旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処ーショート 卯月最終日

 日本列島、夏日が多くなるとの予報であった。本日、窓・戸は、朝から開放し放しである。下駄を履いて、側に降りると、翡翠のズングリしたコバルト・ブルーの飛行体が、川面を下に流れた。不意と云うか、タイミング好くと云うか、散歩早々に、好い物を見せて貰ったものである。川の水は、田に水が張られたのか、幾分の濁りが見える。桜・桃の花が終わった木々は、薄い黄緑の色彩を枝々に現わして来た。葦の枯れ群には、今年の緑が伸びて来ている。花霞の盆地は、遠く近く中間色の水彩画の色である。上下の橋の下では、若者達の野外コンパの段取りが進んでいる。長閑とは少々言い難い暑さである。フゥー、暑い。緑の成長スピードの速さには、舌を巻くしか無い。こう暑いと、散歩時間を変更する必要がありそうである。

 散歩を終えて、昼食後は、DVD・ムービーを子守唄替わりに、怠惰の大の字である。ニュースに依れば、本日ガソリン税復活の衆議院決議との事である。遠出をしているドライバーは、何時に無く燃料メーターに視線が行ってしまう処であろう。財布を握るのは、女房族が多かろうが、ハンドルを握るのは、亭主族が多かろう。リッター当り、30円強の痛い違いは、次の給油時である。GW後の財布の中身は、散財後の中身である。日常生活に戻っての散財補填の給料日は、先の先の日数である。ガソリンが無ければ、車は動かぬ。スタンド掲示のガソリン高騰価格に、苦虫の舌打ちの大合唱が続く事は、必至である。老人切捨て・無駄遣い公務員・自民党政治憎しのマグマが、深厚(進行)して行くのは、無理からぬ世論と為るしかあるまい。ハンドルを握る比率は、きっと男族の方が多かろう。公費呆けした官僚・政治家には、見えぬ一票、一票を握る男族はハンドルを握って、ガソリン代を自分の財布から支払う者達である。親方日の丸の公務員・議員の金銭感覚が、痩せ細りの庶民の金銭感覚によって、鉄槌が下ろされる好い機会である。

 歴史の転換期を肌で感じ、そのメカニズムを日常の庶民感覚で捉える事が出来る機会は、短い人生にとって、早々は訪れてくれない。若し、近々中に官僚政治体制が、歴史の中に没すると為れば、地震のメカニズムでは無いが、予兆・余震がサイクルを縮めて集中している昨今の世相である。本日、卯月最終日。<卯>はウサギであるが、私には何故か?<卵>に見えてしまう。
 
 消えた年金記録から始まった参院選挙、食品偽造、毒入り餃子、中国の正体暴露、政治色だけの北京オリンピック聖火セレモニーの下、ハタメク大中国の赤旗の喧騒、捩れ国会盲々の醜態集団、テレビ政治寄席の大盛況、三日天下為らぬ30日天下のガソリン特売セール・・・etc
 指導者不在の解説者・コメンテーター流行の世相としか、形容のしようがない。そう云えば、昨年の大河ドラマの題名が、<風林火山>であった。長野を埋め尽くした赤旗の一大テーゼが、<造反有理>であった筈である。何れも、強い指導者の下での、テーゼであった。然し、時代を経た現代日本である。冷静さと判断力が、日常の生活に根付いている。『卵』は熟したのである。 
 個々の庶民の投票行動で、<風林火山>も<造反有理>の風が吹き、実益が叶う時代なのである。新しいニュースでは、上野動物園の<パンダ>が、死んだとの事である。

 <何かが、確実に動き出している。> 勿論、霊感など有る筈の無い、賄い夫の感想である。
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心何処ーショート 天下泰平 

 昨夜は寝付かれずに、ラジオの深夜便を聞いたり、タバコを蒸かしたりの散々な夜であった。身体に負担の無い毎日を送っているから、体力と休養のバランスを、何処かで調整する為に、こんな夜が、定期的に訪れるのであろう。これも、自然の成り行きと苦笑いをするしかあるまい。仮睡眠程度の寝覚めであるが、起きる事にした。居住区の空気の入れ替え、小鳥の餌と水を替えて遣り、昼の定位置に置いて遣る。

 庭の柊の下の山ツツジが、柔らかな緑の葉の重なりの中に、赤い蕾を大きくしている。背丈を伸ばし切れずに、広がりを下へ下へと伸ばして、陽を得ている。そんな山の風情を切り取って来た様な存在である。庭木の中でも、気に入っている植栽の一つである。
 考えて見ると、無理やり引き抜かれた山ツツジは、此処に根を張って彼是30年近い。東京の水は合わないと、大学を卒業して地元で就職した。独身時代の休日は、しばしば山中の湖・池で釣り糸を垂れていたものである。自然の好きな母であったから、好く母も連れて行ったものである。私は釣りを、母は野山を一人散策して、山菜を摘んで居たものである。お互い干渉し合わない処が、実に気楽であった。  
 そんな折、気に入って掘り起こして来た山ツツジが、これであった。川に面した我が家の土は、見事に川原の砂礫土の様である。土より石ころの方が、圧倒的に多い。従って、痩せ地である。養分の止まれない地中では、腹が満たないのは当たり前の事である。遅々として進まぬ成長は、その分だけ庭の様相が、飾らぬ野趣を帯びて来る。それが、私の好みである。

 言葉の通じぬバカ鳥は、ハコベを巣材と勘違いして、セッセと運んだり出したりしている。交互に水浴びをした後は羽繕いをして、乾けばオスは、ブンチャカ・ブンチャカ・ピィーピィーと、ラブコールを送って、メスの上に飛び乗っている。衣食住足りて、天下泰平の様である。

 朝食後、自転車に乗って、米屋・スーパーを回って来る。米屋の主人は、庭の手入れの最中であった。声を掛けると、早速事務所でコーヒーを入れてくれる。お互い土地の言葉で、世間話である。奥さんが顔を出して、ロートル・トーンのコーヒー・ブレイクである。夫婦共、私の顔をシゲシゲと眺めて、如何して俳優に為らなかったのか?等と、述べ給う。男らしい顔も体格も、声も立派、何よりも雰囲気が素晴しいとお世辞を頂いてしまった。謙遜する歳でも無いので、正直に、<ヘヘヘ、俺、国際的にも通じるらしいよ。>等と、見栄を張ってしまったから大変である。一気に俳優さんの敷居が低くなってしまった。お互い歳を取ると、言いたい放題の落語長屋の軽口を、叩き合ってしまうものである。素晴しい五月晴れの下、バカ話が大いに弾んで、好い男・好い女が、これだけ揃っているのだから、<ロートル・米屋の夕日>でも、自主制作をしようか等と、盛り上がってしまった。聞けば山崎監督は、バンカラ男子校の後輩に当たると云う。コーヒーはお茶に替わって、外に椅子を並べての談笑である。従業員さんも、加わって皆が主役の構想を、ゲラゲラ笑いながら、ロートルの一時を過ごして帰る。これも、真面目に働いた人生のご褒美かも知れぬ。好天は、開放感を運んでくれるものらしい。

心何処ーショート 静かなるは、至福の時

 朝、起きると鳥篭を玄関から四畳半に持って来る。玄関と比べると、明るい部屋であるから、小鳥達も嬉しいのであろう。オスは羽繕いをしたり、美声とは言い兼ねる囀りを繰り返してくれる。メスは短い単発の声を上げながら、餌を啄ばんだり、落ちた羽毛などを嘴に咥えたりしている。オスの囀りに時々、メスが白い斑点の入った黒い尾を左右に細かく震わせて、灰色の身を低くする。交尾の催促である。番は、夜は餌バチの中で、寄り添って寝ている。互いの体温の交換が、睦まじさを膨らませているのであろう。意外と体温の交換が、哺乳類の発展に寄与しているのかも知れない。
<思い当たる節がある。つい、ニヤリの段である。> 別に発情に眼が眩んで、チャカチャカしている素振りも無い。到って日常の素振りをしている夫婦の感じである。水槽の住人達も、極々日常の動きを見せているだけである。

 人騒がせな聖火も、北朝鮮に渡って、後は中国国内を巡るだけである。当分、静かに為る事であろう。昨夜は、就寝前の一時を、御仁様の癒し映像・<カサブランカ>他で、ハンフリー・ボガード、イングリッド・バーグマンの男と女の情感溢れるシーンを、『静かなる事、至福の時』とばかりに、貰い物のシャンパンを口に眺めていたのである。ラジオを聞きながらの、想い付いた儘のパソコン打ちである。何が打ちたい、と思っている訳でもない。打ち手が、いい加減を地で行く男である。打ち終って見なければ、分からない日記綴りである。

<おやまぁ、又、何を仕出かした物やら・・・> 
聞けば、現職警官が、店内で携帯電話のカメラで、女性のスカートの中を盗撮しようとして、御用と成り、証拠の携帯電話を足で踏み潰して、証拠隠滅を図ったと言う。

 冷めたコーヒーを前に、開いた口が塞がらぬ。私も男であるから、女体への関心はあるが、妄想は妄想に留めて置いた方が、楽しい妄想は勢いと過激さを増す物であろうが・・・ <意馬心猿>男と、普段蔑まれている私にした処で、妄想を実行する程、精神と神経の束が、寸断・破壊されては居ない。私一人しか居ない部屋であるから、妄想連想を試みる。

 職場でのこんな部下を持ったとしたら・・・ 仮に私が上司としたら、如何したら良からんべぇ~の思いである。<バカヤロウ!!身分を弁えろ、恥を知れ!! 懲戒解雇!!>
と、目を三角にして一喝するまでは簡単だろうが、その後のまともなお説教が出来るだろうか? 拳銃自殺も相次いでいる。インサイダー取引で、5000万円の泡銭を稼ぐ証券最大手の中国人エリート社員。競艇に公金10億円を注ぎ込んで豪遊した公務員etc、管理責任を問われて、汗だくの額下の目元が、心なしかオドオド笑っている。不祥事連鎖のニッポン列島である。人間から自制心の崩壊が、日々加速されている昨今。組織内にあっては、『綱紀粛正の徹底』の言葉が表現される処であるが、完全に地に落ちた<綱紀粛正>の文言である。人の心から、精神・神経のタガもメリハリも、外れてしまった感じがしてしまう。弟の口癖では無いが、<こんな世の中、もう日本じゃない。老後は、気の合った連中だけで、日本脱出しか無い。一緒に長閑な外国で、晴耕雨読で暮らそうぜ。>・・・そんなボヤキが、つい耳に着いてしまう。

 本来、活字嫌いの私が、楽なテレビを見なくなってしまった。自分の部屋で見るテレビは、専らクラシック・ムービーの映写装置と為ってしまった。歌の殆ども、オールディの始末である。個人的には、御時世を嘆く前に、それらの物の方が、価値が高いと感じているから、不都合は更々感じない処であるが、真面目に考えたら、タバコを吹かして居る場合ではない。武闘派の私は、日の丸の鉢巻をキリリと巻いて、家宝の日本刀を引っ提げて、憂国の行動をしなければ為らない処である・・・ ご安心あれ、妄想の続きでありまする。

 軽薄なジャリン子芸NO人に、画面は占拠され、全盛期の崩れ日を引き摺って、ただ居座るだけの大物タレント・司会者の御大振りである。民放と雖も、電波は公共物である。老醜は、傍目からすると見たくは無いものである。

<ご同輩諸侯殿、世の中に、伊達に定年制が存在する訳が無いのでありまする。居座り続けていては、後進の芽を潰す悪行ですぞえ。政治家の保身を糾弾する側が、鏡に映る我が身の老身が見えぬ様では、困りまする。これを称して、色眼鏡・曇り報道と申しまする。精神の青年・働き盛り等の戯言は、慎み為され。外観の衰えを甘受するのも、見せる事を職業とする者の嗜みの一つでありますぞえ。老後・老境を愉しみ為されよ。我々世代には、多少なりとも、『散るを潔しとして、桜花を愛でる』気風が残っているでありましょうや。小生、罵詈雑言の類は、不得手とする処でありまする。>

 規制緩和・成果報酬などと耳触り・口触りの良い言葉だけを並べ立てても、魂の抜けた言の葉は、虚しく空を舞うだけである。虚言だけが、虚空を舞う社会に、足が地に付いた人間の動きが、記され様も無い。言葉に表情を付加するのが、人の行いなのであろうが、言葉と表情のお手本と為る映像(ドラマ・ドキュメント・映画)が、日々姿を消して行くテレビ画面である。映像が訴える力を失えば、画面の前に座る人の数も失せる。訴える力は、当然、反響・波紋を生んで人と人の間に、言葉と感情・思いを交換するものである。その交換が、社会の意識を育む作用を担うのであるが。テレビの映像と云う総合媒体の本来の力を殺いだ原罪は、携わる者として、実に大きかろう。

 交換の意識から、分断・寸断の無意識が、社会を覆い始めている時代に、21Cの日本は、首を突っ込み始めた様子である。これもまた、現代に生きる証の一つであろうか・・・

  さてさて、散歩のお時間でありまする。ボロが出ぬ内に、本日の打ち止めと致しまする。

心何処ーショート いい加減に、目覚めなされよ

 賄い夫、毎日が日曜日と言っても、気分的な息抜きが欲しいのも、人情である。勤め人をしていた頃を思い出して、本日はテレビを見ている。聖火リレーは、海を渡って8000人の警護態勢下、韓国で行われるとの事である。本日、日曜日は昨日の長野での聖火リレーが、画面に目白押しである。知らぬ内に嵌ってしまった<中国・中国人ウォッチャー>の一人としては、見て置かなければ為らない努めである。番組構成上、欠席裁判は、言論の自由を保障する上からも、許されない片手落ちの沙汰・・・ 中国・中国人を代表して、日本の大学で教鞭を執る中国人学者が、コメンテーターの一翼に並ぶ。集中砲火を浴びて、彼等は顔を引き攣らせた自己弁護に躍起と成っている風が見受けられる。高拝金主義・低モラル・高言い訳体質が、随所に露見してしまう現体制・政権のスポークスマン振りは、見ていて醜悪・滑稽の工作員の沙汰でもある。

 善しに付け悪しきに付け、隣国の大国の実態が、日常テレビの中でこれ程、広く一般人に学習出来様とは・・・・ 皮肉な言い方であるが、文句無しの学習効果を日本国民・全世界に示しているのである。<閣下、足掻けば足掻く程、異質・歪さを雄弁に宣伝してしまう悪循環ですぞ。ご自重為さいませ。> 否応無く付き合いをして行かなければ為らない張子の大国・中国である。<転ばぬ先の杖>として、対中国・中国人への指針の一つに為る事は、<自明の利>(理)である。

 一連の中国・中国人のハグラカシ論法・言い訳論法・無反省・狭偏過ぎる煽り行為・行動の裏、或いは彼等の思考回路・行動パターンには、或る原理が流れている様に思えて来る。当初、彼等の捲し立てる性急な漢字単語の速射砲と尊大とも取れる態度に、日本人とは、<似て非なる東洋人>を感じていたのであるが、・・・ この頃は、些かの学習断片が、積まれて来た。

 遅々として進まぬ6ヵ国協議の議長国采配、毒餃子問題、聖火リレーでの改善策の無さに、若しかしたら、彼等中国人の中には、平等な立場に立っての言葉による問題解決能力、ひいては自治能力・発想が無い。若しくは必要と考えては居ないのでは無かろうか? との疑問が、広がって来てしまった次第である。
 
 考えて見ると、揉め事・紛争を解決しようとすれば、現状認識を共有する事から始めなければ為らない。ある事実・事象を前に、人は其々異なった感想・考えを持つものである。次いで、其処から其々の有利に運ばせ様とする思惑が、少なからず生まれる。目前の解決すべき問題解決に際して、<同床異夢>であっては、問題解決に端緒にも付けない。従って、次に執られるべき方策は、<小異を捨て、大同に着く>と云うスタンスであろう。このスタンスこそが、問題解決能力であり、組織に於ける自治能力なのである。

