がっているんだと思うね。」
「あれだね、○トシさんが其処で、穏やかな顔で、目を細めてフフフと軽く笑ったり、<そうそう>なんて、相槌打っている感じがしてくる物ね。」
「そりぁそうだよ。俺達男3人、彼女女1人で、4者4様で其々の思いが、あったんだろうさ。好い想い出映像は、何回も何回も、映し出せば好かろうよ。それも財産の内って物さ。」
「毎度の事だけど、旨い事を言うもんだ。こう云う言葉も、引き出しの中に収納されてんの?」
「馬鹿もん、茶化すな。平常心、発酵食品の味合いってもんだ。日本人は、糠味噌掻き混ぜて、乳酸菌に酸素を送って遣れば、其々の発酵が進んで、味わい・風味って物が、自然発生して来る物だぜ。俺達も、何年かすると邪な性器が外れるだろうから、彼女と◇さんに連絡取って、四人で一緒の風呂なんかに入って、身体を洗いっこしながら、のんびりと馬鹿話をしたいもんだね。」
「それは、賛成だけど、何処に居るんだろうね。一寸無理でしょう。我慢出来る?」
「何だ、あっちの方か。大丈夫だよ。俺、ロシアで経験済みだけど、そう云う物だと思えば、男女の肉体差なんて物は、性欲の対象にも為らないし、非常識の対象にも為らないよ。肉体の魅力・性欲の誘惑なんて物は、密室・若い時分の特権なのかも知れんよ。現実の前に、妄想なんて物は、砂上の楼閣かも知れんよ。お前さんも、きっと大丈夫の筈だよ。」
「そうかなぁ、それって、ある意味じぁ悲しい事じゃん。そうかなぁ歳を取ると、7歳の差は、別世界の様ですか・・・ 当然、個人差はあると思うんだけど、未体験ゾーンの扉は、何時頃訪れるのか? Rさんの口から、こんな事を聞くとは・・・ イヒヒ、興味深く為って来ちゃった。」
「いやいや、そうでも無いぞ。Tの奴、孫が出来て、娘さん実家に来ているんだってさ。この前、奴と話した時に、<これから家に帰って、爺遣るだわい。>って、ニヤニヤしてたぞ。昔の年寄りと比べると、俺達は若く見えるが、気分・心は、日々円く成って行くんだろうが・・・ 責任から開放されて来て、不図、話の中に輝きを見出し出来る事を以って、身の丈の喜びとする。真面目に面白く生きて来た、自分の軌跡を良としなくちゃ。誰も褒めちゃくれまいよ。願い事は、強く思えば叶うなんて事もあるそうだ。彼女の輝きも、天の思し召しかも知れん。ひょんな事で願い事も、叶うかも知れんぞ。やぁやぁ、○トシさんですか。リクエスト、引き出しに入れとくよ。」

   こんな他愛の無い話をしているのが、お目出度き男達の脳味噌の中身なのである。

心何処ーショート 無用の用

 昨日は、弟分の所へ行く。遅い帰宅の様であるから、電話を掛けてから行く。当方の訪問申し出8:45に対して、8:40であった。

「おっ、5分早いじゃん。」
「おっ、そうか。如何する、外で待ってるか?」
「何言ってるだい、入って来てるじゃん。」
「そう言われりぁ、そうだ。」

 お互い図体のデカイ59と52の男の、月に一度の顔合わせである。相も変わらず、2人の間で交わされるお題は、知識・出来事の記憶・収納場所としての頭の中の引き出しの活用法・感性・問題意識・人間関係に於ける距離間・脳味噌回路のオンオフ操作の訓練法、人物論、下ネタ談義、男・人間の生き様論・・・etcである。高級な言葉を使用すると、コーヒー割の焼酎で口を滑らかにしての、連想ゲーム風の談論風発のお時間と云った処である。沸騰都市ドバイは、彼も見ていたそうである。

 彼は現役の50代であるから、賄い夫の不就労の負い目から、12時前後を門限としている。若い頃は延々と夜を徹して、硬派の話をしていたのであるが、寄る年波の所為で、お互い徹夜の後始末が出来なくなってしまった。振り返れば、30年来の人間関係である。相性が殊の外合うのであろう。私にとって彼は、自分の言葉とテンポで、キャチボールが叶う相手である。これほど違和感無く、飽きもせずに言葉を投げ、言葉を受け取れる相手は存在しない。彼は、懐の深い性格を持ち合わせている。私と彼とを比べると、感情の冷静さと云う面では、冷静具合は私より数段上の高みに居る。何時の頃から定着した役割分担か? 例えれば、餅つきのコンビの様で、私が杵を振るい、彼が熱々の餅をひっくり返し続ける。彼が、決して畏まって居る訳ではない。普通の息継ぎで、次から次と話題の餅を捏ねて、私に杵餅を付かせて行くのであるから大したものである。

 月に一度の<知恵熱>で、寝ていると老母に起こされる。北海道の実姉さんが、他界したとの事である。老母の下の弟さんからの電話の応対をする。電話の向こうの叔父さんからは、如何云う訳か、私は倅扱いである。老母の姉さんは、元気だった頃は、女の総領役で女優の宮城千賀子そっくりの美形で、口の達者な面白い人であった。姉妹・兄弟同士であっても、相性の問題がある。老母との関係は、叔父さんとも頗る快調であったらしく、私は、初対面の時から、お前、キミにそっくりな子だと言われて、ご両人に、ポンポン物事を言い付けられて、顎で使われていたものである。若かった頃は、歳の離れた従兄達が母を慕って好く遊びに来ていた。彼等の馴れ馴れしさに、私は小首を傾げる時がしばしばあった。血の繋がりとは面白い物で、10年程前に母の真ん中の姉の葬式の時に、北海道で初対面した、今回他界なさった叔母さんの末っ子の従兄に会った時である。お互いは初対面であったが、小さい時から好く似ていると聞かされていた間柄である。歳は8つ前後の違いのであったが、お互い指を指し合って、『俺だ。俺だ。』と呼び合って、大笑いをしてしまった事があった。

 叔母さん・叔父さんの心理を見てしまえば、初対面でも私は、彼等からしたら他人では無かったのである。ポンポン言われて、顎で使われて当然だったのである。その原因を知らなかったのは、従兄同士だけだったのである。老衰・黄昏が、目白押しに控えている我が親族の昨今である。これも、自然の歩みに抗する事も出来ない理の一つである。

 本日は外出を決めていたから、用事がその分、増えただけである。薄手の長袖シャツを着たのであるが、外は真夏の様である。半袖に着替えてエンジン・スタートである。半日を費やして、帰宅する。未だ昼を食べて無いと言う老母と昼を食べるが、暑気と寝不足に当てられて、早々の昼寝に逃げ込んだのであるが、マタマタ電話で起こされる。嘆いて見ても、これも娑婆のお付き合いである。

 起き上がるのも億劫で、惰性で相撲を見る。テレビ観戦は、贔屓の琴欧洲の快進撃に水を注しては拙いと思って、ラジオ観戦に留めて置いた。統計学上、贔屓への応援に肩の力が入り過ぎると、贔屓が負けてしまう。そんなジンクスが、私にはあった。昨昨日・昨日の琴欧洲の隙の無い快進撃に、安心と同時にジンクス破りの期待も手伝い、テレビ観戦をしてしまった。

 <嗚呼、統計学が、優ってしまった。ジンクス顕在為りか、遺憾いかん。残念至極・・・> 

 呆気ない負け振りであった。優勝の行方は、如何に!!の期待も虚しく、両横綱の負け負けの連続であった。13日を以って、一気に興醒めの相撲展開と為ってしまった。長い人生にあっても、緊張の期待感に酔い痴れると云った好機は、早々には訪れてくれない物である。緊張の最高潮が千秋楽と合致するのが、観客にとっての最高の舞台なのであるが、そう巧く運ばないのも娑婆の実相でもある。力士が、心技体を一身に体現させて、土俵に技と気迫で昇華させる。そんな名勝負は、稀少の確率であるから、脳裏に長く焼き付くのである。勝負は、気迫の勝負に尽きる。

 夕食を終えて、本日のブログ打ちに取り掛かろうとすると、<もう少し、ゆっくりして行け>とのお達しである。こんな面白くも無い倅であるが、役に立っている様子らしい。姉を失って、心寂しいのであろう。

心何処ーショート 我が才・・・トホホ為り

 本日も夏日との予報である。光の中で、水草から気泡が立ち昇っている。小水槽の水が鈍って来たから、ろ過器を回す。それにしても、伸び過ぎて厄介物と為った水草を半分に千切って、小水槽に入れたのであるが、それが何時の間にか化け物に様に、水槽一杯に身をくねらせている。これでは、テレビ映像で紹介されるラッコの海に、生息する昆布の様な海草の様(さま)である。おまけに15~6cmの間隔で、根っこに成るのであろう蔓を下げ伸ばしている。言葉の通じる相手ではないから、お説教をする訳にも行かぬ。

 この水槽の主は、黒い体色に黄尾に黒斑点、赤尾に黒斑点を持った3匹のビック・ママさんである。そして、もう1匹。雑種の権化の様な斑模様に覆われたオスである。鑑賞者の私の目からは、毒々しく不細工そのものに見える。元気さと不細工さで、確固たる地位を築く彼の姿は、正に現代に生ける古代魚シーラカンスそのもの。行儀好く優雅さを展開した世界も、主役達はとうに、身罷って久しい。時代は替わって、湾曲背骨のビックママに、斑模様のシーラカンスのオスが、君臨する王国である。見遣れば、浮遊する稚魚の群れ・のたうつ水草。美の欠片すらない。

 近々、小水槽は押しも押されぬ化け物小世界と化してしまうのだろう。些かなる耽美主義者の管理人としては、砂を噛む先行きである。かと言って、気の弱い男である。民族の純血主義を翳してヒットラーにも為れぬ。さりとて独裁者に徹して、織田信長、スターリン、毛沢東、ポル・ポトに為ろうかとも考えるが、そんな性格異常者に為ってしまったのでは、老母の命を縮めてしまうばかりである。殺生は、大人の遣る事では無い。元来の物臭に戻って、成り行きに任せるしか方途は無かろう。

 さてさて、朝の賄い夫に移行致しまする。朝食後には、亀山郁夫先生の<悲劇のロシア>の聴講が控えている。

 家庭菜園を見に行く。トマトもキュウリも、小さな実を付けている。手入れをしていないサクランボの実もチョコン・チョコンと青い顔を覗かせている。梅の実は、鈴生りの気配である。穏やかな空気にタバコを燻らせていると、巣立った四十雀の若鳥が2匹、幼い体色で庭木の青葉の中を、元気溌剌で遊び回っている。おお、好い雰囲気ではないか・・・ ご無沙汰三昧であったが、高台の俳句ご老人は達者であろうか? ご老人に因んで一句捻るか・・言の葉遊び。

<照る青葉 戯れる動 羨まし> 指を折って、「てるあおば たわむれるどう うらやまし」 好しよし、5・7・5に成っていると、苦笑い一つである。我ながら、箸にも棒にも掛からない「言葉置き」である。手土産代わりに、これをご老人に披露したなら、<待ってました>とばかりに罵詈雑言の集中砲火を、一身に浴びること必定である。むべなるかな、クワバラの段である。

 チェロも嗜むと云う格調高い亀山先生も、出来の悪い聴講生を持って、さぞや落胆のクシャミを連発されている事であろう。我が才・・・トホホ為り。

心何処ーショート たまには、ドライブも好い物だ。
 さてさて、本日分はと、二行ほど打ち始めていると電話である。本日は、暑く成りそうな具合である。中断ついでに会社に行った後、Tの所に顔を出す事に決めて、久し振りに車を運転する。月に一度、会社に顔を出しているから、事務員さん達と近況の交換をしている。Tに電話をすると、3時までには会社に帰って来るとの事である。2時間ほど時間潰しをする必要がある。無駄金であるが、床屋に行く。そろそろお弟子さんに、今月分のコピーもして置かなければ為らない。会社に戻って、お茶を入れて貰いながら、コピーを取る。

