旅行編、ショート編。旅行編は、エロチィック・エッセイ。ショート編は、日常些事のショート・エッセイ。創作編は、短編小説。マイ・ギャラリーは、各編の自作挿絵の収録。

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心何処ーショート ドラマ作りも、大変なんでしょうね。
               ドラマ作りも、大変なんでしょうね。(1/23/14)
 夜は冷え込んで、太陽と共に寒気は緩んで庭の氷柱も溶けた。風呂を妖怪様に譲って、三時過ぎに薬を貰って呉れば良いだけである。

 昨日の昼散歩時には、台風18号で大きく抉られた個所に黄色の大型バックフォーが入って、流れを変えての修復が行われて居た。工事人には役得で、さぞや大ヤマメの収穫が在ったと思いきや・・・小さなハヤばかりであった。

 道理で河川敷散歩でも、<今年は魚影が薄かった>訳である。と思う反面、全体的に魚影の少なさに、何らかの異変が生じて居るのかもしれぬ・・・と、心配に為って来る次第でも在った。

 冬至を過ぎて、早や1カ月である。太陽軌道も上がり、家の中で感じる光線の明るさに幾ばくかの春の色を見付ける事も在る。

 昨日の『相棒』は良かった。ゲストスターの尾美としのりさんは、私の好きな役者である。主演の水島豊と尾美としのりの両役者の持ち味が、良く出て居た感じで在り、大人のドラマとして好い出来であった。

 本日・木曜日で『科捜研の女』では在るが、刑事部長が田中研から金田明夫に為って、今までの<抑えたチームプレー劇>に変化が出て来てしまった。

 彼は芸達者な個性派役者には違い無いが、癖・灰汁が強過ぎるから、どちらかと云うと沢田靖子の無色透明感の持ち味で、チームプレーに徹する科学性?でロングシリーズとして地位を確保して来た『科捜研の女』には、ミスマッチの感がして仕舞う。

 金田明夫と云う個性とバタ臭さの役者の投入で、云う為れば今まで大事にして来た<全体のトーンに齟齬>を来して仕舞うのでは無いだろうかとの危惧が先に立って仕舞う次第である。

 金田明夫の個性の強さに対抗するには、若村麻由美の出番を多くする演出が必要と思われるが、・・・ 彼女の出番が大きく為ると、沢田靖子が小さく為ってしまう。内籐剛志の個性には、金田明夫はマッチッングするが、・・・いやはや、演出家は視聴率、他ドラマとの差別化で結果がどう出るか、路線変更が吉と出るか凶と出るか? 

 ドラマの成功・不成功は、下衆の一視聴者にも及ぶのであるから、ドラマ関係者には胃の痛いワン・クールが始まるのであろう。如何なる演出が出て来るかが、興味の湧く次第でもある。

 何事も人間の制作物は、総体として創り上げて行こうとする構成員の総合作品である。一つの土俵の中で、好い物を創り上げて行きたいと云う協働行為の集積過程でも在る。其処には構成員各員の作品に掛ける想いのコミュニケーション、役割分担と云うプロ根性、束ねとしての人間指導力が介在して来るのだろう。

 スポンサー、製作者、監督、脚本家、役者、スタッフ、視視聴者と諸々の世界で成り立つ訳であるから、大変な修羅場なのかも知れ無い。へへへ。

 其処へ行けば、下衆の私なんざぁ、気楽な物である。好きな青江三奈のセクシィなハスキーボイスのCDを聴きながら、もう直ぐ三時に為る迄の間の日誌ブログを打って居るのであるから。ギャハハ~!!

