旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処ーショート 脳裏の1ページ

 目を覚ますと、庭が白い。何と、雪が降っている。起きる気分が一気に萎えて、布団の中で身を丸くする。朝飯の後、ストーブの付いた老母の部屋にその儘、居残る。昭和の高度成長時代を、サラリーマン喜劇『無責任男』シリーズとして、『体芸』で見せた<植木等氏>のテレビ評伝を見る。次いで俳優と女流俳人による<奥の細道>探索を見続ける。

 植木等氏が全盛期だった頃、硬派過ぎた私は、無責任シリーズの内容が性に合わず、殆ど映画館では観なかった筈である。黒澤明監督の話題の時代劇巨編に釣られて、子供達を連れて映画館に見に行った時、俳優として注目され始めて来た氏が、スクリーンに出て居られた。黒澤映画は三船敏郎氏を失って、私の目には往時の精彩を欠いて見えた。二人の別離は、監督、俳優にとって、大いなる不幸に映った。女房に感想を聞かれて<様式・形式に金を掛けただけの大いなる愚作。騎馬戦の疾走シーンは、スケールとカラーの分で、ジョン・フォードと互角かも。画面のスケールの大きさに、匹敵する役者が居なかった。監督と俳優の悲劇映画だった。人間は悲しいね。日本映画界の損失だね。>多分、そんな感想を話した覚えがある。

 植木氏は、その後テレビ・ドラマでキャリアを着実に重ねられて行った。ちょくちょく氏の事が、母の口から出ていた処を見ると、母は人生の経験を積んでいる分、氏の加齢に人生の軌跡を重ねて見ていたのであろう。母は、好意的な頷きを以って、氏のドラマを見ていたのであろう。その当時、私の方は歳が若過ぎて、クレージー・キャツのイメージが、如何しても被ってしまい観賞する処までは、行かなかったのである。

 ある時、我が家の近くの河川敷でロケがあった。何事かと思って、野次馬気分で車のスピードを落として目を遣ると、木製のベンチで足を組んで、独り台本に目を通している氏の姿があった。それは、自然な形で、上品な初老紳士の姿であった。氏はスターであったから、少なからず氏に関する記事の蓄積は、脳裏の中に眠っていた。

 何かと人の動きが目立つロケ現場に在って、氏の座る小さな空間だけが、何故か異空間の様に独立していた。<この人は、中々の人物>なのだと、苦も無く脳裏にストンと落ちた物であった。その一件があって、氏の出演するテレビ・ドラマを注目する風に為ったのであるが、残念ながら、あの時の氏を表す映像には対面出来なかった。きっと氏は内面のテレ性が災いして、旺盛なサービス精神が、顔の表情を、造ってしまうお方なのであろうか? 独り木製のベンチで、台本に目を通している気品に満ちた氏の表情には、三船敏郎、高倉健、高橋秀樹、バート・ランカスター氏の<男の華>を見せる俳優さん達に伍して、一方の<男の息遣い>を体現為さっている『笠智衆』氏に通じる<奥深い空気の様な雰囲気>をお持ちであった。

『華も息遣い』も、男を体現する<人間の美>には、甲乙着けがたい重みが、厳としてある。
     そんな脳裏の1ページを運んでくれたテレビ評伝であった。氏に合掌。
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心何処ーショート 氷雨に、頭を掻く

 パソコンの調子が悪い。弄繰り回している内に、作動しなくなってしまった。お手上げ、万歳の態である。諦めて日曜大工をしていると、雨が降って来た。途中で止める訳にも行かず、少々寒気のする身体に成ってしまった。

 半日を弟に付き合って、話し相手に成る。ポッカリ空いた心の空洞は、話し相手のレベルによって埋めるしかないのが、人の心の常なのであろう。仕事柄、外面・面倒見の好い男であるから、相当なガスが溜まっていた様子である。世の中、好い加減な連中で構成されているのは、偽らざる実相である。現役退散であるから、私は意に染まぬ付き合いから解放されて、清々していると云った処なのであるが・・・ 仕事を選んでも、人を選ぶ事は、仕事の前に、小事である事が一般的である。<金の喜びと、金の苦しみ>は、商売に付き物である。小なりともオーナー社長業の彼には、仕方の無い処である。何時に無く、長く捉まってしまったものである。

 私も正真正銘の下衆の一人であるが、世には下衆の下衆の方が、圧倒的に多いらしい。・・・困ったものだと、相槌を打つより他は無い。

 これを打っていると、ラジオでは<総理に聞く>の放送が、始まった。一国の総理が、『世間話』の口調で、滔々と政局・国際情勢、特に、対中国姿勢を語って居られた。ご性格と言ってしまえば、それまでであるが・・・・ 一国の総理ともあろうお方が、公共放送の電波を使って、国民に日本の政治を発信し、語るのである。幾許かの『感銘』を、国民に与えて欲しいものである。

 私の如き下衆の一員に、<こりぁ、困ったお人である>などと、下衆の感想などを吐かれてしまったのでは、困るのでありまする。国民の目線で見るのは、好い事であるが、目線で見た事、感じた事を、大所高所の見地から、遺漏無くブロックを積み上げ、如何ピラミッドの形にして、国民に青写真を示す事が、出来るかである。それが出来てこそ、『一国の総理の体裁』でありましょう。

 政治家には、少なからず大言壮語は、付き物であります。下衆は、少なからず彼等の大言壮語の中に、夢と希望を掻き立てられ、己が小さな努力を見せる。その総体が、諸々の国力と為って、各種の経済統計を賑わすのであります。・・・・ 夢・希望は、この世知辛い停滞した世相であるから、そんな大仰な物など、期待もしていまい。せめて『気分』だけでも、国の長から貰いたいのである。選んで見なければ、分からない。遣って見なければ、分からないのが評価と云う物である。制度疲弊が、次から次と表に現われる官僚国家のツケ回しの様である。成長・安定時代には、功を奏した『議院内閣制の限度』が、露呈してしまった<閉塞の状況>は、何時まで続く物やら・・・

  いかんいかん、又又、遣ってしまった。この分野、専門外でありました。
貴重なるお時間、お手間を取らせてしまっては、慙愧の念に耐えません。止め!!

心何処ーショート 新年度

 水槽の中で、タニシの子が生まれている。水草も茎を伸ばして、狭い水槽を緑で覆い尽くそうとしている。太陽の恵みは、偉大と言うより他無い。色彩も然りで、グッピイ達の彩を鮮やかに照らしている。ビック・ママを失った水槽も、何も無かったかの様に、雌の腹部目掛けて雄達が、執拗な攻撃を仕掛けている。隣の小水槽にも黒ずんだ腹部を持つ雌達が、スイスイと泳ぎ回っている。部屋への日照時間が長じるに随って、繁殖活動が促進されているのだろう。早朝には、セキレイの囀りが、耳に付くこの頃である。老母の動きを待って、ラジオに耳を貸しながら、コーヒーとタバコの時間を過ごす。

 昨夜、餞別を忘れたと言う老母の託を、女房に電話する。立つ前に、顔を出すとの事であった。遅い朝食の後、昨日の子供達の話をしていると、庭から入って来た。<お茶を出して、苺を、漬物を出して>との老母の指示に、<ハイハイ>と台所に立つ私の姿を見て、子供達は笑っている。

「いいのいいの、お婆ちゃん、オヤジは家に居たら、こんな事、絶対に遣らない人だから。育てた親の利息なんだから、ウンと甘えなくちゃ。」
「そうだよ、婆ちゃん、オヤジは、婆ちゃんの子供なんだから、堂々としていれば好いんだよ。」
「そうかい、今も、お父さんと、子供達、まともに育っていると、話をしていたんだよ。褒めていたよ。お母さんも、みんな合格点だって。淋しくなるね。」
「ううん、家のオヤジは、そんな事考えない人だから、大丈夫だよ。修行出来ない奴は、人間扱いして貰えないから。私も、お金無いからね。向こうで、確り自炊しなくちゃ。」
「へへへ、これ全部、オヤジが漬けたの。旨いじゃん。小さい時、よく作ってくれたから、オヤジの作るもの、美味かったからね。婆ちゃん、美味いでしょう。」
「うん、好く遣ってくれてるよ。有難くてね。何もしてやれなくて、申し訳なくてねぇ。」
「そんな事、無いさ。オヤジを使えるのは、親の婆ちゃんだけだよ。オヤジは、恐いからね。」
「そうそう、でもオヤジはケチだったから、良い処、私達にくれなかったから、頭もバカ、絵心も、文章能力も全然駄目だものね、お兄ちゃん。」
「バカヤロウ、心を伝えてるだろう。ハハハ。」
「お婆ちゃん、オヤジは、こう云う人だから。いいだいいだ。また来るからね。元気でね。」

  土手で見送る。洗面所の戸を明けて、にこやかな顔で見送る老母の顔は、何時に無く輝いていた。涙を見せる訳でも無く、其処には何十年も前に、私を笑顔で見送ってくれた母の顔があった。

  <あの孫達は、此処で育った子達だから・・・> ポツリと漏らした母の言葉に、
  <そうだな・・・>と一言応じた私であった。


心何処ーショート さすがなり

 昨夜は大きく頷きながら、御仁様の<桑田投手引退>の記事を読ませ頂いた。カーテンを開けて、水槽住人に餌を撒いていると、最大級の親雌の様子がおかしい。死相に覆われた身体である。水の動きの無い水草の隅で、じっとしている。長くて、今日一日の命であろう。「ご苦労さん、有難う。」としか声を掛けれない姿である。彼女は、真に偉大なビック・ママさんである。命の続く限り腹に子を宿し、赤尾・黄尾・青尾の群れを残している。命の尽きるのを見るのは、忍びない処であるから、散歩に出掛ける。

 人間とは、実に恩知らずな生き物の様である。寒さに閉ざされていた時分には、太陽、空の青さに<お天道様のお恵み>を感謝するのであるが、陽気が安定して来ると、天気は好いものの<風が冷たい>等と、直ぐに不平を漏らしてしまう。お天道様も、私の様な碌でも無い信者を持っては、面白くも無かろう。枯れ葦の溜まりには、キタテハが、小さな舞いを幾つも見せている。水柳の綿の様な花が、黄色い花粉を輝かせて居る。見れば、小粒で黒ぽい日本蜜蜂が、何匹も何匹も、小さな花から蜜を採取している。

 ペット犬を抱いて、河川敷に下りて来る散歩の婦人の姿が見える。河川敷に下りれば、此処はポッカリ開いた別空間である。

 雀の集団が騒々しい。昔は刈り入れの終わった田んぼに群れる若雀達は、激寒の冬を前に、集団で「死出の旅」に出掛けるのだ、と云う専門家の本を読んだ事がある。季節としては、逆の様である。私が近付いても、ワイワイガヤガヤの喧騒振りである。おっ、何やら取っ組み合いの様子である。好く見れば、一匹が一匹の上に乗っかっている。『春の交尾』である。猫にしろ雀にしろ、野外交尾は、何かと騒々しい物の様である。

 盆地南端のアルプスの山並は、春霞の下に、茫洋として輪郭を薄く描くばかりである。低空飛行の常連さん・コサギの姿は見掛けぬが、葦の影には、カルガモの2羽が仲良く寄り添っている。彼等は雌雄同色であるから、その大きさで見分けるより他ない。彼等は、近付いても逃げない川の住人であるから、顔の表情も確り見る事が出来る。差し詰め、気の合った堅実カップルと云った処であろうか。

 春を迎えて、芽吹く命・孕む命の陰で、身罷るビック・ママの命の灯火もある。これも自然の輪廻の一つであろう。然し、小さな私事で、平気で人の命を殺める出来損ない人間が、後を立たない。私の毎日の日課としているこの河川敷でも、大分前に顔見知りのゲート・ボールしていた年寄りが殺められた事件があった。狂気と隣り合わせの現代人・・・・ 所詮、心の処方箋は、己が抑制の匙加減であろう。内面に目を向ければ、誰しもが持ち続ける血のどす黒さに、気付く筈である。血に左右されるのが、感情と云う手の付けられない疫病神であろうか? 

 感情抑制の自己許容範囲の多寡を知って、その処方箋を見出して欲しい物である。ガス抜きの心の僚友を探し出し、僚友との交流の維持も、所詮は己が働き掛けなのであろう。何事も、時間を要する事ではあるが、その前に、喜怒哀楽に翻弄される青春期に、独り涙に浸かる自己と向かい合う鍛錬を経験して欲しいものである。如何に胸を掻き毟って、徹夜で考えた処で、出る溜息は『孤独』の二文字であろう。苦労して出した結論が、孤独の2文字為らば、出した結論を真摯に、甘受すれば好かろう。人間己が独りの<大前提>を持たねば、何事も前には進まない。己が独りの自覚が出来上がれば、自ずと自分の<身の丈>が形を現わそうと云うものである。

 己が身の丈足らざるを『知れば』、他人様に、ご厄介に為らざるを得まい。人間、身の丈を知らず、忘れて背伸びだけして見ても、その分だけ自分で<自分の身の丈を縮める愚行>でありまする。愚行は、自分で自分を穢す行為である。これほど勿体無い愚行は無いと思われる・・・

 身の丈の程を知って、愚直にまで突っ走る、走る、歩む。このストイックな生き方が、人様から拍手を頂ける「お疲れ様!桑田真澄殿」に繋がるのである。ブログ散策、これも楽しからずやでありました。拍手に替えまして、有難う御座いました。 

心何処ーショート 春風に吹かれて  

 老母の薬を取りに行くついでに、散歩コースを変更する。春であるから、スーパーの先輩に、<顔を出すと、喜ぶよ。>と、言われていた米屋さんを、訪ねる事にする。二十年以上も、行き会っていない。お互い、すっかり浦島太郎の様に違いなかろう。嘗ての精米所は、無かった。辺りを見回すと、案内看板があった。事務所と書かれたドアをノックすると、奥さんが出て来た。
 
  自己紹介すると、「〇〇さん?」と言われ、「はい、その〇〇の本人です。」と答える。
「お母さん、お元気ですか。気丈で品があって、綺麗なお母さんで、奥さんも綺麗な方で、好く知ってますよ。見て直ぐ分かりましたよ。お母さんに、好く似ていらしゃる。どうぞ、どうぞ。皆さん、お変わり無いですか? 主人は、駅の近くまで行きましたが、20分位で戻りますから、お茶でも飲んで待ってて遣って下さいな。喜びますよ。」
「あっそうですか、ご主人文学好きでしたから、暇潰しの日記綴り取って来ますよ。行って戻って、丁度好い時間ですから。」