 会社からTの会社までは、土手道を南進するのが一番早い。一方通行の一車線道路は、目に青葉のアカシアのアーチである。夏日の下、白い花が見事に咲き誇り、少々鼻孔を刺激する甘い香りに、包まれている。裏道であるから、アカシアの林は、伸び放題の原生林の趣が続いている。日本の道路と言うよりも、ロシアの道路の雰囲気である。そんな道が信号機二つだけで、直進4km強続くのであるから、実に気分爽快の段である。2時間を話して来る。外に出たついでであるから、帰り道ペット売り場を覗いて来る。めぼしい物無しであった。時計を見て、そろそろ賄い夫に帰らなければ為らない時間である。

 生鯖のミゾレ煮を作りながら、ヌカ漬けを掻き混ぜて、大根・キュウリ・ナスを引っ張り出して、味噌漬けに漬け直す事にする。女房と畳みは、新しい方が好いと云われているのであるが、ロートル貧民には、手の届かない高値の花である。世に古漬けの言葉もある様であるから、これも考え様では、エコ・ライフの一環である。蕗と干しホタルイカの煮物を添えて、晩飯とする。晩飯のお伴のテレビは、時計を見て、教育テレビが良さそうだとのお言葉である。為るほど、私の興味に合った選局で恐縮である。イタリアの火山噴火で埋まったポンペイの遺跡紹介であった。

 さてさて、本日はブログ更新を断念して、億劫に為らぬ内にお弟子殿を訪問すべしである。自転車籠に今月分のコピーを入れて、夜道にペダルを扱ぐ。駐車場に彼の車が無い。コピーを置いて、時間潰しに夜の街に足を伸ばそうとは思ったものの、その気分は忽ちにして萎えてしまった。つい1年ほど前までは、考えられなかった消極振りである。考えれば、本日散歩運動は割愛の段であった。気持ちの好い夜であるから、遠回りのペダル扱ぎをして帰る。

 頃合の時間に、<日課は、継続為り>とばかりに、ブログ日記を打つ事にする。 
  気負わず身の丈で、浮かんだまま、感じたまま、考えたままを、
                    打ち込めば、字面は足されて行くのである。

 ラジオからは、園まりの<やさしい雨>の甘たるい歌声が流れている。ロートルには、歌詞明瞭・スロー・テンポの歌の方が、分かり易い。傾向スタンドの白い光に、メタリック・カラーのグッピイ達の緩やかな泳ぎが、夜に映える。慌しかった外の1日が終えて、夜風の涼しさが、部屋に満ちて来る。マイ・ペースの静かな時が、揺らぐ紫煙の中で流れ始めている。

心何処ーショート ロートル寄り合い所

 朝、電話が鳴っている。寝足りない時間であるが、慌てて電話に出る。布団に戻る事も出来ずに、パソコンをonにする。時計を気にしながら、<嗚呼、厄介物>を打ち終える。自転車で用事をこなしに行って来る。次いで昼食の用意、飯である。スタジオ・パークでは、歌のおばさんこと神崎さんの出演である。何時もお世話に成っている四畳半午前のBGM・ラジオビタミンの担当さんであると云う。私の好きな番組である。ベテラン村上アナウンサーとの遣り取りで、落ち着いたアット・ホームな会話空間を楽しませてくれる。神崎さんは、そのラジオの雰囲気同様、感じの好い女性で大いに安堵した次第である。お二方の顔を知ると、番組に一段と親しみが湧くと云う物である。

 さてさて、本日は買出し日である。銭湯・米屋・スーパーと経由しなければ為らない。もうこの時季、風呂は熱々であるから、滞留時間は冬の1/3以下である。週1の米屋さんでの、お喋りタイムである。米屋さんは、主人夫婦の人柄を慕って、ロートル男女達が、遣って来る寄り合い所でもある。

 丁度3時の休憩時間であったから、先客が居た。最近の数編をプレゼントすると、早速、目を通してくれた。現役時代はネクタイ組であった事が、農作業の服装で容易に観察出来る同世代の男性の視線が、コピーに興味深げに向いている。読み終えたコピーが、主人から渡される。私より数歳年長と思しき彼は、午前中仲間との話題に、『沸騰都市』が出たと言う。彼は、その時間は日曜美術館・N響アワーを見ているので、見ていなかったとの事である。私も興味の湧かない時は、それ等を見ている。彼は仲間の話で、ドバイの報道には興味を持ったと言う。それがタイミング好く私の感想文に接して、参考に為ったとの事である。コピーをして、仲間内で回して見たいとの事であった。書き手としては、実に有り難い事である。兎角、男達の寄り合い話の中心は、歴史・経済・政治に傾き易い物である。作業場の一角で、お茶を飲みながらの言葉の遣り取りを続ける。農作業の途中であると言う彼は、帰って行った。

 交代の感じで、手入れの行き届いた白い口髭に、ハンチング帽を小粋に被った男性が、車から覚束ない足取りで、手を上げながら遣って来た。主人とは、60年来の付き合いだと言う。颯爽と滑るスキーヤーにして、モテモテの友だったとの事である。見るからに、味の漂う人である。脳溢血の後遺症で、右半身が不自由な身体障害者の身には、日の翳った作業場は、涼し過ぎるとの事である。外での蕗のお茶請けから、事務所に場所を移し変えてのコーヒー談笑である。一つ下の飾らぬ・おっとりとした色白の奥さんの雰囲気が、これまた好いのである。従って、居心地が宜しいから、毎度の事で滞留時間は長く為ってしまう。

 隣に座る口髭さんは、浮名を流していた事が、一目で分かる味のある御仁の雰囲気である。野暮な出で立ちの私達に前で、趣味の良い配色のコーディネートである。主人は、私の顔をマジマジと眺めて、プロレスのドリー・ファンク・ジュニアに顔付き、雰囲気と云い、そっくりだと感心している。<誰に似ていると言われる>と、お二人から質問される。奥さんも参加して来る。

 初対面者が、余所行きの顔付きで当たり障りの無い話を交わしていたのでは、座が白けると云うものである。知らない仲ではないから、<年の劫>為らぬ『甲羅』とばかりに、名刺代わりに得意の大法螺を吹かせて頂く。此処は若輩者、年長者に敬意を表して、太鼓持ち為らぬ<法螺吹き男爵>に徹すべきである。マジマジとお三方に眺めて頂いても、ロートル賄い夫の身分では、我が不可侵の肖像権を、換金出来ぬ処である。ニヤニヤしながら、

「ちょっとしたマスクでしょう。スマートで全盛期の頃は、藤巻潤・杉良太郎・トニー・カーティス、中年以降は、フランスのジスカール・ジスタン、ロシアのゴルバチョフだ。又ある時は、エロ牧師だ。如何だ、参ったか!!見料払え。元へ、これは冗談であります。」 
「やいやい、デカク出たもんじゃねぇか。分かる、分かるけど、俺ぁ、初対面で、ウロタエちゃうぜ。対抗してぇが、体力・迫力が違い過ぎる。トー・ホールドされちまったら、足がバラバラ。」
「へへへ、すうぞら、食いねえ、寿司喰いネェ、蕗食いねぇずら。ロートルは、澄まして居ちゃ面白くはねぇ、謙遜は、綺麗さっぱり現役時代に置いて来た。ロートルに、羞恥心は禁物。大法螺こいて、人間喰わなきゃ、長生きは出来無いですよ。先輩。」

 出し抜けに初対面の男から、こんな事を言われてしまっては、相手は身が持たないだろうから、退きそうになる垢抜けオヤジの首筋を引き寄せる。顔色一つ変えぬオヤジである。波長は、ピッタンコである。太い腕でマッサージして遣りながら、ニヤニヤ、リラックスした処で耳元に囁く。

「アン、ダンナ、隠し子何人居るネ、正直に白状しましょ。人間、一皮剥けば、本質は、とんでも無い盛り犬だよ。密室に入りゃ遣る事は、大方共通だわさ。羞恥・遠慮は要らねぇよ。俺ぁ、到って口は軽いんだ。秘密は無用、此処は白米のお白洲だ。聞いて遣ろうじぁないの。」
「ヘヘェ~、恐れいりました。昔杉良のお奉行様。実は・・・ あれは確か、手前が脳溢血で倒れる数年前の事でござんした。通い付けの店の若いオボコ娘の色香に血迷って、儘為らぬのが頭と下半身で御座います・・・ 何ョこかすだい。ニイサン、書いてある事は、近付けねぇインテリだと思ったら、正体は漫才師かい? それとも刑事サンかい。マンマと誘導尋問に掛かって、墓場に持って行こうと封印してた秘密のアッ子ちゃんの一件、つい口を滑らしそうに為っちまったじゃねぇかい、恐いネェ。ヤバイねぇ。俺は身障者だ。不自由な身体、女房にこの歳で三行半書かれた日にぁ、オッチン仕舞う。ヤイヤイ、油断も隙もあった物じゃねぇや。Kちゃん、悪い人をお得意さんに持った物だね。用心しろや。こんな物騒なお得意さん持った日にぁ、円満な夫婦仲を引き裂かれちまうぜ。」

    おお、好いね。相手も然る者、好き者、口達者。チンドコ太鼓に、踊りましょう。
「何ちゅう事言うだい、この浮名オヤジ、人聞きの悪い。悩める現代人の心の病を、心理療法で解きほぐして遣らっかと思って、仏の慈悲心を試そうとしただけだよ。分かんねぇかなぁ、達人の大海心って物が。」
「やいやい、駄目どぉ。ダメ、Iサ。Rチャに掛かっちゃ、俺達年上だけど、太刀打ち出来ねぇや。逆らっちゃ行けねぇや。人間、歳じぁねぇ。中身だ。何しろ、自称国際規格って事だもの。」

 ナヌ、お二方、何処見とるんじゃい。お主等の目は、レントゲンか? 手診に優る診断無しじゃろうて、これ、鼻と股間の眼診はお止め為されよ。親しき仲にも、礼儀ありで御座るぞぇ。浮名オヤジさん、ドングリ眼を横目使いに品定めした後に、綺麗に刈り込んだ白亜の口髭を歪めると、温和な眼を私の鼻に据えて、

「ホゥ、お主、鼻筋通りの化け物か? そうずらな。若きゃ逸物出して、勝負してぇけど、生憎、今じぁ用を足さぬチンショウシャだ。コンチクショウめ。」
「何を仰います。先輩両氏。こっちゃ毛が無ぇから、逆毛も起こらねぇ。その分、お頭の風通しが好いだけですよ。侘しさは、寒風に曝すお頭の寒さ・炎天下に焼けるシャレコウベよって事も、あるんですよ。聞いてりゃ、お二方とも、弱者に対する労わりの心って物が無ぇや。こんなんじゃ、世も末だわサ。冷たい人の世だ。嗚呼、おいらの余命の長きが、思い遣られるもんだわさ。」
「Rちゃ、それを言うなら、天は二物を与えずだよ。歳喰って、無いもの強請りは、とっとと帰っとくれ。此処は、<足るを知る>の会員クラブだよ。如何だ、参ったか。」
「やいやい、こりぁ行けねぇや、多勢に無勢の例えでありますか。」

 離れた事務机に座る奥さん、眼鏡の目をクシャクシャにして、腰を屈めての失笑の段である。
「ホホホ、何時も笑わして貰って、本当に楽しいこと。皆さんコーヒーのお代わりしましょうネ。」
「おぅ、もっとエンジン掛けさせるのに、砂糖を大目に入れとけや。何とかと何とかは、紙一重。」
「そうそう、ついでに鋏は使い様って言うずらよ。」
「クァ~、話の落ちは、やっぱりカメアタマの甲より、歳の巧み、年の劫でありんすか。」
 
 トホホ、小生、コーヒーに砂糖は苦手である。昔ガッタ坊主達の血は、タガが外れると馬鹿丸出しの脱線話に、花が咲いてしまう物らしい。人間の町には、こんなロートルの寄り合い所が、無くては為らない人生のブレイク・スポットである。図々しさを省みず、ご夫婦のお人柄に甘えさせて頂いている次第である。ニッポン・並びに日本人、まだまだ探せば気分・心のオアシスは、健在でありまする。

