旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処ーショート イーデス・ハンソン
 新聞を読みながら、ラジオを聞いていると、心地良いお喋りが聞こえて来る。おやおや、イーデス・ハンソンさんである。私は、若い頃から彼女の大ファンである。彼女の顔も、雰囲気、頭の中も、実にシックリして心地良いのである。第一印象の自分の好みの顔をした女性が、外面・内面ともにフィーリングに合うなどと云うのは、実に有難い事であり、手放しの拍手を送ってしまうのである。アメリカから日本文化に惹かれて、来日して結婚、離婚をして、自分の気に入った所を見付けて、自分らしくマイ・ペースの日常を送って居られる。

 私は小さい頃から、変な趣味があって、これはと思う人を見付けると、末永く、その人達の足跡を追って行くのを、楽しみとしている。好いものを持たされて生まれて来た人達は、歳を重ねて才気の角が取れて、実にゆったりとした内面の豊かさを、表情・会話のリズム・テンポ・イントネーション、間の取り方に現わして下さる。表を飾る必要の無くなった実のある才気は、簡易な言葉の裏に、多くの含蓄を滲ませて、その人の味を伝えてくれるものである。

 言うならば、自然体の人間の魅力なのであろう。魅力は、その人の味であり、内面と経験が滲み出るのが外観であり、内面と経験が加工された物が、雰囲気なのだろう。そして、何らかの価値を持った処に、その人の個性が『味』として漂うのかも知れない。

 体・顔の造作は、人間には整形手術をして、削るか、加えなければ為らない代物である。人間の顔の中で、目と目の間隔は、手の施しようが無いと云う事である。人が人と相対する時、一番注目し合うのは、相手の目とその動きであろう。人の身体の中で、感情・心と直結する器官の中で、目ほど正直に相手に伝わってしまう物は無かろう。内面を蓄積して鍛えるという事は、案外、目の色を蓄積して鍛える事に、通じているのかも知れない。
『目は、口ほどに物を言う。』良い言葉である。そして、目は、内面を言葉として語り、文字に現す。目の先は、外に向うと同時に、内に向かう、人間の玄関である。

 到達すべき気分・心の安定は、難しい事には違いない。喜怒哀楽の四十万(しじま)に、翻弄されてばかり居る男である。生を受けて成人した以上、自己責任の操縦桿を握って、右に左に舵を取りつつ、エンジンのスロットルを加減するより他無い。

    儚き紫煙の先を追いながら、思う。
    凡人であっても裾野までは、行きたいものである。
    無理をすれば、斑(むら)、無駄が出来る。
    無駄を捨てずに、斑の隙間を埋めたいものである。
    風邪に伏せる蒲団の中、ふと目覚めた未明である。
    2007/12/31
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心何処ーショート 厄介物

 午後は、買い物に行く。正月用品で、店は華やかである。生まれ故郷北海道から、特大の新巻きサケが届いた。出刃包丁が無いから、切り身にするのに、手間が掛かった。正月の最小限の飾り付けをして、一時間の昼寝をする。

 習慣の熱帯魚コーナーを見物すると、どの水槽も魚達で一杯であった。冬であるが、金魚・熱帯魚の需要は多いのであろう。暖房時代の室内インテリアの場を、確保している観賞魚達なのであろう。寒々とした外の風景には、室内の観葉植物、動きの彩りに、心和ませたいのが、人情である。本日は、珍しく温かいから、グッピィ槽は、覆いを開放のままにしている。飼い始めて見ると、魚類飼育は、意外と手の掛からない楽しみである。<飼い主の善管注意義務を果たしているか>と、問われれば面目次第も無い手抜きの極みであるが、今年の魚達は、実にしぶとく生き続けているものである。これは、ひとえに環境保全に適合なさっている、名も知れぬ雑多な微生物群・カワニナ達のお力添えの賜物である。

 M氏は、可哀想に仕事が終わらない様子である。人の良い・責任感の強い御仁であるから、休みの日も、仕事に対する自分の気持ちに、向き合っているのであろう。M氏、ゴールは目前である。団塊世代、気を抜かずゴールのテープを、胸に引き摺って走り抜けるだけでありまする。

 変化の無い生活を送っていると、クリスマスも正月も、関心が薄くなってしまう。この分で行くと、益々、出無精の物臭オヤジに為ってしまうのだろう。尤も、悲観する気は、更々無いのだが。この頁を何とか埋めれば、ショート片が丁度100頁に成る。年末年始の国民的休暇であるから、それに因んで、本来のズボラを決め込む魂胆なのである。

     もう一息、後10行弱を加えなければ、収まりが悪い。

 それにしても、トラックバックに足跡を残すアダルト・サイトの輩には、腹が立つ。小生も自他共に認める『好き者』の端くれの一人であるが、やはりその方面は、<蛇の道は、蛇>であるから、個人の意志を尊重して、静かに、<ご来店>を待っていれば良さそうな物である。何も、進んで<訪問勧誘>をする程でも無かろう。時々、我が身に宿る『好き者臭』を落としに、温泉銭湯で洗身を徹底しているのであるが、『類は類を呼ぶ』のであろうか・・・ 

      表現・行動の自由は、時として厄介なものである。


心何処ーショート 歌のクリック

 昨夜は文作を携えて、友人の所に行く予定だったが、雨が降って来た為にパスした。ご無沙汰していると、嫌われてしまう。反省して、ブログ投稿の中から、自薦作を何篇かピック・アップして印刷をし、ムードに合った下手絵を2枚入れて置いた。

 夜、電話があって、M氏が本日顔を出してくれるとの事である。有難いお気遣いである。介護手続きの件で親切にして貰った婦人に、無理矢理押し付けた短編小説集百数十ページ綴りが、漸く帰って来た。気さくな感じの整った50代の奥さんである。感想を恐る恐る訊くと、オーバーな恐縮の態で、「お宅、何者ですか?」なんて、とんでもない事を仰る。「見ての通り、うらびれた賄い夫に決まっているでしょう。」とニヤリ応える。

 太陽の光が、射し込んで来る。ラジオでは、昨日より5℃ほど気温が高くなると云う。グッピィ槽の前の覆いを外して遣る。水槽の隅に、切れ端を根付かせた水草の茎から、緑の葉が伸びている。段階的に大きさを分けた二期生、三期生、四期生達が、泳いでいる。二期生の尾ひれの隅には、辛うじて色が、確認される程度である。底の小石の重なりに、目を凝らして見ると、やはり芥子粒達が動いている。数から言えば、2週間と生きることの出来なかった1弾・2弾のグッピィ達の数を、大きく上回っている筈である。

 ラジオでは、男女4人の語らいに乗って、日本のオールディが流れている。キャスターの1人に昭和23年生まれの女性が居る。従って、私とは同年である。彼女の話に依ると、その年齢者の見合い、恋愛結婚は、ほぼ半々の比率であると云う。成る程なと云う感覚であった。彼女の話し口を聞いていると、女房と同じ様なトーンの話方である。変な物言いでは無いが、戦後強くなったのは「靴下と女」と揶揄された時期があった。女が男と意識の上で、同等と成って行く過程と共にあった世代である。時代の匂いが、伝って来る。

  懐かしいカルメン・マキの「時には、母の無い子の様に」が、流れている。

 私の好きな歌であった。日本人離れした多分彼女は、ハーフだと思ったのだが、彼女の歌うテレビ画面に釘付けに成っていると、退廃的ムードが嫌いと言い切った男が居た。不躾な男であった。人の世に、歌の数は星の降るほどある。人の心の状態も、喜怒哀楽・悲喜交々である。心に映ったその時々にマッチした歌を、チョイスして聴き、口ずさめば、それで好しである。歌とは、そういう物であろう。心を映して、色んなジャンルの歌が生まれるのが、自然である。選択するのは、飽く迄、自分の気持ち、心である。つくづくと人の脳の、収納の仕組みとは、魔か不思議なものとしか言い様が無い。一つの歌が、パソコン画面の中の様に、クリック一つである情景・状況を、瞬時に写し始めるのである。彼是40年近い1度も脳裏を掠めなかった情景の一つであった。                                  

心何処ーショート 小人の愚痴

 「会社辞めたんだってなぁ。」
 「ああ、そうだよ。動けんから、誰かが、面倒見るしか無いだろう。」
 「折角、来たんだから、如何して一緒に、お茶くらい飲めないの」
 「俺が居たんじゃ、話しづらいだろう。ゆっくり、話して行けば、良いよ。」

 気にする事は無い。お互い、役にも立たない話をしても、仕方が無いだろう。人間、面と向かっては出来ない話の方が、話が弾む事もある。そして、それで気の済む事もある。どうしようもない分かっている事は、黙っているに限る。得る物と失う物を秤に掛ければ、知らぬが花の事の方が、ずーと多いのである。これをニンポウ(人法)<隠し身の術>と言うのである。
 
 曇天続きで、気が滅入る上に、床に伏せる老母の所に、次兄が顔を出した。口先の愚痴ばかりを溢す性格は、小さい頃より虫唾の走る兄であった。性格がまるで異なるから、必要な事以外では、顔を見たく無い男である。そんな男に限って、兄貴面をするから、手に負えない。私自身のストレートな気持ちからすれば、好き好んで兄弟に成った訳では無い。芥川龍之介の『河童』の心境である。

 老母は、昔人間の誰隔て無く、母としての『聖母マリア像』を演じてしまう。勢い兄弟、他人が入ると不器用な私の悪口を、捲し立ててしまうきらいが、出て来てしまう。私の気持ちからすると、完全に不意打ちを喰らった感じがしてしまう。客観的に母の性格を観察すると、実に強かな性格の持ち主である。場を見て、右にも左にも調子を合わせる。これは、場合に依って、長所にも短所にも通じる強かさである。若い時分、必死で観察と分析を試みた時期があった。到達した結論を、胸に温存している。基本的には、結論に振れは無い。兄弟が母に見る聖母マリア像は、私に言わしめれば、そうして置く事で、母子の表面だけを掬う、彼等の心の偽善である。

 私は、長兄に短気粗暴の性格を直す目的の為に、学校に遣られた男である。こんな隠して置きたい性格を持つ男ではあるが、少なからず、言って良い事と言っては為らない事の区別くらいは、心得ている心算である。人間は、悲しいかな突き詰めれば、独自の感じ方と体験を持って、自分の言動を発する感情的生き物である。親子・兄弟といえども、違い・間違いだらけの自己優先的生き物である。気取って見ても、始まらぬ性・業の正体である。

 開き直れば、所詮は、他人なのである。他人であるからこそ、TPOに応じて、感情表現・言葉の加害行為を調整しているのである。また、使い分けなどの調整をすべきなのである。言葉の使い分け、加害行為の調整力の無い御仁は、私にとっては、願い下げなのである。(許す許さないは、別として)冷静さを失って吐露される言葉には、前提と成る感情の蟠(わだかま)りが、フツフツと沸いているのである。人間である以上、それは当然の現象である。聞いてくれる対象があれば、聞いて遣れば良い。勿論、裁判では無いから、当事者が居ない方が、気兼ね無く、悪口・愚痴は溢せるのである。加えて、一過性のものなら、人間は、気が済むのである。弱い人間同士が暮らす娑婆の世の中、大いに結構である。知らぬが花、仏である。

 然し、それを厭う輩も居るのである。同席させられて、そんな湿った話にお付き合いするほど、私は人間が完成されて居ないのである。私の物分りの良さは、『底の薄い演技』でしか無い。ズケズケの感情語が許されるのが、血を分けた身内という免罪符があると考えるのなら、席を外す私の幼稚な対処方も、これまた血を分けた身内の免罪符であろう・・・私の開き直りである。

 内なるドロドロした己の分身達と、如何向き合い、沈静化するのが、感情・心の御し方である。方法論としては、宗教・仕事・趣味・家族友人に、感情・心の安定を求めるのであるが・・・凡人・小人の心に住まう感情の勢い・せめぎ合いは、絶えず華奢なる移ろいの連続である。心や何処で、大波、小波の波間に翻弄・浮き沈みするのが、しばしばである。振幅を最小限に抑える凡人の最大の手立ては、諦めた振りをして、流れ流される術を演じるより、仕方があるまい。

 無言の抗議、無言の感謝・労わり、せめて言葉以上の感情・心の伝わりが、時には欲しいものである。・・・ イカン、イカン・・・・遺憾の極まりである。

      フーッ、漸く、感情を鎮める事が、出来た様である。
 Tにtelして、友の声を聞く。気分直しに、温泉銭湯に浸かりに行く。今日に限って、客が多い。時間潰しであるから、洗い終えた後は、浴場で胡坐を掻いて、和風サウナの気分である。熱い本式サウナは苦手であるが、湯殿湯気は、結構気持ちの好いものである。