嘗ては、米通帳の時代であったから、米屋さんの配達先の情報は、立派な業務知識であった。何処の町内の世帯主〇〇さんの家族構成は、★★★とインプットされていたのである。自転車に乗り換えて、最訪問すると、懐かしい米屋のお兄さんの〇〇年かのご対面であった。

   薄くなった白髪の下には、5~6歳上だったお兄さんの貫禄の付いた顔があった。
「あれ、Rちゃ、おやおや、昔はスマートだったのに、すっかり貫禄が出ちゃって、やあやあ、懐かしい。何十年振りかね。」
「いえいえ、お兄さんこそ、米屋より、俳優に転向した方が似合いますよ。味のある、好い顔に為りましたね。羨ましい。」
「またまた、巧い事言っちゃって、何にも無いけど、入りましょ。時代が変わちゃって、コメはスーパーで買う時代に成っちゃって、人との繋がりが無くなっちゃってサ、味気の無い時代だもの。国の先が思い遣られるね。でも嬉しいね、俺みたいな男を、覚えていてくれるなんて。」

お兄さんは、私より5歳年長で、奥さんは一つ年下である。すぐさま、昭和30年代にタイム・スリップして、懐かしいあの時、その時が話題の主役に浮かび上がって来る。お兄さんは、私の持参した思春期真っ盛りの初恋中学時代の<初恋は、ときめく胸の鼓動>を拾い読みして、

「おっ、このOは、〇〇の★★ちゃんだろう、これは、きっと誰々だろう。」と看破される。

 つくづくと当時の米屋さんの情報収集能力・精度の高さには、舌を巻くばかりであった。お兄さんは、野球狂の鬼コーチにして、壮年時代、自費出版で<自分史>を書いた文武両道の人であった。

 春風に吹かれて、自転車を扱ぐ脚も、何時に無く軽やかであった。人の人生、気の持ち様で悦びも、多種多彩になると云うものである。嘗てのお兄ちゃんの顔を思い浮かべつつ、現在の彼の顔の穏やかさに、微笑み一つ浮かぶ帰り道である。

心何処ーショート 電話ばなし

 雨に春雷と、腐っていた処、薄日が差して来たのは、好かったが、私は不貞腐れて、お湯割りウィスキーで咽喉を潤わせてしまった。窓から覗く屋根屋根の上の空は、見るからに、水蒸気をふんだんに含んだ雨雲である。雲の流れは速い様で、陽射しが入ったり翳ったりの、落ち着きの無さである。タバコの煙越しに、大きくなったグッピィ稚魚達の戯れを眺めている。

 貸し出していた100枚の日記分冊を持って、斜向かいさんが顔を出して下さった。玄関での立ち話に花を咲かせてしまった。お世辞でも褒められると、人間と云う奴は、気分が高揚するものである。台所で老母が、洗い物をしている気配である。朝食時には顔の浮腫みも取れて、久し振りに気丈な美形振りを見せていた。
 これで天気さえ好ければ、散歩運動に行くには、頃合の時間帯なのであるが・・・・ 途中で降られた日には、目の散策も気分の散策も、台無しに為ってしまう。仕方が無いから、後ろを振り返って、中露の美形達の顔写真を眺める。表情に富んだ顔々である。澄ましてポーズを採ったり、アッカンベェの顔をしたり、抱き締めたくなる様な柔和な微笑みをしたり、・・・・ 正に美形達は、男の共有財産なのである。

 先日、店のハバロスク金髪さんから、電話があった。もう1ヵ月、松本の店に居る事に為ったから、顔を出せとのお誘いであった。彼女の声は、『幸い』、ロシア訛りの低音ボイスであるから、私は飛び切りの美形にして生意気女のウクライナ嬢『ライオン娘』を、彼女にすり替えて電話の言葉のキッチボールを楽しんでいた。店が暇なのだろう、付き合いの好い金髪さんであった。

 電話と云えば『間違い電話』が切っ掛けで、名古屋のロシア人ホステスと、電話友達に為ってしまった事がある。彼女達の多くは、低音ボイスの持ち主である。そして、スローな平坦な口調であるから、言葉のキャチボールが出来る。
単細胞・瞬間ヒーターの性向が、私には少なからずあるのだが、普段は自分の欠点を自覚しているから、言葉を選んでスロー・ペースを、旨としている次第である。従って早口で一方的に喋り捲られると、ついつい私の本性が露呈してしまう。そんな次第で、そんな輩との接触は、極力避けて通るのが、私のシンプル・ライフと云った処である。

 彼女達には、その基本的な処の相手の言い分を聞くと云う態度が、備わっている様に、私には感じられるのである。頬杖を掻いたり、腕組みをして、ウッフン、オゥ、ソレデ、シンジラレナイ、等と彫りの深い顔立ちであるから、日本人には生意気に見えるのだけで、表情を崩さない分、彼女達は目の操作で反応してくれるのである。

<ボールを投げる、受け止める、投げ返す。>・・・この一連の繋がりの中に、彼女達の『間』が存在するのである。きっと、この一連の流れが、私の波長にフィットするのであろう。

 捨てる神あれば、拾う神ありとは、好く言い当てた言葉である。電話関連では、昨夜、デジカメ写真を取捨選択するまでは、漕ぎ付けたものの、ブログ記事に取り込む事が一向に解らず、疲れ果ててギブアップしている処に、Tから電話があった。

『如何だ、ロシア人の感想は?』との問いであった。<かくかくしかじか>でと、素直な感想を報告申し上げた。その後、現在の緊急の難問に話が及ぶ。お互い現代文明の最先端利器には、全く以って、疎いロートルの身である。如何にもこうにも、『未知の扉』の前に、身が竦んでしまう<テイタラク世代>なのである。 

              Tにその旨を愚痴ると、
「ハハハ、ソウソウ、下手に弄くって、折角溜め込んだ中身を、一瞬の内にパァにしてしまったら、実も蓋も無い惨劇って事態だからな。俺なんか、一切触らないよ。若いのに任せ切りにしてるもの。Mさんのご出馬を仰ぐより仕方あるまい。俺なんかは、糞の役にも立たんからなぁ~。」
「全く、質問したくても、言葉がチンプンカンプンだろ。分からん所が、分からないんだから、電話しても、Mさんとは話のキッチボールすら出来んよ。質問の仕様が無いのに、教えろとも言えんのだよ。全く、情けない話だよ。ヘヘヘッ。」
「おぅ、そうそう、分かる分かる、その気持ち。同病、相憐れむって処だぜ。R、もう遅いから、寝るんだな。俺がアドバイス出来るのは、精々女の道だけだわサ。綺麗なネェーチャンの顔を思い浮かべて、夢でも見る事だわな。分からんものは、分からん。諦めが肝心!!」
「アイアイ、先生、そうするわ。足掻きは、失敗の元だ。」
「えらく素直じぁないか?」
「そりぁ、そうよ。俺達の言葉は、全部日本語じぁないか。俺は、未だ呆けちゃいねぇぞ。」
「そうか、近い内に顔だすよ。じぁな。」
「オゥ、アリガトさんよ。」

  Tの奴は、数年来の腐れ縁の韓国ネェーチャンの来日で、ルンルン気分が漂っている。

 話は戻って、ご要望の下準備は整ったのであるから、M氏の都合を待てば、約束は果たせるのである。太陽のご出馬を待って、此処まで打ち進めたのであるから、本日分の『賄い夫日記』も完了の運びである。本日は、お天道様は、ご機嫌斜めのご様子である。恵まれぬ日は、温泉銭湯にて、暫しのリラックス・タイムと致しまする。

心何処ーショート  老婆殿の空気投げ

 デジカメを持って、散歩に出掛ける。風はあるものの、散歩をするには、まぁまぁのお天気である。何時もの散歩コースを辿る。折り返し点から足を伸ばして、800円のホット・プラザ、250円の仙気の湯、200円の港の湯を巡って、県営野球場の一帯を帰り道とする。

 浅間温泉は、小さい頃の往時の賑わいは無く、時代に沈下してしまっている。テニス・コートは、学校が春休みの所為で賑やかである。母校のネームの入ったジャージを見ると、足を止めてしまう。私の通っていた当時のバンカラ男子高では、軟弱者の誹りを受けていたテニス部である。時代が変わっても、『大した事の無い』伝統は息衝いている様子で、目を見張る打球の速さは、感じられない。

 驚いたのは、そのお隣さんのコートである。如何贔屓目に見た処でも、男女混成の4人の平均年齢は、70の半ばを超えて居られる。特に、私の老母92歳とは大差の無い老婦人と言いたいのであるが、彼女は、胡麻の摺り様もない『立派な老婆様』である。老婆様は、遠の昔に女を卒業されて居られるご様子である。今しがた、コタツから抜け出して来た様な、着膨れした普段着である。頬被りしたマフラーが、堂に入っている。見た目には、立っているだけに見える老体である。
然し、然しである。老婆様のラケット捌きが、お世辞抜きで実に正確なのである。ボールが来れば、必要最小限のトボトボとした歩みの玉追いであるが、ボコンと振られたラケットからは、軟式ゴムボールが、ノソノソとネットを越えて、ボコンと相手コートに、返されて行くのである。見ていると、決してマグレで無い事が分かる。彼女には些か褒め過ぎであるが、まるで柔道の三船久蔵(?)師範の『空気投げ』の如き趣がある。世の中、驚嘆の老婆殿もいらしゃるのである。大いに感服して、芝生に胡坐を掻いて、タバコ2本の観戦をさせて頂いた次第である。

 日当たりの好い場所の梅の木には、白、赤の満開花が、風にそよいでいる。其処彼処の庭先には、水仙の黄花が太陽に反射している。桜の蕾も、一気に顔を覗かせている。ケヤキ並木の枝先には、ジョウビタキの姿も幾つか目にした。四十雀は、番を求める時期なのであろうか・・・ 目の前を、縄張り争い?か、 騒々しく追掛けて行く。

      風が強い所為か、本日の主役は、流れ行く大きな雲の様である。
  ハッハッ、ハックション、ハクション・・・ 目の痒みに、鼻水のお出ましである。

 タバコの買い置きが、底を付いていた。自宅最寄のコンビニに寄る。何かディスプレイが、奇妙である。貼り紙を見ると、今月一杯で閉店との知らせである。日頃、コンビニは利用しないのであるが、閉店されると、タバコ・『鎌倉ものがたり』が手に入らない。次のコンビニと為れば、上も下も些かの距離である。歩いて1分のコンビにであったのに、残念至極の溜息である。

心何処ーショート 夜は静かに進む

 夜、部屋に戻る時に、<魚の電気を入れたか?>と、老母が、微笑を浮かべて確認をしてくれる。何日か前に、季節外れの高温日があった。その日の日中は、ヒーターのコードを外して居たのであるが、それを忘れて翌朝、机に向うと、全員底に沈没していた。大慌てで電源を入れて、待つ事、2時間。大過無く蘇生してくれたのであるが・・・ 親とは、幾つに成っても、『有難い』ものとつくづく思う。

 季節の変わり目で、例年の事であるが、老母は体調が優れない。それを話すと、老母は嬉しそうに頷いて、<そうか、気付いていたか・・・好く観察している。>と、応じる。遅かれ早かれ、50年振りで、母子一緒の入浴と為るのであろう。想像と現実の気持ちに、どれ程の違いが出て来るものか?
仕方の無い近未来である。

<俺が、入れて遣る。>と言うと、<お願いします。お世話に為ります。>と、頭を深々と下げられる。スーパーのレジの一つ上の先輩の言葉では無いが、<人生プラス・マイナス=ゼロだから、きっと好い事があるよ。>と、励まされるのであるが、私の場合は、母にショックを与え過ぎているから、その望みは無かろう。きっと現在は、マイナス分を返して居るのだろう。

 然しながら、『人生プラス・マイナス=ゼロ』の考え方は、素晴らしい言葉の一つである。欲を出して、プラスばかりに目を向ければ、損得の利害得喪に明け暮れしてしまう。挙句の果ては、得を入手する為に、損を過宣伝して欺瞞の得を振り翳してしまうのが落ちである。それでは、些か下品に成り下がってしまう。
 一方、マイナスにばかり目を向ければ、コレマタ被害妄想の迷路に嵌まり込んで、挙句の果ては、憎悪感を滾らせてしまう。これまた、外道の道に足を踏み入れてしまう。

 プラス・マイナス=ゼロ為らば、これ即ち、均衡の支点である。均衡即ち安定に繋がる途であろう。誰の言葉かは存じぬが、苦労人肌の人生の達人の譬えである。バカを押し通す事は、愚人には出来ない理性と意志の力であろう。単純明快な人生の理を、私も歩みたいものである。 

    始まったばかりの似た者母子の愚直なる二人三脚の日々である。
            願うらくは、近付きたきや、愚直の路・・・

 いかんいかん、『気の済むまで親孝行をしなさい』と言ってくれた女房殿に、『有難う』の言葉だけの男であった。

心何処ーショート 雨日に一席

 本日は、御仁様のリクエストと雛形をお示し下さった形で、予行演習の心算でデジカメを覗きに行こうと考えていたのであるが、昨日の祟りで本格的な雨降りである。

 老母の為に風呂を沸かして、外の雨を眺めている。些か変わっているのだろうが、私は、ボケーと雨の風情を眺めているのが、好きである。ネィチャリング・サウンドのCDを小さく掛けて、CABINならぬCASRERの微量ニコチンを燻らせながら、インスタント・コーヒーを啜っている次第である。従って、写真掲載は大分先の事と為りましょうが、ご容赦下さい。

 赤スペ様、名調子のお礼にブログ拍手を打ち終わった処で、トラックバックの段、余りの同時進行振りに、夜中の堪え笑いでありました。有難う御座います。

 そう云えば、ヨーロッパB級映画の帝王作品も、随所にSEXシーンが溢れて居りました。紳士淑女からは、顰蹙を買うかも知れませんが、そのザックバラン振りは、流石に帝王の御技でありました。アッケンカランとして、一切の嫌味がありません。SEXの即物性が、男女の体話の如く、遺憾無く発揮されて居りました。帝王の看板に<偽り無し>でありました。

 ある時、不良中年グループで、フィリピンへ羽伸ばしに行きました。フィリピン通氏が、圧倒的に多数を占めるメンバーであります。恒例のアイランド・ホッピイング(現地の竹のフロートを左右に伸ばした低底船で、小島に渡って1日をノンビリ過ごすランチ付の海ハイキングと云った処です。)に行った時の出来事を彷彿とさせました。

