旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処ーショート 時は過ぎ、流れ行くもの 思い出すもの
灰色の空に、風はピクリともしない。魚達に餌を遣る。ラジオからは国会中継が、流れている。言葉が頭に入るから、ラジオを止め、日野美歌のテープを入れる。<風のよもやま話>を5~6行書き、水槽に目を遣ると、水面に浮いていた餌は、1粒残らず食べ尽くされている。面白い現象であった。餌は乾燥させた浮上性である。彼等は、乾燥餌が充分水を含んで、食べ頃に成るのを心得ている様子である。気付かねば、食欲が無いのかな?程の、無関心さである。飼い主が肥満体であるから、給餌は彼等の体形・体色を見て、色揚げ用の餌と普通の餌を隔日で与えている。

 毎日、1日の殆どを同じ空間で、過ごしている間柄である。彼等にとっては、私などは、部屋の動く置物ぐらいにしか、見えて居ない事であろう。私が水槽に手を伸ばした処で、彼等の動きに、別段の変化が起きる訳でもない。昼と夜とでは、彼等の動きは異なる。40×25×25(cm)の狭い水槽に、体長8cmの和金・黒出目金を筆頭に5cmのタナゴまで、合計10匹が暮らしている。精々25リットル程度の水中で、正面衝突もせずに、追いかけっこをしたり、ユラユラと1日を過ごしているのである。皆、健康優良児の魚形を保っている。私の無責任・勝手な感想では、彼等は、ストレスを感じないで、共存共栄を図っているのであろう。
 底石を啄ばむもの、白・黒・朱のスカートを翻してユラユラ泳ぐもの、スィッ、スィッと直進泳ぎをするもの、皆、思い思いの泳ぎ方である。

 一方、ヒーターの入った<適温25℃前後>のグッピィ槽の住人達は、世代交代の域を遥かに超えて、彼等の増殖活動は大変なものである。私の<初子>の期待を、一身に浴びた第1期生の3匹は、父母の色合いを引き継いで、今や、立派な<中堅の座>を占めている。その他諸々の子魚達は、中層・下層を群れ泳ぎ、小石の陰からは、稚魚達が、頭だけの顔を覗かせている。
                      喜ぶべきか・・・・憂うべきか・・・・
<里子>に出したくても、人間の感覚では晩秋・冬に向う季節の推移を思うと、里親の申し出など、全く覚束ない処である。

 そう云えば、サラリーマン時代、庭に禽舎を作り、ダルマインコ・オカメインコ・コザクラインコ・セキセイインコ・ウズラ・オナガキジを一緒に飼っていた。禽舎は、近所の隠れた名所と成って、幼児を連れた母親、祖母が、フェンス越しに小鳥達の姿を見に来ていたものである。私の2人の子供達も、友達が出来る頃に成ると、私を真似て、友達と一緒に禽舎に入って、遊んでいたものである。
 小鳥達も環境が合うと、繁殖に精を出すものである。特に原色に近いグリーンのセキセイインコは、オスメスの相性が好かったらしく、繁殖に繁殖を重ねて、禽舎は瞬く内に、セキセイインコの一大コロニーと化してしまった。人の好い女房は、せっせと<里子>に出したのであるが、多産種の優性遺伝子は、その後も優勢であった。見栄えのするオカメインコは、お盆に帰省する兄達が、頼みもしないのに<里親>の名乗りを上げて、ニコニコと持ち帰る始末であった。
 女族の男族への<誹謗>典型的お言葉の一つに『あなたの頭の中は、する事しか無いの、ハシタナイ!!』と云うのがある。男族には、大分耳の痛い女族の定型句であるが、殊、動物界にあっては、それが『最重要命題』の様で、禽舎は明けても暮れても、ラブコールの一大合唱を繰り返していたものである。<生命の本能>と言ってしまえば、それまでであるが・・・ 私とて、『意馬心猿』一辺倒の男では無い。地球の人口爆発同様に、禽舎の小環境を憂いて、すっかり頭を抱え込んでしまったものである。それがある時、禽舎の金網を頑丈な嘴で齧り藪って、集団脱走をしてしまった。難題は、あっさり解決してしまったのであるが、私のショックは甚大で、立ち直るのに、時間を要したのは、言うまでも無い事であった。