 買い物をして、飯の用意をしようと声を掛けると、「要りません。」との拒否である。湯に浸かって、垢を根こそぎ落ちして来てしまった。すっかりメッキが、剥げてしまって居る。一気に血液が、鶏冠に逆流して行く。危険水域である。やばいヤバイ・・・

 加齢の功であるから、携帯をポケットに散歩に出掛ける。こんな事は、これから先、日常茶飯事で続くのであろう。カリカリの真っ最中に、親子兄弟の中で、怒鳴り合っても、汚い絵を増やすだけである。これも何かの天啓である。冷静な内に、兄弟の偽らざる気持ちを、弟に知らせて置こうと考えた。体育会系血液が通い合っているから、ゲラゲラ、笑いながらの事情聴取である。

「で、如何する。俺に手伝える事は、あるか?」「言っても、詮無き事だよ。何もしなくても、好い。何かの折に出たら、アイツの気持ちは、こうなんだと伝えてくれれば好い。血を分けた身内の1人くらいは、俺の真意を心に留めて置いてくれれば、それで良い。」「うん、分かってる。何時でも電話しろよ。」「おう、そうか、アリガトさんよ。じぁな。」「おう。サンキュウ。」

心何処ーショート 昔話一席
 あんな事を女から言われたら、男は返答に窮してしまう。言われた男は、ドラマ同様に、ああ応えるしかあるまい。観客の視聴者は、当事者では無いから、高みの見物を楽しむ事が出来る。生の当事者の胸の内から言ったら、『ああ応える』しか無かろう。男と女の違い、質問者と応答者の違いかも知れぬ。

      「ちりてとちん」を見ていたら、過去が一気に甦った。
 30倍の大学の門を潜った。時代は、日本全国、学生運動に揺れに揺れていた団塊世代の青春期であった。ヘルメットにタオル覆面、竹ざおに鉄パイプ、ビラにアジテーター、シュピレヒコールの大デモ行進、大学は、喧騒の真っ只中にあった。とうとう2年の時、大学側のロックアウトで、私達学生は、大学から締め出しを喰らってしまった。

 そんな中で、学友の1人にアルバイトを頼まれた。喫茶店でのウェーターの仕事である。
「嫌なこったぁ!!」であった。真面目・内気なガリ勉タイプの学友であった。

 同郷の彼女が出来て、彼女に誘われての喫茶店アルバイトをしている。自分1人では、恥ずかしい。お前と一緒なら、何かと心強い。こんな事を頼めるのは、お前だけだから、俺の恋成就の為に、一肌脱いでくれとの骨子である。

 「とんでも無い要請である。」硬派の俺が、何でペコペコして喫茶店ウェーターに、付き合わなければ為らないのか。アルバイトするなら、俺は肉体派。実入りの良い肉体労働の方が、性に合っている。

 然し、<恋は魔物、心を占領する。身に覚えのある恋の切なさである。> 散々粘られて、2週間の期限を付けて同意した。仕事場は、東京駅の中にある客の多い喫茶店であった。ウェイトレス3人の中の私1人であった。初めてのサービス・接客業である。安請け合いをしてしまった自分を、情け無いと感じるスタートであった。1週間が過ぎた。<人が好いにも、程がある。>完全に選択ミスであった。約束違反であるが、何時辞めようか、何時口に出そうか・・・私は、悶々とした時間の中に居た。

 彼は仕事が終わると、彼女を伴ってコーヒーを、飲みに遣って来ていた。上手く行っているらしい学友の顔を見て、人助けの目的は、達成されているのであるから、義理は果たしたのである。折り返し点を回ったのであるから、後は目を瞑って、引き算の日を送ろうと考えていた。

 繁盛する喫茶店であった。早番と後番の2交替勤務であった。勤務が終わって、更衣室で着替えて、タバコを吸っていると、見掛けない女の子が入って来た。喫茶店は、支店を何軒か持っていたので、支店から回されて来た娘なんだろうと思った。

      <好い女である。上玉である。好みのタイプであった。>
 幸い、辞める事は、口に出していなかった。男にとって、美形に惹かれるのは、今も昔も変わらぬ『胸のときめき』である。お互い初対面の会釈しただけで、更衣室を出た。

 彼女は、お嬢さんが行く女子短大の学生であった。やはり友達に誘われての社会勉強の心算からだと言う。行き掛と動機の類似に、お互い大きな苦笑であった。彼女は、静岡出身の一つ下であった。見るからに、育ちの良さそうな伸びやかな女子大生であった。互いに目を合わせるだけの勤務態度であったが、好感を抱きながら、何日かが、過ぎて行った。授業が無いからと言って、彼女は早く来る様になった。店の方針で、学生アルバイトの私達は、後番主体の勤務に成った。後番は、バーテン1人と、私達2人だけであったから、日に日に親しくなった。一番楽しい時は、コーヒーの出前であった。銀行の会議室に、良く行かされたものである。店に居る時は、人目があるから、不必要な会話は出来なかったのであるが、コーヒーの出前は、重いコーヒー・セットを持参しなければ為らなかったから、嫌な仕事は、専ら私達に回って来たのである。2人だけになると、彼女は、ちゃかり腕を組んで来た。私は大いに照れたものであるが、実に楽しかった。

 店には、色んな客が、コーヒーを飲みに遣って来た。金持ちお嬢さんらしい女子大生組が、こっちを、ジロジロ品定めをするかの様な目線を送っている。手が上がれば、『はい、何でしょう。はい、分かりました。少々、お待ち下さい。』ウェーターの辛さである。女組は、いやに堂々として、何と無く気安い態度で、私の顔を覗き込む様な眼差しで、微笑んで来る。

 田舎出の私には、<東京の女達は、凄いものだ。俺が助平なら、軽く引っ掛けられて、泣きを見るかも知れないのに、俺に度胸があれば、鴨がネギなんだろうけど、イヤイヤ、俺は失恋中の謹慎の身である。我慢我慢・・・>

 「ねぇ、昨日、来たでしょう。友達。あなたの事、褒めていたわよ。羨ましいって、終わったら、何か食べに行きましょう。私の奢りよ。お似合いだって。」
男も女も、考える事は同じである。好い相手が出来ると、自慢したくなるのが、心の常である。

 1度、私の変化を見破られて、二つ違いの刑事の兄が、喫茶店に顔を見せた。
「ハンサムね。2人ともハンサム。お兄さん、色白いのに、あなたは、黒いのね。2人とも、モテルでしょ。兄弟だから、良く似てる。色々言われちゃった。良いお兄さんね。私の好みは、やっぱり、あなただな。」
「何を生意気な事、言ってるんだ。年下のクセに、バカヤロ。兄貴には気を付けろ。好い男なんだけど、女好きだ。デリカシィが欠けてるから、要注意人物だぞ。アハハ。」
立ち通しの仕事で、足はパンパンになったが、心ウキウキの日々が続いた。

        ある時、彼女がソワソワして、落ち着きが無い。
「如何した?」
「・・・・ うん、分かる? お客さんに、誘われたの。食事しようって、どうしたら好い? あなたが駄目と言ったら、私、断る。あなたが、決めて。」
美形に見詰められて、出し抜けに、そんな事を言われてしまった男の立場としては、返答に窮してしまうのが、男の正直な気持ちなのである。男は反射的に、照れを隠そうと振舞ってしまう。
「誘われたのは、お前だろ。自分で考えるしか無いだろう。折角だ、行けば好いだろう。」
「怒ったの? 止めてくれないの?」
「・・・・・」
「じゃ、行くわ。・・・ 食事だけだもの。ドライに割り切って、美味しいもの、ご馳走になって来るわ。」

 クワ~、チクショーめ。バカヤロウ、勝手に晒せ!! 
 嗚呼、ショックショック、
 仕様が無ぇや。・・・失恋中の謹慎身分に、新たな失恋。ダブルパンチは、利くぜ。
 義理と人情、秤に掛けりゃ、義理が重たい男の世界。背中で泣いてる唐獅子牡丹 である。

 翌日、傷心の更衣室のドアを開ける。あれ彼女、授業の筈なのに、休みの筈なのに、
ああ、顔を合わせたくないなぁ~
ありゃりゃ、こっちに来る。ポーカー・フェイス、ポーカー、フェイス

 「昨日、行かなかった。」
 「あっ、そう。」
 こんな時、口には出さぬが、男の胸は安堵と喜びに、カチカチ音を立てるものである。抱締  めたくなる程に、女が輝く一瞬である。
 「安心させようと、授業サボっちゃった。おバカさん。」
 ペロリと舌を出して、微笑む彼女であった。 

 男と女、何時の世にも変わらぬ『男女の心の綾』である。一言のそれで、失う恋も有れば、それで固まる恋も有る。若き血潮は、その一時の選択を<決断>と粋がり、心に無理矢理蓋をする。若き血潮、経験を積めば、それを<縁>と振り返る。

 「ちりてとちん」・・・物語の味は、人生を積んだ味なのかも知れぬ。

心何処ーショート 今年も、年の瀬

 年が押し迫って、テレビ界は、スペシャル・1年振り返り番組の繁況振りである。近年の際立った特徴に、お笑い系タレントを司会者に置いた、評論家・政治家をキャスティングした社会・時事・政治問題を扱う『テレビ集団寄せ劇場』が、各局共にブームを呼んでいる。集団討論、集団団交、大衆団交、労使団交、債権者集会・・・etc 時代を振り返れば、現在テレビ局の視聴率を稼いでいる原点を見る思いがある。お笑い系タレントを司会に置いた処が、番組の最大のミソであり、それを許した時代の流れが、実に興味深く、気持ちの底では、原則拍手を送っている一人である。<薄れ行く垣根の功罪や、如何に>の感と言った処でありまする。

 この流れの先鞭を付けたのは、北野たけしである。同年の駿河台として、彼の足跡には、ずーと注目していた。間隙を縫って、(勿論、構成演出である。)TVタックルの番組最後の師匠・弟子、タレントの衣装を脱いだ北野たけしと政治家知事の問答は、タイミングと言い内容と言い、非凡さが良く出ていた。彼の普段の『腹芸』に、理解の薄い、乃至は堪能しない視聴者は、より直接的な『突っ込み』『罵詈雑言の応酬』ショーに、短絡的拍手・喝采を送っている。

 見た目・地位・権力・金力は、必要、有ったに超したことは無いが、人間の価値は、それだけで推し量れるものでは無かろう。それらを持たない、視聴率を決定付ける市井の一般大衆の共鳴・共感処は、何なのか? それは、言葉を使用する表情の裏にある。つまり語る人間の魅力なのかも知れぬ。人間の質の魅力としては、知識・教養、繊細さを秘めた感性と、愚直とも見える誠実さで光る<何処と無く土の匂いのする人間臭さ>なのであろう。

 コメカミに青筋を走らせて、キリギリス顔して息巻く姿は、嫌悪感が走るばかりである。心身と書いて、カラダと読ませる。言葉は、暴力も内包している。物理的な外力だけが、暴力では無い。言葉による罵詈雑言は、写真・映像に証拠として残らないだけであるが、心・自尊心に向けられた『れっきとした暴力』である。

 デリカシーを置き去りにした感情一辺倒で、発しられる罵詈雑言の多用は、ただ『野次馬達』を喜ばせるだけである。外形的に貧相この上ない連中の声高な罵詈雑言の応酬劇は、体育会系の単細胞の私には、見苦しいだけである。人様の目の無い裏で、相撲を取るも好し、ボクシングするも好し、空手・プロレスするも好しである。『才気走る・若気の至り』何て言の葉があるが、その字句の使用は、願い下げの映りである。この茶番劇を、『テレビ集団寄せ劇場』の演出などと、開き直られた日には、私は、処置無しであるが・・・

 人間は、心身の痛さを知り、知っているからこそ、言って良い事と悪い事の区別を、覚えるのであろう。痛さ・葛藤・反省・孤立の味を知るから、言っちゃいけない真と言わなくちゃ為らない嘘を知るのであろう。私心の無い嘘に、相手は惻隠の情で応えてくれるのだろう。これが通い合う相手が居るから、きっと、バカは生きて行けるのだろう。

心何処ーショート 金魚も大欠伸
 曇天、見るからに寒々した空気である。外の空気を吸うのは、午後にするとして、気力の起こらぬ雰囲気である。光の差し込まない冬の部屋は、気が滅入るばかりである。タバコを吸いつづけるが、吸うごとに不味くなるばかりである。

       気分転換に、机を替えて、ノート・パソコンを開く。
 開いた処で、言の葉が、動き始める訳では無し、困ったものである。金魚達も、退屈なのであろう、呼吸をする様な手抜きの胸鰭の返しだけで、私を見ている。ラジオを止めて、フランク・シナトラのテープを入れると、スロー・バラードである。

