旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処ー短編 ギュンとクンの伝説
                    感染社会
 此処は、地方都市の便利な郊外の閑静な住宅街である。半世紀以上前に造成された市営住宅街を核に広がった町会である。市営住宅は何十年も前に払い下げられて、40坪前後の個人住宅が建ち並んでいる。左右2軒ずつ建つ家並みの中央に3mに満たない道が1本伸びている。従って町の歴史も半世紀以上であろう。同じ町内の幹線道路の東には、アパートが目立つ。町の前からの住人は、世帯主が二代目に代わっている。2代目と云っても、大半は退職をしたロートル世代が主である。
 
 休日・学校の休みに成ると、近くに嫁いだ娘家族が、実家に遊びに来る。子供達は爺ちゃんの家の前の道路で、キッチボール、ボール蹴り、バトミントンなどをして、仲良く遊ぶのが通例である。子供達は幼児から遊びに来ているから、近所の人達とは好く溶け合っている存在なのである。20mも行かぬ所には、格好の河川敷があるが、高校生・中学生に成った子供達は、幼児期から馴染んだ通りでの遊び場所から、卒業出来ない様子である。ボール、羽根が近所の敷地内に入っても、スイスイと入り込んで探し、再び遊びに興じているのである。姿・格好が変わったと云っても、そこに繰り広げられるのは、半世紀前と変わらぬ子供達の遊ぶ姿である。

 私が、ふと疑問に感じた一寸した事から、疑問が増殖して行った。斯く云う私も、働き尽くめのサラリーマン年季が明けて、日々にゆったり、のったりの生活が、身に付いて来た処なのである。数年前、連れ合いを癌で無くして、一人暮らしを小動物を傍らに、目立たずに日々を送っている次第である。世の情報は、専ら流れるラジオから耳に止める程度である。現役時代は、少々頭を使い過ぎた帰来があった。きっと背伸びをしていた付けが回って来たのであろうが、煩わしい事、考える事が、一挙に億劫に為ってしまったのだと自己診断している。

 日本の高度成長期の後期にあっては、『汚染』と云う言葉が至る所、踊っていた物である。産業公害が齎す汚染の概念は、時代を象徴する言葉として、日本人の意識に深く植え付けられたものである。巨大な工業装置が垂れ流した環境汚染は、目に見える第三者被害を齎せ社会問題として提示された。環境汚染の回避・防止は、装置の改善に現れたが、汚染源は形を変えただけで、それらを造り、稼動させる効率最優先の経済思想と為って、組織の管理思想を確立させると同時に、人間の思想をも汚染し始めていた様に思える。
 武士の体制から官の体制を歩んで、列強帝国主義時代の体制下、日本は世界の列強入りの悲願を果たしたのも束の間、手痛い敗戦の辛酸を舐めるに至った。都会では大正デモクラシーを見せたものの、軍国主義一辺倒の大波に浚われて頓挫してしまった。その大衆化の名残は、敗戦から一気に勢力を伸ばした戦後民主主義運動に結びついたのかも知れない。敗戦・米国お仕着せの民主化運動ばかりの外的ショックだけが、要素の全てでは無かろう。
 米ソ対決・冷戦の局面で未成熟・中途半端の侭、国家のと云う精神性を荒廃させたまま、目前の経済復興・豊かさへの憧れが、経済優先・万能・至上の主義へ突き進んでしまった感がある。
 ソ連の崩壊、中国の開放化経済で、世界は、物言わぬ日本を隷従させた米国の一極集中化が一気に進んだ。
 米国は国の物作りを捨て、金融超大国を目指して利権の拡大、資本の回転による利ざや稼ぎのシステム作りに暴走した。

 映画の世界は、しばしば世の実相を映している物である。1990年に大ヒットしたハリウッド映画に、『プリティ・ウーマン』がある。シンデリア物語、マイ・フェア・レデイと類型を同じくするラブ・ロマンスである。玉の輿を差し出すのは、それぞれ、王子、大学教授・<企業買収家>である。新富豪の登場が、時代を映す鏡の様で私には、印象深く残っている映画時代史の証左でもあった。

 世界経済は、商品の国際競争力の<欣喜の御旗>の下、企業買収・統合・工場移転・賃金の抑制・・・etcのコスト削減を求めて、奔走の結果、世界に移動型分業装置を張り巡らせてしまったのである。ボーダレス世界に、為替、玉石混合の信用証券化を粗製濫造して、先物取引のマネーゲームを取り込んで、<経済のグローバル化、グローバル経済>等と煽りに煽って、意思・手続き・決済をコンピューターで、瞬時に結んでしまった。実体経済から離れて、切った張ったの信用札が、肩を威からせて傍若無人の一人歩きをし始めた信用バブルは、一度蹴躓いたが命取り。繋がるネット社会は、電子の速さで世界を繋いでしまった。

 株券・証券を持たない者が、高見の火事騒ぎを見物すれば、呆気無い程の好い加減経済の付けを、各国の財政出動で糊塗しようとしている。儲けに踊って、虚業の実態が白日の下に暴かれると、掌を返して加害者が被害者面で大騒ぎをしている。

 現代人は、共通なソフトに依って作動する文明の利器を手に、何時、何処でも世界と交信出来る。操作さえ憶えれば、そのコンパクトな利器は願いを叶えてくれる。願ったり適ったりのコンパクト利器である。文明の利器に対して、精神の汚染などと言う積りは、殊更無い。
 殊更無いと思うのであるが、果たして、それで必要充分なのか? コンピューター用語に、ウィルス感染と云う言葉がある。大事なパソコンに悪意を持った人間から発信されるウィルスに依って、コンピューターが冒され正常作動が損なわれる危険性に晒されているのである。目に見えぬ悪意を、ウィルスに例えて<感染>と表するのは、事象を言い表して妙である。

<世界信用破壊>などと、加害者・加担者が、『態の好い抽象語を駆使』しているが、コンピューター・ウィルスだけが、信用破壊の感染源でもあるまい。ある意味では、IT世界はソフトに、悉く感染されているのではないだろうか? 
 嘗て、諍い・争いに明け暮れた人間社会は、個人から組織に統合・統括されて、汚染を捲き散らかした。そして組織の社会性の論理から、企業の汚染責任が糾弾されて環境汚染が規制対象と為った。今、環境汚染は、世界的議題としてエコへの取り組みが始まっている。
 然しながら、汚染より深刻な人間精神経路への感染の問題には、目が向いていない。面倒な事・時間の掛かる事は、機械ソフトが瞬時に代行して、答えを液晶画面に提示してくれる世の中である。写真・絵画・イラスト・音楽・計算・動画・文章・辞書・翻訳・・・etc 読解力と操作に長けていれば、代行効果としてのそれなりの果実を安易に、手に入れてしまえるのである。

    機械ソフトの最大の不備は、感情と苦悶・苦闘の欠如であろうか。
 機械ソフトに、それらがあるとすれば、アクセス不能・誤作動・作動停止と云った類だろう。何分、技術の進んだ性能が、売り物の世界である。それらの原因の多くは、悪意に満ちた者から送り付けられる、無味無臭不可視のウィルスの感染結果であるらしい。インターネットの拡がりは、今や水道・ガス・電気・道路と云ったライフ・ラインに肩を並べているのである。汚染の進化種が感染と云っても、可笑しくない状況が、個人生活の中に組み込まれている社会なのである。

『人間の判断・決定要素が、機械ソフトの手法に感染している。』と言ったら、私はキチガイ扱いされてしまうのだろうか???

 通り魔、無差別殺人、殺人体験願望、振込み詐欺、ウィルス送付趣味などは、感情欠如犯の仕業としか思えて為らない。これらの犯罪の深層には、少なからず感情回路の切断乃至は欠如が感じられて仕方が無い処である。理と感情で揺れ動くべく内蔵された人間精神の構造が、『営利活動に不必要』とばかりに、理を利に置き換え、感情を勘定に置き換えた<利と勘定の営利ソフト>が先鋭化しているのである。機械ソフト感染の一つの証左と、こじつけられなくも無い。

 木枯らしの様な風が吹いている。落ち葉飛ばされる曇天に、米を買いに行く用事があるから、銭湯経由で行こうと考える。11時であるが、人間考える事には大差が無さそうである。何時に無くロートルで賑わう温泉銭湯である。顔見知りのご老人の背中があったので、お返しの背中洗いを買って出る。

             ギュンとクンの伝説
                          
     この物語は、人間の力が自然界で少しも目立たぬ時代の事であり、
       人間よりも強い動物が、幾らでも居た時代の物語である
 
 <山を下る>
 ギュンの眼下には、広葉樹の海が雄大な拡がりを見せて、静かに横たわっていた。西の青い山脈は、彼の立っている東のこんもりとした山並みの三倍もあろうかと思われる高さで、頂に一様に真っ白な雪を戴いて、広大な盆地を南北に縦断して聳え立っていた。緑の樹海を、太陽を反射させた銀色の太い帯が、南から北へと大きな蛇行を横たえている。雲間から差す太い斜光が、盆地に下っていた。斜光の先には、銀色の蛇行に囲まれた緑の中州があった。

圧倒される感動が、未だ少年の面影を残すギュンを、暫くその場に立ち付かせた儘にしていた。

 ギュンの連れは、若い灰色狼の雌・クンである。ギュンとクンは同等の関係である。人間の知恵と野生の嗅覚と敏捷さが、互いを補完し合っている関係である。
 ギュンが独り歩き始めて、三年が経とうとしている。山伝いに歩いて、下を眺めては、山を下る。何度も山を下り、山を行く。それは、手付かずの大地を探しての道行きであった。何故と人に問われても,巧く説明は出来ないであろう。巧く説明するためには、言葉を飾り、相手の疑問を解消させるために、長々と言葉を繋げ、補足しなければ為らない。それが彼にとっては、厄介な手続きに思えるのであった。いっそ伝わり難いものならば、伝わりの成果をあれこれと詮索するよりも、詮索が意識に上らない方が、気が楽である。ギュンが親と離れたクンを拾ったのは、ニ年前の事である。空腹も満腹も、暑さ寒さも互いに分かち合って来た連れである。そして、苦楽を共にする協働の狩人でもあった。人間と狼であるから、当然に、友達の関係ではない。主従の薄い「連れ」なのである。人間と狼と云う厳然たる距離を置いた連れなのである。

 『クン、俺は此処が気に入った。此処に住もうと思う。いいだろう? あの河のあの辺りが、良さそうだ。山を下ろう。旅は終わりにしよう。』 
 ギュンの指差す中州の方向に、クンも同意するかの様に一声吼えた。ギュンとクンは、山の斜面を一気に駆け下った。河は大きく蛇行して、緑に覆われた恰好の中州を作っていた。柳の大木が数本立っている。深々とした水辺の砂地は、太陽に熱せられて正体も無く居眠りをしても、安心出来るほどの空間を持っていた。反対側の下流の浅瀬は、河が運んで来た豊かな土の色をしていた。中州は彼らが暮らすには、十二分過ぎる程の広さを持っていた。ギュンは数本ある柳の大木の中から、登るのに都合良く中州を見晴らすのに一番良い木を選んで、家を作ることに決めた。家作りは明日からすれば良い。ギュンは、柳の根元の夏草をなぎ倒し、引き抜き、平らに整地をした。夕方、クンがカモを咥えて帰って来た。ギュンは、河で河鱒を十匹程取って来た。火を熾して、カワマスを串刺しにして遠火で焼き、カモは内臓をクンが食べ、肉は、ギュンが丸焼きにして分けた。

満天の星空が、ギュンの希望・夢の構想を大きく明るいものに広げて、彼は中々寝付けなかった。

                  <小屋を作る>
 翌朝、夜の残して置いた食料で腹ごしらえをすると、彼らは浅瀬を渡って、対岸を覆っている竹林に向かった。ギュンの山刀が威力を奮った。青々した竹がギュンの太い腕の一撃で次々と斬り倒されて行く。斬り倒した竹で筏を作り、そのまま流れに乗って中州の砂辺に乗り上げる。そして、筏の蔦を外して、肩に担いで柳の下に運ぶのである。一日掛けてギュンは、竹材を柳の根元に集めた。翌日、寝るだけの小さな竹小屋の骨組みが、仕上がった。ギュンは、床下を思いっ切り高くする事にした。夏は風通しの好い二階部分で、冬は半地下式の一階部分で、冷気を遮断しなければならない。二階の床は、念入りに竹を縦横に二重張りにした。四方の壁は、手の平の長さの空間を開けて、二重にした。屋根は傾斜を片側だけ取る形にした。次の日は葦を刈った後、床下を腰の高さに合わせて掘った。河が運んだ細かな砂の堆積土は、掘るのには余り時間を要しなかった。崩れ防止に竹と石を組み合わせて、補強を入れる事にした。これでギュンが立っても、頭をぶつけずに済む高さに成った。周りは葦を粘土混ぜて土壁にする予定である。次の日は、小屋作りを休むことにした。

 中州は豊かであった。クンは必ず鴨を咥えて帰って来たし、ギュンも河に入れば、カワマスが容易に取れた。ギュンは余った竹で生簀(いけす)を作ることにした。中州には、キジも住着いていたし、シカも浅瀬を渡って草を食べに来ていた。中州下流の土地は良く肥えていて、瓜の種類が何種類か地面一杯に這えていたし、実の成る木も大きく枝を広げていた。鳥達の囀りも盛んであった。ギュンはクンの案内で、中州を時間を掛けて調べて回った。自給自足の生活をするのには、十分な恵みが期待出来そうである。
 広葉樹の林は、中州をこんもりと覆って、外部からは内部を見え難くしていた。
 『クン、ここは俺とお前が住むには、申し分の無い場所だ。これからは、無駄な殺生をしないで、必要な分だけの狩をしよう。俺は、そう決めた。』