心何処ーショート 嗚呼、厄介物

 昨夜のNHKスペシャル<沸騰都市>の中東ドバイの紹介は、強烈であった。まるで、その印象は、旧約聖書に出て来るソドムとゴモラの21C版都市の様であった。オイルマネー、投資マネーと云った人間の欲望マネーが、砂漠の中に忽然と姿を現した様な蜃気楼都市の様であった。映像的には凄いと思ったが、絶対に評価したく無い精神の虚しさが渦巻いていた。

 開発・発展のダイナリズム映像の横で、私の脳裏には何十年も前に観た映画の映像が、蘇って同時進行をしていた。何の映画か明確では無いが、多分、『十戒』か『ソドムとゴモラ』辺りに出て来た曲者俳優エドワード・G・ロビンソンの顔が浮かんでいた。

 無価値だった砂漠に、欲望の錬金術師が乱舞している。砂漠に不夜城が巨大アメーバーの様に、増殖している。巨額の富を手に入れた人間達が、富の危うさに翻弄されて、富の臭いを嗅ぎ回って忙しなく動く。購入物件の<価値と云う危うさ>を知っているから、相手を募り、物色して、儲け話を耳元で囁き売り抜ける。富を回転させる事で安心を得ようと躍起に為っている。ある投資家は、数年前二千万円の投資が、今や二六億円だと言う。砂漠に忽然と現われた天を突く不夜城で、転がし・ねずみ講の如き喧騒のルーレットが、回りに回っている。歓迎出来ない欲望の連鎖都市。そんな感じであった。成功の富に酔いしれた王族・富豪・投資家達の人間像は、何故か? 薄ペラな傲慢さしか伝わった来ない。

 然し、それは仕方の無い事でもある。虚業の膨大なるマネー・ゲームで得られる手の切れる新札の紙幣の束に、人間的個性が宿る訳が無い。欲の連鎖を演出する虚構都市に、浮かれ惑わされる様は、ソドムとゴモラの一時の賑わいでしかあるまい。砂漠には栄華を極めた『儚きバベルの塔』が似合う。現代の<バブルの塔>も、何時まで栄華を持続する事が出来るだろうか。マネー経済は、消費・消耗の短期経済の様である。その危うさに、豪華で華奢に映るガラスの都市ドバイは、時代を刻む事が出来るのだろうか?

 資金を得た技術の力は、凄まじい。一気に突入したグローバリゼーションの情報・マネー・人・物資・物流のダイナリズムは、加速の一途である。無機質の母なるマネーが、無機質の象徴都市を作り出して行く。凡人には大事な有機質に見える、人の心までが、蝕まれて行く。有機体の地球が、表皮を覆われた息苦しさに抗して、異常を訴えて未曾有の天変地異を見せている。干ばつ・巨大台風・大地震・大津波・・・ 個人を没して、組織・体制の下で、盲目的労働の日々を強いられる現代社会・・・ 日常から、自然が遠のき抹殺されて文明の簡便生活に沈み込んでいる現代人である。自然界への畏怖を忘れた地球の民に、有効な心の訓えは、届き難くなってしまった。 

 新興最先端都市の人口の半分は、巨大化する都市建設に奉仕する外国からの低賃金建設労働者であると云う。<古の昔より、富の構築は、搾取の賜物でもある。> 現代風に言えば、勝ち組・負け組、ワーキング・プア中世暗黒時代の実相であろうが、貧民の一人からすると、身の毛が逆立つ虚脱感に苛まれてしまう。地球の厄介物・人間は、恐い世界を作ってしまったものである。

心何処ーショート そよ風に紫煙

 朝食後、定位置に座っていると、風が気持ちが好い。陽射しの中を、蝶がフワリ・フワリと飛んで行く。窓辺に置いた鳥篭からは、囀りが聞こえたり、警戒声が聞けたりする。屋根の瓦の下で、雀の雛が孵ったのであろう。盛んに餌をせがむ声が聞こえて来る。

   テレビでは大地震の痛ましい被災場面が、繰り返し放映されている。
    時間と共に、悲しいインパクト政治ショーは、終わったのである。

 生き埋め現場から、これからは被災者の長く辛い生活が始まる。生命が絶たれた悲しみから、現実を直視しながらの生きる為の生活が始まる。画面には、生きる為の支援活動の物音が聞こえて来ないのが、気掛かりである。救助から支援へ、指導者・国家・行政・自治・自活の出番である。被災者には、辛くとも、遣るしか無い現実の悲惨さがある。現実を生きる事で、現実の悲惨さを乗り越えて欲しい。どん底に落とされた人間には、生物的・動物的生き残り本能が、顔を覗かせるものである。然し、気力が何時までも続く訳ではない。指導者の腕力が必要とされる。国家の機動力・援助が第一義である。国民が国家の守護者の側面を見出す長い道程である。そして国家が、実行者として自分の実力を、思い知らされる期間でもある。

 パソコンを打っていると、女房殿から電話である。馴染んだ声、馴染んだ言葉の遣り取りである。据わりが好いから、何やかやと、世の女族に違わぬ長電話に成ってしまった。新天地・一人暮らしを始めた娘も、如何にかこうにか、日々ケチケチ作戦を実践しているとの事である。一人で生活をして見なければ、見えて来ない物がある。見えなかった物が見えて来て、分かる物・変わる物に直面する。それ等を活かして人間の幅・深みを広げてくれれば、幸いであろう。
 
 親子・兄弟と云えども、持って生まれた個性・器が、それぞれに違うのである。鑑賞は必要であるが、干渉は不要である。親としては付かず離れず、年に何回か顔を見て、変化・成長の方向性を確かめれば、それで好しとする処であろう。


心何処ーショート 下衆の雑感

 新聞受けに、PR用の朝刊が入っていた。何か月振りかの新聞であったが、再び購読する気は起こらない。インターネット情報の方が、面白い。庶民にとっては、新聞は一過性の資源物予備軍である。一過性の物ならば、無料・無形の物ほど有り難い物は無い。そんな言い訳よりも、新聞が無くても違和感が無くなって来てしまった時代に、驚いているのが正直な気持ちである。

 この数日、中国四川大地震の報道ばかりである。被災者と映像に向う人間とは、実害・臨場感が共有出来ないから、被災者からすると人非人の様な感覚しか提供出来ない。人間として恥ずかしい事には違いなかろうが、自分的には、仕方の無い態度かも知れない。これが日本ならば、同国人に寄せる同情・救助金を出す気が起こるが、その気が一切起こらない。
好く引き合いに出される常套句・言葉であるが、地球人類皆兄弟、国民・市民・子供に罪は無い。圧制に苦しむ民、戦禍・天災に苦しむ民に、人道上の救援活動をするのは、人間として自然の気持ち・行為であると・・・・ 罪を憎んで人を憎まずなんて、高尚な金言も厳格に存在している処である。
 
 邪ま海外旅行、幾多の外国人を身近に見て来て、この頃感じる事は、異質なる者への距離感の増幅、場合に依っては嫌悪感である。憧れ・希望・期待への明るさの前に、体験・挫折・失望は遠ざけたい影を運んで来る。そんな中で距離を置いた無関心を、自分の精神安定剤として服用している自分を見ている昨今である。『お前の冷ややかさの根源を論証せよ。』などと言われてしまっては、本性を吐露しなくては為らないから、ノーコメントと拒否するしか無い。

 私個人としては、日本に生まれて良かった。日本人の教育を受ける事が出来て好かった。日本人の価値観を共有出来る人間関係に、身を置く事が出来て好かった。物分りの良い利用され放しのお人好しの演技も、日本人の近しい人間関係の潤滑油に必要ならば、それも我慢出来る。その程度の有効性のある損な役割も、お目出度き日本の国民の一人として、歓迎出来る。

 然し、価値観の噛み合わぬ異国の国策に踊り続ける民には、善隣外交・人道外交のお人好しの『良薬』は通じまい。人間の顔も心も、感情に左右されるものである。教科書的には、感情を抑制して理性に基づいて行動するのが好いとされるのが、『人間の理性・進歩の世界』と云われる。  

 然しながら、ドロドロした欲望が絡む人間社会・・・ 無防備な善人は、堅固を敷く悪人の前に、しばしば利用されるだけの結果を連ねるものである。

 人間は善良な神では無いのである。不完全な生き物である以上、時には相手の土俵で、相手の流儀に従って、感情を剥き出しにして、ギブ・アンド・テイクの態度を示さなければ為らない時もある。泰然自若として、<善>を語り振舞ったとしても、それは高みの見物客からすれば<天上天下唯我独尊>のマスターベーションに近い自己満足でしかあるまい。説得力・パフォーマンスの相手の質・程度・技量を見誤ると、滑稽にしか映らない。人間の行動には、感情が左右してしまう。国民感情・世論の動向を口にする政治家達の言論行動であるが、政治といえども、感情行動が根底にはある。チームの守備を代表する投手が、優等生のコントロール一本槍の投球だけで、好いのだろうか。優等生投法だけが、試合を勝利に導く投法では無かろう。勝負球が絞り切れない荒れ玉が混じると、得てしてバットは空を切るとの事である。

 日本人の善為るお人好しが、張子の大国に利用されている感ばかりが、先行してしまう。やはり、これは、偏狭なる吾が小我なのであろうか・・・

心何処ーショート 好の連鎖

 本日は、朝から好いものを見る事が出来た。浜三枝・C.W.ニコルの対談と亀山郁夫先生のドストエフスキーの最終回<カルマーゾフの兄弟>。番組の副題では無いが、『この人、この世界』は、ドストエフスキーよりも、私の視線は『ロシア文学家・亀山郁夫氏』に注がれ放しであった。人間観察の対象として、『内実伴った』興味深いお人であった。氏の講義が拝聴出来なくなるのは、残念である。

 とかく巷には、NHK批判はあるものの、私には必要で大きな存在である。テレビの前に居たのでは、自分の時間が少なく成ってしまうものの、知れば何かと興味も湧き、何かの折に応用も利くと云うものである。好いものに接すると、人間としては自分の感想を言葉に出して、人に伝えたくなるものである。私の悪い性分で、老母に茶を所望して、浜三枝・ニコル・亀山郁夫各氏の人物像を、老母を相手に長々と披露してしまう。これも言葉・会話を忘れぬ為の訓練の一つである。

 いかんいかん、午後2時からは再放送の『相棒』の犯人探し・ストーリー展開の推理、作品評も控えているのであった。老母の突っ込み・疑問は、マダマダ健在である。賄い夫兼家庭教師の日常配分も、気に掛けねば為らない処なのである。部屋に帰れば、水槽の水色を確かめ住人達の様子を暫し眺める。餌を撒き、稚魚の行方を追い、鳥篭を部屋の窓辺に置いて、彼等の餌と水を替えて遣る。

 一人を愉しむ為には、それなりの装置と手間が代償と為る。水槽住人・小鳥達にして見ても、当然、飼育管理者にして、四畳半の主の日常の仕種・行動を観察しているのである。私の表情・気配に、彼等とて、同じ動物の醸し出す気・感情の変化の様な物を、感じている筈であろう。お互いが、小世界の主役である。相手の存在が、空気・一風景の様な什器部品に為れば、しめたものである。狭い水槽と云えども、緑の水草が繁茂して、グッピィ・タニシが命を咲かせ日々を泳ぐ。小さな鳥篭に壷巣が括られ、大小2本の止まり木・餌鉢・水鉢の間を渡って、餌を啄ばみ水浴びを繰り返し、囀り回り、時に寄り添い離れる。私は、ラジオをBGMにコーヒーを啜り、タバコの儚き紫煙を眺め、机に向う。通う風に四畳半の住人達の様子を眺める。其処には、お互いの極自然な時の営みが流れて行く。気兼ねをする必要の無い四畳半の空間が、日を重ねて行くだけである。