 セブ島界隈のサンゴ礁の海は、浅い海です。そして季節に依っては、潮の満ち干きの差は大変な物です。島の3倍ほどの白亜の砂丘が出現するのです。現地に彼女を持つ通氏達の鼻下長振りは、無礼講故に、正直でありました。燦燦と降り注ぐ南国の太陽・穏やかなグリーン・エメラルドの海・ブルーの大空に等間隔、等高度に純白のシュークリーム状の積乱雲を、累々と浮かせる拡がりであります。そんな絶好なロケーションの中で、不良中年共は、ニ艇のジェット・スキーをブンブン乗り回し、荒々しい落とし専門のバナナ・ボート、チューブ曳きに、歓声を挙げて居るのでありました。

 時折、吹き抜ける海風は、熱く溜まった汗を撫でて通るだけで、ビールの冷たい咽喉越しに、男達は、他愛なく椰子の葉で葺かれた吾妻屋風の小屋から、一時の憩いに身を伸ばして居ります。御存知の様に、フィリピーナの最大の特徴は、フィリピーナ・ホスピィリティと形容されるアッケンカランとした笑顔の人懐こさ・愛嬌の振る舞い・行儀の悪さであります。熱い空気に、海に浸かり戯れる通氏男女。

 余りの熱々、ネチャネチャ振りに、折角の好ロケーションが、切り取られてしまいまする。
一同、ニヤニヤ目配せをして、サンゴの卵大の欠片を配り終えて、2人に当たらぬ様に、一斉投石でありまする。不意を喰らって、口をモグモグさせる男女に向って、

<このバカヤロウ、何を遣ってんだ。ホテルの密室で遣れ!! >仲間A
<アナタ、危ナイアル。サンゴ、当タル。私、痛イアル。ダメ、ダメ。>仲間のHマン
<水の中、見えないでしょう。あなた、恋人いない、可愛そうナァ~、アハハ。>ソノ相手
<皆、仲間、恥ずかしく無い。愛し合う事、無罪あるよ。>仲間B
<太陽サンサン、愛ドウドウ、Sexは、如何するよ。Hマン!!>仲間C
<抜けたか? 駄目だったら、縄括って、ジェットに引っ掛けて走らせるぞ。>仲間D
一同、拍手喝采!! 大爆笑の1件落着の幕でありました。
 
 私が、この登場人物の何れに該当するかは、さて置き、ヨーロッパB級映画の帝王様級海外ロケを、素地でこなしているのでありますから、ニッポン中年不良グループの実力や、ヨーロッパ並みといえるかも知れません。

 そう云えば、フィリピンの大統領選の最中、俳優出身の最右翼の候補者が居りました。その候補の二枚目俳優の弟が、兄の遊説隊の別働隊で選挙運動をして居りました。諸々の事情で、そのタレント軍団と親しく成りました。お前の職業は、何かと生意気な口を聞かれたもので、小生、見栄を張って<俺は、ジャパニーズ・トラディショナル・フェイマス・ヘビー・ムービー・スターである。>と胸を張って、ウソをコイて遣りました。私だけ残ったある島の演説会に、<日本の俳優友達が、応援に来ている。彼のエールを聞いて欲しい>と、小さな集会に借り出されてしまいました。私は時として、常識を喪失してしまう性向の様でありまする。

 異国の太陽の下、陽気なバック・ミュージィクに踊らされ、<虎穴に入らずんば虎児を得ず>に倣って、『三船敏郎氏』の堂々たる日本男児を演じ切りました。賄賂・好い加減のデタラメが罷り通るフィリピンでありまする。正体がばれたら、詐欺罪の咎で刑務所送りであります。それ以上に、相手もトンでもない輩で、俺達と組んで映画に出ろとスカウトされそうに成りました。役柄はと聞くと、女絡みの悪徳日本人であるそうな・・・・ 執拗なお誘いを、三日間受けましたが、・・・ 冷静に考えると、家名を穢す所業と断定して、お断り致した次第でありまする。

   雨の日、たまには、こんなホウケ話も、必要でありまする。
    ・・・これは、因みに実話でありまする。お粗末で御座りまする。

心何処ーショート オーバー・ワーク

 気に為っていた庭木の伸び放題の枝払いをする。電線に掛かるから、現在が、限度一杯である。脚立を掛けて、密集する横枝を切り落としながら、幹止めのノコギリを入れる。高所嫌いにして肥満体であるから、ヘッピリ腰を絵に描いた様な覚束無さである。

 一本目を始末して、二本目を切る。窮屈な姿勢での片手切りは、腕のスタミナが続かない悪戦苦闘の連続である。脚立を庭から通用路に掛けたり、又、通用路から庭へと、安全第一であるから、面倒この上ない。お隣さんに直撃するのを避ける為に、ロープで支えを取ったりで、息も絶え絶えの孤軍奮闘の態である。

 体力の大半は、萎縮してフェンス、枝に掛けた重心の足の震えに、消耗されてしまう。幹止めに如何やら成功して、精も根も尽きてしまった。切子塗れで、息も絶え絶えに老母の部屋に上がって、立て続けに茶を所望する段であった。白旗・ギブアップが本音であるが、単独作業の辛さ・・・ <落とし前>は、自分で取らねば為らない。嫌に為る前に、老骨に鞭打って片付け作業を敢行せねば為らない。今度は落下の危険が無い平所作業であるから、作業効率の好い汗を掻けば済む。シャツの胸を肌蹴け、持ち前の腕力でゴールを切る。2時間を要してしまった。

 目を遣れば、殆ど丸裸にされた庭隅には、枇杷とイチイの木が、伸び伸びと日光を浴びている。野暮を取り除くと、次の野暮が目に付くものである。時間は充分にあるのだから、追々片付けて行けば良かろう。木瓜の蕾もこの数日で、花を咲かせる。剪定鋏で花蕾を持った枝を残して、思い切りショート・カットにする。柿木・百日紅のカットは、単独作業の手には負えない代物である。都合を聞いて、弟の手を借りねば為るまい。グミ、ツゲの木も剪定しなければ為らぬ。眺めてばかり居ては、頭の痛い野暮に覆われた光景である。

 本来の物臭に帰るべしであるから、散歩に逃げる事にした。庭下駄を引っ掛けて、庭から土手に回ろうとすると、赤く膨らんだ蕾の梅の木に、バルディナさんが尾を振っている。ホッとすると同時に、<別れの挨拶>かな?とも、感じてしまう。昨日は、ずーと姿を見せなかったメジロが、顔を見せてくれた。季節を全身で感じ取っている野性の身であるから、<或る日突然>と云う時が、目前に迫っているのであろう。ジョウビタキの雌鳥に、バルディナの命名までして、擬人化してしまった付けは、少なからず大きかろう。

 そんな事を思いながら、川原の散歩道を100m程行くと、前方にコバルト・ブルーの翡翠一羽が、止まっている。私に気付いて、パッと飛び立った。その行方を追って、目を凝らす。こんな下にまで、翡翠の行動範囲が来ている現実に、喜びが走ると同時にショックを受けた。幾ら羽の付いた小鳥と云えども、そうそうはテリトリーが、広大な訳も無かろう。この辺りは、アブラハヤの群れ泳ぐ獲物に、恵まれた川の流れには違いない。然しながら、翡翠の生活効率を考えれば、近くに、本拠地があって然るべき筈である。彼等は切り立った土の壁面に、穴を掘って営巣しているそうである。川の両岸は、石垣でビッシリ覆われている。そう考えれば、流れの侵食に依って、それらしき条件のある場所は、<一箇所>ある・・・・ また一つ、散歩の楽しみが、出来たと云うものである。目出度し、目出度しの段である。

 歳の所為で新しい分野には、全くの<タイテノ コラサ>で、進歩の無い身に加え、物を何処に置いたのか<直近の記憶力>の衰えは、目を覆いたいほどの健忘振りである。それと反比例するかの様に、小さい頃に興味を持った雑学の知識は、マダマダ健在の様子である。

  ★斯様に記憶力旺盛だった頃の積み重ねが、ヒョンナ処で、役に立つ事がありまする。
     以下は、ロートルおじさんからの若い人たちへの加齢報告でありまする。

<若き日の悩み>では無いが、中学・高校生諸君。悩みばかりに感けずに、若い感性で頭の中の『シャッター』を手当たり次第で、バチバチ撮って置くのが宜しい。仕込みと再利用との間のタイム・ラグが、殊の外大きいのが、人生の通り相場でありまする。その雑多な分量が、義務から解放された暁には、愉しみとして自分に<環流>してくれるものでありまする。加齢・老境に独り遊ぶ時には、その『多寡』を以って、<楽しみの幅>が違って参りまする。無味乾燥な丸暗記の弊害を、殊更嘆いて、嘯(うそぶ)いて居ても、始まりませぬ。徒労視し勝ちな丸暗記も、脳裏に留めて置けば、ヒョコリ顔出す機会がありまする。それが元で、伸びる興味もありまする。

 全ての基本は、『記憶』から始まりまする。効率の良い関連記憶と云えども、そのスタートは『丸暗記』から始まりまする。これを料理に例えるならば、無味乾燥と思える記憶の数々は、全て食材の一つ一つでありまする。雑多・バラバラな食材を前に、料理人は、知恵と工夫で『包丁』を握るのでありまする。用途に応じて、人参・ジャガイモ・大根・玉葱・・・etcを茹で、炒め、焼くのでありまする。仕上げは、彩を考えて盛り付けをして、食に供するのでありまする。人参だけなら、馬の鼻先にぶらさげられて、他人に尻に鞭を入れられるだけでありまする。知識・技術の教習所で、詰め込まれた物を、自分を豊かにする術と気付くには、余程の事が無い限り、多分ず~と、後に成ってからの事でありまする。<自らの包丁を手にする>その時期が、皆さんに、1年でも2年でも早く訪れる事を、ロートルおじさんは願っておりまする。
 
 勿論、こんな<文部科学省の期待される人間像>的な考え・思いが、発生してくるのは、人間、大人になっても、先の先と云った処でありましょう。解らず素通りしてしまうのが、<若さ>でありまする。然し、若さの潜在能力の一端には、恵まれる程の記憶力の瑞々しさが脈打っているのでありまする。それを大いに活用するのが、人間でありまする。ただただ只管(ひたすら)に真似る丸暗記の日々であっても、好うござんしょう。余裕が出て来て、知る事しか出来ないのが、人の成長の悲しい性・現実でありましょう。真似る=丸暗記の労苦に駄々を捏ねてばかり居たのでは、前に進まないのでありまする。

  <如何だ、参ったか、ガキ共。へへへ、思えば、誰しもが、通った道でありまする。>

心何処ーショート 圧倒・向かい風

 さてさて、本日は何を打とうかと、コーヒーを口にグッピィの泳ぎを眺める。一時、緑色に成ってしまった小水槽も、何が効を奏したのか、透明度が増して来た。水質浄化微生物の作用は、人智の及ばないミクロの世界である。水槽毎に<微生物の相>が異なる。それで時々、適当に水を交互に足し引きをしている。精度の高い顕微鏡で、その間の事情を観察して見るのも面白い暇潰しかも知れないが、そんな道に嵌ってしまっては、折角の物臭気質が台無しに為ってしまう。

 電話が鳴っている。会社からである。時計を見遣って、これから出向く事にする。散歩運動を凌ぐ運動量であるから、本日はカットである。・・・昼には帰って来れる。会社でコーヒーを飲みながら、世間話をしていると昼に為ってしまった。仕事の関係で数人の社員が、会社に戻って来た。何やかやと話を交わしている内に、大きく時計を回ってしまった。

 遅くなったついでに、DVDを物色して帰る事にした。<隊長ブーリバ>を見付ける。そう云えばこの映画には、清純派スターのクリスチーネ・カウスマンが出ていた筈である。ユル・ブリンナー、トニー・カーティス主演の大作映画であった。その1本をゲットして、後は安物でも探そうと思い500円DVDコーナーで探す。<ナチ女親衛隊・全裸大作戦>なる物があった。
1973年/スイス作品・ヨーロッパB級映画の帝王・エルウィン・ディートリッヒ作品とある。『ヨーロッパB級映画の帝王』の活字が、失笑を運ぶ。<気に入った、大いに結構!!>と嬉しくなって、これまたゲットとした次第である。

 すっかり長丁場のお出掛けタイムと成ってしまった。何時の間にか、上り勾配の帰り道は、向かい風に捉まってしまった。若い頃と違って、肥満体のロートルの身体は、表面積がデカク成り過ぎた。向かい風を相手に、階段運動の何倍にも匹敵する重量運動である。肉体的な負荷が掛かると、体内の単細胞にして融通の利かない運動細胞が、刺激されてしまう。

  ヒイヒイ、ゼイゼイ。脚ガクガク、汗タラタラに、何のコレシキと戦ってしまう。
    我ながら、<何をや言わんや>の悪足掻き振りを、露呈してしまうのである。

 向かい風に散々に甚振られて、家に辿り着くも、老母様昼を未だ済ませていないとの事である。会社でご馳走に成ったとも言えず、本日二度目の昼食と相成ってしまった。親孝行とは、斯様にして、体力を消耗するものである。

 いかんいかん、今夜は3時間半に及ぶ映画鑑賞が、待ち構えているのである。体力消耗の昼寝をカットして、本日分の『賄い夫日記』を打ち上げずば為らない。ノルマ達成の暁には、ヨーロッパB級映画の帝王の戦闘機に戦車も出撃する超大作にして代表作!!の観賞時間が控えているのである。映画のタッチに見え隠れする、スイスの性に対する位置付けを垣間見る事が出来るのである。正々堂々のB級映画の帝王と評される男の性に関する<目線や、如何に!!>である。

心何処ーショート 久し振りの羽伸ばし

 お二人からのロシア人ホステス情報に、大いに食指が伸びるのであるが、夜に成るとツイツイ億劫に為ってしまう。こんな事では、先が思い遣られると、買い物方々の銭湯に行く。その帰り道、自転車に乗った白人女性2人とすれ違う。
<う~ん、お天道様は、曇天の中であるが、行けとの思し召しであろう。>

 夕食の仕度前の一寝入りをしていると、電話が鳴った。女房からである。娘の引越しの上京時、長兄の嫁さんの病気見舞いに行ってくれるとの事であった。その報告の電話であった。お互い独立系の愚痴を溢さない者同士であるから、用事が無い限り、電話の遣り取りも無い日常である。かと言って、電話で話を始めると、空白の時を感じさせぬ夫婦の会話に成っているのであるから、不思議と云えば不思議な関係である。
<これも、何かの思し召しである。今夜こそは、下調べに行くとすべしか。>

