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旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

心何処ーショート 春借景

 老母の部屋を辞し、ミカンを小枝に刺す。陽射しが明るい。双眼鏡をポケットに、散歩に出掛ける。青空を割って、西から東に飛行機雲がシュプールを描いている。フ~ン、恵みの春の訪れである。風も無く、穏やかな空気が盆地を覆っている。先ず下って、橋を渡る。S大球場横の欅並木を行くと、道路に広がって、白人男性が三人、キャチ・ボールをしている。陽気が好くなると、身体が運動を欲するものである。体育館に連なる公孫樹の林を、双眼鏡で追うが、目ぼしい鳥の姿は見付からなかった。芝生を従えて続く桜の老木には、雀がチュンチュン動くばかりである。芝生の冬枯れ原を冬鳥のツグミが数羽、トントンと跳躍歩きを繰り返している。運動量をこなして、河川敷に降りる。小さな羽虫の数が、めっきり増えた。緩やかな川には、小魚の動きが幾つも見えて来た。つい、ニンマリの感である。
 
 散歩を終えて、家に入る。澱んだ空気は、不味い。部屋の窓を開放する。陽射しを一杯に浴びる廊下は、熱気すら感じる。廊下でパソコン打ちをしようなどと、誘惑に駆られる心持である。陽気に奮発してミカンの輪切りは、二つにして置いた。先ほどから、夫婦メジロがスマートな体形で、盛んに啄ばんでいる。三寒四温、春が定着するのは、先の先であるが、心が弾むものである。
 
 ブログニュースを見ていると、中国の環境汚染・人権弾圧関連のサイトに行き着いた。「汚染の進行・奇形人間・拷問の実態」の眼を背けたくなる、おぞましい限りの映像オンパレードに、平和ボケの私には、戦慄に背筋が凍る思いである。神国軍国時代を経験している大正女の老母は、正義感の強い世代である。餃子問題への日本政府の弱腰と中国の非を認めない尊大強腰には、歯軋りの態であるらしい。昼の時に、サイトの見た儘を話して遣ると、その惨たらしさに幼児の様に顔をクシャクシャにして、そのイメージを想像しながら、聞き入っている。終いには感極まって、憐憫の情と憤りで涙を溢す始末である。

        午後は見るテレビも無いから、夜に備えて昼寝を習慣としている。

 夢を見ていた。何故か洋々が家に居る。母の部屋の前の、開け放たれた廊下で、彼女は母と打ち解けた雰囲気で、静かに話をしている様子である。私は、釣から帰って来た感じである。釣竿を軒下に立て掛けた私は、部屋の前の廊下で、川で濡らしたズボンを履き替えている。女達は、何時もの私のそんな様子を、チラリと見ただけで声を掛けるまでも無く、庭を見ながらお茶を飲んでいる。Tシャツ姿で、廊下に出されたちゃぶ台の茶を飲む。彼女は口数の少ない女であるから、微笑を浮かべながら庭に降りて、オニユリの花の周りに飛ぶカラス・アゲハを、しゃがみ込んで眺めたり、松葉ボタンの花を摘んで、匂いを嗅いだりしている。殆ど自然のままにしてある庭には、イトトンボのハグロトンボが、ユルユルと遊びに来ている。彼女は、そんな昆虫達を私に指差している。私は、そんな彼女と母を交互に眺めながら、タバコを燻らせている。
                フ~ン、何か可笑しな風景である・・・・
 それは、何処かで見た様な風景であった。これに似た風景は、結婚前の女房と母の雰囲気であった。彼女は、夕方、庭の通用口と成っている雑な石の階段を上って帰って行った。不審に思って母を振り返ると、「うん、また来るよ。」と頷いて見せる。??? 如何やら、彼女は下の方にアパートを借りて一人住まいをしているらしい。心配なら、案内してやろうかと歩き始めた。スイスイ歩く母に、私は????である。案内されたアパートは、近所にあった。アパートの前で、彼女は母に笑顔で手を振っている。???

                  目が覚めた。
 
 中国関連サイトが、眠った意識に働いて、中国人の彼女が久し振りに顔を見せに遣って来たのだろうか・・・ 夢と現実の因果関係は、如何であれ、懐かしい面影との再会であった。部屋に居を戻し、ラジオを付ける。<シングル・ライフ>の締め括りゲストは、7年間実母の在宅看護の大役を果たし終えた落合恵子女史であった。気負いの無い語り口が、耳に心地良かった。

 夜、女房に電話をする。亡長兄の奥さんの見舞いに、次兄が上京した。その様態を知らせる。    近々、上京する予定があるから、娘と見舞いに行ってくれるそうである。
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心何処ーショート 和みの一時

       慣れぬ文章を打ってしまったから、大いに疲れてしまった。

 乱入者に押し出されて、深夜のパソコン打ちと為ってしまった。草臥れ果てて、朝食の用意をしたが、脳味噌がボーとした儘である。堪らず、不足の床入りの段であった。起きて、昨日の投稿分を読み返すと気に喰わない。打った本人には解るが、初読の人には不親切、この上ない字面
である。痛く反省して、補筆を思い立った次第である。
 
 数行の補筆を想定していたのであるが、文章センスの無い素人の悲しさ・・・・
無い頭を捻っている間に、意味不明・繰り返しの駄文が、一枚弱のボリュームと為ってしまった。再考の必要があるのだが、根が果ててしまった。四時半を回っての帳尻合わせである。しかも、背伸びをすると、あちこち不協和音の連続である。気休めに、温泉銭湯で長湯に行く。この時間帯は、如何やらご近所さんの隠居老人方のものらしい。顔触れの面々を見れば、子供時代に見知ったオジサン・オヤッサン達の年老いた姿である。

 帰りに例のスーパーで、買い物をして帰る。母、女房を知る先輩姐さんが、滲み出る気さくな笑顔で、何時も賄い夫への労いの言葉を掛けて下さる。中学時代共に陸上の『扱きの丘』を耐えた間柄である。キツイ練習の最中、二級上の先輩は、姐御の貫禄で先頭に立っていた。スーパーの後取り娘で、働き続けた先輩の腰は幾分曲がって来たが、掛けてくれる言葉と目の色は、あの時の儘である。私は、彼女から、心に穏やかさを頂戴している次第である。有難い事である。

心何処ーショート 四畳半ドラの音(改)

 安定しないお天気である。昼に散歩運動を終えて、昼休みをしていると、何時の間にやら、一面曇天寒空である。ミカンのスライスには、単独メジロが、ほぼ独り占めの日々である。夫婦メジロは、久し振りに昨日姿を見せたが、この頃は殆ど来ない。

 パソコンに向い始めた途端、携帯が鳴った。一方通行のお姐さんが、近くに来ているとの事である。家への道順を伝えると、間もなく駐車スペースに、モスグリーンの軽自動車が入って来た。顔を見ると、ハチャメチャ忘年会のボス・コンパニオン様であった。もう一人の友達は、妊婦であった。勿論、初対面である。お互い、気取って見ても何年も前から、素地が割れてしまっている間柄である。忘年会同様に、騒々しく捲し立てられて、押され放しである。相手がそれで来るのなら、私もバランス上、忘年会を再現するしか無い。用件を承って、三通り、四通りの説明をこなす。忘年会の延長口調であるから、その分、気兼ねが要らない。

      持って来た教科書は、まっ更の新品である。
「何だ、何にも勉強してないじぁないか? バカが勉強してないで、生意気に全部、教えろじぁ、話に為らん。ウォーミング・アップ替りに、隣に蒲団が敷いてあるから、一発遣ってから始めるか。知らない訳じゃないから、遠慮するなよ。先ずは、身も心もリラックスすべしだ。」
「バカ言ってんじぁねぇよ。試験前の女に、何言うだぁ~。分かりゃ来ないよ。おニィちゃん、私、凄いバカだよ。解ってるじゃん。それを教えるのが、おニィちゃんの頭の見せ所じゃん。」
「アノ~」
「いいだイイだ。おニィちゃんは、口だけで遊んでるんだから、言いたい事、ポンポン言い合ってればイイだ。バカには、バカに為って付き合ってくれるから。かしこまる事はナイダ。」
「授業料は、布団の中で、確り清算するから、大丈夫だよ。作る方の生産じぁないからな。」
「当たり前じぁん、子供は2人いるから、もう要らないわよ。」
「何か、凄い会話に成ってるけど。」
「気にする事は無い。昔から、バカに付ける薬無しって、言うだろ。そこに、コーヒーあるから、適当に遣って飲めよ。」

      何から何まで、こんな調子である。困った侵入者である。
口数では太刀打ち出来ない女である。雇用問題については、高等戦術を伝授する。三度、繰り返したから、それなりの歩留まり具合であろうか・・・友達も、充分理解した様であるから、車の中で復唱して行けば、歩留まりは、更に高まる事だろう。

 用件のお開き後は、フィリピン女の日本人男手玉取り術について、大いに盛り上がる。
友達の妊婦さんの勤め先には、フィリピン女性が働いておられる由。そのハチャメチャ手玉取り・絡め取り術の手の内は、私の睨んだ通りである。

              <我が内心の吐露>
 数年前に、フィリピン女にコケにされ続ける同胞のノーテンキ振りに、日本男児の熱い憤りが噴出して、私は小編を打った。「転ばぬ先の杖、フィリピン初級講座」と題して、A-4版十数ページに亘って見聞録を作り、見過ごす訳に行かぬ『周辺』にプレゼントした経緯があった。私はアンチ・フィリピンであるから、フィリピン・ガールの頭の中身には、嫌悪感が走る。そして、猫なで声・執拗な電話攻勢・ヒステリックさ・口先八丁のオネダリ・タカリ根性が見え見えの『薄っぺらな騙しのテクニック』には、虫唾が走る思いを抱き続けている。

 然し、何よりも性懲りも無く騙され続ける、同胞の鼻下長ノーテンキ性行が腹立たしくも、哀れであった。彼女達・ジャパユキの本態論に、彼等鼻下長連が惑わされてしまう最大の要素である処の見た目の心身のオープン性を、本質的に吟味する為の方法論として、ビジュアルの視点を払拭する『骸骨視点の涵養』を提唱するのだが、彼等からは、一笑に付されてしまうばかりであった。残念この上ない限りである。

★★骸骨視点の涵養とは、小生ブログ<12/8分の風の便りに合掌>を参照にされたし。
★要旨は、上辺に惑わされずに、本質・本態を見抜けと云う事である。

 これが身に付きさえすれば、幾ら好色男であっても、自分の鼻下長を『自省の理性』で、調整出来る筈なのである。大概の場合、異文化で育った者が使用する外国語は、外国語を真似る事が大半である。それも耳で覚える言葉は、言葉が意味するTPOに、感情的深みが入る余裕は無いのである。「好きだよ。」と口に出す言葉と「アイラブユー」と口に出す言葉には、言葉に込められている日本人として感情と責任には、大きな差があるのではないだろうか? もっと、極端な比喩を展開すれば、物真似の天才九官鳥・ヨウムが言葉を流暢に話したとしても、聞く人間は、それを彼等の意思の発露と見做すだろうか?『物真似芸』としてしか受け取らないのである。物真似の芸に対して、ペットへの可愛がりが、お返しとして提供されるだけだろう。
 
 物真似鳥の喋る日本語と外国人の喋る日本語、正に此処に錯覚・誤解の温床が横たわっている。思うに、手品の要素は、『目晦ましの技と装置』であろう。『種・誤魔化し』の最も重要な核心部分は、完全に隠し通さねば為らないから、手品師の手元に集まる視線を遠ざける為に、周辺を煌びやかさでカムフラージュしなければ為らないのである。種が明かされれば、その単純さに観客は、どよめき、その単純さに深い溜息を付いて、拍手を送るのである。手品・マジックの舞台には、手品師と観客の間には、余興と云う合意が敷かれているのである。これが切った張ったの博打であったら、いかさま賭博には刃傷沙汰が付いて回るのである。

 然し、私は、考えて欲しいのである。物真似鳥の芸は、マニュアルに則った反復復唱である。手品といかさま賭博、物真似鳥の三者三様の本態を理解すれば、必ず見えて来る物がある筈である。当事者観として、三者三様を眺めれば、自ずとその楽しみ方、距離間を保つ事が適うのである。原則として他人を疑わない事で、大らかさ、親切さの『気持ちと云う共通項』で、日本の社会が成り立って来たのである。日本人の気持ちが、手玉に取られる様は、祖国を汚されている様で、我慢出来ない風景なのである。

        <話は戻って>
 職場を共にする妊婦さんのフィリピン・ガールの赤裸々な暴露談には、我が推論が実証されたと、溜飲が下がる思いであった。冷静に観察すれば、彼女達の魂胆は明白なのであるが、何故か目が眩んでしまう鼻下長族の多いニッポン・男の群れである。同性の女族の目からは、フィリピン・ガールの魂胆が、手に取るように見えるから、男族以上のアンチ・フィリピン振りであった。

「バッカじゃねぇ、子供程度のフィリピン女の見え透いた手に乗ってサァ、歳コイテ、財産手玉に取られて、男ほど、バカな生き物は無いよ。ああ、ヤダヤダ。男は、ヤル事しか見えてないんだから。ちょっと、考えれば、フィリピン女の本性が、見えるのにサァ、大アホよ。」
「ホント、私なんかさぁ、亭主に尽くしてやったのに、ウザッタイだってさ。独りにしてくれってサ。それで離婚だよ。冗談じゃないわよ。これって、おニィちゃん、どう思う?」
「バカヤロウ、勉強しに来たのか、遊びに来たのか。俺様の貴重な文作時間を台無しにしやがって、とんでもない女共だ。」
「コンパニオンが、タダで来てやったんだよ。」
「バカこけ、俺にだって、選択権はあるわサ。俺は、面食いだ。」
「無理しなくても、いいだ。又、遊びに来てやるからさ。アハハ。」

 イヤハヤ、ワシァ恐れ入屋の鬼子母神である。女蛮族2人は、まるで元寇襲来の様であった。蒙古のドラが、ガンガン狭い四畳半に鳴り響いて、波状口勢を一手に受ける。<何時、アラ大変!!> 子供達が帰って来る時間だと言って、サッサと帰って行ってしまった。

      静けさを取り戻した四畳半で、独りタバコに火を付ける。
 日本の国技・大相撲の大看板は、蒙古出身の2横綱であった。蒙古のドラが、訛って女族のドラ声に為ったのであろう。元寇来襲には、神風が吹かぬ以上、日本の武士団は、風前の灯なのであろう。他力本願の神風頼みであっては、外国女性に依る恋愛詐欺の被害が、後を絶たぬ。男族、己が鼻下長を反省して、褌の紐をきつく締め直さねば、老後に暗雲が立ち込めると云うものである。

心何処ーショート 嗚呼、篭りの先は?