 1時から2時に掛けてが、昼の時間である。昼の賄い前に、散歩に出掛ける。葦の緑が伸び始めている川原に、オオヨシキリの声がする。彼等も渡りを終えて、縄張りを見付けるのだろう。幾つかの季節の点を確認するだけで、1年が過ぎ去って行った。長らく、ゆとりの無い近視眼の惰性生活を送って来たものである。これも哀しいかな、峠・山を越さなければ、見えて来ない人間の生きる平均値であろう。私は、点と点を結び付ける観察散歩課程の1年生である。

 昼を食べ『相棒』を見終えて、昼寝を取っていると、玄関に声である。民生員のFさんである。老母の顔が見たいと言う。初めて老母の部屋に案内すると、蒲団に臥せっている。彼女は私より一つ年長である。大柄で気さくな婦人である。人見知りの強い老母であるが、多聞気が合いそうであるから、廊下の椅子に座って同席する。お婆ちゃん子で育ったと言う彼女は、やはり実母の在宅介護をしているとの事。
 男には入り込めない女同士の会話が進む。好い雰囲気に、Fさんに感謝の気持ちで、女同士の遣り取りを見守る事にする。男と女とでは、感じ方・応対の仕方が、まるで異なる。倅の有限性が、ひしひしと伝わって来てしまう。男と女の違いで、私には仕方の無い事であるが、入り込むのが憚られる。彼女にとって歳下の私は、弟扱いである。無骨物の私と老母の母子関係を気遣って、訪問してくれているのである。

 老母よ、頑なに為る必要な無かろう。頑なさは、不必要に心の壁を作ってしまうものである。気が合えば、自然と綻ぶ気持ちを、其の儘に言葉に出せば、気分も解れると云うものである。人間とは、感覚の生き物である。匙加減一つで、気分は左右されてしまう。気が合えば、人間は自然と馬鹿に為れる。馬鹿に為れば、饒舌にも為れる。抑揚の効いた饒舌は、楽しい気分を運んでくれるものである。捨てる神在れば、拾う神在りである。緩急付けて、進むしかあるまい。

    Fさんを玄関で見送る。
「在宅介護は、無理をしないのがコツよ。面倒を見る者が倒れたら、悲惨な事になるわよ。家は近いんだから、恥ずかしくは無いわよ。何時でも、愚痴を溢しにいらっしゃい。弟にしてあげるから、図々しく、これからも訪問するからね。」
「ハイ、光栄であります、大姐御様。アリガトざんした。」
    直立不動の姿勢で、最敬礼を送らせて頂いた。

心何処ーショート 知るを楽しむ

 四畳半の通りに面した雑木の葉が、好い具合に茂って来た。買出し日であるから、自転車で銭湯に行く事にする。途中で本日15日は、定休日である事に気付いた。肝心な時に、肝心な事が思い付かない。自分の事と為ると、相も変らぬノーテンキのダラシの無さである。仕方が無い、上の銭湯まで行かねば為らない。途端にボッチラ、ボッチラのスローダウンである。旅館の裏道の細い上り坂を、ヨッイショ上がりである。

 今週は10時台のドストエフスキーのロシア文学の手解きを、テレビで見ているから、昼時の銭湯である。暖簾を潜ると、男風呂は誰も居ない。透明の湯船から掛け流しの湯が、とうとうと溢れ出ている。ニンマリ、実に、有り難いの一語に尽きる。湯船に浸かって、源泉をコップで飲む。静かな空間である。一人であるから水で薄めて、ゆっくり浸かる。温泉の熱が全身に浸透して、ジワリジワリと発汗して来る。身体を洗っていると、一人入って来た。一人も好いが、2人ぐらいが丁度好いのかも知れないなどと、思ったりもする。

 スーパーで買出しをする。急な寒さでキュウリの苗が、2本ヘタテッてしまった。補充して帰る。気持ちが好いから、昼食前に苗を植えて遣る。Tシャツ姿で木陰で、一服付ける。ロシア文学のブームらしい。ロシア美形を浮かべながら、ロシア文学者の講義を自分流に復習する。

 ロシア人の自然への不介入さには、かねがね日本人の私には興味があった。公園、路傍の雑草は、日本人の感覚からすると、除去と云う手入れの対象となる。立ち木・街路樹の剪定も、美観と云う手入れの対象となる。ウラジオストクのそれ等は、全くの自然のままの姿である。ロシア人が大雑把、無関心と云う風でも無い。公衆道徳も悪くは無いのに? 私の知るロシア美形達は、実直にして働き者であった。派手では無いが、センスも悪くは無かった。自然のままの植相・植物から成る風景が続くロシアの大地・・・ 何か、其処には彼等の自然観があるのだろうと考えていたのである。私は無信心者であるから、宗教心の欠片も無いし、宗教的好奇心も一向に湧いて来ない男である。小説も文学の類からも、程遠い処であった。耳学であるが、欧米人の精神の根底にはキリスト教が、確り根を張っているとの事である。

 何事も、そうであろうが、知識・頭で知っている事と血(感覚)で分かっている事とは、まるで異なる理解である。ドストエフスキーのモチーフの中に在ると云う『聖なる大地』の言葉に接すると、日本人の感覚からすると彼等の『自然への不介入』の精神的態度に頷ける。険しい山河に覆われた狭い日本は、人工の手を加えたくても、里山以上の自然には入れない有様である。自然の山河の四季の彩り・移ろいを、退いて遠くから眺望して愛でる、総体の移ろいに、ものの哀れの旅情を感じ、人生を旅に模す。大海・山河を庭に表現する。大木・古木を盆栽に見立てて、日常の小さきものへの侘び・寂に投影して、無情を知り愛でる自然観が、ロシアの『聖なる大地』の宗教的自然観との共通項を、持っているのでは無いだろうか・・・

 ロシア人の<自然界への不介入>、日本人の<自然への模写>であっても、其処に等しく見ているものは、自然への奥行きを意識している<人間が侵しては為らない自然観>で、共通の感性が通っているのでは無いだろうか。
 
 ロシア文学は、明治期の日本文壇に、色濃く影響を与えているそうである。非文学の男であるから、私は一度も小説を読んだ経験は無い。受験勉強で歴史と文学の記述を、最高得点を得る為に覚えただけの男である。軍用機を改造しただけの新潟・ウラジオストクの旅客機には、ロシア文学を携えた若い女性、中年女性の少人数の旅行客の姿が目に付く。其処には、きっと彼女達を惹き付ける精神の共感があるのだろう。私は、古いタイプの益荒男を標榜して歩いて来た男であるから、文学の世界は照れ臭く敷居の高い領域である。進んでは近寄りたくは無い領域であるから、普段は頭髪を失ったゴルゴ13を決め込んでいる。

 講師を務める東京外語大の学長氏の引き締まった顔付き・体格は、奥深く迫力のある重い内容に富んでいる。氏は大学四年の時、浅間山荘事件があったそうである。為るほど、同世代の男の顔・雰囲気が漂っている。久し振りに本物を感じさせる、知識人の静かなる凄味を横溢させる御仁である。明日の講義は、『カラマーゾフの兄弟』との事である。

心何処ーショート 薄日差す

 やはり代用の巣は、使い勝手が悪いらしい。卵を放り出してしまったり、割ってしまったりしている。大事な初産であるから、悪い癖を覚えてしまっては、取り返しの付かない事に為ってしまう。山辺の湯に浸かって来たのであるが、放置する訳にも行かず、一回り大きな鳥篭を買いに行く。金華鳥を買った折に、店の老夫婦が薦めてくれた壷巣は、ビックサイズであった。籠に対して、バランス・据わりが悪い。何回かセット為直すが、所詮狭い有限の空間である。観念する。

 巣引きに関しては、可哀想であるが仕切り直しである。観察していると、オスとメスには、役割分担があるらしい。目新しい物・未知の物への斬り込み役は、オスの専属事項であるらしい。昨夜は止まり木で過ごしたメスも、壷巣で過ごしたオスに安心した様に、壷巣への出入りをし始めた。眺めていると、些か尻込みをしているメスをオスが、嘴で突付いて中に押し込み、すぐさま出ようとするメスを、嘴で引き止めている。見方次第では、オスとメスのサド性とマゾ性らしさも窺える処でもあり、何かと不平・不満を言いたがる、一種のメスのオスに対する甘えも垣間見られる番の動作・所作である。暇があると、囀りダンスを繰り返して、盛んにメスに交尾を仕掛けるオスは、同属として些かハシタナイの冷めた感じがしないでも無いが、それがオスと云うものである。同類の一人としては、<頭の中には、それしか無いの!!>なんて、異口同音らしき、耳の痛い女族の口撃が聞こえて来る様で、反省方々、苦笑いの場面である。

 この頃は、トンとご無沙汰の後輩が居る。黙っていると、外観的には夫婦仲の好いインテリ風の好男子の部類に入るのであるが、一皮剥けば好色バンカラ高の正直男である。些かの誘導尋問を試みると、先輩後輩のザックバランな講釈が出来上がってしまう。中々にして、示唆に富む後輩の講釈であるから、以下に抜粋する処である。

「おい、夫婦の会話を聞かせて見ろや。」
「先輩、何処も同じ。」と、無理に顰め面を作って見せるが、ニヤニヤと愛想を崩す男である。
「今夜、如何だい? 何てお伺いを立てると、お父さん、したばかりでしょ。新婚じゃないんだから、駄目駄目のお達しですよ。好いじゃないかと言うと、<アンタって人は、頭の中はソンナ事しか考えてないんだから、嫌らしいったら、ありぁしない。言うに事欠いて、1週間前なんて、よく白々しくも言えた物ね。私はバカじゃないわよ。三日前でしょう。行儀好く寝なさい。> 何て、お説教を頂戴しちゃいますよ。先輩の所も、そうずら。男も女も言う事は、決まってる。・・・だけど、俺の稼いだ金は、家計にそっくり投入。自分の稼いだ金は、チャッカリ全額自分の小遣い。俺に回す小遣いは、浮気防止とか抜かして、お涙金だよ。亭主としちゃ、採算が取れねえや、俺だって、バカじゃない。数学に為ったら、学業不振だったけど、算数は得意科目だった。不足分を現物支給で、お伺いを立てりゃ、オウム返しで色情狂・変態扱いされちゃう。そのくせ、休みの日にぁ亭主をアッシィー替わりに、使い放題だよ。若い頃は、花にも勢いがあるから、仕方の無い部分もある。でも、先輩、オンナがカンナに成り下がっても、意識だけが胡坐を掻いて居たんじぁ、男は立つ瀬が無いよ。冗談こくなが、男の本音だけど、それを懐柔して、押し込むのが、男の演技・度量の深さって物ですよ。ゴリ押しは、離婚の元。長寿社会は、持ちつ持たれつの夫婦生活の維持。男は、哲学しなきぁ為らねぇ生き物だ。これは、男の嗜みの一つですよ。」

 こんな説法を聴かされた後は、何時もながら、後輩に缶コーヒーの謝礼を要求される。何故かは分からぬ処であるが、金華鳥の番を見ていると、後輩のにやけた口調が、思い出された次第である。

 巣作りもオスの分担らしい。中に敷く巣材が無いから、自分の羽毛を嘴で抜き始めている。健気な同類の行為に同情して、枯れ草を取って来て入れて遣る。オス殿は、中々の働き者である。巣材を嘴で啄ばんでいるメスを後目に、セッセと巣材を壷巣に運び込んでいる。交尾行為は、植物・動物界を問わず、割高な交換行為の様である。多少の異論があっても、生物界の雌雄の別は、ギブ・アンド・テイクで、自然の調整が働いているのであろう。
 そんなオスとメスの行動・態度を見ていると、後輩のお説ご尤もの段である。お説に従うと、<ほぉ~> オスとメスの遣り取りは、太古の昔から大差は無いのであろう。人間だけが、進歩的と気取って見た処で、基本的には何ら変わらぬオスとメスの遺伝子の継承である。