 適当な譬えが思い浮かばないが、自らが問題提起者であり、自らが検証者であり、自らが問題解決者の側面を担うのが、参画意識・行動・参画責任と云った主体性こそが、自主・独立・自治と云う民主的な柱にして、ルールなのであろう。
 この場で先ず必要とされる物は、相手の言い分を聞いて、理があると思えば採用する。此方に理があるとすれば、相手を説得する。合意点・妥協点・落とし処を模索して、策を提案して、合意事項を実行する事で、問題を解決して行くしかあるまい。紛争当事者間の相互言い訳・相手への攻撃ばかりでは、当事者間では問題は、解決する訳が無い。これも、<自明の理>である。

 双方が、際限も無く非難・誹謗・言い訳・すり替え論を捲し立てる事に、意味があるとしたら、如何なる『理由』だろうか? と思った瞬間、思い浮かんだイメージがあった。

 イメージを多少肉付けすれば、まるで、その様は、裁判での紛争当事者の自己主張の有様である。判断を下すのを、裁判所に預けてしまえば、当事者としては、有る事無い事、頭にある事、感情にある事、全てを主張しなければ、相手に言い負かされてしまう。この様は、しばしば幼児の兄弟が、審判者である親の前で、自己主張に口から唾を飛ばしている様相に、何処か似ている。

 そう考えると、大中国の歴史は、漢民族と他民族との征服・忍従と捉えれば、(当然、現共産党支配も入る。)何時の世にも忍従を強いられる庶民、詰まりは、絶対的権力を握る征服者だけに判断機能を奪われている者達が、征服者の前で取る<一番簡単・確実な方法>としか映らなく為ってしまった。これが中国人の精神構造を律する歴史的・社会的因子であるから、同情しても良いのではないかと言うお人好しグループも居ると思われるが、私は『冷たい人間』である。

 教育が普及して、高進学率・猫も杓子も留学で海外に進出している中国人である。学んだ活字と向き合って、心静かに<自問自答>すれば、自らに下す結論は、苦労も無く導かされる<論理の帰結>でしかない。学び、知り、目覚める道具・環境・機会に恵まれて、敢て知り行動するのを封印・封殺して、<言い訳>に終始する自分の姿を一顧だに出来ない彼等に、何の同情と理解の心情を与える必要があろうか。

 分業化、単一工化は、スピードによる低コスト化を齎すが、一個の人間存在に在っては、分断化は、非人間化の始まりでもある。現代に於いて、生きる為の糧・労働には、分業が付き物である。自給自足の生活は、現代では荒唐無稽な<仙人の生活>としか言い様が無いのが、切ない処であるが・・・ せめて、自分の自由と為る精神・心の領域にあっては、自らが自分の主と為って、自分の生きた証を刻みたいものである。

 願うらくは、<袖刷り合うも、他生の縁> 曲がりなりにも自由の国・日本での留学時代の思い出が、若き日の自問自答で得たお土産が、<21C世界の中の中国・中国人>の新しい思想であって欲しいものである。

心何処ーショート 現実の風のよもやま話

 鳴り物入り、世界注視の北京オリンピックの長野聖火リレーが終わった。各国各様の進化?する聖火リレー模様であった。大した混乱も無く、予定のコース、距離を走ったのであるから、これも又、立派な日本のお国柄なのである。中国の大国旗が沿道を埋める中、整然と聖火を護衛する警察官の隊列。日本の警察に守られて笑顔を振り撒いて走る80人のランナー達。走る者、警護する者、声援を送る市民の姿は無くとも、日本人同士の信頼感が通っていた様に見受けられた。

 こんな事態は、日本社会の中にあって、『異常中の異常』に決まっている。ある意味では、争うを美としない日本人の<異常さ>への冷たい対応が、表現されている様に見えた。平和の祭典オリンピックに、政治色を振り翳して、論理的合理的対処を封印して、声高に自国の主張を喚き散らすだけの民度、人様の国に来てまで、数を頼りにバスを連ねて赤旗を振り翳して、餓鬼の連呼に狂奔する留学生。オフザケで無いよ。民度が違い過ぎますですよ。
                  そんな輩は、無視無視!!
 日本の警察が、混乱を避けて聖火とランナーを整然と警護しているのである。此処は、表現の自由が保障されいる法治国家・日本のご近所さんの顔の見える地方都市なのである。主張・訴えの場を、市民が提供してくれたのである。主義・主張を静かにアピールすれば好かろう。ある意味では、これ程、税金を投入されて、堂々と無視された国際的イベントは、例を見ないのでは無かろうか。
力の無い私には、童話<イワンのバカ>を思い出すばかりである。童話を可視化する装置としては、高く付いた舞台装置であったが、世界に日本を発信する演出と考えれば、拍手は送れぬものの、空回りする<真紅>の大旗に、苦い理屈で納得するしかあるまい。何れ張子の大国中国の、<辛苦>の行進が、待ち構えているのであるから・・・

 聖火スタート時に合わせて、善行寺さんでチベット騒動で命を亡くされたチベット人、中国人への法要供養が行われたそうである。惜しむらくは、この法要供養をマスコミが、平和の祈りとして、事前に参加呼び掛けをして貰いたかったものである。そして、この内と外のコントラストこそが、日本人の一般的宗教観・平和観である事を、内外に発信すべきマスコミの意思とすべきであったのだと思った次第である。下らない処で、日常些事を血眼・声高に演出するのに、肝心な処では、凡庸の胡坐を掻き、報道各社は右倣えのお座成り報道で、お茶を濁してしまうのである。報道陣としての志の無さ、問題意識の低劣さ、感性の低さ、演出力の低さは、目を覆うばかりである。

 主張する、訴え掛けると云う行動は、人間の意思の推考を通した行動であって、然るべきであろう。一方に『動の訴え』があるのと同時に、『静の訴え』がある。大にして、<動>には見栄え・インパクトの要素が大であるのは、人間に目がある以上、否めない事実であり要素でもある。
<静>には、見栄えもインパクトも薄いかも知れぬが、そこには余韻が漂う。余韻は、人間の『知』に働き掛ける要素がある。人間の思考・思索に働き掛ける要素は、<動と静>を見比べる事では無かろうか・・・

心何処ーショート 程好きなり

 本日は晴れである。キンカチョウのオスの囀りが、こんなに長くリズミカルだとは思わなかった。ただ単発の少々小煩い鳴き声ばかりと、記憶していたのだが・・・・

 水槽に太陽の陽が入ると、水草の緑が映える。透明感が、何とも云えぬ水の生命感を伝えてくれる。その中にグッピィの体色が揺れている。壁面を豆ダニシが滑る様に動いている。一方の小水槽は、白濁気味の水色を呈している。見た目の水色の優劣とは異なって、透明感の鈍い小世界は、繁殖の世界の様である。稚魚が生まれ、稚魚達がスクスク育つ<命の水>らしい。水草が繁茂する鑑賞の世界は、タニシと水草には適しているのだろうが、グッピイの命を生産するには適していない様子である。<適者繁栄の様>を見る思いである。飼い主の浅はかな<面食い>性向は、現実の前に、儚くも自戒の思いである。

 キンカチョウに目を転じれば、番の動きは活発そのものである。今年は如何云う風の吹き回しか? 一回こっきりの下手な<ホーホケキョ>とは異なり、歌の名手が手に入ったのかも知れぬ。メスの確りした身体の造りからすると、今一のオスの体格であるが、充分な鑑賞物に成りそうな気配である。私の中のキンカチョウは、繁殖飼育の観察対象である。家に一つ残っていた鳥篭は、手乗りの小桜インコ用の物であったから、一番小さなサイズのものである。繁殖用の壷巣を入れてしまうと、小スペースは、益々の閉塞スペースと化してしまう。大き目の鳥篭を買って来ようと思ったのだが、繁殖がスムーズに繰り返されてしまうと、子供達は親と離して、追い込み籠で成長期の体力を付けてやる必要から、再び鳥篭を用意しなければ為らない。それでは、少々<取らぬタヌキの皮算用>の趣である。用意周到に見えて、目現差(目標と現実の結果差)の大きさに、歯軋りばかりを強いられて来た『我が珍生』であった事を鑑みると、此処は安全パイを取るのが妥当・・・ 為らば、必需品の壷巣を何で代用とすべしか? である。庭の禽舎の中にあった大振りの餌ばちを代用とする事を思い立って、それに枯れ草を無造作に入れて、鳥篭の隅に引っ掛けた。

 とんでもない事をしでかす<馬鹿オヤジの飼い主>であるが、其処は飼われの身が、遺伝子に組み込まれてしまったキンカチョウの番である。発情の血潮に、オスのブンチャカブンチャカの求愛の囀りとダンスに、メスも受け入れ態勢で身を沈めれば、オスがすかさず飛び乗って、交尾の完成となってしまう。メスの体内で卵が成長し始めれば、産卵場所は一つしか存在しないのである。諦めて、せめてもの<使い勝手を工夫>するしか術は無いのである。

<ザマァ見やがれ。>である。交尾の始まった番鳥は、餌バチの中の枯れ草を朱の嘴で、引っ張ったり、抜いたり、拾って入れたりしている。放り出されて底に散らかった枯れ草を、取り除いてやると、大分スッキリした構えに為って来た。
<そうそう、その調子である。無いを嘆くより、有るを工夫して尽くすのが、肝要である。お前達、中々、筋が好いじぁないか。後で、散歩の折に、褒美として新鮮なハコベを取って来てやるよ。>と、距離の離れた金華鳥にタバコの煙を、プア~と一息送って遣った次第である。  

 その内に馴染んで来て、産卵・抱卵の運びに成るのであろう。一回の産卵数が5~6個、抱卵日数が14日で有精卵ならば、目出度く丸裸の赤子誕生の運びとなるのである。狭い狭い巣並びに鳥篭であるが、我慢して貰うしか無かろう。通常、鳥篭飼育の場合では、幼鳥が自分で餌が取れる様に成ると、親から離して広めの籠に移す。親番は産後の休養を取って、次の繁殖に備えるのである。これが、一般的飼育観察の流れであろうか。

 小動物の飼育観察の中で、何を見出して自分の思考・思索の糧にするかは、個人の力量次第である。小鳥・小動物を飼い始めて、最初に繁殖に成功したのが、このキンカチョウであった。その当時のキンカチョウは、十姉妹を仮母としていた。キンカチョウが自分の卵を、自育するのは、本の数%とされていた時代であった。少年の私には、幸運中の幸運に恵まれたキンカチョウであった。その後、インコ・中型インコ・大型インコに興味が移り、小さな地味で鳴き声が、少々小煩いキンカチョウは、長らく興味範囲の枠外にあった。その後、子供達の情操教育などと云った下心から、1度飼う事があった。その時も、キンカチョウは、借家の狭い玄関の隅で番は、せっせと交尾・産卵・抱卵・育雛を繰り返してくれたものである。

 中年男女の人柄伝わるアナウンサーの息の合ったラジオお喋りに、小鳥の動き、物言わぬ水槽の眺めに、紫煙の儚き流れ・・・ 物臭男には、程好い時の流れである。

 

心何処ーショート ロートル塞翁が馬

 陽気の好さに釣られて、ネオン街に行く。お目当てのロシア人ホステスが居ないと言う。フィリピン・ガールは願い下げであるから、赤提灯の暖簾横丁を覗く。盛らないらしく閉めた店が目立つ。何度か足を運んだ店も、様変わりである。喜左衛門も田舎っぺも無いし、腹は一杯であるから、入る気もしない。諦めて、コンビニでワイン・ツマミを何種類か買って、弟子宅を訪れる事にした。

「おや、今月は、えらい遅いじゃん。」
「おう、差し入れだ。」私はレジ袋を出して、焼き鳥を出そうとするが、入っていない。
「ありゃ、肝心な物が入っていないじぁないか。おネェチャン、忘れやがったな。」
「あれ、どうしたの? 今月分のコピーは、持って来なかったの? 忘れちゃ駄目じぁん。」
彼には、焼き鳥よりも文作コピーの方が、お土産の様である。出張があるから、近日中にとの事。

 ロシア・ホステスが居なかったから来た。等という本音を、暴露する訳にも行かず、得意の嘘を付く。ワインに氷を入れて、例に依って、彼是と堅い真面目話を交換する。昔から電話の遣り取りもしない間柄である。人生論を語る事が多い。彼は十代の頃から、私の感化を受けている男であるから、質問を投げ付けて来る。彼も持てる男であるから、現在は中国人の女性と付き合いがあると言う。彼としたら、私の旅行記・ショートを読んでいるから、一方に於いて、私の人物観・人種観と云ったフィルターを通して観ている節が、窺える。勿論、私と彼とは感性のタイプに共通する箇所があろうとも、別人格である事には違いない処である。彼には私以上に他人との距離を置く冷静さが、伴っているから、私と彼との間にある物事に対するウェートの配分の違いが、面白らしい。比較検討が出来るタイプなので、お互いがお互いに、興味を持ち続ける事が出来るのだろう。歳は5~6才の違いであるが、彼に請われて生涯1度の仲人を勤めた間柄である。

 彼は私にとって、友であり、弟であり、弟子でもある。彼の語りの節々に私の口調と雰囲気が漂っているのは、こそばゆい感じと同時に、非常に有り難いの一語に尽きる。お互いに女好きであるから、堅い話の合間に出て来る彼のフィリピーナ観、チャイニーズ観、ロシア観が、これまた面白いのである。12時近くになって、帰る。彼との語らいは、実に楽しいのであるが、中身が濃い故に、疲れるものである。後何年かして、時間にゆとりが出来てからが、愉しみの付き合いに為るのであろう。彼も好漢中の好漢であるから、是非ともT・M氏共々で、南洋のショート・バカンスなどをして見たいものである。

 帰って、パソコンで中国関連の映像討論会を眺めている内に、頭が朦朧として来た。2時を回って、もう如何にも為らない頭の宇宙遊泳である。寝るが肝心の態で、万年床に潜り込む。

 本日は遣る事が、幾つか出来てしまった。役所・医院と足を運び、午前の大半を費やしてしまった。夕方には会社に顔を出さねば為らない。風と雨のお天気である。キンカチョウの番は、元気にしている。私の目の前で、オスは囀りとダンスを披露して、交尾に及んでいる。

心何処ーショート 気持ち好き1日 

 陽気も初夏の有様である。もうそろそろ、大物を一匹くらい釣らなくては、格好が付かない。じっとしているだけでも、汗ばむ。近くの女子高校生達が、河川敷のゴミ拾いをしている。真面目に勤労奉仕をしているのは、本の数人である。後は、河川敷のブランコ、滑り台で、はしゃぎ回っている始末である。新学期、陽気が好ければ、開放的に成るのが人情である。ゴミ集めをしている一団に、にこやかな挨拶をされてしまった。若い娘に挨拶をされて、悪い気のする戯け者は居なかろう。

 この辺りから、竿を出して見たかったのは、山々だったが、何しろ多勢に無勢である。気後れして、先に進む。水量は、まだまだ多い。流れが早過ぎる。流速で滞留時間が、短過ぎる。何度か当りがあるが、合わせるには小さ過ぎる。暫く粘るが、無駄であった。次のポイントに向う。先日、『野外手帳さん』の写真には、シマヘビが、まるで生きている様な鮮明さで、ディスプレイ一杯に蛇身を曝け出していた。この暑さである。蛇との遭遇の可能性は、大であろうから、川に下りる前に、広角度の目配りが必要である。