 いかんいかん、これでは、まるっ切り、独居老人の冬部屋の舞台設定である。おまけに流金の野郎、横目の流し目で、大欠伸をしていやがる。金魚如きに、小馬鹿にされちゃ人間様は、形無しである。耳当てをして、寒空に繰り出すより他無さそうである。
幾ら水槽の水温が冷たかろうが、自然界よりは、マシであろうに・・・ 飼い主の恩義を忘れたんじぁ、幾ら餌を食ったって、美形には為れませんぞ。バカタレものが・・・

 風が無い分、楽である。さすがに耳当ては、温かい。くすんだ風景であるから、自然と急ぎ足の歩行に為ってしまう。これでは、まるで運動優先のウォーキングである。目ぼしい物にも出会えず、何時もの折り返し点に到着してしまった。
すぐさま踵を返して、帰路に立つのも癪であるから、川原に下りる。冬枯れの叢を歩くと、注意した積りでも厄介なバカが、ズボンに付いてしまう。適当な石に腰を下ろして、タバコに火を付ける。
 
 差し当たっての〇〇〇しなければ為らないと云う強迫観念が無いから、一種の開放感がある。不労者の負い目が無いから、時間に対する従属感が湧いて来ない。物臭物には、これに勝る安定感は無かろう。運動熱を冷ますには、格好の風景である。河川敷に設けられたゲート・ボール面は、季節と共に、御老人衆の姿が消えて、枯野に同化している。身体から運動熱が放散されてしまうと、冬の枯野は、寒いばかりである。腹が冷えて来た。日陰には、先日の雪が、溶けずに顔を覗かせている。山は暗い灰色の幕の中である。重い雲に、雪の気配を感じつつ、帰る。昼寝をした後、老母の薬を貰いに行かねば為るまい。

 医院から帰れば、他愛も無く暮れ行く冬の一日である。部屋の住人達は、餌を食べ尽くして、プックリした腹を見せて、マイペースで水槽遊泳である。

心何処ーショート 推薦、夜の部

 昨日は息抜きに、下手絵を一枚描いた。色鉛筆画である。午前中は、昨夜の映画鑑賞文を打った。好きな映画の事と為ると、文作の進みも殊のほか速かった。昼風呂に入って、丹念に髭を剃る。冷蔵庫が空であるから、買出しに出掛ける。休日であるから、大手スーパーに行ったのであるが、変わり映えのしない食材の山に、出るは溜息ばかりである。しがない三度三度の賄い夫である。何を食べようか・・・買った物は、完全消費をしなければ為らない。そう考えると・・・      中々、手が伸びない店内散策であった。

 テレビを見ていると、美味そうなケーキの映像である。こんな時でも無い限り、ケーキを食べようとは思わないが、テレビ映像に釣られた振りをして、親子でケーキを食べるのも、親孝行の一つである。そう思い立ってコンビニに、ショート・ケーキを買いに行く。ついでであるから、何か、時間潰しのマンガ本は無いかと、物色していると、以下の小本が、目に付いた。

<歴史再検証・日韓併合、韓民族を救った「日帝36年」の真実・・・加耶大学客員教授 崔基鎬 韓国史家が、祖国のためにあえて糾弾。事実を無視する国に、将来は無い!「今こそ、歴史の真実に目を開け」>200頁、550円
 
 この手の本には、興味がそそられる。早速、ケーキを食しながら、老母のコタツで読書を始める。私は月並みな括りからすれば、世界史を得意とした右翼的傾向のある人間であるから、本の内容に関しては、「当たり前の事」と考える史観の持ち主の1人である。小泉さんが首相であった時に、果たして、この手の本が発行されたかどうかは、? であるが、そんな下衆の勘繰りも、末端市民の愉しみの一つである。
 
 手頃な小本であるから、面白いと思う。何年か前に、Tから買って貰った呉善花女史の「スカートの風」と云う本と併読されると、抽象と具体の補完関係が、相乗効果となって、両本の理解が一層深くなる。面白いですぞ。

 本日は、午前にDVD、夜に小本の推薦をしてしまっている次第で、誠に以って恐縮の極みでありまする。

心何処ーショート 映画考
 昨夜は、ショーン・コネリーの<理由>のDVDを、見ながらの就寝である。ショーン・コネリーは、バート・ランカスター同様、私の最も敬愛して止まない大俳優である。DVD巻頭のキッチ・コピーには、<あなたが信じたものを、あなたが疑い始める・・・ 戦慄のショッキング・サイコ・スリラー>とあり、製作総指揮と主演にショーン・コネリーとあった。

 ハッピー・エンドで終わる社会派ドラマ?? コネリーさん、お年を召して、衰えましたか・・・、残念!! それにしては、短い映画である。??? 
訝しげに思ったのも、束の間、疑心のハッピー・エンド後が、この映画の、本当の見所であった。大どんでん返しが、スピーディにスタートしたのであった。巻頭キャッチ・コピーそのままの力作であった。流石に大俳優が、総指揮・出演する映画であった。

 私が感心したのは、そんな事では無かった。『名画は、名画に引き継がれる。』この一点にあった。英国でサーの称号を持つショーン・コネリー氏である。良く映画を、ご覧に為って居られる。これは、ロバート・ミッチャム、グレゴリー・ペックが、脂の乗り切った時期に作られた名作『恐怖の岬』のエッセンスを現代風に、焼き付けた映画であった。

名作『恐怖の岬』は、何年か前にロバート・デ・ニーロ、ニック・ノルティで、リメイクされた。この映画では、往年の主役2人が、映画ファン・サービスとして、其々健在な姿を見せていたのだが、前作と比べると数段下の格落ち作で、大いに失望させられた。名作のリメイクは、原版が出色の出来栄えに依って、『名作』の地位を築いている以上、時を置いても、それに並び、超える事は、至難の業である。私の中での成功例は、シャルル・ボワイエ、アイリーン・ダンの『邂逅』とケィリー・グラント、デボラ・カーの『めぐり逢い』くらいなものである。

大俳優と云う者は、職人的演技力と映画鑑賞家として、古今の映画に対しての造詣の深さが、必須条件である事を、ショーン・コネリー氏は、物の見事に、氏の愛する映画の中に実証させてくれたのである。映画ストーリー以上のものを、コネリー氏から頂いた。氏にサーの尊称を送る英国の粋さが、腑に落ちる次第である。
蛇足ではあるが、バート・ランカスター氏の晩年の西部劇に『追跡者』の名品がある。面白い事に、監督・脚本は皆、英国人であり、演じる役者は皆、米国人である。他の西部劇と見比べて頂きたい。つくづくと、人間の作るものには、人の足跡と匂いが、漂うものである。

もう直ぐ、年末年始の休みに成る。映画鑑賞が、お好きな方は、参考にして頂いて、映画鑑賞をするのも宜しかろう。

心何処ーショート 教えて
 本日、日曜日。予報に違わず、薄っすらと雪に包まれている。日本語吹き替えが作動しないDVDに、多少苛立ちながらの、深夜寝床の映画鑑賞であった。日曜・雪・夜更かしの気持ちに、寝返りを打ちながら、ついつい怠惰を決め込む。現役時代欠かさずに見て来た日曜の報道番組は、普段ニュースに接する事が出来る毎日を送っていると、急速に、興味が薄らいで来てしまった。

 夕方のニュースで、薬害肝炎訴訟に対して、福田首相の政治決断の報が、テレビで何度か放映されていた。
<私の第一感想=日本人確りしろよ!! 母国語の用法を間違っているんじゃないの>
であった。『押し切られ』と『政治決断』は、明らかに区別されなければ為らない言葉である。 不思議な事に、大勢は妙に納得顔である。私は馬鹿であるから、その両者の違いが、解からないのであろうか? 私には、世論、庶民の常識に依る<完全なる押し切られ>にしか、思えないのであるが・・・・ 政治家・マスコミ・評論家諸兄は、挙って<政治決断>を吹聴為される。???
 倫理学には、ウェートの置き方に依って動機論・行為論・結果論・折衷論があるらしい。一方、統治論には、哲人王政・帝王学・官僚統治・文民統治なんて物もあるらしい。また、民主主義とは、民意に身を委ねるなんて、政治心情もあるらしい。立法・行政・司法、前例踏襲の官僚統治・捩れ国会、パズルを有利に組み立てるのには、根回し、タイミングが必要なのは、分かる。然し、最大の説得力は、愚直さである。

 嘗て、宇野総理退陣の時に、飛び出した『蜂の一刺し』なんて凄いものがあった。
 <押し切られ>と<政治決断>の線引きも、薬害肝炎訴訟原告団が、『女の蜂の一刺しの毒』で、引導を渡して欲しいものである。

      こんな事打ったら、俺、拉致されて北朝鮮送りに成るかな。

心何処ーショート アルバム
 ブログ散策をしていると、色んな人達が居るものである。敷居の高い、簡潔・隙の無い文章があったり、さらりと流して、余白に余韻を惹かせる文章もある。文章を覚え始めた青年の硬いが、ストレートに心象が伝わって来るものもある。思春期の自分だけの心の内を、綴った心境詩があったりもする。雑誌・テレビ・映画などの映像に匹敵、凌駕するほどの写真ブログに、出会うこともある。コミック画に至っては、惚れ惚れする出来栄えの絵に、遭遇する事もある。海外に転じれば、北欧・極東で暮らすブログにも出会える。

 便利な時代である。然し、大海に流離う言の葉の足跡である。大海を前に、物臭には何時の世にも出会えるのは、偶然・稀少の確率である。素晴らしいものに出会った時、己のブログの拙さに恥じ入る次第である。暫く休んで、修行すべきと反省するのであるが、浅学非才の物臭者が、追っ付け刃の一夜漬けで、黒いアヒルの子から純白のスワンに、変身出来る訳では無い。胸毛は白く成ってしまったが、顔の見えないブログ上である。沈思黙考では、言の葉は、打てそうも無い。出た処、勝負・下手な鉄砲も、数打てば当たるの厚顔無恥の自然体で、我が心、何処やで、駄文を打ち続けるのが、小生流であろう。

 昨夜は、細木大先生の2時間スペシャルの編集振りを、散々こき下ろして、ゲラゲラ楽しませて貰った。テレビとバカ息子の突っ込みで、老母は笑い過ぎてしまったのであろう。体調不良のご様子で、床に伏せった儘である。体調を、2週間と維持出来ない老衰進む母である。体調次第で、美形の面影と老醜を見せる母でもある。そして、老醜を見せまいとする気丈・頑な・優しき大正女である。部屋を二つ隔てた同じ屋根の下、老母の動きを待ちながら、定位置で中指一本で、言の葉を綴っている。

 気負わずに、老母と対する事が出来る裏には、良友Tの存在がある。ヤツは、柔道の猛者であった。バンカラ男子校の体育必修時間には、柔道がデンと置かれていた。模範真剣勝負に、Tと私が選ばれた。こんな時は、私の格闘細胞が躍動してしまう。負けて堪るかである。息切れの汗の中で、柔道部の彼は、素人の私に投げられてしまった。「バカモン!! 柔道部のお前が、Rに投げられるとは、何をやっとるじゃい!!」先生は、高校OBの伝説の文武両道の柔道家であった。角刈りTは、その柔道部の監督に蹴飛ばされてしまった。然し、私の中には、<先生、そりぁ仕方が無いよ。素人でも、俺、幼稚園から、ケンカの修行積んでるもの。世の中、行儀は良いけど、強いのは居るもんよ。>であった。Tがその場でしてくれた耳打ちが、奮っていた。「やいやい、きれいに舞っちゃったよ。痛ぇな。本気で蹴飛ばす事ぁ、無ぇのにな。おぅ、恐い。」悪びれずに、歯並びの良い口を空けて、ケロリと笑っている。完全に性格負けであった。その一件で、私とTが、親しくなった訳では無い。Tは第一印象から、そんな雰囲気が漂っていた男である。彼は、ネパールで柔道師範の声も掛かっている男である。

 陽の目を見ないお天気である。おやおや、白い物が落ちている。雪として降るか、みぞれ混じりの雨で、地面を濡らすか、心もとないお天気模様である。洗濯機を回しながらのブログ打ちである。ご老母様も、如何やら、お起きに成った様子である。脱水された洗濯物を、さてさて、何処に干したら好いものやら・・・ 中断して、朝飯兼用の昼食と致しますか・・・

 取り止め無き字面も、打ち溜めれば、
 溜まるページの片隅に、ヒョイと 顔を覗かせる自分が居る。

         それで好かろうよ。

 顔・風景、写真埋めるだけが、人のアルバムでは無かろうよ。
 等身大の言の葉 残すのも、人のアルバムである。
 時に応じ、気分に応じて、アルバム振り返るのも、
 息吸う時のブレイク・タイム・・・・・



心何処ーショート ああ、エコ・ライフ

 用足しに、自転車に乗る。追い風の下り勾配である。師走も下旬に入って、正月飾りの材料を積んだ軽トラックが見える。用足しの帰りには、ゆっくり外の風に当たろうかなどと、考える。