 雨の所為か、久し振りに温かい夜である。煩かった風も、止んだ様である。窓を開けて過ごせる夜に成れば、身体がうずうずして、夜の帳を徘徊する事も出来る。たまには、気軽に飲みに行きたい物である。冬篭りも、もう直ぐ明ける事であろう。

 冬篭りと云えば、ロス疑惑の三浦氏は、ロス市警に身柄拘束との事である。マスコミ格好のネタ登場に、興味報道活き活きの感である。『一事不再理』などと懐かしい刑法用語が、飛び出して記憶のブラシ・アップが出来る。属人主義と属地主義の管轄権の問題が、漸く遡上して来ると云ったマスコミ知識の乏しさには、改めて舌を巻く次第である。こんな『刑法のいろは』を教養として身に付けていないマスコミの底の浅さには、驚き・桃の木・山椒の実である。単語言葉の聞きかじり知識で、電波の垂れ流しでは困るのでありまする。体系的に身に付けた知識と聞きかじり、字引知識とでは、雲泥の差・錯覚・誤認識がありまする。報道に携わる者は、ファションに非ず、素人・野次馬根性では、済まされないのでありまする。善意の庶民をあらぬ方向に導いてしまいますぞえ。ご自重なさりませ。一事不再理を盾に、ロス市警の横暴を批判される『切り口』で行くなら、三浦『容疑者』は、禁物でありましょう。正しくは三浦『氏』ではありませんか? 学童の考える能力の低下を、色々言う前に、ご自身の日本国刑法下における属人主義下の一事不再理の『整合性』からすれば、三浦某は無罪判決が確定しているのでありますから、彼の人権上、彼は立派な『三浦氏』なのでありましょう。マスコミ貴族諸侯様、ご自分の感想を絶対と、努々(ゆめゆめ)自惚れては為りませぬ。
報道言論人、言葉には使用者責任として、言葉に論理的整合性を適えて、言論人としての意志を言葉に塗り込めましょう。何分、言葉の素人の私めに、進む先の灯火をお示し下さい。

 三浦氏殿、迂闊で御座いました。疑惑の最中、手中に収めた罪刑法定主義の一大テーゼ
『一事不再理』の免罪符。所変われば、属人主義適用国と属地主義適用国の違い。数度のサイパン観光でありましたが、祖国日本は敗戦により、北マリアナ諸島連邦は、アメリカ自治区でありました。残念ながら、そこもとの法律専門用語も非体系用語でしか無かった様であります。アメリカと日本の違いをまざまざと体験なさったにも拘わらず、貴重な体験が身に付かなかったのでありましょう。迂闊でありました。恐る恐る渡ったサイパン島では有りましたが、慣れた矢先の突然の椿事。やはり、アメリカは、貴方様には鬼門でありました。

    口さがない連中からは、
    <天網恢恢、疎にして漏らさず><生兵法、怪我の元>
            の言葉が、送られる事でありましょう。

心何処ーショート 妄想散歩

 昼は餅があるから、簡単な雑煮を作る。掛け蕎麦感覚で、試したのであるが、結構行ける。如何して、今まで気付かなかったのであろうか・・・ 下手な即席ラーメンよりも、簡単で美味かった。老母の体調も戻ったから、風呂を沸かして、洗濯物を片付ける。老母の入浴中に買出しをして、魚の粗炊きの仕込みに掛かる。安易さに頼っていては、折角の教訓が活かされない。然しながら、加減を知らない男の手に掛かると、忽ちにして大鍋の態である。炊きながら、塩鱒を切り身にして、塩をキツメに振って置く。

 仕込を終えれば、散歩運動である。来週は、三月である。ヤマメ釣も目前であるから、魚影を探しながらの散歩である。雪は日陰を残して、殆どが姿を消している。緩やかな川面には、羽虫が僅かばかり姿を見せているし、アブラハヤも動き始めている。外の空気は美味い物の、風はマダマダ冬の風である。河川敷の枯れ芝には、ホオジロの小群れが、日向ぼっこをしている。上空をチョウゲンボーが、小鷹のシルエットを描いて飛んで行く。あれほど実を付けていた小柿の黒い実は、小さなヘタだけを残して、一粒の実すら残されていない。日照時間の伸びに反して、低温注意報が続く今年のお天気である。春の確りした訪れを待つ野鳥達にとっては、空腹の辛い日々が続きそうである。

 好ポイントの続く辺りは、雑木の伐採が済んで広々としている。土手に上がって上流に進む。聞き慣れぬ小鳥の声に、耳を澄ませる。声の主を探して、枝の茂みをつぶさに追って行くと、見付けた。嘴下の黄色からすると、アオジだろう。珍しい物を、見たものである。

 下校の小学生の一団と、出会う。「こんにちは。」「こんにちは。」と声を掛けられる。あどけない顔・顔である。<知らない人にも、ちゃんと大きな声で、挨拶を交わしましょう。>を励行する学童達である。世の中には、幼児姦をする男も存在するのである。あどけない笑顔に、欲情が駆り立てられるのだろうか???・・・ 次々と掛けられる挨拶に、試しに、そんな妄想を駆り立てようとしたが、私の想像力では、足りぬ。次の橋では、中学生の一団と鉢合わせである。

 そう云えば、私の中学時代には、女子中学生目当ての『露出男』が、出没して大問題と成った事があった。成るほど、先ほどの小学生とは違って、彼女達は、立派な第二次性徴である。男の端くれとして、『願望』が解らぬ訳では無いが、何時の世にも、病質者の類は、存在する物である。

 私の好きな映画にして、教科書の一本に、<旅路1958年作、監督、デルバート・マン、出演、バート・ランカスター、デボラ・カー、ディビット・ニーヴン、リタ・ヘイワース、ウエンディ・ヒラー。58年度アカデミー賞受賞>がある。主演男優賞に輝いたニーヴンの役柄は、経歴詐称の退役軍人である。口先ばかりの調子の好い男であるが、彼は映画館での痴漢行為常習者であった事が、露呈されてしまう。DVDタイトルの見出しには、<冬のホテル・・・そこには孤独な男女の人生がある。ひとつ屋根の下に写し出されるそれぞれの『旅路』を描いた名作ドラマ>とある。個人的鑑賞からすると、ランカスター、ヘイワース、ヒラーの男と女の絡みに拍手を送るのであるが、賞はニーヴンとヒラーに行ってしまった。ランカスター信望者の私は、腑に落ちないアカデミー賞選考である。余談はさて置き、500円DVDで売られているから、好きな人は、どうぞ買って、ランカスターを鑑賞して頂きたい。

 さて過去に戻ると、同級生には、美形の女傑が居た。彼女は、親分肌の気の強い女であったから、クラスの女猛者を募って自警団を作った。後で知る処によると、事もあろうに、集団石礫(いしつぶて)攻撃で、見事『露出男』を殲滅してしまったらしい。『大武勇伝』であった。娘が通っていた頃も、『待ち伏せ露出男』の話を、女房から聞いた事があった。

 タバコを口に、そんな事を思い出しながら、自分を露出男に重ね合わせて見る。独り想像して、笑い転げるのは勝手であるが、遣っては為らぬ事である。

 前回紹介の<とあるトイレ風景、その1> の同根への露出『諏訪の御柱』程度の他愛ない愉しみなら、許容範囲の内であろうが・・・ 未成熟の乙女に照準を合わせると、個人的愉しみからは、逸脱してしまう。味をしめて、常習犯と為れば、それこそ大変な事である。自警団武勇伝を、脚色想像して見る。

★乙女集団の憎しみの石礫が、ビュンビュン投げ付けられた日には、ひたすら逃げるしか方途は無かろう。ドデカイ石が、頭を直撃しようものなら、完全にノック・ダウンである。当たらずとも蹴躓いて転んだとしたら、寄って集って殴られ、噛み付かれ、長い爪で引掻かれ、為す術も無く縛り上げられる。勝敗は、多勢に無勢、集団に優る力無しである。勝ち誇った乙女集団、目を血走らせて、「コノォ、変態男」「痴漢」「下衆野郎」と小突き回す。大人のふてぶてしさで、対抗しようものなら、『変態のくせに、態度が悪い!!』と復讐心に油を注ぐ結果と為ろう。急所を乙女の敵とばかりに、ボコスコと蹴り上げられる。そうなれば、人間、ポロポロ涙を溢して、『助けてくれ!!』と悶絶するばかりである。プロレスラー、K1格闘家にして見た処で、絶対に鍛えられない男の急所である。絶対に女には理解出来ない、死の恐怖が、続くのである。集団暴行の勢いで、股間に、ニードロップの一撃を喰らおうものなら、忽ちにして意識を失ってしまう。騒ぎを聞き付けて、ご近所さんの119番通報と為る。何事かと、顔を知る野次馬の取り囲む中を、担架で救急車に運ばれる。息を吹き返せば、消防から警察に突き出されて、今度は国家権力の猛者連中に、『恥を知れ!!』とばかりに、取調室の机を叩かれる。裁判では初犯であるから、執行猶予が付くだろうが、乙女の集団暴行で、完全なる性不具者は間違い無かろう・・・・ 正にお先、真っ暗の人生である・・・・ 復讐を誓った処で、最早、出すべき物も無し、のテイタラクである。

★★嗚呼、俺には、そんな度胸は、逆立ちしても出て来ない。小心者に就き、幸せ者と云うべきである。寝言で魘されない限りは、妄想の類は露見されまい。クワバラ、クワバラである。

心何処ーショート 普段着

 昨夜の低温注意報を受けて、ブルブルの朝であるが、素晴しい陽光の訪れである。空気の入れ替えに、四畳半・八畳・廊下の戸を開放する。朝食後の今日の料理の講師は、郷土料理研究家の和服を着た40代前後の女性である。実に感じの好い人である。

 団塊世代には、着物姿の女性には、郷愁を感じる。和服仕立てをしていた母であるから、母は私が高校生に成ると、浴衣・丹前を作ってくれた。従って、家に居る時は、楽なそれで通していた。浴衣・丹前に下駄が、私のスタイルであった。東京での大学時代も、母親の作ってくれたそれらを、兄弟達は来て居たものである。休みで帰省すると、鍛えた身体の胸毛を其の儘に、浴衣に下駄で松本の街を、闊歩していたものである。喫茶店でも、そんな格好で入っていたから、周りの男女は目を丸くしていた。結婚してからも、家では着物の日常が続いていた。女房も、着物姿が似合った。庭仕事での母の出で立ちは、当然にモンペ姿であった。女房も右に倣えで、モンペを縫って姉さん被りの手拭であった。初々しい嫁さん姿は、未だ脳裏に焼き付いている。

 日本人には普段着の着物が、しっくりする。思い出せば、昭和の40年初めまでは、婦人の着物姿が、女の匂いを漂わせていたのである。それから40年を経て、スタイルの良くなった日本人には、ラフなスタイルが様に成っている。日常からは普段着の着物が、姿を消してしまった。テレビでも、時代劇が姿を消しつつある。別に不満が、ある訳では無い。郷土料理研究家の多少ぎこちない着付けに、ふと初々しかった女房の華やいでいた頃を、思い出した迄の事である。

 お斜向かいさんは、奥さんの母親を引き取ったのであろう。お婆ちゃんが、2階の住人となっている。ご主人は、亡くなった長兄よりも一つ上であるから、69歳であろう。奥さんは19歳での嫁入りであった。

<月日の流れは、呆気無いほど速い>の実感であるが、一寸した事で過去が鮮やかに甦る。普段は『現在』に感けて、完全に、意識にも遡上して来ない<過去達>であるが、色褪せぬ記憶の力には脱帽の感と有り難さである。人間の記憶の豊富さに、人はお天道様に感謝すべきでありまする。過去を後ろ向きと、軽んじる者が多い様であるが、過去の無い人間など、この世には存在しない。過去は、現在・未来への『ノウハウの倉庫』である。ただ所有者が、気付かねば、『ガラクタ』に転落する倉庫である。生きている以上は、過去の足跡を積み重ねて行くのが、個人の人生である。過去達は、自分自身の分身達である。人間一人になれば、話し相手は、自分自身であろう。話し相手の自分自身を『僚友』とする為に、人は努力と云う見栄を、尽くすべきなであろう。<僚友を得れば、老後も寂しからずや>であろう。

心何処ーショート ヒヨドリ様の先権主張

 薄っすら白くなった戸外を、雲から顔を覗かせて太陽が、溶かして行く。青空に残った雲の動きが速い。ミカンを刺して部屋に戻ると、さっそく単独メジロが飛んで来た。羽毛を逆立てた身体で、橙の果肉を、汁で塗らしながら啄ばんでいる。

 突風を走らせた昨日の風が、今日も電線を鳴らしている。本日は日曜日であるから、安易に妥協して、散歩運動を割愛しようかなどと、思っている次第である。枝刺し餌の傍らに、種から自生した南天の小木がある。赤い葉先を一杯に付けた、未だ枝木の様な形である。地を這う寒風に、翻弄される程の揺れを見せている。単独メジロは、雪面から40cmほどの刺し枝に留まった侭、陽射しの中で『小ダルマ』の態で、風に揺れている。そんなメジロを眺めながら、ラジオも付けずに、ベビーチーズを口に、お湯割ウィスキーを飲んでいる。

 バサバサと羽音を鳴らして、ヒヨドリ様のお出ましである。部屋の私とは2m弱のフェンスに留まって、じっと私と正面で対している。風に頭の羽毛が、逆立っている。ふてぶてしい面構えと云うか生意気、この上ない態度である。施し物を頂戴していると云う感謝の気持ちが、まるで伝わって来ない面付である。余りに平然としているから、少し脅かして遣ろうと、拳骨を振り上げても、動じない。全く以って、舐められたものである。これでは、私の沽券に拘わる。手元の物差しを掴んで、ガラス窓を叩いて遣ると、野生の素早さで飛んで行った。
              <このバカヤロウメ>である。
 ニヤニヤしてタバコを蒸かしていると、今度は仲間を1羽連れて来て、フェンスにお出ましである。内向性の大人しい小生には、手に負えない連中である。留鳥のヒヨドリにしたら、若しかして私の存在は、彼等からは『新参者』として識別されているのかも知れない。私が賄い夫として四畳半に毎日、日中に座る様に為ったのは、昨年の10月からである。彼ら留鳥の縄張り意識からすると、殆ど顔を見合わせる機会が、無かったのであるから、彼等の昼の縄張り眼からは、私は完全に『新参者』でしかないのである。

 彼等、既存の縄張りの主からすれば、新参者への対応としては、先権者の権利侵害については、厳しい態度で臨まなければ為らないのが、『生き物の掟』なのである。そう考えれば、先程の2m弱の対峙は、気合の入った『先権者の主張行為』と為って来る。そうなれば、私の物差し脅しには、数を以って対抗しに来たと云う『図式』になる。

     これは、当たらずとも、遠からずの論理かも知れぬ。

・・・トホホと嘆く前に、
 
 左様であるか。やはり、ヒヨドリ野郎め、俺様の方が、強面に映ったか!! 迫力にたじろいで、助っ人を連れて来たって、寸法であったか。ウィッヒヒ。
 
 ザマァ、見やがれ。身の丈を知るのも、長生きするコツである。面白くは無いが、当分はお前達の賄い夫もして遣るから、ハイエナ面は抑えるべし。

 尤も、お天道様の下では、鳥のヒヨドリ様も、人間の俺様も、等しく『井の中の蛙』には、違いない。仲良くする気は、毛頭無いが、これもご縁の一つである。



心何処ーショート メランコリー症候群
 鉛色の雪雲に、電線がビュービュー泣いている。1日だけの春日の昨夜は、好機とばかりにプレゼントのコピーを携えて、友人宅に顔を出した。今年初めての顔見せであった。話が合うから、ツイツイ長居をしてしまう。寝床の朝のテレビでは、感情優等生のNHK男性アナウンサーが、打ち続く有害中国製食品に、感情口調の言を発してしまった。ベテラン・ニュース・キャスターも、人の子である。