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心何処ーショート へへへ、雪が積もちゃいましたがね。
              へへへ、雪が積もちゃいましたがね。(12/19/13)
「おや、国谷女史は如何したや?」
「おかしいねぇ・・・」
「ドラマじゃないか。そうか・・・ちょいと見て行くか。」

 そんな次第で始まったNHKドラマ『かつお』が、良いドラマで在った。へへへ、涙が出て来ましたがね。

 馬鹿野郎~、NHKの野郎。作れば、こんな佳作ドラマを作る力が在るのに、出し惜しみばかりしてからに。言いたか無ぇが、これがNHKじゃい。公共放送NHKの心を忘れて何とするんじゃい。母子共に、感涙に浸りましたがね。サンキューですわ。

 内向的な中学生男子から見た東日本大津波のその後の生活が、淡々と描かれて行く。大声を出す訳でも無く、大きな動きが在る訳でも無い。挫ける訳でも無く、捻くれる訳でも無い。あの悲惨さを声高に主張する訳でも無い。

 被災地・気仙沼の今の生活が、家庭、学校、地域の中で淡々と描かれて行く。台詞、表情も、極普通の生活を映し出して行く。

 台詞、表情を強調しない処に、東北の<土着の風土>と<人と人との絆の芯>を見せている。直接話法と間接話法の違いにして、カメラは退いて主演の一見頼り無げにも見える内向的な中学生の目は、ドラマの進行を程良いテンポに導き、それに依って『間接話法の深さ』が際立って来て居る佳作であろう。

      人間にとっての<想い出とは、何か>を語って聞かせる視点が、流れている。

 親父が良い。倅が良い。娘が良い。娘を亡くした後悔と懺悔で、同じ年頃の娘の生活する仮設住宅(父親・倅・娘)に世話に来る元看護士、自分だけが無傷だった事に深い自責の念に囚われて、頑なに閉じ籠りを続ける老漁師。

 女房の車が引き上げられる。一目散に駆け着ける父子、車の主は居なかった。キャッシュボードの中から、きつく二重に結ばれたレジ袋に最愛の女房・母親の最後の言葉を書き留めたノートが出て来る。
地獄の大津波に流され、浸水する車中の中で、女房・母親・一人の人間として、胸中に錯綜した想いは、いかばかりの物だったか・・・結びの言葉は『ありがとう』で在った。

              大漁旗たなびく祭り会場で、老漁師の大漁節が響く。

 間接話法のドラマは、多くを語らない。日本人が日本人の心象、作法に基づいて心で観て、其々が噛み締める<ありがとう>の意味が、涙を通して、共感出来るドラマで在った。日本人の気持ちの中には、多くを語らなくとも、間接話法の意味を理解出来る同床にして同心円の心情が流れているのである。ユネスコの世界文化遺産より、もっともっと価値の有るお互いへのありがとうの心なんでしょうね。へへへ・

 明けて、飯前に雪に押し潰された南天の雪払い、車の雪払いをする。そんな時、頭上の鳥の声に目を向ければ、屋根擦れ擦れに飛んで行く、チョウゲンボウorハヤブサの姿を目撃する。一瞬の出来事では在ったが、野性の輝きとでも言うより他の無い凛々しさが在った。

 雪に成ったり、雨に成ったり、雪に成ったりの一日である。テレビでは猪瀬東京都都知事の辞任記者会見が始まった。
 
 へへへ、こんな会見位では、幕引きには為りませんぞえ。世の中、そんなに舐めたら行かんぜよ。
 
 風呂に入り、妖怪様に後を譲る。四畳半定位置で、熱々のアメリカンを飲む。雨に打たれた積雪量は、見るからに重そうに屋根、植え木の上に被って居る。道路の雪は既に溶け、灰色雲の下、のっぺりと黒い道で佇んで居るばかりである。

 家に閉じ籠りばかりでは、気が滅入るのみである。大分、収まって来たから、ちょいと身体解しに、長靴散歩でもして参りましょうかね。へへへ。



心何処ーショート 青空為れど、空気冷たく。
                 青空為れど、空気冷たく。(10/27/13)
 青空である。本日は日曜日であるから、下拵えをしながら、のんびりと朝賄いをする。歳を取ると、兎に角、野菜主体の食卓と為るものである。

 日曜の報道番組を見ながら、市井に暮らす『菜っぱ貧民』としては、報道番組の視点・論点に於けるお粗末さにウンザリの感で、早々に老母の部屋を辞して来た次第である。

 英語が使えて一応の偏差値者で、活字理解力はそれなりに在るのであろうが、活字の世界は云って見れば<汎用性の利く抽象表現、余所行き表現、杓子定規論>である。抽象表現・余所行き表現・杓子定規論の活字内容を、其の儘、実社会に当て嵌める訳にも行かぬ。実社会は、その実、表も在れば裏も在り、大まかを以って正義とするも、微を以って正義とするも、匙加減で如何にも為る魑魅魍魎・摩訶不思議な人間社会の実態なのであるからして。