 暖かい日が続いた後の揺り戻しであるから、夜風が寒い。ブラブラ自転車を扱いでいると、行く手に、サーチライトが煌々と点いている。何やら、ロケーションが敢行されているらしい。川原のベンチが、昼の明るさで照らし出されている。辺りに目を遣るが、スタッフ陣の多さばかりで、ロケの主と思しき人物を見付ける事は出来なかった。都会ナンバーの車が、其処彼処に駐車してあった。大掛かりなロケの様であるが、都会からのキャラバン隊を組んで、地元の交通に配慮して夜間の撮影を挙行しなければ為らないのも、大変な事である。遠征隊も、諸般の事情とは云え、この寒さの中、ご苦労な事である。

 店は大体の目星を聞いていたが、分からず他の店に入って尋ねる。店に入ると、客は誰も居ない。ロシア人を指名して、座る。金髪・青い目の彼女が遣って来た。ハバロスク出身の25歳だと言う。日本語の達者な彼女だった。フィリピン・ホステスには興味が無かったから、ロシア・オンリーと伝える。もう一人の彼女は、体格の良い栗色の髪をした女である。値段を聞くと予算内であったから、彼女も指名する。彼女も、日本語が達者であった。2人ともハバロスク出身との事である。
お近付きの挨拶として<ハッチュウ、チュビァ>と言うと、すっかり打ち解けてしまった。

 昨年は隣のバンガローには、車で8時間を掛けてルースキー島バカンスに来ていた、ハバロスク在住の二家族が居た。隣通しであったから、ウォッカ・ロシア料理を振舞ってくれた人懐こい人達であった。中学の教師をしていると云う奥さんに、<ハッチュウ、チュビア>の意味も分からず、旦那の前で、その言葉を発してしまった。藪から棒に、そんな事を、訳の分からない中年日本人に言われて、真っ赤な顔で下を向いてしまった奥さん。兵士だと言う旦那は、目を白黒させて立ち上がって、ロシア語で捲くし立てられしまった。間に立った日本語の少し分かる義兄弟が、口から泡を吹いて、<あなた、それ駄目!! 日本語オ〇ン〇の意味、それ駄目駄目!!>と必死に通訳してくれた思い出のフレーズであった。アイム・ソーリーの直立不動の赤恥・平謝りで、大爆笑の内に、何杯もウォッカの乾杯攻めにあった究極のフレーズでもあった。又、その前の年には、ウラジオストクのホテルで、騒々しい中国、韓国の団体客と離れて、一人で朝食を取っていると、ロシアの中年ビジネス・ウーマンに同席を聞かれて、OKをして、お互い英単語の羅列でゆっくり朝食時間を取った経験があった。彼女も、ハバロスクからビジネスで来たとの事であった。連絡は取ってはいないが、シングル・ママが、<今度はシベリア鉄道の旅をしましょう。>と言っていた事を、思い出した。根が単純バカである。
     <ひょっとしたら、お天道様のお導きで、面白い発展になるかも知れぬ。>

「ハバロスクは、シベリア鉄道が止まる?」
「もちろん。ウラジオストクから、1日かかります。」
「ああ、そう。じぁ、もし俺が行ったら、迎えてくれる?」
「もちろん、グッド・アイディア。私たち案内する、OK。」
「俺の顔、分かるかい?」
「もちろん、アナタの顔、ゴルバチョフ、直ぐ分かる。大丈夫。」
「電話ください。これ、ハバロスクの電話、あなた、スケベだけど、面白い。心きれい、好い顔してる。私達、直ぐ分かる。」

 私は<素直な触り魔>であるから、遊びに行く時は独りを好む。ニヤケタ顔は、知り合いには見せたくないものである。白人女性とは、スキンシップが肝要らしい。波長が合えば、彼女達はセクハラなどとは、一切騒がない性質である。体格の良い彼女は、ウクライナとロシアのハーフとの事である。成るほど、直線的な彫りの深さである。黙っていると、女戦士の様な取っ付きの悪さを持っているが、スキンシップを重ねて砕けて来ると、ライト・キッスの合間に見せる笑顔は、実に人懐こさに満ちて女の柔和さが、表情を生き生きとさせて来る。ウクライナのライオン娘と似た雰囲気を漂わせて来るのであるから、人種の共通点とは面白いものだ、と感じてしまう。両手に花のレディ・ファーストのお国の女性達である。エコヒイキはご法度であるから、平等のスキン・シップに励む次第である。彼女は23歳との事である。客が入って来て、金髪さんが呼ばれる。

「ただいま、チュッ、私、あのお客さん嫌い。私は、あなたが気に入った。」
「おいおい、何ちゅう事を言んだ。<お客さん平等の原則に反する>じゃないか。日本じゃ、<お客様は神様>って言うのが、鉄則だぜ。プロに徹しなきぁ駄目だよ。」
「オゥ、信じられない。ロシア人正直、これ、私のプライド。」
「おやおや、何処かで、誰かさんから、聞いた懐かしい言葉だわな。」
「可笑しい? 人間、心あるでしょ。当たり前でしょう。日本人、言葉と心、時々、違うでしょ。ロシア人、言葉と心、何時も一緒。これ、正直、プライドでしょ。分からないのは、クレイジーでしょ。生意気違う。あなたは、どっちですか?」
「アイ、ヤイヤイ。」

  両手に花であったから、上機嫌に釣られて延長をこなして、帰路に立つ。

 私はやはり、彼女達ロシア女性が性に合う。見え透いた猫撫で声のリップ・サービスよりも、一見生意気そうに見える彼女達のシラーとした口調と、砕けた時に見せる人の良さが覗く、豊かな瞳の表情。その対比の落差が、面白いのである。表情の対比の中に、彼女達は、生意気さの下にある、何とも女らしい柔和さを見せてくれる。そんな雰囲気が、実に楽しいのである。

心何処ーショート ああ、草臥れの記

 よく降ったものである。雨の音が耳に付いて、昨夜は些か寝付かれなかった。脇腹が痛いと言っていた老母は、未だ物音がしない。ラジオを付けるが、例の先生のお話であるそうな・・・

 NHK第二放送にダイヤルを合わせる。おやおや、懐かしい音感である。きっと、ロシア語の様である。はっきり言って、一語たりとも理解出来ない。然しながら、歌が記憶を甦らすと云われる様に、馴染んだ音感にあるシーンが浮かぶ。声の主は、年齢の行った婦人の声である。シングル・ママのお婆さんの顔が浮かんだ。賄い夫を決めてから、ロシアには電話をしていないが、彼女が不在の時は、ママさんもお婆さんも、私とは言葉が一切通じないのであるが、お互いを認識すると彼女達はロシア語で、私は日本語で、気持ちを交換していたものである。

 スローペースのロシア語の音感は、何故か解らないことへの苛立ちを、呼ばないのである。多分、母音の比率の高い事と音節の短い言葉で、然もスローな言葉の運びの所為なのだろうと思う。一緒に居ると、お互い目で大まかな意思が伝わるから、言葉は二の次となる。
考えて見ると、可笑しな交流であった。家族総出で遊園地・海水浴に出掛け、幼児のダーリアの子守が、私の役目に成ったり、駄々を捏ねる幼児の尻をお仕置きに叩いたり、海では幼児を背中に乗せて泳いだり、兎に角、私には理想的な白人との付き合いとも言える、気兼ねの無いロシア人の日常を見せて頂いた物である。

 その圧巻は、去年はルースキー島でのバンガロー・バカンスであったから、顔を見る事の出来なかったママさんが、私の母の為に手作りのお菓子を作って、留守宅のアパートの冷蔵庫に入れて置いてくれた由、そのお土産を母に渡すと大いに喜んで、美味い上手いと言って、有り難く食べていた物である。老母も義理堅い女であるから、今年は、何時行くんだと気にして、何やらバカ息子の旅行に合わせて、気丈さでその日程を乗り越えようとする気構えを、示して下さるのである。90と60の母子の関係に、私はただ、『へへへ』と苦笑いをするより、反す言葉も無い処であった。

 何処の国の人にも、好い人と悪い人が居るから、人次第と云うのが<通り相場>であるらしい。極々、当たり前の実相であるから、万人、異論の無い処である。然しながら、個人と云えども、集団の中で生まれ育った集団共通因子を持ち、持たされた存在である事は、歪めない事実である。
個人・家族・集団・国家と、<同心円の輪>を広げて行くと、如何しても突き当たってしまうのが、経済と政治・歴史の垣根である。外国人に知己を得れば、その分だけ、その国に関心を持つのが、人情である。何も無ければ、知己を通した目からは、自然の流れからか・・・その国に好意的な関心を傾けるものである。

 然し、その国が、ヤンヤ・カンヤと傍若無人な主張を繰り返したり、言語道断な蛮行に及ぶと、何故か個は全体に染められて、<痘痕も笑窪>の贔屓目が萎んでしまう。痘痕が痘痕の平静さで保たれている内は、<好い人も悪い人もいる。何処の国も同じ。>と達観視も出来る。それが、大きく破目を外すと<共通因子>とばかりに、<100年の恋も、一瞬にして冷める。>の喩えでは無いが、<個は全体に没してしまい勝ち>である。

 大恋愛ドラマなら、格調高く周囲・国家に翻弄される恋・愛の崇高さを、ドラマチィックに延々と盛り付ける事が出来ようが、下衆の身の丈で、人生を枯れさせて行く人間共には、払拭出来ない<共通因子への色眼鏡>と言えよう。国が、個に及ぼす最大被害???

 人間、無い物を糊塗するには、<メッキ>が必要である。どうせメッキで糊塗するのなら、剥げたメッキを、塗り潰す手間が必要である。薄いメッキでも、その都度、塗り直す手間を惜しまなければ、表向き『鮮度』を保つ事が出来る。メッキが手間だと思えば、内実を鍛えて、風雪に耐えられる<無垢の本物>を、時間を掛けて作り上げる事しかあるまい。選択肢を何れに採ろうとも、<共存共栄の共通の理念>が必要とされるのに、度し難い国家の驕りと欲が絡むと、収拾の着かない非道が罷り通ってしまうばかりである。

 正直言って、オオバカ野郎共ばかりである。俺の老後の楽しみの異国美形のイメージを、国家権力の餌食にするな!! 韓国を取られ、中国を取られ、残るはロシアだけじぁねぇか。この先、ロシアを取られた日にぁ、エロ・サイトに引き込まれて、晩節を汚すだけの老後では無いか!!少しは、国家の節操を守って、『個人の想像・妄想の自由』を保障しろってもんだ。
      <無礼者め、これ以上の踏み込みは、手討ちにするぞ。>
 チベット旅行客の中国官憲の緘口令が、祖国日本に於いても持続されるとのニュースであった。南京袋を被されて埒されるスパイ天国である。拉致され、殴られ、威されても、弱腰外交一辺倒の日本政府である。日銀総裁不在がニュースになるのは好いが、中国の緘口令を内政干渉と抗議出来ない国際協調のメッキは、不要の筈である。嘗てなら、『国辱行為』として壮士が、街頭演説を敢行したものである。

   イカンイカン、マタマタ、脱線してしまった。
       文句を言うのも、物臭者には、大いに草臥れるものである。
                 気分治しに、銭湯に行くべしである。

心何処ーショート 外は雨

 午後から雨らしいから、運動散歩に出掛ける。軽装で玄関の戸を開けると、寒い。ジャンバーを着込んで、いざ出立である。階段運動をこなして、漸く汗の気分である。息切れに腰掛けて、上体の柔軟運動である。灰色一色の曇天に気分を削がれて、そぞろ歩きの気分にも為れない。河川敷の散歩道を下って来ると、小学生が釣の用意をしている。見ると、竿を忘れたらしく、棒切れに糸を結び付けている。困った物である。川原の水柳の適当な枝を折って、坊やに渡す。
 
  釣れても釣れなくても、家で退屈しているよりも、ずーと益しと云うものである。

 歩く行く手に、小鳥の影一つ。近付くと、バルディナさんである。もう北国に帰ってしまったのだろうと、半分諦めていたのだが・・・ 渡り鳥達は、何時頃、帰るのだろうか、などと考える。想像するより、遥かに長い滞在期間なのかも知れぬ。梅の蕾も、大分赤味を帯びて来た。

 昼は、即席ラーメンが無性に、食べたくなってしまった。即席ラーメンが美味く無いのは、当然に知っている事なのだが・・・可笑しな物で、習慣の鎖からは、開放されないのである。

 ある考え方からすると、健康の秘訣は、雑多な多種多様な体内細菌を持つ事とも云えるらしい。食物を消化吸収する為には、体内細菌及びそれらが作る酵素の働きに、助成して貰わなければ事が進まないらしい。想像するに、細菌・酵素の類は、職人気質の単一工らしい。細菌群は、共生の分業集団を作り上げる。そして共生の関係は、機能集団を作り上げて多能工のシステムを作っているとの事であろうか・・・

 分解すれば、職人気質の単一工なのであるから、彼等とて時には不味い即席ラーメンで、100%の職人気質の技を発揮したくなるのも、大いに頷ける理屈である。私は、美食の偏食が許されない雑食ロートルである。そう考えれば、長らく腸内に棲み付いた、頑固な昔気質の細菌集団のリクエストに応えるのも、主の務めの一つであろう・・・ こじ付けが、キツイ??