<アジャー、どでかいアオダイショウが、俺様の釣り場所の若草の上に、のったりと日光浴の最中である。ああ、えらい物とご対面してしまった。クワバラ、クワバラ。こりゃ集中出来ませんわな。元へ戻って、釣れなければ止め!!>

 空振りに終わって、早速昼飯の用意に掛かる。『相棒』の再放送を見ていると、もう行けません。目蓋の重さは、引き上げられません。船を漕いでいると、風呂が沸いているから入って、昼寝をしろとの有り難いお達しである。風呂の後は洗濯をして、Tシャツ一枚でCDを聞き流している。

 タバコの紫煙に、行方を追えば、早や1日は閉じ始める。今日も のほほんと過ぎるなり。

心何処ーショート 狂人の呟き 

 身近に小鳥がいると、やはり楽しい。鳥篭を机に置いて、M氏の置いて行ったコミック誌を見ているのであるが、自分の面白いと感じる物が載っていない。気に入る絵が無いから、活字を読む気が湧いて来ない。興味が無いから、億劫に為る。従って、殆ど連載物が、ペラペラと団扇の様に、空気を送るだけのページ送りと為ってしまう。多少なりとも人気のコミック誌である。面白くないと感じてしまう自分は、数の上からはマイノリティの感性なのであろう。俗に言う処の変人の部類なのであろう。トホホホ・・・困ったものである。人間の興味等と云うものは、大なり小なり自分の感性の相性によって、興味を持ったり無関心とに分かれてしまうのであろう。興味の無いものに、彼是と働き掛けをすると、働き掛けられた者は<煩い、大きなお世話だ!!>に成る。一方働き掛けをした者は、<そんな頑なな我を押し通すと、偏屈一辺倒で世間様から後ろ指を指されるぞ。>何て事にも成り兼ねない。分からず屋長屋の熊さん、八っあんが登場する落語の世界では、観客から盛んな拍手が貰えるから面白いのであるが、・・・・

 高層ビルが頭上を覆い、ビル風が突風を舞わせる大都会。住まいと成れば、個室個室で狭い空間が幾つも仕切られてしまう密室居住区でしか無い。精神も空間も、収入の糧たる経済も低迷と云う閉塞状況、政治はと見れば、捩れに捩れた侭のコレマタ閉塞国会である。他人と交わらず、自己錯倒型の悪趣味・異常趣味にヒタスラ傾倒してしまう。これを社会的要因と、弁護する法テクニック。蓋を開ければ、底に顔を出すのは『異常は異常のおぞましさ』では無かろうか・・・

   <如何すりゃ~ いいのよ、思案橋。>であるが、
             見える物は、出口の見えない閉塞の大河でしかない。

 ホームからは、ふいに突き落とされ、春を告げたチューリップは、首を刎ねられ、<誰でも好かった人を殺して、死刑に為りたかった。>と自衛官が、タクシィ運転手を殺害したと云う。

        『おいおい、冗談じぁない。何で、そうなるの?』

 世の中、オカシイんじぁ無くて、世の中、完全に狂ってしまったのである。正常人の形で、狂人が至る処で日常行動・生活を送っているとしか言い様が無いのである。
真面目に考えれば、

<如何すりぁ、いいのよ一般市民~、道路特定財源云々どころじぁござんせん。命あってのこの世でありまする。賛否両論の刑法犯罪の結果判定に、一般市民への殺生与奪権付与の裁判員制度実地でもありまする。『知るは、最大の防御』とも云いまする故、為らば一気呵成に、防止策発表しましょうか? トバッチリ被害を未然に防ぐ為、思い切って、自殺願望・死刑願望認めましょう。確信犯は、自己申告を受け付けます。予備軍に対しては、愈々以って、奥の一手『狂人リトマス試験紙』の開発に、国家予算を組まねば為りませぬ。>・・・・・狂人の呟きより、抜粋。

心何処ーショート DNAは隠せずか?

 10何年か振りで、小鳥を飼う。飼って来たのは、並キンカチョウの番である。オーストラリア原産のフインチ類の10cm足らずの小鳥である。白キンカ・コダイキンカと二種類の改良種がある。私の目には、原種の並キンカチョウの方が、好ましく見える。

            夜は、寝かせる為に、玄関の下駄箱の上に置いている。
 朝食時に老母が、「元気そうで、可愛い小鳥だ。」と目を細めて感想を言った。犬・小鳥の好きだった親父は、大型の北海道犬と鶯・駒鳥・カナリヤを飼っていた。男の常として、世話は専ら女房である母がしていた。面倒な事を押し付けられて、女のボヤキが、家庭での囀りと為るのは、男と女の常態の一つであろうか・・・

 亭主・オヤジと成った私も、同様な口撃を女房殿から頂戴していたものである。老母が面白いエピソードを聞かせてくれた。独り暮らしの時に、母は私の置いていった鳥篭を軒下に吊るして、空籠に餌を入れて戸を開けて置いたと言う。庭を訪れる四十雀が、それを見付けて餌を食べに来ていたとの事であった。そんな両親の血を引いているのであるから、私の動物好きは、当然の遺伝子なのである。私は母親似であるから、母が茶目っ気たっぷりの心持で、空の鳥篭に毎日餌を入れて、四十雀の出入りを廊下の椅子に座って、ニコニコしながら観察している姿を想像して、腹を抱えて笑ってしまうのも、これまた遺伝子の齎す結果である。体裁振って本音を中々口にしない女族と、口にしようが仕舞いが本人の実質には変化は無いのだから、<人間、素直が第一>として、口にする男族との見た目の違いだけである。観察とは、面白いものである。

 私は悩み事に関しては、随分と<耐性>が劣っているから、素地の単細胞・単純馬鹿を曝け出すのが、得策と考えるタイプである。悩みが内部に蓄積され、棲み付こうものなら、絡み合った釣の仕掛けの様なものである。知恵も根気も乏しい男である。死んで生まれ変わるより、有効な手立てが無い次第である。そんな事で、極々たまには、見境無く瞬間湯沸かし器の粗暴性を披露してしまう事がある。生きている以上、凡人のガス抜きは、大事に至らぬ前の保守点検の道具の一つとも言える。これは100%自己擁護にして、自己弁護にしか過ぎない『下衆の論理』なのであるが、<分かちゃいるけど、止められねぇ、スイスイ、スイダララッタ、スラスラ、スイスイ。>で、逃げるしか無い本音の部分でもある。

 他人様のお国で徒党を組んで、反対者に対して<真紅の大国旗>に包み隠して、同時暴行の挙に出て、多数暴行による暴行者特定を<多数の加担>で曖昧にする手段。且つ又、集団の怒号で『愛国無罪!!』を誇示する下衆集団が存在している模様である。下衆の性質を比べれば、彼等から<小鬼子>として蔑まされている<日の本>のロートル下衆の私の方が、少なからず<マシ>とすべきであろう。下衆の言い分は、下衆の呟きの範囲に留めて置くのが、味加減として頃合と思われるのであるが・・・ マレーシア、クアランプールのツインビルが、背景に映っていた。社員旅行で訪れた界隈である。内緒の呆け旅行を思い出しながら、午後の散歩に参りまする。

心何処ーショート 思い立ったが吉日

 郵便局に行ったついでに、個人スーパーに足を伸ばして買い物をして帰る。両手に持ったレジ袋が少々重いが、好いお天気である。アルプスの雪のコントラストが、清々しい。手が痺れるから、休憩がてらデジカメに風景を写す。風が花弁を運んで来ている。山国信州の桜花も、盛りを過ぎつつの様子である。これからはGWに掛けては、新緑覆う山容に山桜の薄い白が、初夏の陽に映える。地元で暮らす私には、信州で一番の季節を迎える。

 花香り、光溢れる外から、四畳半・定位置の椅子に座るのは、願い下げの気分である。其の儘、台所仕事に着く。筍・昆布・身欠きニシンの甘辛煮を仕込む事にする。役目を終えつつある沢庵のヌカ床は、其の儘、大根・キュウリ・ナスが入っている。動きの少ない日々であるから、あっさり系の日本食が何より口に合う。1日のする事が限られているから、煮物類は少しずつ火を入れて行くと、味が滲み込んで好い味を出してくれる物である。

 貧しくとも、子沢山で専業主婦のお袋が、家庭に居た嘗ての日本である。焚き染めた煮物の味が、日本の<お袋の味>だったのである。考えて見ると、単なる郷愁の味が、お袋の味だった訳ではない。手間隙掛けた味の滲み込んだ味が、生まれ育った時代の郷愁と渾然一体となって、脳裏と味覚に<心の和み>を運んで来るのが、きっとお袋の味なのであろう。定位置に座る私の鼻孔に、台所から好い匂いが漂って来る。

 水槽の蒸発量は、予想以上の量である。バケツを持って、川の水を汲みに行く。汲んだ水には、おやおや、桜の花弁が三枚浮いている。為るほど、<花の命は短くて、苦しき事のみぞ、多かりき>の水面の流れであろうか。今や、小水槽の種オスの地位を確保し始めたグッピイのお兄ちゃんは、元気こそ好いが、男のハンサム度からすると、飼い主の私と比べると雲泥の差と言う他は無い。かと言って、劣勢遺伝子と決め付けて、駆除も出来ない。姿形ばかりの30度角バタバタ泳ぎの1匹よりは、健康が第一と諦めるより仕方あるまい。実の処、金魚全滅事件もあった故、餌に問題があるのか? 水質に問題があるのか? メスの1匹に背骨が少々湾曲しているものも、見受けられるのである。水槽二つを並べての目の保養装置であるから、否応無く比較が見て取れる水槽世界なのである。乗ってしまった船、アフターケアは、飼い主の責任である。

 ブルーベリー・ジャムを溶かして、ホットで啜っていると、フェンスに四十雀が2羽遣って来た。季節柄、番と成ったのだろうか? 四十雀は何十年も前から、この界隈の留鳥の一種である。人知れず何処かの適当な巣穴を見付けて、繁殖を繰り返しているのであるが、その所在は遥として不明である。ラジオに、水槽、パソコン、散歩の賄い夫の身、日々老衰進む老母を前に、海外旅行一人旅は、叶いそうも無い処である。諦めて、長らく飼う事の出来なかった小鳥を、飼う事にしようか等と考えている次第である。どうせなら手も掛からず、しかも繁殖が容易なキンカチョウでも買いに行こうか。<思い立ったが、吉日>の譬えである。昼食後は、足を伸ばして、隣市の小鳥屋を覗いて見ようと思う。

心何処ーショート 桜の徳

 気持ち好く寝ていたら、廊下から老母の声が掛かった。公民館の朝掃除だと言う。
                   『しまった!!』
 慌てて起き上がり、下駄を突っ掛けて小走りで向う。本性が下衆に出来上がっているから、日本の有り難い訓え『三文の徳』も、大抵の場合を捩って『三文の得』と書いている罰当たり者である。賄い夫を実践しているのであるが、こうした日常の細々した町会の勤労奉仕活動に際しては、<ポカ>の連続である。女房の過保護下の生活が行き届いた亭主関白を続けて来た身には、一朝一夕には変身出来ない我が<アキレス腱>である。白旗を掲げて出来の良い女房殿の軍門に下りたいのは山々であるが、安易に下っては、男の沽券に拘る些事中の些事である。勤労奉仕を終えて、タバコをふかしながら、桜満開の風景を見るが、曇り空が気分に水を注す。嗚呼、本日も朝起きは、<徳>為らず、<得>にも該当せずの様子である。得から昇華して徳の境地に気持ちを安定させるには、きっと私の余命は少な過ぎるのであろう。悟った処で、我が卑しき本性は、改善もされぬ・・・ 困ったものである、緊張感が不足している。

 モーニング・コーヒーの湯を沸かしながら、ブログニュースを読む。ブログ活用法を覚えた事も有り、何よりもテレビ番組を比較する上から必要だった新聞は、好いドラマが乏しくなって以来、触手が伸びない。時間配分等の面からも、無駄の多い新聞購読は思い切って止めてしまった。四畳半に居る時は、ラジオがBGMであるから、大体の情報は耳から入って来るのであるから、情報不便と云う気持ちは湧いて来ない。新聞の無い生活も慣れてしまうと、苦にも為らない。

 私は、小説の分野は殆ど読まない。見ること、観察する事が、性に合っているのであろう。小説を読む時間を、悉く映画に費やして来たと云った処が、自分の正確な感想である。一流の題材(小説・紛争・社会問題・国際問題・・・etc)が、一流の脚本家・監督・カメラマン・役者達に依って、活字・想念と云った抽象世界の物を、映像と云う具体世界に、展開させて見せてくれるのである。私の様な物臭者には、合理的な『一石三鳥』の時間の過ごし方と言えるのである。

 世に『目利き』なる専門職が存在する。『本物』に接して鑑賞眼を鍛える事が、目利きに為る要諦なのであろう。ある意味に於いて、映画は総合芸能にして、総合芸術の入り口なのであろうと考えて、訳の分からない年端の行かぬ小学生の頃から、映画、特に洋画を見続けて来た。字幕に写し出される漢字優先の字幕が、小・中学生の私に理解も出来る筈も無く、又、字幕と映像との両立は、<物理的に考えて>至難の業である事は、言うまでも無い事実でもあった。映像の中の美男美女、悪人、善人、・・・etcの表情を読む事で、感じる事しか対処のしようが無いのが実情であった。好き・興味こそ、物の上手なりでは無いが、洋画を理解するには、訓練と工夫が必要であった。必要の前に努力は、努力の意識にも乗らない行為であった。知らず知らずの内に、速読を覚え、視覚の中心を成す漢字を追って、漢字で構成される台詞内容を、視覚で捉えて画面の役者の表情・流れる旋律で、映画を理解する術を覚えて行くのであった。後から考えると、随分と『得』をして、映画の『徳』を知った事もある。

『百聞は一見に如かず』何て、言葉がある。レジスタンのフランス国旗にヒットラーの鍵十字を付けて燃やし、駐日某大使館から在日留学生に2000~3000人規模の動員が掛かって、黄色のTシャツが配られ、バスが東京から長野市に向うとの事である。持参物は、水の入ったペット・ボトルにペンだと云う。善光寺さんでは、未明、奇妙な落書きが発見されたとの報道である。歴史認識の無さには、呆れ返る他は無い。確りしなされよ。

 人間の行為・行動とは、大脳を通して身体の各部所に伝達されるものだと言う。<調子の好い百言も、一見に如かず>と云う事なのであろうか。共産主義は、別名<密告主義>とも形容されるらしい。日本の言語を理解出来る大学生が、西側の歴史を知る機会は、日常的にあるのである。青年期の多感な大学生の知的好奇心は、高校までの一方的学習から離れて、自由な好奇心を刺激するものである。そんな四年間の中で、義務教育・高校教育の教員達の影響は、小さく為って行くのが一般的傾向に思えるのだが・・・ それが、多少なりとも天が配分された頭脳能力の使い方なのだと思うのであるが、脳味噌の良し悪しは、全く属人的な専用物と自惚れているのであるから、始末が悪いのである。努力と成果の関係が、時間と正比例しない先天的要素がある事を自覚すれば、能力は天からの借り物であるから、能力を発揮して天(社会)に、それ相応のお返しをすべきと考えられるのだが、全部自分の範囲だけで、浪費をしてしまう『得』だけを考えてしまう。天・社会への貢献が意識に上って、その実践が叶えば、『徳』に繋がるのだろうが・・・ 批判と言いがかりとは、違いまするぞ。
            
           <これを称して、不遜なる浪費と言うのである。>

 密告主義が日常化している社会では、密告受付所が津々浦々、網羅・配置されているのであろう。行動する自由の中には、敢て行動しない自由も保障されなければ為らないのであるが、全体主義と云う顔の見えない体制下では、加点配点よりも減点配点システムの方が、管理する方が到って簡単なのであろう。<所変われば、品変わる。>の基本的マナーを身に着けない限りは、異邦人は狼藉者の烙印を押されるばかりである。これが理解出来なければ、前に進まぬのでありまする。