 最新の<肉まん・カツ食品>に関しては、前回餃子問題で大人振りを遺憾無く発揮した中国高官の談では、製造元工場は、日本の会社であるから、日本人が責任者。従って事件の不始末は、管理・経営権のある日本会社の責任との事である。私は、下種の一人であるから、中国高官様の論理が、皆目、分からない処である。

 祖国ニッポンでは、イージス艦による漁船撃破沈没事件である。事件発生後1時間半で防衛大臣が報告を受け、2時間後に総理大臣が報告を受けたとの報道である。『公式発表』とは、摩訶不思議なものである。総理大臣と防衛大臣、閣議・委員会等で、ひな壇に毎日同席する一国の行政トップ・チーム。最も綿密なメンバーである。家庭で言えば、亭主と女房の間柄である。例え<寝所>は別々であろうと、同じ屋根の下の関係である。ホット・ライン、携帯電話、秘書官等々、連絡手段の豊富さ・強力さは、家庭の亭主・女房の比ではあるまい。公式発表と云う物は、官僚の『答案作成時間』が、必要なのであろう。1時間半・2時間を要した、権力に胡座を掻いた連中が知恵を絞って作成した答案を、被害者漁船団の事実反証が、次々と撃沈させている経緯である。責任を最小限で掻い潜ろうと『歪曲糊塗する為』の、所要時間が1時間半・2時間なのである。開かれた日本といえども、権力を持った『加害集団の知恵の総決集』とは、事実の前に、高々この程度である。レーダー完備と言われる最先端情報艦・イージス艦の『親方日の丸の大行進』が、ゴミと錯覚している漁船のレーダー履歴によって、いとも簡単に、その事実証明が、白日の下に明かされてしまっている。情報機器の平等化に上下・官民の差が無い事を、いみじくも露呈している構造である。『民主主義とは、斯く有るべしの一端である。』ハード面は、金子を払えば入手出来るが、それを使いこなすのは、個人の質・責任を内包した力量・技量=ソフト面である。
    
   昔風に云えば、正に<仏師、仏像を彫って、魂を入れず。>の態である。

 世界の似非大国は度外視しても、ハードとソフトの乖離の巾と深みに、人間の精神の底に横たわる地位による傲慢さ・高慢さ・鈍感さ・安易さ・・・etcの脆弱さを、思い知らされるばかりである。・・・個の道程は、便利さに伍して、富に遠くなるばかりでありまする。・・・・

 ロートル賄い夫の心は、メランコリー症候群でありまする。一縷の慰めは、防衛大臣の硬直した表情と責任に苛まれた態度で、陳謝する姿と沈痛な言で答弁をする姿である。

                   嗚呼、無念のお二方へ合掌

心何処ーショート災難は突然に (2/21) 
 災難は、突然に遣って来る。昨々日の金魚槽全滅に続き、昨日はパソコン・インターネットが、不通に成ってしまった。完全にお手上げ状態であるから、M氏に助成を頼んで置いた。本日は、若い娘?から、一方的な申し込みである。
 
 きっとスナックでの顔馴染みだったのであろうが、私には、一向に顔が思い出せない。雇用関係の相談と三月に行われる初級簿記の試験に向けての勉強を、教えて欲しいとの押し掛け相談である。相手は、私の事を良く知っている話し振りで、まるで毎日顔を合わせて喋っている感じである。その厚かましい限りの態度が、携帯から伝わって来る。明日が休みだから、教材を携えて我が家に遣って来るとの事である。ハイテンポの、ほぼ一方通行の電話内容であった。<これが、今時の平均値なのであろうか?『勉学・学習と云った脳作業は、所詮、孤独な一人作業である。』それを知るのも、勉強の内であろう。> リタイヤして時間に余裕のある身であるから、学ぼうとする社会人は、大歓迎である。一時でも真面目に学ぶ期間を持てば、精神に幅と奥が生まれるやも知れぬ。決して悪い事では無かろう。

 彼是とNと名乗る彼女の顔を思い出そうとしても、我が『趣味の時間』の邪魔である。明日に成れば、嫌でも顔を合わすのである。これも、浮世の義理の一つであろう。

 昨日は、呆け話の続編を打ち上げた。A4四枚の打ち出しを、校正して五枚で仕上がった。1時の完成であったが、読み返しながら、四畳半の寒部屋でシュラフと半纏に包まって、馬鹿笑いを堪えていたのである。蒲団の中に入っても、笑いが込み上げて来て、老母の手前、横隔膜で笑いを押し潰していた次第であった。つくづくと自分を振り返ると、進歩のシの字も無いバカ男の成れの果てである。

 ラジオからは、国会中継が流れている。天下った理事達の報酬額は、独立採算を旨とする所属団体が違っても、ほぼ1800万円台の一律並びとの感触を受けた。国会議員・大臣諸侯の舌鋒は、大所高所の観点からか? 別の切り口であったが、一庶民の感覚とすれば、『この実態を以って、大半を知る。』であった。そう為れば、改革・諮問委員会・各種協議会の専門家集団とは、口数と尊大態度には長けているが、その手腕と為ると斯くの如き『言い手繰り』技しか持ち合わせて居られない。そんな勘繰りすら、生まれてしまうのである。頭脳明晰・国民の幸福・国家の繁栄を、掲げる諸侯の<実態や如何に!!>と為ると・・・嘆かわしい口撃専門集団の有態である。

 相撲の決め技『蹴手繰り』とは、大きな違いである。<イイタグリ>と<ケタグリ>、口数勝負で一文字多い『言い手繰り』であるが、見える勝負を制するのは、有言実行・無言実行の肉体技の一文字少ない『蹴手繰り』しかあるまい。
次なる国会中継には、天下り改革の終始(収支)報告書には、独立採算下に於ける理事報酬の優良・不良団体の報酬のバラ付を、是非とも見たいものである。

心何処ーショート 充実の1日、と言うべきか?( 2/21)

 久し振りに、ご老人と一緒で、長風呂に為ってしまった。風呂の帰りに、メジロにミカンを買う。番メジロに単独メジロ、生意気なメジロ3匹である。ミカンが食べ易いらしく、そればかりである。これも、鑑賞費用の内である。
この頃では、すっかり落ち着いたのか、横着癖を覚えたのか、四畳半の周りばかりを巡っている様子である。何時まで越冬期間が続くのか? 皆目、見当が付かないが、これだけ頻繁に顔を見せてくれると、鳥篭の中の鑑賞と遜色が無い。否、観察範囲が広いから、メジロ達は自然体である。ミカンの輪切りとリンゴ・スライスを、小枝に刺すだけの手間で済むのであるから、考え様によっては、簡便鑑賞と言える。

 さて、お天気も宜しい様である。洗濯ついでに、豚小屋居住区を掃除し様としていると、来客である。掃除が終って見れば、何の事は無い、早や夕暮れである。綺麗には為ったが、草臥れ果ててしまった。電話に来客と、作業が中断されると、ついつい手を休めてしまう。ズボラ男が慣れぬ事をするのであるから、天気ならず様子が変わったまでの事であろう。若い頃と違って、鈍感に依る根気は出て来た物の、動作が鈍くなって来ている。根気と鈍さを天秤棒に掛ければ、鈍さに重点が移るのも、時間の問題であろう。・・・トホホの気分である。話し相手が居ないから、1人芝居を覚えるとしようか。

 夕食時、中国で行われたサッカーの日中試合の模様を、ニュースで取り上げていた。困った御国と国民様である。オリンピック関連ニュースでは、全種目の競技主任を、中国人で独占する由である。続いて、今度は中国産アスパラガスに、残留農薬との報である。ウンザリの一語に尽きる。流石に毛沢東と紅衛兵の大国である。

 さてさてと、夜更かしに、昼寝無しの洗濯掃除の一日であった。たまには、早く床入りするも好しである。見るテレビが無ければ、適当なDVDを見ながら舟を漕ぐのも好しである。

                  早春譜(2/22)
南風の影響で、本日は1日だけの春日との予想であった。なるほど、温かい。廊下の洗濯物を、軒下の物干し竿に広げる。
チィーチィー、チィーチイ、と雑木の小枝で、単独メジロが鳴いている。特上の餌に春日の太陽を浴びて、歌いたくもなる気分なのであろう。陽射しに明るい四畳半であるが、長い付き合いの金魚槽の住人は、驚愕の全滅の憂き目に成ってしまった。空の水槽空間に、光が満ちている。手狭に為ったグッピイ槽の住人達は、柔らかな陽射しの中で、過密の泳ぎを繰り返している。春日が安定して来たら、水槽替えをして遣る必要があろう。
ラジオからは、早春譜の歌が流れて来た。指を止め、歌詞を味わう。

                久々の万年筆
 何時来訪があっても好い様に、パソコン打ちを止めて、久し振りに万年筆を手に取る。先ずはスポイト式ロシア製万年筆に、彼国の緑のインクを補填する。
 
 さてさて、何を素描するとしようか・・・水槽に目を遣れば、何時の間にか1匹だけに成ってしまった親雌の大きく膨らんだ腹部の下は、黒く色付いている。底石の合間には、芥子粒の稚魚が動いている。水槽の小世界では、絶え間ない生殖の過程が何度と無く、日常的に繰り返されているのであろう。グッピィの飼い始めの頃は興味津々で、彼等の様子を観察して小魚の誕生を、心待ちしていた物である。針先ほどの微かな動きが、目に止まろうものなら喜び勇んで、天眼鏡を取り出して、じっと水槽の側面を睨んでいたものである。それが、徐々に当たり前の水槽の営みと成り、一時期を越えてしまうと、雨後の竹の子の様に、大きさを次々に現わして、水槽の中をスイスイ泳ぎ始める。受精・受胎・誕生の敷かれたレールは、時の中で、何時しか、それが当たり前の水槽世界と成って、一瞥の目の保養にしか過ぎなくなってしまった。
 当たり前の小世界が、グッピィの数と大きさを増加させて行く。冬とは言え、ヒーター飼育である。環境に適せば、種は過密の一途を辿る。過密の風景は、現在では魚体の成長に比例して、可密度を増すばかりである。

 過密の実態を、数を数えて言っている訳ではない。飽く迄、私の視覚上の感覚的感想である。稚魚・小魚の数が、こんなに増えなければ、私の目は、購入して来た成魚の数を見ている事だろう。感覚と書くと、如何にも覚束ない非科学的と錯覚されがちで有るが、人間の感覚も、そう捨てた物ではない。

 日常の中にあっても、<ボリューム感>に、『オヤ?』と、小首を傾げて数を数えて、不足の在処を探すと云った行為は、しばしばある行為であろう。考えて見ると、何気ない感覚の対象は、意外と『ボリューム感』を基準としているらしいのである。
現在のグッピィを飼い始めて、早や7か月である。現在の親グッピイの数は、オス3~4、メス1であろうか。総勢20の数は、生存率20%である。ボリュームに気を取られて固体の確認を怠れば、知らず知らずの内に、スムーズに世代交代が進んでいるのである。寿命が尽きた魚体は、早々に仲間に啄ばまれて姿を消し、次の稚魚が誕生して成長して行く。小世界は、あるボリュームを保って、時を刻んで行く。
 
 無関心な飼い主と言ってしまえば、それで終わりであるが、これが自然界の総体の営みなのであろう。無関心な眺めからは、さして特別な営みが繰り広げられているとは、見えない机上の極小さな水槽の小世界なのである。命を終えた腐体が目に付かないと云うのは、それだけ小世界の中の動きが早いと云う事である。腐体と同様、芥子粒・稚魚の一瞬の消滅も、日に何度も繰り返されているのであろう。ペットの小世界を人間は、目の保養などと気楽な気分で、観賞を楽しんでいても、それは飽く迄、ペットを見ている巨人の感覚でしかない。机上の小世界といえども、弱肉強食の自然界が、人知れず時を待たずに繰り返されているのである。

 万年筆をパーカーに変える。何ヶ月もご無沙汰している万年筆のカートリッジ・インクは、蒸発して干乾びている。南風に煽られて、斜向かいさんの毛布がバタ付いている。ヤベェ!! とばかりに軒下に吊るした洗濯物を見に行く。庭木の小枝の緑の中には、番のメジロが仲良く身体をくっつけ合っている。小粒の緑の身体は動きが無ければ、擬色を為して木に溶け込んでいる。敵に隠れて、彼等からは、四畳半前の餌場の様子が、一目瞭然である。これも立派な生活の学習能力の一端であろう。単独メジロも、同様な位置取りで辺りを窺っている事であろう。これも、たまたま、窓辺から覗いたメジロの姿に、果物を刺す事を思い立って、メジロの姿を目の当りに観察し始めた恩恵である。万年筆からは、ブラック・ブルーの癖字が綴られている。

                  束の間の春日
 本日、昼には早くも外気温10℃に達したとの報である。窓外には乾いた道路に、風が舞う。道脇の掻き足された積み雪が、時季に取り残れた風情で、埃にくすんだ塊を陽射しに晒している。屋根雪が、時折ドドッと、音を立てて滑り落ちる。外は、春日である。

 昼食時、老母が「お客さんは、未だ来ないか?」と尋ねる。
「ああ云う輩の言う事は、真に受けない方が、身の為だよ。真に受ければ、何かと気を揉んでしまう。物事に対する温度差の違いだよ。一方通行の物言い女は、頭の回路も一方通行だろう。来たければ来れば好いし、気が変われば、こっちも助かる。係わりたくは無い人種だよ。エネルギー消費は、最小限に保ちたいからね。これも人付き合いの経験の知恵さ。用意さえして置けば、上出来じゃないの。下書き無しのパソコン打ちの最中に、チャチを入れられたら、言葉・考えが霧消霧散しちゃうからね。年の功で、本日分は万年筆の手書きで遣っているから、心配要らないよ。何事も、ポーカー・フェイス。」
「電話位しなきぁ駄目だ・・・」
「へへへ、婆さん、俺達には電話は連絡手段だけど、一方通行の輩には、携帯は玩具ですわな。」

 折角の春日である。日課の散歩運動に出掛ける。風はあるものの、春である。河川敷の芝生の雪が、歩けるほどに溶けている。降りて芝生を歩くと、融雪水を吸った芝生は、水が噴出す泥濘である。上ってアスファルト道を行く。陽気に誘われて、ウォーキングの婦人方の姿が、彼方此方に散見される。日課終了の自宅近く、枯れ草に覆われた石垣の斜面に、鳥影を見付ける。
きっと、ジョービタキに相違ない。ゆっくり近付くと、パッと一飛びして、河川敷のプラカードに止まった。
「オオ、バルディナさん、元気だったか、そりぁ、好かった。」である。
          生きとし生ける衆生、お馴染みさんは、大切にしなければ為らない。

心何処ーショート ニッポン賄い夫の呟き

 月曜日は、極力ビート・たけしのTVタックルを見る事にしている。昨日は、<中国と如何付き合うか>であった。中国人論客お三方の登場であったが、まるで、話が噛み合わない。日本人の頭では如何にも、着いて行けない<言いたい放題の言い分>にしか聞こえて来ない。これを、中華思想と云うものなのだろうか? 頭の中で想念的に、中国を考える分には苛立ちは(起こらない)が、具体語・具体人を目にしてしまうと、思わず感情的に(怒って)しまう。・・・・実に困った性分である。
 
 人間から感情を抜き去る事は、絶対に出来まい。感情語を極力避けて、抽象語・定型語を多用しても、内なる感情を隠す事は、出来ない相談である。為らば仕事と割り切って、付き合うしか手立ては無かろう。仕事=苦役と達観視した処で、ストレスが倍増するだけである。ストレスで鬱と成っては、淋しい病院送りである。自己防衛としては、係わらぬのが個人の得策であろうか?
 