 次の日、小屋の屋根作りをした。竹を床同様に隙間無く並べ、その上に葦を敷き詰め、更に竹を並べ粘土を捏ねて上を覆い被せた。丸一日の仕事であった。夕日が西の山脈に赤々と没して行く。体中泥だらけに成った体を、河に漬けながらギュンは大きな満足感に浸っていた。
 『クン、もうこれで、大雨の時でも大丈夫さ。震えずに済む。明日は、いよいよ壁作りだ。壁が済んだら、河を渡って少し辺りを探索して、狩場を見付けよう。』

 急ごしらえではあったが、小さな竹の半二階建ての小屋が、完成した。下の部屋の中央に、雨の日の為のかまどを作った。 明り取りと通気の為に、葦を間に入れた壁に、窓を入れた。窓の開閉は上下の開閉にして、開閉度に応じて、竹の支え棒の長さで調整する事にした。屋根、床の張り出しを大きく取ったから、其処でも暑い日差しを避けて、ギュンとクンが戯れる事が出来た。豊富な竹が工夫次第では、色々な狩・生活道具に成った。ギュンは河が大好きであったから、暑い日中は河の瀬に出掛けている。彼は、瀬に石を積んで小さな定置網の様な仕掛けを作ろうとしていた。仕掛けの最後に竹の檻を置いた。大漁の時は、内臓を取って、日干しにしたり、焼いた後、日干しにしたりした。人間と狼、二個の共同生活である。意思表示する言語は違うにしろ、お互いの意思は通じるものである。
ある時、クンがカルガモを生きた儘、咥えて帰って来た。それを下の小屋に置いてクンは、大人びた顔付きでギュンに頭を数度、得意気に振ると、再び狩に出掛け同じ事をした。
 『はは、クン分かったよ。生きた保存食の心算だな。』
ギュンは、カルガモが飛べぬ様に、風切り羽根を数本切って放した。
 『クン、これでもう、飛ぶことは出来ないから大丈夫だ。』
 ギュンに褒められたクンは、もう要らないと頭を叩かれても、懲りずもしないで、得意気に毎日カルガモを咥えて来る。
『明日は、お前のカルガモ達の囲いを作ろう。』
ギュンは仕方無く、柳の木の下を丸く、竹と蔦で囲った。クンは自分の生け捕りにして来た動物達を、1匹ずつ咥えて囲いの中に入れて、満足そうであった。クンは、昼間は小屋のベランダで伏せて、ギュンの仕事振りを眺めて、時間を過ごしている。夕方には囲いのカモたちを、下の部屋に追い立てて、ベランダで見張りをしながら寝るのである。

    <中州の生活>
・・・・・張り合いのある生活は、瞬く内に日を重ねて行く・・・・・
 空の巨大であった入道雲が、大分小さくなって来た。朝夕の涼しさが、夏の終わりを告げている。ギュンとクンの中州は実りの秋を、期待させるように果実の小さな膨らみは、青い塊を大きくさせていた。実際、河は実に多くの物を運び与え、且つ多くのものを教えてくれていた。中州の下流に位置する肥沃の土は、収穫の地であり、青々と茂った草を食べに来る鹿・猪などの狩の場でもあった。平らな草地の幾つかの場所に、ギュンが隠れる程の穴を掘り、弓矢を構える。そこにクンが獲物を追い立てて、狩をするのである。狩をしない時は、穴を塞いで上に草を被せて置けば、罠の用も足した。ギュンとクンがこの中州に腰を落ち着かせて、3月が経とうとしていた。彼らの行動範囲は、中州を中心に大分拡がりを見せていた。住処と食料が確保されている、という安心感が、彼らにゆとりと云う落ち着きと開放感を与えていた。

 台風がやって来た。叩き付ける様な大粒の雨が降っていた。中州は増水に一気に孤立して行く。竹の筏は重くて、引き上げることは出来なかった。ギュンとクンは、小屋の二階で筏が流されて行くのを唯眺めているより他は無かった。土の匂いをプンプンさせた黄土色の河が、轟々と牙を剥き出して中州を削って行く。稲妻が鼠色の空に、青白いの閃光を走らせて、凄まじい音響を立てて暴れ狂っている。雨脚は愈々強まって柳の大木の葉を叩きのめして、中州の半分は黄土色に占領されてしまった。風は木立ちと雨を白い生き物の様に、バシバシと音を立てて吹き荒れている。クンは野生の本能の血が騒ぐのか、前足をしっかと踏み出して、魔物に挑むかの様に、野太い咆哮を、閃光走る鼠色の空間に発し続けている。
 『クン心配は要らんよ。小屋を建てる時に、幹を見て回った。冠水した跡は無かったから、此処までは増水しないだろう。元の水位になるには、5、6日は掛かるだろう。今度は工夫して、軽い船を作ろう。』
 ギュンは灰色の太いクンの首を、宥(なだ)める様にポンポンと叩き、下の部屋に移った。
獣脂を利用した灯火(ともしび)の中で、クンの背を枕に、怯えるカルガモ達と一緒に寝る。

 台風一過の青空が、高く純白の雲を輝かせていた。柳の大木によじ登って、中州を見渡すと中州の半分は、冠水している。生簀を設けた瀬は、黄土色の波を満開にさせて、ゴォゴォと音を立てて流れ下っている。黄土色の激流の底で岩が、ゴロゴロと転がり、岩と岩のぶつかる鈍い音が聞こえている。濁流の中で、中州は座礁した船の様な眺めであった。流木、草、葦の枯れ草などが次々と流されて行く。迫力のある河の眺めに、ギュンは釘付けになっていた。木に登れないクンが、下で業を煮やして盛んに降りろと吼えている。小屋の下からカモ達を囲いに追い立てて、濡れた小屋を乾かすために火を炊く事にした。完全に孤立してしまった中州である。暫くは食べるだけで、じっとしているより他は無さそうである。冠水した中州の狩場を見に行く。親と逸れたカルガモ、イノシシ、鹿のこども達が怯えていた。その子供たちを連れて小屋に戻った。カルガモの世話は、カモ達に任せておけば良かったが、イノシシと鹿は動物であるから、ギュンが親代わりをするしか無かった。飼うとなれば、小屋を中心に生活する躾をする必要がある。小屋の下で、寝起きを共にする生活が始まったのである。

 冠水した中州だけの退屈な一週間が、漸く過ぎた。渡れる様になった川を見て、対岸の竹を取りに行く。ギュンには、構想があつた。増水時に引き上げられる様なカヌー状の小船を、作ろうと考えたのである。船腹を覆う獣皮は、半分以上も足りなかったから、クンと狩に精を出さねばならないだろう。然し、何時かはそれも、きっと貯まる筈である。取り敢えずは、日常の対岸に渡る竹筏を、作らねば成らなかった。定住生活とは、維持に労力を尽くさねば為らないものである。

 川を大分下った所に、小さな集落がある。物々交換の時代であるから、幾ら自給自足の人間と狼の共同生活と云っても、最低限の外部との接触は、避けて通れない処であった。ギュンは欲しい物がある時は、クンと組んでイノシシ、シカ狩を請け負って仕留めて、集落に引き渡す事にしている。この方法ですれば、実入りは少なくなったが、獲物を運ぶ手間が省けたし、集落の者達と親しく成れた。狩は何日かを要するから、その間、彼等は集落に滞在する。外部との接触は、知識欲旺盛なギュンには、好い刺激と成って生活の幅と工夫を拡げていった。集落と中州は遠かったから、ギュンは、しっかり観察する事を最優先としていた。季節の変わり目に集落を訪れ、作物の種子を持ち帰り中州に植えた。

   <ヤンの出現>
 実りの秋を迎えて、冬への備えを考えなければならない。冬の寒さと空腹は、命の縮む心細さである。幸い中州の実りは、工夫次第では充分に、冬の季節を乗り越えられる量である。果実の様な生物の保存は、手間の掛かる仕事である。塩は貴重品、砂糖などは無かった時代である。保存食の常套手段と云えば、専ら乾燥させる事でしか無かった。ギュンは慣れない手付きで、果実の皮むきに精を出す日々である。そんなある日、1人の少女が、ふらりと中州に現われた。彼女の名前は、ヤンと言った。集落の娘である。余り話をした事は無かったが、ギュンが集落に行くと決まってギュンの近くで、何かと世話を焼いてくれる三つ年下の娘であった。ギュンと一緒に暮らすと言って、集落を出て来たと言う。彼女は、身寄りの無い生い立ちであるから、何も心配ない。と言う。

「ギュン、今日から一緒だよ。一人じぁ淋しいだろ。二人だったら、淋しくないだろ。私のこと嫌いじゃないだろ?」 
ヤンは、丸顔の少し吊り上った切れ長の目を、伏せた儘、表情を変えずに言った。
「うん、分かった。」 
ギュンにしても彼女に対しては、好意を寄せていたから、異存は無かったのであるが、ある日突然のヤンの押し掛けには、如何対処して良いものか・・・・心の準備が出来ず、二の句が出なかったのである。ギュンの応諾に、ヤンの顔が一気に華やいで、しっかりと見開いた両のキラキラ光る黒い瞳で、ギュンの瞳を絡み取る様に注いで、
「ギュン、それだけか! 私は美人だし、働き者だよ。もっと優しい言葉が、言えないのか? ウウン」
「うん、分かってる。」 
ギュンの胸の鼓動は高鳴っていたが、一対一に成った時の『女の強さ』には、男には、到底太刀打ち出来ない凄さを感じていた。

 秋の中州にヤンを迎えて、生活はぐーと充実して来た。細々した身の回りの事は、彼女が黙々とこなしてくれたから、ギュンはカヌー作りに専念する事が出来た。砂に形を描き、腕組みをして頭を捻り、ポンと手を打つ。そんな繰り返しであった。彼の構想は、次の通りであった。船首と船尾を同形として、1m程度の太竹の中央を欠いて火で炙り流線形を作る。それを其々船首・船尾に三層に置き、中央に支えを置いて、船首・船尾の竹筒に直線の竹を繋げる。出来上がったカヌーの骨組みに獣皮を、貼り合せると云うものである。これだと持ち運びは、ずーと自由に成る筈である。失敗を何日も繰り返しながら、全長2.5m、幅0.8m程のカヌーの骨組みが、完成した。ヤンがニコニコして、骨組みに獣皮を当てて、獣骨で作った針で、一針一針、継ぎ足して行く。ギュンはクンを連れて、松脂の収集に出掛け、煮立てて、その脂液を縫い目に注いだ。仕上げにヤンが、竹で底敷きを編み、その上に厚い獣皮を置いた。櫂を削り進水の運びと成ったのは、すっかり秋に成ったある日である。
 
 早速、流れの緩やかな蛇行での進水式である。カヌーはギュンとヤンが担いで、驚く程の軽さであった。後ろのヤンが、ギュンの足を軽く蹴って、満足気にウフフと笑っている。クンは、飛び跳ねる仕種を繰り返しながら、先導役をしている。カヌーを浮かべ、浸水の有無を確かめる。如何やら成功の様子である。2人思わず手を叩きあって、抱き合った。ヤンを乗せ、後ろにはギュンが乗った。クンは、ギュンの指図が無い限り、先導役を果たしていたから、船首に身構える。自慢気に櫂を取るギュン。

 櫂の先で水底を押すと、カヌーは、すーと水を切った。深みに出て、櫂を右に左に漕ぐと、カヌーは船首をグイ、グイと左右に振って進む。パチパチと手を叩くヤン、船首で遠吼えをするクン・・・もう1本の櫂を渡して、
「ヤン、一、二で交互に漕ごう。俺が一で、ヤンが二だ。それ、一、ニ、それ、一、ニ」
「曲がるよ曲がるよ!!ギュン」
「力が違うんだ。これで如何だ。」 力を調整するギュン。
 力の配分のコツを覚えて来ると、カヌーの動きは、実に正直に応える。数日間、時間があるとカヌー漕ぎの練習の連続であった。カヌーを使わない時は、撥水性を保つ為、中州に引き上げて船体を覆う獣皮の隅々まで、獣脂を塗り込んだ。

    <発見>
 実りの秋は、実に忙しい。過ぎ行く実りに安堵していては、冬の飢餓を迎えるばかりである。保存・貯蔵に精を出さねば、折角の中州の豊かさも無に帰してしまう。狩などと云った物は、所詮は博打の様な物である。粘土を捏ね土器を焼き、乾燥させて貯蔵させねば為らない。ギュンとヤンも忙しかったが、見張りのクンも実に忙しかった。実りを掠め取ろうとするものは、地上ばかりで無く、空中からも機を伺っていたのであるから。クンは昼夜を問わず、持ち場を離れなかった。
 山の栗は冬の食料として、欠かせない物である。乾燥させて粉に挽いて、水を加えて練り、焼けば香ばしい栗のパンが出来た。カヌーに乗って川を渡る。拾い集めた栗をカヌーに溜め、再び集める。そして栗の小木を見付けると、引き抜いて中州に移植する。実りの豊かさが、彼等に行動範囲を拡げさせて行く。沢伝いに進んでいた時の事であった。水に立ち上る湯気を発見した。温泉である。
ギュンとヤンは温度を確かめて、ニッコリと頷くと裸に為って、力を合わせて底の石をどけ、身を沈める程の深さまで掘って、周りを石で囲った。即席の沢の湯である。
「クン、気持ちがいいぞ!! 尻込みしないで、こっちに来いよ。」
すっかり座り込んでしまったクンの前足を取って、ギュンが強引に入れると、彼は情けない顔でイヤイヤを繰り返している。駄々っ子をあやす程、ギュンは大人では無い。クンの前足をヤンに渡して、ギュンが後ろに回ってクンの胴体を抱かかえて、ドブンと浸かる。
「クン、大丈夫。恐がらないで。ほらほら、静かにして。」
ヤンは膨らみ始めた乳房の割れ目に、クンの鼻面を持って来て、彼女の頭を優しく撫でている。ギュンは、クンの胴体に、爪を立ててゴシゴシと洗ってやる。不安そうなクンの表情も、薄らいで彼女の呼吸も静かに為って行く。
「ヤン、此処にも小屋を作ったら、良いだろうな。冬に成って火を炊いて、寒い寒いなんて言っているよりも、ずーと良いよ。」
「ウンウン、温泉に入ると、女は綺麗になるよ。ここに、家があったら、毎日入れる。嬉しいよ。小さくて良いよ。眠れて食べ物を置いておける広さで、充分よ。」

