心何処ーショート 本日・立冬なり
                 本日・立冬なり(11/7/09)
 本日も、好天に恵まれている。庭に出て柿の皮をひっくり返し、広げた干し柿をひっくり返す。好天続きで、干し柿の乾燥は、順調に進んでいる。軒下の吊るし柿も、大分水分が蒸発して、柔らかく成って来た。

       テレビを見ている母が、私を呼び止める。
「綺麗な紅葉だよ。お前、こう云うの好きだろ。」
「おお、それ去年の映像だろ。エンジン付きのハングライダーの空中映像だろ。」
「お前、好く覚えているね。」
「そうかい、婆さんの遺伝子だよ。勉強は嫌いだったけど、記憶力だけは、折り紙付きだったからな。驚く事は無いよ。ハハハ。」
「私は、もう何もかも駄目に為っちゃった。昔は、さっと出て来て、父さん・回りから良く覚えているって、褒められていたのにね。ああ、情けない・・・長生きをし過ぎた。」
「馬鹿こいちゃ行けねぇよ。93にも為って、61の倅よりも記憶が確かだったら、俺ぁ、立つ瀬がなかんべさ。ショックを受けて、俺ぁ豆腐の角で自殺もんだぜや。へへへ、黙って聞いて居りゃ、とんでもない言う怖い婆さんだわさ。」

 おやおや、薬が無く成ったか・・・本日土曜日、電話の来る前に、薬を貰いに行って来るべし・・・ おぅおぅ、電話が鳴っている。
「さぁ、コーヒーでも行くかいね。」
「あいあい、アリガトさんね。柿は有るか?」
「未だ生ってるのかい? じぁ、頼むよ。」
 さあさあ、始動開始である。こりぁ、ちと忙しいぞよ。おっ、斜向かいのSちゃは、日差しを浴びて、収穫物のサツマイモ洗いである。

 へへ・・ タイムオーバーで、Tは土手に車を止めて、河川敷のベンチに座って煙草を吸っている。おやおや、一週間見ない内に、Tは見事に日焼けをしている。為るほど為るほど、健康的な散歩散策を励行している様子である。
「好い環境だな。今日みたいな天気は、一日中ここに居ても、退屈しないだろ。」
「ああ、そうだよ。ラジオを持って来てさ、このベンチに胡坐を掻いて、本なんかを読んでると、好い気持ちさ。眠く為れば昼寝も出来るからな。人間も、ロートルに為ったら、日向ぼっこの猫に為るのも好いもんだぜ。目の保養は、女ばかりじゃないからな。」

          車に乗って、コーヒータイムに出発である。
「如何だい? コーヒーのデザートに、柿でも持って行こうか?」
「やぁ、未だ物を入れると、トイレに行きたくなってしまうから、家でゆっくり食べるよ。」
 Tの所の吊るし柿も、進捗具合が順調との事である。摘まんで食べようとするTに向かって、細君が『まだ、駄目!!』との監視付きなのだと言う。ハハ、こんな男と女の攻防も、男女間の性差の一つなのである。私も、母親の目を盗んで物干し竿の吊るし柿を、早くから摘まみ食いしていたものである。

「今日の俺の絵を見たかい?」
「いや、今日はパソコンの調子が悪くて、未だ見てないわ。信長・秀吉・家康の記事は、面白かったよ。切り口が面白かった。高々、21年の出来事で、年齢差8歳だったとはなぁ〜。絢爛豪華な屏風絵の安地桃山時代なんて言われ方をしてしまうと、40〜50年の時代を連想してしまうんだがな・・・目から鱗だったぜ。」
「確かに、そうなんだよな。学校を離れてしまうと、年号なんか完全に、蚊帳の外だからな。教育機関の無い大人に為ってしまうと、仕入れて、記憶に結び付くのは、テレビドラマ・映画の映像に為ってしまうからな。
 それも、作り手の方からすると、何回も続けて放送する訳には行かんから、何年か置いて一般人の記憶が薄れて来る頃に、大河ドラマで放送されるってカラクリだから、大半の大人は、そう覚え込まされてしまっているんだわな。
 そんな事もあったから、丁度NHKで自民と小沢一郎の攻防を見て、あんな記事に為ったんだよ。拍手の数からすると、一番の読者評価だったよ。へへへ。」