 人間社会は、数式万能の化学社会に非ず、均質性など皆無の数式が中々に成り立たない代物である。変数変数の織り為す自然科学の掴み切れないのが、その実態かも知れぬ。

 建前、本音が錯綜する現実用語に如何置き換えて、自分自身の実態語に置き換えて、自分の体験、経験に当て嵌めて、類体験を積み重ねて知見を築き上げて行くのが、説得力の在る彼等知識階層の論点・視点の披露なのだと思うが・・・ 机上視点・論点ばかりで、市井に暮らす末端貧民の私の胸には、ストンと落ちる現実視点・論点が欠落している様な感じだけに終始して終う。

 遺憾いかん・・・こんな事を打てば、<お前の知識不足・論理力の全欠を棚に上げて、何を罵詈雑言を為すのか!! その場に直れ、無礼打ちにして呉れるわ~!! 下郎は黙って居れ。>で、済まされて仕舞うのが落ちである。

 まぁ、馬鹿は馬鹿為りに、分相応を躾けられて居るから、私ぁ、それ以上は言いませんがね。へへへ。

 昨日はYouTubeで、時代劇徘徊をして居ると、白虎隊を扱った5時間前後のテレビドラマが在って、お芝居で在っても感涙に次ぐ感涙で観て居た。

 だらし無く歩道橋の上で彼女と座り込んで食べて居る<飛んでも無いグウタラ孫>の姿を見て、野際陽子演じる婆さんが、だらけ切った倅の家(夫・高島政伸・嫁・薬師丸ひろ子)に乗り込んで来て、白虎隊隊士を持つ家柄の躾けをする。『会津婆ちゃんの喝~!!』の幕開きである。煩い婆さんに恐れを為して、孫は友人と一緒に、婆さんの裏を掻いて、孫に甘い会津の爺ちゃん(伊東四朗)の家に逃げ込む。

<よく来たな。美味い昼飯を食いに行こう。未だ時間が在るから、会津に来たんだから会津館を見学して居ろ。>と言われて、二人は白虎隊・隊士二人の自分達そっくりの肖像画を見て、<先祖のその時代=為らぬ事は、為りません。藩主の為、会津の為、武士らしく死ぬの世界>にタイムスリップする。

        詰まりは、NHK大河ドラマ・八重の桜の会津悲劇の舞台である。

         ★薬師丸ひろ子が、出色の演技で泣かせに泣かせてくれた。★

 巷間では、<テレビが変われば、日本が変わる。>と云う名言が在るそうな。私は、これは実態語だと確信している次第である。人間の活字・言葉理解力など、たかが知れている。
 視覚・聴覚・触覚(体性感覚・平衡感覚)・味覚・臭覚の五覚を以って、人間の五感と云うそうな。
一方、知覚と云うのは、動物が外界からの刺激を感じ取り、意味付けする事で、視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚などの感覚情報を基に、『熱い・重い・固い』などと云う自覚的な体験として再構成する『処理』を云う由。

 活字は視覚、言葉・音を聞くのは聴覚の世界である。共に知覚の支えが無ければ、理解に遜色を来す。五感から云えば、本、ラジオは1/5の世界である。テレビは視覚と聴覚の世界だから、2/5の世界と云えよう。音を伴なった映像の世界は、触覚・味覚・臭覚こそ無いが、映像反射効果でその三感覚を投影する。当然にそれらを引き出す為にも音を演出し、表情・動作・台詞をバックの構成で進めて行くのが、ドラマ、映画の世界である。

 人間の記憶として五感+知覚を組み入れた総合性ほど、優れた記憶法は無かろう。而もストーリー性を持つ物は、作者の意図・意思、演じる役者達の想いが鮮明に綴られて居るから、記憶付けには最良の方法と云っても良かろう。こうして考えると、映画が総合芸術であるとの位置付けも、的を得た表現で在ろう。