 要件を済ませて、後は私の自由時間である。100円ショップで、文房具などを買い求める。大分、大回りになるが、書店に回る事にした。確りした図鑑を買おう、と思ったのである。目指すは、市内で一番大きな書店である。図鑑コーナーに陣取って、10冊程度を手に取って、目を通した行く。手頃なものが無かった。図鑑が無い訳では無かったから、結局は現況を維持する事にした。本を読まない男であるから、値段の高さに腰が引けてしまったのである。

 DVDコーナーを覗く、4本買ってしまった。好きな物には、抑え様としても、意志薄弱のテイタラクである。読書には、速読・精読・ツンドク(積んどく)なんて、読書方があるらしい。
まぁ、気分の合間を見て、ボチボチ見れば、好かろう。夜は、長いのである。

 当初の予定からすると、「どこぞで、何か食べて行こう」と考えていたのだが、消費エネルギーの乏しい生活を、送っているので、食欲がトンと湧かないのである。食意地一本槍で、この歳まで来たのであるが、・・・・<食堂の暖簾を潜っても、潜らなくても良し>・・・などと、斜に構える胃袋の変調振りは、本人の私にして見ても、全く驚くばかりである。結局パスの憂き目を見てしまった。

 松本は扇状地であるから、随所に小さな坂が散らばっている街である。何十年も乗らなかった自転車も、使用し始めると、便利で好い物である。100%の人力車であるから、我輩は、時代の先端を行くエコ・ライフ実践者などと、気取って見る。気温が高いのだろう。雲は、輪郭のぼやけた積乱雲を、盆地に幾つか浮かせている。
 中心街を抜けて、上り勾配の一本道に加えて、向かい風である。風の当たらぬ背中が、太陽のお土産で、いやに熱くなって来た。汗を掻かぬ内に、密閉したジャンバーのファスナーを下げる。防寒手袋を脱ぎ、ローギアで扱ぐ。息が、大分上がって来た。堪らずジャンバーを脱ぎ、コールテンのシャツの袖ボタンを外す。

 小休止を取れば、良さそうなのであるが、意地張りの運動細胞が、自虐の唄を歌い始める。

<何のこれしき、エッチラホ、エッチラホ。呼吸の出来る陸上、水の中に比べりゃ、屁の河童。エッチラホ、エッチラホ。アルプス颪(おろし)にぁ、まだ早い>

  運動時間を終えて、老体の人力車夫の脚は、ふら付いている。
                        ああ、困った男との二人三脚である。

心何処ーショート ピーナツ連想
 いやはや、最高の陽射しである。グッピィのお兄ちゃんは、親を遥かに凌ぐ紅の尾ひれの持ち主である。インスタント・コーヒーとタバコ、ラジオだけで充分過ぎるほどの一時である。水槽も小鉢も、冬の限られた日光タイムを味合う様に、緩やかな動きである。

   何か短編を打とうか、それとも、安易に下手絵を描いて雰囲気を楽しむか・・・
 フィリピン航空から失敬して来たプラスチックの器に、ビスケットとピーナツを入れて、ポリポリしている。旅行が、趣味だった訳では無い。行き掛かり、付き合いで、何度か行き来したまでの事である。行けば、それなりの記憶が甦る。記憶が遠ざかれば、旅行記の綴りを捲れば、体験に遊ぶ事が出来るだろう。それは、何年か後の楽しみに、取って置こうと考えている。

 タイかマレーシアか、思い出すのは面倒であるが、現地人に誘われて入った屋台の、一寸ふやけた感じのラーメン風味を思い出した。ココナツ、香辛料、魚醤は、如何しても鼻に付いて、苦手であったが、あれは、スンナリ胃袋に落ちた。フィリピンでは、コメの粉に砂糖を入れたココナツの風味の蒸し餅が、素朴な味で、結構行けた。中国では、白かりんとうが、好い線を入っていた。サイパンでは、イカ墨スパゲティが美味く、ロシアでは、ボルシチが美味であった。
 
 仲間と行く旅行は、ツアー旅行のカラクリが解って、途中から自分達でアレンジして行く旅行に変わった。気さくに徹すれば、人種・言語は違っても、「人の和」に入れて貰えるものである。人間に共通な助平心を、素直に出せば、世界各地に「バカの輪」が、広がると云うものである。ホテル代を遊びに回し、泊まるホテルは、自由の利く二流、三流にしていた。

 ピーナツをポリポリしていると、フィリピンのピーナツは、小粒で固かった。そう言えば、<前にカレーライスを貰ったから、これは私のプレゼント>と、商いの焼きトウモロコシをくれたおばちゃんが居た。それは、小粒でぎっしり実の詰まった焦げ焦げのモロコシだった。日本の物に比べたら、それは不味いに決まっている。私を覚えていたくれたおばちゃんの笑顔が、美味かったのである。

 サイパンのガラパン界隈を歩いていると、見掛けた顔と商売抜きで、店の椅子を勧めて、茶を入れてくれる。勿論、殆ど言葉の通じない者同士である。表情・ゼスチャーだけで、お互いの雰囲気を交換するだけである。

 プーケットの土産物屋で眺め歩きをしていると、何故か好みが合うらしく、中年英国人女性とかち合う。感じの好い婦人であるから、会釈をすると、英語が話せるかと愛想を掛けてくれる。単語を並べ立てると、真面目に数少ない単語を補って、知ろうとして下さる。

 ウラジオストクの青空マーケットで、1人タバコを吸っていると、目が合う。ライターの火を付けてやると、途端に緩む口元である。お互い、タバコを交換して、タバコを吸っている。日本語とロシア語、通じる訳が無いのに、言葉を交わしている。相手の表情に、何故か納得しているのである。

 ラスベガスの目抜き通りのアトラクションを1人見物していると、二人連れの白人婦人が歩いて来た。日本男児の端くれであるから、ご婦人達に席を空けてやると、お前さん、何処から来たの? イタリア? いや、この手の顔は、スペインでしょうと話し掛けられる。俺は日本人だと答えると、絶対に違うと、仰せに為る。サングラスを外せと執拗に言う。終いに私のサングラスを取って、私の目を見て、オオ、オリエンタル・アイ、ナイス、グゥーと、2人とも手を叩いて納得する始末であった。何処の国のおばちゃん達も複数だと、大差は無いのだろう。兎に角、陽気のノーテンキである。ペラペラ喋られたんじぁ、本々、皆無に等しい横文字である。錆付いた受験勉強の成果が、形を現わす訳が無い。得意の東洋の薄ら笑いを浮かべていると、今度は、お前はハーフだろうと言い張る。美形の母並びに、祖国日本が、軽んじられては、子として、尚且つ日本国民の一人として見過ごす訳には、行かぬ。俺の顔は、伝統的な日本男児のハンサム・ボーイなのであると、散々、頭の中で英語文を捻り出して、胸を張ったものである。口の悪い友に言わせると、私は頭髪を失ったゴルゴ13らしい。普通の顔をしていると、外国人女性は、スマイル、スマイル。お前のスマイル・フェイスは、グーと指を立てて下さる。バカに徹して隙を広げれば、拡がる善人達の日常に接する事が出来る。

 今にして思えば、旅先の恥は掻き捨てとは、旅の心境を、良く表した立派な格言である。

 邪なる動機・多数決で企画した不良中年の仲間内旅行であったが、旅行者の手配するパッケージ旅行と違って、現地の目線で遊ぶ事が出来た。馴れが高じて、旅行の大半を不良中年グループか、私単独であったから、解放感100%であった。簡単な英単語にゼスチャー、意思を伝える絵なんかも、意外と通じるものである。中国は、流石に漢字の先生国であるから、筆談でかなりの意思交換が出来る。それでも簡単即効性を求めるなら、大昔の白黒三流西部劇に登場する手を上げて、『インディアン、嘘付かない。』を実行して見ると、意外や意外、打ち解ける事が出来るものである。

 厳(いかめ)しい商談で、海外に行く訳では無い。名も無き絶対的多数は、異国の雰囲気を、本の少し味わいに行くのである。街の景色・雰囲気・人の景色・雰囲気を、風の気分で、記憶に留めに行くのである。人種・言葉は違うとも、人の心には、人懐こさが息づいているもの。グローバル時代、のほほんと海外に足を伸ばすが、好かろう。



心何処ーショート 困った男だわサ
 介護・隠遁生活を切っ掛けに、10月から始めたブログ投稿である。A4版100頁前後に成ってしまった。旅行編の合間に、生活習慣としての『言の葉』打ちが、心何処―ショートである。物臭男の、徒然なる日常些事の綴りも、500頁に成ろうとしている。塵も積もれば、何とやらの感である。

 訪れる人影乏しき我が文作である。憐憫の情が加わって、独り静かに頁を捲っていると、電話である。顔が見たいから、飲もうとのお誘いである。その時に、絵入りの文作コピーを、持って来てくれとの催促である。とんでも無い野郎である。<バカヤロウ、俺は無収入だから、ブログで読めば好いだろう>と悪態を付いてやると、相手は酒代持つからと、笑っている。お互い、ケンカをしようとしても、何故かケンカに為らない思春期を共にした間柄である。

 ヤツは本当に、バカな男である。中学時代からの付き合いである。古いテレビ・シリーズで<ナポレオン・ソロ>なんて物があった。主演のロボート・ボーンに似た顔の持ち主である。彼は髭が薄いから、ズーとクラス一の若さを保っている。如何云うか分からぬが、彼の印象は中学時代のバカヤロウ加減が、尾を引いた儘なのである。彼は小柄で長距離のランナー、私は大柄で短距離・跳躍のスプリンターであった。これまた、古いシリーズで恐縮なのであるが、彼と居ると、如何云う訳か? <素浪人・月影兵庫>の焼津の半次と兵庫の珍道中に、成ってしまうのであった。中学時代、母校と隣町のH中学とは姉妹校として、1年交替で運動競技の交流会を行事としていた。H校へは電車で遠征したのである。ヤツは、調子に乗ったら、手を付けられない大バカであった。
 
 中学時代は、性を意識する思春期の真っ只中である。電車の中と云う開放感と中学二年生と云う位置が、災いしたのであろうが、私とバカ話をしている最中に、女子達の視線を感じて、ヤツは奇想天外なバカ行為を始めたのである。ズボンのポケットに入れた指を、立てて股間の勃起に見させて、女子達の顔色を覗って、楽しみ始めたのである。それを面白がって、他のヤツも加わって、黄色い歯を剥き出しにして、ゲラゲラ笑い始めたのである。こうなったら、同席するも汚らわしい。『君子、危うきに近寄らず』であるから、私はさっさと席を移動してしまうのが、常であった。女子達にも、強者は居るのである。彼等は、あっさり偽勃起を見破られて、ポケットの手を捻られて、頭をポカリ遣られて、お説教を頂戴してしまった。
 然し、如何しようも無い頭の経路を持つのが、焼津の半次なのであった。電車が目的地に着いた時、もう1人のバカ共々、股間に鉛筆を押し立てると、『本物だ~』と、両手を広げて、女子達を駅のホームで、追い掛け回したのである。
 
 「2人、一寸来い!! バカヤロウ、恥を知れ!! バシ、バシ!!」
その時、私はルーム長であった。そして、2人とも、K子が好きだったのである。

 私達が、顔を会わせる時、決まって振り返るあの時の1件である。1人はロマンス・グレー。1人は禿頭。会えば、復活してしまう半次と兵庫のズッコケ・コンビである。
                            動機を互いに知っている2人である。

心何処ーショート 雪雲
金髪ポニーテールの横顔、紅を引かない薄い小さな唇、形の好い高い鼻、そんな覚束ないイメージが、頭に残っている様な、いない様な朝の寝起きである。座卓の置時計を見る。8時である。寝床の中から、ニュースと続く<ちりとてちん>を、眺める。障子の明り取りのガラスの小窓から、庭の柊と楓が見える。光の薄さは、曇天の様である。洗濯物の乾きが、すっかり遅く成った。夕方取り込んだ洗濯物を、縁側の物干しに掛ける。見上げる柿の老木の梢には、大きな熟柿が、たわわに残っている。信州の冬は、まだまだ序の口である。昨日から、トレーナー、セーターを着込んでいる。腰を冷やさぬ算段である。
 机に向っていても、辛気臭くなるばかりである。歩きに出掛ける。松本平は、四方の山々をすっぽりと、濃い鼠色の雲に閉ざして居る。山は、吹雪いているのであろう。風に、耳が冷たい。行き交う自転車の学生達は、皆、冬の厚着に包まっている。雨にまでは行かぬ水気が、顔に当たる。そろそろマフラーが、必要である。
 
 『風林火山終了』に伴っての、新着ブログの数々を拝見させて頂く。若者達の投稿が、殆どであった。十人十色の感想である。読んでいて、思った節がある。総じて、当たり障りの無い、柔らかなス~とした言葉感覚が、若者達の感性らしい。巷に溢れるコミック、アニメーションの世界を感じた。明らかに我々団塊世代とは、異なる文化世界なのであろう。ブログ画面に、写真と短い文章を、ポツン、ポツンと置いて行くブログ日記そのままの心・感じ方の世界があった。