 ヤンを迎えて収穫と蓄えの作業は、忙しかったが、充実感もあったし、何よりも楽しかった。干せる物は、全て干物にして蓄えた。魚、肉、果実、木の実、野菜、茸、春を待つには、充分な量であった。

   <セカンドハウス作り>
 今日は、温泉小屋作りへ出発の日である。三日の予定である。カヌーに三日分の出来上がったばかりの保存食を乗せて、二時間ほど川を下る。大きく蛇行した浅瀬から、カヌーを砂場に引き上げ、岸の木に繋ぐ。食料を背負い、沢伝いに一時間ほど歩く。湯煙の立つ所の近くに、大岩が合わさった場所があった。
「ヤン、ほら、あの大岩の上に屋根を架けて、下を掘ったら上手く行くかも知れない。」
「そうね。草を厚く敷いて、隙間を土に草を入れて、厚く塗り込めば、風雨にも大丈夫ね。」
「そうだ。土壁の補強に、竹を組もう。」
大岩の下をギュンが掘り出すと、クンは<任せろ>とばかりに、四本の足を使ってグングン掘り始めた。30~40cmも掘り進むと、灰色の粘土層が現われた。粘りの強い良質の粘土である。
「お~い、ヤン来て見ろよ。凄いのが出て来たぞ。」
昼の支度に取り掛かっていたヤンが、沢から走って来た。
「どうしたの!!」
粘土の欠片を水で濡らして、手で捏ねて見せるギュンである。
「面倒な草なんか、入れる必要なんか無いよ。厚く塗って、火を焚けば、それで十分だよ。ひび割れしない土器だって作れるぞ。」
「良かったね、ギュン、大発見ね。ヤンは、美味しいお昼を作るわ。」 

 一日をかけて、ギュンとクンは、深さ2m、縦2m、横3m程の部屋の原型を作り上げた。
次の日、ギュンとヤンは、斜に切った竹を、大きな竹べらに見立てて、四方の壁に物置の棚を、刳り抜く作業に取り掛かった。四方の壁は、二方に食料棚・貯水・カマド・食器棚に、一方には、ギュンの道具棚。残りの一方には、クンのベットにする事にした。意味の分かったクンは、深々とした横穴を掘り始めた。
 三日目、カマドの上部に煙突を刳り貫き、粘土層の無い部分は粘土で固めた。留守が心配であったから、一期工事を終えて帰る事にした。
 再び三日分の食料を携えて、二期工事に向った。ギュンには計画があった。粒子の細かい、粘り気の強い土は、焼けば赤い粘土よりも、きっと硬くひび割れしないレンガが、出来る筈である。手に付いた粘土は乾くと、白い色になった。白い壁に焼き上がる事だろう。そうなれば、硬い石の壁は、滲み出る水を止め、湿気も遮断してくれる筈である。白一面の、のっぺりした壁だけでは、如何にも殺風景にして冷たい空間である。幸い粘土は細工が用意である。工夫次第では、面白い造形を施す事が出来る。1年を通じて、楽しめる部屋を作ろうと考えたのである。棚用にえぐった所に、棚板を嵌め込める様に両側に、深く溝を切る事にした。こうすれば、溝に竹棒を入れて行けば、それが棚板と成ってその上に、色々の物が置ける。場合に依っては、竹棒から下に吊るす事も出来る。
 ギュンは狩りの道具の収納場所と決めた壁面に、自分とクンが連携して狩りをする場面を、浮き彫りで印す事を考えていた。家事を賄うヤンには、壁面を二面与えて、彼女の好きな様に任せた。
 ヤンは、暫くギュンの作業を眺めていたが、その内に広葉樹の落ち葉を持って来て、あれこれと試して見た後、ギュンの腰から、山刀を借りると葉の付いた枝を切って来て、表面の化粧用に塗った壁の柔らかな面に、それを押し当てて、自分で納得の手を打って、得意気にギュンに言った。
「好いでしょう。ヤンは、頭が良い。」
ヤンは次から次へと、木の実を持って来て粘土の壁に押して、無我夢中の様子であるし、ギュンは眉間に皺を寄せて、壁画の大作に挑んでいる。手の無いクンは、吼えながら部屋をグルグル回るだけで、一向に相手をしてくれないギュンに、業を煮やすかの様に、後ろから高いジャンプで体当たりを食らわせ始めた。よろけて、壁に衝突させられたギュンの顔面は、ベッタリと粘土だらけである。折角の創作中の壁を台無しにされて、
「こら、クン、大人しくしてろ!!」
2度3度、頭をガツンガツンとゲンコツを見舞われた。ギュンに強く叱られて、クンは後足で立ち上がると、腹癒せとばかりに、壁面に前足でガリガリと深い傷を刻んで、凄みのある唸り声を挙げる。
「静かにしろ、クン、」
尚もガリガリと始めるクンに、ギュンは、クンを後ろから抱かかえて、とうとう外に放り出してしまった。一声激しく吼えると、クンは、後ろも振り向かず、沢に走り出してしまった。

 クンが帰って来たのは、夕暮れだった。口の周りに血糊を付けたクンは、何時にも増して野性の目をしていた。夜、ギュンは、クンの身体を枕にヤンとは、離れて眠った。ギュンの深い眠りに、クンは静かな呼吸で、ギュンの頬を舐め上げていた。ヤンはギュンを待ったが、ギュンは朝まで起きなかった。

 翌日は忙しかった。焚き木を拾い集めて、部屋に運び、手始めの火を焚いた。煙突からは、白い煙がモウモウと立ち昇った。壁からは、湯気が立ち上って表面が、じわじわと白く乾いて行くのが、はっきり分かった。その日は、火の番をしながら、運び出した粘土の山から、良い部分を取り出して、土器作りに精を出した。肌理の細かい粘土で、手足はヌルヌルに為った。・・・ヤンは、先ほどから奇妙な事を繰り返している。ヌルヌルの粘土を手足に付けて、手足を擦ったり、洗って見比べたりしている。・・・・出来上がった粘土の土器を、ギュンは、火から遠い所に並べて様子を見ている。作業を終えて、湯に浸かりに行く。その時、ヤンは粘土を持って来て、
「ほら、こうでしょ。これを塗って擦ると、こうでしょ。比べて、すべすべ、きれいになる。気持ちいいよ。」
為るほど、粘土で身体を擦ると、身体の脂と汚れが取れて、滑々した肌に為った。臭いを嗅ぐと、粘土の臭いは、匂わなかった。ギュンとヤンは、お互いの身体を灰色の粘土で磨き上げた。
「さぁ、クン、お前も洗って遣る。お前も美人に成るぞ。」
クンの灰色の体毛は、汚れを落として、高貴な野生の輝きすら感じるしっとりとした毛並みに変わった。

 大発見であった。ヤンは粘土を持ち帰ると言った。明日は愈々、部屋の本焼きである。

 部屋にうず高く積み上げられた焚き木に、火を掛ける。燻る火に、煙突から白煙が、仄かに立ち昇る。パチパチと弾ける音の中から、赤い炎が巻き上がるや、火勢は一気に拡がった。朦々たる煙突の白煙は、今や、火炎の柱を立てて、パチパチと物凄い勢いで天に揺らぎ始めていた。バシッパシッと鋭い音が、部屋の内部から響いている。粘土層の水分が、外部の火勢とせめぎ合いをし始めて、壁の表面に皹(ひび)の亀裂を刻んでいるのだろう。小屋の入り口からは、燃焼で大量に消費される空気が、風となって部屋に吸い込まれて、煙突の火柱が轟々と鳴っていた。余りの凄まじさに、中の様子を覗き見る事は、叶わなかった。欲張り過ぎた結果だろうか・・・2時間ほど業火に見舞われた部屋の内部は、火勢がすっかりとぼった後も、不気味な程に赤かった。日が大きく西に傾いても、部屋の余熱はギュン達を拒んでいた。
 4日目の帰り時刻ギリギリ迄、ギュンとヤンは壁面の亀裂の入った箇所の粘土修正に、汗を流した。部屋に余熱が残っている間に、どうしても片付けて置かねば為らない仕上げの作業であった。補修に詰めた灰色の粘土は、沢を下る頃に成ると、乾いて白い筋と成っていた。細部を除けば、粒子の細かい灰色の粘土は、予想外の白いレンガの壁面の空間を作り出していた。沢の湯で身体の汚れを流して、クンを先頭に沢を下る。次回の作業が楽しみであった。

 3度目の沢行きである。クンを乗せて、ギュンとヤンは4日分の食料をカヌーに積み込んで、流れに漕ぎ出した。部屋は、水の滲み出しも、湿気も見事に遮断して完成していた。共同作業完成の感動が走って、ギュンとヤンは、抱き合い、クンは部屋の中を嬉々として、尾を振りながら動き回り、自分の横穴を出たり入ったりの行動を繰り返していた。今回の沢行きは、完成祝いの様なものである。作業量は掃除に、床に敷き詰める落ち葉枯れ草の運び込み、入り口の戸の工夫に棚の完成くらいのものである。浮いた時間は、のんびりと過ごせば好いし、小屋の周囲の探索に時間を割くのが目的であった。
 床の灰を取り除いて、一部を部屋のカマドの下灰にした。ヤンはクンを用心棒に、床の敷き草の担当、ギュンは、沢から竹材の運び込みである。何れも大声を発すれば届く範囲である。人間の作業は、大体が共同作業である。ヤンは乾燥した落ち葉、刈り取った丈の長い枯れ草を何箇所かに纏めて、次に移る。ギュンは、竹を切って枝を払い長さを整えて纏める。竹の運搬は、2人が担いで行うし、敷き草の運搬は、2本の竹棒を担架に見立てて、その上にうず高く積み重ねて運ぶ。勿論、その先導役はクンが買って出る寸法である。夕方には、床には敷き草が敷かれ、棚には竹の棚板が嵌め込まれ、入り口には竹格子の戸が付けられた。
 カマドには、火が熾っていた。新品の白い肌の艶やかな土鍋には、栗が煮えていた。沢で取って来た岩魚が、竹の櫛を通して火の周りに、数匹炙られている。沢蟹も数匹ごと、串刺しにされて赤くなった甲羅から、汁を噴出していた。棚の上には、山葡萄の房が乗っている。クンが山鳥を咥えて、戻って来た。早速、外で羽を毟り、内臓を取り出してクンに与える。焼いて滴り落ちる脂は、貴重な夜の明かりの脂に利用出来るから、煮るか、深皿の上で焼く工夫を、ヤンは実行していた。晩秋の夜は、既に肌寒い。カマドにチロチロと燃える火は、丁度暖炉の様で、小さな部屋を温めている。クンの為に作った横穴の上のベットは、クンが寝そべるには格好の位置と高さであったから、部屋でのクンの定位置に成った。部屋の壁の角には、明かり用の灯明を灯す為に、油入れの窪みを作って置いたから、そこに獣脂の塊を置いて、芯に火を灯すと、仄かな明かりが取れた。磨き上げた野生のクンは、夜に成ると部屋を抜けて、闇に消えて行った。ギュンとヤンの褥が始まる。白い滑らかな壁に灯る仄かな明かりの中で、ギュンとヤンの若い肉体が交差し合う。
 翌日は、小屋から沢の湯への石段作りを開始した。小屋から湯までは、20m程の距離である。勾配の急な箇所に数箇所の石段を付けて、歩き易くした。ヤンは、草の汁・山葡萄の皮を絞ったりして、自分の作った壁面の押し絵に彩色を施して、悦に入っている。クンは、高みに寝そべって、まどろみを繰り返している。雪と氷に大地が覆われてしまうと、中州の生活は、何かと不自由に成ってしまう事であろう。沢行きの度に、冬の食料を運んで、準備をしなければ成らないだろう。カヌーで1度に運べる量は、たかが知れている。本格的な準備は、まだまだ先の事である。<明日は、クンに案内役をさせて、周辺の地理を調べる事にしよう>と、ギュンの厚い胸に顔を埋めて、静かに寝息を立てるヤンの背中を摩りながら、思い巡らせているギュンであった。

 未明、クンが帰って来た。ベットに飛び乗って、身を埋めたクンであったが、狼の遠吠えを聞くと、スゥと物音も立てずに、部屋を出て行った。時々、クンの鳴き声と、他の狼の鳴き声が交差していた。