 下衆の考えを進めると、一世代30年と云う事である。共産国建国、僅か60数年である。茫漠・混沌の大陸で、清朝末期軍閥が割拠した20C前半蒋介石と毛沢東が内戦を始め、毛沢東が大陸を平定した。走資派を粛清して、毛晩年はインテリ層を粛清する為に年端の行かぬ紅衛兵を躍らせた。その後は、民主化の幼芽を天安門で制圧して、登小平が先富論・一国二元統治で経済開放路線で富国強兵路線を敷いて突っ走って来たのであるが、体制に意を唱える思想弾圧・人権弾圧は、30年一世代の周期で行われていると言っても過言では無かろう。共産主義60年に亘る洗脳思想純粋培養の効果が、鬼っ子・鼻摘み・嫌われっ子・聞く耳持たぬの偏狭なるナショナリズム国家・人民として、今日に到っていると思うと、ただただ、背筋の凍る思いである。

 願うらくは、早い処、北京オリンピックが開催され終わり、その一部始終が世界に配信されて、13億の民が、自ら詠う<黄丘や、主義者共の 足掻き跡>を知るしか術は無かろう。

心何処ーショート 風のよもやま話(その6)
  へへへ、朝から、遊んじゃいました。過去のストック分から、引っ張り出しました。
                           繋ぎにお読み下さい。
 
                風のよもやま話(その6)
 2008北京オリンピック、原油高景気に沸く中ロの経済活性化からは遠い日本の、とある地方が、舞台であった。国の慢性的財政赤字は、景気の低迷で暗いニュースばかりが、三面を飾っている。小さな政府を打ち出して、地方自治・権限委譲を謳った国策は、平成の大合併の裏側を露呈して、盛んであった。そんな大合併で誕生した、人口4万人の小さな市の出来事であった。

     日本列島は9月に入っても、30℃を超す残暑の中にあった。

 20万円台後半にあった当市会議員報酬が、一気に上げ幅40%強の30万円台後半にまで引き上げられたとの地方紙の極々小さな報道記事であった。上げ潮のバブル絶頂期は、今や<今昔物語>と化し、失われた10年に続く重い停滞が、庶民の心を塞いでいる地方の世相である。庶民の生活感覚からは、到底、許し難い行政・議会の暴挙と映ったのは、当然の事であろう。市民感情を代弁して、ロートル市民活動家が、街頭で署名運動を始めた。

      常識の風は、力む訳でも無く、静かな市の隅々にまで吹き続けた。
 市民の署名数は、リコール請求をも可能にする1/3超を積み重ねるに至った。構成次第では、不快続きの<朝青龍問題>が下火に成ったワイド・ショーの格好の対象に為る。
<ニュースに為る!!> 報道メディアのデスクは、色めき立った。直ちに駆け出し・若手レポーターの尻を叩いた。緑濃い静かな街は、市民運動家、街角の声、市会議員、市長に、カメラとマイクで取り囲んだのは、当然の世相の流れの一つであった。
 
 民放テレビ入社2年目の某男性記者の携帯電話に、以下のメールが入ったのは、9時であった。

★★・・・本日10時、市庁舎2階会議室の密室実況放送が、流れる。スピーカー放送にて、廊下で録音するも好し。第一級の情報資料。・・・<森の風人> ★★

 市の駐車場に軽の社用車を停めて、階段を3段飛ばしで駆け上がって、彼が会議室廊下に駆け込んで来たのは、10時3分前の事である。流れ落ちる汗も拭く間も無く、ショルダーバックからテープ・レコーダーを取り出し、集音マイクを繋ぎ、録音ボタンに手を掛ける。

    AM10:00 市庁舎に突然流れ始めた音響は、怒鳴り合う男達の声であった。

「市長、何を言っとるんじゃい。引き上げを諮問して来たのは、あんたじゃろが。」
「そうじぁい、そうじぁい。騒ぎがでかく成ったから、穏便、自発的に、元へ戻したらだと。」
「ふざけんじぁないよ。ええ格好しいなよ。オメさん得意の、素人相手の演説は、通用せんぞ。俺達はプロだぜ。餓鬼扱いされて、黙っちゃ居れねぇや、なぁ、皆。」
「そうよ。選挙にぁ金が、掛かるんだよ。年間60日の議会だけど、選挙には軍資金が居るんだよ。お互い、報酬の中から、次の選挙の足しを蓄えて、何処が悪いんじぁい。そうだろ。」
「何だ、おめえ、逃げるのか。〇〇さ、逃げれねぇ様に、人間ピケ張れや。」
「何をするんじぁい。常識ある大人のする事か!! 頭を冷やせ。日本は法治国家だろ。」
「おい、市長。俺とおめぇは、小学校からの付き合いだ。性格は変わってねぇな。おめぇは、口ばっかだ。腕力は俺の方が上だ。言うに事欠いて、法治国家は無いだろ。何時もの軽い口癖、『市長と議長・議会は、一心同体、運命共同体の市民党』のご立派な政治実践哲学は、何処さ置いて来たさ。おぅ!!議会、議員を舐めるにも、程があんぞ。バカタレが!!」
「言うに事さ欠いて、言って良いさ事と、悪さ事あるぞ。撤回さしろ。許さねえぞ。」
「何さこくだ。此処は、非公開の密室だべ。」
ババーン
何だ、何だ!! クス玉に垂れ幕じゃないか!! 何て書いてある!!

★★ 全ての遣り取りは、当隠しマイクにより庁舎のスピーカーにて、市民に公開中なり。
★★ 風に目あり、耳あり・・・<森の風人>

 会議室のドアの施錠が解除されて、市長並びに市会議員の一行が出て来たのは、30分後であった。フラッシュが焚かれ、ビデオカメラの放列と矢継ぎ早のインタビューに、一行は無言の行進をするばかりであった。

 静かな新生市に湧いた騒動の呆気無い幕切れであった。その日の朝のワイドショーには、盗聴犯人の珍事件が報じられていた。穂を付けた水田に、里山の蝉時雨が、夏を続けていた。青い稲穂を撫でて、幾筋もの風が、東に向って吹き抜けて行く。

<お~い、居るかい。主風、贔屓(ひいき)の森の風人が、土産を置いて行ったよ。>
<ほぅ、そうかい。で、今度は、どんな土産話だい。>

 森の小さな池に、西風を招いた森の主風は、差し込む木漏れ日を見遣りながら、白い眉毛の下の目を細めて、西風の土産話に、『フォッフォホホ』と掠れ笑いの頷きを、繰り返している。

<お前さん、ゆっくりして行くが好い。洞窟の葡萄酒が、好い味頃じゃて、持って来るわい。>

 夜の帳に、森の小枝がサワサワ鳴っている。東の黒々とした山の稜線に光が滲んで、橙色の下弦の月が、姿を現わした。小さな池を挟んで、酩酊に頬杖をした主風と西風のよもやま話は、尽きそうも無い。一足早い秋の虫達の合唱に、森の小枝がサワサワ鳴るだけの森からは、眼下に拡がる夜景の光が、眠たげに見えていた。

心何処ーショート 善光寺さん

 本日も、愚図ついた1日と成りそうである。世界のニュースが居ながらにして、見れるのであるから有り難くも思い、煩わしくも思う。小さい頃は、映画館の映画と映画の繋ぎで、お目見えするニュース映像に、世界の一端を見ていたのである。オリンピック映像と云えば、先頃他界された市川監督の東京オリンピックの映画は、未だに脳裏にある。東京オリンピックは、私が高校2年生の時だった様に思う。あれから40年以上も経つのであるから、驚きである。記録か芸術か等と、活字が新聞に躍ったのを覚えている。

 40余年後、何かと、世界の耳目を集めている北京オリンピックである。世界各国を巡る平和の祭典のお触れ役・聖火リレーが、物議を拡げている最中である。編集次第では、ドキュメンタリー・記録部門で、歴史に残る<2008、ドキュメンタリー、北京オリンピック聖火リレー>として、世界の各賞を総なめにするかも知れない。ふと、そんな事が、浮かんだ。

 これはグローバル化の世界にとって、凄い事である。66億の世界人口の13億を擁する中国と云えども、国別からすれば、180弱の国々から構成される世界である。世界人口の20%と豪語した処で、国別からすれば1/180弱でしか無い。世界統一国家が出来ない以上、独立した国際社会での自己主張とは、そんなものである。個人を纏めれば国家、国家を解体すれば個人である。個人を解体すれば、感情と理、それに加えて利である。強者と弱者の中を覗けば、驕りと強制に対して、反発と抵抗であろうか・・・ 体制側が<威信>を演出し過ぎれば、プンプン腐臭を撒き散らかすのは、何時の世でも共通な悪臭であろうか。腐臭へのブーイングの蓄積は、切っ掛けに依って一気に爆発するのが、人の世の常である。聖火は象徴である。不平不満が、象徴に向けられるのは、これまた正気の沙汰の一つである。象徴は、欣喜の御旗でもある。正気と正気が対立したら、事は収まらぬ。象徴の御旗・聖火を巡って、争奪のドラマが演じられるのも、これ又正気の沙汰の一つでもある。然しながら、正気の沙汰を判断するのは、観客の民意である。

 映画監督・作家・カメラマン為らずとも、メッセージを世界の個人の心に確実に刻む事の出来る、千載一遇のチャンス映像が、演出無しで口を開けていてくれるのである。各国の一般庶民の感覚・感情が、物理的なカメラのレンズを通して表現される。その時々の国情・国家の意思を表した体制側のガードの下で、物言わぬ聖火の儀式を通して各国の捉え方が、その時のリアルタイムの中で、バトンタッチされて行くのである。陳腐な解説などが入り込む隙も無く、在りの儘をカメラのレンズが、即物的に事象を世界に発信するのである。想像するだに、その厳格な迫力が伝わって来る。未完成のドキュメンタリーと云えども、私は拍手を贈る者である。

 視覚映像のメッセージを、個人が如何捉え、脳裏に如何刻むかである。そして、脳裏に刻んだ映像と判断を下した自分の加工物が、何年先・何十年先の自分の心に何を語り掛けるかで、心の軌跡を振り返るのが、自分の道標と成るのであろう。いずれにしても、見て、考えて、何かをする機会を得るのは、有り難いものである。

心何処ーショート 雨日に春の細胞

 笑っちゃいますね。半透明の稚魚が、ウジャウジャ居るじゃありませんか。これでは、まるで異常発生の沙汰でありまする。お隣の水槽は、稚タニシがこれまた、グシャグシャの有様でありまする。水草も、優に倍以上の繁茂振りを示している。季節を感知する体と云うか細胞の働きとは、敏感と云うか凄い仕組みに出来上がっているのだろう。<雨後の竹の子>とは、事象を実に巧く言い当てた言葉である。

 小生はロートルであるから、月並みな形容句は、古臭い引用字面に終始してしまう。頭の中身が、単純に出来上がっているのだから、可視的・経験的言葉でなければ、想いを他人に伝達出来ないのである。幸運な事に、日本語は書き言葉に話し言葉、子供言葉・女言葉・男言葉・話言葉・演説言葉と使い勝手自由にして、文章文字も漢字・平仮名・カタカナ、おまけにアルファベットと、これまた適当と云うか使い勝手が優先するの趣である。日本人は長い時間を掛けて、日常の刷り込みで何時とは無しに、これ等の使い分けを身に付けて行くから構わない習慣なのだが、途中から入って来た外国人にしたら、大変な労苦には違いなかろう。(母国訛りの日常会話の日本語は論外であるが)一般外国人には、難解過ぎる日本語であっても、言語研究者にとっては、凝りに凝る事の出来る研究分野なのかも知れぬ。

 こんな空想を進める上で、しばしば登場するのが、小泉八雲とイーデス・ハンソンさんである。ラフカディオ・ハーン氏は、明治時代のお方であるから、本・写真でしか存じ上げない。一方同時代のハンソンさんは、私の好みの白人美形であった事から、彼女には注目してズーと拝見している次第である。今でも充分な隙の無い美形であるが、若かりし頃の内実を伴った美形振りは、高名な推理作家が、自分のペンネームとして、良・半村と訳した程であるから、文句の付け様の無い処であろう。才色兼備の容姿と云い、関西弁の日本語と云い、媚を売らぬ表情・言動と云い、小生の憧れの女史の一人である。

 さてさて、グッピィ・タニシから始まったダラダラ打ちが、何処で如何間違ったかイーデス・ハンソン女史に繋がって、この先、文章のウェートを何処に移そうか? 等とタバコに火を付けた。
それが息抜きの為に、何時もお世話に為っているdorunkon様の<美味い酒にいい女・・・>のページを覗いてしまった。御仁様の『タラコ唇』の言葉に、巧い表現を使うものだと、ついニンマリしてしまった。それで止せば好いのに、煩悩の触手が悪戯して<チャイナ・ドレス>の3連荘でありまする。<もう行けません。>親父譲りの細胞に点火されてしまいました。生憎の雨模様、下らぬ駄文打ちは、もう行けません。

 ハンソン女史、あなた様への信奉の念には、些かの揺るぎも有りませんが、小生、生身の美形に接したく成って参りました。信奉の証は、後日日を改めまして、仕切り直しとさせて頂きます。

心何処ーショート 憂鬱下の一文

 <やや、本日、早朝資源物の回収日>であった。少々眠いが、起きるべしである。こんな時は、一人しか居ないから、文句も付けない。依って、物臭者が動くより他無しの諦めが先行して、体が動くものである。帰ってブログで法輪行者の拷問映像・チベットの見せしめ銃殺刑の映像を見る。背後に在る体制のおぞましさには、反吐が出る。こんな映像を見ていると、『罪を憎んで、人を憎まず。』の金言も、遠い存在・異次元に思えて来る始末である。善良・真っ当な中国人諸氏には気の毒であるが、益々感覚的に中国人総体が、嫌いに為ってしまう。

 気分を害して、ラジオを付けるがパッとせず、軽快なラテン・ミュージックをCDで聴く。コーヒーを飲むが、厚い曇天は少々肌寒い。水槽の蓋を開けて、餌をパラ付かせる。小水槽の住人のメス達は、上から見るとパンパンに膨れ上がった不恰好な孕み具合である。

 中国の人権無視の惨たらしい現実の前に、早起きが、とんだメランコリーを呼び寄せてしまったものである。上層付近を、針の先ほどの稚魚が、10匹前後かたまって動いている。未だ動く気配の無い老母を待って、カンパンを摘む。憂鬱な気分は、当分、去りそうも無い。こんな時は、身体を動かして、気を紛らわせるしかあるまい。手の込んだ朝飯でも作ると致しますか・・・

 メランコリー症候群に捉まってしまった様である。食後、気分治しに、水槽に手を加える。そんな事をしていると、玄関で声がする。宗教関係の勧誘である。健康に優れない、病み疲れの様な感じの50代後半の婦人が、小雑誌を手に、たどたどしい口調で、一生懸命に話し始める。彼女にとっては、お門違いの対象の私である。気分を害しない限り、表現の自由は、万人に保障されているのである。  
 暫く黙って、話を聞く。小雑誌を勧められたから、「申し訳ない。自分自身を信仰しているから、大丈夫です。結構ですよ。」と応える。
 反対に、嫌な顔もせず話を最後まで聞いてくれて、「本当に有難う御座いました。」と頭を深々と下げられてしまった。人の良さそうな人であるから、宗教を厄介視する世間の冷たさに、この人も大変なんだろうと少なからず同情してしまう。

 神、自然、倫理を、自分の心の糧に生きるのは、悪い事では無い。然し、集団の中に入って布教活動が仕事・努めと為ると、その場は不特定多数を相手の戸別訪問である。布教は、当然に個人の価値観と衝突する場合が多くなる。そうなれば、私の様に不信心・物臭者には、自然な精神の糧が『重荷』と為ってしまう。争いの絶えない現世を神の不存在と断じたり、憂いて、神の復活・その布教活動を『社会の浄化』と位置付けるのは、有る意味で大義名分が成り立つのだろう。 
つくづくと、人間とは厄介な生き物である。幸運にも霊長類の頂点に位置する人間として、この世に生を受けたのであるから、神を信仰する信仰者からは、尊大不遜な生き方と蔑まされようと、私は自分の良心・感性・信念を鍛えて、『身の丈の人生』を生きたいと思うだけである。物臭男としては、それが罰(ばつ)ならば、お天道様の罰(ばち)が当たるだけで、本望である。

心何処ーショート 嗚呼、桜花に散るは・・・

 1週間程、留守にしていたお向かいさんが戻って来た様である。久し振りの洗濯物が、掛かっている。昨日のニュースは、老人殺しと老人健康保険料の天引き徴収である。おまけに道端に停めて置いた自転車を小学生2人に側溝に落とされて、怒った72歳の爺さんが、小学生に暴力を<奮った>として逮捕との事である。

<我が祖国は、何ちゅう精神風土に、成り下がってしまった事か!! 経済不振をナンのカンとほざいている場合か・・・ 弱い者虐めをして、何が楽しいのか? 政治家さん、首長さん、経営トップさん、手前等だって、立派な老人衆だろうが。
現役を引退したものは、国家・組織の厄介物・扶養家族の存在だけでありますか? お宅らの口にする国家百年の計云々の『志』の前に、真っ当な気持ちを持ったら、如何かな?