鋭さ・棘・毒気・苛立ち・喜び・怒り・挫折・諦め・・・etcの感情の振幅・高低を見せずに、流れて行くのか、流されて行くのか・・・おっさんには、興味の沸かない領域なのである。

これから数年、団塊世代の連中が、大量にテレビの前に座る時代が、否応も無く訪れる。民放も公共放送も、視聴率に合わせた番組作りが、要求されて来る。作り手と受け手が、共通の括りで捉えられている時は、安易さにも味方が着く。日本社会の中で、団塊世代の占める人口は、殊の外、大きい。戦後民主主義第一期生の明るい未来を託され、社会改革の期待と夢に、若き血で旗を振り翳し、挫折して社会に送り出され、企業戦士の最前線を走っても、心には、何故か何時も『吾亦紅』が付き纏う。そんな世代が、大挙してテレビの前に座るのである。視聴率に占める分母、分子が、様変わりして来るのは、必至の勢いであろう。

作り手は企業人であり、受け手は引退した団塊世代の男達である。分母・分子に変化を及ぼす古き人生観を持った、視聴率の鍵を握る世代の台頭に、如何対処するのだろうか。安易に二極分化するか、混沌を経て、日本に新たな価値観が、姿を見せて行くか・・・

地方都市に、隠遁生活を送る男の一人としても、興味の広がりは、大きいものがある。

心何処ーショート たまには、こんな時もある。

 朝食後、老母と言葉を、交わし過ぎてしまった。遅れついでに、洗濯機を回す。今日は格別の冷え込みであった。不凍栓を開けに行くと、柿木の枝にジョービタキのメスが、身体を丸くしていた。何時ぞやのバルディナである。彼女は、我が家の界隈を、越冬の拠点にしている様子である。さすがに、心優しきロシアの観音様である。お気遣い有難う、とジョービタキに会釈をする。

 本日は、ノート・パソコンで打つ事にする。脇にディスクがあるから、ナット・キングコールのテープを流す。この位置は、金魚槽の真正面であるから、画面が邪魔をして、彼等が見えない。専ら隣のグッピイに目が行くのであるが、昼の光にグッピイ達の彩りは、くすんで実に冴えない。

 昨日の風林火山の最終回には、腹が立って仕方が無かった。様式美を誇る日本の時代劇を、冗長台詞の極みの西洋舞台劇にチェンジして、合戦シーンに延々と導入するなど、もっての他、製作者の頭の中に、嫌悪感が走るばかりであった。

「何を考えとるんじゃい、お主等。NHK料金返せ!! バカヤロウめ。 国民の最大公約数を優等生のタッチで、淡々と放映するのが、公共放送の道だろうが。何年か前の聖徳太子を扱った歴史ドラマがあったが、それに匹敵する自己満足作であった。虫唾が走ったわ!! 途中から、舞台劇掛かった大仰な台詞回し、役を作り過ぎる役者のアップが、目立ち過ぎる。過ぎたるは、及ばざるが如し。役者の演技の臭さが、如何にも鼻に付いて、遣り切れない愚作中の愚作である。文句を付ける為には、最後までお付き合いしなければ、相手に失礼であるから、毎回欠かさずに見終えたのであるが・・・・ 見たくない気持ちをぐっと抑えて、結果よければ全て好しを、願っていたのである。時間の利を巡って、仕掛ける上杉軍、踏んばりに踏ん張る武田軍・・・ 知略・軍略・勢力とも、互角に組んだ戦国絵巻の最大の見せ場を、ドラマの総集編じぁ有るまいし、長々と走馬灯シーンの如き矮小・チンケに汚しやがって!! ふざけるのも、好い加減に晒せである。緊迫の本番に、総集編を流すとは、言語道断の浅知恵である。あんた達、揃いも揃って、仲良しクラブ? 若しかしたら、ABEファミリーなんて、気すら湧いて来る始末だわサ。憤懣遣る片無いとは、こんな時の言葉だろうか?
 
 私は、正々堂々のNHKファンの1人と自負している。大河ドラマの後半からは、ドラマ後の数分の史跡案内の方が、ずーとマシであった。演出家は、新しい大河ドラマの境地を、切り開いたなどと、臭い演技を演じ通した役者共々、自惚れていようが、とんでもない裸の王様である。手前らの芸術家気取りを満足させたかったら、マイナーな小劇場で、同趣味の観客相手に、遣れば好かろうよ。命の遣り取りをする迫撃戦の最中に、ちゃちなバリアで囲って、回想シーンなどを、延々と演出するバカヤローが、NHKのドラマ予算を浪費しているのである。こんな解釈を平気でする、300年後の日本人の末裔を、戦国乱世に刈り出されて、怖い思い、切ない想い、痛い思いで、命の遣り取りを強いられて、野露に消えていったご先祖様は、如何思うか。少しは気を使い為され。歴史物語を、安易に現代的に脚色して、現代的フィーリングを強調し過ぎるのは、如何なものか。電波の私物化も、大概にしろ!! 嗚呼、思い返すも腹立たしい。」
 
                いかんいかん、隠して置きたい部分を、形にしてしまった。

心何処ーショート 子猫ちゃん
 青海苔と大豆の入った豆餅の塩味が、好きである。目に止まると、籠に入れてしまう。大体は、飯の分量が、中途半端な昼に食べる事が多い。老母も、豆餅が好きらしく、買って部屋に置いておくと、昼に食べようなどと言って、ストーブを点けて、年季の入った油で黒光する鉄鍋を、乗せる。老親子が、餅を咽喉に詰まらせて、ご昇天とあっては、末代の恥じである。私は台所で、朝に仕込んで置いた凍み豆腐の煮付に、味調整をして温める。貰い物の海苔を、ストーブの上で炙り、折切りをして皿に乗せる。

 食べ物の嗜好、料理・味付けと云った物は、その殆どが、習慣つまり『お袋の味』であろう。母の料理は、見栄えも良く味付けも、美味かった。<手を掛ければ掛けた分だけ、料理は美味くなる。>が、母の持論であった。母親の味は、女房に受け継がれ、私は家庭料理には、恵まれた。兄弟の家で食事をする時は、皆恵まれていないと同情したものである。

 日曜日の気持ちが働いて、四畳半は敬遠である。穏やかな日和であるから、自転車で出掛ける。ペット売り場で、アビシニアンの子猫を見付ける。売却済みの札が掛かっている。お値段9万8千円である。何年か前に、一目惚れした猫種である。原産地エチオピア(アビシニアン)からイギリスに運ばれ改良された野性味溢れる猫である。その時の値札には、13万8千円とあった。私の目には、猫では無く、野性のピューマの子供にしか映らなかった。ピューマが、この値段で買えるなら、価値はある。小顔の凛とした体躯の神々しさは、正しく、一目惚れの野性的ハンサム振りであった。ゲージの前で、腕組みをしながら、9万8千円の子猫に、13万8千円の少年猫のイメージを重ね合わせた。残念至極である。予約をして待つのも、大人の賢い行為なのであるが・・・ それでは、些か物足りないのである。「一期一会」では無いが、偶然の要素が、私には欲しかった。偶然の要素・出会いには、何か運命的な色合いがある様で、それが堪らなく好いのである。チャンスには違いないが、子猫とは『ご縁』が無かったのである。

 子猫を買って帰れば、既成事実である。子猫は、老母と私を渡り歩いて、立派な癒し大使と住人の地位を確保するのは、必至の事である。嘗て、縁の下で生まれた黒猫が、家に居座って母の話し相手に成っていた時があった。休日に顔を出すと、しょげ返っている。話を聞くと、同居人の黒猫が、車に轢かれて死んだと言う。それ以来、母は猫を家に上げようとは、しなかった。私も未だ若いから、隠遁・禁欲生活が、そうそう長くは続くまい。生身の人間であるから、いつ何時、邪なる衝動に突き動かされて、異国に遊びに行かぬとも限らない。水槽の住人位なら、数日、放置しておいても、死ぬ事は無いだろうが、動物・鳥の類は、代わりの者が必要なのである。

 何かを得るには、多少なりとも、二者択一の覚悟が必要と為る。子猫を買うと云う行為は、邪なる行動を諦める事を、選択する事なのである。衝動買いと云う正面突破の「一期一会」の運命的要素が、必要な次第であったのである。<子猫ちゃん、俺達は売却済みの一期一会>であった。

心何処ーショート 覆水盆に帰らず

 パッ、アジャジャ、消えちまった。ああ、A4半ページが、水泡に帰してしまった。戦意喪失!!
困ったもんだわさ・・・・ さてさて、如何する。頭に微かに残る文章を、再現させるか、それとも思い切って、天の思し召しとして、本日休筆とするか。如何すべぇ。気が向かない。何か軽めの物は、何か無いかとタバコに火を点ける。
 
 テレビで、フィリピン・セブ島の観光映像が、放映されていた。これなら、打てそうである。
私は、アンチ・フィリピンであるが、不良中年ご一行様は、殆どがフィリピン通である。多い時で年に3回程度足を運んだ。そんな事で、実際は客観的に大分詳しい。豪華なシャングリア・ホテルは、定宿としている三流ホテルの先にあるピンクのホテルである。あの界隈は、歩いたりバイクに乗って、徘徊している。ボホール島は、快速船で1時間半であるが、周辺の海は浅いから、遠回りをしなければ為らない。近くに、リランと云う小さなハーバーがある。そこからバンカーボートで行けば、最短距離で島に行かれる。2時間程度で着く筈である。海は、午前中は鏡の様に穏やかである。午後は、海が荒れるから、波飛沫で全身潮の洗礼を受けるのも、好いものである。郷に入ったら、郷に従うまでの事である。便利・安全・清潔が日常の日本では、味合えない開放感に浸れる。水深が幾重にも彩られる海を、海面近くで、長閑に広がる海と空、椰子の緑の小島を眺めつつ、ビールを交わす。船に驚いた飛魚達が、右に左に、海面スレスレに飛翔する。

 ボホール島名物は、点在するチョコレート・ヒルズと、ロボク川クルージングである。映像には、ガイドの顔馴染みのおばさんとギター弾きのおじさんが映っていた。商売繁盛らしい。ボホールに泊まるなら、ホテルの名前は覚えていないが、橋で繋がった小島に、広々としたホワイト・ビーチを持った、のんびりムードの大きなホテルがある。フィリピンの一押しスポットは、ボラカイであるが、此処のロケーションは素晴らしい。白人客の多いユッタリしたホテルである。ボホールに泊まるなら、朝起きをしてバンカーボートで、海に繰り出すのも良い。鯨・ウォッチングと銘打っているが、運が好ければ、イルカ・ウォッチングが出来る。運に恵まれれば、幾つかのイルカの群れを接写する事が出来る。
 フィリピーノホスピタリティは、日本人から見ると、厚顔無恥さに感じられてしまう。そんな雰囲気が苦手な人は、ボラガイが最高である。余り気に為らない人は、ブラブラ、マクタンのリランハーバー界隈の雑多な屋台で、ハエのブンブン集る場所で、食べたいトロピカル・フルーツに、舌鼓を打つと云う手もある。一寸足を伸ばせば、レストランの前に、魚介類を並べた一角があるから、チョイスして、そこで食事をするのも好いだろう。そして、アイランド・ホッピングと云う小島での過ごし方もある。欲を言えば、ジェットスキーで、バンカーボートに併走して行くのも、実に爽快である。ハーバーには、ジェニスと云うしっかりした男がいるから、日本語で交渉すると好い。

     如何やら、日課のブログ分量に近付いた様である。
                消えた内容は、何時の日か打てるだろう。

心何処ーショート 一外野客の楽しみ方
 いや~、再放送<あいのうた>が、佳境に入って、益々、胸に迫って来る。イイね好いね。見終わって、やっと気付いた点がある。主人公の愛ちゃんの顔、誰かに似てるって、ズーと思っていたんだけど、如何しても、その誰かに行き着けなくて・・・・ それでも、彼女は、魅力充分だったから、毎日、彼女のぎこちない顔が、見たくて14時を待っていたのである。★現時点では、朝ドラ<ちりてとちん>の貫地谷しほり嬢よりも、注視している有様なのである。御免!★ 

 劇中の和久井映見の口癖台詞では無いが、『まぁ、いいっか。』で、謎解きする気持ちも、殆ど顕在化せずに、愛ちゃんの顔の表情を、楽しく鑑賞させて頂いていたのである。ドラマは、雑念の入り込むまでも無く、文句無しで、全体が実に楽しい、涙ホロリの展開なのである。今日の小日方文世の<薬の秘密を明かすワンカット>、多くを滲ませて、実に味があった。巧い!!