   <クンの伴侶>
 季節の足取りは、早い。朝霧と共に西の山脈には、東の山並より一足先に黄葉の彩が、山を埋めて行く。曇天の日中には、雪虫の虫柱が柳の低い枝に舞う様に成った。晴れると、秋の陽射しは清々しいものであるが、雨の日は寒いものである。2日続きの雨である。時折雫を落とす小屋の中で、ギュンとヤンは囲炉裏の火で暖を取る。土間に敷いた葦の上に重ねた枯れ草、落ち葉の層に、身体を寄せ合った儘、埋め、何時の間にか、眠ってしまう。そんな夕暮れ時の事であった。
一頭の雄狼が、クンの後から緊張感に毛を逆立て、低い唸り声を発しながら小屋に入って来た。クンは、雄狼を宥めるかの様に、寄り添って彼の首の辺りを舐めている。身を硬くしてギュンにしがみ付くヤンの腕を払って、
「恐がるな、落ち着いて、クンが恋人を見せに来たんだ。普通にして、クンに任せるんだ。大丈夫だ。」
ギュンは、その狼を何度か見ていた。最初は、遠く影が走る様に、この1ヵ月程は、はっきり姿を現す様に成り、夜はクンと戯れている気配であった。多分、クンとの出会いは、沢行きでの事であったのだろう。
 クンは、ギュンとヤンの正面に前足を揃えて座った。そして雄狼にも、自分に倣えとばかりに、彼の太い黒味勝った首を前歯で噛んで、座らせようとしている。ギュンは、自分に敵意の無い事を彼に示す様に、瞬きもせずに柔和な目で、彼の目を静かに見詰めている。野性の世界では、先に動いた方が、負けである。ピンと張り詰めた人間と狼の気力の我慢比べである。雄狼のクンを窺った目には、ギュンと同様に優しかった。それを見て、得心した様な表情を一つ浮かべると、自分に頷く様に雄狼も正面を見て、前足を揃えて座った。ギュンは、彼を利口な肝の据わった狼だと思った。安心し嬉しそうに、クンは雄狼の顔を何度も舐め上げていた。ヤンの緊張も解けて、小屋の中は歓迎の空気が生まれた。
 クンが立ち上がって、鴨肉の燻製を咥えてギュンの前に置いた。ギュンは、先ず自分とヤンの分を小刀で切り取り、残りをクンに廻した。それをクンは、2頭で食べた。次に咥えてきた物は、カワマスの干物であった。ギュンとヤンは、それを火で炙って齧り、クンと雄狼はバリバリと食べる。
「ヤン、お祝いだ。早いが葡萄酒を味見しよう。」
素焼きの甕から赤い葡萄酒を掬って来たヤンが、器二つに分けた。まだ酸味の強い、若い赤い液体は、それでもアルコールに変わりつつあった。一つの器をギュンとヤンが廻し、もう一つの器をクンと雄狼が舌を共にする。
「ギュン、この狼にも名前が必要ね。ケンは、どう?」
「うん、」
「そうでしょう。ギュン、ヤン、クン、ケンと皆、『ン』が付く仲間よ。」
ヤンは得意気に笑って、器に葡萄酒を注ぎ足した。酔いが回れば、ヤンは村で育った娘である。手拍子を取って、細い透き通った声で歌い始めた。クンは同性のヤンに歓迎されて、余程嬉しかったのだろう・・・・ 納屋から、食べ物を咥えて来ては、ケンと一緒に満足そうに食べている。外は雨脚の強い降りであったが、小屋の中は、何時までも盛んであった。

 クンはケンと結ばれて、野生と人間生活を行き来していた。何時の間にか、広葉樹は木枯らしに吹かれて丸裸に成っていた。中州を取り巻いて流れる河は、すっかり水量を減じて川底の小石までも、はっきりと見せる程に透明感をたたえて流れていた。西の山脈には、雪の等高線が現われていた。麓に雪が舞い積もるのも間近い。河には、鮭が黒い帯と成って、上流を目指して遡上して来た。雪が降り積もる前に、出来るだけ多くの物を沢の小屋に運び込んで置く必要があった。この数回、カヌーはクンの座る場所にも食料を積んで川を下っていた。クンとケンは、川岸を走って同行し、背中に食料を結わえて、沢を上って協力していた。レンガの地下式住居は、狭かったが冬の住居としては、申し分の無い備えであった。

   <狩り場>
 雪が盆地を覆い尽くした。積雪は、野生動物に不利に働く事が多い。雪に印された彼等の足跡は、その足形・歩幅・足跡の深さから、何が何頭・何匹で、何時何処から何処に向ったのか? の動物達の行動軌跡を、教えてくれている様なものである。経験を積めば、観察から予測が付き、待ち構える事が出来る。冬場の狩りは、ある意味では成功の確率の高さに繋がる。沢の小屋から東に2時間も登ると、二段構えに山を重ねた山裏に隠れた様な起伏の少ない平坦な場所があった。木々の少ない視界の利く地形で、北の東西の幅は結構あったが、南側は先細りの急な山の斜面に接していた。雪原に印された動物達の足跡は、種類・数とも豊富であった。
 クンとケンが北から、東西に逃がさずに南に、獲物を追い立てる事が出来たら、先細りの地点でギュンが弓を構えて待ち受ければ、狩りの成果は大いに上がる事であろう。一の矢が失敗に終わったとしても、Uターンする獲物に二の矢を射掛ける事も出来るし、Uターンした獲物の前には、クンとケンが牙を剥いて待ち構えているのである。追うものには有利にして、追われるものには不利な地形である。工夫次第では、絶好の狩場と成る。

 ヤンとケンを得て、人間と狼の中州と沢を行き来する自給自足の月日は、
確かな拡充を持って、静かに流れた。

   <中州の噂(うわさ)>
 2人の男が、カヌーで川を下って来た。彼等の行く手に、緑生い茂る中州があった。日は大分西に傾いていたから、男達は中州に上がって野営をする事にした。下って来た流れは、本流であったから、削り取られた剥き出しの岸は、高く流れも急であった。そこで、そのまま下って、川下から回る事にした。支流側の川下は、本流に比べ、淀みがあったから2人で櫂を盛んに扱ぐと、如何にかカヌーを岸に着ける事が出来た。流れに迫出した木の枝にカヌーを結び付けて、中州に入った。葦を掻き分けて進むと、森の木立が続いていた。少し進むと、突然一頭の灰色狼が現われて、牙を剥いて迫って来た。度肝を抜かれて、腰の山刀を抜いて身構えた2人であったが、狼は攻撃を仕掛ける風も無く、幾度か遠吠えをするだけの威嚇の体勢を、維持していた。その内に狼が1頭、また1頭と現われた。そうこうしている内に、狼達の数は、5頭に成ってしまった。男達と半月の形に対峙した狼達は、低い唸り声を発しながら、ジリジリと男達との距離を詰め始めた。狼達に囲まれたら、一巻の終わりである。恐怖の余り、後ろを見ずに一目散に駆け出したい衝動に駆られたが、そんな事をしようものなら、一瞬の自殺行為である。気絶しそうな意識に鞭打って、用心深く後退するしか他に手立ては無かった。5頭の狼達は、今にも男達の咽喉元を噛み破るかの様に、ギラギラ燃える目で牙を剥き立て、半月の陣立てで、一歩一歩間合いを詰めて来る。両手で握り締めた山刀には、べっとりと冷や汗が滲み出て、既に男達には、それを振り回す程の腕力も握力も尽き果て様としていた。やっと葦の地点まで後退する事が出来た。後数歩後退して、横飛びで川に飛び込めば、逃げれるかも知れない。恐怖に血走った瞳孔で川との距離を、横目で窺う。その時であった。中心の狼が一声発するや、狼達が一斉にジャンプした。
         ウギァ!!
 
 弾かれた様に、男達は、山刀をほうり捨て、流れにすっ飛んだ。男達は、両の腕を風車の如く必死に動かして、川の流れに乗って瞬く間に流れ去って行った。狼達は奇妙な事に、5頭が寄り添って、前足を揃えて座り、男達が流されて行くのを平然と見ているだけであった。男達の姿が流れに没すると、男達の放り出した山刀を咥えると、静かに森の奥に消えて行ったのである。狼の集団に川に落とされた男2人は、1人が岩に頭を砕かれて溺死した。

 以上の出来事は、傷だらけで、命からがら岸に這い上がった男の話である。

 ある渇水期の時、魚を取りに集落の男達が、川を上って来た。中州の下の方は、水苔が強い太陽光線で炙られて、干乾びた川石を累々と続けていた。川の流れは、あちこちに川底の大岩を露出させ、深みと深みを繋げて、心もとない流れである。浅い溜りには、取り残された魚達が、黒くうようよと群れ泳いでいたから、面白い様に魚が取れた。忽ちにして、持って来た魚篭は一杯に成った。そのままでは折角の獲物が腐ってしまうから、適当な場所に陣取り、腹を割いて内臓を取って石の上に広げて、干物を作る。渇水期の川の漁は、集落の者には、天の恵みでもあった。数日を掛けての川の漁は、生活には欠かせない糧の確保でもあり、仲間達との数日間の気晴らしでもあった。即席の干物を作るには、申し分の無い暑さであったが、作業をするには、クラクラするほどの暑さであった。中州の端の森の木陰で腹割きをした後に、焼けた砂場に魚を並べた方が合理的である。砂場の見張り役も、交代で行えば個人の負担は軽くなる。皆、頷いて重い魚篭を背負って、森に入ろうとしたが、砂場から余り離れてしまったのでは、いざと云う時に不都合であるから、砂場に一番近い木陰に向った。森からぽつんと立つ、頃合の木があった。木の周りは砂礫で太陽の反射熱が暑かったが、男達は<狼の棲む中州>の噂を耳にしていたから、冒険をして見ようとは思わなかった。車座に成って作業を始めたが、話題は如何しても中州の狼に向いてしまう。噂の真偽には、好奇心が沸いた。森の突端に1頭の狼が現われた。そして音も無く2頭現われた。男達は、噂話の内容が直ぐ目前にまで迫って来る現実に、生唾を飲んだ。
 狼達は、吼えも動きもしなかった。堂々と全身を見せる事で、男達に<此処から先は、自分達の縄張りである。>と無言の警告を示すかの様に、どの狼も凛として立っていた。狼達は、中州の境界線を教えるかの様に、間を広く取って、最初の狼の左右に悠然と展開する。・・・・ そして、3頭が境界線の持ち場で、男達を監視しているかの様に、前足を揃えて座っていたのである。統制の取れた狼達の行動に、男達は背筋に氷を突きつけられた様な恐怖感を持つと同時に、狼達に一種の畏怖の感情が湧いて来た。

<この中州には、侵しては為らない人間と野生のルールが存在する。境界を越えない限り、狼達は決して人間を襲っては来ない。>・・・・ そんな確信を、男達は胸に刻み込まれたのであった。

 高原で或る者は、狼の集団と人間が、連携して猪を狩る一部始終を目撃したとの事であった。
その男は、山鳥を獲りに犬を連れて山に入った。調子が良かったので、新しい猟場を探そうと、山の稜線伝いに歩き回った。山並は幾重にも重なって、広大な広がりを見せていた。男の居住する集落からは、これ以上の距離は、叶わない遠さであった。引き返すより他無かった。どうせ引き返すなら、帰りの途は山並の中間の稜線を通って帰れば、新しい猟場の発見に繋がるかも知れぬと思った。男は中間に目星を付けて、高みの稜線を下った。中間の稜線に立った男の目に、南前方に開けた草原が見えた。二山先であったが、惹き付けられる眺めである。空には、大鷹が翼を広げて、円を描いて悠然と滑翔していた。<期待出来る。> 男は大きく頷いて、草原に向った。
 草原は折れた感じで、北から南に、二段の緩やかに傾斜を持った平坦な地形に成っていた。所々に背の低い茂みが、点在するだけで見通しの利く草原であった。窪地に小さな池があった。池の端に1本の木が立って、高い所に横枝が伸びている。草原は、完全に山肌で<仕切られている>のである。 眺めると、益々奇妙な感じを覚える場所であった。自然の地形に、誰かが確りした目的を持って<仕掛け>を施している臭いがした。男が、池の水を手で掬って飲んで一休みしていると、犬が何かを感じて、緊張の低い唸り声を発した。犬は、草原の北に身構えて、様子がおかしい。男の目には、何も映らなかったが、何かが始まる胸騒ぎがあった。男の犬は、戦闘能力に秀でた自慢の犬であった。然し、犬の様子は、普段の戦闘に向う緊張感とは、まるで違っていた。明らかに<怯え>に対する緊張に近かった。男の耳にも、遠くで狼達の吼え声が沸いて来た。狼は集団であろう。近付く吼え盛る狼達の声が、木霊(こだま)が木霊を呼んで、男は背筋が凍った。既に萎縮する犬を抱かかえて、男は山の斜面を駆け上った。兎も角、身を隠すのが先決問題であった。身近の潅木の茂みに、男は犬を抱かかえて身を伏せた。
            
         何が始まるのか!! 
 
 男は身を潜めて、固唾を飲んで草原の北を凝視した。頭上には大鷹が、小さな円を低く描いて舞っていた。凛と張り詰めた緊張感が、山間の原を覆っていた。北の端に、山の主の様な巨大な猪が、1頭姿を現した。続いて吼え盛る狼の一団が、その猪を半月状の陣形を取って、猪と駆け引きをしている状況であった。狼の集団は、若い6頭であった。狼達は、仕掛ける訳では無く、猪を草原の南の方向に追い立てている様子であった。猪は煩い狼達の行動にも、未だ余裕を感じさせた。時折、狼の一団に突っかかる行動を取るのだが、狼達は距離を保つだけで半月状の陣容は一切崩そうとしなかった。空中の大鷹は、時折、猪の頭上を掠める様に急降下している。男は、1年の半分を猟に費やす。幾多の野生同士の狩りの様子を目撃しているのであるが、全く未知の展開に、目は釘付けと成っていた。猪は狼の群れと大鷹に依って、草原の南に誘導されている風であった。狼達は、男には気付いていない様子だったので、少し気が落ち着いて来た。その儘、下の草原の動きを目で追って行くと、男の目に奇妙な物が映った。地形の狭まった中央に竹で作られた高さ2m程の櫓が立っていた。櫓には若い男が、腰には山刀、弓と槍を手にしていた。そして、櫓の両脇には、一際大きな体格の狼が控えていた。

 櫓と猪の距離は、100mを切った。草原の幅はぐーと狭まって、数10mである。櫓の男の手が、空を指すや、空中の大鷹が、急降下して猪の頭に一撃を食らわした。鮮血が、ぱっと噴き上がった。それが合図だった。6頭の狼集団が、猛然と猪目掛けて、突進した。猪は弾かれた様に南に突進した。突進する巨大な猪を猛追する狼の集団が、殺気を引いて凄まじい勢いの尾を引いて櫓に突進して行く。
           その距離20m