 ロートルに成ると、何かと経験して来た分だけ、鑑賞物に擬人化が働いて、勝手な人間翻訳を挿入してしまう物である。衣食住の足りている飼い鳥であるから、大分自然界の生活とは異なっているのであろうが、彼等の動きは強弱に富んでいる。

 作業の継続は、あっさりと中断されてしまう。水浴びをすれば、羽繕いをしたり、薄日の差して来た窓辺で、単発の囀りをしたりである。仕事を持たない彼等は、安全と空腹が満たされれば、小さな動きを繰り返すばかりである。仕事に縛られ放しの人間と違って、あくせくしない処が、実に羨ましい。

 小鳥達の動きを観察して、止まり木の位置を調整して遣る。狭い空間ではあるが、飼われの身の番鳥の生活の全てである。運動に交尾、子育ての居住空間である。有効配置は、目の保養を頂戴する飼育管理者の番鳥へのプレゼントである。

 中国で発生した大地震のニュースが流れている。次から次へと、耳目を集める中国情報である。然し、特別な感情が湧いて来ないのは、寂しい限りである。
   
 さてさて、昼の賄い夫タイムである。チャーハンでも作ると致しますかな・・・

心何処ーショート 歩けば、百薬の長

 浅間温泉から2km程南に行った所に、山辺(やまべ)温泉がある。今では、美ヶ原温泉と言った方が、通りが好い。季節が暑くなって来ると、熱い浅間温泉はパスの季節となる。入るなら、山辺の温い湯が、丁度好くなって来る。浅間からのアルプスの山並みは、城山の丘陵地帯が間に入ってしまう。然し、この山辺温泉からの眺めは、その丘陵地帯がずーと北に後退するから、パノラマのアルプス連峰が高く聳え立つ。眺望からすれば、山辺に軍配が挙がる。

 昔は行き付けの銭湯があったから、好く行ったものであるが、其処が廃業して別の場所に、新規の市の保養施設と為ってからは、足が遠のいてしまった。昔から可笑しな性分で、古びて鄙びた雰囲気に足が向かってしまう。贔屓の浅間ホット・プラザでの老人パワーのボヤキを老母に話すと、山辺温泉の入り口に老人の湯があるから、1度行って見ると好いと言われた。一人暮らしの時は無料であるから、近所のお仲間と連れ立って、好く通っていたと言う。運動とお喋り方々、老女衆は田園風景の道を、セリを摘んだりして息抜きをしていたらしい。

 場所を確かめる為に、車で行く。途中、牡丹の名所として名の知られているお寺がある。高校の一級上の先輩が、住職をしている。お寺の駐車場には、県外ナンバーの車が何台か駐車している。カメラを首から下げた私と同年輩の夫婦の姿が、車の中から見えた。藤棚の淡い紫の花房が、日に映えている。窓から花の香りが入って来る。田圃には、水が張られている。看板に名前を見付けて、脇道にハンドルを切る。意外と近い距離であった。散歩の方角を南東取れば、散歩距離と大差は無かった。

 戻って、家に入らずに、雨で不足分の散歩を稼ぎに、少し足を伸ばす。崩れると云うお天気は、未だ太陽が照っている。歩くには、丁度好い気温である。歩き慣れたコースを辿り、新緑の木々を眺めながらのマイペースである。小鳥の囀りを聴きたくなって、護国神社の森に入る。樹勢が濃い場所であるから、何かと森林浴の効果もあるやも知れぬ。落ち葉を踏みしめながら、立ち止まり、立ち止まりを繰り返し、小鳥の声に耳を澄ませる。小さな高音の囀りである。新緑が重なり合う枝々に、目を凝らす。逆光の中に、小さなシルエットが動く。鳥形からすると、エナガの小群れである。神社の森の植生も、すっかり変ってしまったのだろうか? 足繁く通って、遊び呆けていた子供の頃と異なって、森の小鳥達の種類も気配も、少なくなってしまったものである。

 公孫樹並木を進んで、体育館・文化会館一帯の林に入る。女子学生が、1人ベンチに座っている。誰も居ない。痴漢・変態流行の昨今である。若い女性に、要らぬ警戒心を抱かせては、心苦しい。さり気無く素通りを決め込む。コンビニで買って来た昼を広げ始めた彼女が、顔を上げて「今日は」と笑顔で愛想を掛けてくれる。「昼か、俺も食いたいなぁ。」と応じて、通り過ぎる。

<ほう、ベッピンさんじゃないか。目の保養に、確りと顔を拝んで来るべきであった。嗚呼、失敗こいた。> 

 ロートル1人のブラブラ散歩である。口さがない世間様は、凶悪犯顔と決め付けているが、若い娘が気軽に声を掛けてくれるのであるから、痴漢・変態の挙動不審者とは、遠いのである。歩けば、棒に当たるの例え。男にとって、美人の笑顔は、百薬の長である。

心何処ーショート 困ります
             困ります

 イヤハヤ、笑っちゃう程、寒いですね。

 暑い方に耐性があるから、寒くなると 冬眠したくなっちゃいます。
 一体、如何しちゃったんでしょうか? ??? ???

 夏日を記録したのは、つい先だっての事。違いましたっけ?

 困ります、困ります。半纏を引っ張り出して、羽織りました。靴下も履きました。
 一息付けましたが、窮屈です。重いです。

 部屋の空気が、不味くなりました。何故か、夕刻の色が侘しい限りです。
 気分が萎えます。困りました。困りました。

 地表の毒が、お天道様を撹乱してるのでしょうか・・・

心何処ーショート 終日の雨が運んだ憂鬱

 本日は、朝から終日の雨である。昨日との温度差は、11℃。予定が有ったが、天気模様を見て、先送りにする。寒いから、コタツのある老母の部屋で過ごすが、テレビ内容の貧困さに付き合い切れずに、ラジオを付けた儘の寝たり起きたりの寝床暖房である。冷雨に庭の緑も頭を垂れて、ひっそりとしている。大分乾燥が進んでいた大地であったから、水分補給には好い雨であろうし、一番喜んだのは、川の魚達であろう。水田がめっきり減った時代であっても、上流で取水されて水量も半分以下に成っていた。川の水がチョロチョロでは、折角出張って来たカワセミも、縄張りを上流に移動しなければ為らない。先ずは、お天道様の思し召しを可とする。

 暗く寒い日であるから、玄関のオスの囀りも少ない。確か1日置きの産卵で、第3卵からの抱卵だった記憶であるが、第1卵が巣から落ちて潰れてしまった。従って順調に進んでも、抱卵は来週後半からであろう。初めての産卵であるから、繁殖に成功して欲しいものであるが、如何なる事やら?
 終日家の中であるから、小鳥の鳴き声の少なさに気付く。そうなると、何やら可笑しな感想を持つ。意識されていない筈の慣れなのであるが、ボリューム感(頻度・大きさ)と云う物が、漠然としてではあるが、無意識の中にも意識の影が働いているらしい。そう考えて見ると、不図、気付いて慣れの実態に目を向ければ、そこには基準としてある漠然とした実態が、変化の合図をして来るのであるから、認識の実態とは、面白い限りである。人間の意識の仕組みには、一種の陰と陽の補完関係が存在している様で、実に興味深い意識と無意識の関係である。
 
   知らず知らずの内に・・・ とは、人間心理の内を好く言い当てた言葉である。
 何事も、知らず知らずの内に、馴らされてしまう人間生活であるが・・・・ それにしても、実に粗製濫造のテレビ番組である事か? 此の儘、手を拱いて傍観視していると<百害あって、・・・無し。>何て事にも為り兼ねない。巨大市場・産業は、何度と無く競争力の維持・強化の時代の波に、整理統合されて来た。報道の自由を掲げて、消費の想像・拡大を目指すスポンサーを漁って此処まで巨大化して来たテレビ・マスメディアの興隆時代も、完全にターニング・ポイントを迎えている。巨大産業界の競争原理の下にある以上、マスメディア業界と雖も、例外では無かろう。正に、殿様商売の落日を見る思いである。

 製作コストの安易な合理化策ばかりを徹底していては、質の低下は目を覆うばかりのジリ貧状態である。再放送で穴埋めしたくても、近年の低級ドラマの付けが回っているのが、悲しいかな常態である。かと云って、過去の秀作の数々をクラシック・ドラマ・アワーとして流す度胸も無い。マンネリ・安易・一過性にばかり安住していては、<一将功成りて、万骨枯る。>どころか、『全社枯れる』の大衰退期に、呑み込まれてしまうかも知れない。活字離れ、映像離れ、テレビ離れが進んでしまっては、この国の行く末が案じられてしまう。

 テレビの要素分析を遣らなければ、テレビ界全体が地盤沈下してしまう。真剣に遣るよりも、真面目に遣れば良いだけである。報道・娯楽・教育の要素・構成、比率を少しは真面目に考えて為されよ。

 例えば、報道分野を取れば、<比較報道>なる時間枠豊富な番組構成をして見るのも、一方法では無かろうか。現状の各局同時放送の一過性報道方式であっては、視聴者にとって報道側の意図の何十分の一しか、歩留まりとしてインプットされまい。庶民コメンテーターの井戸端話でのオウム反し反応では、一角のジャーナリストとして、歯痒い限りだろう。キャスター横のインテリ専門家としても、欲求不満・羞恥の毎日であろう。少しは、プライド・気骨をお見せ為されよ。
密室の出来合いスタジオと異なり、見えぬ電波の先には、考え比較する手強い国民が、鎮座おわしている。高学歴社会である以上、視聴者の視点・観点も高レベルなのである。自分以下のタレント・コメンテーターの単なる感想に、首肯する筈が無かろう。第3の権力マスコミ等と胡坐を掻いていれば、『奢る平氏久しからずや』の泣きを見るだけでありますぞえ。金・地位で、人を靡かせる事は出来ようが、人を説得・魅了する事は出来まい。

 人間の好奇心・向学心と云う物は、結構強いものなのである。掘り下げてくれる者が居れば、人間は耳を傾ける。論を張る者は、比較の上で答えを見出そうと、事を掘り下げる事を試みるものだろうと思われる。専門店とデパート。どちらも必要な業態である。同時・同種の一過性番組作りでは、個性等生まれる筈が無かろう。化粧・衣装で、個性が光るほど世の中は、甘くは無い。しばしば個性と混同されがちな『個体差』は、見慣れれば、哀しいかなすぐさま<光>を失うものでありまする。中身の希薄な個体差などは、外観で糊塗すればするほど、中身の薄さが全面に出てしまい勝ちの結果と為りまする。個性は、真面目な掘り下げに依って、生まれるべくして生まれるものでありましょう。個性に味が漂って来てこそ、人柄・人徳が備わって来る。その雰囲気が、オーラと為って、人を惹き付け魅了するのでありましょう。

  遺憾イカン、いかん。雨が運んでしまった憂鬱日記に為ってしまいました。
    相も変わらず、帯に短し、襷に流しの、賄い夫戯言の数々・・・
                   恐縮の極みでありまする。

心何処ーショート 愚痴も自慢の内?
 タバコの買い置きを買いに行く。美味そうな山ブキが、店頭に並んでいる。ヌカ漬け用の野菜も買う。貧民にして時間があるから、暇潰し仕事に手作り食卓の日々である。こんな姿を女房が見たら、思わず吹き出してしまう事だろう。自作自食であるから、頭の中にある美味い物を取り出して、料理に及ぶのであるから、種類と云えば自己満足の極みのレパートリーである。然も貧民であるから、知恵を出して工夫を施さなければ為らない。分からない事は、老母に聞けば如何にか為る。今のご時世、何と言うのか知らぬが、男にして見れば、小学校家庭科・料理実習の時間の様なものである。
 
 何事も外野不在・世話焼き無しの、マイペースと云うのは、気楽で楽しい物である。失敗作の不味い物さえ作らなければ、それなりの満足感に浸れる。貧民にとっての最大の敵は、残飯整理である。従って、味見は男賄いにとって最大の関心事と云った処である。