 彼女が笑い始めて、犬歯が覗いた。その歯並びが、フィギャスケートの岡崎美姫に繋がって、岡崎美姫からストレートに、サイパンの洋々に連結したのである。『連想洋々』には、2ルートの連結方法がある。一番の直接連結は、長山洋子である。私が彼女のテープ・CDを買って聴いているのは、彼女の背後に居る洋々を見ているからである。同じく、銀板に踊る岡崎美姫の姿に、洋々を重ね合わせて見ているのである。日本を代表するその道の著名人には、真に持って恐縮の至りであります。反省する気持ちは更々無いが、著名人のプライドには、配慮する必要がある。

 考えれば面白いもので、人が、他人に好印象・好意を持つ・注目・注視・ファンに為ると云った切っ掛けの背景・潜在意識には、多かれ少なかれ、こんな心理が、働いているのだろう。

心何処ーショート 欲しいのは味
気に入ったドラマが終了するのは、『張り合い抜け』ものである。先週は、木曜時代劇が終わり、昨日<おいしいごはん>が、終了した。現在は、再放送の<あいのうた>を、観ている。<あいのうた>の小日向文世が、特に好い。続三丁目の夕日で、社長役を演じた役者さんである。<おいしいごはん>では、家族の母親を演じる着物を着た女優さんが、好い。映画・ドラマにあって、主演は然る事ながら、脇に回る役者さん次第で、世界が拡がり色付けがされる。主演を張る役者さんには、『華』が必要であるが、脇を張り固める役者さんには、硬軟の『味』が必要と為る。和久井映見は、『華も味』も兼ね備えて、それを『ちゃんと』(確りとでは無く)演じ分けられるのであるから、彼女は大したものである。

中学の若い担任教師が居た。私は、その教師が好きではなかった。と云うよりも、嫌いであった。それは、内面から作り出されずに、借り物の言葉を繰り出す点取り虫根性に、虫唾が走る事が、しばしばあったからである。然し、その教師の言葉には、現在も一目も二目も置いている言葉がある。彼が私に送ってくれた言葉に、『上辺に惑わされずに、本質を見抜け。』があった。職員室での、ある一件を巡っての<シコリを引き摺っての感想・大人の負け惜しみ>だろうと、その時は直感した。(言葉とその発せられた状況を考えても、その直感は、正しいと思っている。)それでも感情を度外視すれば、素晴らしい奥行きのある言葉であった。以来、教師とのその場の遣り取り・雰囲気を払拭させて、私の『座右の銘』として居る。そして、もう一つ、彼が授業中に触れた言葉の中に、<〇〇先生は、スルメの様な人だ。噛めば噛むほど、味の出て来る人だ。>の行が有った。私も、その先生に注目していたから、<フ~ン、この野郎、嫌な野郎とばかり思っていたが、結構好い物を持っているのかも知れん。>

こんな風に、担任教師の事を書いてしまうと、とんでもない人非人なんて、言われてしまうだろう。然し、多かれ少なかれ、人の世は、『感じ』を貰い、『感じ』を与えると云った『感じ交換の場』である。人に影響を与えるとは、そう云う事であろう。

書き手の顔の見えぬ言の葉、言の葉を演技に乗せて、全身で表現するのが、役者さんである。そして、ドラマに『幅と味』を添えて、架空のドラマに拡がりを創るのは、『味のある』役者さん達である。

ロートルには、お笑い・バライティ物は、如何しても馴染めず、パスするだけである。ドラマのジャンルは、問わない。役者さん達が活き活きと踊るドラマが、見たいものである。

心何処ーショート 浮かぶままに

 日野美歌のテープを聴いている。雨の上がった曇天に、丸い雫を溜めた黒松の針葉が、自棄(やけ)に目に付く。暗い部屋に、スタンドの蛍光灯を付ける。テープが終わる。移動する濃淡の灰色雲を、眺める。本が有り、ビデオが有り、心動いた美形達が、壁に微笑む。生き物の動きと小さな緑が、置いてある。時折、野鳥が姿を見せる。ご近所の立ち話も、聞こえて来る。

乱雑に散らかった部屋であるが、匂いが染み付いた、誰にも渡したくない自分の居所である。

 ある時、弟のクルーザーで、親しくなった横浜のクルーザー仲間と、大島で落ち合った。弟のクルーザーには、宇都宮でボート教室を開く仲間が、若い女性を同伴していた。その当時、長い休みの時には、旅行記を打っていた。仕事が忙しかったので、そんな時にしか、打てなかったのである。打ち上げた草稿を船の中で、添削しようと持って行った。船には、その女性一人であった。岸壁に陣取って、中年男達が集まって、男料理に腕を振るっていたのであるが、彼女は居所を得られずに、離れて静かに文庫本を読んでいた。其処で、彼女をリラックスさせようと、私の草稿を手渡した。3泊4日程度のクルージングは、男達にとっては、チョットした女抜きの合宿生活の様なものである。弟も私もTも、バンカラ匂う体育会系進学校の出身であったから、お手の物であった。

 読み終えた彼女が、この主人公の男性は、その後、どうなるのでしょうか・・・ 余りにも寂し過ぎます。彼女は、泣いていた。『その主人公は、俺だから心配無いよ。』と安心させたかったのであるが、口に出せずに『俺の学生時代の友人、ちょこちょこ会って、飲んでるから、大丈夫。』なんて、嘘を言うより他無かった。タバコを咥え、・・・トホホの感、頻りであった。人には、其々の感じ方・感性が、備わっているものである。彼女は、描かれていない行間を、読むタイプなのであろう。感じ方の違いは、結論的に言ってしまえば、<これだけは、如何しようも無い個人の領域>なのである。

 大学時代、ギターを弾き、文学を好む理屈ぽい友人が居た。私は、硬派100%に見えるプレイボーイに映ったらしく、彼の目には、少なからず蔑みの色が混じっていた。彼にして見たら、私は格好の攻撃対象らしかった。彼の先入観では、如何しても、私の図式が読めなかったらしい。彼の推理からすると、私は予想外であったらしい。ある時、小説論と映画論を2人きりで、延々と議論した事があった。私は幼少の頃より、喧嘩は、得意中の得意であった。隠れ業の私の口達者に論破されて、彼は1週間口を聞かなかった。体育会系と見えた男に、自分以上の本性を見せ付けられて、大変なショックだったと言った。それから彼は、私の流儀が理解出来た様で、踏み込み過ぎる姿勢は、形を潜めた。

 兎角、人間と云う者は、自分も含めてであるが、外観を定型的に捉えて、自分の先入観の延長で、人を判断してしまう。一々、そんな御仁の軌道修正などは、特別な事情が無い限り、物臭者からすれば、ただ煩わしいばかりである。鈍感を装って、馬耳東風を決め込むに限る。
時々、思う事がある。私が、世間的に思う様に、一人身の侘しさを漂わせていたなら、彼等には図式の範囲内であるから、お手軽な気遣い口調を見せれば、気が済むのであろう。然し、それでは、折角の私らしさが、無くなってしまうのである。何故なら、マイ・ペース・自己満足の自分に、他人が納得する説明など不要だからである。

 遊びたければ、遊ぶが好い。
 淋しければ、女に溺れるが好いし、人恋しければ、人に交われば好い。
 泣きたければ、泣くが好い。死にたいと思えば、死ねば好い。
 要は如何に、自分らしさを見付けて、時を楽しむかであろう。
 時々に応じて、生身の表装は、 移ろうものである。10代には、10代の・・・・ 
 気負うのも、頑張るのも、有頂天に為るのも、挫折するのも、全て、己が分身達である。
 何を躊躇する必要があろうか。振り返りつつ、突っ走り、足早に、ゆっくりと、
 押し付けず、押し付けられず、その時々の、自分に似合ったものを探して、
 心臓が止まるまで進むのが、生物の常である。
 振り返った時、変わらぬ自分が居たら、それで好い。
 逃げなかった自分が居たら、乾杯すれば好し。

 下らぬ言の葉を、ダラダラと綴ってしまった。面目無い次第である。日記文学は、時として自分の素地が、顔を覗かせてしまうものである。言の葉の徒然の中に、自己を見出すのが、徒然日記の隠れた面白味でもある。

   さてさて、タバコに煙った四畳半、空気の入れ替えが、必要である。
   散歩に出掛けると致しましょう。習慣の双眼鏡を忍ばせて、河川敷を歩く。

 おや、鳶にしては、小さい。水柳の枝に猛禽類が、寒空に一羽止まっている。チョウゲンボーよりは、ふた周りほど大きい。きっと、鷹の筈である。早速カバーを外し、双眼鏡を覗き込む。『じっとしていろよ。ヨ~シ、好し好し。』ピントを合わせて行く。白い胸毛に、茶の横縞模様が、すっきり現れて来る。感動ものである。少しずつ距離を狭めて行く、頭部・目の周りの隈取の黒に近い茶が、見事なハンサム・ボーイである。馬鹿カラスが、2羽飛んで来て、執拗に大鷹にチョッカイを始める。追われて、大鷹が飛ぶ。再び歩く。葦にホウジロを見付ける。くすんだ羽色は、メスの様である。大鷹の飛び去った上流に向って、散歩を続ける。雨が、落ちてきた。もう少し、進んで見よう。川原の木々に、目を凝らすが、姿は見当たらず、引き返す。帰りの途中、カラスに追われる大鷹を見る。

 人間の生活圏のこんな間近で、大鷹を目撃出来るとは、初めての経験であった。そう云えば、スーパーのレジのおばさんが、賄い夫の私を労って掛けてくれた言葉の中に、『ダンナさん、きっと、好い事があるヨ。』の言葉を思い出した。なるほど、お天道様のご利益が、こんなに早く頂けるとは、思いも寄らなかった。

 本日の文作ノルマを打っている居ると、電話が鳴った。電話をそろそろしようと、思っていたTからであった。お袋さんの納骨の件の用足しを、終えた帰りであると言う。久し振りの友の訪問である。昨日買って来た『吾亦紅』をTに、聴かせる。CD付録の歌詞に目を通して、ニヤリ一言、『お前さんの現在の心境だな。』『アハハ、ご明察。そう云う訳だわサ。』



心何処ーショート ジーズン
 12月も中旬、娑婆では忘年会が、盛んであろう。忘年会と云えば、俄かコンパニオンが、徘徊するシーズンでもある。呑んだくれて、ピィーピィー、ギァギァと一過性の空騒ぎを終了して、寝る前の一風呂を浴びて、寝るが勝ちの酔いの大鼾。朝風呂後の朝食は、ケロリとして、おひつのお代わり平らげて、旅館土産の野沢菜貰って帰る。

 『旅行無尽の会』の泊まり込み忘年会は、不良中年の集まりであったから、毎年、余りのハチャメカ振りに、コンパニオンから敬遠され、女将にお説教を頂戴する始末であった。それでも懲りずに、会員皆勤賞。常連を続けて、同じ旅館に、お馴染みのコンパニオンであった。
考えて見ると、不良中年は、真に以って性質が悪い。助平の素地に、『経験肥大の強心臓』の持ち主ばかりである。浴衣半纏で徐に、箸を取り酒進み、1人が破目を外せば、<突入せめば、ソン損>とばかりに、雪崩を打っての浴びせ倒し・羽交い絞め・2人掛かりのスリーパー・ホールド&レッグシザーズの荒業。好機とばかりに、漁夫の利。タコチュウ迫る背後に、禿頭ボカリボカリ。コンパニオンのキック・張り手・噛み付き、ナンノソノ。終いに禁じ手の『握り金ギョク』に、股間押さえて、悶絶する戯け者が、毎年、続出する始末。それでも今時の女は、強かった。破かれたパンスト気にせず、延長に延長を要求する馴染みの女軍団。考え様では、金ふんだくられて、遊ばれているのである。決して、部外者には公開出来ない、年に一度の大忘年会であった。世の中、陰に咲く類似縁(類似袁)の集いであった。

 リタイヤしたから、お誘い断った。
 暫し、隠遁生活の習慣を、付けねば為らぬ。
 何処まで続くか分からぬが、暫くは、『吾亦紅』静に実践する心算。

心何処ーショート テールランプに、灯が点る。

 本日快晴。太陽と共に、空が薄い青を増して行く。老母は体調が悪いらしく、床に伏せった儘である。そんな訳で、私は、30分遅れの自然の目覚めである。朝食を取らずに、済ます。習慣と云うヤツは、2~3ヶ月では改まりそうも無い。胃袋のリズムに素直になれば、朝抜きの方が、私には都合が好い。四畳半で、アメリカン・コーヒーに、揚げビスケットを摘んで、口に入れる。奥歯で呆気無く磨り潰されて、咽喉に落ちる。湯気の立つコーヒーを、口に運ぶ。そう云えば映画で、マイケル・ダグラスが、食パンにガッポリ、ジャムを載せて、パク付いているシーンがあった。台所から、オレンジ・マーマレードを、持って来て試す。カリカリビスケットに、オレンジの仄かな酸味が、口に広がる。何本目かのタバコを燻らせ、ラジオに耳を貸している。