 櫓の脇に対峙した狼が、巨大猪に向って、猛然とダッシュする。
              距離10m
 引き絞った満月の弓から、矢が放たれた。

 首を射抜かれた猪は、その儘疾走して背後の竹襖(ふすま)に血飛沫を噴き上げて、息絶えた。
8頭の狼の集団は前足を揃えて、大鷹は、櫓の手摺に止まって、男を迎えた。
 狼の集団で一際大きな見事な灰色の毛並みを持った狼を伴って、櫓の男が、茂みで息を潜める男の前に立った。他の狼達は、男から数m距離を置いて戦闘に掻いた汗を、鋭い牙を見せて発散させながら、下から男とその犬を見上げていた。大鷹は、頭上の枝で身を屈める様にして、翼を半ば広げて男と犬を見下ろしていた。
 櫓の若い男は、低い声で、ガタガタ震える男に言った。
「見ての通り、此処は俺達の狩場だ。近付かない事だ。秘密にして置いた方が、お互いの為だ。」
その男は、別段凄味を利かす物言いをする訳でも無く、極普通の声の調子で言った。
「・・・・・・・・・」
         男は何も喋れなかった。
 若い男は、据わった目をしていた。精悍な黒い瞳であった。首ほどに伸びた黒い髪を、革紐で後ろに束ねた細面の顔は、整った目鼻立ちをしていた。太い首から続く上半身は、厚い胸板・太い腕・引き締まった胴に繋がって、すらりと伸びた下肢と合体していた。言葉は短かったが、見下ろされた男には、瞬きも呼吸すらも凍った程の長い時間に思われた。狼達と横並びで去って行く後姿を、ボンヤリ瞳孔に映した儘、男は暫くの間動けなかった。漸く腰抜けの状態から脱して、立ち上がる事が出来たが、男は、放心した様な虚脱感に捉われて、草原を振り返らずに、北へ帰って行った。
<凄い事を、平然と遣って退けた狼と大鷹、そして人間・・・ あいつ等は、きっと何かの化身に決まっている。俺は、偉い物を見てしまった・・・・>

   <中州の変化>
 月日は、青空に全山を紅葉させ、鈍色の空に墨絵の山々のシルエットを引いて、雪を積もらせた。春が広葉樹の山を、芽吹きの萌え木色に染め、太陽は新緑の輝きで全山を染め上げて行く。梅雨が去れば、太陽が一気に夏を演出した。青空は、東西の山塊の頂に、群立つ純白の積乱雲を勇壮に浮かべた。 ・・・・ 月日は、中州に四季を数度繰り返して、流れた。

 中州の内部も、すっかり様変わりしていた。中州の上流から下流へと、細い水路が作られていた。水路の上下の口は、潅木の茂みで隠されていた。水路を辿って行くと、底から白砂を巻き上げている湧水の池があり、深さ1m程の湧水池の水底には、水草が優しく戦いでいた。池の端には、大小2艘のカヌーが繋いであった。池からは東と西に細い用水路が、2本延びて其々何本かに枝分かれして、中州の下流に伸びていた。中州の造りは、四辺には、樹木がこんもりと枝葉を広げていたが、森の内部には、花盛りの果樹の林が続き、花の香りが風に乗って若葉の緑の中州に満ちていた。果樹の林は、種類に依って通りを変えて植えられ、通りの間は広く開けられ、穀類・野菜などが植えられ、渾然一体の風景として拡がっていた。細い水路は、末広がりに広がった中州の北半分の土地に水を供給する為に作られた用水網に繋がり、用水の所々には、水の取り入れ口の仕切りが作られていた。ギュンが初めて建てた柳の大木の小屋から数十メートル離れた所に、土壁と萱葺きの屋根を持った家と土壁の納屋が、建てられている。家は、手を着けていない中州の森の外れに位置していた。家の周りには、焚き木が積み上げられて、一段下がった家の南側の竹の杭で囲われた中には、鶏・カルガモ・鶉(うずら)の幼鳥達が、ふかふかした腐葉土の中で小さな嘴で、盛んに餌を啄ばんでいる。別の囲いの中では、ヨチヨチ歩きの始まった男の子と女の子の双子が、丸々と太った狼の兄弟達とキャッキャと遊び戯れている。それを乳房の張ったメス狼が、大きな欠伸をしながら見守っていた。見通しの利く、さほど遠くない一角では、クンとケンに牽かせた土鋤の柄を握ったギュンが、日焼けした上半身に汗を滴らせて土を起こしていた。土鋤と落ち葉堆肥から作った腐葉土撒きを終えた土に、3歳位の双子の男の子を連れたヤンが、肩から掛けた竹篭からマメの種まきをしている。  

 中州の上空には、大鷹が翼を広げて、悠然と滑翔している。3頭の狼達は、親のクン、ケンと交代で土鋤をする一方で、林の所々に位置して、芽を出した穀物、野菜が、他の動物に食べられない様に番をしている。蜜蜂達は、盛んに羽音を鳴らして春の蜜を吸いに飛び交い、小鳥達の囀りの森にも、巣作りを始めた小鳥達は、嘴に枯れ草、鳥の羽毛を咥えて、森の梢を掠めて飛んでいる。淀みを作る川面には、羽化する水中昆虫・陸上昆虫を捕食しようとして、カワマスの驚く程のジャンプが、其処彼処(そこかしこ)で繰り広げられている。柔らかな新緑の風を伴って春の陽光は、中州を中天から差している。

「ギュン、切りの好いところで、お昼にしよう。先に帰って、支度をするよ。」
幼児の手を引いて、ヤンが声を掛ける。
「分かった。帰る時に、生簀からカワマスを掬って行くよ。さぁ、もう直ぐ昼だ。もう一分張りだ、クン、ケン」
    額の汗を手で拭って、ギュンは、土鋤の柄を握り替える。

 ヤンは灰を掻き回して種火を集めて、その上に焚き木を乗せ、火を起こす。大きな土鍋に水を注ぎ、ジャガイモ、栗の実、干した茸、干し魚を入れて煮立てる。芋が煮えた頃、とろみ付けにトウモロコシの粗挽きを一掴み入れた。ギュンが生簀から大きなカワマスを、数匹柳の枝に鰓刺(えらざ)しにして、帰った来た。大きな竹串で串刺しにすると、火の回りに立て、どっかと胡坐を掻いて座った。カワマスが火に炙られて、ジュウジュウと脂を滴らせて、皮が焼けて来ると、昼の臭いが中州に立ち上る。臭いが合図かの様に、狼達が思い思いの獲物を口に咥えて、集まって来た。大鷹も鳩を足を銜えて、柳の太い横枝に止まった。

   <ケンの大手柄>
 数日振りに、ケンが帰って来た。対岸で頻りに吼えるばかりで、川を渡る素振りを見せない。ケンの遠吠えに、中州の狼達が集まって来た。クンとケンは、一頻り相呼応するかの様に遠吠えを交し合っていた。その後で、クンはギュンを急き立てる様に、カヌーを出せと促した。
<怪我か病気にでも、成ったのだろうか?>
ギュンは、カヌーのとも綱を素早く解くと、カヌーを出した。水路を抜けると、ギュンは力一杯に櫂を、右に左に振るって、淀みを一気に漕ぎ抜いて対岸にカヌーを着けた。ケンは、カヌーが接岸すると、ヒョイと身軽に飛び移って来た。
<お帰り、ケン。>
 ケンは、ギュンの差し伸べられた掌の挨拶を、何時もの様に低くした頭で受けて、ギュンの掌を舐め返している。カヌーのクンとケンの夫婦は、2頭だけで居る時には、雌のクンが雄のケンに幾分甘えるかの様な仕種で、寄り添ってケンの顔を静かに優しく舐め挙げている。普段と全く違わない素振りのクンとケンであった。中州の水路にカヌーを入れると、2頭ともスイとばかりに中州に下りて、ゆっくりした走りで駆けて行ってしまった。
<???>
       狼の発情期は、真冬の筈である。
<俺とヤンの仲の好い処ばかり見せ付けられているから、クンもケンも、狼のクセにすっかり人間の夫婦見たいに為ってしまったのかぁ?>
ギュンは小首を傾げて、ニヤニヤと呟きながら、櫂を漕いで湧水池にカヌーを着けた。

 家の前の広場では、父親を迎えて狼達が、盛んにケンとじぁれ合っていた。ギュンは、切り株の上に腰を下ろして、ヤンの差し出してくれた好物の山葡萄の葡萄酒を口に含みながら、何時もとは様子の異なった狼達のじぁれ合いを眺めていた。見る処、狼達は、盛んに父親のケンの毛を、舐めているのであった。
<如何したんだろう?>
訝(いぶか)しげに、ギュンがその輪に入ると、番になって最初に生まれた、群れ№3に位置する雄狼のジンが、ギュンの顔をベロベロと舐め上げて来た。
<オッ、ショッパイ!!>
驚いて、ケンの身体を触って、手を舐め、続いてケンの毛に、直接舌を這わせたギュンの言葉は、「塩だ!!」であった。続いてギュンの取った行動は、ケンの身体に両の手の指で、ゴシゴシと毛を掻き立てて、地面に落ちた黄土色勝った小さな粒を、日に翳して、小躍りして叫んだ。
「あった。あった。塩の粒だ。岩塩だ。ヤン来て見ろ、ケンが宝物を持って帰ったぞぉ。」

 ケンは賢い狼であった。彼は岩塩を見付け、体毛に付けて、知らせに帰って来たのであった。何時もなら、対岸から淀みを泳ぎ切って中州に戻るケンが、水に塩が流されるのを避けて、対岸からクンを呼んで、カヌーで中州に戻って来たのであった。塩は生きて行く上で、貴重な必需品である。ギュンは、海から伝わる塩を求めて、年に何度かは、川を下って集落に行かねば為らなかった。塩をふんだんに使うことが出来れば、食料の保存方法は、ずーと拡がる。干物だけに頼っていた保存方法は、<塩漬け>と云う形で、水分を失わず<保存と味覚の幅>が拡がるのである。海辺の集落には、塩漬けの習慣があった。旅で初めて味わった、あの味が手に入る・・・・ ギュンが小躍りして、叫んだ心境が解ろうと云うものである。

 ギュンは早速、計画を立てた。ヤンは、子育てで手が一杯であるから、同行は無理であった。岩塩の場所は、ケンが頼りであるからケンに一働きして貰うより他無い。狼と人間とでは、活動するスピードが違うから、岩塩の場所に直行するとしても、最低4日は必要となろう。4日間の留守を任せるには、クンを残すより方法は無いだろう。何時も行動を共にして来たクンは、大人しく留守番役をするだろうか? どうせ行くのなら、持てるだけの岩塩を持って帰りたい。狼達の背を借りて、運ぶ事にしよう。ケンをリーダーに、6頭で行こう。留守番役には、最初の年に生まれた6頭を残して、中州を守らせよう。いや、5頭にして、7頭で守らせよう。・・・・・

 2日後の早朝、身支度を整えて、ギュンはケンを乗せて、カヌーの櫂を取った。4頭の狼達は、カヌーを追って淀みを泳ぎ切り、対岸に上った。ギュンとケンは、流れを1時間ほど下って、対岸にカヌーを結んだ。群れの先頭に、クンが走っていた。仕方の無い事であった。ギュンとクンは、最初からの連れ合いなのであった。ギュンに同類のヤンと云う連れ合いが出来たとしても、狼のクンの認識する中州の序列では、人間のヤンは、飽く迄も自分以下の序列なのであった。苦楽を共にして来た連れ合いが、遠出をするのであるから、行動を共にするのは、当然にクンの<血に従う行動>であると共に、それがクンの<プライドの証>でもあった。そして、深い潜在的意識には、人間と狼を超えた動物としての<雄雌の感情>としての不思議な関係が有るのかも知れなかった。ギュンは、ヤンが来た当初に感じていたクンのヤンを見る目に、<嫉妬>に近い色を何度か見ていた。クンがケンと一緒に成ってからは、そんな目の色は大分薄らいでは来たが、皆無では無かった。
「やっぱり、来たか。」
 これが、ギュンのクンに対する偽らざる感情であった。ギュンがクンの頭を撫で、抱きかかえて頬擦りをする。クンは嬉しそうに、ジャンプしてギュンの肩口に何度も、体当たりを喰らわした。ギュンは、カヌーからヤンが小分けして袋に詰めた食料を、狼達の背中に結び、
「さぁ、行こう。」と号令を掛けた。

 初日の夜は、山の木の根の穴に、狼達に刳(く)る舞われて寝た。2日目の午後、岩塩の断層に辿り着いた。剥き出しに成った岩塩の断層は、風雨に曝されて風化礫が零れ落ちた様に、目指す岩塩は、周囲の山土に黄土色に染まって堆積していた。ギュンは、ケンを抱きしめ頬摺(ほほず)りをして、カルガモの脂身を口に噛んで、口移しに差し出した。そして、早速、岩塩の粒を手で掬って、袋に詰め狼達の背に担がした。上空には、大鷹のビンが、翼を広げて輪を描いていた。ビンは、中州の上空を監視すると共に、その飛行距離の長さに於いて、ギュンに方向を教えていたのである。予想以上の大収穫に気を良くして、帰りの途中で狩りをして帰った。山鳥の半数は山で食べ、残りは、カヌーに積んで帰った。

   <魚醤(ぎょしょう)を作る>
 五月も半ばを過ぎると、決まって真夏の様な日が、何日か続く。川の縁を輝く程の黄色で飾った山吹の花も、盛りを越して濃い緑の藪と化した。木々は一層緑の葉を茂らせ、草は幼緑から深みを広げ、丈を伸ばして、中州を埋めて行く。川ではウグイが産卵期を迎えていた。オス達は青黒い背色に、婚姻色の朱色の側線を、口から尾へ一直線に太々と描いて、川底の産卵場所と成る細かな砂礫の堆積した場所に、オスメス達が犇(ひし)めき合って、川に幾つもの黒々とした群れを作っていた。
 ウグイの群れの一部は、中州の湧水池から流れるカヌーの細い水路にも及んでいた。池の近くの水路では、全裸になったギュンとヤンが、ウグイ取りに夢中に成っていた。下で網を構えるギュンに対して、ヤンが上から細い水路を腰まで浸かって手に持った棒切れで、盛んに水面を打ちながら網に追い込んでいる。行き場の無い細い水路一杯に口を広げた網には、ウグイの群れは、面白い様に掬えた。掬った網の中のウグイは、その儘の勢いで草の地面に放られる。ピチピチ跳ね回る大振りのウグイ達は、待ち構える狼の牙の一撃で頭部を砕かれ静かになる。絶命したウグイを咥えて、狼達は次々と、水路の脇に積み上げて行く。2時間程の遊び染みた漁で、ウグイの山は堆(うずたか)く、積み上げられてしまった。

