旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処ーショート 切干大根

 久し振りの温かい夜である。中国産冷凍食品の問題で、夜のニュースは、大変な騒ぎである。これだけ頻繁に不祥事を繰り返す国も、珍しいのでは無いだろうか。もう既に、物言うのもあほらしい感じさえして来る。自覚の無い国には、消費者がチェックを密にして行くより他あるまい。私よりテレビと接している時間の長い老母様からも、中国産は止めろとのお達しである。「脱線」を打ち終えた段階での夕食であったから、脱線における自説を披露する羽目に為ってしまった。鋭い質問にも答えたから、夜の散歩が大分ずれ込んでしまった。本日は、水谷豊・寺脇康文の「相棒」が、9時から始まる。慌てて、ウォーキングに出掛ける。夜空に星が、白く輝いていた。

 ドラマに恵まれない昨今に在って、「相棒」一作が、独り気を吐いている感じである。友人を訪ねるべきなのであるが、ついつい寒さに、足が遠のいてしまっている。暫くは、ご無沙汰を許して貰うしかあるまい。ラジオも深夜便の時間に成って、マイ・ペースの運びである。就寝前の一時、実に気分に合った番組である。

 束の間の太陽も、気が付けば灰色の雲に隠れてしまっている。昨日材料を買って来て、私の好物、お袋の味「切干大根の煮付け」を、老母にリクエストした。朝から台所で音がしている。本日は国会中継があるから、ラジオは付けずに居る。如何云う訳か、昨夜は中々寝付かれずに、寝返りばかりを打っていた。そんな事で、本日は身体が未明の侭である。黒かりんとうを、バリバリ口にしながら、インスタント・コーヒーを啜り、グッピィの小魚を眺めている次第である。小魚達の尾鰭にも漸く、黄・青・朱の色が、仄見えて来た。先ずは、順調な発育振りであろう。
 
 正午近くになって、外を見遣れば、おやおや、白い物がチラホラである。あ~あ、洗濯物を外に出したのも束の間、取り込まねば為るまい。困ったお天気である。

 さてと、ぼんやりしていても、始まらぬ。たまにはノート・パソコンを試用して遣らないと、お叱りを頂戴する。さりとて・・・・ 

 アジャジャ、白い吹雪のお出ましである。本日、まだウォーキング前であった。本格的に成る前に、ノルマだけでも、こなさずば為るまい。
バカタレめ、嫌がらせにも、程がある物を・・・・
 
 覚悟を決めて、5分位歩いていると雪が止んだ。不平不満は、確り伝えて見るものである。
階段の上り下りをこなす。呼吸を整え様と、護国神社に足を伸ばす。野鳥を探して歩くが、空振りである。諦めて踵を返すと、鳥居の近くで『シメ』を見付ける。枝影に種類を確認出来ただけで、森の梢の中に消えて行った。まま為らぬのが、野鳥との遭遇である。ウォーキングに、精を出す人達と擦違う。どの面々も、顔を正面に据えて黙々と歩いて居られる。彼等と比べると、私の散歩は、徘徊に近い。
 
 遅い昼食である。台所の大鍋には、お袋の味「切干大根の煮付け」が出来ていた。
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心何処ーショート 脱線

 雪霞の空間に、疎らに、小さく、白い物が落ちて居る。天空に、本の少し雲間が開いている。塵も積もれば、何とかであろう。河川敷の散歩コースには、時間で貯めた5~6cmの積雪量がある。ギュッ、ギュッと新雪を踏み締めて、運動量をこなす。積雪の負荷は、結構きつい。階段の上り下りに、充分匹敵する。依って、本日は割愛する。その儘、針路を真っ直ぐ採る。

 自宅近くに戻って、河川敷から上ろうとすると、葦群に小鳥の動き一つである。立ち止まって行方を追うと、バルディナさんである。何日か姿を見て居なかったから、気に掛けていた処であった。彼女の元気な姿を見て、ホッと胸を撫で下ろした。
先日のTのプレゼントでは無いが、少なからず気に掛けている者同士の『顔合わせ』と云う物は、通い合う感情に心が、暫し温まるものである。

 雪を被った葦群を、チョイ、チョイと尾羽をタクトの様に、小さく振って葦を渡って行く。徐にタバコを咥え、目で彼女の姿を追う。彼女とは、近い距離で何度も目を合わせているから、お互いを認識出来るのだろうか・・・ 人間の男と小鳥の渡り鳥ジョウビタキの雌である。小鳥の動きは、まるで、気を許した美形が、好みの男に自分の姿を見せて呉れているかの様な、無防備のゆっくりした動きである。それは、言葉も必要としない女の仕種に近い。気持ちが通じているのだろうか・・・ そんな感じを、冬鳥の小さな動きに重ね合わせていると、彼女は、やはり観音様のお遣わしに為った、バルディナさんの小鳥なのであろう。

 老母の体調を観て、風呂を沸かす。中途半端な時間であるから、老母の部屋で新聞に付き合う。冬の風呂は、中々沸かないものである。何度か、湯船を掻き混ぜて待つ間に、洗濯機を回す。老母の入浴中に、机に向う。洗面所で、風呂上りの老母の裸体を目にする。老齢であるから、仕方の無い事であるが、母親の老衰振りを目の当りにすると、倅としては一瞬にして、胸の詰まる想いである。台所で昼の用意をする。

 脱線してしまうと、生来の横着振りが、顔を出してしまう。食後は、買出しを予定していたのだが、何とも言い様の無い心持に為ってしまい、その儘、転寝の昼寝をしてしまった。廊下の陽射しに漸く起き上がる。自転車で外に出ると、3時と言うのに、穏やかな日の光である。光のタイミングがずれてしまった冬の日、四畳半の住人達には、恨めしい午後の光であろう。本日も大過無く、1日が暮れて行くのであろう。

 穏やかに流れるラジオに、ニュースが一つ割り込んだ。『マタマタ、仕出かした。』中国から輸入した冷凍餃子から、農薬の成分が検出されたとの事である。被害者10人、内、子供1人重体。相も変わらずに、大国を豪語する中華人民共和国の無節操振りである。新聞では、拝金主義に奔走する中国人の特集記事が、掲載されていた。詐欺商法・マルチ商法の摘発が、相次いでいるとの事である。

 張子の大国は、北京オリンピックでの大失態を演じ切らない内は、軌道修正出来ないのだろう。

★競技中の大停電、集団水中り・食中毒、体調不良を訴え有名選手の大量棄権、競技続行に大ブーイング、引き続く不手際に競技ボイコット、砂上の楼閣一気に沈み、バブルの大黄砂が中国全土を覆い尽くす。錦旗の御旗オリンピックの頓挫に、水利奪還を旗印に農民が堰を奪い、蛇口を捻っても出ない水に、都市部の貧者が抗議の行動に出る。向う先には、事欠かない有様であろう。現代中国<国破れて、山河あり。>等と言った『憂国の心象』では済まされまい。山河を崩壊させての急成長。この無節操振りの根底には、大国中国の国臭が臭うのである。見える物は、「先に富める者から、富め」の先富論の野放し経済至上主義と外資導入優先型の「場置経済政策」に見え隠れする少数支配の垢が惹き起こしている統治観の行く末である。

 注
「場置経済政策」・・・じょうおく経済政策。小生の造語の一つ。政府は、自国の土地と労働力を提供して、外国の資本を導入して、利益を国に誘導するだけ。明治日本の官営工場→民間払い下げの形で、技術・経営ノウハウの民間企業の育成、移行を前提とした国家啓蒙意識が薄いのが実態的特長である。イメージとしては、店子への居住性サービスには、無関心で、ひたすら自身の家賃収入の多寡にばかり腐心する大家を連想されたし。借家の管理には、鼻薬を利かせる為に、絶対服従を担保に、小銭を渡し徹底的に店子から苛斂誅求(かれんちゅうきゅう・・・徹底的に搾り取る事)の実を上げる。店子と管理人との日常のゴタゴタには、一切係わらずに管理人の裁量に任せ切りの態度を押し通す。支配層、管理層、労働層の階級性を採る事で、少数征服王朝の歴史的統治手法を国是の如きに考え、その応用・伝承に胡坐を掻いている。

張子の虎・・・民意とは隔絶された非生産的支配層であるから、世情には疎い。実の処、世情への対応策には、自信が無いから、勢い難しい重厚で飾った伝統語を使用して、外観・立ち振る舞い上の『大人振り』を、相手に示す事でしか演技の仕様が無い。従って、彼等に等しく漂う容貌の類似点は、自由諸国の国民投票で勝ち上がって来た施政者群の様に、生活者としての容貌と異なって、生活者臭が皆無と言って良いほど変化の無い顔付きである。

 いかんイカン。また遣ってしまった。脱線してしまった。こんな事が、大国の官憲に嗅ぎ付けられたら、南京袋を頭から被せられて、強制重労働刑務所送りと為ってしまう。

 昨日は、親父殿のお達しが、あったのである。冷静に考えれば、老母を抱える身であった。
                       本日、これにて、休筆と致しまする。



心何処ーショート 相性

 俄か運動に、下肢の脹脛が痛い。結構な筋肉痛であるが、1日で終わってしまっては、話の種にも為らぬ。昨日に倣って、階段の上り下り運動に向う。予報では、半日の雪だるまマークであった。マイナス4度であるから、比較上、温かく感じられる。未だ雪とまでは行かない、細かな微細雪である。本日は、運動と心得て、太腿を上げて階段往復を繰り返す。息切れと体温上昇に抗して、ノルマを果たす。

 此処は、嘗ての陸上競技場・蹴球場・池のあった一角である。陸上で扱きに扱かれた場所であるから、体が扱きを覚えているのであろう。従って『何の、これしき。』の自虐行為に為ってしまう。現在の身体能力と記憶のギャプを算定に入れていないから、挙句の果ては、家の中で足を引き摺って歩く破目に陥るのである。遠州・清水港の森の石松、馬鹿は死ぬまで直らずの譬え通りである。私の場合、ドバカであるから、『遠州』が混線して、これでは『演習』である。

 演習後は、火照る身体を新聞に目を通しながら、ホット・コーヒーで癒す。『ちりとてちん』の渡瀬恒彦と和久井映見の雰囲気を楽しんで、朝飯である。運動に釣られて、腹を満たしてしまっては、虻蜂取らずの愚行であるから、意志を通すしかあるまい。毎度の反省であるが<何事も、思い立つのは0,3秒、行うのは草臥れる物>である。雪足も、しっかりして来たが気温が高いから、積雪には為らない雲行きである。先ずは、一安心である。

 心地良い虚脱感に止まって、昨夜描き始めた下手絵に、色鉛筆で地の色塗りを開始する。相変わらず、訳の分からぬ幼稚絵である。余りの幼稚さに、ブログからの盗作・無断拝借をしたい誘惑に駆られるが、小心者には、その勇気も無い処である。

 昨日の地方ニュースには、原田泰治の百万円偽作があった由。中国では、墳墓盗掘の記事が載っていた。好い物になると、千五百万円との事である。如何眺めても、自己使用にしか使い道の無い代物である。庭に自然石を重ねた偽石灯籠がある。親父が、私達幼児を並べて、言い渡した物である。内容は、「この石に毎日、立小便をしろ。」であった。前を押さえて、庭に飛び出す子供達は、母親に行儀が悪いと叱られたものである。斯様にして、同様の手口を聞く処から察して、『古色蒼然の臭過ぎる山師的技法』には、歴史があるのだろう。紙に描いた幼稚絵である。親父の薫陶に倣って毎日、我が小便を描けた処で、味が加味される訳では決して無い。紙と小便、如何にも相性が悪過ぎる。

 立派に見えた親父であるが、倅が成長すれば、やはりバカ男の同類である。あの世で、倅が肩を並べ様とすれぱ、親父は席を明けずに下を指差して、威張るに違いなかろう。
『石と水』『紙と水』、相性の道理が分からぬ奴は、昇天には早過ぎる。まだまだ、娑婆で親の面倒を見るべし。
                                 成る程、親父の言い分、一理ある。


心何処ーショート 薄日に一つ

 手が冷たいから、中身の入ったコーヒー・カップに、両手を温めて居る。昨日、ズボンのウエストのボタンが出来ずに、愕然とした。由々しき状況であるから、ゴミ出しの足で、その儘ウォーキングに向った。総合体育館の階段の上り下りに励んだ次第である。運動は気持ちの好いものであるが、家で一息付けば、冷気の虜と成ってしまう。昨夜のラジオ深夜便の明石アナウンサーの話では無いが、部屋に居るの時は、どんな格好をしていても構わないから、厚着と腰から下は、シュラフに包まっている。寒い寒い(マイナス10度C)と云っても、川の氷は、うっすらと張っている程度である。昔からすると、まだ益しなのであろう。子供の頃の川の氷は、乗れるほどに厚かったのであるから。

 便利・快適さの微温湯に浸かっていると、習慣温度と云う物は、知らず知らずの内に、人間から耐久性を削いで行くものである。この数日の冷え込みで、小草は凍みて、半分以上の緑が失われてしまった。★気を付けていたのであるが、これも自然の成り行きである。★好い機会であるから、時代の針を戻そうと考えた。

 大阪府に橋本知事が誕生した。予算改革をする方針と言う。机上の支出を積み重ねるのではなく、収入の枠内で、現場の予算を擦り合わせると言う。府の財政事情を普通の視点で捉えれば、府組織への民間収支・家計収支の真摯な適用は、当然の事で拍手の段である。

 ラジオからは、国会中継である。スマートな教科書言葉が交差している。彼等の肉声が聞こえて来ないのは、何故だろうか? 彼等の情報収集・情報源は、新聞の経済値のつまみ食いの感じがして為らない。

 昨日の女性経済担当の大臣と担当キャスターの認識には、棲む世界の違いを痛感してしまった。大企業に働く者は、全体の10%に満たない国民である。大企業を支えるのは、その10倍を超える中小零細企業に働く国民である。その圧倒的多数は、国内市場に身を置く国民なのである。可処分所得の落ち込み・低迷に窮々としている国民である。国の肉声は、庶民の暮らしの中にこそ、存在しているのである。民意に身を晒し、耳を傾けて、国の方針を誤らずに実践実行して行くのが、選良の務めであると云う。
 グローバル企業として改組出来た企業の生産性と同様な公式を用いて、国内産業の生産性の低さを以って論じている態度には、<何をか言わんや>である。消費者の可処分所得の落ち込み・低迷は、直接売上高減を引き起こす。売上高を従業員数で割り算すれば、当然生産性の低下・低迷を答えとして出すのは、小学生の算数問題である。日本国をリードする政府高官・ジャーナリズムをリードしていると自負している態度のキャスターが、この程度なら、日本国学童の成績低下の実情は、当たり前の事態である。学童の考える能力の低下を憂う前に、入手が簡易・確かな各種の経済値を金科玉条の前提とせずに、如何してこの数値があるのか??? もっともっと、技術者の観点に立って、自らの手法で事の真相に肉薄して欲しいものである。

 嘗て、土光さんが、幹部に叱咤激励した如く、目標値と現実値のギャプの真因を現場に求めた『現場第一主義としての人間の泥臭さ』を、発揮して貰いたいものである。

 下衆の勘繰りと一笑に付される暴言の類であるが、以下は、うらびれ賄い夫の物の弾みである。

 金持ち優遇税制があると云う。嘗て七割であったものが、現在四割であると云う。高負担に耐え兼ねて、大挙して国外に流出して、国内の経済活力の元を殺ぐと云われたものである。一億円×三割=三千万円である。同様に現在は六千万円で、その差三千万円である。私も、1ヶ月を海外で生活した事がある。Tに関しては、10年以上アメリカに居た男である。果たして、日本人が外国で、伸びやかに快適に生活出来るのだろうか? 人間、金銭の多寡だけで生活を、移転出来るものでは無かろう。
 大企業の社長職を考えると、仮に任期を二期六年と設定しよう。新卒で入り切磋琢磨した地歩を築いたとしよう。同期の桜が百人居たとしよう。その分母は、百人×六年=六百人である。六百人分の一の確率であるが、彼等の能力の違いは、果たしてそれだけの違いがあるだろうか、亦は、社長・幹部に為れなかった者達の心情には、身分・地位・報酬に於いて、現実のギャップ程の乖離を納得している同期の桜が、一体何人いるだろうか。疑問である。