 熾烈なる国際競争力の向上と称して、製品コストに占める人件費のコストダウンに、大量のリストラを敢行して、次の生贄に労働派遣法を翳して、多様なる価値観・ライフスタイルと称して、労働者の『労働者身分の多元化』を押し進めた挙句の果てが、正規社員と非正規社員の賃金の差が、何と二倍半だと言う。現代に於ける価値と言わざるを得ない経済的収入の公平・平等の砦の『同一労働同一賃金』の崇高な労働基準法を何と考えているのか? 
 競争営利の追求に辟易する損得経済学者の口先に丸め込まれて、親方日の丸の官僚組織に政策の大半を委ねて、陳腐な朗読国会に胡坐を掻いている富者が、貧富の二極分化なんて、評論家の様な『流行語』をほざく暇があったら、地位の寡占化に歯止めを掛けなされよ。

 今は昔、長い封建時代には、百姓一揆があった。昭和の時代には、米騒動があった。三井三池炭鉱騒動があった。巨大ダム建設の水底に沈む父祖伝来の集落を守る為、或いは成田空港建設反対の農民立て籠もり騒動があった。近代・現代争議の先頭に立ったのは、庶民・労働者・農民の肝っ玉母ちゃん達だった。社会騒動に於ける肝っ玉カァチャン達の行動は、バイタリティーに富んでいた。そして現実の生活実態に身を置くニッポンのカァチャン達の底力は、男を遙かに超えていた。軍国主義の時代には、男手を徴用された『銃後の日本』を地域・社会・家庭を、健気に守り、戦後の疲弊時には、財産を米に替え、平和日本への教育に光明を見出して、子弟の教育費を捻出した遣り繰り上手なニッポンのカァチャン達であった。

 彼女達は、嘗てのお上の理不尽な行いを、『如何考えても、世の中、間違っている。』と、大道団結して文字通り身体で、阻止した土臭い大和撫子達であった。そのカァチャン達が、後期老齢化で自由に為らぬ老衰の身体を晒しているのである。嘗ての意気は有れども、儘為らぬ老衰の身である。・・・・・ 一揆の筵旗さえも掲げられずに、孤独と生計費切り詰めの淵に溺れ様としている。

 洞爺湖サミットの下見だと云う首相夫妻の一泊料金が、135万6千円だと? ふざけるのも、好い加減に晒せ!! 亡国の一里塚じゃねぇか。江戸っ子為らずとも、信州の山猿オヤジにだって、その位の啖呵は切れるぜ。バカヤロウ。>

 色々と考えていると、遺憾・如何・行かん・いかん・イカン・・・ 下衆の遠吠えの見本に為りそうであるから、頭を冷やしにカメラをポケットに、散歩に出掛けた。一気に桜満開の様相であった。パチリパチリと春を切り取っていると、胸の携帯が鳴り始めた。Tからである。久し振りであるから、私の方が彼の会社に行く事にする。久し振りの友との歓談である。気分のお釣を持って、松本城の桜を見たく成り帰りのコースに加える。

 小さな国宝・松本城の敷地桜も掘り桜も、桜の名所の一つである。相も変わらず、桜花咲き乱れる日本の美である。駐車場入り口に面した道路は、渋滞の様である。10数名の観光客の一団が、大きな声で中国語を飛び交わしている。中国富者の観光客が、団体で松本城見学に訪れているのである。大した物だと感心しながら、ハンドルを切る。

 長野市の聖火リレーは、如何なる事に成るか・・・ さてさて、出たついでであるから、スーパーに立ち寄って、買い物を済ませて帰ると致しますかな。

心何処ーショート お互い戯け者

 昨日は20世紀フォックスHJ社からの非売品・オリジナル劇場予告編/スーパーコレクションDVDが郵送されていた。<忘れえぬ名画の予告編・全80本をこの1枚に収録!>とあった。商売とは云え、洋画好きには得難い頂き物である。年代別の編集が、実に有り難い。早速、就寝前の一時に、子守唄代わりに見させて貰っている。

 本日は、朝洗濯物を軒下の物干し竿に掛けていると、庭のイチイの枝に、何か動く物が見える。何の小鳥かと気に為って、暫く様子を窺っていると、<ホ~、ホケキョ>の声である。今度は姿を現して、ホ~、ホケキョの連発である。「やっと来たか、とうとう来たか、」の感想であるが、彼の初鳴きは、実に下手である。イチイの木から横の枇杷の木に渡って、再び一鳴きであった。昨年通りなら、5月の連休過ぎまで、この界隈を<ホ~、ホケキョ>の囀りで巡回してくれるのだろうか? それとも例年に倣って、1週間ほどの『告げ周り』で、お山に帰るのだろうか?
 
 いずれにしても、義理堅く囀りを、披露してくれているのである。自然に対して、何かと悪さと無関心を繰り返す<害獣目人間科>であるが、野趣の囀りには、心が潤うものである。自画自賛の妄想で考えれば、私の前での一声であった。北帰行で帰ったバルディナさんが、後任の鶯に、『淋しげなロートル賄い夫』を気遣って、申し送りをしてくれたのかも知れぬ。野生の小鳥達にエールを贈られてしまっては、賄い夫仕事、手抜きをしては<お天道様の罰>が当たると云う物である。

   本日、無風の散歩日和である。一式をナップザックに入れて、春を愛でるべしである。
 
 ポカポカお天気に釣り糸を垂れるが、コソリとも魚信が無い。釣好きは、諦めが悪い。粘るが魚にソッポを向かれては、釣には為らぬ。タバコを吸いながら、春の流れに暫く日光浴のお時間と為ってしまった。これは行けるぞ等と、DVD・鶯を<吉なるお告げ>などと、錯覚して『ツキ』のある内にと、ハシタ無くもナップザックを担いで来てしまったのである。自分に都合好く事が運ぼうものなら、魚達は幾つ命があっても堪るまい。釣れないのは、川の増水が原因だろう。家の中に居るのは、何とも不釣合いのお天気である。今週末が、桜満開と云った処であろうか。

 散歩運動は健康の基と言われるが、テクテク歩くばかりでは、余りに無粋と云うものである。
花霞であるから、アルプスの青い山容は、霞の中で茫洋としているが、春は其処彼処にこぼれている。時間だけが豊富になったロートル生活であるが、外に一歩踏み出すだけで気分が広がる<自然の癒し効果>には、大きな物がある。人間の精神安定剤は、自然に優る物は無かろう。蝶が舞い、羽虫が川面を飛び、ガサリの物音に目を遣れば、おやおや、カナヘビ(トカゲの一種)が、スマートな乾いた薄茶の姿を動かしている。交尾期を迎えたオス鳩が、太い首周りを逆立てて、目の瞳孔をグルグルさせてメス鳩を追い掛け回している。私も現役のオスの端くれであるから、興奮が解らぬ訳では無いが、傍目にはアラレモナイ興奮振りである。

<人間界には、腹上死などと云う不名誉な死もあるぞよ。鳥の癖に、トドのハーレムのオスの様な太い首周りを誇示して、メスを追掛けている最中に轢死の挙句、アスファルトにミンチにされて干乾びた骸を晒したんじゃ、あの世でも物笑いの種にされちゃうぞえ。精力絶倫のパフォーマンスも、安全第一ですぞ。アテツケガマシイ。>

             『戯け者!!』と、一喝するしかあるまい。

心何処ーショート 諸事、境あり。

 洗濯物を干して、縁側でタバコを燻らせる。物臭者には、独りの居心地が好いと言うものである。雲間の薄空は、風交じりである。散歩は、気温が上がる午後からにする事として、コンデンスミルクを落とした熱々のインスタント・コーヒーを、我が居住区の四畳半で啜る。老母は久し振りに、シャキとした美形である。

 昨日の光景を思い出しながら、甥達の後姿に亡兄の姿が偲ばれたり、他人の目からは私の顔が、亡兄に好く似て来た等と、話に出て来る始末である。我々の第二世代が、中年を迎えた親類縁者達に、世代の交代を強く刻まれた1日でもあった。<老兵は死なず、消え去るのみ>等と言う名言がある。我々はリタイヤの自由を謳歌する年代であるから、話の交換は滑らか過ぎる程に、回転するのであるが・・・
<少年老い易くして、学為り難し。一寸の光陰、軽んずべからず。>の心境から、老兵の心境に突入するのは、そう遠くは無い筈であろう。人間の当然の移ろいの一つであるから、別段の感懐などは無いものの気が付けば、其処に在る物は、タダタダ月日の移ろいの速さばかりである。

 ロートル賄い夫の拙い日記を打ち始めていると、NHKの集金人さんである。旅行記は、未だ完読していないから、もう暫く貸して置いて欲しいとの事であった。彼には内容が難しいと言う。真面目に行間を読もうとするから、時間が掛かるのだろう。打っているご本尊様が、目の前のテイタラク・オッサンなのであるから、面白いエロティックな部分を拾い読みして、飛ばし読みをすれば事足りるのである。一向に気にする事は無いのである。男女ともに、備え付けられている持ち物には、何時の世にも不変な使用法しかあるまいと思われるのだが・・・
 
 人種・国が異なっても、其処に在る物は、共通な道具と使用法でしか無い。『日常』の心の象徴と捉えれば、真面目な堅苦しい倫理観の偶像信仰の対象となる。旅と云う『非日常』な一過性の範囲に留めれば、道具・使用法は、倫理の偶像信仰の規範から開放される。『道具・使用法』を即物的な<不変物>と捉えれば、『日常』と『非日常』の側が、<可変物>の地位を獲得してしまう。依って『不変』が<可変>に置き換われば、思い入れ・評価・価値も、変わって見えて来るものなのであろう。殊更に、即物的な物に、感情を投入し過ぎて、物を以って、その背後を矮小化するのも、神聖化するのも、如何なものか?・・・・ と思っている次第だけである。
 
   人の心、止まるを知らず、何処へ? 我が心、何処や・・・ 
                   としか言い様の無い世界の登場でしかあるまい。

<死の弔い>を遠巻きに、去来する故人との来しきシーンを思い返しながら、手を合わせていれば、感情は起伏を小さく保つことが出来るが、死に顔を見詰めれば、感情は一気に昂ぶるものである。遺体が火葬に付され白骨で相対すれば、そこに横たわるものは<生と死>の境と諦めだけである。死の弔いほど、境と諦めを日常の中で、如実に見せてくれるものは無い。・・・合掌。

心何処ーショート 風のよもやま話(さの4,5)

 早朝5時に出発して、21時に帰って参りました。東京の寒さに、ビックリしました。久し振りの親戚の面々・・・ 遠目には、過ぎし日の昔日の思いでありましたが、話を交わせば、加齢の下に甦る若き日々でありました。依って、本日分の日記風エッセイ・心何処は、割愛とします。古いものですが、お目をお通し下さいませ。

                     風のよもやま話
 その4
 梅雨を待たずに、夏の茹だる様な暑さが、続いている。朝から山の頂には、真っ白な入道雲が、幾つも競り上がっていた。小さな森には、木立を抜けて時折、涼風が通るだけである。蝉時雨は盛んであるが、木々の葉は水分を捥ぎ取られた様に、草臥れ果てた態である。主風は苦り切った顔で、頭をボリボリ掻いている。主風は、森の出っ張りに立つ椎の大木の梢に、身体を巻き付けると、上昇気流の来るのを待った。周囲を見渡して、方向を東南の山並に定めた。そして、大きな上昇気流にヒョイと乗っかると、身体を糸の様に軽くして山並目指して、消えて行った。

「お~い、雷雲よ。予定は、如何じゃい。此処が済んだら、ワシの方にも、足を運んでくれんかな。」
「親父さんの直々のお出ましとあっては、断れん。少し回すよ。どうだい、少しシャワーでも浴びて行ったら。」
「ああ、そうさせて貰うよ。一息付いたら、運び屋の所に顔を出してから、帰るよ。」

<人間の奴等め、地球のそこら中で、バカスカCO2出しやがるから、環境がすっかり変わっちゃたわい。雨不足・雪不足と思えば、集中豪雨・豪雪、異常高温に低温、全く先の読めない時代に成ってしまったものだわい。身の程知らずの行儀の悪さと言ったら、完全に害獣じゃわい。ライフ・ラインのインフラ整備とか抜かし居って、見た目には、整理は進んでいる様じゃが・・・水の巨大な循環サイクルが狂ってしまえば、中身の無いインフラなど、只のガラクタ同然じゃわい。人間ども、自分達のケツに火が付いているのも、見て見ぬ振りを決め込んでいる。人間と云う動物は、実際に苦しまなければ、絶対前に進まん集団じゃ。コレラ・黒死病・天然痘・梅毒なんかの伝染病に大戦争と云った<害獣減らし>も、奴等自身、特効薬・死滅武器を持ってしまったから、今となっては、効果無しじゃ。事此処に至っては、異常気象で、食料・水を断ち切ってしまう荒療治しかあるまいと言う事か・・・ そうなれば害は、全てに及ぶ。老体には気の重い光景じゃ・・・>
           主風は、ブツブツ呟きながら、森に帰って行った。

 黒雲が湧き上る様に、重く垂れ込めて来た。乾いた大地をパラパラと雨が走って行くと、稲妻の閃光が幾筋も空を割って、腹にズシンズシンと轟かせ始めた。堰を切った様に、大粒の雨が土煙を立てて、機銃掃射の如くバシバシと大地を打ち鳴らした。忽ちにして、褐色の泡に覆われるや、雨は泡を乗せた儘、低きを求めて行進を始めた。溜まった流れは水位を蓄えると、再び大行進を開始して行く。褐色の土の匂いをプンプンさせた谷川は、音を立てて一気に流れ下った。猿も鹿も、狐・狸も、尻尾を巻いて、森の洞窟に逃げ込んで来た。2時間もすると、空は明るくなった。動物達は洞窟から出ると、ブルブルッと濡れた毛を逆立て水気を払うと、思い思いの方角に散って行った。小さな森は、葉から落ちる雫の音が聞こえるだけの静寂さが、満ちて来ただけである。再び上昇気流が起こって、森には心地良い涼風が吹き渡っていた。主風は、男がケーブルを伝って来たのも知らず、身体を太くして、大木の幹の間を縫う様に大きく伸ばして、大鼾を掻いている。