「ヤン、魚が集まったら、後2回、頼むよ。クン達の取り分にするから。」
「うん、その間、子供達の様子を見て来る。」
水から上がって、ギュンとクンは、一頻り大いに乱暴にじゃれ合っていると、ヤンが戻って来た。
「じぁ、始めるか。クン皆を集めろ。」
 クンが、狼の遠吠えを3度中州に放つと、狼達が走って来た。再び細い水路には、ウグイの黒い塊が動いていた。ギュンとヤンが上下に分かれて、水路に入って漁が再会された。ドーンと云う手答えで網を上げると、ずっしりと重い捕獲であった。反対の草むらにウグイを上げると、狼達はぱっと群がり思い思いの行動で、獲物にがぶり付いた。
「そうら、もう一丁!!」

 草むらに跳ね逃げるウグイを、牙と手足で捕まえる混戦模様を後目(しりめ)に、ギュンとヤンは、ウグイの山を湧水の流れで洗い、魚篭に入れる。数個の魚篭は、大小のウグイで一杯に成った。魚篭で水気を切ったウグイを、半地下室にした貯蔵庫の大甕(かめ)に一段づつ並べ、岩塩を塗(まぶ)して重ね、最上部には木の枝を敷いて、上に湧水池の縁に繁茂いているセリを積んで来て、その上に重石を置いた。大甕3個の塩漬けは、完了した。魚の生臭さと滑(ぬめ)りが、体中を覆っていた。ヤンが、例の灰色粘土を一塊持って来て、ウフフと指差して、水路にギュンを誘った。
 大甕3個を満たした<川の春の恵み>の贈り物は、2日目には塩に依って、魚の水分が滲み出て、甕の重石も沈んだ。貴重な塩の溶解液である。おいそれと捨てる訳には行かない。指の先に汁を付けて、舐めて見ると、こくのある塩辛さであったが、鼻を突く生臭さが後味を悪くしていた。10日程、その儘の状態で寝かせた後、上澄みを瓢箪(ひょうたん)を利用して作ったシャモジで掬い上げ、土鍋で煮沸し生臭さを消す為に、竹炭を入れて壷に貯蔵した。副産物のセリの塩漬けは、大分塩辛かったが、2人にとっては、全く新しい味覚であった。岩塩の粗い粒は、使い勝手が悪かったから、ヤンは石で潰して粉にした。

 ギュンの性格は、凝り性であった。中州の農作業も大方片付いて、ギュンの関心は、専ら魚醤の利用法に向っていた。湧水池の生簀から川鱒を数匹掬って来て、腹を割いて開きにしてから、それを魚しょうの汁に一晩浸け、天日干しにして見た。塩加減は申し分無かったが、日持ちさせるには、塩漬けの方が実用的であった。長期の保存には、魚体から腐敗の素と成る水分を、完全に抜くより方法は無さそうであった。彼は川鱒を腹を割かずに、丸ごと魚しょうの汁に色が変わるまで漬け込んで、鰓(えら)に蔓を通して、魚体がカチンカチンに成るまで、柳の横枝に吊るして見た。10日程放置して、噛り付くと、丸で歯が立たない程の硬さに仕上がった。臭いを嗅ぐと、魚の腐った様な凄い臭いであったから、煮立てて戻す訳にも行かぬ・・・ 捨てるのも気が退ける・・・ 単体で焼けば、この異臭は他には移らないだろう・・・ <物は、試しである。> 火に炙ると、硬かった身は、歯が立つ程の柔軟さが生まれた。折ると、鼈甲色(べっこういろ)の川鱒の身は、奥歯で噛み締めていると、癖はあるものの奥深い大人の味が口中を満たした。臭いはきついものの、1度口にしたら癖になる味であった。ヤンを呼んで味見をさせると、彼女は最初は鼻を摘んで齧っていたが、その内に満更でも無さそうな顔付きで、全部を食べてしまった。臭いを嗅ぎ付けて、クンが遣って来た。クンは<ギュンの食べる物は、自分も当然に食べる権利がある>と思い込んでいる何時もの態度で、ギュンの横に座ると、差し出された一本を牙でバリバリと音を立てて、噛み始めた。その内、口から長い涎をダラダラ垂らして、満足の様子であった。ギュンは、頷きながら、水を飲み干した。

 翌日、ギュンとヤンは川に入って大量のウグイを取った。同じ工程でウグイを蔓に通して、天日干しにした。乾いてもウグイの朱色の側線は、見事に残っていた。干し終えるとギュンはカヌーに乗せて、集落に持って行った。ギュンは、広場で火を起こすと、早速ウグイの干物を炙り始めた。異臭が煙に乗って、鼻を摘んだ集落の人達が集まって来た。
「ギュン、この臭いは、何事か!! 腐ってるだろう。」
「何よ、この変な臭い、鼻が曲がるよ。」
集落のブーイングを涼しい顔で聞き流すギュンは、焼け焦げたウグイの皮を、手でひょいと落として、ポキリと二つ折りすると、満足そうに口をもぐもぐさせている。
「まあまあ、騙されたと思って、食べて見ろよ。味の無い焼き魚、燻製よりずーとマシな味だよ。味と比べれば、この位の臭いなんか、屁でも無いよ。この位の炙り具合が、美味い。」
持って来たウグイの干物は、全て交換された。干物の半分と作り方と交換にギュンは、碾(ひ)き臼を持ち帰った。

   <雨乞い>
 その年は、空梅雨に終わった。ぎらつく太陽は、日に日に川の水を干上がらせて行った。自然界を形造る空・山・川・森全てに神が宿り、自然現象の全ては、神々の御業と信じられていた時代である。人間の最大の師匠は、自然界の森羅万象の理(ことわり)であると同時に、集落を形成すると言って見た処で、その時代の人間達は、所詮自然の与えてくれる限られた恵みの中でしか生きられない、自然と共に暮らすだけのちっぽけな存在でしか無かった。そんな、人間の営みであった。従って、自然界がリズムを崩せば、人々は忽ちにして餓えに苦しむ。そんな時、人間は神の力に恐れ戦き、自分達の持つ最も大切なものを神に差し出し、只管(ひたすら)、自然界の神々に祈るばかりであった。自然界のもたらす脅威は、その時代の人間には、その儘、神々の怒りの徴(しるし)であった。
雲一つ無い満月の夜であった。中州に向って松明(たいまつ)の行列が、干乾びて川底の石を累々と続ける乾いた川を下って来た。一向は、金髪の白い肌の全裸の少女を、中州の上流の柳の大木に括り付けると、中州の下で汲んで来た小川の水を辺り一面の地面に振り撒き、残りの水で自分達も全裸に成って、身を清めた。それから、無言で自分達を取り囲む狼達に向って、地面に額を3度当てがった後、雨乞いの儀式を厳かに挙行して、再び干乾びた川を、無言で上って行った。中州の噂は、人伝えに噂を呼んで、神の使いの狼達が暮らす<神聖な中州>と噂されていたのである。その証拠に、中州は、どんな日照りに晒されても、内部は決して緑を絶やした事は無く、中州から流れる水は、枯れた事が無い。そして、神の使いである中州の狼達の群れは、一際は見事な灰色の毛並みを風に翻して走る雌狼の下で、統率の取れた行動で、人間が中州に侵入する事を拒んでいる。然し、狼達は、人間が中州に足を踏み入れない限り、襲っては来ない。詰まりは、彼等は神の使いなのであった。

 松明の明かりが見えなくなった頃、ギュンは、緊張で震える少女の縄を解いて遣った。ギュンは、少女を家に連れて帰った。信仰・仕来りが集落の生活を律する社会である。雨乞いの神への生贄として、木に括られた少女の身に及ぶ危害を考えると、少女を集落に帰す事は出来なかった。何故なら、少女を帰せば、生贄を介して、彼等の神への願いが、届か無かった事を意味する。生贄失格の咎(とが)は、彼女が負わなければ為らないし、集落の者は、新たに生贄適格者を選んで、再び『雨乞い』の神頼みをしなければ為らない筈である。かと言って、中州の内実を明かす訳にも行かなかった。中州が神聖な域として、その不可侵性が保たれるならば、子供、狼の群れ数の多くなった中州の共同生活には、人手が欲しい事情があった。少女が中州の新しい存在と成って、10日が経った午後、項垂れた山際を不気味な程に覆った積乱雲が、あれよあれよと言う間に、巨大化するや、積乱雲の下から稲妻が、何本もの青白い閃光を走らせた。盆地の頭上に、閃光が乱れ走り、雷の轟音が遠く近く、響き渡った。既に盆地の天は、黒い雨雲で蓋をされ、黒雲の勢いは、今や息苦しい程の低さに迄達していた。少女は天を仰ぎ、ギュンに跪(ひざまつ)き手を合わせ、何度も何度も<神よ神よ>と、叫んだ。巨大な稲妻の閃光が走って、盆地に落雷の大音響が轟いた。大粒の雷雨が、音を立てて地面を叩き付けた。地面は叩き付ける雨粒を吸って、無数の泡を作り上げると、幾筋もの流れとなって地面を覆い尽くして行く。じっと腕組みをして、中州を叩き付ける豪雨の様を見ているギュンに、少女は放心した顔付きで、跪き、頭の上で手を合わせ、うわ言の様に、「神よ、神よ、ありがとうございます。」と何度も、その行為を繰り返している。

「雨は嬉しいが、困った事に成ったものだ。お前のご利益って事か・・・大袈裟な事に成らなければ、有り難いが、成る様にしか成らんだろう。」 

 ギュンは、困った顔付きで、金髪の少女の頭を撫でて、呟いた。

 丸一日降り続いた雨に、川は再び流れを取り戻した。数日経って、雨乞いの一行が中州に遣って来て、少女を括り付けた柳の大木に、ロバとヤギの番を繋いで帰って行った。
 
 少女の名前は、ナンと言った。ナンは、口数の少ない働き者であった。身寄りの無いヤンは、ナンを妹が出来た様に温かく迎えた。好奇心の強い子供達は、彼女に良く懐いた。幼児に手を取られがちなヤンの分を、ナンが良くカバーしてくれた。碾き臼は、大変に重宝な働きをした。精々石で砕くしか出来なかったモロコシ、大豆、栗の実は、実に肌理の細かい粉に変わった。石で潰したウグイの干物も、碾き臼に掛けると粉に成った。主食の粉に、魚しょうに漬けて干したウグイの魚粉を混ぜて練り、それをカマドの側面にペタリと貼り付けて焼けば、香ばしい素焼きのパンが出来上がったし、粉を水で薄く伸ばして煮立てれば、トロミノ付いたスープにも成った。粉を捏ねて団子を作り、焼いても煮ても旨かった。碾き臼と岩塩、魚しょう、ウグイの魚粉は、中州の食料保存の幅と量を格段の物とした。そして、味覚、食感の幅を別次元の物とした。ヤギの乳は、その利用法をナンが教えてくれた。塩の活用は、食草の漬物にまで及んだ。岩塩は、貴重品から中州の必需品と成っていた。

   <ナンの驚き>
 ギュンは、幼児を抱えるヤンの守りに、ケンの一隊を割いて、2頭のロバを荷役に岩塩の採取に向かう事にした。狼は、クンを頭にジン・他2頭。助手にナンを加えた。ギュンは、日頃の彼女の働き振りを、労(ねぎら)いたかったから、帰りに<沢の湯>の小屋を回って来よう、と考えていた。カヌーに食料・道具を積んで、ヤンとナンが対岸にカヌーを漕ぎ付け、ヤンがカヌーを漕いで中州に帰る事にした。ギュン達は、淀みを泳いで渡った。荷物をロバの背に括ると、クンを先頭に川岸を半日歩いて、支流から山に分け入った。岩塩の谷の方角は、頭上を舞う大鷹が指し示してくれていた。道程を知った者には、不安は無かった。歩行の所々で、一向は小さな狩りをしたり、開けた場所では、火を起こしてゆっくり食事をしたりした。ロバの扱いは、手馴れたナンが担当した。ギュンは、彼女の扱いを頷きながら観察していた。人間と動物と云う言葉の通じない間柄であっても、動物同士と云う感情・相性の様なものが、厳と存在しているものである。役目・仕事と云う共同・連携行動から離れれば、人も動物も休み、リラックスして感情の趣く儘、じゃれ合えば良いのであった。ギュンは、そう考えていた。夜は火を焚いて、その周りで狼もロバも人も、区別無く寄り添って寝た。
 雛から育てられた大鷹ビンのギュンへの甘え振りは、面白かった。地面に下りると、逞しい二本の足で、ノシノシと歩いて来るのであるが、その不安定さに前のめりに為る体重移動を、翼と頭でバランスを取るのであるから、大空での雄姿とは全く違って、つい頬の筋肉が緩んでしまう。ビンは、胡坐を掻いたギュンの腿の間にどっかと身体を沈め、黒い頑丈な嘴をカチカチと鳴らして、ギュンの口移しで魚の干物をせがむのである。そして気が向くとビンは、定位置の中州の松の横木で眠らずに、人間の様に彼に寄り添って寝てしまう事があった。クンにしてもビンにしても、幼時に刷り込まれたギュンの体温の温もりは、彼等の体内の奥で、心地良い<何か>を、確り築いているのであろう。ヤンの居ない野宿では、決まってクンとビンの取る甘えであった。

<満天の星空の山中で、人間の男を挟んで、雌狼と雄鷹が添い寝をする>不思議な光景である。

 岩塩の谷で、持って来た獣皮の袋に詰めて、ロバの背に括り、小さな袋は、狼の背に括った。残りはギュンとナンが背負って、谷を下った。最後の山越えの尾根を南に進んで、別の支流に沿って山を下った。半日下ると、沢の温泉に着いた。ギュンは、皆を荷役から解放させた。ロバを繋いで、沢の家にナンを案内すると、白い壁の部屋を見た途端、少女はギュンとクンに跪(ひざまず)き、手を合わせて「神様神様」と数度唱えた。