 お足は、天下の回り物、人の立身出世は、天・地・人・時からの賜り物などと説く書物も、昔の日本には、確かに有ったものである。手にした才能・地位を個人的にして専属的ものと観るか、否かである。賜り物と観れば、個人的・専属的部分は、小さくなる。残余の部分に関しては、配分・分配の考え・気持ちが生まれて来ようと云うものである。若い血気盛んな頃、『○と×と血の論理、同心円の論理』などと云う私説を、振り翳し展開していた事を、ふと思い出した次第である。

 ヤカンが寿命との事である。午後の散歩も予定していたから、思い切って徒歩で行く事にした。帰って、もう少し距離が欲しかったので、防寒靴に履き替えて雪の上を歩く事にした。横着者であるから、少ない運動、為らば身体に負荷を掛けて、歩いた方が宜しかろう。


心何処ーショート 美形は、男の良薬

 ひょんな事からブログで、カトリーヌ・スパークのページに至った。「太陽の下の18才」は、フランス映画であった。1945年生まれとの事である。フランスでは、歌手としても名高いらしい。付属の画面には、彼女の曲が数曲入っていた。その中に、ステージのマイクの前で、現在に近い姿で歌っている一曲があった。記憶には白いパンタロン姿で踊る彼女の肢体が、鮮明に焼き付いている次第である。面影を追って、地味なツーピース姿で、ハニカミ勝ちに歌う中年女性に、「太陽の下の18才」を重ね合わせる。名門の血を引くと云う。スターらしからぬ「地に足が着いている品のある女性らしさ」が、漂っている人である。40年近い時の流れであるが、カメラにハニカミの笑み、仕種を見せるご婦人のお人柄は、年齢を超越して好ましい限りである。
 
 彼女の白黒の写真を見ていると、何処と無く目元の辺りが、フランスの大女優ジャンヌ・モローに似ている。ズーと前に書いた事であるが、彼女の顔付きも、やはり役者顔・スター顔の譜系の中にある。ブログ上のスパークの出演作を見ていると、ズーと活躍をされている。そんな事から、彼女のフランスでの地位・知名度は、息の長い支持を受けているのであろう。前回触れたハリウッド女優のスザンヌ・プレシェットの不遇振り異なって、好かったと拍手を送る次第である。

 日本ではハリウッド映画と比べると、フランス映画は、上映本数が圧倒的に少なかった。
 ジャン・ギャバン、モーリス・ロネ、アラン・ドロン、リノ・バンチュラ、ジャン・ポール・ベルモント、ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーブと云った処が、フランス映画のお馴染みのスター達であった。従って、年齢の近かったスパーク嬢とは、疎遠に為ってしまっても、致し方の無い不運なのであろう。

 こんな事を打っていると、携帯が鳴った。 Tからである。T関連のショートをプレゼントする為に、ピック・アップして印刷に掛ける。下手絵も挿入してクリップで留める。そうこうしている間に、クラクションが鳴ってTの車が停まった。ショートを渡して、その間に着替えをする。

「たまには、<イラシャイマセの店>に行くか?」と、気を遣ってくれる友である。
「おう、そうだな。行こう行こう!!」会社を辞めて以来、初めてである。何やら自分でも、自分の頬の筋肉が弛んで居るのを、自覚してしまう。愛想を崩している私をTは、黙った儘ニヤニヤして見ている。
         店のドアを開けると、中国美形さん
「ワァ、久し振り。好く来てくれました。お元気でした? 心配してました。」
手放しの歓待振りを、お見せに為って下さる。
「おうおぅ、姐チャン、凄い喜び様じぁないか。たまには、顔出さなくちゃな。」
とTは、半分呆れ顔であるが、美形に満面の笑顔で接しられて、悪い気になる男は、この世に存在しないのである。ブルーのジーンズに、薄鼠色のセーターと同色のカーディガン。長身痩躯・長い黒髪を束ねただけの素顔美形は、化粧は無くても、笑顔だけで充分の女性である。

        友の気遣いに、食事代を出すのは、友への感謝である。

心何処ーショート 寒の1日

 凄い寒さである。部屋の水にも、うっすらと氷が張っている。西のアルプスの常念岳が、茜色に染まっている。激寒の信州の朝色である。老母の動きは無い。部屋を覗く。静かな寝顔である。動きが無い。声を掛ける。か細い返事があった。ほっと、一安心である。動くに値しない寒さである。

 四畳半を温めるが、中々温まらない。太陽が部屋に手を伸ばして来るが、未だ暖まらない。机に新聞を広げて目を通すが、ご近所さんの動きも、流石に見えない。陽射しに元気なのは、魚達だけである。ラジオは土曜日であるから、女性お二方のお喋りトークである。こんな時は、身近なお喋りに耳を貸している方が、ほっとする。本日は光の所為か、赤・朱の連中が映えている。

 こんな時は、温泉に浸かるに限る。行けば、『同考の志』が、集うものである。
寒い寒いとボヤいていても、仕方が無い。さすれば、火に纏わる小話一席で、暫しお寛ぎを

                 マッチ1本、火事の元
 外遊びが寒くなったある雨の時、何やら畳の下から煙が、立ち昇って来たと云う。昔の家は、掘りごたつであったから、床下のタッパは充分に有った。コタツの部分の床が、切り取ってあった。火の気の無い床下であるから、不気味・不審に思って、母親が上の子に調べる様に言った。少年の過去は、ジャリン子である。思い当たる節があって、2人の兄は、1人は勝手知ったる別の部屋の畳を揚げて、忍び込んだ。頃合を見計らって、上の1人は、気付かれずに、母親の前で仕切りの小畳を揚げて、掘りごたつの器に手を掛ける。気合を込めて、一気に引き上げた。
突然に、頭上の一角が、すっぽり抜けて、三角の目が襲い掛かって来た。
「ウギァッ」
「コラッ、手前ら、何、遣ってやがる!! バカヤロウ」
「コラ~、テメェ~ら、逃がさねぇぞ。観念しろ!!」 
退路を絶たれて、末弟を先頭に、近所のジャリン子共、哀れや、次から次へと襟首を捉まれて、正座させられる。善悪乏しき幼児連に、正義の体罰が全盛時代である。端から往復ピンタのお仕置きである。絶対安心の暖かい秘密の遊びも、敢え無く御用の罪と罰であった。

               マッチ1本、退学の元
 予算の少ない県立高校である。授業中、何やらきな臭い。それに学ランの背中が熱い。振り向くと、自分と同性の男が、あろう事か!! 机上で、焚き火をしている。
「バカヤロウ、何やっとんじゃい。」「寒いだろ。」同意を促す目付きである。
思わず、鉄拳を頭にお見舞いしたものの、背筋がゾーとした。彼は、大学教授の倅であったが、挙動不審が散見される変わり者のレッテルが貼られていた。騒然とした教室に、彼は教師に連れられ退室した。謹慎後は、益々おかしくなった。その後、姿を見せなくなった。

               ライター点火、トホホの元
 大学の冬枯れのキャンパスで、学友と日向ぼっこをしている内に、悪戯心が湧いて来た。乾燥した芝生に、ライターの火を付けた。遊んでいる内に、大事に為ってしまった。黒々とした芝生の広がりに、ネクタイをした職員に強い口調で窘められた。内心、赤面の至りであるが、衆目の手前、引っ込みが付かないので、詭弁を弄した。
「俺の田舎では、野辺焼きと言って、日本の伝統農法・冬の風物詩ですよ。虫の駆除と春の芽吹きを確かな物にする農作業の一環です。お宅、都会人でしょ。芝生の緑は、只じゃ叶えられんですよ。手入れが必要です。」・・・・苦しい言い訳であった。

                八つ当たり、消防を呼ぶ
 待ちに待った、釣シーズンである。小学生の倅を連れて、ヤマメ釣である。冬枯れの葦が邪魔で、釣果が伸びない。竿を収めて、何時ものように、川原で火を焚く。油断した隙に、春の突風に煽られて、紅蓮の炎が舞い上がってしまった。火の用心・警戒中の消防車が、止まってしまった。最悪の事態である。
「お父さん、大丈夫ですか。」
「ああ、ご苦労様、ええ、取水口の周りだけ焼こうとしたら、大事に成りました。粗方、燃えちまいました。もう、類焼の心配は無いですから。」
「そうですね。最後まで居てくれますね。」
「はい、火を付けた者の責任です。ちゃんと始末して行きますから。」
親父と倅は、土手の消防士に敬礼で応える。
「お父さん、ウソが上手だね。」倅が、目を輝かせて言った。
「ウ~ン、」
    ・・・・ 如何答えるべきか? 未成熟を自覚の、一人の父親として・・・

心何処ーショート 洋楽オンパレード

 パソコンを開いて、何を打とうかと思っていると、CDディスクが開いた。この何日か調子が悪く、自然と口を開けるディスクである。好い方に捉えれば、殆ど使用しない事への催促であろう。気の弱い管理人であるから、内藤やす子のCDを入れて遣る。彼女の声も味があるから、気に入っている歌手の一人である。

 他人は、私が歌を聴いていると不思議がる。そんな反応をされると、些か不愉快に成る。厳つい外観かも知れぬが、私とて人非人の類ではない。感性・知性・痴性とも平均点以上と自負しているのであるが・・・ 一向に伝わらないのが、不徳の極みである。

 歌を聴き始めてしまうと、自分が歌えない分、聴き入ってしまう。音感・声・容姿に恵まれた者は、天の思し召し故に、共有の財産である。続いて、トム・ジョーンズを挿入する。彼の歌では『ディライラ』が、お気に入り中のお気に入りである。エルビス・プレスリーと並び称される歌手である。プレスリーも好きであるが、彼の魅力は、プレスリーの美声には無い男性フェロモンが、プンプン発散される雰囲気を持った処であろうか。文句無しで、ご両人共に、スーパー・スターである。

 嗚呼、こりぁ、駄目だ。聴いていると、トム・ジョーンズの後は、ビデオで、プレスリーの『ポーク・サラダ・エニー』を見たくなってしまう。本日は、今シーズン最高の冷え込みであるから、狭い四畳半は暖房がガンガンである。良天であるから、陽射しにも恵まれている。部屋の暖房に陽射し、ビートのリズムに、四畳半の住人達の動きも、実に活発である。

 トムの歌は、ご存知大ヒット曲『オゥ、プリティー・ウーマン』の登場である。イカンイカン、釣られて椅子の上で腰振りダンスである。曲は進み、スローバラードの名曲『BRIDGE OVER TROUBLED WATER』に続く。この曲は、プレスリーの愛曲でもあるから、ファンとして彼等の個性を味合うには、好対象である。これに関しては、私はプレスリーの美声の方が、しっくりする。17曲目『YOU‘VE LOST THAT LOVIN FEELING』は、互角である。聞き惚れている間に、早、昼の時刻である。

 トムを聴いてプレスリーを聴かないでは、ファンとして申し訳が立たない。<ベスト・オブ・ベスト、エルビス・プレスリー>のDVDの挿入と相成ってしまった。美形に取り囲まれて、黒い皮ジャンに身を包んだ若き日のプレスリーが、身体をくねらせて歌い捲る。曲は進んで『ラブミー・テンダー』である。同名の西部劇の挿入歌である。出演した映画の中で、プレスリーのお気に入り一作であったと云う。プレスリーの映画進出初期の白黒映画で、彼は兄嫁に心を寄せる青年の役所であった。小さなステージを取り囲んだ美女集団が、うっとりと聞き惚れている。
    老骨の身であっても、「然も、ありなん」のステージ風景である。

 開かずの四畳半・・・ 時ならぬ洋楽のオンパレードに、さぞかし老母も、吃驚の心底であろう。<馬鹿倅、とうとう閉じ篭り生活に、精神に変調を来たしたか?>などと、気を揉んでいるやも知れない。大幅な遅れである。
         
         さてさて、重い腰を上げて、賄い夫サービスをしなければ為るまい。

心何処ーショート 童心への回帰

 風の幸いで木々の雪帽子が、大分払われている。太陽のお出まし前であるから、冷凍風に身が凍る思いである。こんな日は、現役世代には申し訳ないが、じっとして中から日の光を愛でるだけである。我が四畳半は、10時を回って、漸く陽射しの入りである。生憎、空の南北は、「南に雲多し」の様相を呈している。出入りを繰り返すお天等様であるが、本日の飛び切りの美形は、金魚の丹頂である。光を浴びて、頭部の紅と白鱗のコントラストが膨張し、透き通るレースのスカート鰭の動きが、実に優雅である。
 
 雪の屋根に当たる陽射しは、白く輝いているが、窓打つ風の音と生垣の震えは、やはり敬遠の眺めであろうか・・・ 昼には、素通りする太陽である。気分が萎えなければ、新鮮な空気を吸いに、外に出掛けるとしよう。ザクザクとした新雪を踏みしめる、あの感覚は歳を取っても、味合いたい「童心への回帰」である。

 昨年の初頭、勤め帰りのラジオで<地球温暖化の水飢饉>として、頭にインプットして置いた事があった。2025年に、それが顕在化するとの事であった。押さえて置かなければ為らない趣旨であった。学校時代から、水と文明、歴史の分野は、好きな対象であった。

 そんな訳で、水に関する報道には、関心を置いていた。ずーと待ち構えていた関心事であったが、意にならぬのが、人の世の常である。洞爺湖サミットを念頭にか? 新聞に世界の水事情の特集記事(政治的キャンペーン?)である。漸くの登場の思いである。マスメディアの商業的・政治的迎合態度には、所詮、〇〇〇也と嘲笑の苦笑いすら浮かぶのであるが、加速している深刻な実態を、広く知って貰うには好機であろう。

 私見を言わせて貰えば、近い将来、『水の輸出・加工』が、原油同様の『戦略的資源』にもなり得る事態なのである。資金・資本の輸出・加工が、グローバル市場を誕生させ、マネーの信用加工が不動産の証券化を生み、マネーが、現物の経済実態から分離独立して一人歩きをした挙句、サブプライム問題に象徴されるバブルを作ってしまった。世界史と云う巨視観から眺めれば、人間の歴史は、根本は変わらずに、衣装だけが変わるだけの『堂々巡りの連鎖』である。遠い古の昔には、『バベルの塔』を造った文明は、21C初頭『バブルの塔乱立』を繰り返している。

 水の惑星に誕生した生物の中の一亜種が、何千年にも亘って蓄積して来た遺産を、たった一代の放蕩息子が、現在の技術を自分の能力と自惚れ、挙句の果ては、錯覚して、贅沢三昧のデタラメ・コーナーに走っている。
★面倒であるから、説明仔細は割愛する。イメージ語・・・南北問題、富の一極化、投機産業の隆盛、一過性芸能番組の氾濫、所得の二極化、ワーキング・プア、年金制度の崩壊、・・・etc
遅かれ早かれ、水に開花した文明は、水の枯渇に依って、『因果応報の理』に沈むのだろうか? 