 その5
 梅雨に入って水を得た大地は、緑と樹勢を甦らせた。短い穏やかな梅雨の時期は、何時の間にか終わってしまった。夏の積乱雲が、ニョキニョキと、山頂に幾つもの巨大な白い居城を、築き上げていた。毎日、茹だる様な暑さを提供し続ける高気圧が、どっかりと居座っている。低地の灼熱地獄は、大変な事態を引き起こしている。人間の熱中死に野菜不足、節水騒ぎに電力不足である。
森の主風は、大きな風の吹かないこのシーズン、山腹を渡るだけの上昇気流の横風に、身を任せるだけの毎日である。訪れる友人の風も無く、長々と気だるい身体を森に横たえている。

<退屈この上ない限りじゃ、夜に成ったら、夜風に乗って、街に下りて見るか・・・>

 熱帯夜の暑気が、ムンムンする街中である。通わぬ空気に、主風と云えども夜の徘徊は、思うに任せない。
        <スス、スゥ~ 、おぅ、不味い空気じゃわい。フゥ~、>
 主風は口を大きく開けて空気を吸い上げ、長い身体に溜めた暑くどんよりした空気を、身体の最後尾の口を窄めて、吐き出す事で、街場のビル街を見て回る。ある時は一気に、またある時は徐々に、吐出を加減して見て回るのである。彼の徘徊の原動力は、僅かばかりの風と体内に取り込んだ空気の吐出だけである。風の仕組みは、空気の温度差であるから、川の小さな涼を求めて川を目指す。夜の街は、飲食店の灯で賑やかである。とある<小料理>の灯を見付けて、主風はスルリと入った。こざっぱりとした店内は、繁盛していた。

<些か疲れたわい。人間どものクーラーに、当たって行くか、ワシも歳じゃて。>

  年の頃、60歳前後の男が2人、生ビールを美味そうに口に運びながら、話している。
「イヤ~、参りましたよ。電話が、急に通じなく成りましてね。様子がおかしいんで、ガイドをしてくれた男に、調べて貰ったんですよ。そしたら、子供を産んだと云うじゃないですか。頭が真っ白に成るほどに、ショックでしたよ。日本に出稼ぎに来る前に、結婚していたらしくてね・・・ほら、向こうの男は、定職も無くゴロゴロして居るのが、多いでしょう。別れちゃったらしくて、それで日本に来て、ホステス稼業ですわな。そこで、私と知り合った。お決まりのコースですわな。私も定年後は、自由に成れますから、日本と物価の安いフィリピンを交互に行き来して、老後を楽しもう、何て考えてましたから、『結婚相手』として彼女と付き合っていたんですよ。子供の父親は、別れた亭主との事ですよ。私の置いて来た金で、カラオケの店やら、日本の中古の軽トラを改造したタクシイを、レンタルしたりして、『将来に見所』がある女だと期待していたんですがね。私も2度ほど、ダバオの彼女の実家を、訪れていたんですよ。2月の時に行ったんですよ。そしたら、葬式に成ってしまったと、如何しても会えなかったんですが、その時が出産前後だったんでしょうから、今から考えると、『絶対』に会えない訳ですよ。9月に皆と行った時は、逆算すると妊娠6ヶ月でしょうに、残念ながら、誰も彼女の妊娠に気付かなかった。それがこんな結末でしょう。女は、母親に<日本人を騙した。>ときつく叱られて、家から出されて泣いているとの調査結果でした。自分の非を悔いて泣いているのか、『他の理由』で泣いているのかが、私の最重要の関心事ですけど、それを知る術は無いですから、すっぱり『グッド・バイ』しました。フィリピン好みの周囲からは、この種の話は、幾つも聞いていたんですが、・・・・・実際、自分が、その一員に成って見ると、・・・・・情けない話です。自分を鎮めるのに、大分苦労しましたよ。」

      男達は、生ビールの中ハイを傾けながら、肴に箸を伸ばして居る。
「俺は皆さんとは逆に、体質的に彼等彼女達が嫌いだから、一般論的な傍観者の態度で、観察しているから、<然もありなん>って感想ですよ。感情を捨てて分析すれば、彼女達にとっては、得難い『纏まった現金稼ぎ』なんでしょうね。ホステス稼業で、男心を擽(くすぐ)るテクニックと、ターゲット、カモを見付けて、『ジャパ行き』ネットワークを駆使する。目的達成への仲間内の『ケース・スタディ、討論会』には、事欠かない環境にあるんだから・・・ あの手この手で男を篭絡(ろうらく)させて、贅沢な生活を築く算段の毎日かも知れない。ある冷めた見方からすれば、家族、ネット・ワークを挙げての一大ビジネスなんですよ。人気のホステスは、再び入国して、更にテクニックとネット・ワークを上達・拡げて、ダンナ衆を複数ゲットして、ビジネス・チャンスを本国に持ち帰る。私には、日本人として、<堪らない光景>ですよ。『同胞が、易々と騙される』んですから、これは・・・・・ 大河ドラマの風林火山ではないけど、男達は政治的軍事的な諜略(ちょうりゃく)行為には、結構、鼻が利くものだけど、殊、女の打算的色香には、日本男性は『免疫力がゼロ』に等しい。実に無用心この上無しの腑抜け状態に、成り下がってしまいますよ。フィリピン女の当たりの良さに、リップ・サービスで一寸、<甘い言葉>を耳元で囁かれちゃうと、<俺は、モテル!!>なんて、有頂天に為ってしまう。彼女達のスキン・シップ旺盛な『フィリピーノ・ホスピタリティ』なんて表現されているらしいけど、その彼女達が、舌足らずの甘い言葉を『業務用語』で使ったとしても、耳にする男には『トロピカルな愛の囁き』に聞こえて、可愛いの錯覚に沈んでしまう。余り意味の無い外国人の多発する『言の端(言の葉)』のトロピカル・ムードが、財布の口を開かせる。劃して『男の非日常』の始まりって処でしょう。フィリピーノへの無関心、多少の蔑視を伴わなければ、男には、見えて来ない彼女達の<猿芝居>ですよ。」
「経験が有りますな。」
「お察しの通りです。恋は盲目と、『古からの戒め』ですよ。」
「まぁまぁ、焼酎にしますか。オネエサン、此処に焼酎!!」
「出稼ぎ大国何て、不名誉な枕詞を貰っているお国柄ですよ。詐欺紛いのホステス・ビジネスが、顰蹙を買って、就労ビザの門戸を閉ざされているのが、昨今の本態でしょう。向こうにして見たら<出稼ぎ立国>ですから、高齢化・在宅看護何て、美辞麗句で世論を煽っていますけど、フィリピン介護士の大量就労を政府間で合意してるんでしょ。私は、反対ですね。彼等の実体を実感して、把握していない連中の合意なんか、危ないですよ。真に受けて、ハイハイ受け入れた日には、<鬼平犯科帳>の世界に為ってしまいますよ。『手引きに押し込み』の<急ぎ仕事>が、巷に溢れてしまいますよ。日本人同士だって、嘗ては<豊田商事事件>が有りましたからね。人の善意を拠り所にして来た日本人、特に高齢者には、そんな事態にでも成ったら、永遠に<美しい日本・日本人>の社会風土は、カムバックしないばかりか、辛うじて残されている精神風土が、ズタズタにされかねませんよ。断って置きますが、アルコールが、言わせている訳じぁ有りませんよ。」

    <フンフン、人間共も、年の功か、退屈凌ぎに、少し聞いて行くか・・・>
 そのテーブルには、6人分の膳が設けられていた。続々とメンバー達が入って来た。彼等は中年の気の合った旅行メンバーらしい。過去の旅行話に、ビールが注がれ、刺身の盛り合わせ、焼き魚、煮魚に箸が伸び、煙草の煙と共に爆笑が飛び交う。焼酎のビンは空に成り、次のボトルの封が切られる。カウンターの席には、老人達のグループが、腰を落ち着かせている。盛夏に弾む繁華街から外れたこじんまりとした、家族が働く海鮮小料理屋である。

「この前さ、駅前の店に行ったんだよ。〇〇さん、気付かなかった。」
「えっ、何か変わった事、有りましたっけ? 店には、チョコチョコ顔出しているんだけど。」
「ほら、★★さんの彼女、居るんですよ。」
「まさか、先週、彼と飲んだけど、そんな話、出なかったよ。彼、以前懇意にしていた韓国の彼女達が、日本に来るなんて言ってただけで、フィリピンの彼女の話は、全く出なかったですよ。」
「ほう、彼女がねぇ~ 我々のフィリピン行の現地合流組の常連さんなのに!! って事は、お忍びかね。それとも〇〇さんに、<右倣え>で、グッド・バイの状態って事ですか。」
「いや~、彼は情けに厚い御仁ですから、<来るは、拒まず。去るは、追わず。>だから、・・・彼のスタンスから察すると、グッド・バイの線は薄いでしょう。△△さんの方が、彼とは付き合いが長いでしょ。解説して下さいよ。」

   指名された男は、咥えた煙草を吸い込んで、
               大きく白い煙を吐き、氷割の焼酎のグラスを傾けた。

★★の存在は、この会でも大きい様である。話題の彼の心情を慮(おもんばか)るムードが、場に流れる。

「う~ん、そうね。皆さんも知ってる彼女だから、評価は、中々のベテランでしょう。<知らぬが花>って事は、多い事です。まぁ彼の場合、精神的に深い関係でも無さそうだから、黙っていた方が良いでしょう。幾らお遊びと言っても、彼女の『水臭さ』は、彼に取ったら『心穏やか』じゃないでしょう。つくづくと、ベテラン・フィリピーノ達の心理、行動学は、我々には想像外の範疇ですわな。この会のメンバーでは、アンチ・フィリピーノは、私と◇◇さんだけですから、我、関せずですよ。皆さん、お盛んの様子で、度胸満点、ご立派。◇◇さん、我々には、『先見の明』が有りましたよ。ウッヒッヒ。』

            「オフレコにしましょう。」

<人間共も、たまには気の利いた酒を飲むものじゃわい。そう云えば、アイツは、如何しているものやら・・・> 森の主風は、ヒョイと身体を丸めると、暖簾をサワサワと揺らして、夜の街に消えて行った。

心何処ーショート またまた弾けたボロ

 亡長兄の奥さんが亡くなった。明日は、その葬儀で上京する。こんな時に限って、普段、顔を見せない次兄が、兄貴面をして老母の前に現われる。小さい頃から、愚痴話3/5で口数の多い、何かとお為ごかしをする男である。反りが合わないから、私は終始遠巻きの態度で頷いている事が多い。右から左に聞き流して、早く帰ってくれないものかと願いつつ、お茶の相手をしている。

 意外な事に、老母は、この兄と話しが合うのであるから・・・ 仕方の無い相性なのであろう。『コンチクショウ』と思った処で、如何にも為らない関係が、血縁関係なのであろう。散々、私の流儀とは衝突する話に、付き合わされてしまった。ヤレヤレの段であった。昨夜は、ちと夜更かしをしてしまった。時差ボケの様な脳味噌を、如何するか等と思っている矢先、兄から電話が掛かって来た。一つ言い忘れた事があるから、連絡を頼むとの事であった。

<そんな事は、大勢に影響は無い事だろう。兄の権限で、テメェが遣りゃ済む事だろうが。男は黙って実行すれば良い。単なるお袋へのリップサービスに、弟の俺を道具扱いするな。兄貴だという事と、兄貴で居る事の差が、一向に理解出来んのか、手前も、大学出てるだろうが。甘えるのも、好い加減に晒せ。アホンダラ。>・・・ 幾ら短腹者と云えども、其処まで言ったんじゃ、「お終ぇよ。」のフーテンの寅さんの決まり文句に為ってしまうから、言わぬが花を基本としているのであるが・・・反りの合わぬ困った兄弟である。

 兄弟・親子とは、他人で無い分、興奮すると、とんでも無い罵詈雑言を浴びせたく為るものである。同じDNAを共有する間柄であるから、譬え口に出してバトルを繰り広げたとしても、<ヘヘヘ>で、ムヤムヤで過ごしてしまうのであるから、じぁれ合って居た餓鬼の時代から、進歩の無い間柄と為ってしまうのである。

 私の<昼行灯>の演技にも、限界があると言うものである。兄の顔を立てて、電話を切った後に、突如として血流が、一気に頭に逆流してしまった。老母の前で携帯電話を叩きつけてしまった。『アジャジャ!! お恥ずかしながら、<本性>を暴露してしまった。』年の功で、瞬間湯沸かし器の短腹振りは、年に1~2度とすっかり大人しくなったのだが・・・ 森の石松の気性は、<死ななければ、治らない>の譬え通りである。尤も、瞬間湯沸かし器の性質であるから、冷めるのも至って速い。1~2分もすれば、ケロリなのであるから、他人は狐に鼻を摘まれた様な感じで、得体の知れない性格なのだと言う。気分の収まった処で、兄の意思を遺族に電話する。

 明日顔を出してくれるらしいM氏に、不在の旨を連絡する。こんな時は、我が僚友Tの顔を見るに限る。明日は多分、Tの方から顔を見せてくれそうなのであったが、彼が居れば、私が出向こうと思って電話をすると、野暮用が入っているとの事であった。<まぁ、これもお天道様の思し召し>であろう。感情に駆られて、下らぬ愚痴を、友に溢す事もあるまい。

 家で入浴・洗濯後は、買出しを済ます。老母は入浴後は、息が上がるから暫時休憩が必要である。桜の花も、綻び始めた事でもある。下駄を履いて、散歩がてらに写真をと思い、外に出る。S大に通じる歩行・自転車専用の橋を渡っていると、中国語・韓国語の一団とすれ違う。留学生達が寄宿する国際交流会館が、近くにある。寄宿期間は1年であるから、全員新入生なのである。環境が一新されて、見る物・聞く物、全てが新鮮に映るのであろう。地理不案内であるから、行動はグループである。言葉の通じる同国人同士であるから、春の散策には、持って来いの環境であろう。今年も、白人美形の留学生の肢体を拝見したいのであるが、さてさて、如何な事に成っているのだろうか・・・

 ラジオの桜便りでは、東北並みの桜開花宣言であるが、信州松本の桜は、概ね二分から三分咲きの状況だろうか。春が遅い分、花々のラッシュが続く。春風に乗って、花の強い香りが、鼻孔に充満する。茎丈の短いタンポポの黄色が、陽射しに一入(ひとしお)鮮やかである。黄色い花粉を脚に付けた西洋蜜蜂が、何匹もタンポポの花を渡っている。桜花満開の写真は、まだ先の事である。

心何処ーショート 4/10は、終日の雨なり

 生憎、雨の中の早朝資源物のゴミ出しである。普段とは2時間程早いから、部屋で静かにラジオに耳を傾けている。子タニシの成長には、驚かされる。彼等は水中の藻類を食料としているのであるが、それが如何して石灰質の殻に変身するのか? 見た目には???の様相である。覗き込めば、水草の上には子タニシ達が、早くも小さな殻に文様を見せ始めている。成長してしまえば、黒一色にしか見えない貝殻の色であるが、こうして見ていると、それは薄い頼りなげな焦げ茶色の積み重ねの為せる業なのである。

 春を迎えて水の蒸発量が、目立って来た。小水槽の新しい雄グッピィの1匹に、泳ぎの下手?不恰好な奴が居る。人間で言えば、平衡感覚を掌る三半規管に些かの問題があるのだろうが、可哀想に、彼の姿勢は平衡が保てないらしい。静かな小世界を、ただ一匹頭を上げた30度位の角度で、忙しげに泳ぎ回っている。彼は、赤を基調にした深紅のヒレを持つ新生のオスなのであるが、きっとエネルギーの酷使の果てに、短命の一生を終えるのだろう。