 本日は楽しみとしていた『相棒』様の最終回スペシャルとの事である。夜は、それで流すとして、昼寝の時間を割愛して、本日分のノルマ『賄い夫日記』を打ち上げずば為るまい。惰性でマンネリ文章を思い付くまま、打っているのであるが・・・ よくも飽きずに、続くものだと我ながら、呆れ果てる事がしばしばある。

   何処で如何間違ってしまったのか??? 
 中学時代、担任教師に、お前の日記能力=NEARY ZERO とデカデカと朱筆された男である。我がブログ、希少の読者の中に中学生・高校生のお方が居られる。人生、為るべくして進むものであります。優等生にも、不良にも為る必要はありませぬ。何時かは、ひょこり顔を覗かせる『居心地のよい自分らしさ』があるのであります。諸君、お待ちなさいませ。

心何処ーショート 錯覚(改)

 朝風呂に行く。熱い湯船に浸かって、垢を落とす。地黒であるから、小さい頃は、垢を落とすと、その分、色白に成ると思い込んでいたものである。地黒コンプレックスの垢落としは、消しゴムの作用を果たすと思い込んで、力任せに体中をこすって居たものである。全くの笑い話である。長じるに従って、私の色黒は男のセックス・アピールと為って、些か騒がれた物である。

 然しながら、三つ子の魂百迄で、それが習慣として身に付いてしまった。垢すりでゴシゴシ洗い捲り、乳化した垢の分量を確認して、<おお、これで白く為った。色男に変身>などと思っているので、手の付けられない<オオバカ>なのである。

 身嗜みの整った後は、例によってタイル壁を背に、湯気風呂に移行である。足を投げ出して、吹き出る汗に目を瞑っていると、頭を擡げて来る物は、やはり<今や、世界の問題児と化した中国>である。あんな国・あんな国民に、目を付けられてしまったら、全世界が『国家存亡の危機』に見舞われてしまう。商売する事と仲良くする事とが、これほど乖離している国も無かろう。日本人の常識的観念からすると、仲良く商売するのが最善の道なのであるが、これ程までに『唯我独尊』を押し通されると、ナショナリズムを刺激されてしまう。

 嘗て、徳を説いて、徳を輸出した国家の本態が、この程度なら彼等の徳は<得>であり、彼等の説く目的は、<得>でしか無い。国力の無い時は、徳を吹聴して得を蓄え、得が貯まれば、形振り構わず、他国に内政干渉を振り翳し、他国の自国批判には内政干渉を盾に、論理の綻び・無整合性も理解出来ずに、拒絶一辺倒を押し通す。相手が弱いと見るや、武力行使と人民洗浄と称して、力による洗脳化を押し進める。

 彼等に『人間共通の理』等と云った<夢想>を持って、仲良く出来る訳が無い。拝金主義の跋扈する国・国民に、日本人の常識を期待するのは、意味の無い滑稽さでしか無い。非常識には非常識に、立ち向かうだけである。商売は商売の『政冷経熱』が、当たり前の選択肢である。インテリ・知識人・平和盲愛者達が、得てして陥り易い博愛・平等・啓蒙主義の信仰は、時と場合によりけりでありましょう。特に相手によりけりでありまする。日本人が一方的に、<好い子振る>必要など、殊更無いのである。中国人は、<相手に応じて、言葉を選ぶ>そうである。そんな事は、何処の人間だって当たり前の対人姿勢である。然しながら、そんな本音は、隠して言わないのが、大人の対人関係の基本なのである。生意気振って面と向かって、その言葉を発する『民度』が、そもそも『中華思想』の底の浅さなのである。

 武力・洗脳国家の独善政策の失敗は、北京オリンピック後で無ければ自覚出来まい。自国首都での大失敗が、あらゆる種類のメディアから世界同時に発信されない限りは、張子の共産党王朝の実態が、世界に、国内に、悲しいかな実証されないのである。

 他国で起きた原因国・中国の対応は、完全に日本での毒入り餃子事件の応対振りと『一致』している処である。千枚舌を駆使する時代錯誤の王朝スポークスマンの対処方法は、決まって2国間問題のスタンスしか取れないのである。世界の工場として、自国製品を世界に輸出している大国が、2国間だけの関係で自国の主張だけを声高に、叫び続けている行為に終始しているのである。
常識派が非常識派に、効率的な勝利を収める方法は、常識派が多数を占めるテーブルで、非常識派のヒステリー加減を、世界中にアピールする事では無いだろうか。下衆の表現では、世界を相手の国家の桧舞台で、『赤恥』に塗れる。面子・権威を失墜した張子の虎の前に、やっと大国中国の『身の丈』が現われる。

 己が主張ばかりの行動では、他者を納得・説得する事は、適わない筈である。現実を内省して、善後策を講じる『頭の回路』を身に付ける事が、先決である。内省を欠落した者の主張ほど周囲に傲慢・高慢の悪臭を、撒き散らかす物は無かろう。職場の改善提案の手法では無いが、<全ての改善は、現状認識から>の経験則でもある。

 現状認識を誤れば、私の地黒同様に、貴重な表皮を削って、ヒリヒリするだけの徒労に帰するのみである。

 嗚呼、情け無しや・・・ 貴重なリラックス・タイムを、無駄遣いしてしまったものである。さてさて、買  出しをして、昼の賄い夫を致した後は、お洗濯のお時間と致しまするか・・・・ 
    島国・ニッポンは、とんでもない隣国達に、取り囲まれてしまったものである。

心何処ーショート 行きは好い好い・・・

 風も無い好天に、気分が反応してしまう。廊下で釣竿を伸ばして、釣りの用意をする。体育館・県民文化会館に架かる橋の下では、30~40人の学生達が、恒例の野外コンパの設定をしている。人数が人数であるから、セットも賑やか、この上無い。

 その橋を素通りして、目星を付けて置いた橋の上で、暫く当たりを待つ。来ないから、その上の橋を探る。ハヤ5匹釣れたが、山女の<ガツン>と来る引きが無かった。場所を移動する。やはりハヤの引きばかりである。落とし込みの上に、格好のポイントを見付ける。上体を屈めて、枯れ葦の茂みに胡坐を掻いて、竿をソロソロと伸ばす。ポイントと睨んだ流れの抉れ部分を狙って、流れの上流に仕掛けを流す。もう一度、今度は流れの端を狙って、流し込む。目印で水深を測りながら、心持ゆっくり流して行く。道糸が張る。

<ムッ、来たかな? 咥えている、さぁ、如何する。ウム、来てる来てる、未だ冷たいか、動きが鈍い・・・待つか、上げるか、一発、ガツンと来い。・・・ まぁ、いい。行こう。>

 竿を絞る。デカイ。掛かっている。細い道糸が、ググゥーと持っていかれる。水中に黒い魚影が走る。撓る竿先に、不安が過ぎる。切れるかも知れぬ。慎重に竿を立てるが、揚がって来ない。『岸に呼び込むしかあるまい。』仕掛けが貧弱過ぎる。負担を掛けぬ様に、身体を付けて行くが絶望的である。

<こうなったら、姿だけでも、ご対面しか無い。イチかバチだ。そりぁ、> 『バチ』

 ノッペリしたズンドウの体形であった。相手は大岩魚様であった。<道理で、・・・>あんな咥えた侭の魚信だった訳である。釣り落とした魚は、皆デカイの譬えでは無いが、老母様と2人で塩焼きにしても、充分なデカサであった。さてさて、家の前で採って来た川虫は、使い果たしてしまった。水中の石を探すが、餌になる川蓑虫は殆ど無い。

 大分歩き手はあるが、畑の堆肥置き場には、ミミズが居る筈である。こう為ったら、意地の遠征である。竿を畳んで、長靴行軍を決意する。本日はペットボトル持参であるから、咽喉を潤す事が出来る。3km弱歩いて、山際の畑に着くと、今年はオガクズの堆肥が無いではないか!! 堆肥置き場の辺りを穿るが、一匹も居ない。草臥れ儲けの典型である。ペットボトルの水を飲みながら、<思えば遠くに来たもんだ・・・トホホ・・> 仕方が無いから、川に下りて、川石のチョロ虫を漁る。ああ、これでは掛かるのは、アブラハヤばかりである。この辺りまで足を伸ばすと、釣り人の姿が見られる。5人居た。些か疲れてしまった。ハヤを何匹か釣って竿を収める。

<行きは好い好い、帰りは遠い。重い長靴、帰りゃんせ、帰りゃんせ。>

 釣とは、所詮、こんな物である。11時に長靴を履き15時に長靴を脱いだ次第である。

心何処ーショート ニュースの狭間

 チベット関連のブログを見ている間に、すっかり気が重くなってしまった。限が無いので、DVDに移行する。マイ・コレクションを眺める。こんな時は、師と仰ぐバート・ランカスター氏を観るに限る。ウェスタンの『追跡者』『アパッチ』をセレクトする。

 2本ともお気に入りの映画であるから、年に何度か観る。彼の映画には、如何云う訳か? 美形女優が、余り登場しない。それが、実に勿体無い気分なのである。ランカスター映画は、男と女の愛を描いても、結果として<際立ち、残る>のは、男の意志の強さである。デボラ・カー、スーザン・ヘイワース、オードリー・ヘップバーン、ジャンヌ・モロー、クラスの大物女優との競演もあるのであるから、美形狂い便乗組みとしては、もっともっと美形陣を配置して欲しい処であった。アパッチの共演女優のジョーン・ピーターズは、そんな中にあって、目を惹く女優さんである。体格も、野性味もランカスターと互角の釣り合いである。勿論、2人ともインディアンの役であるから、ドーランを濃く塗った粗末な衣装であるが、力強い演技に溢れている。好い男・好い女は、何を纏っても様に為るの典型と云った2人である。

 タバコを蒸かしながら、余韻に耽っていると、電話である。M氏が、久し振りに顔を見せてくれるそうである。本日分は、未だ一文字も打っていないから、来る前に少なからず、打ち始めて置いた方が得策と考え、机に向かっていると、電話である。今度は、Tからである。天気が好いから、自宅前の河川敷のベンチに居るからとの事である。慌ててパソコンを整理して、机のクラッカーを手に、外に出る。すっかり軽装に為ったTが、木製のベンチに足を組んでタバコを吸っている。

「羨ましい位の好い場所だな。住宅街なのに川のお陰で、静かで広々としていて、散歩は如何云うコース採って居るんだ。歩いて温泉銭湯に浸かって、お公家さん見たいなのんびりした生活じゃないか。降りれば、直ぐ川だ。裏庭だもんな。」
「うん、天気が好いと此処で、うつ伏せになって本なんか読んでて、眠くなれば部屋に帰って、一寝入りって処だ。夏の夕涼みに此処に来れば、未だ蛍が居るからな。その代わり、散歩コースだから、陽気が好くなると、ウォーキングのお喋りで目が覚めるぜ。」
「此処で、焼肉が出来るじゃないか。俺は焼肉が好きだから、場所としたら申し分が無い。」
「嗚呼、この下の橋はS大に通じているから、前は焼肉の定位置で盛っていたんだけど、周辺住民から苦情が出て、締め出しを喰らちゃった。学生にしたら、残念至極だろうよ。俺達学生経験者からしたら、自由な田舎暮らしの開放感そのものなんだけどな。経験の無い大人は、煩い。」

 穏やかな昼下がりを、のんびりと友と高校以来のスロー・テンポの言葉を交わしていると、お互いの素地の変らなさに、時の流れなど別物の感じさえして来るから、不思議な物である。何時間か過ごして、「爺っさのお相手に、帰るとするか。また、来るよ。」とTは帰って行った。

         再び電話が鳴って、M氏の車が止まっている。
「Mさん、仕事? 可愛そうに。仕事のし過ぎは、老後の命取りだよ。」
元気そうな顔を見て、一安心である。彼もグッピィを飼っているから、机上の水槽を眺めている。お互いの近況を報告し合いながら、コーヒーを飲む。背後の本棚をビッシリ埋め尽くした映画コレクションから、好きな物を貸し出す。

 吾亦紅のCDが借りたいとの事である。仕事の忙しい彼は、紅白で吾亦紅を聴いたとの事である。お互い団塊世代の真っ只中である。感涙無くして聴けぬ吾亦紅の歌詞とメロディである。時代を共有する者同士の<時代の感性>と云う物が、聴く者の中にある『吾亦紅』の感情を揺さぶるのであろう。この歌は、団塊世代の<母と子の哀歌>であり、<企業戦士の挽歌>の心情を綴った『心象風景』でもある。奥さんも、泣いたとの事である。

 我々世代は、石を投げれば団塊世代に当たる、と云うほどの数を<誇る>人間達の集団である。同世代の間からは、スクラムを組む世代だが、異世代から見れば当然に、数を<頼り>にする高人件費層・目の上のタンコブ層に映っている世代でもある。何時の世にしても、<類は、類を呼ぶ>のは、仕方の無い現象であるのは、間違いの無い事実であろう。

 私は生来の物臭男であるから、<努力の希望>より『努力の限界』の現実に重きを置いている性質だから、物事に対しては、好き嫌いの傍観者的覚めた感想を持っているのだろう。経験上、頑固な単細胞故に、血が頭に凝縮されたら、収拾の付かない域にまで沸騰してしまう。騙しながら自己と付き合って行くには、君子危うきに近寄らずの『他者との距離間』を取るより仕方が無いのである。客観人の義務感から解放されて、折角手に入れたロートル1人身の境地であるからして、極々吟味した微小付き合いの方が、気が楽と云うものである。

 こんな面白みに欠ける男であるが、忘れずに訪ねて来てくれる友の厚情は、何にも増して、有り難いものと感謝するのみである。今日一日を振り返りつつ、夜更けのラジオのニュースに打つ手を止めながら、本日の賄い夫日記を打ち進めている次第である。

心何処ーショート 気付けば夕暮れ

 庭の福寿草の黄色い花を見付けて、老母様はご機嫌の様子である。庭の落ち葉の溜りを穿るが、ミミズ殿は未だ姿を現わしていない。少々風が強いから、釣はパスとする。冷蔵庫も空に近いから、買出しに行く。

 土曜日であるから買出しの為に、娘の車で連れて来て貰ったと言う母娘が、レジの先輩を相手に話をしている。何と無しにホッとする店内である。店頭には、地産地消の野菜類が並んでいる。ジャガイモ・玉葱は、土地柄の所為で小振りで、産地物には見劣りがするが、その分、値段が安い。これも、中国効果の一つであろう。面倒であるから、カレーを作ることに決める。食材を適当にぶち込んでレジに行くと、先輩は手際良く袋に入れて下さる。

「ニイさん、買い物が上手じゃん。バランスの取れた買い物してる。何時も感心しちゃう。これじぁ、女は要らないわね。」
「でも先輩、男と女は、持ち物が違うよ。人間、無い物には、妄想願望が働くものじゃないの?」
「またまた、お彼岸が近いから、おばぁちゃんに、花買ってかない? 息子の株が上がるよ。喜ばせて上げなさいよ。」
「へへへ、成るほどね。流石に男の発想に無い気遣いだね。持ち物の違いだけじゃないわ。」
「そうだよ。男と女は、ワンセットって昔から云うでしょう。今日は、私の勝ちズラ、アハハ。」