    一陣の風に、雪粉が輝き、流れる。
            遺憾・行かん・逝かん・イカン・いかん。
 
 小生、日陰に身を置く、うらびれ賄い夫である。時代を間違えて、この世に生を受けてしまった。我が心情を、ikanと打ったまでは好かった物の、どの語も以って可とすべきか・・・
逡巡している次第である。諸氏諸兄、ご教受願いたい。

                  午後の散歩
 老母の居室で「温もり」に没しない内に、散歩に出掛ける。風は、身体に刺し込むが、快晴である。一面、白銀の眩しい世界である。晴れ渡った盆地の山壁の頂には、遠く雪煙が見える。足跡を避けて雪の平を、川の流れに沿って進む。流れを貯めた水面に、マガモの番、コガモの小さな群れが、見える。時折、雪を巻き上げて、風が川原を渡って行く。大寒、小寒(おおさむ、こさむ)、思わず首を竦め、風を背中で遮る。雪の川原に、青の羽が動く。翡翠(カワセミ)である。行方を見定めて、双眼鏡を当てる。居ない。辺りの動きを探す。居た!!
逆光である。翡翠を追って何度か試すが、ヒスイを纏った翡翠を捉える事は、出来なかった。

 何時も溜息交じりで拝見させて頂いている、<野外手帳><網走発><MEMORISE>・・・諸氏の奮闘努力振りには、脱帽・敬礼の感と昨品への感謝の気持ちである。



心何処ーショート 至福の時、運動細胞
男、至福の一時(1/22)
 ラジオからは、昨日に続き国会中継が流れている。名調子、肩透かし、棒読みの数々が聞こえて来る。聞き流しであるから、オルゴールの螺子を巻いて、短いメロディを聞いたり、手元の漫画を読んだりであるから、聴く態度としては宜しくない。甚だしく不謹慎な感想であるが、私は、『大人の朗読会』の様な雰囲気に、身を置いているのである。こんな不謹慎な感想の裏には、選良諸氏が、見た目の年齢が近いだけから来る敷居の低さなのであろう。人間とは可笑しな物で、対象が同世代・下の世代だと、必要以上の近さを錯覚してしまう傾向がある。
国会は選良を自負して、議員諸氏が所属党を代表して、国策に参画・寄与・糺す質問・答弁の場であり、議員先生の晴れ舞台である。ある意味では、先生方は朗読のプロなのかも知れない。野党の質問朗読者には、書き手と読み手が、限り無く同一人に近い事から、その性格・人柄が伝わって来る感じがある。ややもすると其処には、手作りの味さえ漂う。     

  そんな諸々で、何故か? 学校の授業を聞いている雰囲気なのである。
  そうだ。いいぞ。どうした。頑張れ。拍手と、密室での私の反応も様々である。

 政治記者・評論家を職業としている訳ではないから、至って気が楽なのである。学校の授業と同じく、聞いてさえいれば、何らかの物が記憶される。記憶された断片の幾つかは、頭の片隅であっても、何時かは役に立つ事もある。野次や怒号は時に混じるが、芸能バラエティー物よりも、私には、遥かに居所を確保する事が出来る。

 風呂に行きたいのであるが、週に何回かは、老母の為に風呂を沸かさなければ為らない。几帳面な母であるから、一番風呂は子供の頃から男の役目である。風呂に入ると、昼寝がしたくなるのが、人情である。目覚めれば、早、夜の帳である。冬の炊事は、億劫この上も無い。面倒であるから、手抜きをする。削り節を二掴みしてフライパンで炒めた後、味噌をぶち込み砂糖・唐辛子・ラー油を加えて、炒める。焼き魚にタクアン漬けで終わりである。

 火曜はNHKの歌謡番組である。名曲<北国行きで>を、若い演歌歌手が、着物姿で歌い始めた。この曲は、アメリカ帰りのハスキー・ボイス掛かった朱理エイコが、声量豊かに、バタ臭く歌って、大ヒットした曲である。この曲には、団塊世代の漸く見えて来た理想国アメリカへの哀歌が漂っている。若い演歌歌手には、可愛そうであるが、名曲とは、作詞・作曲・歌手の三位一体が叶った処に、光を放つ物なのである。部屋で朱理エイコのCDを聴く事と成った。パンチの効いた全7曲をバックに、ロシア美形お三方の写真を見比べながら、熱々のホット・コーヒーを啜る。

     高揚する気分に、美形達が微笑み、語り掛けて来る心地である。
         これも、男の財産、至福の一時 の内である。

運動細胞(1/23)
 雪の予報であった。「伺う。」といった以上、行かねば為らない。粒の小さな雪らしき物が、降っている。布団の中で悔やむばかりである。明日行くなどと言わずに、昨日行って置けば良かった。正に後の後悔、先に立たずである。
昼過ぎに成れば、消えるだろうか・・・ 電話を掛けて、延期しようか・・・否、口実を付ければ、億劫虫に捉まるだけ。億劫虫退治は、機械的に約束のレールに乗っかるのが、一番である。

 背を縮込ませて、廊下から、完全に雪となった庭を見遣りながら、
雪だといっても、凍死する訳でもあるまい。バス・電車で行こうかとも考えたが、面倒であるから、自転車で行く事にする。傘が不要な分、面倒が無いが、目に入る雪が邪魔である。慣れて来ると圧雪部分を避けて、処女雪を扱いだ方が自転車は安定する。雪掻きの姿が見られる。車は皆、安全走行である。閑散とした脇道を選んで、黙々と運動のお時間である。

 用事を済ませて、いざ帰路である。外は、本格的な降りである。あれよあれよと云う間に、積雪量は増して行く。何事も諦めが肝心、幸い、小さい頃より、往生際だけは良い方である。ボッチラ、ボッチラとペダルを扱ぐ。

    降り頻る雪に沈む神社、川の佇まい、
         雪帽子を頂いて立ち尽くす木々も、決して悪くは無い。

 急かず休まず。汗の後遺症を、算定に入れたペダル扱ぎである。胸突き八丁は、自転車を引いての体温調整である。出たついでに、食堂に寄ろうと考えるが、待つ老母を思えば、それも儘成らぬ。買い物を済ませて、最後の一踏ん張りである。積雪量は、15cmを越えただろうか。

 フーフー、ポカポカの発汗雪中自転車であったが、決意の貯め置きの運動量を稼いだのである。<目出度し、目出度し>の感であったが、下半身・膝がガクガク笑っている次第である。

 本日、最初の四畳半定位置であるが、眠らされていた運動細胞が、冬眠から覚めてしまった様である。昨夜は夢にヒントを貰って、ブログとは別仕立ての物を打とうと、考えていたのであるが、頭に回るべき血液が、途中で枝分かれした運動細胞に、次から次へと吸収されている様子である。

 仕方なく、お湯割りウィスキーと懇ろに成っていると、早、下校の高校生達が、滑る自転車にワイワイガヤガヤのお通りである。『已む無し』である。小生、何しろ、往生際だけが取り得の賄い夫である。降り積もる雪に、無理は禁物である。早々に、ブログ日記を打ち上げて、怠惰の休憩に移行すべしである。


心何処ーショート 東の国より合掌

 新聞の片隅に、ハリウッド女優スザンヌ・プレシェットの小さな訃報記事があった。享年70という。魅力的な美貌の女優さんが、また一人旅立たれた。彼女を見たのは、高校の時だった。『遠いラッパ』と云う西部劇だった。トロイ・ドナヒューとの競演だった。2人とも若かった。どちらも20代だった感じであった。大スターが活躍する映画量産期に、若手美男美女による西部劇は、新鮮な輝きがあった。映画中のインディアンとの銃撃戦で、迎え撃つドナヒューの拳銃が、★下を向いて発射されていたシーンが、今でも目に焼き付いている。彼女の美貌振りが目に焼き付いて、何度夢の中で鑑賞した事か・・・ 彼女の映画を待ち焦がれて、次に観たのは、スティーブ・マックウィーンの『ネバダ・スミス』であった。それから、アルフレッド・ヒッチコックの『鳥』であった。

★下向き発射には、粗製濫造の行け行けドンドンの時代的大らかさが、覗いていて、それも一つ面白かった。題名は記憶に薄いが、イタリア映画で『太陽の下の18歳』のカトリーヌ・スパーク嬢の溌剌とした肢体が、その当時の時代のウェーブとして、色濃く焼き付いている。

 私の映画好きは、厳密には映画好きなのでは無かろう。何故ならば、スター達の前に、映画ストーリーは二の次であった。私はただ、気に入った男優・女優見たさに、映画を観ていると言った方が、的を得ているのである。彼女の出演作品は、意外な程少ない。彼女ほどの魅力的な女優さんが、起用されていない映画界に、私は不満であった。(世の男達は、美的センスが乏しい。)

 多分、小柄の代表格のマックウィーンとの釣り合いから、彼女も小柄だったのは、確かである。ハリウッド映画は、大・中・小とサイズも彩りも豊富な一大産業である。映画が作り出す世界は、バランスの世界でもある。小サイズ・スターは、小サイズ・スター同士で、映画が作れるほどに充実していた。然し、大・中・小の区分けの中にあって、小の世界の相手役としての女優には、活躍する場が、想像以上に少なかったのだろう。融通性が狭い『小』の世界で名を残すには、出演作を稼ぐ必要がある。その為には、彼女が小サイズ女優のスターになって、相手役を従えなければ為らない。美貌と雖も、彼女の前には、子役スターからキャリアを重ねた『世紀の美女』と形容された<大スター・エリザベス・ティラー>が鎮座おわしたのである。

 彼女の最大の不幸は、体格も顔の造りも、2人は似ていた事である。そんな事で、スザンヌ・プレシェットは、不運な女優さんの一人であった。従って、私の所蔵作品は『ネバダ・スミス』『鳥』の二作のみである。 ・・・・これは、私の不幸である。
然し、私の美形ランキングでは、プレシェットはティラーよりも上位である。そして、彼女の美貌の譜系は、ウクライナのライオン娘に及んでいるのである。<虎死んで、毛皮を残す。>では無いが、『美貌逝って、美形のイメージ伝える。』である。

  変わらぬファンの一人として、
       美貌の人スザンヌ・プレシェットに、東の国より合掌であります。

心何処ーショート 雪に猫声

 外は鉛色の空、薄っすら雪化粧である。こんな時は、ラジオを耳に、水槽を眺めるだけである。

 赤尾のグッピィの腹部は、プックリ膨らんで黒い。彼女は、出産間近なのであろう。一期生の雌の腹部も、立派な大人の物である。この儘、推移すれば、手狭且つ血の濃くなるばかりのグッピィ槽である。春を待って、模様替えをしなければ為らないだろう。

 椅子の背もたれに身を預けて、金魚槽を見遣れば、黒出目金の影が一段と大きい。黒出目金の項には、黒のフィルターで視力が弱く、餌食いが悪い為に成長が遅いと書かれていた。対で買って来た赤出目金とは、今や二周りほどの差を付ける成長振りである。グッピイにも、体格の劣るものが居る。斯様に遺伝子の現れ様ばかりは、飼って見ないと確かめられない物である。
 小草は、室温の寒暖波状攻撃に晒されて、モヤシの様に、脆弱な緑を伸ばしている。それでも、小紫の花弁を失わぬ処が、実に健気である。轍の道路は、雪が溶けて、黒いアスファルトを現わしたが、鉛色の寒気に雪は、色を維持した儘である。

  庭から、異様な声がしている。聞き耳を立てると、何と、猫の盛り声である。
       <もう、その季節を迎えているのだろうか?>
 我が家の庭には、彼等の爪とぎに供される木があり、交尾場所もある。そして、出産場所と成る廊下の床下がある。山吹・コメ柳・南天の茂みに身を伏せて待ち構えていれば、小鳥の生肉にも有り付ける。猫にとっては、完全なる生活圏なのである。

最盛期の彼等の盛り声は、昼夜を問わず、執拗である。年に何度かは、廊下の戸を開けて、
「ウルサイ!! バカヤロウ、静かにしろ!!」と怒鳴ってしまう事がある。

      時季早尚らしく、胡散臭い泣き声は、立ち消えてしまった。
 視点を変えれば、猫族にとっては、止むに止むざる処の内から湧き上がる本能のラブ・コールである。それは、何とも形容のし難い、高低取り混ぜた、実にエゲツ無い長唸りである。人間の耳には、気障りにして交尾一辺倒のあからさまなるハシタナイ声にしか聞こえない。人間にしたら、気持ちは分かるがハシタナイの象徴であるから、声を潜めろと窘めるべき範疇と為る。然し、一年中TPOの限度さえ守れば、『秘め事』として自由が許される人間族と違って、時季と云う枠内で、正々堂々と子孫繁栄の『神事』を挙行するのが、動物界である。
人間界の常識は、動物界の非常識でしかないのである。動物界からすれば、生命誕生の契機としての『神事』に、全身全霊を以って開花させるのが、<動物の晴れ舞台>であろう。集団・過密生活の為に、教育と云う名の家畜化が進んでしまった人間には、晴れ舞台は、何時の間にか『秘め事』に矮小化されたのである。常識と非常識の交差する糸を、辿ると理屈の筋は通る。

           次なる考察に進む前に、1本付ける。
 静かになると、何故か笑いが、込み上げて来る。昨日・昨昨日は、全国共通試験であった由。昨日は、大事な英語のヒアリングがあったとの事である。ヒアリングは1日遅れであるが、暇人であるから、あの盛り声を人間語に翻訳したら、一体どうなるのだろう? 俗に云われる『猫なで声』とは、まるで異なるのであるから、挑戦するに値する。

「愛ちゃん可愛いね。コッチヘいらっしゃい。とても、好いコト気持ち好いコト教えてあげる。」
これは、周囲を意識した<下心のある雄人間の猫なで声>の1パターンである。勿論、盛りのついた猫族の雄には、そんな意識・気兼ねは無かろう。従って、完全な翻訳ミスである。

    内実は、もっともっと、直接的なラブ・コールに違いない筈である。
 そう為れば、年に何回かの繁殖行為に、『直結する、せっぱ詰まった』熱いラブ・コールで無ければ為らない。繁殖期の狂おしい時間帯と言え、其処には、きっと『猫族の仕来り』があるに相違ない。犬畜生のレッテルを貼られたと雖も、雄の交尾一辺倒の要求だけでは、雌の気位の壁は破れそうも無かろう。兎角『神事』には、儀式が付き物である。雑駁な分析をすれば、そこには、競争原理が働く<雄の名乗り行為>と<雌の迎合・合意行為>が交わされている格好になる筈である。万葉の時代には、男女の問い歌・返し歌の風習があった由である。泣き交わす様な盛り声の一節、一節には、人間には解読出来ない「古から伝わるメロディと踏襲せねば為らない誘い文句・殺し文句・同意文句」の類が、込められているのかも知れぬ。

 嗅覚・聴覚・テレパシイーの鋭敏さを、遠の昔に失くしてしまった人間に、本来雄雌に備わった赤裸々なホルモン・フェロモンの応酬の様を、実況放送さながらに翻訳するのは、難関の沙汰である。生殖臭フェロモンをプンプン掻き混ぜて、身震いする様な誘い声・生殖ホルモンを刺激し合ったて、ヴァギナをも疼かせる雌猫悩殺声、垂らし文句とは、一体如何なる物なのか?
決して嘲笑して見過ごす事の出来ない難題である。・・・ゾクゾクと、興味の湧く世界である。

 幾つか思い付く言葉を声に出して見るが、本質と迫力・魅力には、遠く及びそうも無い。
在り来たりの隠語を駆使するも、全く以って、我が乏しき語彙の中身である。

 
★行き掛かり上、あらぬ方向を向いてしまった本日分であるが、マグロ屋さん、ザーメン屋さんのブログ・コメントは、不要の事であります。一読後は、速やかにお引取り願いたい。



心何処ーショート これ、すべからず自己満足

 日曜日は、テレビを主体としているから、気分が乗らない。机に向っていると、腹が冷える。寒いからと言って、安易に蒲団読書をしてしまうと、何時の間にか寝てしまっている。怠惰に感けて昼寝が過ぎると、夜が困る。こんな時は、下手絵を描いて時間潰しをするのが、得策である。何を描こうかと、弛緩し切った頭で、思案する。冬季は、風呂が出て来る場面が多いから、それを挿絵の一つとして、描いて置こうと考えた。及第点に達すれば、何かと役に立つ。

 絵は苦手である。頭の中にあるものを、描くには違いないのであるが、文字に表す様には進まない。下絵の鉛筆は、もどかしいばかりの線を重ねるばかりである。子供の頃、漫画を真似ていれば良かった等と、今なら、悔やまれるのであるが、その時は、興味が無かったのであるから、仕方の無い事である。そもそも、こんな時間が、自分の中に登場しようとは思わなかったのである。『何事も悔やむより、慣れろ。』である。土台、備わっていない物に手を染めるのであるから、無い無い強請りをしても、最初から『物の限度』が待ち構えている。如何足掻いても、結果がたどたどしいのは、当たり前の事である。