 組織・国家としては個人的防衛作では、埒が明くまい。防衛策が必然の決意と為る。常識対非常識の対決は、<金大中の太陽政策>一辺倒では進まない筈である。対処方としては、常識には常識であり、非常識には、敢て非常識で立ち向かわなければ為らない。これは、喧嘩の極意である。当然、喧嘩は、痛いに決まっている。★躾・調教なんて、下衆な言い回しもあるらしい。

 小生、至って感情的生き物であるから、これでは中国美形のイメージにも、翳りが出て来てしまう。コレマタ由々しき問題である。

 依って、中国指導者諸兄に、物申したい。言論・経済自由の現代にあって、金儲け・国威高揚に関してだけ自由世界を、自分勝手に利用しなさんな。仲間入りする以上、自由世界には自由世界のエチケットと云う物がありまする。蛮族の侵入に頭を抱えて、万里の長城を築いたのは何処のお国か!! 過去の栄光に執着為さる気持ちがあるのならば、少しは周囲を気遣って、大人の頭の回路をお持ちに為りませ。時代は21Cで御座りまする。

 人間国家の感情として、他国に対して威張りたいのは山々為れど、度を越えた傍若無人の狼藉振りは、底浅き単なる成金趣味にしか見えませんぞ。さすれば益々の<張子の大人>演技の続演と為りまするぞ。それを称して<中世暗黒絶対王政>と申しまする。国内で力と歪曲報道で、拍手。周囲・他国からは、顰蹙を買うばかりでありまする。気付けば万里の長城で、嘗ての竹のカーテンとなりまする。鎖国の論理でありまする。これを称して、<天に唾する><井の中の蛙>と申しまする。<衣食足りて、礼節を知る>とのたもうたご先祖様は、御貴殿のご先祖様であらっしゃる。躾・調教、喧嘩、自覚向上 or 全世界洗脳・制覇、何れの策をお取りに為られるのであろうか? ★北京オリンピック8月開催、化石燃料埋蔵量40年分?との事である。
                 
             ・・・確りしろよ。オッサン。学者面スンナヨ。

心何処ー反省・懺悔は、高みへの道
 昨夜は殊の外寒かった。我慢出来ずに、ビデオを持って布団の中に潜り込んだ。
 <ミスタータンク>1984年ユニバーサル映画。監督マービン・チョムスキー。出演ジェームス・ガーナー、シャーリー・ジョーンズ、トーマス・ハウエル。

 私お気に入りの一作である。この映画をゲットした動機は、シャーリー・ジョーンズ見たさである。彼女に注目したのが、私の人生の師とも仰ぐバート・ランカスター氏が、主演男優賞のオスカーを受賞した<エルマー・ガントリー>で、娼婦役として出演していた彼女に片思いをしたからである。彼女は、この作品で助演女優賞を獲得している。金髪・肉感的美形である。

 エルマー・ガントリーが1960年作であるから、それから24年を経た作品である。美形のその後を見る楽しみは、美形鑑賞者としては、コレマタ心の愉しみの一つなのである。瑞々しい肌、輝く容姿・笑顔が、加齢と共に容姿に丸み・弛みが出て来るものの、表情・瞳に現れる『柔らかさ・穏やかさ・間』と云った<味>が加わって来る。そうなると美形に、落ち着いた人間味が滲んで来るのである。私からすると、世の女性達が忌み嫌う目尻の皺は、美形の味合いに成長するのである。また皮下脂肪で崩れた女体の線などと云うものは、年齢を現して<まろ味>と成って、実に目に優しく映るものなのである。これらの全人格的とも錯覚されてしまいがちな雰囲気は、世に云う年増女の妖艶さ、熟した果物の美味さ・人柄の魅力とでも云う類の物であろう。

 さて熾烈さを増すヒラリー女史対オバマ氏の指名争いであるが、御歳60歳の才色兼備のヒラリー女史・・・ 誰かに似ておられると、かねがね見惚れていたのであるが、気付けば<その正体は、シャリー・ジョーンズさんであったか>である。私の美形の外形的チェック・ポイントは、顔相・瞳・目の動き・臀部のボリューム・背丈である。世界の指導者の地位を争って、長丁場心血を注ぐ女史には、真に不埒千番であるが、気が付けば女史の臀部を追って、中身を誰を当て嵌め様かなどとしている。これを称して、『邪(よこしま)なる妄想』or『過去パズル』と言うのである。ストーリー中、古参曹長のガーナーと古女房のジョーンズのベットシーン導入部がある。退役後に漁師になる為に、船を買うから乗せて遣ると言う夫に、古女房は皮下脂肪で丸くなった身体で、私の上にも乗せて遣ると言って、サラリと古亭主を誘うのである。こんなシーンが、男女の人生の1コマの象徴なのである。男女のセックス交換を、日常の営みの一つに置いて、過大評価も過小評価もせずに、サラリと流して行く・・・ 生活臭を伴った男と女のワンカットである。既婚者・経験者には、思わず苦笑いの浮かぶワン・カットである。

 何分古い映画であるから、お目に掛かる機会は乏しい限りであろう。古き良き時代のヤンキー気質を、明るく・スカッと大袈裟に描いた痛快アクション作である。ストーリーは、何しろ悪徳偏執変質保安官の逆恨みで、一人息子を濡れ衣麻薬所持のデッチ上げで、更正強制労働施設に送り込まれてしまう。漁船購入資金を提供したのであるが、功を奏さず・・・ 思い余ったガーナーが、個人所有の愛車シャーマン戦車を駆って、大砲・機関銃を撃ちまくって、適正裁判を求めて州を越境すると云う展開である。身体を張って、一人息子を奪還して州境を目指す戦車には、事の発端の若い売春婦が助太刀を買って出ている。古女房殿は、愛する古亭主・1人息子の無事を担保すべくマスコミのマイクの前に毅然と立ち、尻込みする隣州知事の尻叩きに奔走する。電波を応援する善意の野次馬(現代風に言えば、草の根サポーター)が、ゴールの州境に大集合して、最後の悪徳変質保安官隊との『決闘』に、固唾を呑むと云うクライマックスである。正義のヒーロー・善人を引き立たせるのは、悪役の技量次第である。悪役のトーマス・ハウエルは、悪質・偏執・変質振りを遺憾無く発揮して、見る者に圧倒的な実在感を持って、迫って来る。

 私などは、全身単純細胞で出来上がっているから、「この変態野郎、タダジァ置かねぇ、全裸に引ん剥いて、後ろ手錠で跪かせて、尻の穴にご太っい赤いローソク突き立てて、火を付けて燃え尽きるまで、鞭打ち刑だ。リンチ、リンチ!! リンチ、リンチ」などと、合いの手を打っている始末である。いかん・イカン、遺憾と、気付いてスグサマ懺悔している様であった。
嗚呼、マタマタ、脱線してしまった・・・
        
   反省・懺悔の気持ちが、人間を高みの境地に誘う最良の術である。
 明けて室温は当然零下である。金魚槽を見ると、<ギョギョッ>である。住人挙って霜枯れ植物の様相で、クタァ~と底に沈下しているではないか・・・ 何度か経験している様であるから、一呼吸置く。斯く成る上は、彼らの仮死状態に便乗して、水槽の水の大半を入れ替える。頃合を見て水槽に、ヤカンのお湯を適当に注ぎ込む。とんでもない男に飼われている悲哀であろうが、此処でキャリアの違いが、ストレートに現れる。先ずタナゴが目を覚まし、和金がそれに続く。荒療治未体験組は、底でへたり込んだ侭であるが、ちゃんと生きている。部屋に陽射しが入って来たが、未だ体が動かないらしい。そんなお隣さんには無関心に、グッピィ槽は、光の中で別世界の動きを見せている。10時に成ってラジオでは、松本の低温注意報が解除された旨の放送である。

 一段落して、ウィスキーのお湯割を口に、金魚達の動きを見守る。窓外のミカンも、完全に凍り付いているから、メジロ2羽も当てが外れたもどかしさが見て取れる。小さな黒く細い嘴を、盛んに動かし続けているが、嘴が立たぬ様子である。老母の動きも無い様子であるから、ビスケットを摘みながらの動き待ちである。最後の流金にも、動きが見られた。如何やら、飼い主・管理人の最低観察義務を果した様である。適応能力順からすると、タナゴ・和金・丹頂・黒出目金・赤出目金・流金と云った具合である。

 昼を待って、日課をこなしに外に出る。薄いブルーの空に、白銀の中央アルプスの雄姿である。正面に鎮座おますのは、常念岳でありまする。穢れ無き美形の峰の輝きに、赤いローソクの妄想は払われ、『賄い夫の尊きを、歩みまする』の合掌をした次第である。

心何処ーショート 小学校理科の問題

 大分体調が、悪いらしい。戸を開けて見るが、動かない。声を二度掛けると、微かに頭が動いて、か細い返事が一つである。曇天の空に、薄っすら雪の跡である。老衰で亡くなられた市川昆監督が、92歳との事である。老母も歳には遜色が無い。日々の衰えを、自覚している老母である。倅と生活の中での自然死を、願っている気丈な大正女である。童心に帰って、穏やかな日々を進ませてくれれば、それで好いと、無骨息子の私には、それしかして遣れる事が無い。生を受けた以上、死は付き物である。何時かは、その日が遣って来る。考えても、詮無き事である。

 部屋で、自分だけの食事をする。リンゴ、ミカンをスライスして、枝に刺す。電信柱の電線には、ヒヨドリが留まっている。「お呼び出ない」と呟いても、自然界には通じない人間の言葉である。水槽の水を少し入れ替えて、インスタント・コーヒーに、ウィスキーを落とす。

 トイレへの足音を確かめて、雪のちらつく外に、運動散歩の日課をこなしに出掛ける。
「おいおい、冗談は止めてくれ。」と呟いてしまう程の寒さである。道路に雪解けの水が滲んでいるのであるから、然程の寒さでないのは分かるが、灰色一色の向かい風である。100%の自家発電に縋るより他無い。黙々と早足で歩くが、体温が剥ぎ取られて行く。寒風に、鼻腔が痛い程である。散歩のコースは、以前より長く取っているのであるが、足が草臥れても、体が温まらない。今や、階段の上り下りの中間点を過ぎても、完全防寒の侭である。終点に差し掛かって、耳を覆う毛糸の帽子をずらし、手袋を脱ぐ段階である。何時もなら、ノルマ達成後の散歩徘徊に移行するのであるが、本日はキッパリ・パスの態でヒタスラ急ぎ足である。山々は、西も北も吹雪雲の中である。雪雲に閉じられた太陽は、僅かばかりに雲の濃淡に、居所を示すばかりである。

 頭の中で二月も半ば、冬至でカレンダーを二つ折りすれば、十月半ばと呟き、無理に十月半ばの気温を恋しがって見ても、一向にイメージ運動には結び付かずである。気温と日照時間のずれは、小学校理科の問題である。ロートル男としては、苦笑いを引き攣らせるよりも、生活の知恵である。歩きながら、上体を捻りの発電量確保の足掻きである。地球のお決めに為った天の法則である。従うより他無しである。

心何処ーショート 学習日記
 漸くのメジロ2匹のお出ましである。朝の冷気が、太陽に緩み始める。この季節、時間差の問題で、日の色ばかりが、濃さを増して行く・・・ 2月如月は、三寒四温の譬え月であるが、低温続きである。マダマダ春遠き信州である。

 部屋の暖房と日の光に、動きを増した金魚の橙色の魚体が、膨張して見える。光の中を泳ぐ和金は、少し大きくなった様である。朱尾に黒い斑点を付けた大雌グッピィに、第一期生の小雄が赤い尾ひれ、背びれを、これ見よがしに大きく震わせて、アピールの舞いを挑んでいる。
 そう云えば、日毎の光の強まりに、白鳥達が発ち始めたとの便りが、ラジオから届いている。やはり生物にとって、太陽の恵みは、最大の希望と言った処であろうか。

     本日土曜日、テレビでは、この一週間を振り返る報道が続く。
 視覚的ハイライトと言えば、やはり<張子の大国・中国>が、確り演じて見せた中国製冷凍餃子の『我が社こそ、最大の被害者・賠償請求談』である。党幹部と工場社長の対象比も、観賞の内である。批判に一切晒されない共産大国の主調振りは、「天下の悪者・北の将軍様」の比ではない。国の権威をバッチで誇示する様に、時代掛かったロケーションをバックに、横柄な態度で大人振ったものの言い様でしか、語れない。純粋な『刑事事件』を『朝貢外交』然として、政治決着に持ち込もうとしているのであるから、素人目には、体制の以前の『常識の埒外の所業』しか映らない。感想としては、その意味に於いて、<凄い・桁外れ・腐れ切っている>としか言い様が無い。これ程までに、国家・国民・文化の実態を、短時間に雄弁に語った映像も、無かろう。<ご立派。>の一語に尽きる。

 マスコミ流に考えれば、如実に中国を宣伝した実質的経済効果は、サブプライム問題にも匹敵する物であるかも知れぬ。流石に、覇権国家を標榜する大国中華人民共和国の本態である。
 
 近例を取ってして見ても、かの大国が議長国を勤める「6ヵ国協議」の紆余曲折振り、教科書問題・靖国問題、領有権問題、犯罪出稼ぎ問題、・・・etcの同根思想のこの実態は、幾ら「鈍感力の涵養本」が売られている御時世であっても、それが暴露されている事に気付く筈である。食品の安全問題は、政治決着には馴染まない難問である事は、対米食肉問題での学習結果である。自由主義国の日本人が、一人一人の財布から金子を払って、口に入れる商品購入行為である。遠い昔の消費者運動に火を付けたラルフ・ネイダーの『不買運動』の恐さを、大国中国は、自身の身で知るしか有るまい。感性の欠落した施政者・エリートは、所詮は庶民を敵に回すしか無い。

 侘しき賄い夫生活であるが、居ながらにして、世界を教えて下さる祖国日本は、有り難き良国でありまする。高齢社会日本、生涯学習を旨に、散歩運動に出掛けまする。

関連駄文・・・10/22休日の物臭散策、1/30脱線、2/7下衆の遠吠え、2/9風のよもやま話

心何処ーショート セクハラ一席

 銭湯に行く。寒い風である。挨拶を交わして、熱い湯船に浸かっていると、挨拶に応えぬ若者が、入って来た。声を掛けた若者が、仏頂面をしている。狭い世の中でも、人それぞれである。無視されれば、無視をして反せば、それで良しである。無表情の彼は、ブルーのバスタオルを確り巻き付けて、の入浴態度である。変わっているのだろう。小生、人間が下衆に出来ているから、バスタオルの中身に、知らず知らずの内に目が行く。何の事は無い。極普通の<隠し物>である。『見て損をした。』