 ラジオの天気情報では、終日の雨模様であるらしい。老母の動きを待って、飯後は蒲団に潜り込んで、怠惰の休養でもする積りである。

 本日は、チベット亡命政府のダライ・ラマ14世が、滞在時間10時間の中で、チベットの窮状を訴える記者会見があると言う。何か騒ぎが起こらぬ限りは、一般人の注意を喚起する事の出来ない<人間達の心の無関心さで流れる無為転変の日常>である。仏教経典・日中戦争と因縁浅からぬ日本とチベットの現代史を持つ間柄である。日本人の心情的なエールの交換が、法王の気持ちの中に残る事を念ずる次第である。 
       ・・・・嗚呼、4/10は、終日雨為り。

心何処ーショート 堂々と最敬礼

 散歩から帰って来ると郵便受けに、見慣れた文字の女房から手紙が入っていた。先日は、老母の娘への餞別のお礼の葉書が、老母宛にあった。嬉しい限りである。嫁と姑問題で、苦労を掛け続けた女房である。ある意味では、私は重級戦犯である。それを自覚し譲れぬ故に、時の成り行きに任せるしか無いと、心に決めていた次第である。好きで選んで一緒になったのであるから、最終的には、成る様に成ると楽観的に構えるしか無かった。好きの感情さえあれば、何とか為ると云うのが持論であったから、自分の目に狂いは無かったと、女房に感謝している処である。長い別居生活ではあるが、要所要所で私を代理してくれる行為には、感謝と共に安心していたのである。別居の女房・子供達が、とんでもない存在感?のオヤジに対して、自分の心の壁を前に、如何に向き合い、答の鍵=<許す事は、拘る自分の感情・心を許す事。>の自問自答なのであるが、それを自分で実践出来るかに掛かっている。当然に私も、その当事者の一員には変わりが無い。

 若かりし時、私もその困難な壁を乗り越えて、一皮剥けた経験があった。許す事は、自分を許す事だとは、機会を捉えて私の分身たる家族に、「言葉」としては贈って来た積りであるが、知る事は、行う事の王陽明の<知行合一>なのであるが、悲しいかな人間とは、言葉は経験して見なければ、『抽象語から実態語への変換』として身に付かないのである。遺伝子・分身を夢想して、待つより術の無い経験・心の在り様なのである。

 前回3/29投稿の『新年度』は、私の別居中の家族に感謝の気持ちを、その儘、形にしたものであった。<さすがなり、女房殿、倅殿、娘殿>である。女房の便りに依ると、小さい頃、私そっくりの顔に不満を持って、如何してお母さんそっくりの顔で生んでくれなかったのか? と泣いていた娘は、私と離れて、雰囲気と云い顔付きと云い女房に好く似て来たものだと、感心していたものであった。不思議な事に、倅・娘の口調は、私に好く似ていた。これが血の繋がりと云う物なのかと・・・ 実にこそばゆい思いに駆られていたものであった。女房の見る処では、娘は老母の気質を、色濃く継いでいるとの事である。文面では、皆で遺伝子の分け前について、オヤジのケチ振りが指弾されていたそうである。

 日本の大まかな感想からすれば、こんな私事は、親馬鹿・惚気話の範疇に入る。門外不出の宝物の類である。然し、私は一風変わった天邪鬼である。<悪いものは、悪い。好いものは、好い。> これは、人間の自明の理である。人間として、好ましい枝葉が伸びて来たのである。それも、老母を通して枝葉を繋ごうとしているのであるから、実に喜ばしい限りなのである。連れ合いを早く亡くし、女を捨て気丈の生活態度で、子供達を育て上げた後は、長く孤高の生活を送っていた大正女の一人である。途中で2人の子を見送った日本の老母の一人である。然し、自分の古風な生き方を、女房に刻んだ女であり、老母のエキスを子供達に培わせた女が、女房である。物臭三昧を許してくれた女房を誇っても、お天道様の罰は当たるまい。 

心何処ーショート マイ・タイム

 夕食前に布団の中で昼寝をしながら、ラジオを聞いていると電話が鳴った。Tからであった。この処、彼からは珍しく電話が無かった。聞けば、ロートルに乞われて、フィリピンに遊びに行っていたのだと言う。奴の人柄からして、<然もありなむ。>である。Tにして見たら、お袋さんの看病で、この数年飲みにも行かず、大人しくしていたのであるから、『渡りに船』であったのだろう。声の調子からしても、何年か振りの羽伸ばしが出来た気分が、充分伝わって来た。火曜日であるから夕食後は、老母の好きなNHKの歌謡番組のお付き合いである。見守って行きたい気持ちを、そそられた女性演歌歌手が一人居た。今度は、M氏からの電話である。

 部屋に戻り、タバコを燻らせる。考えると、本日は天候とは裏腹に、好く話を交わした1日であった。午前中は、介護認定の聞き取り調査の若い女性職員に立会い、銭湯ではS大生二人と話を交わし、米屋さんでは昔話に花を咲かせ、途中から顔を出した一回り若い女性市会議員と、世間話をしてしまったのである。これだけ人と話を交わせば、数日間は言葉を交わさなくとも、言葉は忘れまい。午前中にノルマを達成したのであるから、場合に依っては・・・・ 等と考えていたのであるが、そんな気持ちは、すっかり萎んでしまった次第である。

 明けて太陽の陽射しである。ラジオに耳を傾けていると、オリンピック聖火リレー騒動が話題に成っている。ある識者の解説だと携帯ラジオを引き合いに、中国製品の世界市場席捲の状況、華僑達のチャイナ・タウン・革命指導者の所縁(ゆかり)の地、中華思想プンプンの中国人の仕切り屋体質(これは、私の感想)、それらが西洋人の潜在的脅威感に働いて、チベット問題(武力侵略・人権侵害)を契機に、支持行動に出たとの見方であった。品好く纏めれば、確かにそうであろう。

 私は育ちが悪いから、如何しても下衆目線で中国を眺めてしまう。私の下衆目線からの対中国スケッチは、<ハクション、青島の巻>に登場する中国人女ガイドの態度、<洋々の街・大連><スネーク・ヘツド><ウェイ、女史2人>等のエロチィック・エッセイの旅行記に記してあるのだが、中国人の平均値からすれば、それの方がより彼等の本態に近いと思われる。若い頃は、文学に現われる「藤村先生」?・「阿Q正伝」等に現われる人間の普遍性に大きく頷いていたのだが、間近に中国人に接する機会が多くなると、何時しか彼等との間には、渡し難い異質の乖離感を感じてしまったのである。

 この5~6年に至っては、旧ソビエト圏の白人美形との思考的比較から、共産主義下に於ける教条主義者・洗脳集団等と云った同情は、何時しかきれいに消滅してしまった。彼等の<内なる体質と民度>に、その真因を垣間見る想いでしか無く成ってしまった。『靖国・歴史教科書・領土・中国人犯罪数・6ヵ国協議・毒入り餃子・環境・オリンピック・チベット・・etc』で、益々、彼等の本性が露呈されて来る昨今、<愛国無罪!!>一辺倒の紅衛兵体質の輸出振りには、反吐が出る始末である。イカンイカンと思いながら、一々癇に障る昨今である。

 ハリウッドの大スターの一人に、スティーブ・マックィーンが居る。私は彼のファンでは無いが、彼の主演作の一つに1966年製作・監督ロバート・ワイズ、共演キャンディス・バーゲン・・・岩松信の<砲艦サンパブロ>の大作がある。1920年代、混乱の中国を舞台に、今は亡きスティーブ・マックィーンが演じる哀愁のアメリカ水兵を通して描かれた植民地支配への激しい批判を軸にワイズが社会派の本領を発揮したヒューマンなスペクタル大作(解説抜粋)

 アメリカ人の中国社会・中国人を観る感想として、大いに参考と為る映画の1本である。私のこの映画への動機は、岩松信を鑑賞する事であった。彼の熱演に日本人の一人として、拍手を贈ったと同時に、中国人の体質を鋭く抉っていると関心させられた一本であり、以後の<私の中国考>に少なからぬ『後遺症』を、引き摺り続けているテキストの一つである。

 これとは対極の観点から、中国を舞台としている映画には、1955年のウィリアム・ホールデン、ジェニファー・ジョーンズで贈るラブ・ストリーの名作<慕情>、58年のイングリッド・バーグマン、クルト・ユルゲンスの<六番目の幸福>等と云った作品がある。

 書き手・撮り手の観点・視点から、作品は全く異なったメッセージを授けてくれるものである。人間は、限られた環境・空間で一生を閉じる<有限の生>である。限られた生である以上、他人様の視点・観点を見させて頂いて、その活用の果てに、自分の選球眼を培って、<自分の行動の糧>にするしかあるまい。漸くブログ樹海の楽しみ方を、覚えつつある昨今である。活用法を誤らなければ、ボケ防止には、打って付けの文明の利器なのかも知れぬ。

 アリャリャ、身の丈を忘れて字面を並べていると、お天道様は、<読むに値せず>と、思し召しなのであろう。何時の間にやら、曇天の雲行きである。ご機嫌を損ねぬ内に、散歩に出掛ける事に致しましょうか。下衆の考えは、さもしい限りである。

心何処ーショート 筋肉痛

 昨夜からの雨は、漸く上がった様である。本日は要介護の再認定日であるから、少々早起きをして、一通り掃除を終えた処である。面白いもので、遣る人間が自分しか居ないと為ると、文句のモの字も出ずに黙々と遣るものである。
 
 朝のモーニング・コーヒーを啜っているのだが、口に咥えているのは、最後の一本である。タバコの買い置きを、買いに行かねば為らない。ああ、面倒であるが、私にとっては必需品である。

 何時降り出しても可笑しくない曇り空である。手前の小水槽のグッピイ達は、中層よりやや上層部に、隊列を組んだかの様に停止泳ぎをしている。まるで、それは、イギリスでの聖火リレーの騒動を受けて、芸術・文化の都・カルチュラタンの都・パリでの聖火リレー警護の布陣を連想させる。興味を引く隊列であったから、冷やかしに手元の物差しで、水槽の側面を軽く一つ叩いて遣った。隊列がパッと散ったのは、予想通りであったが、何と再び隊列を組んだグッピィ達である。『気に入った。小住人達の根性たるや、中々の物であると同時に、偏狭思想大国の嫌われ様は、本物である。』

 日曜夜のNHK<激流中国>は、私の好きな番組の一つである。公共放送と云えども、テレビのドキュメント番組の一つであるから、そこには編集の加工が施されているのは、紛れも無い事実であろう。この手の口は、気障りなコメンテーターなる者が、しゃしゃり出ない分、救われる思いがする。ドキュメント構成・編集には、背後に確固たる意思が横たわっているのは、当然の話であるが、雑音が無い分、映像を資料として見て、自己眼で判断し、番組構成者と対話する気分に浸れる<錯覚>を覚える処が、好いのである。映像に順序を与えて編集構成するのが、ドキュメンタリーなのであるから、物語には当然『起承転結』のセオリーが意図されているのである。この説得話法の流れには、当然に作り手の誘導が働いているのは、自明の理なのである。

 有名なアニメの決まり文句ではないが、『豚も煽てりゃ、木に登る。』ハタマタ、格調高く同種の格言を紐解けば、山本五十六長官の『男の修行』に顔を覗かせる人間の遣る気の涵養が思い付く処である。人のヤル気・自発性を導き出すには、少なからず<人の心を好い気分>に誘導する必要があろう。好い気分で誘導されれば、人間は好ましい側面を発揮して、踊りの輪を拡げてくれるものなのであるが・・・ 

 願わくば、<損得踊り>よりも『善人踊り』の方が、観ていて楽しいのである。啓蒙・教育・誘導は、偏ってしまったら、現代のアジアの張子大国に成り下がってしまう。豊かさの一側面に、選択肢の豊かさがあるらしい。多様な選択肢を吟味するのは、物臭者には大変に草臥れる物の様である。

 中断に次ぐ中断の午前中であったが、如何やら取り留めの無い言の葉も、余白を埋められた感じである。昨日の怠惰者の筋肉痛を癒しに、温泉銭湯の後は、買出しに回らなければ為るまい。

心何処ーショート トホホ、疲労困憊
 さぁ起きて、本日を始めますかと支度をしていると、<お早うございます。>の声である。手が空いたとの事で、伸び放題の庭木を切る為に、弟が身の軽い者を2人回してくれたとの事である。高みの見物では、男として、相済まぬ。早速、3人で作業に取り掛かる。2tダンプ3台分の作業が終了したのは、4時であった。清々したのは、有難いが、疲労困憊の態でありまする。

     従いまして、本日分は、<風のよもやま話>で、ご勘弁下さいませ。

                  <風のよもやま話>
 その2
 謎めいた若者は、時々森に姿を現わしていた。彼は、戸外ではイヤホンで音楽を聴き、まるで日課の様に身体の鍛錬をしたり、絵を描いたりして数日を過ごして行くのであった。

 森の大木には、新しいワイヤーが張られていた。ナップサックを背負った男が、ロープでスゥーと上がって行った。ワイヤーにフックを掛けると、その儘、山の緑の中へ消えて行った。風より速い動きだった。生憎、森に風は無かった。慌てた森の主風は、自分の身体を丸めると、出口をあるったけ窄(すぼ)めて、内部の圧力を最大にして、その出口目指して自分の身体を、一気に噴出させて、男の消えた方向を追った。彼は、小さな森の老いた主風であるから、彼の容積は、忽ちにして運動を停止してしまう。無風の大気の下では、彼は、収縮・噴出を繰り返さねば為らなかった。頼りは、見え隠れする架線のワイヤーのみである。

「フゥ~、若造め、洒落た真似をしおって、お前達人間は、文明の利器を使用出来るから羨ましいわい。わしらの利器は、太古の昔から、自助努力・知恵の積み重ねだけじゃ。今日は見とれ、この塩梅では、訪ねて来る友人も居らんじゃろうから、とっくりとお前さんの正体を見て遣るわい。」

「フゥ~、久し振りの運動で、腹筋が痛いわい。目印がある事じゃから、急く必要も無かろう。」

「おぅ、居った居った。」

 主風の目に、男の姿が入って来た。森から南に、一山越えた山の窪みである。主風は、伸び切った身体を、森で過ごしている時の寛ぎの態勢に戻して、高みから見物を始めた。

 迷彩服を着た男は、レーザー銃を手に、木立に貼られた人型の的に、走り撃ち・臥せ撃ちを繰り返していた。人型の的には特殊塗料が施されているらしく、命中した箇所からは、幾つかの煙がポッと上がっていた。煙の色に応じて、命中度の識別が判る仕組みに為っている模様であった。今度はライフル銃に持ち替えて、遠い的の射撃に移った。そして、徒手空拳の業、木刀・槍を振るってのトレーニングに励んで行くのであった。

「ほぅ、今時の若造も、中々遣るものじゃ。結構昔には、山に篭って、修行した男達も多かったもんじゃが・・・・・ とんと久しくお目に掛らなかった光景じぁ。今流行の<お宅族>にしては、この若造、芯が有り過ぎる。職業人と見ざるを得まい。とんだ下宿人に入り込まれてしまったもんじゃわい。」
主風は白い顎鬚を擦ると、一陣の風に舞い上がって、森に帰って行った。

 その3
 夜に成ると、森には心地良い風が、吹き渡っていた。潅木の小さな葉をカサカサ揺らしたり、大木椎の梢一杯の青葉を、そよそよ鳴らし、時には梢ごとザワザワと鳴らしたりする。