 仕事にしろ、趣味にしろ、途中で投げ出さぬ限り、其処には自分が映る。自分の拙い文作の合間に、これまた輪を掛けた下手絵が加わって、心象風景と云う自分の世界・足跡が印される。バカチョン・カメラで、シャッターを押し続けたスナップ写真の数々も、アルバム帳に重ねられれば、記録・資料の一つに為ろう。・・・そう言い聞かせて、消しゴムを動かす。

 下手絵で唯一楽しいのが、色付けのお時間である。絵筆を取っていると、ドアにノックである。
「今日も寒いから、これでも食べて風邪を引かない様に。」杖をついた老母が、蒸かし立てのサツマ芋を2本皿に乗せて来た。1本の芋の上には、塩が載っていた。
「アッチャチャ。」老母の折角の気遣いである。熱々の芋を口に咥えながら、色を塗って行く。

 1枚の白い紙が、色で埋まる。勿論、コメントに該当しない絵であるが、開き直れば、これも1枚の絵には相違無い。字数の多い頁の合間に、1枚の下手絵が挿入されると、立派な『目晦まし作用』をしてくれるものである。入浴客の顔に、眉・目・鼻・口を鉛筆で引く。おやおや、この顔はK君の顔に、何処と無く似ている。彼の10年後の趣がある。適当その物の顔入れであったのに、結果は、時として面白い『不測の現象』を見せてくれる物である。風呂屋には、宣伝に為らぬと、苦情が出そうであるが、小・中学生の教室・廊下に貼り出される学級絵に、紛れ込ませて置けば、違和感の無い仕上がりである。

 趣味の要諦は、分を弁えて楽しむ事である。人の世は、すべからず自己満足の内にある。
                                           ・・・・エッヘン。


心何処ーショート 国連刑務所

     さてさて、これ以上は、先延ばしの出来ない洗濯タイムである。

 案の定、寒気に吊るした洗濯物は、凍った。今週は、日増しに寒気が、加算されて行く感じである。午後の炬燵に転寝は、風邪の元であるから、休憩の昼寝は、布団に潜る事に変えた。寒さに億劫さが便乗して、冷蔵庫の物は、粗方使ってしまった。背に腹は、替えられぬ。重い腰を上げる。

 買出しついでに、風呂に行く。銭湯の戸を開けると、顔馴染の爺さんが脱いでいる。早速、浸かって、背中を洗おうとすると、爺さんが遣って来て、背中を洗ってくれた。背中を並べて、鬚を剃る。餓鬼時代の話に振って上げると、愛想を崩して次から次と、話を継いでくれる。爺さん、朝は4時に目が覚めて、就寝は18時だと言う。冬の4時では、どうしようもないから、じっと我慢の寝床の中であるとぼやく。

 私としては、
「アタボウよ。常識ボケしてるんだから、未明から世界の貴重な石油、1人で炊いたら、この ご時世、非常識・非国民・非地球人で、国連刑務所送りだぜ。尤も、非常識を自覚して、倅 の亀同様に、首を竦めて布団の中とは、好い心掛けだわサ。」
「そりぁ、ダンナ、老いては、子に従えって言うずら、ガハハハ。それによぉ、塀の外と中じ  ぁ、背中も流せねぇずらょ。」
「爺さん、子じゃなくて、此処だろうが。子と此処の違いは何だか、分かるかい?」
「ダンナ、そりぁ、子は一匹で、此処は、二匹ずらよ。オタマジャクシの数が、倍ずらよ。一匹 じぁ、幾ら握ってたって、手は温まらねぇ。昔ぁ、鳴らしたもんだけどよぉ。マンズ、歳は取り たかねぇよ。見とくれや、情け無ぇ。昔ぁ、負けねぇ位、青年だったのによぉ。」
「ヤイヤイ、参ったねぇ。俺ぁ、そんな未来物は、見たかねぇょ。」

 80を超えたと言う爺さん、正に意気軒昂である。黙って湯船に浸かり、ひたすら体の垢を落としていれば、素通りの黄昏人である。呆け口に、言葉に下種の色を盛り込めば、自然と綻ぶ口元である。

   「ダンナ、今日は寒いから、よーく温ったまって行きましょ。」
   「背中、有難う御座いました。お先に失礼。」

 銭湯を出る私に、ご老人は、満面の笑みで手を振って下さる。

心何処ーショート 束の間の太陽

 イヤハヤ、本当に寒い。昨夜は、痩せ我慢を解除して、湯たんぽを入れる。昼食後は、毛糸の帽子に耳宛をして、散歩に繰り出した。早足で歩くのであるが、発熱する前に、体温が奪われて行く。鼻水も出て来る始末である。明日はマスクをして、散歩をし直せば済む事である。詰まらぬ事で、風邪を背負い込んで、体調を崩す事もあるまい。早々に切り上げて、暖を取る。

 午後は面白い再放送が無いから、張り合いが無い。カーテン越しに、小鳥の影が動く。尾の振り方からすると、バルディナさんの様である。雪が積もらなくて、良かった。彼女、元気なシルエットを束の間見せただけで、飛び去った。替わりに雑木の小枝に、遣って来たのは雀達である。可笑しなもので、ぐ~と冷え込んで来ると、雀達は、群がる習性がある様だ。鉛色の空に寒気到来では、雀だって、羽毛を膨らませ合った仲間が欲しいのである。一匹だけだったら、それだけで、寒気は痛く辛くなるのだろう。

 翌朝、アジャジャ、迂闊なり!! 本日、資源物回収日であった。とことん回収日とは、相性が悪いのだろう。ブルブルの外気であるが、太陽に恵まれそうな空である。陽射しを待って、部屋に招き入れる。陽射しのお出ましは、華やぐと迄は行かないものの、この時期、ほっとする賜物である。光の中で、色が仄かに膨らむ。光に誘われて、住人達が動き回る。熱いコーヒーを口に、新聞の字面に目を通す。独り身であるから、この頃は、誰も居ない事を幸いに、執筆記者に悪態・罵詈雑言を吐きながら、目を通す事にしている。

              以下は、本のひとコマである。

★ バカヤロウ、クローン牛肉が、駄目だったら、接木果物・野菜は如何なんだ。戯言も、大概(テーゲー)にしやがれ。伝統技・接木だって、立派なクローンじゃないか。コッチャ、品種改良に、接木に温室栽培モンを毎日・何十年も喰わされているんだ。ソレジャ、何かい? 俺達は皆、異常・奇形人間か? 
                 
                 <オッサン、ご明察!!> 

 ナヌ~、その証左は、家族殺人・通り掛かり殺人、口先人間、ハイリターン・ハイリスクのマネーゲームの付けを、平気でグローバル経済の安定と云う大義名分で、部外者の一般市民の税金で賄う権力者団体・施政者の厚顔無恥が、横行しているだけかぁ。目線が高いか低いかの違いだけって、事か? そう云えば、学生だった頃には、刑法には、『尊属殺人』が法文に明記されていたものである。お主、見解の相違で逃げ切る気だな。

★ 何が、年賀葉書にも偽装じゃい。50%の古紙使用に対して、業界10%未満の古紙使用率!!だと。好いじゃないの。印字・外観目的での『業界出血大サービス』である。森林保護を念頭に置いた古紙利用は、50%-10%の余剰は、ダンボール紙等の梱包紙に、振り分けされているのだから。業界の年賀葉書過剰品質で、マイナスされた製造原価は、古紙製品に当然転嫁されていようとも、地球環境・森林保護費用の拠出費となれば、そう目くじらを立てる対象でも無かろう。
        
        <表示から逸脱した物は、すべからず偽装である。>
 
 何を、小童(こわっぽ)!! その杓子定規な物言い。許せねぇや。説明は面倒だから割愛するが、自然債務の法理じゃわい。高校卒が大卒と書けば、経歴詐称の対象となるが、大卒が高卒と書いても、経歴詐称には該当せんのじゃい。2007年<偽>の一文字、幾ら話題性に富むと言っても、世相の流れ・空気に迎合して、安易に枕詞を乱発して見ても、早々拍手は頂けませんぞ。新聞の使命事実報道には相違ないが、掲載紙面を間違えると、『ジャーナリズムの品格』を失いまするぞ。新聞と週間雑誌とは、ステータスが違うであろうに・・・

 げに、顔の見えぬ新聞読者・マスメディアのリスナーであるが、平気で罵詈雑言の数々を口外して、モーニング・コーヒーを啜る戯け者も居るのである。人前で口外すれば、119番通報されて、隔離病棟へ? 等と一抹の不安はある物の、これも時には、面白い受け止め姿勢でありまする。

 励行は、推奨出来ない処であるが、独り身の趣味としてなら、完全に許容範囲の内である。個人の品位・品格に留意されれば、これもまた立派な趣味の一つに為る。・・・かも知れませんぞ。行儀良く字面を有り難く頂くばかりが、読み手の嗜みではありませぬ。

 アジャジャ、余りの戯け振りに、お天道様、お姿をお隠しに為られてしまった。チラホラと、雪も落ちて来た。『至誠、天に通じる』が如く、<痴性、天に通じて、悪天を招く>でありまする。清濁併せ呑むのが、我が信条。清めの一服を吸うなり。
        さてさて、時計を見遣れば、早、昼である。賄い夫に戻るべしである。


心何処ーショート 不意の来訪者・天職考
                  不意の来訪者
 風呂の帰り、日陰道の凹地には、氷・雪が見える。それらを見ると、反射的に背筋が硬くなる。天気は好いのであるが、日向と日陰とは氷点を分けた世界である。下校の小学生の一団が、走ったり、止まったり、戻ったりの風景である。冬至を越えて、陽の目は毎日長くなるのとは裏腹に、寒さが一段と厳しくなる1月、2月である。

 早朝、冷気に浮かぶ茜色を浴びた山景に魅せられて、日本列島、趣味のシャッターが切られているのであろう。白鳥撮りを趣味とする嘗ての同僚さんも、この三連休、改造車に身構えて、じっとシャッター・チャンスを待っていたのであろう。何度か誘われたが、物臭の私には、遠く手の届かない我慢境地の趣味である。

 部屋に居ると、ドアをノックされる。鮭の頭を使った三平汁を作ったのだが、失敗したとの事である。味の調整を頼まれる。薬の効果だろうか、老母は体調が良いらしい。道産子の老母の作った野菜沢山の三平汁が主食で、飯がオカズと為ってしまった。満腹の腹を横たえて、ストーブを背に、他愛も無く大鼾と為ってしまった。コタツとストーブに挟まれて、自分の鼾を耳に、大波小波寄せ来る、まどろみの境地を彷徨う。写真に無いシングル・ママの横顔が、眼前に幾度と無く現われている。夢うつつの境は、限り無く薄い。小波の合間に、夢鑑賞と思いつつも、意識の片隅で、老母を前に、<よもや、> あらぬ言葉を口にしたのでは・・・などと、少々心配に為って来た・・・ 年老いた母子の間柄と雖も、弱みは握られたくは無い・・・・
            ウム~ム 夢を振り払って、起き上がる。
 人間、1年に何度かは、ハッキリした寝言を喋る物なのである。勿論、本人には、その自覚が無いのは、言うまでも無い。再び脳裏の片隅に揺れる残像を、嗚呼、勿体無い、部屋で寝ている時に、出て来てくれたなら、とことんお付き合いが出来た物を・・・ タイミングが悪過ぎた。

 私の最高傑作は、寝言でのマヤ文明の考古学講義であったらしい。女房・子供の証人三人の前に、私の否認陳述など、爆笑の内に、100%却下されてしまった経験がある。それは長々と、淀みなく、明瞭な講義であったらしい。私にして見れば、神がかりの自動口述なのである。斯様にして、時として、人間の脳細胞は、あらぬ作用を露呈してしまう事がある。

 老母は、口の堅い御仁であるから、時効完成前は、事実を一切口外しない。然し、老母は身内の前だと、ポツリと茶飲み話として、茶目っ気タップリと口に出すタイプなのである。時効援用の申し出がある訳では無い。世間では、これを称して、不意打ちを喰らうと云うのである。

    自覚・確証は無いが、罰が悪いから、スタコラ自室に引籠もった次第である。
                     老母の前に、倅、トホホなり。


                    天職について考える。
 雪が、ちらついている。溶けるか、積もるか? 雪見酒と日本酒をグラスに注いだ物の、地面に姿を現わさない雪では、様には為らぬ。コーヒーの方が、しっくり来る。画面が手狭に成ったから、内容をCDに移す。日記風ショートの体裁は、A4版1枚を原則としているから、タイトルばかりが嵩む。落ちが無い様に、タイトルを走り書きして、チェックして行くのであるが、よくも付けた物である。笑いが込み上げて来ると同時に、自分の中に眠る好い加減さに、溜息さえ出て来る。つくづくと職業を間違えてしまった物である。この出任せ放題振りは、詐欺師の素地に恵まれている。ただ性根が、小心者の典型であったから、塀の外に居られたのであろう。

 親友Tに言わせると、
 「お前は造りと道具に恵まれているのだから、若い時に、正義感・倫理観を捨てて、踏ん切  りさえ付けとけば、ヒモで世渡りが出来た物を、男の人生を棒に振った様なもんだ。」
                     そんな妙なお褒めのお言葉を、頂戴する次第である。

 舞う小雪に、我が人生を振り返ると、当たらずとも遠からじの感も、しなくも無い処であるが、この世に、天職を全う出来る御仁は、皆無に等しい。T推奨の職業が職業であるから、失敗は付き物であろう。人生に強弱を付けて、『踏み外し』を塀の中で謹慎するのも、ちと、しんどかろう。職業を冷静に分析すれば、『無形の偽愛を、生業の中心に置く』のである。相手の恋愛ホルモンの寿命は、数年である。花の蜜を集めて、花から花へ回転させて行くには、リップサービス・気配り・動き配りと云う有形サービスが、肝要となって来る。手強い難題である。

 想像するだに、亭主関白・夫唱婦随を標榜する物臭性根には、逆立ちしても叶わぬ<夢また夢の天職>である。無形の偽愛は、早晩、形に現われる。女の本性は、ヒステリックである。ヒステリックを懐柔するには、冷静な職業的演技力が必要であろうが、生来の瞬間湯沸かし器の性分である。

 ブログ悪さに来るトラックバックに依ると、させ放題マグロ男に為れば、1回5万円のお手当てが叶うらしい。修行の場には、良いかも知れぬが・・・ それこそ、そんな道に迷い込んだら、若い頃の愛読書であった<独身アパート・どくだみ荘>の好男子堀好男(?)のペーソス・哀愁の人生に為ってしまう。

 親友Tのお言葉であるが、諸般の些事ごとを勘案斟酌すると、
           『天職』かも知れぬが、『適職』とは考え難い。
             <無礼者、大きなお世話なり。>と、
                 これからは、毅然とした態度で、却下して行く事にする。



心何処ーショート ブログ検索
 Google読書をする。映画スターの検索をしている内に、夢中になってしまった。バート・ランカスターを皮切りに、ロバート・ミッチャム、カーク・ダグラス、ジェームス・スチュアート、ヘンリー・フォンダ、グレゴリー・ペック、ケイリー・グラント、ユル・ブリンナー、アンソニー・クインを読んだ後、女優に移って、デボラ・カー、グリア・ガースン、ジョーン・フォンティン、モーリン・オハラ、スザンヌ・プレショットに進み、三船敏郎、原節子を読んだ。

 これほどのボリーム感は、一冊の本からは得られない記事内容である。正にインターネット様々のご利益である。一番の収穫は、<レベッカ、ジェーン・エア、断崖>のジョーン・フォンテインが、帝国大学の教授の娘として、日本で生まれている事を知った事である。グリア・ガースンも、フォンティンも、時代が異なった為に、映画館ではなくクラシック・シネマで知った女優さん達である。従って白黒映画である。好きな女優さんが、少なからず日本と関係があったと知ると、ぐ~と親しみが湧いて来る。心して、再度見て行こうと思う。