ムズムズする<妄想願望>の切り口を、<お彼岸>で軽く一蹴されてしまった。イカンイカン。
 
 昼食の支度をしながら、カレーの下拵えをする。カレー作りは、全く以っていい加減の一語に尽きる家庭料理である。人参・ジャガイモ・玉葱を大振りに刻んで、豚肉をぶち込み、SBのカレー粉を振り掛けて、時間を掛けて油で、色が変わるまで炒める。気が済んだら、具がヒタヒタに浸かる程度の水を加えて炊く。この時点で、塩・調味料・醤油・ソース・ケチャップを舌で確かめながら投入する。後は弱火で水炊きの要領で炊き込む。市販のルーを予定の半分ほど、加えて味見をする。納得が行けば、それで火を落とす。夕食の為のカレー作りであるから、夕食時に残りのルーを加えて、出来上がりの寸法になる。出た処の勘頼みの賄い夫の作る代物である。従って、合格圏内に入っていれば、佳とすべき老母と私の食卓である。続いて、生サンマに塩を振って冷蔵庫収納である。

 老母は洗面所から椅子を出して来て、廊下で日向ぼっこである。私は、小さい頃からの花粉症である。全開で外の空気を呼び込みたいのであるが、大クシャミ・水鼻・目痒い痒いに捉まってしまう。仕事中なら我慢も出来ようが、独り時間で、それに捕まってしまうと、気の紛らせ様に困ってしまうのである。従って、居住区の空気の入れ替えは、朝としている次第である。
 
 土曜の午後は、ラジオ『ぼやき川柳』のお時間である。千堂あきほさんの顔しか知らないのであるが、好きな番組である。女2、男1のトリオで、大人の味がクスクスと流れる時間である。

 庭からは、四十雀のツッチー、ツーツーチー、ジュクジュクの地鳴きが聞こえて来る。木々の枝に若芽が膨らみ、柔緑が見え始めると、一気に春が顔を綻ばせる。そうなれば、小鳥達の囀りが、春眠暁を覚えずの朝を起こすのであろう。小さな出来事の連続であるが、こう云った諸々が、リタイヤの褒美なのであろう。

 そう云えば、昨日は銭湯に自転車で行こうとしていたら、Tから電話があった。電話を掛けながら、ペダルを扱いでいると、「今度、ロシア人の遣ってる食堂に、連れて行けよ。」との事である。??? 何処だろうとTに尋ねると、「書いてあったじぁないか。」とのニヤニヤ振りである。ああ、「ぶっ掛け屋」かと、納得した次第であるが、

「T、ありゃ、俺の創作だよ。」
「何だよ。俺、お前の事だから、しっかり美形を見付けて、楽しんでいると思っていたんだ。お前、面食いだから、俺もしっかりと、目の保養させて貰おうと、楽しみにしていたんだぜ。そりぁ、残念だ。仕方ないな。何か、ロシア人のいる店があるって話だぞ。」
「ああ、聞いてる。」
「そうか、下調べして置いて遣るから、一緒に冷やかしに行こうや。」
「そうだな、お互いロシア全盛期を知っているから、採点は厳しいぞ。」
「そうだいなぁ~、お前さんの方が、原産地にまで、足運んでるからな。処で、お袋さんは?」
「相変わらず、老衰の歩みって処さ。婆さん恐縮して、<遊んで来い、遊んで来い>の有難いお言葉だよ。遊びに行くのも、親孝行だ。これで、寒い夜風ともオサラバだから、近い内に行くベや。」
「おっ、分かった。理解のあるお袋さんは、大事にして遣らにぁな。」
「分かりやした。じぁな。アリガトサンよ。」

 今年ですっぱり引退を考えているTは、近い内に孫が誕生すると言う。引退後は、週に2~3度、先輩の柔道場で、子供達に教えると言う。彼にも近々、褒美の日々が訪れる。お互い年老いた父と老母を持つ身であるから、調整が付かない内は、長旅は難しい処であるが、時にはバカンスが欲しいものである。組織を離れると、仕事絡みのお付き合いには、食指は一向に伸びないものである。気の置けない2~3人ほどの非日常の旅が、丁度好い。

       遅かれ早かれ、<待てば、海路の日和あり>である。

心何処ーショート 何事も、使い様

 季節の変わり目か、老母の体調は、不調の様子である。それを好い事に、朝を省略した朝昼兼食が、何日か続けている。

 そんな訳で、本日は朝から、ブログ読書と相成ってしまった。全くひょんな切っ掛けで、古代から現代に掛けての隠れた日本天皇史と付き合ってしまった。軽い気持ちで、中国批判の検索で、時間潰しを目論んでいたのであるが、ついつい3時間に及ぶ長丁場と為ってしまった。若い頃、邪馬台国ブームがあって、何冊かを読み比べた事があった。その中では、高木彬光の『邪馬台国の秘密』の名探偵神津恭介の推理が、私の記憶に強く残っている。今回のブログ内容は、それを上回る説得力があった。つくづくと、推理と研究の力強さには、タダタダ恐れ入る次第であった。
 
 のめり込むのは性に合わないから、ご尊名は頭には残していないが、ご無沙汰しているご老人との話の中で、何回か耳にした古代史の研究家の引用があった。ご老人がのめり込む気持ちが、好く分かる説得力に満ちた論証であった。何時か訪ねる事があったら、『感服致しました』と伝えなければ為らぬ。ご老人は、その先生の講演にも顔を出す程の信望者であるから、垂涎の悦び様で、私の前でツゥーツゥー涎を垂らす事、必定であろう。(近年一段と締りが無くなって来た)
 
 私の嫌いなT.伊藤氏には悪いが、ブログ検索は斯様に、読みでのある学習時間でありましたぞ。知らずば、平気で悪態を重ねる事が出来る舌禍であるが、知ってしまうと途端に、口篭ってしまうのが、愛すべき日本人の国民性であります。極論の有効性は、等しく認める処ではありまするが、野次馬根性で、??チャンネラーズの罵詈雑言オンパレードも、又、楽しからずやで行きましょうよ。 

 そう言えば、先日、まるで<王権神授説>ならぬ「現代・女権神授説」の様な寄稿を拝読させて頂き、その強烈なる毒々しさに我慢為らずに、呼吸と昇った<男の血流>を下げに、夕刻(憂国)の散歩に出掛けたものであります。

 これなどは『現代・女権神授説』を、必死で『極論の有効性』と位置付けて、深呼吸・咀嚼するしかありませんでした。ロートル・肥満体・毛髪無し・金無し・女無しの身の上では、極論の有効性の活用と為れば、振られた時の<慰め>に、転嫁応用するより他ありませぬ。

『現代女王様』に、まともに立ち向かってしまったら、<バカ死ネ!! ウザイ、消エ失セロ!!>です。これでは小生、単細胞にして、武闘派です。忽ちにして、粗暴凶暴の血の海と化してしまいます。法治国家の元では、物理的威力は、精神的無形威力に対しては、絶対に勝ち目は無いのでありまする。日頃、尊敬する水谷豊の右京警部に一喝される以前に、現行犯逮捕であります。然も、興奮の余り、我に返るタイミングがずれてしまったら・・・ 血の荒ぶれで警察官に抵抗しようものなら・・・ きっと、拳銃の的に為ってしまうかも知れません。一過性の狂気(侠気)は、心神喪失・心神耗弱の検査では、救われますまい。裁判員制度に縋ろうにも、人見知りの強い性格でありますから、裁判員の心証も芳しくは無かろうと思われます。
                      ・・・ T・伊藤様、ご自重あれ。

心何処ーショート 吾が心、何処や

 新装成ったグッピィ槽は、中々の雰囲気である。グッピイ達は、これから二世代達の色合いに満ちて来るのだろうが、期待して好いものやら、結果が出ない事には分らない処である。
<青は藍より出でて、藍より青し>の出藍の誉れを、地で行く赤尾の2匹が居る。この2匹は単体で見ても、全体の中で見ても、際立っている。一方、黄尾に大きな黒い点を散らした2匹は、個としては大した見栄えはしないが、全体の中にあると中々の目立ち振りを発揮している。

 斯様にして、親の姿が子供に如何遺伝するかは、想像に難い処である。人間同様にその出自・生い立ち・青年期・壮年期・老年期を経て、其々の個としての軌跡があるのだろうが、言葉を介しない彼等の頭の中は、とんと分からない。想像して見るのも、面白いのであるが、彼等の姿は、残念ながら余りに小さい。想像するにしても、それを可能にする『入り口』の目の動きを掴む事が、叶わない。表情の核と為る『目』は、小さいより大きい方が、観察・想像するには適している。

 然し、そうなると『愛着』と云う物が、少なからず湧いて来るものである。生き物を飼うと云う行為には、当然『死』が付き物である。死に『鈍感』に為る為には、愛着を持たぬ事なのであろう。<愛着>を持たぬ手立ては、<距離>を保つ事なのであろう。距離を保つ為には、<情>を通わせない事に通じる。情を通じ合わない手立ては、<目>を交わさぬ事に通じる。

 こんな事を打っていると、きっと<動物愛護者>からは厳しく糾弾されて、『冷血動物』のレッテルを貼られてしまう。挙句の果ては、ペット売り場でブラック・リスト・アップされて、『購入ストップ』が掛けられてしまうだろう。確かに「文字は、災いの元である。」

 大型インコの中に、青帽子インコが居る。大きく見栄えの堂々としたインコの雄である。2匹飼った事がある。余りの至近距離の関係に成って、庭に放しても1日マイペースで遊んで居たものである。野良猫が近付くと、けたたましい声と羽ばたきで、軽く追い返してしまう程の猛者であった。そんな馴れと気の緩みで、車に轢死の憂き目に合ってしまった。女房殿に、正論を頂戴して、恥ずかしながら一言も返す言葉も無かった次第であった。

 そんな一件から、私の飼う動物は、年を経るに従って、徐々に小さなものに変化して行った。勤めの影響も手伝って、ペットへの志向は、数年前から水槽住人となった次第である。ペットと私の関係を、『距離感』を中心として<達観>したまでは良かったのであるが、『落ち』のあるのが、私の頭脳回路である。金魚の稚魚も環境に馴染めば、大きくなるものである。賄い夫生活を始めて、四畳半机上の住人として1日の大半を、目を合わせる間柄に成ると、可笑しな物で青帽子インコ同様の情が通い始めてしまったのである。勿論、ロートルであるから、幼児期・少年期の様なショックは生まれないが、小さく尾を引く感傷の一つと為るものの様である。

  無ければ淋しい、居れば情が生まれる。亡くせば寂しさ募る。・・・吾が心、何処や。

心何処ーショート 賄い夫の一歴史考

 残念ながら、季節を飛び越したお天気は、2日と続かない様である。老母も些か動き過ぎたのであろう、本日はコソリとも、音がしない。台所で湯を沸かし、豆菓子を摘みながらインスタント・コーヒーを啜る。昨日、手狭に成った水槽から、親グッピイを移して置いた。水面に餌を振り撒き、そのついでに水草の位置を直した、その時である。

<おやおや、> 金魚藻の緑の中に、半透明の芥子粒一つを見付けた。定温世界のリズムは、規則正しい受胎・妊娠・出産を繰り返しているものの様である。小水槽では完全に、世代交代の世界であるが、既にメスの腹部にはプックリと、黒ずみが見られる。

 北京オリンピックでは大気汚染を危惧して、世界最高記録をマークしている男子マラソン選手の不参加が報じられている。他人事ながら、張子の大国・中国は、8月に迫った北京オリンピックに如何対応して行くのか? 

 傍観者の観察眼からしても、<困ったものである。付ける薬も無し。>としか思い様が無い。マイカー規制、工場の操業規制をして、大風を頼んで光化学スモッグを、一掃したいのであろうが・・・ 素人の身には、皆目、見当が付かない処である。

 人間には、衣食住が必須の物と云う。他国から大挙して北京に集まる<選手・オリンピック関係者・観客>の食住は、確り責任を持って、北京で賄わなければ為らないのである。メイン・スポーツの大半は、大気の下で行われるのである。競技時間・観戦時間は、物理的比較においては、滞在時間の何割に相当するのだろうか? オリンピック観光で観光客は、多分その大半の時間を掛けて、中国の雰囲気を自国に持ち帰るのである。大金を叩いて、世界の裕福層が、観戦に遣って来るのである。張子の大国・似て非なる国を感じるのに、大して時間は必要では無かろう。
如何な破廉恥漢と云えども、言い逃れ・責任転嫁は、世界の大国・富裕層を相手に通用しないのである。さて、如何なる姦計を以って、対処するのであろうか?

 ある意味では、子飼いの北朝鮮の<駄々っ子将軍様>にも、一向に影響力を発揮出来ないで居る『六ヶ国協議・議長国』であるからして、如何な物なのだろうか? シンヨウ領事館問題、毒入り餃子問題で繰り返される中国の姿は、問題解決能力の無い責任逃れ・引き伸ばし姿勢にだけ明け暮れる、<面子>に胡座を掻くだけの失態振りである。実に嘆かわしい時代錯誤の<共産党王朝>の実態振りである。・・・・少なくとも、私にはそう見えるのだから、仕方が無い。

               私の印象に残っている中国の姿 
空港の直近にまで林立する高層ビルの群れ。街の高台で巨大な白亜の煙突から、吐き出される灰色の煙幕。緑を消し去った大都会。工業団地周辺の道路に続くコンテナだけの放置車両。信号の少ない近代的道路を、ホーンの音もけたたましく割り込み割り込みで往来する車流。目を見張る造り・スペースの豪華さの中にあるバス・ルームの逆勾配フロア。市場で大手を振る『人観値段』。隣スペースに、ゴミを掃き除けるだけの公衆道徳。紙幣・貨幣のヨレヨレ、ボロボロ、ベタベタ振り。

 黎明のホテルの一室で1人ベランダに出て、大連の街容を眺めながら、モーニング・コーヒーを啜ると、嗅ぎ覚えのある臭いに包まれていた。タバコを燻らせながら、遠い過去を探した。それが、石炭から発するガスの臭いだと思い出した。嘗ての日本の大企業もそうであった様に、夜陰に乗じて、工業廃棄物を垂れ流していたものである。

 公と個の関係『公法』ばかりが目に付く中央集権国家・中国である。個と個との関係『私法』が無い大中国の前途には、21Cの暗雲が爆発し様としている。北京オリンピックの大失態を契機に、中国は民衆化と云う<大揺籃期>を進むしか無いのだろう。民衆化と民主化とは、同義では有るまい。思想行動が個人と国に定着するには、一体どれほどのタイム・スパンを要する物か? 一人っ子政策を取り続けた『付け』が、大中国を一気に襲うだろう。一人っ子の肩に、両親が乗るのである。そうなれば、否応も無く、世界の工場・農場が、崩壊するのは、時間の問題であろう。ボーダレス世界の危機が、一挙に現実の物となるのは必定であろう。

 嘗てユカタン半島のジャングルの中で栄華を誇った古マヤ・マヤ文明が、食料を失った人口の遺棄として『ジャングル』に没し、絶海の楽園・イースター島の巨石文化が、緑を使い果たして絶海の『海原』に没した如く、大中国は、栄華の兆しの幕を『黄砂』の中に閉じるのだろうか? 