 窓から斜光が伸びる。冬の四畳半の短い光の世界である。光に、和金の魚鱗が朱に躍り、頭部に紅を頂いた丹頂が、ヨチヨチ泳ぎを見せる。その白いレースの尾びれが、フワリフワリと動き、胸びれが、手招きをする。黒と赤の出目金が、ユサユサと魚体を震わせる。水槽を静かに上下泳ぎする10匹の魚達・・・そして、光が小石に伸びて行く。緩やかな動作で金魚達が、小石の藻を啄ばみ始める。小さな音が聞こえる。小鉢に当たる陽射しは、実に柔らかである。フワーと、華奢な緑でナイーブに裾を広げた小草。ニョキと2本背伸びをした小紫の花弁が、小さなアクセントを見せている。窓を開けたグッピィ槽は、群がり朝のご挨拶である。その勢い良く放出されるエア柱に、未だ形だけの小魚達が、忙しく動き回っている。
 
 主1人の遮断された四畳半。短時間の陽の訪れである。
 眺めているだけの時間であるが、目を逸らすのが、勿体無いひと時である。

 老母の動きを耳に、昼を支度する。日の翳った午後、侘しくならぬ内に、自転車に乗る。ジャスコのペット売り場を覗く。犬と猫だけであった。ブックショップに足を運んで、軽い昆虫図鑑を買う。再び、自転車散歩を進める。パルコで、『吾亦紅』を買う。縄手通りに進み、目だけの物色でペダルを扱ぐ。低い雲に少しだけ顔を覗かせた常念岳は、白を加えている。裏町に、自転車を進める。昼の裏町は、眠っている。すっかり足が、遠のいてしまった界隈である。扱いでいると、先週買った防寒手袋の中で、手が火照っている。手袋を脱ぎ、ジャンバーのファスナーを下げる。

    早速、ボリュームを上げて、CDを聴く。
         気が付けば、身の丈の日々が、苦も無く暮れて行く。
                        窓の外、テールランプに、灯が点る。



心何処ーショート 打たずには、居られなかった。

 物臭者には、起床時の一定さは、堪える。独り暮らしの大キャリアの老母は、余程の事が無い限り、規則正しい生活リズムを、実践して居られる。体の自由が利く老母ならば、放って置けるから、気が楽なのであるが、私の現在は、賄い夫である。冬に突入して、床から抜け出すのが、一気に億劫に成ってしまった季節柄である。トイレ・洗顔の物音に、私は、温い布団の中で、何度も溜息を付くばかりである。朝食を終えて、買出しついでに、銭湯に行く。昼を残り物で、適当に済ませてくれと、出掛ける。

 平日・昼の温泉銭湯には、意外とS大学の学生達が、自転車で入りに来ている。私にも経験があるが、空き空きした銭湯に足を伸ばすのは、一切気を張らずに居られる格別の気分である。親元を離れた若者が、1人掛け流しの温泉銭湯の味を覚えたら、病み付きに為るのは、自然の事であろう。 ユッタリ、ノホホン派の人間には、自然豊かな地方暮らしの気分は、長い人生の中に、思い出を幾つも残してくれるものであろう。四年間の地方生活である。自分の素地を発見して、それに付き合う事は、先々の自分に、何かしらの語り掛けを、プレゼントしてくれる。

 ゆっくり湯に居ると、大学生が3人交互に出入りし、ご老人が入って来た。コンニチハと声を掛けると、立派な身体をしてると感心して、私をマジマジと見て居られる。本日は、ただの一文字も、手を付けていない。私は、休日気分で居たから、湯に浸かったり、出たりを繰り返している。歳を尋ねると、80歳との事である。歳からすると、ご老人は、ずば抜けた体躯の持ち主であった筈である。今も現役の百姓をしていると言う。お互い、若かったら、力一杯四つに組んで、相撲でも取りたい骨太・胸板の厚みである。職業はと尋ねられ、<肉体労働・土方>と答えて遣ると、安心したのか、人懐こく愛想を崩して、色々放し掛けて来る。爺さん週に2回歩いて、此処に来るのが、楽しみだと言う。『一歩踏み出せば、踏み出した分、気分は広がる。』と励ます。

 大分顔馴染みになってしまった個人スーパーのおばちゃんから、労いの言葉を貰う。些か買い込み過ぎた。本日は重い曇天に、時折、雨が落ちる。ホカホカ気分が冷めぬ内に、昼寝でも決め込もうと思っていたのであるが、義理堅いご老母様、食べずに待っていたとの事である。
 アジャジャ、当てが外れてしまった・・・ 2時に近い昼飯の用意をする。夕食用に、ヒジキの煮付を作って置こうと、その後、台所に立つ。仕込み終えて、昼寝の蒲団に潜り込む。昼寝は学童時代からの、私の大好物である。冬の翳りは、実に早い。気が付けば、部屋は、既に暗い。大欠伸をして、夜の支度開始である。

 本日、火曜日NHKの歌謡番組がある。
 『山の娘、ロザリア』の懐かしい歌があった。この歌が流れたのは、中学の2年生の時であった。この情緒溢れる歌が、何故か私のフィーリングにマッチして、覚えようとしたのである。生憎、私は名誉の音楽1の成績であったから、全くの音痴であった。同級生にIと言う、実に歌の上手い男が居た。丁度、帰り道も一緒の方向であったから、マンツーマンで、彼に教えて貰って覚えた歌であった。今でも、口ずさむ事がある。その当時の、歌のイメージを占拠していたのは、同級生のK子であったのだが・・・ 私の好みは、白人タイプの大柄にして、彫りの深い瓜実顔で、ツンと済ましたバリア掛かった女であった。
 
 高3の春、自転車通学時に、好みピッタリの女子高生を知ったのである。通学時刻を腕時計で測って、毎日胸キュンの気分を味わっていた。大学受験勉強で、裸で夏の夜、四畳半で英語の勉強をしていた時である。四畳半は、道路に面した部屋で、昔の事であるから、野暮ったいブロック塀なんかは、ありはしなかった。部屋の目隠しとして、プラタナスの木とヒマヤラ杉の木が、大きく育っていた。
 人の気配を感じて、ヒョイと外を覗くと、そこに彼女の顔があった。彼女は慌てて、逃げて行った。犬を連れての散歩の様であった。ノースリーブに長い髪、ショートパンツの大きな臀部と、むき出しの白い太腿の弛みに、ガァ~ンと、衝撃が走ったものである。彼女の面影は、何故か素顔八頭身美形のウラジオストクのシングル・ママさん通じている。

 今回、『山の娘・ロザリオ』が、ロシア民謡であった事を、初めて知った。私は、如何云う訳か知らぬが、ロシア・ウーマンとは、相性が好いのである。山の娘ロザリオが、ロシア民謡であった事に、大いに納得させられた次第である。

 続いて、すぎもとまさとの吾亦紅(ワレモコウ)の歌を、聞く事が出来た。彼58歳、小生59歳。二度目である。団塊世代の心情・心象風景を、これほどまでに、見事に捉え切った一編は無かろう。饒舌なプロ作家が、逆立ちしても作り出せない世界である。時代の感性を抉り取った絶品中の絶品である。一つの歌が、創り上げた稀な総合芸術である。

  来しき時代の感性、来しき自分の足跡が甦る。心情が揺さ振られる。

 老母の前である。必死に堪える。明日は、彼の絶品を、買いに行かねば為らない。

    無為に1日を送ろうとした気分を、四畳半に向かわせてくれた。





心何処ーショート 呆け話一席
 気分転換に、風呂に行った。余り混んでは居ないらしい。一風呂浴びて、2階の大広間に行く。

           厚かましい婆さんに、しょ捉まった。
何が、『死んだ亭主の若い頃に、瓜二つだ。』 『バカヤロウ、そうそう、俺みたいに好い男は、世の中に転んじゃ居ねぇぞ。俺様の禿頭だけが、瓜二つなんだろうが・・・』

 こんな類の婆さんには、寝た振りが一番である。人恋しいのだろう。他に人が居るのに、寄りによって、俺みたいな無愛想な男に、声を掛けずとも好かろうに・・・ 高齢化社会、泣く子と高齢者には、適わぬ。明日は、我が身か、困った婆さんだ。しょうがねぇな。婆さんも、早いとこ、寝ろよ。気持ちが好いぞ。

 ああ、婆さん、俺の肩を叩いてやがる。こりぁ、重症だわさ。トホホであるから、重い体を起こして、座卓の前に胡坐を掻く。婆さん、大人しく座っていれば、中々の雰囲気なのに・・・
婆さん、俺の全体を頷きながら、ニコニコして、目を細めているでは無いか・・・

「お宅、1人でしょ。そんな顔してると、折角の男前が、台無しだよ。これでも、食べて、袖触れ合うも、他生の縁って言うでしょう。」
 
 悪い人でも、無さそうな感じである。身内の様な親しみを、俺に向けている感じである。悪い気が起こらないから、出し抜けに、1本打ち込まれてしまった様な感じであった。仕方が無いから、1本打ち返す気に為った。

「婆さん、その他生の縁のタショウって、漢字で書くと、どんな字だい?」
「オホホ、目に狂いは無かった。インテリね。多い少ないじゃなくて、仏教用語の今生に対する過去の境涯を指す他生だよ。」

 アリャリャ、知ってやがる。失敗こいた。面白そうな婆さんである。年長者に応えるのが、お天道様の思し召しかも知れぬ。袖振り合うも、他生の縁の実践口座を遣りますか。

「突っぱねたら、お釈迦さんに、悪いね。婆さん、只者じぁなかんべぇ。」
「そう言うあなたも、オホホ。」

 ニコニコして、手製の混ぜご飯をよそってくれる。野沢菜の漬物に、楊枝を立ててくれる。枯れた婆さんの様である。人参、牛蒡を先がけして、鶏肉で炒めた具沢山である。上に、紅ショウガ・グリーンピース・刻み海苔が塗してある。野沢菜には、カツオブシと下ろしショウガが、載っている。濃い目の味だが、美味い。しっかりした家庭の婆さんであろう。

「本当に、良く似ている事、私の亭主も、見た目は、凛々しい顔していて、バカな事言うと、ウルサイなんて、直ぐ言ったものだけど、目には、温かさがあってねぇ、好い人だったのよ。」

 婆さん、俺が黙って、黙々食べているのを、何やら懐かしそうに眺めている。歳の離れた姉と弟の感じすら沸いて来る。見た目には、そんな風に映っても仕方の無い雰囲気になりつつある。何やら、こそばゆく成って来た。煽てられては、無碍にする訳にも行かぬ。此処まで合いの手を入れられてしまっては、男が立たない。下手を打ったら、『食い逃げ』などと、箸を投げ付けられるかも知れぬ。・・・・ いかんいかん、俺は、バカの上を行く大バカである。

「あなた、私もバカじゃないから、知らない人に、ズケズケ話掛けは、しないですよ。本当にそっくりだから、他人には見えなくてね。それで、試して見たかったのよ。オホホホ。そしたら、もう、私の気分がしっくり来ちゃって。私、霊感があるから、お見通しよ。」
「婆さん、乗せ方、巧いねぇ、いいよ。ご馳走になったから、ご亭主の身代わりするよ。ご亭主、そこら辺に、浮かんでるんだろ。俺、口開けるから、ご亭主呼び込んじゃいなさいよ。」
「オホホホ、大した物ね。お上手ね。じぁ、お言葉に甘えて、そうさせて頂くわ。」

 口に出した以上、演じるだけである。髭を当たった顔を一撫でして、口をデカデカ開けて、婆さんに、ウィンクを一つ送って遣った。俺は、ロシアの観音様から、<モスクワで一緒にコメデイ・ショウをしましょう。きっと人気が出ます。>と言われた事がある。私の一方の地、四男坊の茶目っ気で続けた。

「婆さん、ウィスキー注げよ。俺、単身赴任で、家留守にしてるけど、元気で遣ってるか?」
「あいよ。本当にあなたって人は、筆不精だから、便りもくれないで、そのくせ、毎日、『仏壇電話』で、私に話しばかりさせてるでしょ。自分だけ知ってて、私だけは、知らない。あの世でも、本当にタヌキは、直らない見たい。」
「そりぁ、仕方が無いさ。婆さん、料理が上手いから、何時の間にか、でっぷり腹が、出ちまった。こう腹が出ては、狐見たいに、お前さんの元には、帰れんわさ。婆さん、知ってるか?三途の渡し舟、行きは木の船だけど、娑婆戻りの船は、泥船さ。沈まずに娑婆に戻れるのは、年に1人か2人。このタヌキが乗ったんじゃ、スグサマ泥水だよ。帰れる者も、帰れなくなる。」
「ホホホ、分かる分かりますよ。生身の私でも、お父さんは、腰が軋むほど、重かったですよ。アラ、はしたない事!! 調子が、出て来たじぁないですか。偽タヌキさん。」
「へへへ、婆さん、好い味してるね。これ、美味いよ。もう一度、風呂に浸かりますか。」
「あなた、行って来なさいな。私、好い気持ちだから、此処で少し、寝てますよ。」
「ああ、そうですな。タヌキ前のスマートなお父さん此処に置いて行くから、若い頃の夢でも、見ると好いよ。変な声出すんじゃないよ。アハハハ。」
「オホホホ、アリガトウゴザイマス。」