 評伝記事を読んでいると、スター達の結婚歴とその期間に注目してしまう。何年か前に、小耳に挟んだ事であるが、アメリカの研究に依ると、男女の恋愛ホルモンの寿命は、5~6年と云う報告であった。ある意味では、恋愛感情に素直且つ直接行動が出来るスター達の多彩なる結婚歴は、名声と金力を得て、勝手な自由奔放さが許される点で、人間の正直さを裏付けている証左なのであろう。貧乏人のヤッカミからすると、「男心と秋の空」[女心と秋の空]等と洒落て見ても、仕方の無い事である。正統・正直な『恋愛ホルモンの作用』から考察すると、正しくは、<秋>では無く、<飽き>なのであろう。飽きを秋に表現した粋さに、満足しない川柳人には、「畳と女房は、新しいに限る。」と本音を口に出す。身近に離婚・復縁が氾濫し、それらが市民権を得ている現状では、成る程の感のする恋愛ホルモン説である。

 強固な堤防も、蟻の一穴から・・・ と、勤勉実直の励行に、『教室』で素直に頷いた大多数の少年少女が、1ジェネレーションも、その人生観を全う出来ないのは、嬉しい事なのか悲しむべき事なのか・・・強固な堤防を人工物、蟻の一穴を本能・自然と置き換えると、違って見えて来るから、不思議なものである。人工物の維持には、人工の努力が欠かせない要素である。人工の努力には、『強い不断の意志』が必要である。意思は簡単であるが、意志の持続には骨が折れるものである。さりとて、人工物の利便性にばかり感けていると、許容範囲を逸脱した利用法と、自然が一気に仕返しをして来る。規模・スマートさに違いが有ろうとも、人工物を手に入れた人類に、矛盾は付き物である。21C、人類は、とんでもない巨大矛盾に遭遇してしまった。
 
 いかん遺憾。取り止めの無いバカな事に、思いを馳せてしまうのが、私の悪い癖である。
 
  インターネット検索の面白さに釣られて、サイパン、テニアン、ロタと追掛ける。

 サイパンの<ロシアン・ルーレット>の店の紹介写真には、懐かしいママさんの顔が映っていた。息災にして商売繁盛だろうか。行く度に、ご厄介に為った店である。サハリン出身者で固めた店で、ロシア人の気取らぬ美形振りと気さくさを、教えて貰った店である。云うならば、私のロシアン・ウーマン傾注の入り口と成った店である。ロシアは、ユーラシアに広がる大国である。旅行者のブログ感想文に依ると、同じロシアでも北欧ロシア人と極東ロシア人とでは、大分気質が違うと言う。気質は環境と云う伝統・風習の中で育まれるものであるから、当然の話である。狭い日本にだって、其々の地域に気質の違いが顕著なのであるから。それでもオットリした気さくさ、親切さが日本人気質に合う極東ロシア人に、好感・好意を与えてくれた幸運の出会いは、紛れも無く<ロシアン・ルーレット>のやはり極東ロシアのサハリン・ロシア女性達であった。帰ってからもロシア女性の醸し出す好感に惹かれて、地元ロシアの店に通い、ロシアを身近に感じて、遂に足を伸ばして、ウラジオストクで知己を得た。
斯様にして出会いと拡がりは、現在、閉じ篭りの賄い夫にも、色褪せぬエピソードの数々を、脳裏に運んでくれている。お天道様に感謝する次第である。

 それにロタ島は、何も無い自然を売り物にしているテレビの無いホテルであるが、カップルでショート・バカンスをするには、実に好い処である。初めて野生蜜蜂の巣を見付けた思い出と、水道の水が、飲める極稀な観光地でもある。サイパンに行った折に、足を伸ばすも好かろう。時の長さを感じたい人には、お奨めの島である。

 続いて、ウラジオストクを開くと、見覚えのある風景が、幾つも出て来る。掲載文章を読みながら、つくづくと自分に流れる『意馬心猿』の程を、知るばかりである。★反省・謹慎する心算は、毛頭無いが。等身大の感想としては、皆さん、行儀が好過ぎるきらいがある。下衆に徹すれば、実に面白い。そして、逆に見えて来る物もある。何事も経験、光も影もある人の姿。食わず嫌いを押し通すよりも、何事も経験で心身で感じた物をベースに眺めれば、した自分としない自分との間に、さして変化の無い自分を感じる事が出来るだろう。その流儀が、自分に合わないと思えば、ただ止めれば良いのである。食わず嫌いには、不必要な色眼鏡の先入観が、思いの外強く作用しているもの様である。出た所勝負、振り返れば、喜怒哀楽。どれも、心に残る1シーンである。これは、私の経験則である。

 訪問者リストの中に、プーケット潜水人[2008年]が、居られた。彼の海中写真を見させて頂きながら、プーケット・バカンスの彼是を、思い出さして頂いた。復興が叶って、太陽燦燦と降り注ぐ海岸通には、欧米観光客がきっと闊歩されている事であろう。どうせ大枚を払って、異国に身を置くのであるから、『遊体分離』を応用して、外観の違う白人の多い所を選んだ方が好い。異国の中にポツンと居る自分を空から見れば、自分・日本を客観視出来る視点が、遡上して来るものである。治安さえ良ければ、一人そぞろ歩きするのが、自分を解放する気分に浸れるものである。
   ボリュームあるブログ有難う御座います。 ・・・・商売繁盛をお祈り致します。

心何処ーショート 本日、成人の日

 テレビを見ていると、???の感想である。如何して、こんな2人を取上げているのか? 彼等の共通点として、映像が追っているものは、分かる。・・・ウッ、そうか、本日は、成人の日と云う。一般の直近の先輩からのメッセージとして、作り手は、青年の等身大の成人の姿を、プレゼントしているらしい。

 私の世情への疎さは、今に始まった事では無いが、重症物である。世話を焼く者が居なく為ったこの数ヶ月は、特にそうである。現役時代は、慌しいばかりであった。出勤前の数分のトイレで雑念を払って、今日遣るべき事を、頭に銘記する。相手の趣旨?→利害?→ 争点?→ 落とし処?→ 利害得そう?→etc 視覚で観察して、言葉を吟味して、頭で分析する。緊張の中に居る事を、少なからず誇りとしていた。常識と云う世の流れを記事・活字・映像・ラジオから、それらの破片を頭にインプットして置くのは、当然の事と考えていた。本来の物臭が、背伸びをして生きていたのであるから、当然ストレスが高ずるのは、仕方の無い事と意識にも上らなかった。否、習い性として、封印して来たのである。

 習慣として作り上げて来た習い性と云う物は、所詮、加工の産物である。装置としての習慣が無くなれば、風化作用によって、陰で抑制されて来た本性が、顔を覗かせる。荒廃進む日本の人口林に譬えるなら、習慣と云う不要木を伐採すれば、地面に陽射しと風が行き渡る。浮いた空間に、地物がすくすくと復活・成長するのは、自然の理に適った有り様であろう。

 ゴールを目前に控えたTにしろ、M氏にしろ、彼等の目からは、私の姿は、ひどく活き活きとして見えるらしい。その実体は、うらびれた独り身の賄い夫でしか無いのだが。若し、彼等乃至は世間様から、私の賄い夫生活が同情の対象に映らないとしたら、その構造は、きっとこう云う事なのであろう。『病は、気から』を転じさせれば、次の言葉に通じるのである。『本来の気を伸ばせば、病遠ざかる』の類なのであろう。肉体的、外観的若さを、時代から付与された団塊世代である。60年走って来た時代の流れに、学んだ・知った・得た・遣りたい物を持った筈である。活かすも殺すも、個人の価値判断・取捨選択の道である。

 私の拙い日記文作の綴りであるが、時折、見に来て下さるお人が、いらしゃる。本日、成人の日。10代・20代・30代・40代・50代・60代・・・全ての人に、1日は24時間・1年は365日でありまする。努力すべき日は、厭わず努力をする。怠惰に過ごす日は、怠惰に。喜怒哀楽は、避けて通れない人間の日々であります。日々・月々・年々は、振り返れば通過点であります。足跡重ねるのが、人生であります。不図、亦は真面目に振り返った時に、その時々の自分が居れば、それで好し。車のハンドルの様に、幾許かの遊び代を持って、今を生きる。それが、生物の営みでありまする。脳の楽しみの一つに、思い出遊びがあります。思い出を多く作るのも、人生の糧・趣味の一つでしょう。     ・・・・・・ウッシッシ。   1/14

心何処ーショート 母親は強かった。

 薄っすらと残る雪に、太陽が陽射しを伸ばしている。鏡餅を食べなくては、言われていた。辛大根をたっぷり下ろして、納豆をとく。納豆下ろしに焼餅を入れて、食するのであるが、これが旨いのである。数日前に仕込んで置いた酢漬けタコと、自家製タクアンで朝飯とする。些か食い過ぎて、腹がきつい。

 昨夜は冷え込みが厳しかったから、水槽・小鉢に覆いを掛けて遣った。覆いを外すと、太陽のご挨拶である。小魚も小草も、全開の喜び様に見える。色合いは、太陽があってこその恵みである。金魚の中で一番の成長遅れの赤出目金であるが、不恰好にして愛嬌のある出目部分の朱に光が当たると、橙色の柔らかさが、実に可愛いく見えて来る。コンビニで買って来た西岸良平『鎌倉ものがたり』の続きを読む。二冊買って来たのであるが、一冊を残して置いたのである。

 ドンドンと花火が鳴っている。本日の起床は、その花火の音であった。勿論、冷え込みで、私の寝相は行儀良く、蒲団の乱れは、一切無かったのであるが。本日は、三九郎(ドンド焼き)の日である。小学生の行事である。

            40数年前にタイム・スリップすれば、
 そこは白原の川原、インディアンの家の様な円錐の櫓に、炭俵が巻かれ正月の門松が、びっしりと巻かれている。柱の天辺には、ダルマがゴロゴロ突き刺さっている。大・中・小の三九郎の周りには、掘っ立て小屋の様な、思い思いの子供達の拠点が並んでいる。中には、腰掛代わりのミカン箱が、石積みのカマドを取り囲んで置かれてあった。缶詰の空き缶には、蝋燭。田んぼから拝借して来た稲藁を敷いて、白い煙に燻るカマドには、赤カビ・青カビの吹いたひび割れた餅が、焼けている。小皿には、匂いのきつい造り味噌、砂糖に醤油があった。
ミカンとカリントウを摘みながら、持ち寄ったマンガ本を、回し読みする上級生と下級生。花札をする者。朝から晩まで、1年で1回、小学生達が気の済むまで、火遊びが出来た楽しい何日間であった。

 雪が降れば、居たたまれずに外に出て、雪だるまを幾つも転がし、堤防の斜面にソリ場を作った。ソリは、ミカン箱にアカシアの手頃な枝を切って、ペロリと皮を剥いて、打ち付けて足とするか、スコップに新聞紙を強いて、直滑降であった。ソリ場の消滅を食い止めようと、バケツ・リレーの要領で、川原の水を掛けて凍らせ、労働と遊びを繰り返した。

 火遊び解禁と云えども、貴重な家庭燃料『炭』の持ち出しは、痛いお仕置きの対象であったから、焚き木の調達は、立派な労働であった。母親の目を盗んで、ナタ、ノコギリを持ち出して、生木で暖を取ったから、小屋の中は、煙でモンモンであった。タヌキの燻り出しなんて物じゃ無かった。完全に、漫画の世界であった。生木の煙、ソリ遊びの雪濡れに、涙ポロポロ、ひび割れ・赤切れ、鼻水タラタラ・・・『年功序列の小学生男社会』長い使い走り年季であったが、何故か、川原で一日中過ごしていた。   ・・・今も生木燻る煙の匂いは、郷愁を擽っている。

 川を挟んで、市と村、幾ら何でも『信州・川中島の決戦』じぁあるまいに、何故か小さな川を挟んで、こっちと向こう、些細な事で、雪合戦が、チャンバラ、ケンカに熱く発展する。負けたと為れば、卑怯な川向こう。(不幸な事に、川向こうの直ぐ近くには、名立たる中学校があった。)中学生、学校の仲間を引き連れて、清水の次郎長・黒駒の勝蔵じゃあるまいに、川原で一大決戦である。尤も、正々堂々の川原の決闘であるから、血の気が旺盛だった私には、雇われ用心棒の格好で、徒手空拳の修行・実践の場でもあった。

 ある時、とんでもない事件が起こった。三九郎は小学生の行事なのであったが、犬猿の仲の川向こうに、チンピラ中学生集団が居て、夜陰に乗じて、火付けの狼藉を働いたのである。樹脂分の多い松葉は、燃えたが最後、手の施しようが無い。夜空をバチバチと紅蓮の炎が、のた打ち回って、全てが全焼してしまった。全焼の大惨事を目の当たりにした被害者が、冷静な感情でいられる筈は無かった。
 大人を巻き込んだ一大騒動に発展してしまった。泣く泣く、我が方は三九郎繰上げで、前倒しの餅焼きと為ったのだが、その翌日の川向こうの正規の三九朗には、仕返しを恐れて、見張りが立ち、乱闘を阻止しようとして、駐在さんが見張りに立ったのである。勿論、主役の我々小学5・6年生は、隊長のトシちゃんを先頭に、顔を炭を塗って突撃の合図を待っていたのであるが、漆黒の闇の前に、母親連合に耳を引っ張られて、敢え無く家庭の虜にされてしまった。昔の母親は、此処一番では、人の道を説いて、毅然としていたものである。

★後で考えれば、多分一番肝を冷やしたのが、悪戯半分で<小火(ぼや)>を想定していたチンピラ集団だったろう。★

 雲を従えて、穏やかな日曜日。40数年前の古戦場には、小さな三九郎がポツリと立つ。
チョッキを纏った部屋犬が、チョコチョコ散歩をする。老人・壮年が、ウォーキング、ジョギングをする運動コースである。

    都市化に埋まった冬枯れの葦原の佇まいは、
                夏草や 強者共の 夢の跡 
                      為らぬ      
                冬枯れや ジャリンコ等の むかし跡
                      である。


心何処ーショート 諺素直に

 雨の音で目が覚めた。夏と違って冬の雨は、気温が高い。昨夜は途中で1枚を脱いだ程、温かかった。無意識での体温調整に、下の厚手の毛布は蹴飛ばされて、あらぬ方向に食み出している。上蒲団・その上の厚手毛布も、彼方此方である。真冬であるのに、夏の様な寝相の悪さである。自分の歳を考えると、赤面の至りであるが、反面、寝相の悪さに未だ残る若さに、苦笑いの感もしなくも無い。

 人間の無意識の感覚・反応と云うものは、実に正直である。ある意味では、これも広義の意味での自律神経の働きの一つなのであろう。全く反省の無い男であるから、寝相の悪さに釣られて、<いゃ~、銚子に乗って、寝小便をしなかっただけ、見っけものだわサ。イヒヒ>等と、枕元のタバコに手を伸ばしている始末である。

 無意識の反応と云えば、こんな思い出がある。海外のホテルの一室。夜中、ベットが軋んだ。<う~ん・・地震?>かと、意識を寄り戻そうとするが、再び、眠りに落ちた。『地震だ!!』と今度は、飛び起きた。何も、揺れていなかった。良く良く考えたら、震源は、スプリングの利いた、相手の寝返りだった。
中断された睡眠。暗闇で考えた。祖国は、地震国ニッポンである。初動動作が、全てを決してしまう事もある。<煎餅布団に、独り寝の日常が、快眠と生き延びる予防線>であると・・・

 恵まれた勤め人は、本日より三連休に有り付けると云う。年末年始の休み明けに、マタマタ三連休だと、心身が締まらぬ・・・ 本音の中には、有り難迷惑なんてものも有るに違いない。予報では、雪だるまマークである。雨音を聞きながら、素通りするラジオである。

 灰色の世界は、何かと気が滅入る。買って来た物は、処分しなければ為らず、溜息の出る賄い夫である。モヤシと竹輪・・・ そろそろ限度である。さてさて、如何始末する・・・