「そうそう、一度聞こうと思っていたんだけどさ。お前は、何時もそんな事を考えているのか? 疲れないか?」
「馬鹿こいちゃ行けねぇわな。そんな顰め面をして考えて居たら、金髪おネェちゃんの妄想のお時間が無く為っちまうわな。そんな勿体ない事が出来る訳が無いじゃないか。
偶々、タイミング良く自然と浮かんで来るだけだわさ。これも遡れば、有難い遺伝子のお陰。お天道様の贈り物だわさ。
 まぁ、これも上空を舞うトンビさんに言わせりゃ、俺の定めってもんだろうが。好い加減・能天気をしてなきぁ、お天道様のお導きは無いわね。皆真面目腐って、勉強ばかりするから、脳味噌の空き部屋が定員オーバーで、空気漏れしちゃうんだわさ。ウッシッシ。 
 上昇気流を掴んで空中を旋回するトンビさんに言わせると、『集中と緩慢、解放の極意』を会得すると、立派な風乗り・風任せの忍者に為れるのかも知れんぜ。」
「巧い事を言うじゃないか。風乗り・風任せと来たか・・・ メタボだから、墜落死はするなよ。話し相手が居なくなると、俺が困るからな。」
「あいあい、サンキュー。早い処、悪さ遊びに繰り出さないと、俺の妄想のタネが枯渇しちゃうがねぇ〜。あぃ?」
「そうだいなぁ〜。竿の命も侘びしき音の訪れっちゅうもんだからな。ギャハハ。さてさて、ヤニの補給にでも行くかいね。」
「あいあい。承知。」

 本日、暦上の立冬との事であるが、日差しを受けるベンチ喫煙場所は、暑い限りであった。日が西に傾けば、日蔭の南天の葉が微風に微かに揺らぎ、窓辺の黄葉(きば)が、ひらり落ちる。正面の黒いフェンスに、ジョウビタキのメスが現れて、此方を見ている。早や、夕刻の寒さが忍び寄っている。さてさて、早い処、散歩に向かうべし。釣瓶落としの立冬である。

【2009/11/07 16:21 】
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心何処ーショート カモン、ゲドウ!!
                   カモン、ゲドウ!!

                   カモン、ゲドウ!!


            整形なんかしてないで、さぁ、出ておいで!!

              キッチリとカタを付け様じゃないの!!

  逃げたって駄目よ。私のこのポスターを、お前の手配書の横に貼り付けて、

        追いつめて追い詰めて、息の根を止めて遣るわよ。

        逃げたって無駄よ。ファミリーは、絶対に許さない!!

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【2009/11/07 09:59 】
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心何処ーショート ニュースと映画を見て
               ニュースと映画を見て(11/6/09)
 人を殺して、顔を整形し続けて逃避行をして行く。否、生活して行くと言った方が、実情に近いのだろう。美形故に、異国で若い美空を無残にも奪い取られてしまったのであるから、遺族にとっての堪え難き悲しみと怒りは、想像を絶するものであろう。

 こんな人間は、映画の中にだけ閉じ込めて置きたいものである。人間にとって一番必要な神経の束が、未発達・断絶しているのでは無く、そもそも欠落しているとしか考え様も無い。こんな人非人は即逮捕・死刑で、この世から抹殺するしかあるまい。
 正常神経の持ち主が、神妙な顔付・言葉を選択して語るべき社会・環境因子、更生の余地が、どうの・・・こうの・・・と云ったケースでは無かろう。こう云ったケースこそが、裁判員制度の真骨頂と為るやも知れぬ。