「ナン、違うよ。俺は、お前と同じ人間だよ。クンは灰色狼、ビンは大鷹の一羽だ。気の合うもの同士が、天の授けてくれた中州で、知恵を出し合って一緒に暮らす仲間だよ。お前も中州の仲間の1人だよ。その内、俺達の生活が、何でも無い事を知るよ。」 

 狼達も、鷹も、当然の様に湯気の立つ川に浸かっている。ギュンは、灰色の粘土の小さな塊を手に、それで体中を擦り付けては、ゴシゴシと掌で体中を扱いては、湯気の立つ水で流している。そして、彼は狼達・ビンの身体にも同様の事を始めていた。狼達は、粘土の白い色に塗られた互いの身体を、前足の爪でガリガリと掻き合っては、湯に浸かって暑くなると外に出て、全身をブルブルと震わせて粘土の汚れをおとしていた。ビンも濡れた羽毛を逆立てては、ブルブルと翼を広げて、水を払っているのであった。尻込みするナンの手を取って、湯に浸からせ、白い肌がピンクに上気するのを見計らって、ギュンは粘土でナンの身体を洗ってやった。ピンクの肌は、皮脂の汚れが取れて、さらさらに成った。今度は、金色の髪に粘土をたっぷり擦り込ませて、髪・顔を洗ってやった。湯を掛けて、粘土を綺麗に洗い流してやると、少女は目を丸くして、「やっぱり、神様だ。」と納得した様に呟いた。
粘土で汚れを落とすと、ギュンは、上り湯の一段上がった湯船にナンを入れた。先に上がった狼達は、湯の周りに敷き詰められた平たい石と小砂利に寝そべって、盛んに赤い舌を出して、満足そうにギュンとナンの湯に浸かっている姿を見ていた。湯で火照った体を、ひんやりした石に伸ばして、空を見上げる。実にほっとする充足感である。うつ伏せに成ったギュンの身体を、ナンが肩から首、腰から大腿部へとヤンがする様に、揉み解して行く。クンはギュンの傍らに在って、ギュンの裸体を、労(いた)わる様に、ペロペロと静かに舐め上げている。谷の沢は、静かなせせらぎの音を乗せて、時折、木々の梢を風が吹き渡るだけである。小鳥達のさえずりが、遠く近く、耳を潤す。

 石段を上った沢の家は、もう一部屋作られていた。生活用品も、中州の家同様に、増えていた。明くる朝、岩塩の袋を一つ棚に置いて、一向は、沢を下った。ナンは、沢の湯煙に振り返り、振り返り、何度も手を合わせて頭を垂れた。

 対岸を進んで、中州に近付いた頃、口笛で滑翔するビンを呼び、小袋を渡した。程無く小さなカヌーを曳いて、ヤンが中州から迎えに来た。岩塩の袋と粘土の袋を積んで一行は、中州に帰った。

   <干しジャム>
 中州のアカシアの木の洞には、蜜蜂達がブンブンと騒々しいまでに飛び交っていた。余り表情に出さないギュンが、珍しく木の洞を筋の様に出入りする蜜蜂を見上げて、苦々しげに石を拾って投げ付けていた。「クン、お前に木登りが出来たら、あの甘い蜂蜜が、ごっそり手に入るんだが・・・・」
蜂蜜が大の好物である熊が、重い体で木に抱き付いた格好で、木の洞に前足を突っ込んで蜜を漁っている姿を、ギュンは幾度と無く目撃していた。無造作に手を突っ込んでは、盛んに蜜を舐めている熊の周りを、塊となって襲い掛かる蜜蜂達にも、熊は平気の平左で木から下り様としない。そんな熊に倣って、ギュンも木に上った事がある。口に咥えた棒先を洞に差し込む前に、蜜蜂の攻撃に曝されて呆気無く木から転げ落ちてしまった苦い経験が、彼にはあった。木から転げ落ちた痛さより、体中を刺されて頭を掻き毟った恐怖の方が、彼には強烈であった。硬い密集した毛皮を持つ熊と、素肌の人間の違いは、圧倒的であった。それ以来、蜂は苦手の相手と成ってしまった。
 然し動物は、塩辛い味よりも、甘味に軍配を挙げるのが、より自然である。蜂蜜の甘味は、いかなギュンにして見ても、高嶺の花ならぬ高値の甘味であった。蜂蜜の甘味を断念した彼は、専ら甘い果実を潰して、甘味を煮締める形のジャム作りに精を出す事にしている。ジャムは、新鮮な内は酸味の利いた甘味を提供してくれたが、日を置くと如何しても発酵が進んでしまうと云う欠点があった。そこでギュンは、中州のアカシアの蜜蜂に触発されて、干し果実に倣って<干しジャム>を作ってみようと考えたのである。干しジャムならば、干し果実の数倍の甘味が得られるであろうし、腐ったり発酵はしない筈である。幸い甕の中には、野苺・木苺・小桃のジャムがあった。竹を節の所で輪切りにして、それを二つに縦に割って、中にジャムを満たした。ドロリとしたジャムは、夏の炎天下で3日もすると、水分を悉く蒸発させて、硬いくすんだ固形物に変わった。干乾びたジャムは、半割りの竹を叩くと、内部の竹の薄皮が竹への密着を防止して、簡単に乾燥ジャムだけが外れた。手で折って口に含むと、酸味の利いた甘味が口中に広がった。野苺・木苺・小桃の風味は、その儘、舌に残った。試みは大成功に終わった。ギュンは小躍りして、甕の全部をヤン・ナンに手伝わせて、干しジャムにした。

   <コミニュケーション>
 自給自足の中州での毎日は、穏やかにして楽しかった。半野生の生活を守る狼達の日常は、2群に分かれていた。中州でギュン達と行動を共にする1群と、河を渡って周囲の森・林・山で野生の暮らしをする1群であった。2つの群は、交替で中州と野生の生活を維持していた。大鷹のビンは、ねぐらを家の前の広場の柳の横枝と決めているだけで、明るくなれば羽ばたいて、大空を滑翔して獲物を得ていた。周囲の広葉樹・常緑樹と針葉樹の混生する林・森の大地は、動物に恵まれていた。ギュンとクンの訓練に依って、彼等が覚えた狩りの方法だったのであろうが、共に子の時から中州で育てられたビンと狼達の狩りの連携は、素晴らしかった。空から獲物を見付けたビンは、それを上空から狼達に、羽ばたく事で教えた。地上の群れは、獲物の方向を知って、狩りの体勢を維持しながら距離を縮めて行く。狩りの距離を得ると、狼達は、猛然と獲物に襲い掛かり、短時間の内に仕留めた。実に、効率の良い狩りの仕方であった。中州の中心はギュンであったから、彼は月に何度かは、狼達にせがまれて、狩りに同行する。弓・槍・刀の武器を持つギュンの参加と成ると、決まって大物獲りが仕掛けられた。猪・鹿の群れを追って、群れと群れとの知恵が、その狩りの場で展開されるのであった。狩りの場面では、ギュンもクンも、ケン・ジン、ビンも、野生の緊張・興奮・敏捷さで、林・森・草原に待ち伏せ・走った。そこには、中州の静の暮らしとは一変した、動の興奮の一瞬一瞬が繰り広げられた。森の中で、獲物の皮を剥ぎ、協働の成果を思い思いの仕種で、口にする。獲物を追って、又は首尾良く獲物を仕留めて、大地に火を囲んで、充足の夜を過ごす。夜の眠りは、皆、ギュンを挟み込む様に重なって寝た。彼等にとって、ギュンは、別格の存在であった。ギュンにしても、ヤンを得て、子供を儲けても、彼等とだけ過ごす行動を止めようとはしなかった。
 中州でのロバ、ヤギ、鶏それに碾き臼、塩、火に掛けても割れない土器の器は、実りの保存・調理の幅を広げてくれた。その恩恵で彼等のする狩りは、全てが食糧確保の目的でされる訳ではなかった。一つには、野生を維持する行動であり、一つには、ギュンを仲間として、自分達とは異質な人間から引き離して、独占する一時でもあった。それは、一種の『絆』の証でもあった。大きな獲物に有り付けない事も、シバシバあったが、そんな時は、狼達にしろビンにしろ、小さな獲物であるウサギ、鴨、雉、鳩を彼等は、ギュンに運んで来た。蛇なども良く持って来た獲物の一つであった。ギュンは狩りには、必ず携行食糧を用意していたから、彼等の提供してくれた獲物は、火で焼いて塩を塗して、皆で味わった。人間と暮らす彼等にとっては、それは、獲物を分かち合う仲間の確認行為であると同時に、習慣化された好物の味の一つなのであった。

   <生活の広がり>
 大所帯と成った中州では、本格的な開墾が始まった。土鋤をロバに替えて、土は深くなった。畑作りは、鋤き返された砂混じりの土から、石を拾い出す作業から始まった。砂を土に変えるには、腐葉土が大量に必要であった。ギュンは、養分を大量に含んだ腐葉土を作る為に、新たに堆肥を作る事にした。家の前に浅い穴を掘り、周りを石で囲って、森から運んだ落ち葉を溜めた。次に上部に竹を渡して、用便をすると共に、生ごみを捨てる事にした。中州は、川原の砂礫で出来上がっていたから、落ち葉を塗らした余分な水分は、穴に貯まらず、砂礫に浸透した。踏み板代わりの竹は、幾日かごとに位置を変えて、排泄物が落ち葉の全体に落ちる様にした。ロバ、ヤギ、鶏の糞、生ごみも、当然上から落とされた。発酵が進んで湯気が立ち上ると、ギュンは切り返しを繰り返した。切り替えしを3回ほど繰り返すと、落ち葉と排泄物は、自然の力ですっかり分解されて、臭いの無いほくほくした黒い土に変わった。それを土に鋤き込んで、季節の種を蒔いて、水路の口を開いて土を潤した。
 限られた土地を有効に利用する為には、土を肥やし季節の食草を栽培して、畑の利用回数を増やさなければ為らない。土を活かし続ける為には、堆肥は欠かせない土の栄養分と成る。新鮮な実りは、飽く迄、一時的な大量をもたらす<一過性の実り>でしか無い。収穫物に手を加えて保存しなければ、実りは干乾び、腐り、土に戻ってしまうばかりである。豊かさは、実る豊かさと同時に、蓄えの豊かさでも無ければ為らない。一過性の実りを持続させるのが、ギュンの知恵の出し処であった。ヤンもナンも初めて経験する事で、2人はギュンの頭の中が想像出来なかったが、その結果については、何時も驚きの連続であった。

 ギュンは、全てに於いて観察する事が好きであった。そして何かを思い付くと、それを実行して腕組みを繰り返す男であった。食糧の蓄えは実際の効果として、ギュンに時間的余裕をもたらして、中州の生活に様々な工夫を形にしていた。湧水の池からは、竹の節を刳り貫いた水道に依って、甕の水は絶えず満たされていたし、中州で飼われている家畜、家禽の飲み水の甕にも新鮮な水が提供されていた。鶏の竹囲いの下の土には、堆肥と落ち葉、砂を厚く敷いた。小さな虫達が、落ち葉を食べ、堆肥に群がるミミズ達が、良質な土に変えてくれる働きをする一方で、鶏達は、土を掻き混ぜ虫、ミミズを掘り出して、それを餌とした。頃合を見計らって、囲いの土の一部を畑に入れ、その分の落ち葉と砂を補充すれば、再び良質な土が得られた。河の乾燥した流木は、ロバに牽かせて焚き木とした。中州には、何本かの道が作られた。現在のギュンの関心事は、灰色の粘土に石の粉を混ぜて、鋭く硬い矢じりを焼く事であった。獣骨の矢じりは、手間が掛かり過ぎた。粘土で矢じりを作る事が出来たら、細工は容易であったし、何よりも数が大量に作る事が出来るのであった。

「ナン、この透き通った石だ。水晶の入った石を集めるんだ。」
川原をギュンとナンが、石を拾ってロバの背の籠に入れている。
「良いだろう。この水晶を砕いて、粉にして粘土に混ぜて、型に入れて大きい炎で焼けば、きっと出来る筈だ。」
 中州で砕いて、苦労して水晶の粉を作った。ギュンは、手持ちの矢じりの中から、一番気に入った矢じりを選んで、粘土版に押し当てて、20個程の型板を作った。それから、乾燥した粘土を砕いて、碾き臼に掛けて挽いた。次に粘土粉に水晶粉を底の浅い甕で混ぜ合わせて言った。
「ナン、水を入れて、良し。もう少し・・・本の少し・・・」
慎重に硬さを確かめながら、粘土を捏ねるギュンであった。
「この位の硬さで、ナン、後は任せる。」
ナンは、神妙な表情で、灰色の粘土を腕が痛くなるまで、捏ね続けた。
「好いだろう。」
 粘土を上下の型に入れて挟み込むと、全く同じ形の矢じりが、20個出来た。矢じりの先を尖らせて、日陰干しにした粘土の矢じりを、数日前に作って置いた小さなカマドに並べ、火を付けた。火力を大きくする為に、交替で獣皮の団扇で風を送った。小さなカマドの中の粘土の矢じりは、金属の様に真っ赤に燃えていた。火を落として、冷めるのを待って取り出すと、白い滑らかな、硬く鋭い陶器の矢じりが完成していた。割れた物を除いて、100個程の矢じりを手に、ギュンは満足そうに何度も何度も、掌に転がして頷いている。矢じりには工夫が凝らされていて、矢の先を矢じりに嵌め込む様に、筒状の嵌合部を作って置いたのである。早速、嵌合部に細竹の矢を填め込んで、試し矢を放って見ると、藁の的に深々と刺さった。身体の大きなナンは、活動的で知的好奇心が旺盛であったから、何事に付け、進んでギュンの助手をソツ無く務めた。彼女も自分の弓を持って来て、弓を射た。彼女の腕前は、既にヤンを上回っていた。