 焼けのヤンパチ、竹輪を薄く切り刻んで、茹でたモヤシに入れ、マヨネーズで和える。ウースター・ソースを垂らして食すと、『目から鱗』である。サラダにハム・ソーセージの定説を見事覆して、ベスト・マッチものであった。流石に日本伝統の食材である。内心、<窮すれば鈍する>とタカを括っていたのであるが、正調『窮すれば通ず』の諺通りであった。格言・諺の類は、決して疎(おろそ)かにしては為らない生活に根ざした民族のエキスである。格言・諺を蔑(ないがし)ろにして、勝手に歪曲・曲解しては、罰が当たる。大いなる反省と伝統語の実力に脱帽致した次第でありまする。

  雨止まぬ灰色の世界、傘差して外に出れば、アジャジャ、雪に変わるなり。


心何処ーショート 夢一つ、昔日の思い
                      夢一つ
 体温の火照りで目を開ける。未だ早い。蒲団に篭った我が発熱温度は、身体を動かせば、周囲の冷気にすぐさま霧散霧消してしまう。簡単な温度調整である。再び寝る。

 私は、大きな催し会場の参列者の一員であるらしい。人波に押されて会館から出て、参列者と何か話しながら、玉砂利の上を歩いている。白石の大鳥居が見える。大きな石畳を歩いていると、連れが車を回すから、此処で待てと言っているらしい。頷いていると、前方に自転車に乗った女房が、手を振って何か言っている。見慣れた現在の顔である。私のした日曜大工のやり直しの様子である。
「何? 何処が悪い。終わったから、これから帰る。」そんな事を言っている様である。頭の一方で、何処が拙いのだろうかと考えている内に、目が覚めた。

 時計を見ると、その間25分であった。久し振りの夢であった。老母は、未だ起きていない様子である。夢の因果関係を探ろうと、その儘、寝床でタバコに火を付ける。嫌に、写実的な女房の現在の表情であった。昨夜は、就寝前の一時を自作ファイルに挟んであったシングル・ママのあっさり過ぎる落書きを見て、塗り絵の要領で、色鉛筆で色付けしていたのである。せっせと色付け加工をしたのであるが、余白が埋まらなかった。アクセント不足である。待てばその内に、何か好いアイデアが浮かぶだろうと、敢て完成を避けたのであった。その線から言うと、彼女が夢枕に立ってくれるのが、順当なのであるが・・・

 夢には、幾通りもの不思議さがあるらしい。夢の因果関係を不思議なものとだけ捉えると、夢は『お告げ』に姿を変える。お告げには、<ここ掘れ、ワンワン>ではないが、そんな啓示・天示が数多くある。特に宗教関係には、洋の東西・古今を問わず、顕著に現われて来る様である。加齢が進んで来ると、自分の体験と絡めて比較してしまうのが、下衆の勘繰りらしい。そうなると、『夢のお告げ』の中に見え隠れする宣伝者の意図が、限り無く臭く鼻に付いて来る次第である。冥土への送り出し、ご厄介になる現世のこの身としては、不謹慎、極まりない沙汰である。

 この対極にある『夢のお告げ』観として、面白いものは、ケビン・コスナーの出世作<ダンス・ウイズ・ウルブス>の中に登場するインディアン改めネイティブ・アメリカンの夢への解釈である。適当な表現が頭に浮かばないので、失礼する。要旨は、<所謂、健常者の見る夢は、不純物が入って『お告げ』にそぐわないものである。浮世離れした異常人にこそ、神、精霊が宿る。>と云った処であろうか・・・『ヘンテリ層』に言わせると、シャーマニズムと云うらしい。

 不思議を、現代人が彼是と解剖して行くと、碌でも無いギスギス人間に為ってしまう。
 妄信に落ち込まなければ、日々の息抜きにも為る。夢は、心との対話である。

  夢ならば、美形に囲まれて、暫しの酒池肉林の桃源郷・・・
        願いは募れども、儘為らぬ夢の訪れである。

 隅に立て置いた未完の塗り絵に、肉林の妄想が乗り移って、この角度から眺めると、何やら女体のシルエットの如く、見えなくも無い。日課のパソコン打ちを中断して、シルエットをなぞる。ポッカリ空いた余白に、淡い靄が色付いた。半端な悪戯画が、絵に変わった。目出度し。

                     昔日の思い
 昼前に一つ打ち上げたから、後はノンベンダラリにしようと思っている。昨夜カレーを仕込んで置いたから、手抜きが出来る。遅い昼食後は、風呂に行く事に決める。予報のお天気は下り坂の通り、ドンドン雲間が広がっている。

 冬は時間が許せば、気持ちの好い風呂に浸かるに限る。穴場銭湯は3~4人が、丁度好い定員数である。差し当たって、時間に余裕があるから、出たり入ったりを繰り返す。驚いた事に、大学生と思しき若者も、私と同様の入り方をしている。学生同士の口コミなのか、クラブの引継ぎかは知らないが、200円温泉銭湯の活用法を覚えるとは、中々の若者である。湯船に浸かり、目を閉じて瞑想に浸る・・・ ある意味では、贅沢な時の使い方である。ほぼ同じに銭湯を出る。勤めを終えた私は、自転車。人生予備軍の彼は、50ccバイクである。
おぅ、寒い。外は、充分過ぎるほどの気温低下である。然し、信州では、まだまだ序の口の寒さである。その内に、風呂上りの髪が凍り、タオルがガチガチに凍り付くのである。

 そう云えば昨日は、冬の風物詩・ワカサギの穴釣りをテレビで紹介していた。毎年通っていた諏訪湖のワカサギ釣は、既に禁漁である。氷上のワカサギ釣は、映像としては魅力的であるが、寒さと腰痛には苦痛でしかない代物である。

 早い処、諏訪湖のワカサギ資源が復活して、ドーム船での『麗らかなる釣』を、愉しみたいものである。遠征の釣果は、時の運である。当たれば次々と、銀鱗が躍るワカサギ釣は、病み付きになる遊びである。極端に敏感にした華奢な竿先に伝わる魚信の動き、ピクピク・・半呼吸置いて、針掛かりした水中のワカサギを囮に泳がせるイメージで、糸を手繰る。グィ、ググゥと水中から、指先に伝わるワカサギのもがきに、道糸を一気に手繰る。
      <ソウリャ、どうだい、参ったか、ワカサギ!!>
『三匹、五匹掛かり』こそが、ワカサギ釣の誘いなのである。そして、小振りな諏訪湖のワカサギは、天ぷら、から揚げ、佃煮にして好し。実に美味である。老母の『今年は、行かないのか』のリクエストであるが、高速に乗ってまで、密漁をする訳にも行かず、さりとて、遠出をして山上湖の寒風に、身を晒す勇気も無い次第である。二十歳代までは、地元にも何箇所か、ワカサギ釣が出来た湖・池があったのだが、流行のブラック・バスの餌食になってしまった。
                        昔日の思いである。

心何処ーショート 老母の好物

 小振りのサツマイモがあった。これならその儘、灯油ストーブに鉄鍋を乗せて焼けば、立派な焼き芋に成るだろう。散歩から帰って来ると、ニコニコして、鍋のサツマイモを返してくれとの指示である。今度は、もう、好いだろうとの催促である。熱々の焼き芋を渡すと、まるで子供の様な顔をして、美味そうに食べている。

 私は男であるから、一番小さな芋を口にする。小振りな芋は、中まで火が通って、甘味であった。夜更かしタイプであるから、私は途中で一時間ほどの補足睡眠を取って、帳尻を着けている。夕食の支度に取り掛かろうと、老母の部屋に顔を出すと、一本残して置いたからとの事である。『歳を取ると、人は子供に返る』とは、観察の事実であろう。諺が、実態語として展開されている。倅としては、内心苦笑いの態である。人間の食べ物の嗜好は、邪魔な物を取り去れば、素直にして明瞭な行為である。少々買い溜めをして置いた方が、良さそうである。

 資源物の回収日と云うから、早起きをして両手にブル下げて行く。誰もいない。置き場の公民館の黒板には、次回の回収日が書かれていた。空振りであった。蒲団に逆戻りするのも、面倒であるから、その儘、新聞を広げる。何時もとは違う四畳半入りであるから、実に寒い。ファン・ヒーターを入れる。老母の動きを待って、朝食の支度に掛かる。三食生活に成って、朝食が進むから、その分、昼・夜が細くなった。部屋に戻ろうとすると、ストーブの上のサツマイモをひっくり返してくれとの事である。分厚い鉄鍋には、芋が3本入っていた。・・・・ ワシァ、ビックラコイタ。

 久し振りに四畳半で、陽射しを待つ事に成った。コーヒーを飲みながら、タバコを燻らせる。信州は、リンゴの産地である。リンゴは、少々渋みのある『オウリン』が、好きである。これは、ボケが速いが、香りが強いから部屋に置いておくと、自然の香水と為る。斜向かいさんも、ベランダに姿を見せている。

  さてさて、世間様に倣って、取り込んだ洗濯物を、太陽に当てると致しますか・・・・

 洗濯物を外に出していると、バルディナさんが、姿を見せた。彼女もすっかり定位置を、見付けマイ・ペースの越冬生活を送っているのであろう。喜ばしい限りである。<オハヨウさん。>と言われた様で、何やら、こっちも穏やかな気持ちに誘われてしまう。何か、変わったものは無いかなどと、乱雑な部屋を見回すと、小草の蕾の先が、一つ割れている。生憎、陽射しは雲間に隠れてしまったが、<見事、咲けるか!!> 嬉しい兆しである。こんな時は、他に何かが見付かるかも知れぬ。外に足を伸ばすべきである。

      発見は、無さそうである。ウォーキングに徹して、汗を掻く。
      人間の運動熱は、本当に高い物である。

心何処ーショート 男の本音
 好い太陽である。嬉しくなって、グッピィ槽の上覆いも取って遣る。ついでに、水を少々入れ替える。水を入れると、底のヘドロ、いや失礼、水槽の水質浄化の働きを為されている『好気性バクテリア・コロニー・活性汚泥』が、舞い上がる。金魚・グッビィに餌を遣り、小草の二株に太陽が公平に当たる様に、鉢の向きを調整して、霧吹きをして遣る。柔らかな陽の訪れに、タバコが優しく感じられる。

 陽に誘われて、久し振りに中国茶のプーリー茶を、入れる事にする。ポットを温め、茶葉を入れる。香り立つ湯気に、ウィスキーを加える。小さな陽だまりに、小草のスラリと伸びた花茎の先に、薄紅の蕾が数個・・・  ラジオからは、『ルビーの指輪』が流れている。何かをするのが勿体無い、我が居住空間である。BGM代わりのNHKラジオ、<ときめきインタビュー>の本日のゲスト、某女流写真家は私と同い年であると言う。相当な美人らしい。勿論、ラジオであるから、ご尊顔を拝しようも無い。彼女の声といい、話といい、実にしっとりと品がある。お相手アナウンサーが、羨ましい限りである。

 物臭・天邪鬼の気質を持つ私には、民放テレビの『目立って、ナンボ』のお笑い系が占拠する番組の様には、ただ辟易とするばかりである。従って、見たくない物は、避けて通る日々である。顔は見えずとも、『雰囲気のある美形は、共有財産である。』

 賄い夫を決心するまでは、勝手な『美形共有財産論』を展開して、そんな婦人を見付けるのが、私の小さな趣味であった。そんな事で、足を運んだ喫茶店、食堂があった。一人は韓国美形、一人は中国美形であった。

 沈下してしまった嘗ての歓楽街に、復活の目玉として、市の肝いりで、暖簾横丁なる区画整理が行われた。興味があったから、一度向学の為に覗きに行った。物食して歩いていると、美形と確り目が合ってしまった。一角を一回りして、結局その店に入った。客商売向きの、その美形は実に気さくな人だった。自分の食べている果物を出してくれたり、仕込み中の料理を小皿に取って、味見してなどと言ってくれるものであるから、何回か店に行った物である。その内、姿が見えなくなった。店の人が、子供が小学生になったから、子供との時間を長く持つ為に、夜の仕事から昼の仕事に変わり、喫茶店を切り盛りしているとの事であった。喫茶店は、此処と教えてくれた。何か月振りかで顔を合わせると、「これ、私の手作りのクッキー」と出してくれる。コーヒーお代わりの長話をしてしまった。彼女は、嘗て本国で歌手だったと言う。多分、彼女には、白人の血が混ざっている。西洋と東洋の絶妙な容姿端麗の人であった。

 もう一方は、中国残留孤児家族を夫に持つ中国婦人である。ラーメン店の支店を切り盛りする長身痩躯の素顔美形である。嘗て親しい中国美形が居たから、彼女が醸し出す中国訛りの日本語が、私の中でオーバー・ラップして、近くに寄ると昼食に出掛けていたのである。中国も、男女平等の国である。ある時、昼に手の込んだ料理を注文すると、断れと言う亭主に、ウインクした美形の女房殿が、私達の注文品を作れと譲らない。ご亭主殿は、私が行くとご機嫌斜めのご様子だった。中国語で遣り取りする語気・語調は、中々にパンチの利いたものであった。男は、皆、美形に、鼻の下を長くするものである。間違えて作ってしまった料理を、舌を出して「これ、サービスです。お金要りません。どうぞ、食べて下さい。」なんて、言われると「やっぱり、好い人なんだ。」と、すっかり彼女のファンに成ってしまうものである。このプーリー茶も、彼女の店から買って来たものである。

       この世は、全て男と女の交差する風景かも知れぬ。

 調子の好いフィリピン人男がいた。お互い一皮剥けば、好色バカ人間である。ある時、私が、美形を見付けて、鑑賞の境地にいると、私の頬を突付いて、ヤロウ、大学中退を鼻に掛けて、日本人の俺に、イングリッシュで
 「アニキサン、シッテル? オンナハ、オトコノ ジンセイノ スパイシー。ウ~ン。」
 1本取られた。したり顔で、同意を求める面が、気に食わなかった。癪に障った。
 「バカヤロウ、生意気こいて、15年早い。」
 スイカ頭をポカリと引っ叩いて遣ると、真っ黒な顔に、白い歯を剥きだして、反省の色も無く
 <如何だ。俺様は、インテリジェンスにユーモアを持ったナイス・ガイだろう。>
 と言わんばかりに、笑って居やがる。手に終えぬ『本音人間』であった。

 然し、英語圏である。何処で仕入れて来たのか? 分からぬが、男の真理を突いた名言で ある。

 それにしても、素晴しい好天である。昼の時間であるが、閉じ篭りは、<天に唾>の形容である。散歩に出掛ける事にする。麗かなの言葉が、ピッタリの良天である。こんな時はセカセカ歩かないのが、マナーである。敏感さに感けたら、先の覚束ない現実であるが、鈍感を励行すれば、何時かは鈍感が身に付く。

 さてさて、昼食後の午後は、風呂を沸かして洗濯をすれば、暮れる夕暮れであろう。


心何処ーショート 感慨一つ

<モガンボ 1953年 監督ジョン・フォード、出演クラーク・ゲーブル、エヴァ・ガードナー、グレース・ケリー>・・・アフリカを舞台にジョン・フォード監督が贈る冒険映画。アフリカの奥地で動物園やサーカス用の野獣を捕獲している男(ゲイブル)、現地に取り残されたショー・ガール、(ガードナー)、英国の動物学者とその妻(ケリー)という一行は、ジャングルの中へと進んでいく。ゲイブルを巡る三角関係を絡めて、大自然の神秘と恐ろしさが広大な自然の中で、フォード独特の美しい映像美で描かれる。ガードナー、ケリーは、それぞれアカデミー主演女優賞・助演女優賞を受賞した。・・・以上 作品紹介からの引用 \500DVD クラシック・シネマ・コレクション

 この手の映画は、大好きであるから、目が無い。類似作品では、1950作のデボラ・カー、スチュアート・グレンジャーの<キング・ソロモン>がある。アフリカの美しさと、英国軍人魂と誇り高きズール族の男の戦いを堪能したければ、1964年作のスタンリー・ベイカー、マイケル・ケインの<ズール戦争>が、お薦めである。
 