 白虎隊を観れば、歳若き者達の精神・行動は、幾多の戦争に投影して、日露戦争時の203高地の戦闘、大東亜戦争時の予科練の神風特攻隊にも及んだり、ジャングル戦、イオウ島玉砕にも及ぶ。

 テレビキャスターが世相を解説し、コメンテーター達が感想を口に出そうとすれば、平和、個権の自由平等、権力の不当性を口に出さなければ、様には為らないと云うのが<マスゴミ界の娑婆模様>なのである。

 その点、時代劇と為れば、自由が利く。鬼平も、呑舟も、東郷平八郎も、山本五十六も英雄・軍神である。『為らぬ、物は為らぬ』の本筋が闊歩して居た時代を映像表現出来るのであるからして、喜怒哀楽の真っ当な情が炸裂する映画・ドラマを創る事が出来る。

 へへへ、これを称して、人の心を<代理表現する手法>と云うのであろう。喜怒哀楽の情表現は、抽象語に非ず、杓子定規の世界に非ず。実態語表現で在り、簡素・明快を旨とする。映画、ドラマがヒットするのは、それらが『庶民の深層心理』を映し出すと云う処の、<代理表現機能>を持っているからであろう。

 母(薬師丸ひろ子)の真意の引き出し役の婆様(野際陽子)の願っても無い好キャスティングに依って、お芝居の世界が胸を痛打して、感涙・嗚咽に過ごした5時間弱であった。

 国会中継などを聞いて居ると、兎角、学校での道徳・徳目授業の有効性・必須科目入れが質問されている次第では在るが、テレビから時代劇を駆逐してしまった<日本人の精神の劣化は、殊更、罪が重い。>と考える次第である。

※野際陽子、薬師丸ひろ子、伊東四朗、東山紀之と云った女優・俳優の水を得た様な演技は、明らかに仕事を得た役者の喜びの様な物まで、此方に伝わって来た次第であった。

 本日も長駄文の館訪問、感謝感謝の段で在りまする。空、青けれど、空気冷たき折、風邪など召さぬ様に・・・へへへ。


心何処ーショート ちょいと、考えて見ました。
              ちょいと、考えてみました。(10/8/13)
 <1>
 私はトム・ジョーンズとエルビス・プレスリーが好きで、所蔵のDVDもCDも愉しんで居る。トムのデイラィラ、グリーングリーングラス・オブホーム(GGGofHome)は殊の他、好きな曲目である。尤も、私はヒィアリングが全く出来無い。従って、歌詞の内容など一切知らない男である。

 それでも、GGGofHomeは、思い出のグリーングラスホームで、森山良子、天地真里、チェリッシュなどが吹き替えで歌って居たので、故郷の父母・故郷の友人達の下に帰る望郷の歌だと思って居た。

 それが実は、死刑囚の執行に際しての『魂の歌』と云う事を始めて知った次第である。それは、昨日の毎日訪問して居るブログさんの<本日のミュージック>の中に貼られて居た歌詞付きのトムの曲の中に在ったのである。

         真に有名して、世界的名曲であるから、ご存知の方が多かろう。

 天地真里、チェリッシュの望郷ムードで、トムの歌を聴いて居た。然しながら、聴けば聴く程に、トムの情感溢れる深刻な歌い方と、前二者の歌唱雰囲気が違い過ぎて、私には長い間、『謎』であった。

 それが昨日、歌詞内容が解ってトムのGGGofHomeが何故故に、息の長い彼の持ち歌に為って居るのかに、『大合点』した次第である。トムの雰囲気を良く現わして居る歌唱は、森山良子の物である。

   この歌で一番伝えたかった部分は、三番である。私の稚拙な直訳では在るが・・・

      目覚めた時、周囲が見えた。私は灰色の壁の中に居た。夢を見て居たんだ。
      看守と哀しい顔をした老牧師が居た。腕を引かれて、夜明けを歩いて行く。
      また、グリーン・グリーングラスの吾が家に、触れる事が出来るだろう。
             そうさ、みんな、私を見に来るだろう。
      あの緑深い吾が家近くの古いチークの木の下に、私は埋められるだろう。