 男料理の思い出には、Tとのサイパンの安ホテルでの数日が、面白かった。ホテル・オーナーの台湾人と親しくなって、スーパーが近くにあったから、適当に食材を買って来ては、二人で料理を作って食べた。私は和食系、Tは洋風で手際好く皿に盛ったものである。客観的には、酒の肴料理である。ホテルからは、ホンの数分で海に行けたし、ビールをスーパーで買ってシュノーケルと甲羅干しをしながら、酔った身体を顔だけ海水から出して、カンカン照りの太陽の下、鼾を掻いていたものである。朝は、カリカリに焼いたベーコン・目玉焼き・トーストにバター、昼はソーメンを茹でて、ハムを喰らい、トロピカル・フルーツにビール。夜は分厚いビフテキである。残った卵は、ゆで卵で小腹が空けば、ビールの摘みと云った具合である。物足りないと思えば、通りをぶらついて外食をする。2人ともおっとりしたマイペースの男であるから、お互い不干渉行動である。

          昼寝をしていると、下らない愚痴電話に付き合わされた。
 たかがイミテーション・ラブでは無いか、パスパスの気分である。少しは、俺とTを見習えの気分であった。私とTとは、ホステスの居る店で顔を合わせても、お互いお目当てのホステスが居るから、同席する事も無い。鼻下長でイチャ付いていると、突然、後ろから禿頭を叩かれたり、オシボリが飛んで来るくらいな物である。お互いプライベートで、楽しみに来ているのである。         

 お楽しみプライベート・タイムに、友達だからと云って、お互い割り込むほど無粋では無い。ただ、有り難いのは、女の好みが異なるから、バッティングしない。付き合いの長い関係であるから、そんな外野の潜入でモヤモヤが生じたら、大変な損失を蒙ってしまう。お遊びの乱交は歓迎であるが、好みの衝突は、ブレーキが掛からぬ厄介な領域であるから、御免蒙りたい処である。

 男も女も人間を長く遣っていると、何度かは、そんな嫉妬心に囚われてしまった経験が、出て来るものである。人間である以上、避けて通れない仕方の無い道である。尤も、『もぎ取り』を自己実現の証・満足感・趣味に変えてしまう<困った人間の確率>として、不逞の輩が男女ともに存在するらしい。

 作戦を練った処で、好きと嫌いでは、恋には為らぬものを・・・ 最初の味見が、肝心であろうが。
 戯け者めが、ワシァ、フィリピーナには、興味は無いわ。中年鼻下長族の執着心にも、困ったものである。

心何処ーショート 元気なり、高齢化日本

 菜園続きで慣れぬ事をしてしまったから、些か疲れてしまった。昼寝をする為に、日帰り温泉に行く。来て見て、大失敗である。ご老人衆で、2階の大広間は一杯である。筆記用具を持参したのだが、そんな雰囲気では無い。救急車のサイレンである。窓から覗くと、担架が入って来る。

         おやおや、ご老人、湯中りか、滑って怪我でもされたか?

露天風呂に浸かっていると、ご老人が救急車の顛末を教えてくれた。湯中りで逆上せてしまったとの事である。大分回復してからの救急車収容らしい。夏日と成って源泉を温度調整してあるのだろう、冬と比べると結構温めの温度である。それにしても、予想①に反して、大入りの盛況振りである。ご老人衆は、年間30枚の無料優待券が市から貰えるそうである。別に優待日が、特定されている訳ではない。確率上、こんな日が有っても仕方の無い制度である。連休明け2日目であるから、<若しかしたら>の気持ちがあった。それが、物の見事に当たってしまったのだろう。温泉フルコースのサウナを最後にして、大広間に上がる。蝉時雨為らぬ婆時雨の大反響である。目の保養は、早々に諦めて、座布団を枕に一寝入りするしかあるまい。

 お隣の婆さんは、豪傑である。仰向けにデカイ図体を伸ばして、大きな声で年金問題・捩れ国会問題・行きづり殺人・北京オリンピックと、凄い論調を展開中である。相方を務めるハイカラ婆さんの持ち上げ方が、上手いからボボ・ブラジル然とした婆論士殿は、絶好調の態である。

 こんなコンビへの唯一の対抗手段は、大鼾返しか無いのであるが・・・ 如何ともし難いのが、活字文字の見出し羅列の波状攻撃である。余りの表層解説に、起き上がって論戦を挑んで遣らっかと、神経を逆撫でされるのであるが・・・ 上機嫌の婆様の逆麟に触ってしまったら、今度は私が逆上せ上がって、救急車のご厄介に為ってしまう。仕方が無いから、持参したラジオのボリュームを、少々上げさせて頂いた。流れる演歌に波長を合わせて、暫しの風呂上りの転寝である。

 目覚めると、婆達は、今度は旅行談義に花を咲かせている。バイタリティー溢れる怪気炎振りとしか、例え様が無い。<ご立派!!> 当方の入浴料からにすると、元を取るには物足りない処であるが、場を譲るのが若輩者の努めである。毒抜きの為に、1階の休憩場に行く。此処は、落ち着いた喫茶店風のスペースで、テーブルと椅子、囲炉裏を模したスペースと成っている。落ち着いた雰囲気は、申し分無いのだが、湯上りのリラックス・ムードとしては、都会派なのである。土地の者、ロートルとしては、畳の上で、座布団を枕に高鼾で無いと堪能しないのである。

 帰りに米屋さん経由で、米を買って帰る。米屋の主人との話の方が、私の波長には合う。飼育対象が一つ増えたから、日陰に腰を下ろして一服燻らせる。縁の下に、白砂を入れた袋が有った事を思い出して、鳥篭の下に入れて好物のボレー粉を入れて遣る。

心何処ーショート 歳は取るもの為り

 連休明け外は、本日も鉄板焼けの様なお天気である。連休で鈍った現役諸侯の身体には、動くのが億劫と云った処であろう。昼飯を食べ、日中首脳のニュースが一段落して、さて、昼寝でもしようかと思っていると、苗の支柱を付けてくれとの事である。ムッ・・・ 倅としては、昼飯前に、散歩運動をして来たばかりである。暑くムッとする外作業は、<勘弁願いたい>であった。コンチクショウの気分であるが、何時かは遣らねば為らない養生である。 始める事にする。

 天気が続いているから、植物は炎天下に、首を項垂れ始めた。そろそろ、一雨欲しい処であろう。言い付け仕事をしていると、老母様、洗面所の出窓から、ニコニコ笑顔で覗いている。

 暦では5月の上旬であるが、暑さは夏並である。少し動いただけで、汗が噴き零れる。キュウリ6本、ナス3本、トマト3本、子ネギ1束の家庭菜園である。見栄えを度外視して、角型のキュウリ棚を作り、蔓が張り易い様に、横張に支柱と紐架けを施す。此処まで遣れば、文句はあるまい。遣り終えて、柿の葉陰で胡坐を掻いて、タバコを吸う。作業が終われば、収穫をイメージして、ついニヤリである。収穫イメージの前に、苗は余りに小さ過ぎる。

<ジャックとマメの木>では無いが、早く芽を出せ、葉を出せ、蔓を出せ等と、俺様の言う事を聞かぬと『引っこ抜くぞ』なんて、脅し文句が浮かんで来るのである。昨日、植え付けられたばかりの苗達からすれば、堪ったものでは無かろう。
<ご主人様、それじゃ、全くの八つ当たりじぁござんせんか?>の反発を買ってしまう。言い分、尤もであるから、前言を撤回するしかあるまい。
 
 スモモの下のピンクと白のシバザクラの茂みは、花の盛りを越して萎びた退色を見せている。頭上の日傘を差してくれている、柿の黄緑色の幼葉は、まるで赤ん坊の掌の様な瑞々しさを重ねている。私の好きな庭の風情の一つである。物置横の、何十年も居座っている団扇の様な駄サボテンは、赤味勝ったグロテスクな花茎を、ニョキニョキと太陽に伸ばしている。これも見た目は悪いが、ドライフラワーの様で、羽の様に薄い黄色花は、乾いた季節に、中々の味わいを映し出してくれる。手入れと云う人間の保護から独立した様な庭であるが、適者生存を勝ち得た植物達の生命力・踏ん張りには、何か彼等の強い意志すら感じられて来るから、不思議である。

 水捌けの好過ぎる砂地の庭は、太陽に曝されると、忽ちにして砂埃が舞う。タバコを吹かしながら、小さな菜園をゆっくり追う。昨日、植え付けの折に見付けたセミの幼虫を、申し訳ないとばかりに、慌てて畝の奥に押し込んで遣ったのであった。その前日の畝作りで、剣スコでガッポリ掘り出されて、一夜を無理矢理外に放り出された羽化前のセミである。水をタップリ含んだ地中で、目出度く木の根っこのエキスに有り付けているだろうか。荒ぽい性格で自分ながら、真っ当な市民生活が出来るだろうかと、思っていた私であるが、加齢と共に如何やら慈悲の気持ちが、知らず知らずの内に備わって来た様である。・・・・ 目出度し目出度しとすべき処であろうか?

心何処ーショート 5/6は、何の日?

 朝、キンカチョウの巣を見ると、中に小さな白い卵が一つである。先ずは、一安心と言うべき処か。連休最後に相応しく、天気に恵まれた日である。暑く為らない内に、家庭菜園の苗を、買って来て植える。

 植えていると何処からか、声が掛かった。お向かいのおばさんである。旦那さんが亡くなって、一人暮らしの老人である。<もう歳で、好きな庭弄りも出来ない。>と言う。何かと老母の話相手をしてくれていた親切なおばさんである。<出来ない分、見に来る。>と言う。小さい頃より、慣れ親しんだご近所さんである。日常では挨拶程度であるが、言葉を交わしていると、『知らぬは、我が身だけ』で、此方を好く知っているから、驚きである。おばさんからすると、私は若輩者である。色々とアドバイスを頂戴する始末である。老人衆からすれば、話す事は、健康の秘訣なのであろう。お付き合いをするのも、これまた、若輩者の努めである。

 好天の下、緑に接するのは、気持ちの好いものである。立地上、足りぬ日照時間であるから、垂れる柿の枝を切り落とす事にする。物臭者は普段怠け者に徹しているから、何か事を始めると、その付けがいっきに加算されて来るものである。またまた、オーバー・ヒートに為ってしまった。

 遅い昼寝から目覚めて、猫の額の菜園に回ると、確り水撒きがしてある。私の目の前では動かない老母であるが、まるで忍者の様な動きである。家庭菜園の実質は、老母へのプレゼントである。目の保養、味覚の刺激、運動の足しに為れば、目的達成の段、これで、好しである。

 本日分の日記打ちを始めていると、窓外の砂利路地に音がしている。隣組の一番奥のお宅のお婆さんが、雑草を掻き取っている。昔から働き者で通るお婆さんである。お婆さんは、細い路地の草取りを自分の仕事と位置付けて、曲がった腰で黙々とマイ・ペースで作業をして居られる。拘りのお婆さんであるが、物音を聞きながら何時の日にか、替わって遣らねば等と思っている。隣組も皆、ロートル、高齢者の加齢が進む。

 行楽の潮干狩りに、何万人もが押し寄せる都会地。住めば、都と思い、暮れ馴染む夕刻、誰彼に言われる事も無く、黙々とマイペースで自分の拘りを、実行するお婆さん。<日本人を生きる>と云った曲がった腰の動きは、老人予備軍の小生には、神々しく映る。

 5/5は、子供の日。5/6は、日本の日、老人の日なのかも知れぬ。本日は、中華人民共和国の国家主席の訪日日である。中国主席から日本総理に対して、パンダの番の貸し出しのお土産話があった旨の、短いニュースが報じられた。この速報は、幸福な速報なのかノーテンキな速報なのか、それとも、そんな些事を速報としなければ為らない孤立化に向う両国首脳の胸の内だろうか? シガナイ賄い夫の駄文日記であるが、日記である以上、時事を記す事も肝要である。

心何処ーショート 映画紹介
連休も明日が最後です。退屈な賄い夫日記につき合わせてしまっては、真に心苦しいばかりであります。貴重なお時間、恐縮であります。過去の文から、毛色の違ったものを二題出して置きました。お時間が有れば、お読み下さい。