 振り返ると、こんなエピソードもあった。シマリスは、見た目の可愛さから、番で買って来たものであるが、さすがに哺乳類である。『痘痕も笑窪、美人の顔も〇〇日まで』の譬えである。糞尿のキツサに閉口して、庭にリス小屋を作っての野外飼育としたのである。柿木の下、八重山吹の茂み横に、台を置いたのである。庭に出なくても廊下から、小屋の中で元気に動き回るシマリスの姿が、良く見えた。小屋に架かる山吹・南天の緑が、好くマッチしていた。シマリスの動き回る姿が、庭の風景に同化した頃、それは、起こった。
 廊下で、何時もの様に孫の相手をしていた母が、ふと庭に目を遣ると、お隣さんとの境のブロック塀の上を、小さな生き物が走り回っている。目を凝らすと2匹のシマリスが、長い時間、仲好く、実に楽しそうに、走り回っていたそうである。勤めから帰宅した私は、母から、その一部始終を聞いた次第であった。

 母曰く・・・シマリス達は、飼われていたお礼がしたくて、何度も何度も、お世話に成りました。有難うの気持ちで、長い時間、逃げもしないでブロックの上で、宙返りなどの芸当を見せてくれたのだから、気持ち好く諦めてお遣り。本当に、今日は、楽しいものを見せて貰ったよ。

 トホホ・・・には、違いなかったが、元来、手が器用なシマリスである。毎日、人間が遣る餌・水替えの折に、ゲージの開閉の仕組みは、彼等にとっては観察済みであった事である。知能は、人間だけに独占されている能力では無い。仕方の無い出来事であった。何十年も前の出来事である。

 私は何度か、奇妙で、ひどく懐かしい夢を見る事がある。それは、我が家の庭に住み着いたシマリス達の姿である。
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鯉と認知症
            鯉と認知症
 昨日から、『鯉の旨煮』の仕込みを断続して、進めている次第である。老母は、規則正しい生活を送っている。通常、彼女は八時の起床である。八時半といえば、父の仏壇に灯明が点って、チャブ台には、茶碗と箸が用意される。勤めを卒業して私の起床は、この処、不定と成っている。老母は黙って、私の起きて来るのを、部屋で待っていてくれるのである。食事の分担は、私の役目である。食後、暫くテレビを見た後、私は自分の部屋に行く。そんな具合で、1日が繰り返されて行く。朝食に味見用に、『進行中の鯉の旨煮』を、一切れ試食する。老母の評価点は、高い。先ずは、一安心である。

 山国信州では、祝い事の折には『鯉』が供される。我が家の出身は、北海道であったから、鯉は、縁遠い食材であった。当然、鯉の話題が、老母と交わされる。鯉は昔から、滋養強壮のご馳走の座を維持している。私の小さい頃は、まだまだ農業が主体であったから、周辺には溜池が点在していた。春・夏・秋は、釣をして遊び、冬は、そこでスケートに夢中に為っていたものである。稲の刈り入れが終わった頃、決まって、溜池の水抜きが行われていた。

 私の家は、勤め人が暮らす地域であったから、当然、田畑は無かった。溜池の水抜きは、集落の一大行事であった。集落の全所帯の大勢が集まって、池の収穫物(鯉・鮒・沼エビ・ドジョウ・時にはウナギ)を分け合っていた。池は集落の<総有>であった。友達の父親達が、全身泥だらけに成って大掛かりな網を曳き、バシャバシヤと泥の中で飛び跳ねる魚達を捕まえては、次々に差し出されるタライ・バケツ・センメンキに鯉を分けていた。御用と成った鯉達は、『食用』と再び池に放流される『親鯉』に区分けされる。網から外れた鯉達は、池を取り囲む集落の人達の<掴み取り>に供される。資源保護の為に、時間制限があった。私達子供は、この時ばかりは、家庭のご馳走捕獲の大役を一身に授かって、口煩い母親から、一言も、お小言は頂戴しなかった。実に、ワクワクして出掛けた子供時代であった。持ち帰った鯉は、家庭で何日か泥を吐かせて後、『旨煮』『鯉こく』と成って、食卓を飾ったものである。