 そう云えば、伝統の裸祭りのポスターが、『卑猥感』を連想させるとして、車内掲示を断られた由である。可笑しな世相と為った物である。

   何時もの個人スーパーで、買い物をして行く。
「ダンナさん、此処で刻んだキンピラ牛蒡、色は悪いけど、旨いよ。」
「うん、知ってる。この前、二袋買って、早速、作ったよ。気に入って、今日も二袋入れといた。」
「ダンナさんは、料理が出来るから、奥さん喜ぶでしょう。見かけも立派だけど、心も優しい。羨ましいわ。」
後ろに控えたお婆さん、ニコニコして話に加わって来た。
「カカアに逃げられたから、自炊しなきゃ死んじゃうよ。俺ぁ、未だ死にたかぁ無ぇだけだよ。」
「冗談よ。冗談。真に受けちゃ駄目。」
「料理なんかは、始めれば図画工作と同じだよ。造る楽しみって物が、湧いて来る物だよ。こんな楽しい事、女の専売特許にして置くのは、勿体無い話だよ。如何って事無い軽作業も、独占されて居たんじゃ、分が悪い。足下見られて文句一つを言おう物なら、10も20も言葉が返って来る。口数、大袈裟文句にゃ、男は分が悪いからね。ベテラン女2人を前に、でかい声じゃ言えないけど、女何て生き物、碌な者じゃないよ。オンナの内は、多少は色香が有るけど、ふんぞり返って、本領を発揮すりぁ、オンナはカンナに絶対一段活用しちゃうって寸法よ。」
「そうそう、ニィさん、巧い事、言うね。でもカンナの被害の割りには、立派な体してる。でもね、病気した時には、一人じゃ淋しいよ。口煩い女でも、側に居ると有り難い物よ。男も女も、潜ったのは、同じだからね。真面目に勤めると、きっとご利益があるわよ。ホホホ。」
「クワァ、こりぁ、勝ち目は無いわ。婆桜の挟み撃ち口撃、俺ぁ、帰るわ。」
「ダンナさん、今日コーヒー安いよ。飲むでしょう。」
「ヘイヘイ、先輩、お気遣いアリガトザンス。商売上手だね。買うよ。俺ぁ、女の持ち物は大好物だけど、口煩い女は要らねぇ。」
「アイアイ、アドバイスもサービスの内だからね。何時も、いっぱい買って貰って、有り難いお客さんだもの。タバコは、別会計だよ。」
「やや、300円か、有るかな? 無いかな・・ 先輩、無かったら恥だ。ロープ貸してよ。生き恥は晒したかぁ無ぇから、其処の橋の欄干から、首でも吊るわ。」
「まぁまぁ、タバコ代300円で、女の悪口言った儘、首吊ったら弔辞も読めないわよ。大きいの出しなさいよ。あったでしょ。」
「ヘヘヘ、これかい、実は、自信があるんだけど、一寸見る?」
「卒業したから、好いわよ。」
後ろの婆さんから、背中をパシパシ叩かれた。
「アレマァ、ニイさん、顔は堅いけど、砕けたお人だこと。帰ったら、爺さんに見習わせなくちゃ。笑いは、健康の基ね。浮気をしちゃ駄目ですよ。ホホホ。」

心何処ーショート 陽だまり
           『陽だまり』

       寒風に西のお山は 雪霞
       人棲む小庭の陽だまり揺らせ 
       リンゴ・ミカン啄ばむメジロ

    ヒヨドリに追われ パッと南天の緑の中

       連れは、如何した? 今日は一人か・・・
       大盛りフルーツ 串刺しの小枝 
       陽射し全身に浴び 小首傾げて 数えるは
          
             2・・3・・2・・2・・1     

心何処ーショート 練り味噌考

 朝のテレビでは、『練り味噌』を使った鍋料理が、紹介されていた。こくのある素朴な味にして重宝な保存食の意味合いもあって、練り味噌単品に、リスナーからのリクエストが、数多く寄せられているとの事であった。アレレ、<驚き、桃の木、山椒の実>の実感であった。

 私も、面倒臭かったり、冷蔵庫に食材が無かったりすると、良く作る。練り味噌は、考える手間要らずで手軽な一品と為る。味噌に入れる具材は、それこそ、台所の余り物・半端物と云った具合の何でもコーナーで、好いのである。味噌は、日本の風景に広がる、山河の様な包容力に満ちた存在である。黙って、個々の具材の味を包み込んで、日本人伝統の味噌風味が、食欲を掻き立たせてくれる。しかも、作る者の工夫次第では、奥深く、地味溢れる一品としての姿を現してくれる基本食材である。

<大袈裟に言えば日本人のDNAの中には、味噌風味が立派に組み込まれているのである。>

 見た目の派手さは、皆無と言って良い練り味噌であるが、リクエストが多数であるのは、当然の帰結である。私がこの考を打ち始めた動機は、別にある。それは、世代の反省としての思いが、あったからである。

『他人任せ思考・他力本願、見た目、流行、外国物への偏重、価値の金銭転換信望、耳学アクセサリー、ブランドしこう(思考・志向・嗜好)囲炉裏端文化、個室文化・・・etc』
 
 米食からパン食への食習慣を、築き上げて来たのは、多分に団塊世代である。パンを好む女房であったが、国粋的傾向の強い私は、亭主関白の権限で和風食を常としていた。子供達に肉を付けても、私の皿には、魚が必ず載っていた。子供は、<親の一滴>を実践して来た積りであった。片親で育って来た所為で、一日も早く大人に為りたい(精神的・経済的独立)気持ちが、強かった。巣立ち後は、対等の関係こそが理想の親子・兄弟関係であろう、と念じて来た次第である。

 戦前・戦中派は、180度の価値観の転換・転覆を経験した世代である。一方、団塊世代は、敗戦後の戦後民主主義の第一期生である。戦前軍国主義の撲滅教育は、伝統的生活習慣の堅苦しさも手伝って、ばら色に映ったアメリカンスタイルに鞍替えする事への、格好の梯子になったのだろう。堅苦しさの脱却には、自由・個人の自由・個の独立への門戸は、軍国主義・敗戦の対極にあって、戦勝国アメリカン民主主義の眩いばかりの光を放って、前途を照らしていた。高校までの一般的思いは、理想国アメリカであった筈である。私がアメリカの実態の姿を認識したのは、大学での労働法で知ったマッカーサーの政令208号の存在であった。

 世界史、現代史、国家の国益の相関関係が、この時、初めて私の中で、音を立てて繋がったのである。★価値観の崩壊に、2日程学校を休んで頭を整理せざるを得なかった。ショックは有ったものの、学ぶから知るの一端に触れて、興奮を覚えた記憶がある。

         こんな枝葉末節は、さて置き、

 敗戦に依って、日本の経済・生活レベルは、昭和から一気に大正時代以下に、タイムスリップしてしまった筈である。若き体験世代は、我々の親世代である。混乱逆進食卓を飾った『練り味噌』の味は、母親の味なのである。それを教えてくれた母の味は、その母親の味であり、食文化の味であった筈なのである。何処の家庭にも日常的に有った『練り味噌』・・・ 米食と云う食文化の中に有った味噌は、味噌汁・味噌漬・練り味噌・鉄火味噌として、立派な競演者の地位を、食卓に維持して来たのである。醤油は、味噌造りから派生分派した世界的調味料である。味噌に練り込められた奥深さの裏を、教えられる事も無く、考え知る事も無く、目前の自由を歩いてしまった戦後日本の危うさは、現代の子の親である我々自身の鏡とも言える。

 団塊世代は、『別称』断絶世代とも言われる。練り味噌を知る世代が、自分達の子の世代に伝えなかった「日本の味」なのである。大家族から核家族、囲炉裏文化から個室文化、消費創造経済、使い捨て経済へと、レールを走ってしまった世代である。企業から家庭に、団塊世代の大移動が動き始めた。<断絶>を埋める自覚と努力を惜しんでは為らない。

 昼の運動散歩に出掛ける。少々走る真似事をして見ると、春までには、様に為りそうである。空気は冷たいが、清々しい陽光である。お得意の徘徊散歩に移行する。

 家の近くで、バルディナさんを見付ける。やっと巡り会えて、ホッとした。果物を刺しても、一向に姿を見る事が、無かった彼女であった。雪の続いた寒波の日々であったから、気を揉んでたのである。

心何処ーショート 春遠からず

 目を覚ますが、ちと早い。寒いのはキツイから、寝返りを打って、もう少しである。今度は起きて、ゴミ出しに行く。昨日のミカンは、16時でフィニッシュであったから、リンゴスライスを突き刺す。空の様子を見上げる。好天の空が拡がっている。老母の動きを待って、四畳半に暖を取る。

 早速のヒヨドリ様のお出ましである。ヒヨドリ様、私と目が合っても、堂々としていらっしゃる。<なるほど>である。昨日の観察では、飛び去り行為の非効率を、メジロから学んでいる節が見受けられた。果たして、如何云う展開に為るか? 興味を持っていた処である。私同様、彼も、確り高みの観察をしていたのであろう。朝食時間を終えて部屋に戻ると、食い散らされたスライスは、雪の上であった。

   エコ贔屓は観察・管理人としては、戒めるべき誘惑である。
                  メジロと相性の好いミカンを刺して置く。

 雲を白く照らす太陽が伸びて、机上を明るくしている。メジロにばかり感けていては、机上の住人達には相済まぬ。グッピイのカバーの前面部分を取って遣る。住人達は、鬱陶しいカバーが外れて、世界が広がるのであろう。暫くすると狭い水槽全域をそれぞれに、低部・中部に拡散して、思い思いのペースで泳いでいる。金魚槽は、光の中で穏やかな泳ぎを見せている。低水温と云う悪環境の中でも、タニシ達は健気にも水槽面のモップ掛けを、黙々と維持されている。吸盤で削ぎ取った跡が、光線に浮かび上がっている。私が部屋を去れば、フレーザーの室温である。華奢な葉緑は凍みあがって見る影も無いが、もう峠を越えたのである。我慢の先に、小紫の蕾を見せて欲しい処である。

 タバコとコーヒーを口に、管理者の目で彼等の動きを追う。水槽には、世代交代の過渡期の様相が見られる。一期生は、押しも押されぬ成長振りである。数を持って続く子供達は、一期生の赤尾の艶やかさは期待出来ず、二期生の黄尾に黒斑の二匹が、どう成長するかである。同期の青尾は、パットしない雲行きである。三期生には、一番小振りの黄色の体色を受け継ぐ一匹が居る。薄い黄色の体色に、朱の尾の下方に薄いブルーを取り込んでいる。背びれは、如何やら青の様子である。メスと比較観察をすると、オスらしいのであるが、もっともっと大きくなって貰わないと、解らない処である。自分の地味な性格からは、贔屓目の眼差しが続く事であろう。以下引き続く幼魚の群れは、余りに小さく以後のコメント待ちと云う処である。

 閉じ篭り物臭男の日常であるが、日ごと明るくなる陽射しの色に、春を望む気持ちは、誰し も同じである。
 
 手頃なお時間である。銭湯に浸かりに行くべしである。


心何処ーショート 至近距離

 本日は殊の外、温かい。ロートルご近所さんは、掻き寄せた雪の片付けに、精を出して居られる。私も陽気に釣られて、軽い靴を履いて、3時からウォーキングに出掛ける。山際の上り勾配の道を選ぶ。運動目的であるから、早足で歩く。息が切れる。こんな時は、もう少し、もう少しと、足掻いて距離を稼ぐしか無い。

 40分の時点で、体との折り合いを着ける。真っ直ぐ伸びた農道の縁に、手袋を置いて座り、ジャンバー・毛糸の帽子を脱ぐ。水田は、白一色の区切りを重ねている。霞む四方の山麗に、高山の頂が数を並べている。川を挟んだ幹線道路には、車のスピードが交差している。私の側には、人影は無い。薄くなった雪原に、ホウジロの小さな群れが、短く鳴き交わしながら、低く飛んで行く。水田の雪原には、微かな雪紋の跡が続いている。水田の土手は、冬枯れの草の間に緑が滲んでいる。

 ジャンバーのポケットから、タバコを出して火を付ける。時折、背後の山の松林の枝から雪が、ドドッと落ちる。発汗の身体に、無風の太陽が熱い位である。目に映る物だけを、その侭に眺める。心地良さと視覚の広がりの中にあって、人間、考える事は無粋である。

 夜は、数日前に打った短編の読み直しをする。短い無難な物であるから、ブログに公開しようと思う。<心何処―徒然に>は、心何処―ショートのタイトルで、日記風綴りで日々の思いを打っている。マンネリこそが、一般人の日常と考えているのであるが、お付き合いを願っている奇特な御仁には、相も変わらずのロートル日記とのお付き合いをさせてしまっては、心苦しいばかりの心境である。そんな訳で、毛色の変った物を随時載せ様と考えている次第である。

 従って、本日分のパソコン打ちには余裕が生じたから、朝の散歩と相成った。折り返し地点から、別ルートをゆっくりした歩調で行くと、ギーッと聞き慣れぬ声である。立ち止まり見上げるケヤキの大木に、コゲラの姿を2羽発見した。白と黒の斑模様の翼に白ぽい腹色、大きさは、雀ほどのキツツキ科の小鳥である。幹に垂直に止まり、小さな黒い嘴で啄木(キッツ)きを繰り返している様には、野趣を感じるものである。枯れ幹の先には、丸い穴が、何箇所か見て取れた。   

 この一帯は、川を挟んで我が家とは真向かいに当たる。大学、中学、高校、県体育館、県文会館、護国神社と続く。桜、欅、ヒマラヤ杉などの大木に恵まれ、車通りの少ない界隈である。小鳥達の空中の目からは、緑の濃い場所なのであろう。嘗ての市営球場は、大学の所有と成ってしまったが、高い塀を乗り越えて、町内の仲間達と野球に興じたものである。小学生、中学生で、野球の試合が出来たのであるから、団塊世代は、日本の人口史上の一大特徴なのである。

 これを打っていると、メジロが2羽遣って来て、ミカンを啄ばんでいる。私とは、確り目を合わせている。まるで、籠の中の飼い鳥の態度である。ヒヨドリの来襲には、1m強先の生垣の緑に身を隠すだけで、ヒヨドリが去れば、サッと飛んで来て、ミカンの輪切りに有り付く。雪混じりの雨が、次第に白く成って来た。メジロ達は、雪帽子の残った生垣の緑に入って、身を休めたり、ミカンを啄ばんだりの余裕振りである。野生の学習能力の高さを、目の当たりにした次第である。強かさは、チビのメジロの方が、ハイエナのヒヨドリよりも数段上の様子である。つくづくと、見た目を基準としたら、その本態を見誤る処であった。

 下心多きご同輩諸侯、見るべしである。メジロ殿達は、夫婦の様である。
 生垣の常緑の葉陰にピッタリ身を寄せ合って、イチャ付いて居られるのである。
                   
                            ・・・ワシャ、知らん。

心何処ーショート 日長、雪を溶かす。

 知らず知らずの内にも、日が長くなったものである。試しに、17時から散歩をする。3月も半ばを過ぎれば、夕方の散歩が一番好くなるのかも知れない。すっかり出不精に為ってしまったから、老母がたまには遊びに行ったら等と、気を遣ってくれるのであるが、その気が起こらないから困った物である。