 日本人の悪い癖で、暗い物、深刻な物には二の足を踏んで、軽く、好い処だけを取り入れると云う国民性が在る。それが、天地真里、チェリッシュバージョンなのであろう。歌手が原曲を知って居れば、ああ云う風な歌唱には為らないだろう。知って居れば、当然に森山良子の歌唱に為ろう。

 原曲は米カントリーとの事である。売れ無かったと云う。翌年、トムが謳って全英ベストワンに輝いたと云う。英国人トムはサーの称号を持ち、女王陛下も臨席すると云う国民的大歌手である。トムの謳う死刑囚の心情を謳ったこの曲には、聴衆の<歓呼の向かい入れ>が見て取れる。
 米国で生まれヒットせずに、英国で魂の曲としてされ続ける英国人のこの曲への感情の中には、長く続いたアイルランド独立闘争への共感が在って、単なる死刑囚の心境以上の共鳴感が在るのだろう。赤いバージンロードに対してグリーンロッドは、死刑囚の進む道との事である。

 原曲の心情は、歌詞を省略・カットして、日本風にアレンジして日本テイストとするのは、宜しく無い事である。私に言わしめれば、無礼千万の行いである。

 原曲と向き合う事で、見えて来る物の方が味合いは深く為るものである。暗い物、深刻な物に尻込みして仕舞う処に、安易な迎合と誤解が生じる元を作り出して仕舞う。これは考察の訓練には為らない筈である。増してや、<観賞に値しないと態度>と云う物である

 安易な迎合と誤解の基が、自虐史観などと云った<刷り込みの餌食>に為って居ると云う事で在ろう。音楽界は、原曲に対して真に失礼の極みである。
 マスコミ界も、往々にして発言者の文脈を省略・カットして、麻生さんのナチス擁護発言をいとも簡単にでっち上げて仕舞う<マスコミ風潮・風習>にも、その悪弊が見られる次第でもある。

  いやはや浅学非才とは、流されて終うだけの<切なさ>を思い知らされた次第である。

 <2>
 昨夜は、良い映画を見付けた。1953年・大映映画『あにいもうと』成瀬己喜男監督、主演京マチコ、森雅之、久我美子である。室生犀星のあにいもうとの映画化との由。

 大映映画文学作品には欠かせぬ京マチコと森雅之のコンビであるが、その二人は心底では妹思いにも拘らず、表面では父に反発する野卑な兄と身籠って転落して強がって見せている妹の役である。

 川と共に生きて来た生活。蛇籠で堤防を造らせたら右に出る者無しの川頭だったが、時代はコンクリート堤防の時代で落ちぶれ果てた父・山本礼三郎、そんな亭主に代わって、川の袂で小商いをする母・浦辺粂子、確り者の末娘・久我美子。

        物語は川をバックに末娘・久我美子の目から描かれて行く。

 否応なしに、京マチコは美人で演技抜群の艶ぽさである。阿婆擦れと為った妹が、謝りに来た優柔不断な恋人船越英二を兄が可愛い妹を傷物にしたとの憎悪で殴り蹴って、腹癒せにしたとの話を聞いて、激情する妹。兄と妹が取っ組み合いの大喧嘩をする。着物の胸元がはだけて、ぽっちゃりとした肉付きの好い肌に汗を掻いて、兄に<さあ、殺せ!!>と啖呵を切るシーンの何んとも白熱したシーンで在った事か・・・

 羅生門、雨月物語とは違った、魅力が在った。どんなに野卑、阿婆擦れと為っても、どんなに憎悪に暴れても、夫婦・親子・兄弟は、血の繋がりなのである。抑えて居た感情を爆発させて、姉と妹は川を渡って東京に帰る。そして、また顔を見たく為ったら帰って来ると云ってバス停に歩いて行く仲の好い姉妹の後ろ姿で終わる。そして、其処には川が流れている。まるで川の流は、変わらぬ家族の血液の様に。

  昭和28年の作品にして、私は、その当時5歳である。口より先に手の出た時代である。

 あれから60年、民主化は進んで・・・個々人の表現力は、あの当時とは隔世の感、雲泥の差である。然しながら、芯・核を喪失して、表層を巧く浮遊する世相とは如何なものだろうか。GGGofHomeの原曲を都合好く省略・カットして時代にマッチさせて、流行歌として仕舞う。省略もカットもせずに、日本人の生活の中に生身の感情の儘に、体当たりして居た時代が、親子兄弟の中に厳と存在して居た時代が、紛れも無く在った。
 