 農家の集落には、大体、水路が流れていたから、其々の家は、水路に網を掛けて、鯉を生かして置いた。祭りは、春祭り・秋祭りがあった。秋祭りの鯉は、こんな風に集落の溜池の水抜きで、賄われていた。一方、春祭りの鯉は、自己調達が難しかったから、この時季は、店屋では店頭に大樽を用意して、黒々とした鯉が泳いでいたものである。30年、40年も前の、懐かしい原風景である。生きた鯉を捌(さば)くのは、一家の長の仕事であった。捌く折に、鯉の肝を潰すと、鯉は苦味に覆われてしまう。大人達は、鯉の捌きのコツに薀蓄(うんちく)を披露し合って、話の肴にしていたものである。

スーパーの鯉1匹、丸ごとのパックが、郷愁をプレゼントしてくれた。

 テレビでは、『認知症』を取上げていた。老母も、大きく頷いて見ている。「お前、どう思う?」と問われる。
 認知症は、人間の自然の<行き着く先>かも知れぬ。中・高・大時代の若い時分、親しかった友がいた。友には、お爺ちゃんが居た。彼の家は、温泉街の細い路地裏にあった。好く遊びに行ったり、来たりした間柄であった。ヤツは、若くして逝ってしまったが、体の大きな貫禄十分の<片岡知恵蔵>タイプの優等生であった。お爺ちゃんは、路地坂の石垣に、良く腰を下ろしていた。寝巻きの浴衣の股座(またぐら)からは、決まって、<男の逸物(いつもつ)>が、ダラリと顔を出していた。友は、さほど困った顔をする訳でも無く、「また、ジッチャマ、変な物を出して、モウロク呆けしてるよ。困ったもんだ。」と、言うだけで、『孫の務め・体裁の勤め』で、一応、逸物を引っ込めさせるだけであった。私も若かったとは云え、男の片割れである。用事の終えた<男の遺物>には、関心が無かった。

 大体の家には、今と違って年寄りが居たものである。年寄りが遅かれ早かれ、呆け老人に成るのは、自然の摂理の一つであった。そして、家族の単位は、多かれ少なかれ、大所帯であった。養老院は元より、今流行(はやり)のディ・サービスなど云う社会整備が乏しかった時代である。家族が、それぞれの立場で老若男女を問わず、家族として同じ屋根の下で、暮らしていたのである。当然、奇麗事だけでは済まない、家族の悲喜交々の日常生活を送っていたのである。

 核家族・豊かさ・便利さ・忙しさ・代替産業の林立による有料サービス化が、生活の隅々まで蔓延している御時世である。内実の煩(わずら)わしさに、尤(もっと)もらしい理由を付けて封印した、二者択一的選択によつて、多かれ少なかれ、手に入れた物質の豊かさ・便利さ・忙しさである。個人の便利さ・忙しさにばかり感(かま)けて居ては、人間の<折角の在るべき姿>の質が、低下するばかりであろう。環境が許しさえすれば、日長、未だ身体の利く内の親と、向き合うのも、親子の愉しみの一つであろう。施設に入ってからでは、手遅れである。

       ラジオからは、国会中継が流れている。
      すっかり肌寒くなってしまった曇天の窓辺に、
    四十雀のツィー、ツィー、ジュジュ と囀りが聞こえる。
ドーン、ドーンと、祭り日を告げる狼煙花火の音が、響く午後である。

                           10/3
 
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