 ブログ荒らしのコメントには、「ねぇねぇ、教えて、あなたのH指数は幾つ?」などと云うお誘いがあるのだが、『精進生活』に慣れて来ると、知らず知らずの内に、食指が動かなく為ってしまうらしい。階段上り下り運動も、体が欲する日課と為るし、ブログ打ちも、斯くの如しである。自他共に認める『意馬心猿』人間であるから、眠れるH指数は、健在なのであろうが、何故か面倒臭い気が先に立ってしまう。有り難い習慣が、身に付いて来ている。と云った処であろうか? こんな話をすると、私を知る者は、眉に唾を塗って見せるが、生活習慣とは、そんな物である。習慣が何処かで脱線・ポイント換えすれば、それが習慣と為る。

 かと云って、老け込んでいる風には見えないと言うから、歳の割には、若く見えるのだろう。賄い夫を決心した当初は、持ち遊ぶ時間の長さを想像すると、呆け防止に図書館通いをして、何かを研究して見ようかなどとも考えて、何度か足を運んだのだが、結局は習慣に為らなかった。図書館の整った環境よりも、古びた四畳半の方が、自由が利く。高校時代を過ごしたこの四畳半の居心地は、若い私の体内に、確り刷り込まれているのであろう。私と母の関係も、主婦の母の老衰上、リタイアした倅が、賄い夫として横にスライドしただけの事である。私は居住区として、四畳半と東の八畳を使い、老母は六畳と西の八畳を使う。用事があれば、声を掛ける。本質的には、その当時の距離を置いたサラリとした関係で止まった侭である。

 春に成れば何も言われなくても、釣り竿を持って、自由時間を川で過ごす事に為るのは、目に見えている。ハタマタ、動物界の本能の訪れとも重なり合う季節である。幸い、学習能力は残っている様であるから、『触発効果?』何て事にも為り兼ねない。<すべからず、先の事は定かでないのが、セイブツの常であろう。>・・・・・ご同輩諸氏。

 明ければ、部屋に差し込む光であるが、起きる気に為れない。寒いの一語である。小1時間を布団の中でテレビを見る。時計を見遣りながら、これ以上は待たせる事は叶わぬと、『ヨッコラショ』と声を出して起き上がる。風呂に行こうと思ったが、家で入る事にする。屋根雪の溶け水が、軒下に音を鳴らしている。洗濯日和である。風呂上り、軒下の物干しに、洗濯物を吊るす。陽射しの温かさに、思わず気持ちが綻ぶ。熱めの風呂を老母に渡し、一服のコーヒーを啜る。

 雪上の小枝が、揺れている。覗くとメジロが2羽である。それも束の間、ヒヨドリが音を立てて遣って来たかと思うと、スライスを咥えて飛び去った。何をや、言わんか・・・である。

心何処ーショート  我が意を得たり

 日曜日の午前中は、テレビのお時間である。ストーブに炬燵で、マスメディアを相手に、言いたい放題の罵詈雑言と、合いの手を打って過ごしている。老母も、悪乗り倅の落語長屋に出て来る様な口の悪い、八っあん、熊さん口調の解説付きのテレビ視聴であるから、頷いたり笑ったりの連続である。老母の笑顔・リラックス振りに、『老人慰問活動』を我が適職と考えようか? などと、思ったりもしてしまう。

 ブログ観客の中には、マスコミを『マスゴミ』と位置付けられている御仁も多数居られる由。多分に首肯される民放メディアであるが、野次馬根性的には、此方の気分が大いにすっきりするのであるから、それなりの面白さがある。

 本日は、ある『切り口』を期待して、マスメディアの対応が、<プラスに出るかマイナスに出るか?>を注目していのであるが、マイナスであった。とかく肩に力を入れて待ち構えていると、敢え無く肩透かしを喰らってしまうのが、世の中の『落ち』と云うものである。確率論から云ってマイナス方向なのであったが、言論人を自負する連中の『気骨』を見て、拍手を送りたいと思うのが、『庶民の期待・人情』と云うものである。空振りに終って、定位置に座る。

 第二部は、13:30から始まる<たかじんアワー>正しくは『そこまで言って委員会』である。マスゴミ大いに結構とばかりに、尻を捲って、言いたい放題を逆手にとって、辛口の毒を浴びせる手法を採った番組である。逆説的本音を言えば、「庶民の立派な常識番組」である。午前中の優等生番組では、どいつもこいつも腰が引けてしまった注目の時事問題であった。問題に真っ向から言及するには、ガラの悪い<たかじんアワー>しか有るまい。よもや期待の★(ブラック・スターズ)が、自粛をしようものなら、『真剣』に日本脱出も、視野に入れねば為らない。・・・ 困った事態である。
 
 雪帽子に加わった新雪に、溜息一つである。新たに、リンゴスライスを差し込む。差したり隠れたりの御天等様であるが、道路の雪は、自然に解けて行くだろう。アスファルト道が、太陽を吸って雪を溶かして行く様は、やはり春の息吹が伝わって来るものである。午後を迎えて、眼前の黒いフェンスに積もった雪は、全て落ちてしまった。車の通わない日曜日の住宅街に、餌を啄ばみに訪れたメジロの鶯色の体色に、日が暖かく感じられる。暫く、彼等の雰囲気を愉しむ。

 <たかじんアワー>の始まりである。メンバーは、多彩にして、口達者な顔触れである。野次、突っ込み、オチャラカシのオンパレードであるから、観客は抱腹絶倒で、一時間半を楽しめば好いのである。『笑いの門に福来る』同様に、脳裏に残るご意見・視点の数々である。我が意を得たりで、安心してノルマの散歩に出掛けた次第である。

   先ずは、最悪の事態は回避された様である。
          <たかじんアワー健在>に、拍手でありまする。

心何処ーショート 似非ボランティア

 朝食後のお付き合いで、テレビを見ていると、大相撲OBトリオの冬の北海道旅が、映っていた。流氷の街・網走が映った。ブログ写真を拝見させて頂いている『網走発』氏が、活躍されているフィールドである。氏のフィールドの影を追いながら、三人衆の旅のスナップを楽しむ。

 老母は生粋の道産子である。私達兄弟も全て道産子である。釣が好きであるから、氷上のワカサギ釣を見ていると、三人衆の映像よりも、竿先の魚信に目が行ってしまう。彼等の動作・表情は、カメラ目線で無い、動きと単発の短い言葉の交換である。同じ土俵で、稽古をし、旅巡業をまわり、本場所で真剣勝負をして来た仲間である。所謂、同じ釜の飯を食って来た<体語が通う男達>である。スポーツ界の男旅から醸し出される雰囲気は、実にノホホンとしていて、しっくり来る。

 旅行無尽で気の合った連中と、この10年不良中年の海外旅行を繰り返して来た。バンカラ気質の抜け切らぬ男だけの珍道中を、大分落として来たものである。つくづくと男の中に残る童心の和やかさに、気分が綻んだ次第であった。

 部屋に入ると、リンゴのスライスに、本日はメジロ3羽である。彼等のコミュニケーションも中々の物である。3羽寄れば度胸も倍増するらしく、啄ばみ具合も大胆である。氷上の竿先を連想させる凄い引きである。其処へ悪名高いヒヨドリのお出ましである。サッと飛び散る緑の鳥体である。目の先の黒いフェンスに停まって、甲高い悪声で威嚇する様は、草原のハイエナに似て、憎々しいばかりの風貌である。

「リンゴドロボー!!」とは、些かハシタナイ謗り言葉であろうか。

 ああ、この野郎、強引に毟り取って、何じゃい、その食べ方は、行儀のギョの字も、あったものじゃない。バカヤロウ、親の顔をとっくり見て遣るから、呼んで来い。フェンスに並べて、端から往復ビンタで、躾けてやらっか!! である。

 待て待て、容姿、容貌だけで決め付けてしまっては、法学を学んだ者として、母校に瑕を付けてしまう。我が家の一帯を住処とする留鳥ヒヨドリにして見れば、我が庭は、彼の立派な縄張りの一つなのである。一方冬の漂鳥メジロは、一介の間借り人でしか無い。思い出せば、既得権は、法が等しく認める法益の一つであった。小回りの利くメジロが、餌を見付ける。見付けた餌を大家・縄張りを仕切る親分が、家賃代わり・娑婆代として懐に入れるのも、一概に非道とばかりは断定出来ない処である。

 生きると云う事は、如何やら、『柵に生きる』事であるらしい。困ったものである。さてさて、柵打破・改革と為ると、食料の賄い夫を、買って出るより仕方あるまい。我が賄い夫、最大の未熟点は、美形好き・面食い男の頑固なる性分である。ハイエナ改め、<気の合いそうも無い縄張りの親分>さんへの上納スライスに、心が篭らない無念さである。何しろ我が下心の最大部分に位置するのは、『北国の使者』雌ジョウビタキのバルディナさんなのである。・・・トホホ也。

心何処ーショート 佳境の名優

 ガチガチの流し台、昨夜の予報マイナス10℃であった。朝食後、テレビの国会中継に付き合ってしまった。民主党渡部恒三先生である。自民党若手論客の1人として、注目を浴びていた頃からの、テレビ視聴のお付き合いである。早稲田雄弁部出身の政治家の一人である。早稲田雄弁部の舌鋒は、その言論スタイルが鼻に付くと同時に、体質的に合わなかったから、重きを置いて見ていなかった。どちらかと言うと、部出身の錚々(そうそう)たる首相陣にも、尊敬の念が湧いて来なかった処である。国民の1人として、真に以って、不遜・失礼の極みである。
 
 野党に下り、マスコミの表舞台から遠ざかって、経験豊富な政治家の重鎮陣へと進んだのであろう。自民党時代の尊大・狡猾さが年齢と共に、見た目の棘が薄れている。委員会質疑のテレビ中継、議員諸侯の晴れ舞台である。加齢の老猾が、仕草・表情・語調に『好々爺』の雰囲気が横溢して来た。一般的には、『枯れの味』と言うのだろうか。先生は、それを体現させて、好政治家の独特の雰囲気に、満ちて居られるのである。名物男・千両役者なんて形容詞が、スーと頭に浮かんで来る首相との遣り取りである。原稿無しの一部呂律の回らぬ個所も、キャリアのバリアで難なくすり抜ける。日常会話然とした言語使用に、東北訛と老猾さで耳目を惹きつけ、笑いの中で、勝負球を投げ込む。
<イョッ、名調子!!>と、アンチ雄弁部の私としても、拍手喝采を送る程の老猾振りである。

 散歩運動時刻を、大幅に遅れ込んでしまった。階段運動に、白い息をフゥフゥ連続させて、雪に埋もれた敷地を歩く。エガラ、四十雀が桜の枝を渡っている。2羽の四十雀は、巣箱を物色して木々を渡っている。日照時間の変化に、春を感じているのであろう。雪の中の小道を抜けて、道路を渡る。川原の水柳の枝に、ツグミの群れである。コサギが、低空飛行で飛んで行く。橋を渡ると、結氷で遮られていた水量が、シャーベットの氷を乗せて流れて来る。色を増して来た太陽の光が、歩調を緩くする。ザクロの甲羅に、昨日のメジロ2羽を見付ける。

 定位置でパソコンに向かっていると、フェンスに置いたリンゴのスライスに、メジロが1羽飛んで来た。私と目が合うと、すぐさま逃げて行ってしまった。北窓の雑木の枝に差して置いたリンゴを見遣ると、何も無かった。散歩から帰って来た時には、しっかり有ったのだが・・・
 トイレついでに、リンゴをスライスして、庭の小枝を折って串刺しにして、雪の中に枝を突き立てる。今度は低い位置にあるから、メジロとは視線が合わぬ筈である。再びパソコンに向かっていると、早速のお出ましである。嬉しい事に、2羽である。暫く観察させて頂く。
 
 閉じ篭り賄い夫の何の変哲も無い日々であるが、人知れず顔を覗かせてくれる野鳥の仕草は、天からの贈り物である。見上げる薄空に、薄い白雲は動かず、止まった侭である。

心何処ーショート 下衆の遠吼え

 枕元で朝のラジオを聞いていると、老母の何時もの動きが聞こえて来る。タバコを蒸かしながら、足音の間隔を確かめている。2日間の床で、覚束ない動作が聞いて取れるが、ホッとする。

      口に合いそうな物を、買って部屋に持って行くと、涙を溢しながら
      「申し訳無い。」と倅に、深々と頭を下げる。
      「バカな事を、育てた利息だよ。堂々としていれば好い。」
      人情脆いバカ息子は、苦手な雰囲気に、作り笑いをして部屋に戻る。

 如何やら体調を取り戻して、普段の各々のペースで行けそうである。老母の後から、間を置いて、私の1日がスタートする。台所に立ち支度をして、朝飯を茶碗に適量盛る。何時ものペースである。浮腫(むく)んだ容貌も、シャキとして来た。倅に迷惑を掛けまいと、片親の気丈さで生き抜いてきた女性である。<無理をするな。>である。コタツに足を伸ばし、座椅子に座り、大分小さくなった老母は、可愛くもあり、衰えたとは云え、美形である。

 朝の如何でも好いテレビでは、セレブの生活と銘打って、2億円マンションに、450万円の眼鏡、何10万円の防寒下着・豪華ボトルに入った1万5千円の極上水、挙句の果ては、お抱え運転手付き高級車で、ミンクの毛皮に包まって、注文の5000円の食パンをご購入為されるセレブ婦人の出現、・・etcである。貧乏人には、目の毒でしかない。早々に豚部屋に引籠もるべしである。

 昔ながらに母の八畳の仏間で、ストーブの上でコトコト音を立てるヤカンの湯が、私の性に合う。ポットに採って我が定位置の四畳半に入る。

 東窓のカーテンを全開して、太陽を呼び込む。太陽を浴びた机上の住人達の動きを眺めて、熱々のコーヒーを飲む。寝床で聞いたラジオの中に、当面の国内食料自給率45%での食卓のシュミレーションがあった。朝食・・飯1杯、芋2本、ヌカヅケ 昼食・・飯1杯、芋1本、果物リンゴ1/4 夕食・・飯1杯、芋2本、魚切り身1切れ。牛乳・・1本/週 肉・・1回/9日との事らしい。
  ★夜更かし還暦目前男の一過性脳味噌メモであるから、個々の正否については、責任放    棄の段、イメージだけの参照とされたし。
 
 斯様に貧富の差は、経済的豪奢に止まらず『勝者』と『敗者』の短絡的括りつけを蔓延させてしまう嫌いが、出て来てしまう。心の基準とは、到底結び付かない経済的勝者と敗者の論理・基準が、知らず知らずの内に、人の心の基準を蚕食してしまう。経済活動は、利を求めて他との競争に勝敗を以って、終始してしまう。競争主義の最大の誘因は、悲しいかな『拝金主義』に為らざるを得まい。拝金主義にブレーキを掛ける唯一の手段は、漠然とした心の基準だけであろう。

 嘗て100円ショップがお目見えした頃、その店内に入った。所狭しと陳列された豊富な品々に、愕然とした。太刀打ち出来ない国内生産者の悲鳴が聞こえた。そして、これ等の商品を送り出す低所得の外国国民の生活水準が、イメージとして広がった。人間生きる為の激流の始まりと、激流に沈む人間達の悲哀が聞こえていた。理と感情に、頭が矢継ぎ早に反応していた。先進国と後進国のギャプに気分が落ち込んで、何も買わずに店を出るしかなかった。資本の国際化・分業の国際化・世界規格、地球のグローバル化とは、こう云う事なのである。

 奇(期?)しくも、降って湧いた中国産冷凍餃子問題。『それぇ、一大事!!』と、右往左往する食材大量消費国ニッポンの姿を見るに付けて、金で買える『ハード』と金では買えぬ『ソフト』の対立を実感するのみである。そして、ソフトを育む時間の膨大さと衰退する時間の短さに、人間の『心の脆さ』に歯軋りしている一人である。ソフトの幽霊であっては、収拾の着かない大問題である。生産工場2日間の冬眠工作?? 不平・不逞の反逆分子と云った人工幽霊のお出ましらしい。★日本の調査官を前に、ソファで大人振る張子の演技は、笑止千万である。真相は、伊達で粋、冷徹な名警部の水谷豊・寺脇康文の『相棒』コンビの調査が、待たれる処であろうか? 