 ギュンは、そんなナンの性格を気に入っていたから、自分の考えている事、している事について、説明をする事にしていた。ギュンの訓えは、全ての物事には原因がある。興味を持って自然を観察して行けば、自然は必ず教えてくれるものだと云うものであった。普段から観察をしていれば、自分が何かをしようと考えている時に、ヒント、閃き、方法を教えてくれるものである。生活する上で、大体のものは、草木・林・森・山・川・虫・魚・鳥・動物達と云った自然が、黙って遣っている事で、人間が気付かないだけの事であると言うのであった。従って、人間にとって大事な事は、何故?と云う疑問と、答えを探そうとする気持ちと自然の営みを観察する目なのだ。と言う事であった。そして、ちっぽけな人間に出来る一番大きな力は、見て考えて工夫する力なのだと説明を括って、『俺は、神なんかじゃない。生身の人間だよ。』と、白い歯を見せて、ナンの頭を撫でるのであった。

 灰色の大気に丸い太陽が、光を失って浮いている。ささら雪が、斜の角度を変えながら、灰色の大気を寒々と奏でていた。明け切らぬ空に、時を忘れたかの様に、森の大梟が、逆立てた羽毛に積もる雪を、ブルブルと払い落とすだけで中州の森は、シーンと眠った儘である。寒さは人間に限らず、動物全てが、苦手の様である。屋根囲いを作った鶏の囲いには、堆肥の発する発酵熱を求めて、カルガモ、ヤギ、ロバまでもが、集まって寝そべっている始末であるし、狼の一団は、厠の床に長々と欠伸をする始末である。女達は、尻を舐められたと黄色い悲鳴を挙げて、用便に竹の鞭を持参しての用足しであるが、彼女達が出て行けば、狼達はゾロゾロと元の場所に陣取って、元の木阿弥を決め込んでいる。ギュンに告げ口をしても、涼しい顔で「寒いのは動物だって、同じだよ。尻を舐められる内が、花じゃないか。」と一向に取り合わない。女達は子供をあやして、日が暮れるのであるが、男のギュンには、退屈この上無い時間である。葡萄酒を煽って、囲炉裏火に背中が温まれば、ゴロリと横に成って、ついウトウトの繰り返しである。天気の悪い小屋の中では、クンもビンも、ギュンに横に倣えの有様であるから、全くの権威喪失の図である。

 午後に成って、太陽が色を回復した。ささら雪は風に飛ばされて、日陰にうっすらと白い雪の斑を残すばかりで、粗方は太陽に溶かされて行く。子供達が待ち兼ねた様に、外に飛び出して行く。狼達も一緒になって、手荒くじゃれ合いを展開し始める。ビンは羽ばたいて、青空に舞い上がってしまった。赤い顔をしたギュンばかりが、鈍い動きである。クンに後ろから追い立てられる様にして、外に誘われる始末である。女達は、散らかった雑居部屋の掃除に着手の段である。こんな時は、ギュンも子供達も、女にとっては無用の長物であるらしい。湧水池に行く。湧き出る水の温度は、川の水の温度よりも大分高かったから、川の魚達も冬に成ると水路を通って、池に黒く群がって来る様になった。
「ヨォーシ、今日は、魚突きをしよう。」
ギュンは子供達を連れて、手頃な青竹を切って、先端を鋭く尖らせて手渡すと、カヌーに子供達を乗せて櫂を漕いだ。狙いを定めて、息を止め一気に突く。返しの無い促成の竹槍であるから、魚体を串刺しにする程に勢い良く刺し貫く力が必要だったし、魚がバレない様に、すかさず立てなければ落ちてしまう。タイミングが難しい。子供には向かない狩りであるが、子供達には無我夢中の遊びタイムである。

   <交流の中州>
 月日は流れて、ナンにも2人の子供が出来ていた。中州は、すっかり様変わりをしていた。中州の生活は、今ではすっかりオープンに成っていた。嘗てナンが『雨乞い』の生贄として、木に括られた場所にナンの部族が寄進した社は、改造が加えられ大きく成っていた。社の広場には、定期的な市が立つ様に成っていた。中州の市は、河の上流と下流の部族の交流の場として機能し始めていた。上流の白い肌の部族のナンと下流の幾分黄み勝った肌の部族のヤンが、仲良く市を取り仕切る事で、部族間の不要な警戒心が取り除かれるのに、大いに役立つた事は言うまでも無い。
 中州の特産品は、岩塩と魚醤、それに火に掛けても割れない土鍋であった。ギュンは、技法・技術を独り占めするタイプの男では無かったから、岩塩の場所以外は、その作り方を、積極的に市で教えた。市場の広場には、土器を高温で焼く為の窯が、人々の協力で造られ、ギュンの指導の下、人々は思い思いの土器を焼く事が出来た。
 そして、産卵期のウグイが河を黒く群がる時期に成ると、ギュンが揚げる中州の狼煙を見て、部族の者は、交換物資と食料を担いで、山を越え河を下り、上って、泊り込みで、魚醤を作りに市に集まって来た。木々の鬱蒼と建ち並ぶ森は、潅木の茂みが取り除かれて、簡単な野宿が営まれる様に、石で積まれたカマド、風雨が凌げる程度のテントが建ち並んで、社の一角は、1年で一番、市が賑わう時であった。    

 人々は、ギュンがこの日の為に積み重ねた岩塩と、交換する物資を市に並べ、土を捏ねて魚醤を採る為の素焼きの大甕を焼いたり、社に保管して置いた大甕を洗ったり大忙しの時である。準備が整うと、河で身を清めて、白い陶器に収められた山葡萄酒と魚醤を社に奉納してから籤引きで、ギュンに依って定められた数箇所のウグイの付き場を引き、2日間のウグイ獲りに奔走するのであった。ギュン・ヤン・ナンは、各グループを回って、指導役をこなす。魚醤の仕込が一段落すると、人々はギュンへの感謝から、中州の農園に繰り出した。用水路のゴミを取り除き、設けられた止め石を外して水を流したり、堆肥を撒いた後、ロバを使っての土鋤に汗を流し、種を蒔く。彼等は、一連の農園作業を手伝う事に依って、ギュンの農法を授かるのであった。塩の浸透圧に依ってウグイのエキスが、吸い出されて甕に上澄みとして満ちる、数日間を利用して保存食の作り方・食べ方が、ヤンとナンを介して、市で教えられる。部族の長は、この時の市には、選りすぐった若者達だけを向わせた。彼等は、部族の為に、より多くの岩塩と魚醤、生活の知識を持ち帰らなければ成らなかったから、旺盛に動いた。大甕からウグイが取り出されて、若い魚醤は、別の甕に移される。社の風通しの良い保管場所で熟成された後、煮沸された魚醤は、其々の部族の者達が、厳かな陣容で取りに来る形であった。
 彼等にとって、狼とギュンの暮らす中州は、飽く迄も神聖な場所であった。魚醤は、中州で造られる格別な味覚にして、神聖な下し物であった。勝手に個人が立ち入る事が、憚れる場所なのであった。従って、市の開催は、ギュンの揚げる狼煙に依って決まるのであり、市は部族間の市の形式をとっていたから、物資を交換する者は、部族の代理行為であったのである。部族の代理を担う者だけが、河を渡って上流・下流部族・中州との交易を果たす事が出来た。その外の者達は、中州の対岸に陣取って、入手物資、不足物資の調達・運搬役に任じていたのである。
 相変わらず、そこには灰色の毛並みを持つ狼の群れが、中州と河を隔て、空には大鷹の滑翔があった。ギュンは時折部族を訪ねて、指導・相談に乗った。白い部族を訪問する時は、ナンとその子供達を連れて、黄色の部族には、ヤンとその子供達を連れて行った。共に数日間の滞在であったが、ロバに乗って、狼達の一団・大鷹を伴ったギュンの一行が来ると、どの部族も歓待してくれた。ギュンは、集落の彼方此方を見て回り、中州農法が功を奏している様子に目を細めていた。

   <中州の新しい役割>
 機は熟しつつあった。次の年の春、ギュンは白い部族から15歳の少女を10人、黄色い部族から18歳の少年を10人それぞれの部族の長から選んで貰った。20人の少年少女を前に、ギュンが話した。
「今日から、皆はこの中州で共同して勉強する。肌の色は多少違っても、同じ人間だ。私には黄色の肌のヤンとの間に4人の子供、白い肌のナンとの間に2人の子供がいる。皆、私の家族である。中州の狼達はクンの家族であり、クンと私は旅を共にして来た連れである。大鷹のビンは大空にあって、空から見た物を教えてくれる。ロバは重い荷物を運び、土を一緒になって鋤いてくれる。太陽は、大地に力と熱を注ぎ、雲は雨を大地に注ぐ。河は魚を与え、水は土を潤してくれる。土は草木を生えさせ、食料を与えてくれる。枯葉・倒木は、小さな虫達を育て、何時しか大地の土に還るし、火の元にも成る。全ては、生死を繰り返して時を流れて行く。この世に、永遠などと云う命などは、無い。永遠なるものがあるとしたら、それは、連続と云う大地・空・河・草木・森・林・動物・人間と云った総体としての塊の連続性であろう。私は、全てが仲間・平等だと思う。雨・雪・風・花・実り・収穫どれを取っても、1度に手に出来ないほど遣って来る。もし、それが蓄える事が出来たなら、満腹の後の空腹・飢餓は避けられるだろう。人間には、ビンの様に空を飛ぶ力も、クンの様に遠くを見る目も、臭いを嗅ぎ分ける鼻も、鋭い牙・敏捷な走りも無い。ロバの様な力も無い。そして、ヤギの様に毎日乳を出す力も無い。然し、人間には、手と言葉、考える力がある。言葉と考える力を出せば、蓄える事が出来る。力を独り占めして悪用しない限り、諍い・争いは生まれないだろう。この世に目に見える物、感じる物、全てが、仲間であり平等である。その気持ちを、私はお前達に教え伝えたい。」
彼等の利発な両の瞳は、輝いていた。
<少年少女達には、難しいギュンの訓話であったが、その消化不良さが、反ってギュンを神聖化すると共に、彼等の選ばれた自分達と云う自尊心を擽(くすぐ)っていた。>

 ギュンは、その日から先頭に立った。中州の下に、彼等の小屋を立てた。彼等は、朝日の出と共にギュンの暮らす家の前に集合して、ヤンとナンの後にゾロゾロ付いて、中州の日常を観察した。困ったのはトイレであった。大地の収穫に対するお返しは、ギュンの理論で言えば、堆肥である。ギュンは頭を掻きながら、早速全員を招集して堆肥講座を開講して、小屋の横にトイレを作る作業に取り掛かったのであった。2ヶ月が過ぎて、皆が中州の日常を覚えた頃、

「皆、ご苦労様。さすがに部族から選抜されたお前達だ。物覚えが速い。10日後からは、中州を出て対岸にお前達の村を作ろう。失敗を恐れる事は無い。お手本は、中州にある。先ずは、そっくり真似る事から始めれば良い。お前達は20人だ。話し合えば、きつくは無いだろう。土鋤のロバを貸せよう。警護は狼の一団が遣ってくれるだろう。カルガモも、鶏も分けよう。蒔く種も分けよう。湧水の泉は無いが、河に流れ込む小川がある。」

 彼等が対岸に移ると、ヤンとナンは子供を連れて、代わる代わるして、カヌーで河を渡って来て、何かと世話を焼いて帰っていた。ギュンは彼等を預かってからは、月に2度狼煙を上げた。彼等の親達は、交易の人数に加えて貰って、彼等に会いに来た。実りの収穫の頃、族長がギュンの処に遣って来た。
「ギュン、これはお願いだけど、これを来年も、その次の年も続けさせて貰えないだろうか?」
「俺は、最初から、その心算だよ。市と同じ様に、違う者同士が、物を交換出来る事は、すばらしい事だし、それだけ物が増える事じぁないか。豊かになる事だ。違う者同士が、知恵を出せば、目が広くなる。20人の男女が新しい村で汗を流して、共同で一つの事を学んで其々の部族に帰って、知った事を皆に教える。山には山の、森には森の、草原には草原の、土地に合った暮らし方がある。お互いが、対等に学んで、利用し合えば良い。此処で好きに成った者が居れば、新しい村を作って、子供を育てれば、もっと好い事じゃないか。」
「うん、ワシも、そう思う。獲り過ぎたら、それで終わりだ。獲ったら、その分増やす事を考えなければ・・・ 木も動物・魚・土も、皆そうだ。」

 年々、中州の対岸の森には、集落が広がった。河にはカヌーが繋がれ、中州を目指して森の中には、幾筋かの道が伸びていた。沢の湯には、河から1本の道が伸びて、小屋が立った。寛ぎの家族の声が、沢に木霊していた。森に覆われた中州では、相変わらず、狼の一群が灰色の見事な毛並みを見せて居たし、上空には数羽の大鷹の滑翔が見られた。

 後世の考古学は、考察している。嘗て、この盆地に縄文時代と命名された森の文化が、一万年と云う長い歴史スパンを以って、営々と悠久の時を刻んで流れていた事を・・・
 21C水の惑星・地球は、増え過ぎた人類に依って、深刻な悲鳴を挙げ始めている。進歩と云う呪文に人々は、全神経と努力を傾注して人工物で地球を埋め尽くそうと、血道を挙げている。満足と云う個人の希望は、組織に依って目的を持たされ、競争の下に組織は整備され巨大化して欲望に取って代わる。巨大化した欲望の核は、時合わせの日付変更線を指1本の操作で、情報を瞬時に地球全体に配給するに至ってしまった。地球は漆黒の宇宙闇に浮かぶ奇跡の惑星であるが、不夜城と化してしまった。豊かにして便利な<日常に流されるだけの現代人>の五感には、個人の問題として、地球の深刻な悲鳴の声は、届いてはいまい。                  
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