 プロの裁定する量刑は、判例に準拠してしまう。それが社会と正常人の積み重ねと云うものである。従って、判例は過去の積み重ねに囚われてしまう。社会そのものが、現在と過去との間に大差の無い安定の秩序が、保たれて居ればこその罪と罰の均衡である。然しながら、全く異質の物が有ったのなら・・・ そして、その手法は異質の物に有効性を保つ事が出来るだろうか???
 例外・特殊事例が数を増せば・・・有効性を保つ事が出来なければ・・・過去を打ち切るべき変化が多発する以上、量刑の基準は変わらねば為らないのである。

 理想とても、現実の申し子の側面がある。社会の衰退とともに、理想も放物線を描かざるを得ない性格の物であろう。現実の前に願いも理想も、実効性の叶う姿で対処すべきであろう。

 瞬く間の物質的に恵まれた時代を通過して、先進国の一員として言われている日本の実社会は、経済成長と経済停滞の中で幾つもの変化が定着しつつある。物質面と精神面との比較をすれば、精神面で崩壊・失ってしまった物の多くが横たわっているのが、紛れも無い現実である。

 昨夜は、久し振りにマカロニウエスタンの<夕陽のガンマン>を見た。決して、クリント・イーストウッドに会いたかったのでは無い。どちらかと云えば彼は、私の好みの役者さんでは無い。リー・バン・クリーフ、ジャン・マリア・ボロンテに会いたかったのである。賞金稼ぎのクリーフと悪役のボロンテが、曲者・悪の迫力・野獣の魅力満載なのである。此処では、好きな役者さんではあるが、クリーフの魅力は割愛して、ボロンテについて打とうと思う。

 彼が演じる処のギャング集団の首領インディオは、紛れも無く『途中異常者』である。そして、過去に囚われるトラウマを持つ陰影濃い残虐非道狡猾な計画者である。ハンサムな顔を髭面に隠して、ギラギラとする野獣に似た残虐非道狡猾さの演技を、米2俳優とイタリアを代表して、三つ巴の競演をしているのである。

 そして、彼は、その残虐非道狡猾さの裏に潜んでいるトラウマの存在を、哀しくも文学的にも演じている演技派役者さんでもある。

 この映画には、イタリア映画界の鬱屈した下地が見え隠れしている。その投影が、役柄のインディオと、それを演ずるボロンテに見えるのである。それも、この映画の愉しみ方の一つでもある。
 制作は1965年、イタリア映画である。本家本元のアメリカでは、西部劇は落日・終焉を迎えていた。働き場を失った西部劇俳優をアメリカから迎えて、イタリア西部劇は、人間の毒々しさ・残虐非道狡猾さを生々しくデフォルメする事で、正義・勇気・友情・好漢・愛のモチーフで描いて来たアメリカ西部劇に対抗したのである。西部劇を体現するマイナー役者のイーストウッドとクリーフを招いて、云うならば西部劇手法の技術移転をしたのである。
 其処には興行面を考えなければ成り立たないマイナーなイタリア映画のアキレス腱があったのであろう。ボロンテという役者と彼が演じるインディオの役柄・人物像に、それが色濃く滲んでいるのである。
 インディオ演じるボロンテは、映画中、徹底的に悪人である。そして、トラウマに眠れない精神を病んだ男である。そして、その残虐非道狡猾な悪人であっても、一抹の哀れさを感じさせないでは居れない興味を引く男でもある。此処が『途中異常者』の陰影を文学的に表現させて、賞金稼ぎのハイエナとお尋ね者の野獣に、ガンファイト以上のリアリティを与えて、マカロニウエスタンの時代を作って行った契機だと思われる次第なのである。 
 詰まりは、こんな処が、イタリアとアメリカを分ける懐の深さの違いなのであろうか。