 朝から、完全にペースを狂わせられてしまった。 すっかり毒気に当たって、朝から何やら、賄い夫には似つかないパソコン打ち、と為ってしまった。

 イカンイカン、浅学非才のボロが出ぬ内に、午後の散歩がてらに温泉銭湯、買出しに出掛けよう。毒気は、掛け流し自然温泉で時間を掛けて、身を清めるしかあるまい。とかく、この世は、住み難く成った物である。
                           ウッシッシ。

 
 ★昨日分、ショートの題名を失念致しました。<有り難きかな、心の保養>であります。

心何処ーショート

 老母は、床に臥せったままである。気兼ねをさせたくないから、パンと牛乳を枕元に置いておく。本日はM氏が、定期検診の後に顔を出してくれる由。我が豚部屋の空気を入れ替え、最小限の掃除をする。次に駐車スペースの雪掻きをする。ラジオからは、良い語らいが流れている。長らく夜間中学の教師を為された御仁が語るお話である。気取らず、飾らぬ感性豊かな御仁の話・声は、温かく心に広がって行く。こんな雰囲気に巡り逢いたくて、私はラジオを聞いているのであろう。こんな御仁に遭遇出来るのであるから、まだまだ、この世の中、捨てた物では無い。
<実直な感性は、感性を呼び起こし、感性を繋ぐ。>
リスナーからは、感動・感謝の喜びを伝える便りが続く。正に、NHKの真骨頂である。

 中国産冷凍餃子騒動を絵にしたいと思い、鉛筆を取った。白紙を前に、形が浮かばない。思いは浮かぶものの、形にする腕が無いのが、悩みの種である。鉛筆を握って、唸っていても思いは、頓挫するばかりである。何かを始めれば、収めなければ為らないのである。案ずるよりも、生むが易しである。例によって、実に好い加減な線が、紙に足されて行く。念じて侭為らぬ不得手分野であるが、自分自身としては、楽しい悪戯タイムなのである。授業中・会議中の片手間タイムでは無いから、立派な集中タイムとなる。茶髪に髑髏を載せて、餃子の2本の角を生やして、ピンクの大将鬚をピンと跳ね上がらせた男が、大口を開けて見開いた目玉に、黄色の稲妻を走らせている形相に成った。髑髏には、紫の陰影を施し、左右の目は青と赤にした。顔の輪郭を黒で強調して、その他のバックは、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の暗褐色で仕立てた。男の顔の地色は、のっぺり感を出す為に、余白の無地として顔面蒼白を意図した。(腕さえあれば、意図では無く『演出』と打ちたい処である。)案の定、寸足らずの収まり具合であったが、元々が計画に緻密さの無い男の絵である。乱伐な漫画そのものであるが、それなりのインパクトは、出せた感じである。我田引水の合格点である。

早速、スキャナーで取り込んで、印刷に掛ける。『心何処―ショート』の綴りファイルのページを捲って、さてさて、どの辺りの挿絵にしようかなど、悦に入っている次第である。全ては、手作りの個人的趣味の産物である。公表さえしなければ、非公開・密画である。

そんなブレイク・タイムを取っていると、窓拭きをした窓の向こうに、
おやおや、前方に小さな動きである。
老眼鏡をずらせて様子を窺うと、メジロである。昼の時間帯に、メジロを見るのは珍しい。これも、雪のお陰だろうか。あれよあれよと云う間に、飛んでいってしまったが、再び戻って来た。すると、もう一羽飛んで来た。二羽とも、確りした体付きである。酷な雪景色にも、餌は足りている様子である。飛び立って、暫くすると、今度は、ジョウビタキのバルディナさんのお出ましである。軒下の電話線に、尾羽のタクトをしっかり振っている。安心、安心の姿である。
何と、ラジオからは『山の娘ロザリオ』が流れて来た。

庭からは、小鳥の澄んだ声が聞こえて来る。梢の柿の実は、既にヘタを残すのみである。
人の目には入らぬ越冬虫が、見付かるのだろう。蓄えの利かぬ野生の世界である。餌場を求めて、ポイント・ポイントを訪れる小鳥達である。
 
お礼に果物でも買って来て、枝先に吊るして遣ろうと思い立った。いざ、出ようとすると、NHKの集金さんである。かねがね内向性の好い眼差しを持った人であるから、1度話をして見たかった。話をすると、やはり好人物であった。話が合うと云うか、気が合うので、四畳半で暫く話をする。T同様にアメリカでの生活を捨てて、家庭の事情から実家に戻ったとの事である。柵(しがらみ)に生きざるを得ない部分を持つのが、これまた人の人生でもある。私としては、好い話し相手。彼としては、仕事先での羽伸ばしの息継ぎにして貰えれば、それで好しである。

 さてさて、遅くならぬ内に、買い物を済ませようとしていると、M氏から電話である。本当に久し振りである。お互い、近況の交々を語り合う。彼は不思議な事に、私の下手絵に深い?理解を示して下さる。マィピクチャーに貯まった60枚のコピーを、収めて帰られた。気の許せる友を得て、交流が続けられる事に、感謝するばかりである。

冬の日は、呆気無いほどに短い。

       小鳥達へのお礼は、明日の銭湯の帰りにさせて貰う事にした。

心何処ーショート ロートル、今日も行く

 老母は、体調が優れないらしい。一声掛けて、朝の散歩に出掛ける。何時もの様に、階段運動に向かおうと社会文化会館の駐車場を行くと、座敷犬の小さなペットが、チョコマカと歩いている。その傍らには、ご婦人が居られる。顔を合わせると、幼馴染である。声を掛けると、相手はキョトンとした顔付きである。

「これ、俺の顔を忘れたか。〇〇〇、悠長に、犬なんかに付き合っていないで、早い処、精神科に行ってこいよ。お主、認知症が大分、進んでるぞ。」
「お宅、誰よ。同級生? 同窓生? 誰だろう? 本当、この頃、物忘れが酷いのよ。」

 相手は、笑っている。幾つか言葉を交わして、漸く私を認知して下さった。困った年齢の訪れである。お互い還暦に手が届く年齢に為ると、男と女の垣根が、低くなるものである。一度もまともに話した事の無い間柄であったが、次から次へと話が足されて行く。お互い、共通の時代を歩んで来た者同士と言う訳である。寒い外話も無粋であるから、館内には喫茶店もあった筈である。開店前でも、外よりは、ずーと益しである。暖房の効いた館内のシートに、腰を掛けて彼是と話が弾んだ。彼女と別れて、再びノルマの階段運動をして帰る。

 声を掛けずば、素通りしてしまう朝の散策風景である。一言声を掛けただけで、拡がった一日の気分である。人の交わりは、気持ちが温かくなる物である。帰って、机上の住人達に隔日の餌を与える。グッピイ水槽の壁面に、タニシ殿の姿である。何週間か姿が見えなかったから、老衰でご昇天遊ばされたと思い、合掌を済ませていたのであるが、元気な姿を見てホッとした次第である。それでも、一匹の姿は見えない。

 雪帽子から滴り落ちる水滴に、陽射しが柔らかい眺めである。グツピィの群れは忙しげに、底石を体当たりの格好で啄ばんでいる。ヨチヨチ・フワフワ・チョコチョコを繰り返す金魚槽と違って、25℃の世界では、生きる事には活発な動きが、必要とされているらしい。変化に富んだ日本列島、ラジオからは、チラホラと春の息吹を知らせる便りが、紹介されている。
 
 長閑さに釣られて、浪曲CDを聴きたくなった。先代広沢虎造の『国定忠治・名月赤城山』の名調子である。ラジオとの二本立てである。それをBGMとして、アルコール付きのパソコン打ちであるから、<変換精度>が落ちると云うものである。心地良くなれば、反省行動も萎み、素人のパソコン打ちと開き直る。電波の先が見えぬ一方通行、困ったリスナーの1人である。

 三味に低く唸る浪曲・メリハリの冴え、時には必要な名人芸である。落語・講談・浪曲と云った伝統的庶民芸能が廃れて久しい。日本の芸能には、『間』の呼吸が、必須のものであった。間の呼吸を体得する為に、昔の芸人さんは、真面目に修行したのであろう。この歳に為ると、人生交々の修行の甲斐があって、多少は行間が読める。観客・聴衆も、きっと、彼等の修行の裏に連なる価値に拍手を送っていたのも知れない。修行には、見えない芸能の社会が、存在しているのである。その社会で躾られ、努力した過程で身に付けた芸・芸風に、拍手が送られていた側面もあったのであろう。芸人さん達も、拍手の中に修行の褒美の音を、聞いていたのかも知れない。修行の後に開花した芸人の個性は、凛と輝いて聞こえる。型を踏襲した上での芸人の個性が、忙しげな時代の中で、テレビの一過性の個人的なパフォーマンスの波間に、時代遅れと消えて行く。

         何か良い手立ては、無いだろうか・・・ 

 個人の選球眼は、何時の世にも問われる命題にして、難題の一つである。芸人修行ドラマ『ちりとてちん』も、現代風『軽ノリ』が全面に噴出さなければ、視聴率が取れない若者携帯小説のご時世である。ロートルの我が身は、若年役者から離れて、ひたすら渡瀬恒彦と和久井映美の絡みに惹かれて、回を重ねるばかりである。『ちりとてちん』好番組では、ある。
国民的朝ドラに、国民の年齢人口構成グラフが、重なって浮かぶ。

人の世は、人波に造られ、歌は世に連れ、世は歌に連れる。文化は世に連れ、世は文化に連れる。・・・と云う事らしい。

  そう云えば、こんな言葉もあった。<歌と友達は、古いもの程よい。>



心何処ーショート 恥ずかしの大発見

 雪に埋もれた庭に音は無く、快晴の陽射しが伸びている。老母は、体調が悪いらしい。気配が伝わって来ない。食事の用意は、不要であろう。2日に亘った降雪・灰色の世界から解放されて、気晴らしの欲しい気分である。冬篭りは、如何にも無粋である。定位置を捨て、温泉フルコースに行く事にする。支度をして、外に出る。防寒靴に、降り積もった新雪の感触を、踏み締めながら歩道を歩く。大通りは、何かと気忙しい気分である。脇道に回って、ゆっくり歩く。
 
 快晴の雪景色に、光が眩しく温かい。宅地の合間に、田畑が白一色で続く。1日を過ごす心算であるから、ラジオ・ノートも一緒である。手元でタバコが吸えない難点はあるものも、800円で10時~20時迄を過ごせるのである。時間を気儘に過ごせる人間には、絶交の場所である。

 テニス場、野球スタジアムの続く道を選ぶ。街路樹の欅並木が、ひっそり雪を抱いた雰囲気は、中々の風情である。静の雪景色に、枝の雪が落ちる。小さな雪煙が、微かなきらめきを瞬間見せる。春には、入ったばかりの酷寒の2月を、通過しなければ為らない処であるが、陽射しの温もりに春の近さを、つい想像してしまうのであるから、人の気分は、好い加減な物である。

 スタジアム前の信号には、郵便配達の赤い50ccバイクが2台待っている。声を掛け合って、丸々に着膨れした2人が、バイクを停めて、自動販売機から、缶コーヒーを取り出している。雪解け・ツルツル道路に、彼等も神経の草臥れる1日と為る事であろう。白・青の反射光の中に在って、雪で薄められた群青の山容は、一幅の墨絵にして、どっしりとした落ち着きで、雪景色の中に対している。

 目的地到着である。降雪に終始した休日後の施設敷地である。最小限に留めた雪掻き作業に、私の行く先は、深々とした手付かずに雪の平らである。私は徒歩客であるから、真っ直ぐ処女雪の中を進む。一人での動作・行為と為ると、ついつい出てしまう我が幼稚行為である。人間、中々に改まらない動作・行為と云った処である。入り口で、脛まで付いた雪塗れのズボンを、床のコンクリートにドン・ドンと、音を立ててふるい落とす。

 さてさて、客の入りは、私にとって吉と出るか凶と出るか? 和風の引き戸を開ける。
 薄暗い下駄箱に、靴は少ない。2階の大広間に行き、先ずはセルフ・サービスの茶を入れて、胡坐を掻く。ラジオのスィッチを入れる。国会中継は願い下げであるから、NHK第二放送を選局する。子供向け番組「猫ジャラシの豆腐屋」の朗読をしていた。大広間には、私1人である。暖房と南窓の陽射しに、汗ばむ程の室温である。

 露天風呂を皮切りに、ジェット風呂・泡風呂・打たせ湯・スチーム風呂と回る。スチーム風呂に入ると、同年配の男に声を掛けられる。何やら、圧倒的存在感だと言う。<???> 言葉のボールを交換していると、ハキハキした話上手の男である。次々と客が入って来る。如何やら当てが外れて、『繁盛の雲行き』である。アジャジャ、ご老人オンパレードである。若しかして,本日、高齢者優待日!!なのかも知れない。長居は無用と、風呂を出る。

 未だ人の少ない大広間で、気の緩まぬ内に、本日分の文作ノルマを、スケッチする事にした。シャープ・ペンシルで、頭に浮かぶ儘を走らせていると、オバァちゃん連が、どっこいしょ、ドッコイショとばかりに、階段の手摺を伝って姿を現わせる。昼を回って、大広間はピークである。ブッチョウ面をして大きな態度で、小さな字数を貯めても、場のムードには、そぐわない。歳からすれば、私などは若造の括りである。

 ホカホカ気分が冷めぬ内に、座布団枕にリラックスと致しますかな・・・である。

 隣の席に遣って来たのは、近所の婆桜三人衆との事である。四人衆であったのだが、一人が亡くなって、昨日が葬式であったそうである。隣でワイワイガヤガヤであっては、気が退けるから、加わって茶を飲めとの有り難いお誘いである。自家製の杏のシロップ漬け、小豆羊羹に沢庵漬けのお振る舞いである。

 これも、他生の縁である。見知らぬ物同士、気軽に声を掛け合い、話の輪の中に入るのも、人のエチケットと云うものである。増してや温泉に身も心も、どっぷり浸からせれば、自然と綻ぶ口と心である。