 私はデボラ・カーを、一番の美形と信じ込んでいるから、<キング・ソロモン>を、この3作の中では、総合1位としている。作品ストーリー性からすると、キング・ソロモンが最下位であるのは、承知している処である。私の盲目評では、デボラ・カーの魅力だけで充分堪能でき、且つアフリカの大自然が満喫出きる特典付と云った処が、総合1位の理由である。

 話を戻すと、<モガンボ>は、実に良く出来ている作品である。晩年に入ったゲイブルの猛々しい男を巡っての中年ガードナーと若いケリーの三角関係による女同士の鍔迫り合いは、老・中・若の其々の人生経験の色を出して、最後の苦いハッピー・エンドに繋がって行く。微妙な女心の役所を、<老・中・若>の間に立つ『中年の人生観』で、ストリーの要役を見事に演じ切ったガードナーに、アカデミー主演女優賞が輝いたのは、順当な評価であろう。流石に巨匠と言われたフォード映画である。この作品上に、1961年作のゲイブル、モンローの遺作<荒馬と女>が、あるのだろう。ゲイブル物としたら、この作品の方が、文句無しで味がある。

 それにしても、白人女性群(デボラ・カー、エヴァ・ガードナー、グレイス・ケリー)の分厚い立派な臀部たるや、女性の迫力満点である。日本人・中国人・韓国人と云った東アジア人種のご婦人達が、逆立ちしても適わぬ『ミロのビーナス像』である。ボーダレス、西洋女性が、大挙して日本に来られる良き時代に遭遇出来て、私は望外の喜びである。幾人かの話し相手を得て、西洋女性の生の姿を拝見出来て、映画の世界でしか見る事の出来なかった西洋美形達が、呼吸をし始めたのである。

    鑑賞とは、憧れに非ず。経験との比較にこそ、面白さがある。』
               その奥義に、遅まきながら感心している次第である。

 ガードナーが演じた女性像に、思わず膝を叩いてしまったシーンが、幾つかあった。それは、『嗚呼、女語録』で紹介した、ウクライナのライオン娘を彷彿とさせるシーンであった。『人は体験の蓄積をイメージして、演技をしたり、演技指導をする』と、考えた方が自然である。そう考えれば、映画のワン・シーンには、自ずとその文化圏で暮らす人々の日常の心・思い(想い)・考え方・仕種・習慣が、映し出されていると考えられるのである。映画と云う他人が演ずる銀幕に映し出される架空事は、観客が自分の体験を得れば、銀幕と日常とが繋ぎ合わされるのである。異文化・異習慣の中で暮らす人間にも、見た目、???の印象・感想のものが、映画レクチャーに依って、<ほぅ、彼女のあんな仕種・行動の裏には、こんな考え、想いがあったのか・・・> 私には、そんな理解を運んでくれるのが映画・ドラマの楽しさなのである。

 日本人のロートル世代の目から、男女同権の先進国映画を見ると、伊達にフランス革命を象徴する<自由の女神?>の絵画に、民衆の先頭に立つ「あの女性像」がある訳で無い事が、良く分かる。男の筋骨隆々像に伍するのは、やはり豊かな胸部と分厚い臀部の迫力なのである。彼等の美意識には、ギリシャ・ローマの写実美が、連綿と引き継がれている。即ち、裸体に邪念を掛けない向きのある西洋人である。
こんな体験が有る。打ち解けたグループであると、その感覚は、尚の事であるらしい。男女の仕切りの無いロシアのバーチャに、家族の一員として誘われて入った。男女とも全裸であった。色気・羞恥に欠けると云ってしまえば、それで終わりであるが、見えるものは仕方が無い。仕方の無い物を見ていると、そこに有る物は、男女の二次性徴の違いだけである。神がこの世に、泥の端くれから、男と女を創造為されて以来の事である。驚くに値し無い事柄である。こう云う実態があるからこそ、男女は正々堂々の男女同権にして、離婚・シングル・マザーの闊歩するお国柄があるのだろう。

 日本人は、裸体をセックスの導火線とばかりに見てしまう。猫も杓子も、女の裸体に経済価値を与えてしまっている。加熱し過ぎて、需給と供給のバランスは、如何云う原理か? 供給側の高止まりである。

 日本人女性よ、意外と真の同等化には、確り食べ、鍛えて、分厚い臀部に改造する方が、早道かも知れませんぞ。スリムな四肢に鳩胸・出尻の沙汰は、栄養循環学的には、無理がありまする。局所肥大は、矯正飼育ですぞ。無理な矯正は、崩落の始まりであります。

   イカン遺憾、名画感想が、何時の間にやら、あらぬ方向に進んで御座る。
       女性群の投石前に、雲隠れするのが得策である。クワバラ、クワバラ!!


心何処ーショート 嗚呼、宝の持ち腐れ

 お~、寒い。外には出たくない。省エネ・エコの時代であるから、寝床冬眠を続けたい。用足しは、明日に回そうかなどと、一生懸命考えた。こう云う時に限って、ご老母様は動くのである。仕方なく覚悟を決めて、朝の用意をする。

 用足しの方角が、丁度、反対方向である。昼を目途に、折り返しをする事にした。一つ目の用事が終わり、タバコのカートン買いをする為に店に入ると、明日の入荷との事である。徒歩を諦めたから、時間の余裕が出来た。次の用足し後に、温泉銭湯に寄って買出しをして帰れば、昼前後の時間と成ろう。何しろ、冬の家庭風呂は、寒くていかん。

 銭湯の戸を開けると、おやまぁ、結構盛んである。前に顔を合わせた体格のご立派な老人が、髭を剃っている。顔を顰めて、熱い湯船に浸かっていては、恐い人相が悪くなるばかりである。
「おい、オヤジ。えらいメカシテ、何処へ行く。」
「決まってるずら、これさ。ダンナもそうずら、へへへ。」
節くれ立った小指を立てて、前歯の抜け落ちた口で、フガフガと愛想笑いを送って下さる。
「ダンナ、でかいね。」『当たり前だ。俺のは国際級だ。参ったか。オヤジ。』
ご老人、顔見知りに会って、上機嫌らしい。次から次へと、話し掛けて下さる。天井に仕切りの無い温泉銭湯は、女風呂からの会話が筒抜けである。

 子供の頃から、殆ど変わらぬ銭湯の造りである。浅間温泉では、一番下に位置する共同風呂銭湯であるから、近くの人達は横丁の小店に行く感覚で、手軽に入りに来る。男と違って、女はお喋り好きであるから、時間を示し合わせて、井戸端ならぬ風呂会議なのである。昔は田畑が広がっていたから、農家の人達は、朝風呂・昼風呂・夜風呂と、農作業の区切り区切りに、湯に浸かりに来たものである。

 私の子供の頃は、風呂には名物オヤジ・隠居が、ゴロゴロしていた。(ご当人達は、とうにご昇天遊ばれているのであるが、)彼等は、冬は暇な自由業であるから、正月などは風呂に徳利を持ち込んで、チビリチビリご近所さん同士で杯を交わし、挙句の果ては、洗い場でゴロリ、高鼾の猛者が居たものである。流石に時代が進み、マナーが行き届いてスマートな銭湯に変わった。

 然し、加齢と共に、神経が多少なりとも鈍感に成って来る。当時の猛者連中の振る舞いが、酷く羨ましく思い出される。掛け流しの湯で燗をして、幼馴染と湯船に浸かって、差しつ差されつ、酩酊すれば誰憚らず、ゴロリとタイルに身を伸ばす。さぞかし、天下泰平・極楽浄土の心地であったろう。番台・客の居ない貸切風呂の時がある。小心者であるから、私に出来る事は、精々壁に背中を預けて、暫しのまどろみを、体験するのみである。チマチマした振る舞いであるが、実に気持ちが好いのである。燗酒の酔いに、エア枕を持参して一寝入りなんかしたものなら、きっと病み付きに成る事、必定である。

      嗚呼、強面と体格、時を兼ね備えて、宝の持ち腐れである。

心何処ーショート そうじゃ、あるめぇ~

 Tから電話があって、昼飯を食べに行く。賄い夫を実践する私に、無言のエールを送りに来てくれているのである。明日からが、仕事始めと言う。場所を移して、コーヒーとタバコで歓談する。ジャスコの屋上からの眺めは、春を思わせる陽気に、グ~と山が迫って、格別である。地方暮らしの伸びやかさに、ホッとする気分である。

 私の処に出掛けると、声を掛けたTに、細君は男同士でデートかと冷やかしたとの事である。確かに、そうかも知れぬ。彼も私も、女性(にょしょう)は大好物の口である。さりとても、男女の性の違いに依る感性・思考回路には、埋め難く根深い違いが、横たわっている事実を知っている二人である。私とTとは同性として、実に馬が合うのである。お互い気心の通じた、自然体で居られる。タイプの似た因子を持った者同士であるから、気張らずとも続いている付き合いなのであろう。ストレス解消の為に、拙(つたな)い文作を再開し始めて、彼是10年近くに成る。読み返して見ると、文作の合間合間に顔を覗かせるTの存在は、纏まった一編として形は現わしていないが、炙り出しのシルエットの様に、彼の実像が顔を覗かせている。

<Tの実在感や、大した物である。>そんな話をして遣ると、Tは貫禄のあるディック・ミネに似た顔で、<そうじゃ、あるめぇ~>と、ニンマリ、愛想を崩すのである。この手の口で、Tは女殺しの腕を磨いていた節がある。・・・これは、私には一切責任の無い彼の『風評』である。

 車から降りると、玄関脇のツゲの木に、雌ジョウビタキのバルディナが、飛んで来た。足を止めて、彼女の動きを見守る。チョン、チョンと、小枝を渡って、尾羽を小さなタクトの様に、動かすと、再び小枝に渡る。四畳半横の雑木の横枝に止まると、ふっくらした、くすみのある鶯色の後姿を、暫く見せてくれた。丸い柔らかな黒い目と幾分緩やかなの動きには、雌鳥の柔らかさが伝わって来る。何日か見掛けなかったが、如何やら息災の様子である。他愛も無い勝手な擬人化であるが、名前を付けると、他人には見えて来ない『北国からの使者』である。

 着替えて部屋で、催事コーナーで買って来た、500円DVDムービー5本のパーケージに、目を通す。さてさて、どれからお付き合いをするか、・・・・ 冬の夕暮れは、早い。
グラスに注いだ日本酒が、既に心地良い気分に誘っている。<ソドムとゴモラ>を手に、部屋を移す。リメイク版であるから、凡そのストーリー展開は、頭にある。西洋時代劇には、宗教上の逸話を題材としたものが、殊の外多い。これは、旧約聖書にある逸話である。日本の時代劇には、宗教の縦糸は微塵も無い。西洋人の精神の縦糸と日本人の精神の違いを、考える周辺材料には成ろう。仕入れて置けば何時かは、ひょんな処で、ご利益に与からぬとも限らない。私は、無信心に近い仏教徒であるからして、酩酊に何時没しても、好かろう。

                                          ほやほやの1/7

心何処ーショート 一難越して

 如何もロートルには、パソコンは、自由に為らぬ代物である。肝心要のMS-IMSツールバーが、何処ぞに雲隠れしてしまった。バカの一つ覚えの『平仮名』打ちであるから、一気に顔面蒼白である。田村正和の『鹿鳴館』を見る心算が、とうとう見れず終いであった。ツールバーが、お姿をお見せに為らずば、新たな趣味が必要。写真に嵌ったら、凝ってしまう。説明書を探し出して、トホホの数時間であった。つくづくと、ロートルの悲哀を感じる次第である。
 
 文字では悪戦苦闘などと書くが、その実態は、文字ほど格好の好い物では無い。悪戦苦闘なら肉体が使えるから、未だ様に為るのだが、タバコを咥えて固まっているだけの、テイタラクでしか無いのである。知らない、分からない。従って中身が一瞬にして、消滅してしまい兼ねない恐さがあるから、初めから腰が引けてしまう。ロートルには、機械物に対する<駄目もと>の感覚が、皆無に等しい。そこが幼児期から、遊び・慣れたラジコンカー、ゲーム世代と、根本的に違う世代ギャップの所以である。拾い読みをして、漸くページに辿り着いて、恐る恐るクリックして行くと、『天照大神』様が姿をお現わし下さった。

        漸くのブレイク・タイムのコーヒーを啜る。

 胸を撫で下ろし、水槽を見遣れば、ラジオ深夜便のユッタリした語りに、金魚達は、動きの少ない上下泳ぎをしている。壁に目を遣れば、ロシア美形が澄ました顔で、此方を見ている。冷たい物である。

 明ければ、清々しい日曜日の陽光である。光を浴びて、魚鱗が緩やかに光る。咲き切れぬ小草の薄紫の花弁の膨らみは、それはそれとして、中々の繊細さを見せてくれている。正月賑わった斜向かいさんのベランダには、洗濯物のシーツが白く反射している。

 昨日はM氏の来訪を得て、モンモン充満するタバコの煙抜きに、窓を開けると、窓辺の雑木に百舌が止まって、キィーキィー鳴いていた。至近距離である。人間界と自然界の境界が、薄らいでいる昨今である。春になったら、窓を全部明け払って、小鳥の止まれる適当な枝を、四畳半の吊るして見ようかなどと、他愛の無い事を思う。
 これは、意外と成功するかも知れない発案である。幸い我があばら家には、木々が多い。廊下の戸を全部明けていると、何度かは小鳥が入って来たものである。ある時、四十雀を貰って来て、飼っていた事がある。廊下に吊るした鳥篭に、四十雀が飛んで来て、敢え無く御用と成って、仲良く鳥篭の中で暮らす事に為った経緯もある。ロートルの億劫さと鈍感さが、小動物には人間の慈悲深さに、誤映されればシメタものである。自然界では絶対に見る事の出来ない、水槽の魚類達の艶やかな舞いの世界は、彼等にとっても、興味をそそられる空間であろう。それが、無拘束且つ観客席・食事付きと成れば、日に何時間か何回かを、我が四畳半で遊んで行くのも一興であろう。             

心何処ーショート 笑い一席

 新聞に目を通していたら、日本の知力<笑いは進化の証>の一面特集記事があった。

 高校時代、高校OBの化学教師にN・Mと云う時代劇さながらの、氏名を持つ先輩が居られた。体格も立派、顔も細面の端正であった。如何云う訳か、彼は蝶ネクタイをしていた。時々、大友柳太郎が演じる<むっつり右門>のポーズを採って、『色にも、エロ色ある。』などと意味不明の薄ら笑いを浮かべて、教室の面々を見渡して、悦に入っている始末である。可笑しな蝶ネクタイ組には、やはりOBの国語教師のK・Eなんて、家業の坊主を継ぐ名物教師も居られた。名物教師には英語教師のライバルが居られて、御2人は同窓の仲である。その口癖には、こんな行があった。

 『お前達、国語は生臭坊主に習ったら、一生の不覚だぞ。大体なぁ、生臭坊主なんだから、袈裟を着るのが筋だろうが、生意気に蝶ネクタイしてやがる。心技体同一を教える坊主が、心体のアンバランスじゃ、底が浅い。アンなのに習ったら、合格する大学も不合格になってしまうぞ。』

  それを聞き付けた名物先輩は、抜けシャーシャーと、ご持論を展開為される。

 『お前達、英語のMには、気を付けろ。この教室で、カンニングさせて遣った恩を、仇で返す馬鹿野郎だ。教育はテクニックじゃない。心だ。グァハハ、英語なんかクソ喰らえだ。日本人の心は、国語教育に仏教の慈悲心じゃい。アノ野郎は、高校時代から進歩のシの字も無い男だ。グァハハハ。』

 世界史では、<力と金は無かりけり>然とした、これまたOBの色男先輩も居られた。欲求不満の男子校であるから、授業中に白黒のエロ写真が、回って来たものである。そのものズバリだから、頭がクラクラする写真である。
 『おいおい君達、そんな物は、結婚すれば反吐が、出るほど付き合うことに為る。後でゆっくり見ろ。今は授業中だ。授業進めるぞ。早く仕舞え。』
 学校全体が、兄弟の様な雰囲気であった。思い出すと、本当にOBの多いバンカラ高校であった。