 夕陽のガンマンは、クリント・イーストウッドの出世作である。然し、私の中では、クリーフとボロンテに再会出来る秀作の一本であると言って良い。

 人を殺して、顔を整形し続けて逃避行をして行く若者に、ボロンテの『トラウマ』が果たして有るのだろうかと、私は指名手配の顔写真とエレベーター内の鏡に写る自分の姿を頻りに気にしている若者の姿に、現在の裁判のあり方をダブらせて、そのミスマッチ振りに大きな溜息が出てしまうのである。

 沸かし立ての熱いインスタントコーヒーを啜りながら、煙草を燻らせている。寒い部屋に、好い日差しが、屋根の上から差し込もうとしている。風の無い穏やかな日が始まろうとしている。窓辺のすっかり疎らに成った黄葉が、音も無く一つ、また一つと落ちて行く。机上の水槽のヒーターから水陽炎が立ち昇り、緑の水草に豆タニシ達が微かな動きを見せている。メダカ達は、今日も数を減らしている。隣槽の金魚達が泳ぎ始めている。
 
 日差しの満ちた通りを、制服の高校生達がズボンのポケットに手を入れて、自転車で通り過ぎて行く。夏のスピードからすると、ゆっくりと成ったものである。

 久し振りに温泉銭湯にペダルを漕ぐ。ピリピリする熱い湯に身を沈めて、ゴシゴシ垢擦りで洗い清め、髭を当った後は、タイルの壁に背を預けて掬い湯を掛けて、時間を掛けてのんびりとして来た。こんな風呂の入り方のシーズンが、又巡って来てしまった。

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【2009/11/06 13:53 】
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心何処ーショート コンニャローメ、薄情者!!
             コンニャローメ、薄情者!!(11/5/09)
 温かい布団の中で、ボケ〜としていると、四畳半の戸を叩いている音がする。斜向かいさんが、岡山に嫁いでいる娘さんに甘柿を送りたいから、庭の柿を取らせて欲しいとの事である。お安いご用であるから、高枝挟みを渡して柿取りの助手を務める。

 食後、母の部屋でテレビを見ながらお茶を飲んで居ると、四畳半で物音がする。さては、猫が鳥籠を襲ったのであろうと、大慌てで部屋に行って見ると、大変な騒ぎである。出窓から鳥籠が落ちて部屋中、散乱している。天気が好いから、廊下の戸は何時もの様に開け放している。
 大慌てで戸を閉めて、逃げだした金華鳥の回収をする。オス二羽のメス五羽の小鳥達は、メス四羽の回収しか出来ない。最低でもオス一羽の回収が出来れば、繁殖の再生産も叶うから諦めも付くが、・・・

 こんな騒ぎが無ければ、寒い夜の散歩から朝食後の散歩に移行させようと考えていたのだが・・・ 本日は、部屋に居て行方を晦ましてしまった三羽の気配を待つしかあるまい。不注意と言ってしまえば、それまでであるが、習慣と成っている飼い方は、こんな事が無い限り、冷水を浴びせられ様も無いのである。これが、物臭・能天気人の常と云ったものである。一つの籠に入れられた四羽のメス達は、何事も無かった様にチッチッ、チィーンと単発の声を上げて、藁巣の中に入ったり、餌を啄んでいる。

 これでは、私の思惑もゼロに等しい。近くに居るのなら、その声を聞き付けて、雲隠れの三羽が姿を現わしてくれると考えたのであるが・・・金華鳥は、全て番いにして親子の関係なのである。一緒に居ると、仲睦かしいの図なのであるが、柵の内外では、<金の切れ目は、縁の切れ目>の上を行く様な平常心の様でしかない。困った情景である。

 煙草を吹かしながら、誘き出し作戦を考える。オス二羽はミュージックに反応して、ブンチャカ・ブンチャカの囀りをしていたのを思い出して、アン・ルイスのCDをボリュームを上げて聴く事にする。然しながら、反応は一切無しである。