 汗ばむ陽射しを間近に浴びて、仰向けに目を瞑れば、大広間の人声の乱れ合唱も、何時し か大波・小波の潮騒の如く、意識が薄れて行くのである。

 気が付けば、婆桜連、挙って湯に行った風である。二度目の湯浸かりに、大広間は閑散としている。何時の間にか、空は灰色一色である。

  さてさて、我輩もお暇と致しましょうか。ほってりした心身を土産に・・・

 我が家の玄関横のツゲの木が、雪の重みに苦しそうに、たわんでいる。入る前に、雪を落として遣ろうと、伸びた枝を掴むと、こんな所に、鳥の巣一つである。形から察すると、カワラヒワの巣の様である。我が家に小鳥の巣が掛かったのは、何年振りの事であろうか。キセキレイ、百舌、ヒヨドリに続く快挙である。巣作り・抱卵・育雛・巣立ちが、昨春繰り広げられていたのである。そんな事とは露知らず、我が身は、寝るだけの生活を送っていたのである。恥ずかしい限りの鈍感生活であった。


心何処ーショート 身の丈
 ブログ日記の片隅で、如何やら、毎日20人前後の読者を得た様である。何の変哲も無い日記形式で綴る、日常の徒然である。自分の見た物、感じた物をその儘に、ぶっつけ本番で打ち出すだけの素人の文作である。文学形式の自問自答などと云う精神の葛藤を綴る事は、性に合わない高尚事であるから、時間の浪費とばかりに、一切パスをしている次第である。世の中に悩みの無い人間など、居様が無い筈である。所詮、悩みは、自分の分身である。分身である以上、見殺しにする訳にも行かぬ。最終的には自分の力で、解決して行くしかあるまい。解決能力の乏しい身故に、背伸びは禁物である。

 有り難い事に、賄い夫のブログ訪問者に、若い方々も居られる様である。若い方々のブログを訪問させて頂くと、若き感傷の断片の数々に出会う。暫し、ああ、この道は、何時か通った道・・・と思う事がある。人の精神は、自問自答の中で鍛えられて行く過程を、採るものであるが、自分の解決能力を見極めないと、とんだ事に為りかねない。恥ずかしながら、一つ告白する。
 
 1度若かりし時に、自分の解決能力・我慢能力を過信し過ぎて、突然発作に見舞われた小1時間を体験した事がある。母親の面前であった。そいつは、何の前触れも無く、突然に遣って来た。頭がガンガン鳴った。コメカミの血管が一気に膨張して、心臓から送り出される血流に、圧力が加わって、コメカミが締め付けられて行った。凄い勢いで、頭がキリキリ締め付けられて行った。上半身が震え始めた。落ち着け落ち着けと、頭を抑えて、奥歯を噛み続けた。その内、葉がカチカチ、音をさせ始めて、上体が小刻みに震え始めた。頭の血管が切れそうに為って、全身が痙攣し続けた。発作を止めるしかないと思った。顔・胸の区別無く、力任せに殴り続けて堪えようとした。何度も何度も。
 
 泣きそうな顔で、手を差し伸べ様とする母親の前で、必死に耐えようとした。
然し、震えは、一向に止まらなかった。初めての恐怖に悲鳴が出そうになる衝動を、奥歯を噛み締めて、悶絶しながらも、頭の片隅で、「ああ、俺は、これで、血管が切れて発狂するのだろう。」と自分を観察していた。漸く弟が掛け付けて、必死に身体を押さえ付けて貰って、発作が収まった。
      
  その時、人間の精神の脆さを、私は、つくづくと思い知らされたのである。

 それからである。自分の身の丈を知る様に為ったのは。過敏さを捨て、凡庸を目指した。勿論、同じ人間が、別の感性に生まれ変われる筈の無い事は、事実なのであるが、危険域に達する前に、スィッチのON、OFFを操作する訓練をしたまでの事である。そして、見た目の流れ流される術が、身に付き始めた。あれから何十年経ったかは、計算が面倒であるから割愛する。

 昨年の夏、ウラジオストクのルースキー島で、ロシア人ファミリー2家族に混じって、海のバンガローで3日を過ごさせて頂いた。シングル・ママの友人が、私に向って、こんな質問をして下さった。
「如何して、あなたは、そんなに幸せな顔をしているのか? 何時から、その顔に成ったのか?私も、あなたの様な顔に為れるだろうか? あなたの心の中を、教えて欲しい。」

 異国の美形お二方に、顔をマジマジ見詰められて、真剣な顔で、そんな事を質問されたのであるから、男にとって、否、一個の人間として、
        <ああ、自分の生き方に、間違いは無かったのだ。> 
 これほどの感想は無いと、感謝した次第であった。シングル・ママさんを通訳に、洋画に出て来る様な女友達の間に挟まって、夜の潮騒を間近に見ながら、ライトに舞う虫達を受けて、酒を交わしながら、異文化の女性達に自分の足跡を語ったのである。日本語の儘為らぬ彼女とは、お互い不自由な英語の交換であったが、子育てに忙殺される主婦の心に、安堵の火が灯った様であった。幼馴染の親友2人の女同士の会話の雰囲気、共通の知り合いとして、付き合ってくれる白人美形2人の心遣いが、心地良かった。
            「サンキュー、ユー、ベリーグー。」
 涙が溢れた顔を、海に浸かって落として来た彼女の顔が、抱き締めたい程、美しかった。
      これは、発狂寸前まで行った私の何十年か後の私の顔であった。
              これも、私の密やかなる喜びの一つである。        

               ★詳しくは、心何処―37『好人集いて、好日を為す』

 
 降ったり止んだりの雪は、とうとう積雪20cmを越えてしまった。幸いの日曜日である。気温が高いから、通勤道路への影響は、余り無かろう。それにしても、見事な雪景色である。

 降って湧いた中国産餃子騒動で、日本列島は、大揺れの日々である。家庭の食卓には、さぞかし手作りカレーが、溢れていたのでは無いだろうか? 普段の生活では、食の安全・自給率についての家族会話など聞かれないのであるが、家族の共通な話題と為ったのでは無かろうか? 
    斯く言う私と老母も、テレビを挟んで大分、話をした次第である。

 田舎暮らしで、恵まれているのは、個人スパーに行けば『地産地消』の泥付き・不恰好・不揃いの季節野菜・果物が、山積みされている事である。何事も幾許かの手を加えなければ、得る事の出来ないものである。加える手を惜しめば、何かを捨てる事に繋がる。<分かちゃ居るけど、どっぷり浸かった生活習慣。天変地異のお沙汰が下らないと、中々に変えられぬ生活習慣である。> 然しながら毎日カレーでは、飽き足らぬ舌の肥えた日本人である。包丁でまな板に食材を刻み、舌で味を整える生活習慣を作って行くのが、食の常識なのでありましょう。時間が無いと、言われるのなら、会社で覚えた分業を応用して、縦横の分業策を採りましょう。因みに縦の分業とは、時間系列であります。作り置きに、ルーで異なるカレー、シチュー、トン汁etcのバリエーション。横の分業とは、複数人による同時進行・お手伝いであります。

心何処ーショート 近衛十四郎氏

 いかん遺憾。火が恋しくて、午前中の大半を、老母の部屋でテレビを見てしまった。つくづくと、テレビの存在は、魔物である。何もしなくとも、訳無く時だけが進んでしまう。痛く反省して、我が居住区の四畳半に場所替えである。先ずは、インスタント・コーヒーとチョコレートで、一服タバコを燻らせる。

 プーケット潜水人・備忘録・野外手帳・・・etcさん達のブログ散策を、楽しむ。テレビと違って、相手の顔・肉声とは無縁であるが、ブログの先には、彼等の息遣いが伝わって来る。皆さん、お元気な様子である。

 昨日はgoogleで、『近衛十四郎』の膨大な資料記事に遭遇して、一気読みをさせて頂いた。力作であった。日本映画会社史の側面もあって、映画好きの私には、大きなプレゼントであった。氏が東映映画のB級スターとして活躍されていた頃に、私はスクリーンで氏と出合った。お馴染みの片岡知恵蔵・市川歌右衛門・嵐寛寿郎などには無い、氏の殺気立った殺陣の凄みに惹き込まれた。母は東映チャンバラ映画のファンであったから、見る機会が結構あったのである。
 
 所謂『華』を売る幾多のスター達の中にあって、氏は異彩を放っていた。静と動の対比に優れ、殺陣の凄みと緊張感を、眼光と身体・太刀捌きを以って、『剛の型』でスクリーンに迫っていたのである。この誰も真似出来ない型と気合を漲らせる剣豪スターが、如何して白黒のB級スターなのか!! 小学生の私には、<世の不条理>として腑に落ちなかった次第であった。

 氏の映画を見る度に、成長するに従って、この人には<何かある!! 生い立ち、思想に何かある・・>と映画館を出ると、そんな事を自問自答しながら帰る事がしばしばあった。後年、映画からテレビへの雪崩現象に依って、氏がテレビで品川隆二とのコンビで『素浪人・月影兵庫』に登場して、一躍高視聴率長寿番組の地位を築き上げた。私は氏のファンとして、大いに溜飲を下げた処であった。私が氏の月影兵庫からご教授されたのが、<男たるもの、普段は駄目人間昼行灯で、肩の力を抜いて、市井の中をノラリクラリするも可。但し一つ事有れば、徹底的に悪を討つ。>そんな人生観であった。

 物臭男の人生も終盤に入って、こんな取り止めの無い字面を打ちながら、不図、思う。
三島由紀夫の割腹自決事件で、初めて自分のペンを取った。心のゆとりが出来て、単発の旅行記を綴った。ワープロを覚え、パソコンに替えた。字面打ちの対象に、<心何処―徒然に>を、恐る恐る始めた。独り机に向かう事で、労働のきつさ・人間関係のストレス解消の効果が、出て来た。人生の巡り合わせで、賄い夫を決めた。M氏にブログを勧められて、昨年の10月から、日々の張り・日課としてショートの掲載を始めた次第である。ブログ散策を覚え、近衛十四郎氏の資料記事に遭遇して、昨日、漸く氏の足跡を知る事が叶った。40数年目にして、疑問の角が取れた。

 斯様にして、人の歩みとは、解らぬ物である。歩めば、何かに出会える物なのであろう。

心何処ーショート 常識よ再び

 低温注意報で起きるのが、正直、嫌である。足先は湯たんぽを弄れば、温かさが伝わるが、寝返りを打てば、すぐさま最低気温が進入して来る。遅刻の無い日常を送っていると、寒い分、起床するには、勇気の要る行動である。放射冷却に依る低温であるから、遮る物なしの太陽である。陽射しを待ってカーテンを引き、覆いを外して遣る。光に群がるグッピィ達は、水面近くにカラフルに集まって来る。可愛い眺めである。

 中国産冷凍食品問題も、問題の真相・深層に横たわる(機械=ハード面)と(人間=ソフト面)のギャプに収斂されて行きそうな雲行きである。人間が手にする道具は、使用する人間次第に依っては、利器にも凶器にもなり得る両刃の剣である。使用して良いか悪いかの問題から発して、その限度・その派生する影響、結果に対する責任・・・etcについて考えた上での総合判断・行動が問われるのが、人間の質=ソフト面なのである。人間の質を作り出す要素は、倫理観・知識・見識が上位に位置するのだろうが、最も中心に座るべきものは、『遣って良い事』と『遣ってはいけない事』の区別と行動である。簡単な言葉で言えば、常識行動が、どれだけの人間が取れるかと云う事に、尽きる。常識とは、多数行動である。
 
 近い処に例を取れば、非常識な人間の手に握られた携帯電話は、安易・便利さ故に、教室・電車・バスと所構わず、傍若無人の独り歩きを仕出かすのである。人の集団は、規制と規制緩和との堂々巡りである。ヤヤもすると、タガが外れてしまった便利・豊富にして、勝手自由の振る舞いが、個性・パフォーマンスと大手を振って闊歩するご時世・世相である。人間の本能的・習慣病としての心の病に、特効薬など在り得ない。『病は気から』である事多であるから、とどのつまりは、個々人が『気』を取り戻す事から再スタートして、『気の集団』を『集団の気=常識』に育て上げるしか方途は無かろう。指導者は、常識人優遇措置を真剣に励行するしか、方途は無いのである。
 
 常識破りの活力は、別次元・匙加減論で論ずれば良い。如何に金言・名言の数々を輸出して来た儒教大国と言えども、お寂しい限りの低モラルの実態である。曲がりなりにも極東の小国で、涵養され続けた『庶民の常識で支えられて来た』日本人の精神風土と比較して見ると、如何であろうか? 

 有限なる地球の姿が、突きつけられている21Cに、66億の民が生を受けているのである。番組の低予算化策を受けて、サラリーマン・アナウンサーが、司会orサブ司会に回って、お笑い芸人をレポーターに、突出セレブの映像を煽って、羨望・垂涎コメントを垂れ流し、中身の薄い流行り者・流行物を映すだけの番組が、他局との視聴率争いを繰り返している。そんな予算があったら、高質な心打つドラマをお作りに為ったら、如何な物か。

 ニュース報道・解説・ドラマ・芸術・芸能・バラエティー・・・etc 人間の素直な興味・好奇心とは、多岐に渡るバランスであろう。ドラマに充分応えられる役者層は、居られるのでありまする。存在感・実力を持った役者陣が、リクエスト・収入の為とは云いバラエティ番組の常連の座を暖めているだけの現状は、見るに忍びない光景である。
 
 たまに有為のコメンーターの言に、光る一説があったとしても、心に歩留まりするのは、些か難しいのが、人の常である。有為の一説を、確り大衆に印象付けるには、観客にドラマ同様の感情移入させるのが、有効な方法である。光る一説は、ストーリーを持った映像中のヒーロー、ヒロインを語らせるのが、一番の効果と云うものである。凡人・愚者の心の中に植わってこその『常識の涵養』でありまする。第三の権力を自負為されるマスメデイアの諸氏諸侯の気概を、期待する処である。

<日本の常識は、世界の非常識>などの『明言』が、嘗てあったが、目まぐるしく右往左往する経済指標の世の中である。明言が名言に定着する前に、地球の軸が振れているのである。失われ行くニッポンの『循環型共生の術』であった処の<常識>を、冷静に再構築して、世界に発信すべきでありまする。

 午後の散歩に出掛ける。快晴に寒風である。少なからずの後悔である。剥き出しの鼻が、冷たい。前を見据えて、左右の腕を振って、ガムシャラに歩くしか無い。フー、フー、寒気に在っては、すぐさま息が切れる。達磨の様に羽を膨らませた雀達が、飛び立つのも面倒とばかりに、じつとしている。無理も無かろう、羽毛を逆立てて、やっと体温で温めたウェット・スーツである。空を切れば、元の木阿弥である。悪さをせぬから、そのまま、そのままと、遠慮して歩くしか無い。階段運動は、しんどいから、倍の距離を歩く事にする。

 2月如月、一番寒い時季である。怠け者のウエスト絞りには、キツイ日々であろう。
 嗚呼、怠惰の万年床、寝た振り男が、似合いの時季なのであるが・・・
 生きている以上は、何かをしなければ為るまい。フーフー、もう一息、あそこまで行けば、ユ ーターン。後は、下り勾配、惰性で帰れる。夕食までの時間を、名作DVD鑑賞に当てるとし ようか・・・ 人間、何事も感性・常識の涵養に相努めるべしである。

 監督ビットリオ・デ・シーカ、共演ジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフトの
 『終着駅』辺りが良さそうである。


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