 この映画から60年・・・ 日本人が手にした物は、家長の崩壊に依る核家族、個室、個器の氾濫、キレる、逆ギレ、集団苛め、家庭内暴力、鬱病の蔓延、モンスターペアレンツ、事無かれ主義の個権の蔓延、地方の衰退、労働の使い捨て、独居死、無縁仏、行きづり殺人、バラバラ殺人・・・etc

  60年前、この普通の息づかいで暮らして居た日本は、果たして野卑の時代だったのだろうか。



心何処ーショート お薦め・・・中村吉衛門・鬼平犯科帳シリーズ
           お薦め・・・中村吉衛門・鬼平犯科帳シリーズ(9/26/13)
 時代劇がすっかり形を潜めて仕舞ったから、寂しい限りである。私に言わしめれば、勧善懲悪を示し、情と温情の綾で物語を構成する時代劇は、日本人の精神性を謳う一大エンターティーメントその物である。このシリーズは、日本の大衆娯楽の伝統を踏んだ集大成でも在る。少なくとも、私はそう思う。

 日本の話芸には、偉人伝を格調高くビシッビシッと語らせる講談が在り、庶民の英雄伝を節を作って唸り、語る浪花節が在り、庶民の下世話話を手振り、身振り、顔相、声色で語って見せる落語が在る。そんな語りの世界を劇にしたのが芝居小屋の世界である。

 私は戦後世代であるから、生憎町々を回る旅芝居の思い出を持たない。辛うじて、小さい頃に花見時に為ると、旅芝居の舞台が立って居た記憶が在るだけである。それも極幼少の頃であったから、大人達が大勢集まって酒を汲み交わして一日を過ごす。そんな微かな光景の記憶が在るだけである。

 その舞台で何が演じられて居たかには興味は無く、近所の餓鬼大将の後に付いて、朝、その舞台の周辺を銭拾いに行って、見物客の落して行った小銭を拾って、浮き浮きと駄菓子屋で籤を引いて、チンケな小紙を舐めて、アタリ、スカの透かしに一喜一憂して居ただけの餓鬼であった。いやはや、育ちの悪過ぎた餓鬼の端くれで在った。

 今思えば、もう少し大人びて居れば日本の良い文化、芸能の残滓を記憶に辿りつつ、現在の妄想の一助としたかったのであるが、真に惜しい事をして仕舞った。そんな感頻(しき)りで在る。

 さて前置きはこの位にして、時代はITの嬉しき御世に為って、PC個器でYouTubeで色んな時代劇を、任意の時間チョイスで、自分の好み、一存で、心置き無く観れるのであるから良い時代と成った物である。何度も打っている次第では在るが、中村吉衛門の<鬼平犯科帳>を毎夜観て居る。何しろ、そのシリーズのボリュームは群を抜いている。

 それは取りも直さず、日本国民が太鼓判を押すほどの大人気シリーズであった証なのである。

 YouTubeでの、そのラインアップの充実たるや・・・、思わず涎が落ちる処でも在るからして、ブログ樹海の辺境地に位置する吾がブログの迷い込んだ御訪問者の紳士淑女各位に於かれては、一度、その世界に嵌り込んで貰いたい次第である。

 私は無類の映画好きで在るから、映画・ドラマには、ちょいと煩い。ご存知007シリーズ、インディ・ジョーンズ、ハムナプトラ、シャーロック・ホームズ、名探偵ボアロシリーズなどを抜いて、ぶっち切りの断トツのラインナップを誇るシリーズ物であろう。日本贔屓の身としては、<シリーズ物の金字塔>と形容しても、強(あなが)ち詐欺では在るまい。