「主風、居るかい? 俺、とうとう奴の顔見たぜ。例の<森の風人>、若い精悍な男前だよ。」
「ほぅ、そうかい。年の頃は28、9だろう。身長は185、6で、顔は細面、鼻筋が通っていて、目は切れ長の一重目蓋で鋭くもあり、柔和でもある。左のこみかみに、うっすらとヤンチャ傷がある。性格は、用意周到にして敏と云った処じゃろう。普段の行動は謎。尾行しても、山の暗闇に天狗の様に、一瞬にして掻き消える。」
「えっ、主風、お前さん、奴を知ってるのかい?」
「いいや知らん。お前さんの顔に書いてある事を、言った迄じゃわい。ウォホッホッ。」 
「そうかい、此処は、風の通り道、溜り道だもんなぁ~ お前さんが知っていても、不思議あるまいか・・・」
「まぁ、好いわい。また何か仕出かしたか、<森の風人> 聞こうじゃないか。今夜は、ゆっくりして行くと好い。きっと、事件は起こらんから。」

          森の主風は、悪戯ぽい目で、洞窟に流し目を一つした。
 
 話は、凡そこうであった。オリンピック景気で物議を醸し出している、アジアの大国での出来事であると云う。経済開放化路線で圧倒的貧富の差が拡がる仕組みは、政官民が癒着する情報の独占化・インサイダー取引にあるそうだ。その堅固な仕組みが、大打撃を蒙ったとの事である。第一次情報は、決定権を持つ一握りの高級官僚から、極近しい開放化路線第一期生の金力者に耳打ちされる。金力者は公権力のプロジェクトの規模に応じて、個人で賄える時は個人の金力で、大規模プロジェクトに関しては、第一期生金力者のネットワークを通して、資金を調達すると云う。とんでもない巨大インサイダー取引であるから、失敗は殆ど無いそうである。久々の巨大プロジェクトに、キングの威名で呼ばれる金力者が、満面の笑みを湛えて揉み手をしながら、ネットワークの密談室に現れたのは、その場に居なくとも想像に難く無い処であると云う。調達資金量・プロジェクト開示時期・収益・各自の調達資金量について、彼等は念密に打ち合わせを行ったそうである。プロジェクト開発会社の準備・資金調達は、秘密裏の内に着々と進んでいた。そんな折、アジアのパソコン普及大国を誇るその国のインター・ネット上に、1大暴露情報が流れたと云う。情報の国家統制が幅を利かすアジアの大国での、政官民の一蓮托生のグル振りは、公式のメディアには、絶対登場しなかったのは、言うまでも無い事であったが、暴露ネットは、連日のオーバー・ヒート振りであったと云う。余りの反響に、巨大プロジェクトは頓挫し、金力者の多くは、政治的牢獄行きの泡沫感を味わっているそうである。 

暴露情報の発信人は、<風に耳あり、口あり、目あり。我の名は、森の風人。>
                  と、書かれてあったそうである。

 今日中に、東京に帰りたいと言う風を、椎の大木の梢から見送った主風であるが、
「そうであったか、時代の流れじゃ。<風>が海を渡って、大陸の茫漠とした黄砂を一撫でしたと云う事か・・・」
そう呟くと、主風は、得心の笑みを一つ浮かべるのであった。それから、フゥ~と、息を静かに吐き出すと、身体を縮込ませ、ドアの鍵穴にスゥ~と身を潜らせて行くのであった。


心何処ーショート ようこそ信州に

 老母の動きを待ちながら、パソコンを見る。嬉しいコメントが、二つ届いていた。本日は天気が好い。朝から洗濯機を回す。部屋を開けると、寝顔が見える。洗濯物を軒下の物干し竿に吊るしてから、散歩に出掛ける。

 土手道をスーツを着た若者達が、何人も歩いている。S大の入学式らしい。スポーツ橋には、誘導員が盛んに手旗を振っている。晴れがましい舞台に参列する親御さん達の姿が、此処彼処に見える。大駐車場は、県外ナンバーで埋め尽くされている。春浅い信州の空は、晴れ渡っているが、桜の花は膨らみを大きくしているばかりである。後1週間ほど時間があれば、慶びの入学式は、桜のアーチに彩られている事であろう。在所は山国信州であるから、早々は人間の都合通りとは為らぬ。物見遊山をして欲しい親御さん達には、信州土産には一つ欠け様が・・・ 新学生さん達には、独り暮らしのスタートを飾るには、好い桜花の田園風景に為るであろう。純白の乗倉岳・群青の山肌に雪を刻んだ常念岳のアルプスの連峰は、歓迎に相応しかろう。

 通りを渡って、護国神社の境内に歩を進める。参内の石畳には、幼稚園児を5~6人連れた付き添いの保母さんが2人居た。広々した境内には、私と彼等だけである。緑青の浮いた銅葺き屋根に枝垂れた彼岸桜が、其処だけ薄いピンク色の小花を咲かせていた。銅板の熱効率の仕業に、苦笑いが一つ浮かぶ。賽銭箱の石段に胡坐を掻いて、数枚のシャッターを押していると、女子学生が2人遣って来て、デジカメ、携帯電話で写真を撮り始めた。
「護国神社って、何処にもあるのかなぁ~。」
「ああ、そうだよ。明治以来の戦没者の御霊を祀っているから、日本全国にあるらしいよ。」
女子学生2人の会話に、双眼鏡を覗いている得体の知れないロートルが、独り言の様な口調でタイミング好く、会話に入り込んだのである。
「えぇ、そうですか。知らなかった。」
日本人同士である。風体の好くないロートルに、そんな事を言われてしまったら、逃げる訳にも行くまい。彼女達は、大学院生だと言う。一人は名古屋出身、もう一人は静岡出身で琉球大学からの院生との事である。
「意外と好い所だろう。今日は好天に恵まれて、清々しい気分だろ。折角、田舎に来たんだ。信州を、胸に焼き付けて行けば好いよ。月日は速いぞ。安い温泉銭湯があるから、エネルギー消費して、入りに行けば『思い出』に繋がるぞ。冬の寒さはきついが、まあ、それもプラス・マイナス、ゼロだ。楽しんで、社会に出れば好いよ。じぁ、お先に。」

 式場と神社は、通りを1本隔てただけの距離である。私の流儀だと、時間を待つのは、何処で待とうとも同じである。通りに口を開く神社の境内に歩を進める人の少なさに、心の勿体無さを感じる好天の陽射しであった。老母の性格を考えると、起きて倅の賄いを待っている事であろう。踵を返して、昼食の膳を整えねば為るまい。

心何処ーショート 夜更けに、紫煙燻らせる

 如何云う訳か、本日はテレビを長い時間見てしまった。体調が悪く起きて来ない老母に、気を使わしては拙いと思い、銭湯で時間を潰す。昼に帰って来ても、未だ蒲団の中である。朝昼兼食の昼にする。午後は廊下の陽射しが気持ち好いから、シュラフを敷布に廊下で、長々と昼寝をする。好物の切干大根の煮付の仕込をする。浮いた時間は、昨夜の子守唄で付けていたカーク・ダグラス、トニー・カーティスの<バイキング>見る。腹が空いたから、夕食の準備に取り掛かる。

 老母は体調が回復しないのであろう、母にしては、珍しく一日中パジャマで居る。切干大根の一部を酢の物にして遣る。「好く覚えている。」と言うから、「子供の味覚は、母親から貰うものだ。」と応じると、「私より、好い味付けだ。」とすっかり小さくなった老母は、頷いて箸を伸ばしている。いつも通りに、部屋に退散したのでは、些か情に欠ける。

 テレビのチャンネルを、チャカチャカしているとオカマ・パパと6人の子供達の放映があった。当初、面白さが手伝って見ていると、グイグイと惹き込まれてしまった。見終わって、例によって老母は、私の感想に目を細めて頷いている。私の高校以来のテレビを挟んでの母と息子の感想・解説である。こんな光景は、可笑しな事であるが、如何云う訳か知らぬが、5人の倅の中で私と母との間で、交わされ続けている。

 娘時代勉強がしたかったと言う母は、本質的には、向学心・知的好奇心が旺盛な女なのであろう。親であるから、育てた証を子供達の言動の中に、見出したい気持ちがあるのであろう。子供としては、実にお安いリクエストである。政治番組・文学・歴史・絵画・推理ドラマ・海外少年少女番組と、老母はそれと無く番組を頭の中に入れて置いて、私を誘導している節が窺えるのである。老いたりと云えども、中々のテクニシャン振りを発揮している。自由放任の母であったが、年に何回か頂戴するお説教は、人の道を説いて、説得力があった。表面では『コンチクショウ、糞婆!!』などと反抗期特有の悪態を着いて居たのが、<凄ぇモノだ。理屈が通っている。信念にブレが無い。見上げた女だ。完敗である。>と、心の中では一目も二目も置いていたものである。教師以上の迫力に舌を巻くと同時に、そんな気丈にして、毅然とした母が誇らしかったものである。

 1度、映画の話で主演女優の名前を、司葉子を岡田茱莉子と母が主張した。私は、自分に絶対の自信があったから、一歩も退かなかった。事もあろうに、それを映画を見ていない兄達が、全員母に加担して、強情な私に謝れと言い始めたのである。血の気の塊であった小学六年の私には、『真実が、親孝行の陳腐さで穢されている。』と我慢が出来ずに、頑として突き返した。兄達の加勢を受けて、勝ち誇った様な母親の態度が、マグマを一気に噴出させて、憎しみを込めた平手打ちを母の頬に一発お見舞いしたのである。当然、私はその場で、屈強な兄達によって、『母親公認』の半殺しの目に遭ったのであるが・・・
 長じて、その事を母に言うと、母は大人のお惚けで、逃げてしまったのであるが、私と母には、こんな昔話もあるのである。私には、母に対する誇れる貸しの一つである。

 人と人の間には、一緒に暮らした分だけエピソードが貯まるものである。強烈なエピソード為る物は、極論で憎しみ・仲違いを短期的には齎すものの、時の経過によって、感情の棘が円く為れば、含蓄に富んだ反芻が産まれて来るものの様である。

 僚友Tの亡母との数年に亘る病院通いの中で見付けた<一対一で向き合う母と子>の時間の狭間に去来する心情に、教えられている日々である。<お前にだけ申し訳ない。>と頭を深々と下げる老母に、私は、<オヤジは、女房のバアさんに、俺と云う倅を残したんだろう。オヤジに感謝すれば好いさ。>と、照れ隠しをするしかあるまい。つくづくと巡り合わせとは、奇なるものである。

 おやおや、こんな手仕事をしていたら、日付は替わってしまった。娘の欠けた女房殿・倅殿は、週末の夜、如何なる心境である事か? 娘殿は、慌しい日々に忙殺されて、寝るが肝心の日々が当分続くであろう。

心何処ーショート 1コメント
拝啓、<気になるモノ、コト。備忘録>様へ
★ 4/3の『命の重さ』についてのコメントを差し上げようと、打ち始めていたのですが、小生の稚拙な文章能力では、コンパクトな体裁には為りそうもありません。従って、以下の長いコメントと為ってしまいました。ロートルの貴稿のコメントとしてお納め下さい。

 全く同感にして、説得力に満ちた論理展開ですね。これは、単(ひとえ)に思考の理を押し進めて行けば、思考の崖(はて)に姿を現す理の整合性でしょう。小生、生きる事には、大それた価値など無いと思い続けて、早や還暦を迎えようとして居ります。こんな自分でありましたから、若い頃は、観念優先の道を歩いていました。20代の頃、不図、書店でギリシャ時代から続く『自殺学』なる本に目が止まり、<我意を得たり>と買って読んだ物でした。

 人間は感情と理性の生き物とは、好く言ったものであります。理性の基は、思考・思索でありましょう。日常にあっては、緊張と弛緩、意識と無意識の狭間を行ったり来たりするヤジロベーの世界なのでしょう。厄介なヤジロベーの均衡を保つ術の一つに無関心の習慣を身に付けて、怠惰の海を流れ流されて、加齢を進めて行くのが、大多数の人間生活でありましょう。事を意識すれば、過敏にヤジロベーの世界は、忙しげに感と理の中に運動を展開して参ります。その中で針路を見出す事が出来るか、足掻けば足掻くほど先の見えぬ奈落の淵に没するかであります。

 私の逃げ口上の一つに、<極論を知って、止まるを知る。>何て加齢のズルさの効用を吹聴している次第でありまする。
小生、根が、この分野、大好きであります。朝の賄い夫の職責を後回しにして、打ち始めてしまいました。

 当初、面食らったブログの言語樹海でありましたが、幾つかのブログ様達の中に、光明を見出して賄い夫生活を遂行している次第であります。機材を背負っての一瞬のシャッター・チャンス・時事問題・国際社会に目を凝らし、小説の世界に・・・ 其々の観点から自分を推敲・推考させる事は、労苦の嵩むものと拝察致します。他人様達の成果を、苦も無く黙って、読みさせて頂いている我が身は、物臭の果報者であります。この場を借りて、幾多のブログ様達への日頃の感謝の意を伝えたい処であります。

心何処ーショート 観音様からの頂き物 

 昨日の午後タバコを蒸かしていると、目の前のフェンスにバルディナが止まって、私の方を見ていた。旅立ちの挨拶なのだろうか・・・ 今まで、こんな事をしなかったバルディナさんである。昨年の10月に、窓外の雑木の黄葉の枝に止まって、盛んに尾を振って渡りの到来を、アピールしてくれたジョウビタキの雌鳥であった。物怖じしない、その地味な雌鳥の仕種に、私は何時しか<北の使者・北の観音様・バルディナ>等と勝手に想いを膨らませ、その姿を見るに付け、密かに私の情を送っていたのである。

 姿が見えないと、何処ぞへ移動したのか? 命を落としたのか? 積雪・低温注意報の数日、餌にあり付けたか? 凍えていないか? もう帰ったのか? 等と気を揉んでいたものである。ラジオで水鳥の北帰行の便りを聞くと、<もうそろそろ>なのだろうかと考え、散歩の折には、彼女の姿を探していた物である。

 小さい時から、小動物には興味と愛着があった。変な話であるが、何か彼等とは相性が通じる様な、感覚を持ち続けていた。今年は少しの間であったが、メジロの為に果物を与え、間近で3匹の様子を観察した。付録のヒヨドリ、シロハラにも、すっかり馴染んだ処であるが、果物に近付く肝心のバルディナの姿は、1度たりとも無かった。小枝の果物を待ち構え、無心に嘴を動かしている彼等とは、毎日何度も目を合わせていたのであるが、彼等に擬人化の感情は、1度たりとも浮かばなかった。

 その彼女が、ある日、突然にフェンスに止まって、私を見ていたのである。私ならずとも、人間と野性の小鳥の<情の通い合い>を、意識させられ様では無いか・・・ 私は直感的に、『別れの挨拶』に来たと思った。そして、別れが、惜しくなった。

 昨日のブログ最大の出来事ではあったが、それを打つと、別れが、決定的に為ってしまうと思った。<タマタマの見合わせ>として、『遣り過ごそう』と考えた次第であった。翌日、散歩の折に、姿を現すやも知れぬと、結論を先送りにする方途を選択したのである。

 午後、散歩に出掛ける。私の来しき人生の統計論として、彼女との再会の確率は、ゼロに等しかろう。昨日、北帰行の挨拶を、彼女から頂いたのである。探して見ても、如何なる物でも無かろう。お互い、ご縁があれば秋の或る日、窓外の雑木の黄葉の小枝に、黒尾に白い斑点を載せたタクトが、盛んに振られる事であろう。人間と渡りの野性鳥、束の間の情の交流であった。

 目立たず、距離を置いて、時々、元気な姿を身近に見せてくれた『北国の使者』は、紛れも無くロシア美形の福与かにして、寡黙に微笑む西洋の観音様のお姿であった。
            彼女の無事の北帰行を祈るばかりである。
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