             コンニャローメ!! 薄情者達め。 

   これでは猫に食われてしまったのか、外へ飛び去ってしまったのであろう。
無理も無い、飼い主の我が人生を反芻すれば、何時も振られ放しの侘びしい<片思い人生>であった。駄目な物は、駄目なのである。幾ら妄想力に長けていると、嘯(うそぶ)いた処で、覆水盆に返らずの『現実』である。此処は一つモテ無い男の習い性で、深追いは禁物の人生訓を実行するより他は無さそうである。

 さてさて、<総べからず世の中、捨てる神あれば、拾う神あり。>である。習慣替えの昼散歩に行くべしであろう。

 本日は、途中からコースを西に取る。小さな神社の立て札を見ると、ふむふむ・・・平安の時代、この辺りは京都の神社の荘園であったそうな・・・ 平安の御代は、貴族と僧侶の天下であったと云う事であるか。中央集権制度とは、大したものである。貴族のヒラタケ取りの国司も居たと云うのであるから、貴族・神社の僧侶達の苛斂誅求を受けて、農民の暮らしも、さぞや大変だったのだろう。
 続いて旧宿場界隈を徘徊散歩する。野も山も、黄葉真っ盛りである。天気が好いから、ペットボトルの水を口に差しながらのテクテク歩きである。宿場本陣・番屋跡の立て札、旧街道の道標・馬頭観音などの説明書きを読みながら、旧道を北に進んで見る。こんなのんびりとした昼散歩の折には、一句捻りたい気分に為るのであるが・・・朝の事件が響いているらしく、何も浮かんで来ない。

  こんな時には、見栄を張らずに趣味の戯れ事に、頭を巡らすに限る。先日の夢の話の雰囲気が、下衆男としてはイマイチの感じであった。まだまだ、ボッチラ、ボッチラ歩かねば、家には辿り着かない遠出である。

             <11/3分投稿の挿入歌>
  雑魚寝集団の熟睡振りを天恵と考えて、此処は、ひたすら<寝た振り狸>運動の開始をするのが、歳の効為らぬ歳の動作。何時しか、グイの突きにグイの呼び込みが呼応する。

           ♪ ピンピンとグングン、ピピンがグングン〜。
      オーマイガットにケ・セラセラ〜、ドンマイドンマイ、続けましょう〜。
       此処は、アナ、恥ずかし 嬉し〜の 夢の ハッピーランド〜。
         ググンがグイグイ、ググイ〜のグイグイ、行きましょう〜。♪

 はい、恥ずかしがらずに、♪御唱和下さい。誰も、見ちゃ居りませんよぉ。ウッシッシ。

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【2009/11/05 17:38 】
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心何処ーショート 下衆の感想
                 下衆の感想(11/4/09)
 ラジオでは、国会中継が続いている。三夜連続の自民党と小沢一郎氏の攻防(興亡)を見てしまったから、如何しても白々しく聞こえてしまう。政治家の下克上並みの野心が、横溢・策動する権力への攻防と興亡は、何時の時代でも凄まじいと云うのが実相・実態なのであろうから、別に驚く事もあるまい。面白いドキュメントであった。

 現在、流行りの歴女達の中で、NHKの大河ドラマの『天地人』が、好評を博していると云う。日本人の歴史物語で、衰えぬ歴史ドラマと云えば、聖徳太子・平清盛・源義経・足利尊氏・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・大石内蔵助・西郷隆盛と云った処であろうか・・・
 この中で、時代がギューと凝縮されて、天下取りへの形振り構わずの凄まじいばかりの権力闘争が行われたのが、信長〜家康の時代であろう。小説・映画・ドラマでは、その時代の彼等の内面・内心を歴史的資料に基づいて、肉体語・感情語として想像して見せてくれるのであるから、面白くない筈が無い。

 信長・秀吉・家康の年齢差は、信長から数えて、2歳、8歳の違いである。信長が本能寺で誅殺されたのが1582年、秀吉が死んだのが1598年、家康の幕府樹立が1603年である。その間、高々21年である。21年の中で、6歳違いの男秀吉と家康が、権謀術策で争ったのである。

 こんな大雑把な歴史上の権力闘争を、一つの歴史軸として自民党と小沢一郎氏の権力闘争を観賞していると、実に面白い。武力による戦は、ご法度の民主主義の時代であるから、登場するのは、言論と云う権謀術策である。政党と云う数の論理で終止符を打つのは、表向きの形である。ドキュメンタリーに登場する政治家達の姿を、戦国武将達の姿と重ね合わせると如何だろうか・・・ そこに現れて来るのは、意外と歴史上の偉人の金字塔では無く、現代の政治家と余り大差の無い相剋する武将達の実像なのではないだろうか?