 つくづくと思う事であるが、成長の速さは、衰退の速さに直結する物の様である。近代・現代に在って、その速度の凄まじさは、<大国の興亡史>などと悠長な歴史観では、到底及ばないマッハのスピードである。・・・後何十年生きられるか? 凡人の未来は、心もとない限りであるが、夢想癖の旺盛な身には、興味の尽きない歴史と現代の<照合タイム>である。

 午後は、お弟子様に指摘された様に、此処暫く下手絵が、停滞している処であるから、何かを描いて置かねば為るまい。さりとて、苦手の分野に関しては、大国中国同様に腰が重い物である。


心何処ーショート 好気分

 予報通り、気温はドンドン上昇して行く。部屋に居るのが、鬱陶しいの一語に尽きる。この数日、姿を見せなく成っていた夫婦メジロが、現われた。餌を催促している感じである。私としては、卒業と思っていたのだが、致し方無い。リンゴとミカンの大盤振る舞いである。ツグミに好く似た体形の見掛けない顔もあるから、図鑑で調べると、シロハラとの事である。マダマダ新参者であるから、私と目を合わせると、サッと飛び立ってしまう。

 昨夜買った文庫本を手に、川原のベンチに肥満体を長々と伸ばして、頁を進める。ジョウビタキのオスが、近くに遣って来た。春を迎えて、彼の衣装は、彩り鮮やかな正装振りである。旅立ち前に、正装とは??? 周辺を見遣るが、嫁さんのバルディナの姿は見えなかった。

 お天気に釣られて、散歩姿が実に多い。ペチャクチャとお喋りウォーキングのグループが、土手のアスファルトを行き交い、私が長々と寝そべる芝生の河川敷を、犬を連れた婦人がゆっくり散策をして行かれる。陽気が好くなると、此処は散歩コースであるから、朝な夕な賑やかな声が響く。階段上の欅の枝だけの梢からは、早くも四十雀の囀りが聞こえる。河川敷に植えられた五月の生垣には、冬眠から覚めたキタテハチョウのランデブーが、ヒラヒラ舞っている。春霞さえなければ、まるで5月の陽気である。正に昼寝には、持って来いの穏やかなる昼下りである。漸くのバルディナさんの登場である。<ウッシシ、やはり我輩が、好きであったか!!>

 如何にか100頁を読み進めた処で、本を閉じる。これほど陽気が好いと、机上の空水槽では、見劣りがしてしまう。階段をスイスイ駆け上がって、玄関の自転車に跨る。グッピィを少々買い求めて、水草・ヒーターも念の為に、買った次第である。

 不足の水を川から汲み上げ、水草を配し、ヒーターをセットする。頃合を見計らって、新住人を放す。8匹の集団であるが、子孫を繋げば、それなりのボリューム集団と為ろう。この儘、陽気が加速されて行けば、庭仕事もボチボチ始めなければ為らないだろうし、自給率を高める為に、家庭菜園も始めなければ為らない。その合間に、釣竿も振るわなければ為らぬ。老母様からの早々のリクエストである。ロートルの田舎暮らしが、溌剌展開される季節が、其処まで来ている。

 将来を考えるよりも、現在のノーテンキを続けるのが、気が楽と云うものである。人間、能力も無いのに、色々と思い巡らすのは、気の重い事である。身の丈を忘れて、悩みのチャンネルに合わせてしまったら、次々と連鎖してしまう悩みのパズルである。為るようにしか為らぬのが、凡人の生活である。一大事に至らぬ様に、『迷宮の門』は、避けて通るべしである。

 さてさて、午後の日記のお時間も、頃合である。
       後のお時間は、本の続きを捲りながら、流しのタイムと致しまする。

心何処ーショート 修行

 夜の冷え込みが無いとの予報であったから、時間を見計らって、「ショート」を印刷して知り合いを訪ねる。打ち合わせに手間取って、今帰って来たとの事であった。是非ともプレゼントして置きたかった編が、入っていなかったことも有り、コンビニへコピーを取りに行く事にする。

 予定していたコンビニは、如何やら店じまいの様子である。結構流行っていた店なのに?? 斯く為る上は、少し足を伸ばして、夜の街の入り口にあるコンビニまで行こうか・・・ 自転車であるから、ついでに街の雰囲気でも嗅いで来ようと思った。飲酒運転は、富に重くなったご法度であるから、流石に賑わいが、無くなってしまっている。呼び込みの男女が、着膨れした背中を丸めて、携帯電話に噛り付いている。駅前に客足が流れて久しいこの界隈は、お淋しい限りの沈下振りである。家が近い事もあって、気分上、足が向いてしまった飲み屋街である。思い出話が、幾つも重なる界隈である。然し、賄い夫生活にとっては、『鬼門』である。

 パチンコ屋のあった場所に、新しいコンビニがオープンしている。覗いて見る。手頃な本<「皇帝・王様」たちの世界史>を買う。この手の本は、肩が凝らないから好きなジャンルである。彼が私作を読んでいる間に、私も何ページかを読む事が出来る。一石二鳥と云うものである。

 彼は外観こそ一風変わっているが、芯の確りした好漢の一人である。私の生き方を手本にしているらしく、質実剛健一辺倒の男である。私は若い彼に、影響を与え過ぎた様である。年齢差は、5~6歳の筈である。サラリーマン時代は、会社の野球部に所属していた。生真面目さと破天荒な側面を併せ持つ彼の性格は、私の性格に好く似ていた。彼是30年を裕に超す付き合いである。私から見ると、羽目を外した時の彼の破天荒振りは、様に成り過ぎているきらいがあるのだが、弟子に言わせると、私の方がその上を行っているとの事であるから、似た者同士なのであろう。

 彼の目下の関心事は、裁判員制度であると言う。冤罪関係の本も何冊か読み終えて、心の準備をしているらしい。そんな事で、質問の数々に、<真実・事実・挙証責任・疑わしきは罰せず・法秩序・社会秩序・隙間を埋める自由心証主義・観察・感性・自問自答・落とし処としての量刑・社会正義・・・etc>について、長々と私見を言わせられる破目に為ってしまった。相手を斬るには、疑問の太刀筋として、感性を磨き、知識を紐解いて、自問自答を繰り返して自分を磨く事しか、方途が無いと言うより、仕方が無い処である。ご指名があれば、全力で対しなければ為らない裁判員の責務であるが、私には荷が重い制度である。なるべくなら、避けて通りたい気持ちが、先に立つ難題である。

 精々、一月に一回言葉を交らわせるか、否かであるが、問題意識を持ち続けている彼には、やはり好漢の形容が似合う。話の休憩に彼が、ロシア人ホステスが2人居る店の情報を、教えてくれた。<おお、そうか。>等と、すぐさま食指が伸びる私は、やはり修行が足りぬ。

心何処ーショート 勝手な言い分

 昨日のニュースでは、フィリピンの元政府高官の汚職暴露に依って、現アロヨ政権の行方に・・・・ なんて報道があった。かの国・かの国の人々を全く知らなかった時には、その余りの酷さにショックを受けたものである。貧富の差・賄賂天国の情報を得て、単細胞反応として、正義観・同情から、民衆行動・運動に熱い声援を送っていたものである。

 この5~6年、物価の安い事も手伝って、フィリピィナ親派の絶対多数に依って、無尽旅行・社員旅行で年に2~3回を、かの国に出掛けていた。知れば知るほどアンチ・フィリピンの気持ちは人一倍強くなる。然し、場数だけは殊の外、多岐に亘っていると自負している。そんな中での、フィリピン・ニュースであった。心配顔・深刻がるニュース・キャスターの表情を後目に、

 フン、そんなに気を揉む必要なんか無いさ。同情・関心は禁物。遣りたい様にさせて置けば、火照りは直ぐ冷める。熱が冷めれば、何百年も変わらぬ国よ。放っとけ、放っとけ。顔を向ければ、付込まれるだけ。お人好しの優等生さんには、到底理解出来ないお国でありますぞ。
多少の火傷・周囲のドタバタ劇を観劇する中で、市井にどっぷり浸かって、ササン朝ペルシアに起源を発する『千夜一夜物語』、イタリア・ルネサンス期の『デカメロン』、中国は明の時代の『金瓶梅』に顔を見せるエロティック・コメディを楽しんで、悲嘆の歯軋りをしない限りは、感情移入出来ないお国振りでありますぞえ。真面目・インテリ振って、文部科学省推薦の『期待される人間像の視点』だけでは、物は見えて来ないのでありますぞえ、・・・笑止千万!! 

 かと云って、現代版デカメロンの『昨日・今日・明日(1963年・イタリア映画、ビットリオ・デ・シーカ監督)』のマルチェロ・マストロヤンニに徹していたのでは、ソフィア・ローレンのバイタリティには、完全に負けてしまうのであります。兎ににも角にも、何時の時代に於いても、男は、女の愛くるしさ・強かさの化粧には、辟易とするのが通り相場なのでありましょう。

<君子危うきに近寄らず>では、人生の面白味に欠ける『愚行』でもありまする。さりとて、<虎穴に入らずんば、虎児を得ず>で、猪突猛進を繰り返せば、易々と足下を見られて『蟻地獄』に嵌るばかりでありまする。男が、<アラビアンナイト・デカメロン・金瓶梅>の世界を楽しむ為には、絶妙な至近距離が必要なのでありましょうが、この距離間の見極めの匙加減が、特に難しいのであります。

 月曜日の夜は、老母の好きな『東京フレンド・パーク』のシーソー・ゲームを瞬きもせずに、そのコツを会得すべく見入っているので有りますが、一向に会得する事が、叶わないのであります。そんな儚い下心を抱きつつ、鼻下長男族は、歳を重ねつつ加齢の境界を潜るのでありましょうか・・・ 

 調べると、ササン朝ペルシアは、3~7Cに亘って西のビザンツ帝国、中国では、三国時代・宋・隋・唐の時代であります。日本では、日本人の精神を築いたとされる聖徳太子様に象徴される時代でありまする。そう考えると、文献に現われる男女の営みに於いては、18世紀に及ぶ男の連敗続きでありまする。

             ドゲンカ、セニャ為らん!! 男族!!

心何処ーショート 春検索一つ

 待ち切れずに、釣竿を取る。長靴を履いて、流れの石をはぐり川虫を取る。申し分の無い川虫に有り付けて、大いに気を好くするが、水温は思った以上の冷たさである。これでは、空振りに終わりそうである。然し、思ったが吉日の譬えでもある。竿を携えての散歩と思えば、気が済む。

 川原歩きは、中々に疲れるものである。然も、魚信はコソリとも来ない。まぁ、仕方の無い事である。橋を幾つか越えて来ると、小学生が2人、釣をしている。邪魔をしない様に、通り越して、日当たりの良い泥岩の風化礫に、胡坐を掻いて釣り糸を垂らすが、一向に魚信は無い。タバコを蒸かしながら、冬枯れの川原を眺める。雪柳の灰色の綿毛が、顔を覗かせ始めている。運動熱と太陽熱に、身体全体が汗ばんでいる。

 見上げる空は、シーズンの替りを示すかの様に、青味を増した清々しいまでの青一色である。この季節特有の風が、川面を波立たせて走る。時折の突風が、砂防堰堤の滝水を白く巻き上げて通り過ぎる。春を実感した背黒セキレイが、番を求めて川原の石に距離を置いて、啼き交わしている。川原の草は、緑の顔も見せては居ないが、踏み締める足元の先には、柔らかな初々しい黄緑色が、見え隠れしていた。日当たりの花木も、この数日の内に蕾を一気に、膨らませる事であろう。背後の山々が、薄い萌え色に染められて行くのも、近い筈である。そうなれば、ペットボトルを持参して、歩みを上流に伸ばせば好かろう。何と言っても、春の恵みは、夢を運ぶものである。

 腕時計を見て、竿を縮めて、川を上がる。長靴のトカラン・トカランとした歩行は、草臥れるものであるが、春色は、開放感を運んでくれる。2時を回ってしまった。昼の賄い夫仕事が、大幅に遅れてしまった。歩速を早める身体に、冬の衣服は足手纏いに為っている。

 寒さから開放されると、自然と視界は開けて来る物の様である。山を眺めたり、空の全容を眺めたり、ずーと先の盆地のどん尻を眺めたり、極々の近影に目を遣ったりの帰り道である。

 子沢山の時代であったから、家中では、子供は邪魔者扱いされたものである。この時期、子供時代の戸外遊びは、木っ端板を切り削って、年賀葉書に割り箸を通して帆掛け舟を作り、ひなが飽きもせずに川面に浮かべて、遊んでいたものである。遣る事が無かったから、船の舳先の角度を工夫したりして、帆掛け舟競争に興じていたものである。それが学年が上がると、模型店からスクリューを買って来て、ゴムの動力で、競争したものであったのだが、川原からは、子供達の遊ぶ姿が消え去って、何十年も経ってしまった。

 夜に成っても、温かさが持続している。寒さにドップリ浸かっていた身には、些か余裕が出て来た。コンビニで酒のツマミを買ったついでに、西岸良平の『鎌倉物語』を買う。

心何処ーショート 春日にぶらり

 夜更かしが祟って、朝と昼が一緒になってしまった。陽気が良かったので、風呂を洗いながら洗濯、水槽の濾過装置を風呂場で分解掃除をする。空水槽に、川から水運びをした後、風呂に入る。四畳半に居たのでは、折角のお天道様の思し召しに、弓引く事に為り兼ねない。思し召しに従って、自転車でペット売り場を覗きに行く。部屋では新住人を迎える準備が整っているのであるが、すっかり顔馴染みと成っていた金魚達の顔付きが、頭を掠めてしまう。

 世間では、<愛着が湧く>と云うらしいが、個体の見分け、仕種の違いなども見知った金魚達と比べると、大きな水槽に群れ泳ぐ種別の金魚達は、数段見劣りがしてしまう。一晩で全滅してしまった金魚達の姿が、目の前の群れ泳ぐ朱色の横で、自己主張をして来るのである。