         <あぁ! 美女中の美女 良き時代は遠くなりにけり>

                      RANDOM HARVEST
 「心の旅路」 米 1942年製作 原作 ジェームス・ヒルトン 監督 マービン・ルロイ
          モノクロ 127分  主演 ロナルド・コールマン グリア・ガースン

 第一次大戦中、戦傷で記憶を失くした英軍大尉が、精神病院から濃霧に誘われる様にして、病院を脱け出す。その最中、終戦の報に街メルブリッジは、沸き立つ。タバコ屋での頼り無げなシドロモドロの挙動不審振りを、店の老婆に通報されて、男は危機を迎える。その危機を救ったのが、旅回りのショーダンサーであった。

 出会いから何と無く惹かれあう男と女。女は仲間の忠告を翻して、男の病気を自分の手で治そうと決心する。そして、官憲の手の届かぬ片田舎を目指す。片田舎クリープドンで、男は女の庇護と献身のもと自信喪失の手探り状態の中で、小説を書き始める。投稿原稿が認められて、男の前途に微かな希望の火が灯る。男と女は周囲に祝福されて結婚、そして男子が誕生する。そんな折、男に新聞社から専属契約の為来社してくれとの電報が届く。喜び勇んでスウィートホームの鍵をポケットに、汽車に乗る夫。瞳の色に似合う色と、プレゼントされた首飾りを硬く握り締めて、ベットで夫を見送る妻。

 リバプールのホテルから新聞社に向かう路上で、男は車に跳ねられ気を失う。意識を取り戻した男は、過去を得た代わりに、現在の記憶を失う。男は、貴族の一員であり実業家の次男であった。屋敷に戻る男。彼の脳裏に、3年の空白が過(よ)ぎる。

 父親の遺言により、実業界でその能力を遺憾なく発揮する男。男の周囲の上流社会は、華やかである。歳の離れた義理の姪が、男に恋をする。然し、実業家としてエネルギッシュに活躍する男の内面は、失われた過去への囚われ人であった。一部の隙も無く着こなしたチョッキのポケットに忍ばせた手が握るものは、クーブトンで3年を暮らしたスウィートホームの古ぼけた鍵である。男のコールマン髭が歪み、頼り無気な陰を落とす。

 積極的な姪の恋心に押される形で、歳の離れた恋は進行してゆく。男は彼女の卒業を待って、婚約をする。それを聞いて、有能な秘書は悲嘆にくれる。後任に採用した美貌の秘書は、彼の妻であった。

 挙式を間近に控えた教会で、最後の細部の打ち合わせに同行する男・・・・・ 若い婚約者が、賛美歌の選択を老神父としている。求めに応じて神父が、次の曲を奏でる。流れたメロディーに、男は正体を見せぬ過去の中を懐かしそうに夢遊していた。・・・・・男に声を掛ける若い婚約者・・・・・
 彼女は、男の中に自分がどう努力しても克服できない、もう一人の女の影を実感する。そして彼女は、男のもとから身を引く決断をする。思いの丈を、告白して足早に教会を去る婚約者の後姿・・・・

 空白の3年間を引きづり続ける男、彼の手の届く所に居て、必死に過去のドアを開けさせようと悶える女の葛藤が続く。そんな中、女は男との過去を『失踪による離婚』の手続きを取る。男の人格・能力・地位は、欠員の国会議員の選挙に請われて、政界入りをする。初登院の祝賀会の席上、男は女に『友情による才能の合併結婚』を申し込む。女は過去を捨てる辛い選択に、愛の復活の希望を賭けて、男の条件を受け入れる。

 名誉・地位を手中にした男と女に、過去を引きづる男、愛に葛藤し続ける女の姿が続く。過去探しの男と女の努力は、ことごとく失敗に終わる。名誉と地位の絶頂の晩餐会、女の愛の乾き・葛藤の緊張が、頂点に達する。愛に焦がれ疲れた女は、男に一人旅を申し出る。頼りたい気持ちを、女への愛ゆえに耐え、彼女をプラットホームに見送る男。男には、仕事が待っていた。

 労働争議に揺れる地は、メルブリッジ。嘗て、男が収容されていた精神病院のあった地であった。争議の喧騒に揺れる街、濃霧、角の煙草屋・・・・男の脳裏に過去が顔を覗かせる。男の足は、濃霧の中を過去に向けて、足早に遡る・・・・・・・・・・・ 居たたまれぬ心の傷を、嘗て下宿としたホテルに過ごした女は、後継者の女主人から、昔を尋ねてきた紳士の話を聞いて、振り返る。

 昔ながらの、小川に架かった煉瓦の橋。その下には滔々(とうとう)と沸き返る流れがあった。白いペンキ塗りの小さな丈の木柵、前庭の下枝を切らずに置いた桜は、満開の花を咲かせている。男はその枝を潜り、ポケットから鍵を取り出して回す。男の、その一部始終を木柵に手を付いて、息を潜めて見守る女。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ドアが開く。            
                  
「スミシィ!」「ポーラー!」「オゥ、マイダーリン!!」
 
                                     The end

 名作中の名作である。大人の純愛の物語である。このビデオ・ムービーに出会ったのは、幸運中の幸運であった。大学時代、授業から帰って、ふと付けた白黒テレビで世界名画劇場?と云う番組を放映していた。大変古い名画の数々を平日の午後放映していたのである。その中の一本であった。男優も女優も一度も見たことは無かった。然し、ラストシーンは鮮明に覚えていた。私のビデオ漁りも、感動の名画と遭遇したいとの願望の裏には、この名画に遭いたいと云う潜在意識が働いていた。是非とも入手したいと思っていた作品である。とは云うものの、探し出す記憶の欠片(かけら) 即ち、題名・俳優名・監督名すらも無かったのである。まるで、雲を掴むような頼り無さである。ふと、RANDOMに立ち寄ったビデオ屋で、古典ライブラリーなるコーナーに目が留まり、表紙の解説と俳優の顔を見て購入したものである。
 
早速ビデオを回し、要所々のシーンに眠っていた記憶が蘇る。圧巻のラストシーンに、思わず拍手喝采であった。30数年振りに再会した名画は、色褪せずに文句無しの逸品であった。
その逸品ぶりは、後の1957年のケーリー・グラント、デボラ・カー主演の「めぐり逢い」での、1年後の再会を約束したエンパイア・ステイトビルを目前にしたカーの交通事故が、巻き起こした恋の行方の暗雲に引き継がれている。監督はマービン・ルロイ。主演 ロバート・ティラー、ビビアン・リーで不朽の名作と称される「哀愁」40年・「若草物語」49年を世に残したメロドラマの名手である。

 何の説明も要しない逸品である。とにかくガースンが美しい。前半の匂うばかりの美しさ、後半の能面を被った様な凍りついた美しさ、ラストシーンの目尻の皺に流れ落ちる涙の美しさ・・・・・
モノクロ映画の陰陽の美しさ・集中力。周囲の善人達が、美男・美女に贈る『純愛の極致』
嘗て、映画は、美と正義の華であった。

 私が物語のあらすじを書いたのは、これが生まれて初めてである。私の感想などは、どんなに気取って書いた処で、あらすじには遠く及ばぬ処である。あらすじを以って、私の感想文とする。

 尚、原題のRANDOM HARVESTは、直訳すると「手当たり次第の結果」となる。手元に英和辞書が無いので、ろくな訳語が見つからず、お手上げ状態なのが残念である。日本人であれ、外国人であれ、題名は物語全体を象徴するキーワードである。
 邦題「心の旅路」は、ストーリーの流れに沿った叙情・情感にぴったりの日本人好みの名訳である。一方、「RANDOM HARVEST」と英国人が付けた原題は、どうしても日本人の私にはミス・マッチなのである。然し、英国人からすれば、物語を象徴して核心を突くキーワードなのであろう。RANDOM=手当たり次第 に込められた男女の軌跡は、ある意味では叙事的に退いて眺めれば、RANDOMな行動選択に見えなくは無い。
 運命に翻弄される人間の行為・行動は、人間のその時の拠って立つ状況に依って選択される。選択された行為・行動の軌跡は、『運命と云う抗し難い生き物』の目からすれば、確実な方向性・結末が予定されている『筈』のものである。然し、無関係・無関心な者の目には、チグハグな手当たり次第なものにしか映り様が無い。・・・・RANDOM HARVEST

 東洋人?は、『運命』と書けば、そこに『謎めいた力・抗し難い大いなる因果関係』を『連想』して『気持ちの上で納得』してしまう。日本人の情感・人生観が『心の旅路』の叙情句を、反射的に共有してしまう。その伏線が、男女の運命的な出逢い・闇・葛藤・結末の明暗を意味付けてしまうのである。つまり、運命と個人の力・努力を比較すると、文句無しに『運命の巨大さ』を意識してしまうのである。
 西洋人?は、英国人?は、飽く迄も個人確立的(アイデンティティー)である。例え、相思相愛の男女の間に、『運命の賽』が不意に投じられたとしても、運命に敢え無く沈むも、そのハンディを克服するも『個人の力』なのである。運命の大波に幾多の障害があろうとも、また重なる程、そのハンディを克服する『人間の意志の強靭さ・一途さ・気高さ』が人間の価値を際立たせるのである。運命と個人の力を比較すれば、彼等は個人の尊厳の輝き・強さに拍手喝采を送ることであろう。
 ・・・・・小生は、論考を進める上で、意識的に断定文を多用しているだけである。読者はそれが目障りならば、自分の感性に従って断定部分を読み替えて下されたし・・・・・

 手当たり次第の結果が、最高の結果を生んだ・呼んだのである。英国人の『逆説的ネーミング』の裏に、運命に翻弄され続けた果てに掴んだ
「スミシィ!」「ポーラ!」「オゥ、マイダーリン!!」 に集約される運命の出逢い・一途さ・激しさ・葛藤の悶えを描写する事で、映画は『純愛の極致』を見事な迄に表現している。この逆説的ネーミングがハリウッドの感性なのであろうか?
 日本人の浪花節・叙情の世界に憧れ、どっぷり浸かる小生には、どう捉えて好いものか、感性の違いを浮き彫りにする難しい問題である。

心何処ーショート 変わり無しや?