 戦国武将達の顔を、現代の政治家達の顔に重ね合わせて見れば、小説・映画・ドラマ以上の、自分自身のハンドメーキングの世界が広がるかも知れない。若い歴女達が、現代の政治家と絡めて歴史散策をすると、現代と歴史とがより一層、興味深く浮き立ち、比較論証が叶うのでは無かろうか・・・ きっと、その過程で、自分の形成上のエキスが蓄積されて行く筈であろう。

  このブログ訪問者の中に、歴女様が居られたら、是非、お試し下さい。

 NHKの三夜連続の政治家スペシャルを見て感じた事は、政権交代で、海の物?山の物?とも分からない・・・・・この段階・時期に何で、<敢えて放送したのか?>と云う大疑問である。権力闘争の内面を曝け出せば、天下国家万民の為と云う大義名分は、その時々の政局・政変を回顧する政治家個人の心情吐露の中では、割愛されてしまう危うさが有る。これは、政治家を志す者・政治家たる者の枕詞に、当然の大義名分である。
 従って、当然の<言わずもがな>の大義名分への思いは、割愛されてしまうものであろうし、番組の編成上の取捨選択の過程で、手が加わりNHKの意思を伴った編集が為されて来るのは、『当然の作品』であろう。

 当然、視聴者は、作り手の『作品』を見ていると云う事を、脳に明記して置くべきである。

 現代の政党政治の武力は、言わずと知れた党公認と資金力にあろう。そして、相対する政党への切り崩し・議員個人への一本釣りに一番功を奏するものは、これまた<言わずもがな>の誘因物であろう。斯様にして、表と裏を知ったり読んだりするのが、実像鑑賞の愉しみと云う物であろう。

 まぁ、品の好過ぎるNHKとしては、それに敢えて触れない番組編集をしていたのであろうが、何かと物入り・必要経費の嵩む政治家・政治の世界に、利権・金力の側面を切り離して構成する番組は、如何にも眉唾の表層様の方が、色濃く伝わって来てしまう。遺憾いかん・・・で御座りまする。
 そして、番組締め括りの三識者による座談は、全く脳味噌の足しに為らぬばかりで、返って番組の中に登場した政治家達の野心・権謀術策のエゲツ無さ、毒を晒すの迫力に、水を差すだけの<付け足し>にしか過ぎず、番組感想に汚点を残すだけの『不要物』であった。

 政治に一勢力・影響力を持つ者・誇示する者は、好き嫌いの感情とは別個に、それなりの存在感・魅力を持っている。政権・権力を奪取する政変・政局のキーマン達と比較すると、存在感・迫力の差は、歴然たるものがある。最後の、歴代総理の異口同音の<天下国家万民の為に>大義名分のオンパレードに、権力を標榜する政治家達への痛烈な皮肉を込めた締め括りを<細工>したのであろうが・・・余りに、臭過ぎるブリッコ的な締め括りである。

 夫婦・親子の家庭の中に端を発して、人が集まり組織が形成される以上、人の上に立ちたい、権力を掌握したい、自分の意思を通したいと考え、権謀術策を弄して行動する人間行動は、どの単位にも存在するものである。そんな姿・実情は、見る個人が、感想として取捨選択をして、自分の目標・反面教師像とすれば好いのである。

テーマ:ひとりごと - ジャンル:日記

【2009/11/04 13:33 】
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