心何処ーショート ブログに、一つ潤う
 四畳半机上の小鉢に訪れる陽射しは、何時の間にか9:30に成ってしまった。光を浴びて、柔緑が膨張する。薄紫の閉じた花弁の丈が、大分大きく成っている。もう一息である。今朝の最低気温は、マイナス4℃。凍み萎むか? 咲き通せるか? 小草の順応力の強かさに、期待するしか有るまい。立派な兄貴・姉貴に成長したグッピィ一期生は、水槽の中を、元気一杯で泳ぎ回っている。

 昨夜、ブログで或るロシア便りを読ませて頂いた。ロシアの地下鉄に乗り合わせた疲れ切った母親と男の子の遣り取りと、それを見守る日本人の青年・ロシアの若い男女の、親子に注がれる極普通の温かな眼差しを、記述した短文であった。多分、<青年>の目撃談なのであろう。見た、思った、感じた、考えたままを、気取らずに、彼の身の丈のままで、淡々と綴った文章だった。青年の感性が、そのまま伝わって来た。彼の素晴らしい目撃談に、心が潤った。
 
 バックミュージックは、日曜名作座?の女流作家向田邦子の小作品であった。流石に、評価・人気の高いプロ作家の作と声優の妙で、大人の味わいがあった。然し、一人称の青年の目撃談は、生の味がして、久し振りに、心が潤った。巷にパソコンが氾濫して、手軽に、不特定多数に自分の思いが、発信出来る時代である。余りの受信の多さに、ただただ圧倒されてしまう。余程の偶然・運が無ければ、遭遇出来ない『言の葉の海』である。

 無風、快晴の月曜日である。老母は、体調が好いのであろう。物音がしている。先週から、薬が一種類増えた。昨日は、座椅子にもたれて、グッタリしていた。内心、ほっとしている処である。体調の良・不調は、老母の顔付きに、直接、現われる。老醜を晒したり、美形の片鱗を維持していたりである。私は不器用であるから、少年時代と変わらずに、ぶっきら棒に、老母と付き合っている。用事が無い限り、少年時代と同じに、四畳半で大半を過ごしている。

         つくづくと、似た者同士である。


心何処ーショート 夜半の高揚
 昨夜は、しっかりテレビを観てしまった。渡瀬恒彦の見応え充分の『半落ち』である。日のある内に、文作ノルマを達成していたから、夜半のフリー・タイムである。延々たる無味乾燥にして、マンネリ字面は、読み手の私にしても、些か食傷気味である。拙い文作にお付き合い願う読者には、そろそろブレイク・タイムが必要である。

 寝るには、少々間がある。何か描こうと、鉛筆を持つ。乱雑な四畳半を見渡すが、大した物が、見当たらず、ウィスキーに、手を伸ばす。何か始めれば、如何にか成るだろうと、適当描きをする。自分の全くの好い加減・適当振りに、タバコの本数だけが、灰皿を埋めて行く。日頃、怠惰の奥に眠っている真面目部分に、手加減の鞭打って、鉛筆を如何にか、動かし続ける。やっと、デタラメ・オンパレードの下絵が、形を現わす。

 やれやれの夜半の溜息である。一息付いて、購買責任の赤ワインをグラスに注ぐ。
    月落ち烏啼いて 霜天に満つ 江風漁火 愁眠に対す 
       姑蘇城外寒山寺 夜半の鐘声 客船に到る
                        あれ、まぁ、赤ワインに紅葉してしまった。

 さてさて、唯一のお楽しみお時間、色付けタイムである。不器用さに、老眼鏡の目が霞むのであるが、夜半の集中タイムである。今回は、アゲハ蝶を中心に置いて、ウィスキーボトル・双眼鏡・虫眼鏡・モアイ像風の物を、3体あしらって見た。細筆で、黒の輪郭を真面目腐った顔付きで、なぞる。今度は、黄色を入れて行く。黄と黒の彩度対比が、好い感じである。嬉しく成って、ピンクぽい赤を入れて見た処、黒が引き立って来る。

             多い気を良くして、一服付ける。

 双眼鏡らしき物に、灰色の濃淡を付けて、ボトルを水色で、ラベルを残して塗り潰す。モアイには、薄茶・緑・紫の彩色を施す。虫眼鏡の中には、小草の葉と赤ピンクの色を置いて見た。逆立ちしても、写実とは懸け離れた下手絵である。描き手は、何処ぞ何て問われたら、絶対に挙手拒否である。従って、描いたのを完全に無視して眺めると、苦笑いの浮かぶファンタジックな絵相が、出来つつある。地の余白を色鉛筆で、これまた、適当に薄い色付けとする。凡そ、描き手の外観には、そぐわない柔らかタッチの童画の完成である。

 ウッシッシ・・・様~見やがれ。物臭オヤジだって、たまには、マグレって事も、あるんだ。
 さてさて、スキャナーして、マイ・ピクチャーに保存してだ、どのページの挿絵に活かそうか。


心何処ーショート 風の便りに、合掌
 B子が亡くなった。風の便りで、聞いた。2年前と云う。彼女とは小学校の5年~6年までの、同級生であった。何分、不便な時代であったから、私の通うH小学校にも、分校があった。彼女は、その分校から合流した同級生であった。遠足で行った事がある。上流に小さなダム湖のある集落の子であった。その当時、大体、席順は背丈の順で、男女が、机を並べる教室であった。席替えは、学期毎に行われていた記憶がある。B子とは、ちょくちょく隣合った。彼女は、山村の子らしく、がっちりした大柄であった。言葉も、男言葉であった。私の家は、引越し組であった。信州弁の『きつさ』に、如何しても馴染めなかった母親は、私達の言葉使いに煩かった。私の耳にも、標準語の語感の方が、心地良かった。

 「R、おめぇ、男らしいいい顔だな。惚れ惚れするだぁ~、おらぉ、おめぇが、好きだよ。」

 B子は、授業中、隣の席で、こんな事を抜けぬけと、口にする豪傑女であった。強烈な印象があった。<男女7歳にして、席を同じゅせず。> 男兄弟5人の鉄拳硬派の躾をされていた当時の学童の私であった。近所の女の子と遊んでいると、軟弱者とバンカラ進学高に通う柔道部の長兄から、奥の八畳間に連れて行かれ、宙を回されたものである。私は、スポーツ・ケンカ・成績も、硬派の代表格なのであったが、豪傑B子の存在は、毎日が疎ましかった。お恥ずかしながら、B子の良さが、理解出来るように成ったのは、ずーと長じてからの事であった。

 席替えの一幕
「おぃ、R、これ何て、読むだ。教えろや。照れること、ねぇズラ。」
<このバカヤロ、文章の前後読めば、見当が付くだろが・・・ そんなに見るな、近付くな。>
「〇〇〇だろ。」
「やっぱ、おめぇ、頭が、いいわ。そこが、いいだ。おっかねぇ顔すんな。おら、バカズラ。」
<クァ~、この山猿、俺をなめやがって、男だったら、張っ倒してやれるのに、俺が、女に手を出さない事、知ってて、足下、見やがって、コンチクショウ!! チェッ、皆、こっち見てやがる。>

 テスト中の一幕
「おぃ、R、見せろよ。」
<クァ~、カンニングかよ。見たきぁ、見ろ。俺は、隠しは、しない。これでも、女かよ!!>
「R、ちょっくら、見えねぇズラ。」
<ふざけやがって、目を三角にしてやがる。とんでも無ねぇ女だ。>
「バカヤロ、でかい声、出すな。」
「悪りぃ悪りぃ、ケケケ」
<このヤロウ、お前、女だろう。少しは、女らしくなれよ。それになぁ、俺の事を、名前で呼び捨てにするのは、お前だけだぞ。少しは、気を使え。>

 答案返しの一幕
「へへ、R、二重丸だ。おらの成績は、Rの横だと、魔法見てぇに、優等生ズラ。これ、食えや。」
B子のヤツ、ニコニコして、ポケットから、干し栗を一掴み、俺のズボンのポケットに押し込む。 
<カァ~、コイツ、どう云う神経しているんだ。頭かち割って、調べてやるか!!許せねぇ。>

 B子の教えてくれたもの
やっと席替えである。これで開放される。やれやれ・・・ 視線を感じて、目を走らせると、B子が、こっちを見ている。あのバカ女である。えらいものと、視線が合ってしまった。背筋が、震えた。
然し、考えた。顔も身体も、自分では如何にも為らない親からの授かり物である。出来る出来ないも、俺が努力している訳では無い。持って生まれた自然のまま・・・か。顔慢のM子の顔の肉を捲ったら、有るのはシャレコウベだけである。B子、M子のシャレコウベを二つ並べて、どっちが、B子、M子だと区別が付くだろうか? これは、差別だ。中身が大事だよな・・・B子には、悪い事をしてしまった。

 そんな空想のお陰で、俺は、対人関係でムシャクシャすると、次から次と、敵の顔の肉を剥ぎ取ったものである。シャレコウベは、皆、無言であった。特に、生意気女には、この方法が、効を奏したものである。未練を断ち切るには、シャレコウベは、特効薬の効果があったものである。家庭を持った時には、B子を懐かしく思い出したものである。子は親の会話を、真似るものである。夫婦仲の好かった環境に、B子は育ったのであろう。女房・母親としてのB子は、小学校時代と変わらずに、
「父ちゃん、おらぁ、父ちゃんが、好きだ。おまぇら、子供達も、好きだ~。仲良くやるズラ。」
気にせずマイ・ペースで、<ケケケ>何て、笑い転げていたのかも知れぬ。

                               風の便りに、合掌である。


心何処ーショート タイム・ポケット
                タイム・ポケット

   マンネリテレビ 詰まらない タバコ 点す
   切り替えて ラジオ
   揚げビスケット 摘み 奥歯 カリカリ
   赤ワイン トクトク グィ またグィ

       寒さ 遠のいた 週末 夜半の空間 
       ラジオの語り 小さく流れる 
       ぽっかり浮いた タイム・ポケット
       静寂なれど 訪れ 去来するもの 無し

           それは 善き事か 悪しき事か
           若き頃 駆け巡る些事 悩み 不満に
           解決 未来を 考えた
              歳経るに 何時しか 覚えた 流されの術
              眠られぬ身に 時は 無色の内に 停まる
              それは 善き事か 悪しき事か

            立ち昇る 紫煙に 問うて見る
            紫煙 答える筈も 無く
            ユラユラと 天井に 消え行く
            それで好し それで好し 事無き時は それで好し

         人の心 何処や 心 絶えず 揺れ動くもの
             ぽっかり浮いた タイム・ポケット
             明日は 明日の 空気 流れる

心何処ーショート 袖振り合うも、他生の縁
 
 午前中一枚打ち上げて、ノルマ達成。新しく打つか、それとも止めて、下手絵のお時間とするか迷っていると、客人である。

 民生委員の婦人である。前回顔を出してくれた婦人の後任との事である。彼女の話に依ると、娘同士が同級生であったらしい。世情に疎いのが、物臭の特性である。同町内の人であるから、私の顔も知っているとの事で、些か恐縮してしまった。そんな事で、自然とバリアが無くなって、話が広がってしまう。彼女も、私同様、実母を介護しているとの事。

 生まれ年を聞かれて答えると、彼女が一つ上との事、出身高校を聞かれて答えると、彼女A高との事である。田舎暮らしであるから、お互い高校で大体の目星が付く、同レベルである。後は、一気にざっくばらんな話が、展開されて行く。

 「A高なら、活字好きでしょう。」大きく頷くから、四畳半から、老母への心境を綴った一編を、差し出す。彼女スイスイと、頷きながら一気に読み終えた。申し分の無い読解力である。
           こう云った御仁は、大歓迎である。
 実体験を持つ語りには、表情と味の色合いがある。お互い、小声で打ち明け話を交わす。

 別れ際、
 「私の方が、介護歴は上だから、私の引き出しに詰まっている物が、参考に為れば嬉しいから、利用してよ。何でもかんでも、自分1人で背負い込む事は無いよ。介護のコツは、自分の精神・体調が第一よ。」と、エールを送ってくれる。

 短文の要旨を心得た言葉に、さらりと触れている。友人に渡す心算の何篇かを、彼女にプレゼントする。
共通な問題を抱える御仁に、アドバイスを頂けるのは、有りがたい物である。

                                         12/7 午後
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