 恥ずかしながら小説を読まない男では在るが、きっと原作者の池波正太郎さんも、シリーズのどれを採っても出色の出来栄えに、大満足の口で在ろう。
 劇画本好きのM氏などは、私にちょくちょく<さいとうたかお>の鬼平犯科帳の単行本を差し入れをして下さる。さいとうたかおと云えば、ゴルゴ13ではあるが、私は日本人離れしたゴルゴ13の世界より、江戸情緒たっぷりの鬼平犯科帳の世界の方がしっくり来るのである。

 私の好きなドラマシリーズには、水谷豊の『相棒』と沢口康子・若村真由美の『科捜研の女』が在るが、中村吉衛門の鬼平犯科帳シリーズと比べると、別次元のシリーズ物である。

『相棒』『科捜研の女』は、共に推理劇であるから、扱う世界が違う。推理劇の構成は、事件への結果と動機、犯行、トリックの物証的起承転結の冴えが、その見せ処である。その起承転結をドラマを見ながら、自分自身で先回りをしながら、キーと為る台詞・表情に目を配らせながら、時間配分の1/4,1/4の起承転結を追いながらのシナリオ作家、監督、役者の力量を見て行くのが、ドラマの楽しみ方なのでは在るが・・・

 世界の拡がりに欠ける処が、映画、ドラマとしての限界点と云った処だろうか・・・

 一方、中村吉衛門を中心にして、江戸家猫八、蟹江敬三、綿引洪、梶芽衣子の密偵、同心の高橋悦二、御木本伸介、尾美としのり、勝野洋と云った重量級の芸達者の面々が、毎回を脇をギュッを締めて、盗賊役と為るゲストの役者さん達が<鉄壁の鬼平軍団>に戦いを挑んで来るシリーズ物である。

 此処には勧善懲悪の命懸けの戦いが繰り広げられて居るのでは在るが、それは表向きの事で、シリーズの中身は毎回変わらぬ敢然と悪の前に立ちはだかり、悪を切って捨てる。勧善懲悪のストーリーにして、情を描いたシリーズで在る。組織・個々の人情に、目配り気配りをして、清濁併せ呑んで手配し、敢然と指配、犯罪を処断する。<鬼と仏が同居する長谷川平蔵>の法と義理人情劇が、シリーズを横断する真骨頂なのである。

 組織が、組織に集まる個々に、義理と人情の縦糸・横糸が織り込まれて、一枚一枚の柄が施されて行く・・・これが、鬼平犯科帳の世界である。そして、この世界には、講談の語りも、浪花節の唸り、落語長屋の熊さん、八っつあん、御隠居さんの身振り手振り、声色も存分に入れ込んである。其処の秀逸さが、日本の一大エンターティーメントたる所以なのである。

 演ずるは、伝統歌舞伎の御曹司・中村吉衛門である。立ち振舞いも、音声・声色、テンポ、眼技も腰の据わりも殺陣も、鍛え抜かれた本物芸である。劃して親父さんの当たり役・鬼平犯科帳の枕に<中村吉衛門の一枚看板が立つ>のも道理と云う物であろう。

★言いたか無ぇが、馬鹿な左巻き義務教育をする位なら、勧善懲悪の義理と人情劇の鬼平犯科帳を、義務教育の中に取り入れて遣った方が、もうちょっいとマシな情操教育が出来ると云う物であろう。

 へへ、こんな本日のブログ日誌を打ち始めて居ると、昨日の記事を心配して、SNちゃんから、私の声が聞きたくなったとの事で電話を頂戴して仕舞った。そして、hachiman01さんからも、労わりのコメント。昨日のおっちゃん事・MacoTan氏のコメント返しの温かいエール共々、ブログの交わりに感謝感謝の気持ちである。
 然しながら、機械とは奇妙な物にして、吾がナニワのmaso♪大明神様へのコメントが、『書き込み制限』とやらで、何回アタックしても不通の段には困った次第である。

 本日、台風の影響で、いやはや『寒い風立ちぬ』の状況である。先日、整理畝に種を蒔いた処、芽が出て来た。それでもう一方の日陰畝ではあるが、其処へホウレンソウ、白カブの残り種を蒔いてジョロ散水をして置いた。まぁ、収穫は期待薄では在るが、これも時間潰しのロートル日常と云う物である。ニャハハ。

         さてさて、寒い日は、風呂で温まるのが時間潰しの一つでも在る。

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