<おっ、通常の動きであるか。>  私の方は、未だ動きたくない気分である。タバコを何本か吹かした後、居住区の空気の入れ替えをする。本日、曇天にして風の抜ける日である。昨日の作業終了の余裕で、<今日の方が、作業日に打って付けであったな。>などと、バカ丸出しの結果論をほざいている。廊下突き当りの洗面所の窓から、作業結果を眺めて、素人にしては立派な出来である。<作品とは、感性と腕力の賜物である。>と、これまた自画自賛の一服である。

 老母の部屋の前の牡丹が、赤い蕾を膨らませている。庭木の整理をしたから、日陰だった植物達にとっては、今年は、眩しい太陽の訪れと成っているのだろう。牡丹が咲き、ピンクの五月が咲き始めれば、動きの儘為らぬ老母も、廊下の椅子に凭れて、日長まどろむ時間も持てよう。

 洗面・歯磨きをして、物言わぬ保養対象の餌遣りをする。ポットの湯を沸かしながら、洗い物をする。学生時代の自炊生活を思い出す。違う処と云えば、億劫だからとサボタージュする事が出来ない。<コンチクショウ、阿呆臭、止めた!!>と、老母にアタル訳にも行かぬ処であろうか。・・・・ これも、加齢・一人身で覚えた自制心の一つである。

 さてさて、腹も空かぬ朝食である。中途半端であるから、軽くお茶漬けで済まそう。ヌカ漬けの床を掻き混ぜる。表皮の固い安物ナスが、ごっそりである。不味いと言って、捨てる訳にも行かぬ。何か誤魔化し方を考えるしか無い。

 船場・吉兆の様に、高級食材をふんだんに使って、不特定多数のグルメ連に絶品料理を提供して、高いお代を頂戴している商売では無い。

 庶民の食材の使い回しは、生活の知恵である。丼一杯のナスを引き上げて、ぶつ切りにして水気を絞る。削り節をワンサカと盛って、上に砂糖と唐辛子を醤油で溶いてぶっ掛ける。次いで好く掻き混ぜて、味見をする。ヌカ漬けは、日本が誇る伝統の乳酸菌食品である。悪くは無い。素朴な郷愁をそそる味に整った。食卓に出すと、ご老母様の箸も好く動く。

 庭に出て、草むしりを開始する。畝作りに盛った土の引き算で出来た窪地に、庭の落ち葉堆肥の集積場として、作業を進める。物臭ロートルの作業に、お天等様のジャッジは、雨の様である。5/5、子供の日である。溌剌とした子供の躍動感には、相応しく無い行楽のお天気模様であるが、約束を反古に出来ぬ親御さん達は、どんな気分でお出掛けであろうか・・・
 
 私めは、嫌に為らぬ内に、見慣れた風景の中をブラリ・ブラリと歩いて参ります。

心何処ーショート 遣れば残る


             日に日に、緑は広がり、色を濃くして行く。
 見えない世界、如何なるか? 先の分からない物とは、結果からすると可笑しな物を見せてくれる。川の水の汲み置きが無くなったので、汲もうと思っていたのであるが、この二日程、水は薄濁りでパスをしていた。ゴミ出しついでに川を見ると、澄んでいる。長靴に履き替えて、バケツに一つ汲んで来る。二つの水槽の水は、透明水と白濁傾向の水である。二つの水槽の水を、半分ヤケ気味に交互混交した後に、普段は稼動させていない上面濾渦器で濾過して見る。伸び放題の水草の茎を半分に千切って、板錘で巻いて小水槽に入れた。散歩から帰って来ると、両水槽共に、同程度の透明水に様変わりであった。シメシメの段である。

 ヤケのヤンパチ為らぬ、ヤケが運んでくれたビックリ玉手箱であった。バクテリアの浄化作用は、適者繁栄のミクロの世界の出来事であるから、2槽のバクテリアの配分が成功すると、その効果は歴然たるものがある。浄化の大まかな組み合わせからすると、温度・ばっ気・微生物の種類・量に依って、左右される結果らしい。素人としては、調べ様が無いから、たまたまの<神秘の悪戯>に、暫くの間、気分を好くしているしかあるまい。

 タバコが切れたから、スーパーで買出しに行く。昨日、今日と老母は、床に伏せった儘である。朝飯抜きの昼食の支度に掛かる。夕方、自転車でプリンターのインクを買いに行く。ホーム・センターにも、インド人・白人・フィリピン人・中国人と外国人の姿が、日常的に見える様になって来たものである。釣具コーナーで、毛ばりを探そうと思ったが、釣具コーナーは無く成っていた。釣具の専門店を、覗かねば為らない。儲からない物は、次々と姿を消して行く昨今である。野菜の苗コーナーが、盛っている。連休明けに、買いに来ようかなどと考えて、自転車に乗る。

 確り昼寝をしてしまったから、ヨタカ状態である。パソコンでCDを聴きながら、夜を過ごす。四畳半の住人達には、いい迷惑である。過ごし易い温度であるから、一人の気安さか、闇に浮き上がる深夜の時間は、落ち着くものである。ミュージックだけのCDであるから、歌声・歌詞に気を止める事も無い。タバコを蒸かしたり、ポットの白湯を飲んだり、チーズを食べたりしている。部屋は、蛍光灯と手元のスタンドの明るさである。頭の中には、本日のニュース等が入っているのであるが、それらを引き出して、反芻する気も湧いて来ない。エアポンプの鈍い音が傍らにあるが、スタンドの明かりの中を泳ぐグッピイ達の前に、それは気に為らない音である。眠気の訪れを待つ時間、いい加減な気持ちだけで、パソコンのボードを叩いているだけである。

 こんな時は、暇潰しにコンビニでマンガ本でも買って来て、パラパラとページを捲っていれば、何と無く様に為るのであるが、生憎、最寄の店は、店終いをしてしまった。やくやく買いに出掛ける気は、更々無い。する事も無く、ボケーとしている時間も、悪くは無い。

 朝から暑そうな太陽である。日曜日であるから、食後の時間をテレビで見ていると、携帯が鳴っている。Tが昼飯でも食べに行こうと誘ってくれた。慌てて、シャワーを浴びて、無精髭を剃る。Tは、Tシャツ1枚である。近い所で、ジャスコで飯を食べ、オープン・ショップでコーヒーを飲む。鼻摘み中国・中国人が、話題の大半を占めてしまった。
 大らかな男にしては、珍しく<糞みそ>の発言であった。バンカラ男子高世代の我々にとっては、常識の埒外に居る輩は、日本人にしろ外国人にしろ、想像外の生き物でしかない。頭には来るものの、厳として拘りたくは無い輩共である。Tも、一人娘に女の子が生まれて、『爺様』に成ったそうである。2時間強を話して帰って来る。外は、真夏の様な暑さである。アスファルトの熱気に、些か白旗の態であった。庭の草むしりを予定していたのであるが、あっさりパスを決めて、夕刻時に回して暫しの昼寝タイムとする。

 日が翳って、さて作業開始である。重い腰を上げなければ、事は始まらぬ。嫌々ながらも始めれば、『中途放棄』では男の沽券に拘る。スコップでガッポリ掘って、落ち葉を運び込み土を掛けて、水をタップリ撒いて、畝作りをする。ポタポタ落ちる汗に、息切れの連続であるが、これも賄い夫の仕事と割り切る。苦役は、引き算である。遣った分だけ、苦役は減殺されて行く。
家庭菜園は、老母の季節を確認する楽しみの一つであったのだから、嫌とも言えぬ倅の勤めである。途中で止める訳にも行かず、最後まで遣り通すが、もう行けません。息が上がってしまい、長々とヘタリ込んで、夕食の支度を30分後退させる。
 
 数日置いて、トマト・キュウリ・ナスの苗を植えると、これまた、1日にメリハリが付与される。面倒であるが、物臭男の日課管理方としては、自分を追い込んで行かないと、メリハリが利かないのである。頼る者、責任を転嫁する者が居ないと、誰にも文句も云えない苦役を、実行するしか無い処である。まだまだ馬力は有る様で、胸を撫で下ろした次第である。夏に成ったら、恒例のキリギリスのケース飼いを一工夫して、この場所で野外飼いでもして遣ろうか等と考える。何時もは、飽きて来ると、キリギリスを庭に放して遣る。キリギリスは、ご近所を巡ってギース・チョン、ギースと遠く近く、夏の声を長々と聴かせてくれるのである。

心何処ーショート 風薫る5/3

<おいおい、大丈夫かいな!!> 生まれ始めたら、アレヨアレヨと云う間に、芥子粒軍団の結成である。芽吹きの春とは、良くぞ言い当てたもの。池や川で好く見掛けたメダカの群れを髣髴とさせる。小水槽の小世界と云えども、冬の後には、命の春が満開と成っても当然のサイクルなのである。飼い主・管理人のロートル人間には、一気に膨れ上がった扶養家族の出現に、ただ面食らってしまうばかりである。歓迎致しまする。グッピィ殿、お励み為されませ。

 本日は暑くなるそうで、玄関の戸も朝から開放にしている。後期連休のスタート日、勤め人なら、日常の慌しさからの開放とばかりに、息抜きの温泉に浸かりに行く処であるが、こう暑いと熱い温泉はパスの気分である。テレビもラジオもパッとしない。釣りに行くにしても、時間が遅過ぎる。気分直しに、隣の机に移動して涼しい風に身を当てる。ついでに手元のネィチャー・サウンドのCDを掛ける。たった1mにも満たない体の移動であるが、気分が大きく変わる。不思議なものである。モーニング・コーヒーの代わりにワインを少々飲んでしまったから、気分はほろ酔い気分に向かっている。

 パソコン打ちも面倒であるから、久々の万年筆を手に取る。先ずはロシア製スポイト式万年筆のキャプを外して、ロシア製グリーンインクを吸い込ませる。辺りを見回して、活字スケッチの対象物は、何か無いか?などと、タバコに火を付ける。目の前に二つ並んだ水槽は、100%川の水である。東と北の窓は、開放してある。勢い好く吐出される空気の噴水が、小気味好く水面にピチピチ音を立てて弾けている。弾けた空気球から、川の匂いが風で運ばれて来る。CDからは、頃合のせせらぎの音をバックに、深山・森の中の小鳥達の囀りが流れている。風の吹き抜ける四畳半の小部屋は、妙な臨場感に包まれている。これは、ワインの恩恵ばかりでも無さそうである。
 
 窓外の前庭は、すっかり緑が勢いを増している。殆ど野生化してしまった背丈の低い苺には、白い花が咲いている。薄紫の花の終わったハナカイドウが、枝先の幼葉の緑に陽を揺らしている。その横には、長らく惨めさを曝していた紫陽花が、スクスクと緑のアーチを伸ばし始めている。地面には、オダマキ・ムラサキツユクサ達が、雑木の木陰で逆光の緑を揺らせている。目を上げれば、青みの空に、大きな白雲が流れている。

 ペンをシェーファーに替え、CDをテープに切り替えて、フランク・シナトラのスロー・バラードを聴く。

 今春生まれの可愛げの残るタニシが、体重を感じさせない身体を、透明に為った水槽壁面をスゥーと上昇させてる、そして、宇宙遊泳の様なスローモーションを見せて、身体の方向を90度回転させる。今度は、細い糸にも満たない微かな2本の触角を伸ばして、何かを感知したのだろうか? ゆっくりと壁面を横に移動し始めた。

 窓辺に寄せ来る風は、中と小にダイヤルを合わせて、実に心地良い。小鳥の番も、味気の無い玄関に置かれていては、季節も味合えぬ。窓辺に置いて遣る。

 好い気分にどっぷりと浸り切っていると、突然、上から、野暮なカラスの鳴き声である。鳴き交わす乱入者のガサツ声に、窓から身を乗り出して<コラ、バカタレ、静かにしろ。>と、此方の意志を伝える。

 通りのアスファルトの地熱の上昇を伝える風が、時折混ざるが、静けさと、植物・小動物に動くこの雰囲気は、さながら公園・山中の吾妻やのそれに近い。タバコの紫煙に過去を辿れば、同様な気分を作ってくれた風景達が、脳裏の映写機を回してくれる。それらのシーンは、時として映画の一こまの様に、鮮明である。舞台装置の小道具までもが、相手の顔・仲間の顔なども伴って、会話なども思い出させてくれる。つくづくと人間の記憶とは、有り難い物である。

 そう云えば、<風薫る五月>の形容詞があった。誰の作、何時の時代の言葉か? 一向に知らぬが、『端的に旬の風情』を言い得た表現である。風薫るの中には、嗅覚と視覚、それに聴覚も含まれている感情・肉体の喜びさえも連想させる形容句である。自然の風情から日々疎くなる経済動物人間の姿・行動である。風薫るの中に、嗅覚しか感じ取れない社会の有り様である。

 何処ぞの中国紙報道に依ると、5/6の中共国家主席の訪日に際して、緊急の日本人アンケートを実施した処、大部分(85%)の日本人が、両手を挙げて某国主席を歓迎しているとの事であった。彼の国は朝貢外交を国是?としているらしき節のあるお国柄である。国内PR向け海外報道も、此処までするか?であるが、自作自演の、ご多聞に漏れぬ朝貢(党貢)への貢物の一つなのであろう。ハチャメチャの一人踊りは、ガサツカラスより性質が悪い。

          ワシァ、本当に、片田舎の貧民で好かった。
中狂国・中狂人に、話を合わせなくとも好いのであるから。<私、アナタノ国、嫌い。アナタ性質(達の性格・行動)嫌い。>と、私には普段着で、正直に言える自由がある。

さてさて、本日日課も達成の感である。駄文に徹すれば、駄文もタノシカラズヤでありまする。
Copyright © 心何処(こころいずこ). all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。