 私学文科系が進路であったから、化学の授業は、単位取得をクリアすれば事足りた。一学期で平均点を取り、二学期で平均点の半分を取れば、後は出席日数だけをクリアすれば、良い仕組みに成っていた。人間興味の無い90分授業は、苦痛である。ある時、余りの退屈さに馬鹿な事を、仕出かしてしまった。若気の極みであった。

           『ウゥーン、ウゥーーーン』

 黒板を見ながら、口を開けずに授業終了のチャイムを、小出しにして行く。ハイカラOBが、チョークの手を止める。時代劇役者N・Mが、糊の利いたアイロンの掛かった白衣の体を、教室に向けた。空耳だろうか? いや、聞こえた。怪訝な空気に、教室は視線が交差し合う。
肺活量一杯に空気を溜めて、一発勝負である。
               
               『ウゥ~~~ン、ウゥ~~~~~ン』
                    『誰だ!!』

 凄い形相である。教室にピーンと、緊張が張り詰める。時計を見て、再び黒板に向うN・M先生である。此処で引き下がっては、男が廃れる。ポーカー・フェイスを決め込んで、鼻の穴を、最大限に活用して、肺活量の限度に挑戦する。
              『ウゥ~~~~~~~ン』
                 『其処だ!!』
           振り向き様、黒板拭きが、素っ飛んで来た。
 『Mチャ、何するだ!! 俺ら、何んもしてねぇぞ!!』
サッカー部のAの机にバウンドした黒板拭きは、チョークの粉に塗れていた。Aは、本当に怒っている。当然である。奇声の発信源を知っているのは、圧倒的少数である。教室は、生意気なバンカラ集団である。さぁ、如何なる・・・ 建前上、息を潜める髭を濃くしている体格互角のヒネクレ集団である。授業を穢されて沸騰するハイカラOB、無実の後輩生徒が睨み合う。完全な濡れ衣Aの態度は、堂々としている。睨み合いの気迫は、Aに軍配が上がる雰囲気を察して、流石に化け学の先輩である。
   『ウ~ッ、悪い。連帯責任だ、俺は、船の船長だ。』
        『詭弁だ。俺は、納得しねぇ。』
  『まぁ、座れ。じぁ、真犯人は誰だ。化学に幽霊は、存在し無い。俺も許さんぞ。』
ウィーーン、ウィーーーン
        『先生、授業終わったよ。解散解散!!』
 『おぅ、そうか。これも校風だな。採点で、しっかり責任取らせるからな。』

 本当のチャイムが鳴った。全てが、ご破算に為った。真相を知っている奴らは、腹を抱えて笑い転げている。Aが、それを聞き付けて遣って来た。私とAとは、仲が好過ぎた。開口一番、 

 『バカヤロウ。何て事をするんだ。クックック、ちょっとタンマ、ヒィ~ヒィヒィ、プァハハッハ・・・ でも傑作だったなぁ。Rの仕業だったか、参ったな。チェッ、しょうがねぇもんだ。』
 『悪い悪い、でも、Mチャも大したもんだ。さすが俺達のOBだ。<船長>は好かった。お前も<詭弁だ>何て言葉、咄嗟に良く出たじゃないか。点数上がるぞ。それに引き換え、何時かはバレル。俺は、減点がでかいぞ。試験頑張らなくちゃ・・・』
 『そりぁ、しょうがねぇだろう。お前の減点分は、しっかり俺が貰うからな。安心しろや。早い方が好い。R、職員室行って来いや。Mチャ待ってるぞ。エッヘッへ。』

 事の成否は、明らかである。目測を誤った黒板拭きが、仲の悪い奴に当たったとしたら、それこそ一大事であった。今度は、私が責任を取る番である。爆笑の対価は、払わねば為らない。

 『ああ、分かってる。チョクラ、行って来るわ。デカンショ、デカンショと威張るな先公。先公、生徒の成れの果て。生徒・生徒と威張るな生徒、生徒、先公の一滴 トホホだわさ。』

 職員室で、直立不動のお説教を承って、大幅減点は、念書と引き換えに、チャラにして頂いた。

心何処ーショート 夜更けの錯覚訂正

     夜中、腹が減った。かと言って、台所で物音を立てるのも憚れる。
            そう云えば、日清チキンラーメンが、あった事を思い出した。

 丼に入れて、ポットの湯を注いだ。即席ラーメンが登場した頃は、この手の味付けフライ麺しか無かった。即席麺は、今や世界食である。好み、用途に応じて、多種多様・多彩な物が広く出回っている。驚いたのは、昨夏ロシアで海のアウトドアに誘われた時の、幼児の離乳食に中国製カップラーメンが、使われていた事である。それは、チキンラーメン同様の味付けフライ麺であった。

 味付けフライ麺は、待ち時間が少ない分、如何しても『フヤケ麺』の悪イメージが、先に立ってしまう。従って、私の中では、一番地位の低い即席麺となって、長らく固定されていた。完全に好みの問題であるが、私は明星チャルメラの塩ラーメンを買ってしまうのが常である。それは、譬え安価・手軽な即席麺と云っても、何かしらの具を入れて、食べないと堪能しないのである。

 然し、チキンラーメンは、テレビのコマーシャルに映る根強い人気麺である。コーナーを埋める即席麺から、チキンラーメンをチョイスしたのは、多分、初めての事では無いだろうか?      
<これ程までに人気を保っている商品に、衝動的な好奇心が湧いたのである。> 早速、一食食べてみた。残念ながら、味覚嗜好の違いであった。そんな訳で、不遇を託っていたチキンラーメンであった。

 成る程と、今回、その人気の秘密が、遅まきながら認識出来た次第である。丼に入れ卵を落とし、ポットの湯を注いで3分待つだけの重宝さが、支持される所以だったのである。徹底した手軽志向を追及した安価商品であろう。丼一杯に茶色をスープに変えて、フヤケタ柔らか麺を、腹に落としながら、考えた。

 これは、完全なる有事食である。この素早いフヤケ速度は、お湯で無くとも水さえ有れば、立派な食料と成る。即席麺の王座を占めるカップ麺は、容器が嵩む。容器不要の袋入りチキンラーメンは、容器の分が省略出来る。合理的にして、手軽・安価である。私が軍人、ゲリラ兵だったら、文句無しでチキンラーメンを指示・携行するだろう。軍事・救援物資として、一体どれ程の需要があるのか・・・ 要素分析に徹したチキンラーメンの底力に、脱帽・恐れ入ってしまった。



心何処ーショート 好天一打ち

 10時の目覚めである。すっかり部屋の中が明るい。ノンストップの快眠は、何ヶ月振りの事であろうか。慌てて老母の部屋を明けると、ストーブが付いてテレビを見ている。早速、最後となった雑煮の支度をする。小さい頃から、私は母親の作る雑煮が、大好物であった。砂糖醤油で漬け込んだ鮭の切り身を焼き、糠漬けの塩のきつい沢庵を切る。焼けた切り餅を大振りの黒椀に入れ、鳴門・三つ葉を乗せ、鰹のフレーク缶で出汁を採った牛蒡・人参・エノキ茸・シメジ茸の具沢山の醤油ベースの熱々の汁を、たっぷり掛ける。濃厚にして、香り立つ感性の一品である。

    「今年は、毎日、美味しい雑煮を食べさせて貰った。好いお正月だった。」
 私の料理の腕前は、如何やら母親を超えているらしい。どうせ作らなければ為らない物なら、美味いに越した事は無い。本日も、太陽に恵まれそうである。廊下に取り込んだ洗濯物を、物干し竿に拡げる。テレビ、新聞では、昨日が列車帰えりのピークであったそうである。
愈々都会では、2008年の始動開始のベルが鳴るのだろう。

 昨日は、サラリーマン時代に目を掛けていた弟子に電話をした処、『現在位置駅前』との事であった。家族サービスor飲み会orデートなのかは、下衆の勘繰りである。彼も、私の稀少なる読者の1人である。パソコンには馴染まない男であるから、下手絵を閉じ込んだコピーのプレゼントを、励行している次第である。彼は未だ未だ忙しい現役であるから、自薦作をコピーしてポストに入れて置いた。

 テレビを見ているとタイミング良く、ローマ1000年史の長時間番組を、放映していた。大衆受けする好番組であったが、成る程、効率に敏な御時世、範囲の広い世界史は、若者には敬遠の対象らしい。こんな処にも、日本人気質が見受けられる。番組を能動的に見るか、受動的に見るかで、番組から得る色合いは、大分異なって来る。番組の趣旨からは、ピント外れであるが、妙な処で感心してしまった。イカンいかん、ロートルの出る幕は、無さそうである。導入劇の中に、イギリスの大俳優リチャード・ハリスの姿があった。もう大分高齢の筈であるが、一番に光った存在であった。人間の存在感として、斯く在りたいものである。

 正月休みの好天の1日である。実に、静かである。四畳半の定位置にどっかり腰を落ち着けて、グラスに日本酒を注いでいる。呑まねば、大半は調理酒に化けてしまう行く末である。呑めば、酩酊・まどろみに彷徨う我が身である。気違い水として、日頃は避けて通る液体である。ラジオの昼の演歌が、またグラスを注がせる。ピーナツを開け、口に運ぶ。手を伸ばせば、大体の物が掴める物臭居住区である。世話を焼く者の居ない、私には最良の空間である。

  如何なる事であろうか、賄い夫2008年。
  気負わず、考えず、知らぬが花を実践して、
  流れ流されて、美形の夢を見る。・・・・1/4

心何処ーショート あなたなら、如何する

 惰性人間である。師走・大晦日・新年と、日が、月が、年が捲られて行く。退屈はしないが、決して人様に薦められる日々では無い。何はともあれ、2008年のスタートである。

 本に目を通していると、西洋文明発祥の地であるエーゲ海に点在したギリシア人の世界(BC8C~4C)では、最盛期アテネ30万都市、スパルタ7万都市であったと云う。BC4Cには、マケドニアのアレクサンダー大王が、3万5千の軍隊を率いて、24万5千の軍隊を擁するペルシャ帝国を滅ぼし、陸続きにインドまで達したのであるが、地中海の覇権を争って、BC3C~2Cの100年、三次に亘る大戦争を繰り広げたローマとカルタゴの軍隊規模は、ローマ8万、カルタゴ5万であったそうである。ローマが全地中海に君臨したのが、BC64年で、その当時のローマ市民は、未だ100万人に届かなかった時代だと云う。
強国・大国興亡史への想像は、現代にあっても、イメージを膨らませるものである。軍事国家・スパルタ教育で名高いスパルタの国家体制は、色々な面で引き合いに出される歴史の教本である。記述の中で目を引いた箇所は、カルタゴは2千人の市民が、7万人の被征服民の上に築いた都市国家だったと云う記述であった。アテネとスパルタの人口比は、4:1弱である。交易都市と農耕都市の都市が要する事の出来る人口の経済規模の違いであり、方法の違いでもある。大帝国ペルシャの軍勢24万5千は、度外視するとして、BC4C~2Cに於ける環地中海の強国の軍隊規模は、8万~3万5千の規模であったと云う事である。

 それから、2千年が経過した。今や、地球の隅々までもが、世界であり、地球人口は60数億と云う時代である。アフリカのマサイ族も、携帯電話を持ち歩く時代である。嘗て自然の営みの中で、海流・季節風が、広大に巡る事の出来た『水の惑星・地球』の姿である。
 隔絶された文明が、衝突・融合を繰り返し、科学から化学の時代を一気に駆け上がって、今や、瞬時にして電波が、人間の意思を発信・受信させる事が出来、マネーの電子環流が、24時間巨大な経済波、潮流となって、地球に渦巻く時代となってしまった。マネー・人・物・情報が、世界の発信基地・受信基地を殆ど同時に繋ぎ、データー蓄積・分析をコンピューターが、一瞬にして画面に映し出してしまう。人類の蓄積・優秀な頭脳・装置が、大量生産の恩恵で安価の内に、大半の人間の手に入る時代である。
 正確さ・便利さの裏で、作る側と使用する側、創造・生産が分離され細分化され、遮断される。加害者と被害者の帰属さえも、細分化と遮断化の果てに、追及すらも出来なくなってしまった。吐き出され、流される何十億分の一としての個人。そんな個人としての無関心の内に、蓄積された人口問題・食糧問題・エネルギー問題・・・etcの果てに、<地球の全存在に対する脅威地球温暖化の『不都合な真実』>が、突き付けられてしまった。

 21Cに突き付けられた『人類の負の遺産』に対して、国家・企業・個人レベルの良識・行動で、解決出来る問題なのだろうか? 真剣に考えたら、どうしようもない『生物の近未来』が、巨大な口を開けて待ち構えているのだろう。警鐘に耳を傾け、どんなに熱く語ろうとも、現実の負の遺産の支払利息は、サラ金以上の高利である。聞き流して、個人で出来る事をしながら、その時を待つより他は、無さそうである。
          
        責任の無い初夢のお告げとして、言うならば・・・・
 国連決議で、200~300年地球全体を、自然現象を除いて冬眠させる事しか、抜本的処方箋は無かろう。手塚治虫の有名な作品に『火の鳥』がある。その寓話の中に、人類滅亡後の地球の主に、ネズミが成ると云うものがあった。爬虫類の恐竜全盛時代に、地球はその時代の殆どを失ったそうである。ゼロorマイナスからのスタートの方が、宇宙の奇跡の惑星地球には、相応しいのかも知れないが、折角此処まで進んだ、人類の技術体制である。「不都合な真実」に、まっしぐらに突き進む21Cであるならば、全地球仮死状態で何世紀かを眠らせ続け、その間に地球の自浄能力に期待するのも、好いのかも知れない。仮死爆弾が地球の大気圏を覆って、目覚める人間もあれば、仮死爆弾が、その儘、安楽死爆弾に成るかも知れぬが、責任の所在を問えぬ人類の負の遺産と為れば、全体責任として絶対的平等の運命を共有するしかあるまい。物語的に言えば、パニックを如何乗り越えて、苦渋の人類の未来を託す選良を等と、ノアの箱舟の様な事は、叶えられぬ現実である。

 大統領も首相も、大富豪も貧者も、天才も愚人も、聖者も悪人も、・・・・ 
 区別する必要も無かろう。とんだ近未来の幕開きである・・・・
 あなたなら、如何する、泣くの笑うの、死んじゃうの、
 あなたなら、如何する・・・わたし、待つわ。わたし、待つわ。

 深夜テレビを付けたら、ドキュメンタリー『民主主義』のタイトルで、南米のベネズエラでの選挙による革命を放映していた。インカ帝国が、16C前半にスペインに倒されて以来、先住民が、5Cに亘って白人に搾取され続けた国であり、麻薬コカの栽培が横行するお国柄である。(映画では、クロコダイル・ダンディの中に、その様子が描写されている。)彼の地はキューバ革命の闘士・チェ・ゲバラの終焉の地でもある。ゲバラが武力で成し遂げられなかった革命を、奪われた先祖の土地を奪還して貧困からの打破・反米を、旗印にして一般民衆が、投票行動で大統領・下院を制した暴動・混乱の国である。民衆の議会を目指す大行進は、さながらに映画に見るシーンである。民衆主義をリードしたチャペスが、大統領に就任したものの、体制を打破して、新体制が軌道に乗る為には、幾多の権力闘争・汚職の大混乱が待ち構えている。毛沢東、スターリン、ポル・ポトなどの化け物が、混乱の過渡期を必要悪として君臨するのが、歴史の示す道でもある。そう云えば、メキシコ革命の栄光と陰を凄惨に描いた革命児サパタなんて名作があった。(出演 マーロン・ブラント、アンソニー・クイン)

 民衆、日常に民主主義が形を現わすには、少なくとも半世紀を要する。辛く気の重い人間の歩みだろう。この現実の前に、言の葉は、余りに小さい・・・
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