<困った物である。>売られているそれ等と同じ様な物を、買い求めた筈なのである。それが、何年か、何ヶ月かを私に飼われて、立派な魚体に成りつつあったのである。目出度く机上の住人達の地位を築いていた先輩金魚達と、安易な人間の目で比較されてしまっては、群泳ぐ小魚達は、堪った物では無いのである。・・・反省しなければ為るまい。

 小さな魚体・小さな黒い目達の一大ブーイングを、<ジャリンコ共、相解った。お説ご尤も。今回、喪中に就き、パス。>とばかりに断念する。為らば、血の濃さを回避する為に、新雌の補充でもしようかと、グッピィを見て回るが、これまた食指が伸びない。

 以前は、欲しい、決めたと為ると、駄々っ子の様に後先を考えずに、衝動買いに走っていたのだが・・・ これが、加齢の為せる処なのであろうか。

 結局、何も買わずに流しの自転車のペダルを扱ぐ。春霞の伸び伸びする空気が、広がっている。子供を助手席に乗せたママさんが、車を走らせながら、人憚らぬ大欠伸をして通り過ぎる。陽気が進めば、春眠暁を覚えずの麗らかなる季節に、盆地は覆われる。そう云えば、百花繚乱なんて形容もあったなぁ・・・ 
        否・否、餃子狼藉の世相である。全滅原因も、甚だ疑わしい限りである。

心何処ーショート 妄想一題

 苦も無く一日が、暮れて行く。物臭男には、理想的な日の流れであると云った処である。ラジオからは、ペリー・コモの80歳の時に歌った<霧のサンフランシスコ>が流れている。

 大した物だと感心すると同時に、これが人間の当たり前の姿なんだろうな、と思ったりもする。元気だから、好きな天職を続ける。いやいや、好きな天職を維持する為に、彼は日常の普段の努力を続けているのだと、彼の努力振りを数を上げて見付け、感嘆の拍手を贈る。我々凡人にとっては、一種の人生談、感動談となり、引例の類となる。

 まあ、それはそれで、一向に構わない事柄である。本人にして見れば、あの為には、こうしよう。これをする為には、あれをしようなどと青筋を立てて遣っている訳ではなかろう。好きな道であるから、傍目には努力としか映らない事でも、その事が無意識・負担の掛からない彼にとっては、普通の行動の一つなのであろう。

 尤も、ご本人が、他から認められたいとか、自慢したいと云う気持ちに捕まれば、自分の努力を吹聴して見たく為るのだろうが・・・ 

 普段の自分の習慣に無い物を付け加えるのには、意思と努力と云う初動ネルギーを要するが、習慣と云う大気圏を突き抜ける為には、初動エネルギーが摩擦熱に翻弄されつづける様は、当然の負荷が掛かるものに決まっている。頑張って、首尾好く大気圏を脱して眺める地球は、神々しくも青い水の惑星に見えると云われている。多大なる初動エネルギーを使って手に入れた新習慣は、何時の間にか、大気圏と渾然一体となって、極普通、自分の習慣の一部として定着しているのであるから、当の本人には努力の自覚が一向に湧いて来ない自然体でしか無いと云う<ロジック>になるのである。

 或る時、綺麗な女性と再会した。三十路を超えて、その美形は盛んに、腹部の脂肪を気にしていた。綺麗だった頃の裸身と比較されるのを、躊躇っていた。そんな中で、久し振りに、お相手願った。
「太ったでしょう。嫌に成ったでしょう。恥ずかしいわ。」と言ったが、
「別に、少々太ったって、お前さんの中身には、変りは無いよ。歳は自然の流れ、それなりの味が出て来る物よ。」私は、ただそう感じたまでの事であった。

心何処ーショート 言の葉一つ

   拝啓、いやはや、脱帽です。『妄想にdejavu』ですか。恐れ入りました。
 私が横文字を使うのは、似合いませんが、流石に都会人が使うと様に為りますね。

 私は、この単語には少なからず、強い記憶がある。『未来警察・スリーメン&ベビー』でお馴染みのハリウッド俳優に、トム・セレックと云う苦みばしった硬派男優がいる。ビデオ屋で彼の『デジャブ』と云う1本を、買い求めた事があった。日本語に訳すと、既視感・錯覚の概念らしい。その映画は、スリラー・サスペンス調のものであった。見終わって、日本語にはぴったり来る訳語が、存在しない様ではあるが、実に魅力的な響きのある言葉であったから、私は確り記憶に留めていた。英語の達者なTに1度試した事があったが、彼に怪訝な顔付きをされてしまった。それ以来、この言葉は、長らく私の『お蔵』に埃を被った侭に放置されていた。然し、響きの良い言葉で、映画の大事な題名であり、映画からの刷り込みで、謎めいた言葉のニュアンスには、大いに惹かれていた次第であった。何時か使用してみたいと、考えていた『言葉』の一つであった。
                 <それを、見たのである。>
 そんな思い入れのあった10数年前の言葉が、ヒョコリ顔を覗かせてくれたのであるから、<言葉は体を現わす>とは、一寸苦しい言い回しであるが、私は言葉に、その『デジァブ』そのものを目撃して、大きな溜息を付いてしまっている・・・のである。電波の先に繋がっている人間の思いに、不可思議な同周波のマッチングを感じてしまった。

 人間のDNAは、アフリカ大地溝滞の湿地に印された二足歩行のイブにまで遡る事が、出来るそうである。それ以来、何万年にも亘って、繰り広げられて来た壮大なDNAの伝播なのであろう。DNAを創造主の源と考えれば、人種・肌の色・言語・文化・歳の差の違いなど、電子顕微鏡を以ってしても、叶えられぬ些事中の抹茶であろう。DNAの連鎖に思いを馳せると、世界中に友を掴む事が出来るのは、人間は皆共通の既視感を内包しているだけなのかも知れぬ。
科学が『DNA』に起源を辿り、インターネットの文明の利器が、個人の『デジヤブ』を繋ぐ。科学・電子機器が、如何に現代人のギスギスした心を繋ぐか? 人間の心の和み・愉しみ方は、何時の時代にあっても、<晴耕雨読>の古典に根ざしているのでは無いだろうか?

 元より、私は一介のウラビレタ賄い夫であるから、<人類共通の既視感の内包>を以って、世界平和などと云う高邁な提唱をする心算など更々に無い処である。然し、『dejave』の一語が、これだけの言の葉の数を、私に紡ぎ出させてくれているのである。人間のDNAの作用の奥深さに、感謝せざるを得ない。そして、天上におわすお天等様に、手を合わせるのみである。

   些か、脱線傾向が見えて来てしまった様でありまする。
       さあさあ、お天気が変わらぬ内に、散歩運動に出掛けるべしでありましょう。

心何処ーショート 春を垣間見る

 気温が高いと、歩いているだけで身体が温まる。本日は大きな催し物がある様子で、普段は1台も駐車していないバスの駐車場には、大型バスが何10台も整然と停まっている。些か圧倒されてしまった。バスの運転手達も陽気の恩恵に浴して、外で数人のグループを幾つも作って、賑やかな談笑を拡げている。大駐車場の周回ウォーキングを割愛して、階段運動をこなしに行く。息切れ運動を終えて、流しのバード・ウォッチングに差し掛かると、自転車に乗った老人衆が、遣って来てワイワイ・ガヤガヤとマレット・ゴルフに興じ始めた。冬眠明け、満を持してのお仲間集いて、発プレーなのであろう。これからは、彼方此方で老人衆のスポーツ姿が、展開されて行くのであろう。

 小生、騒々しいのは幼少の頃より、苦手である。目の霞んだ老人衆に、林中の熊などと誤認されては、これも心外であるから早々に立ち去る。例によって橋を渡り、<居ない筈は絶対に無い>と、かねてから目星を着けて置いた落とし込みの好ポイントの流れの揺れに、目を凝らす。
<居た、居た。> 手頃なヤマメが、2匹姿を見せる。漸く動き始めた様子である。灯台下暗しのポイントが、この辺り1km前後続く。幾つかの落し込みを、ヤマメの姿を探って、歩いたり立ち止まったりの散歩である。途中で例のスパーに足を伸ばし、茶を買う。陽気が好いから、ついフラフラと向かいの花屋を覗き見して、花の匂いを鼻孔一杯に吸い込み、隣のコープのミカンのケース売りを見遣るが、この2日間メジロ殿は、姿を見せない。ヒヨドリ様に奉仕する気は、元より無いから、あっさりパスである。再び進路を川に取って、川見学である。緩い流れには、アブラハヤの泳ぎが大分増えて来た。灯台下暗しの補説をすると、ヤマメはアブラハヤを獲物としているので、この辺りのヤマメは、上流のヤマメよりも大型の物が、結構潜んでいるのである。夏の渇水さえ無ければ、以外や以外で、30cmを超える連中が竿に掛かるのである。そして、川には伏流水の湧き水が、何箇所かある。そんな環境の中で、ヤマメは適応して『灯台下暗し』で、数を増やしていたのである。生憎、去年はあの忌まわしき猛暑騒ぎで、川は干上がってしまったから、ズーと悲観していたのである。

 毎年の事であるが、S大の目と鼻の先の川で、海坊主の様なオッサンが、遊び半分の普段着で下駄を履いて、釣竿を立てている。高校生から大学生に昇進して、自由の空気を嗅ぎ始めた若者が、恐る恐る私の釣り姿を見物に来る。
<オジサン、これ!! 何と言う魚ですか、こんな大物が居るんですか!!>
<空想は、小説より奇なりじゃなくて、事実は、空想より奇なりだよ。折角の地方暮らしが、始まったんだ。魚が居れば、釣れるよ。地方暮らしを楽しんで、味わうのも、好い思い出作りに為るぞ。遣ってみな。>
<好いですね。僕、憧れていたんですよ。自然に、それでS大受けたんですよ。>
<有難いね。育った土地だから、ファンが居てくれると、俺も嬉しいよ。>

 春の兆しの序の口である。釣には早いに決まっているのだが、何故か気分が、ウキウキしてしまう。庭の落ち葉にミミズが出て居たらと、条件付の釣にしようと決めて、歩速を早めた次第である。昼食後、落ち葉を掻き分けるが、ミミズ殿は、未だ地中から這い上がっては居られない様子である。遅かれ早かれ、「地元の利」である。この近辺のヤマメ殿は、私に釣り上げられ「塩焼き」として、食卓に上る運命である。大いに太らせて、喰らうなりである。

 散歩の始めに、川原でバルディナさんにも、お目に掛かれた。彼女は、まだ北国には旅立たぬ様であるが、近々、彼女達冬鳥も北へ旅立つのであろう。弥生3月も、そうこうしている内に、歌を復活した鶯に、早朝の目覚めを急かされるのである。昨シーズンは、ホ~ホケキョの囀りが、5月の初めまで続いた椿事があった。
 さてさて、今年は、束の間の鶯のご挨拶に終わるか、去年並みの長啼きに成るか、
春の訪れと共に、私の寝起きタイムも、軌道修正をして行かねば為るまい。怠惰に明け暮れしていては、折角の四季の移ろいの風情を逃してしまい兼ねない。

                       ★御仁様、御明察でありまする。

心何処ーショート  やっぱり『相棒』様

 昨日の『相棒』は、殊の外、面白くもあり感心させられてしまった。何時もの格調高さを、ヒラリと交わされヒョウキンさで、肩透かしを喰らってしまった。ドラマを見る時の癖として、私はドラマ時間を、『起承転結』のストーリー展開に合わせて、その目安を挿入CMで占いながら観賞するのを常としている。

 最初のCM時に、おやおやコレでは、時間内に収まるのだろうか?犯人と思しき女の服装が、ズーと同じである事からして、時間を掛けての前編・後編の形を採るのだろうか?
それにしては、失礼ながら、夫婦役を演じる俳優さん達は、マイナーさんである。硬派・硬質の『相棒』のドラマ性格からしたら、コミカル的雰囲気を持った夫婦役者の演技と和製シャーロック・ホームズを体現する水谷豊の演技の絡みを、如何調整・調和させて行く心算なのだろうか?台詞の吟味どころの観賞では、無くなって来た。ストーリーの『起承転結』を、この劇作家は如何展開して行くのだろうか・・・ 

<テネェ、下らない結末で、お茶を濁そうなんて考えたら、水島・寺脇コンビの1ファンとして、只じゃ置かんぞ!!>
 
 知的好奇心の強い老母が、案の定、如何云う展開に為るかの質問を、仕掛けて来られる。

 キャスティング、台詞、演技指導は、答えを知っている監督の意図・意志である。その線から、観客の私が、医師であったコナン・ドイル大先生のホームズに倣って、推測を働かせて推理を試みるより他は無い・・・・

  <頭の禿げた息子であるから、私とて90を超した老母に対しては、『見栄』もある。
   手強いご老母様の質問である。>

    「我、タバコに火を付けて、曰く。」
 未だ25%の進み具合だから、もう1回のCMが必要である。50%漕ぎ付けたら、方向性が見えて来る筈だ。妻の妄想癖・ノミ夫婦のコミカル性が、ストーリーの縦糸だから、その線に落ちが付く筈だと思うんだが・・・ これを書いているタイショウは相当な優等生だから、コントロールは、江川並みだろう。球筋を読めば、ホームランが打てるんだけどなぁ~、キャチャーの野村さんだって、推測の為にはボソボソ長島・王・張さんに、カマを掛けて推理を収斂していたんだわサ。まぁまぁ、そう慌てずに見ようじゃないの、婆さん。相手は、コントロールの好い優等生の江川だよ。球筋は、絶対に読めるよ。江川は憎めない好い男だよ。期待は裏切らないよ。何しろ俺は、落合だよ。待ち構えて、その内に、ホームランかっ飛ばしてやるから、待ってなよ。
           <苦しい言い訳にして、年の功である。>

     ご老母様、美形の品のある顔で、ニコニコ頷いて居られる。
                         フ~ム、これも親孝行の一つである。

 見終わって、御老母様は、産み育ての親の得心顔で、上機嫌の雰囲気である。加え生意気にも、(否、口がつい滑りました。)今日の感想は?とのご質問である。
                        クソォ~、返す返すも・・・親である。

「今日の『相棒』は、新しい切り口で、リラックスさせての視聴者参加型の推理ドラマ仕立て。成功したんじゃないの。新切り口だったから、観賞する余裕は無かったけど、やっぱり、一目置くドラマだよ。気に入ったヨ。」

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